インタビュー

人生は夕方から楽しくなる:ロックミュージシャン・ジョー山中さん

2011年5月 9日

jinseiyuugata.jpg


 横浜中華街の媽祖廟(まそびょう)。災害から人々を守る女神として、華僑の信仰を集める。境内の鐘楼は関東大震災で倒壊した建物のレンガが使われている。この辺りは空襲を含めて2回、焼け野原になりそのたびに復興した。「悲劇」から1カ月余の昼下がり。ジョー山中さん(64)の姿があった。

 横浜がふるさとだ。

 東日本大震災の被災者支援の募金活動だった。少し疲れているように見えた。内田裕也さんらロックの仲間たちに促されるように歌い始めた。

 ♪ママー、ドゥ・ユー・リメンバ~

 「人間の証明」のテーマ。アカペラの力強い声が春の空に溶けた。感傷的なもの言いだが、母を恋うる歌は、祈りのそれとして心に響いた。

 「抗がん剤をやっているからね。ちょっとやせたけど、声は大丈夫だよ」

 肺がんと宣告されたのは昨年2月だった。ステージ3。手術をするかどうか、選択を迫られた。体にメスを入れることには抵抗があった。

 「手術をしていたら歌えなかったと思うよ。オレの人生、歌を取ったら何も残らない。友人のカシアス内藤(元東洋ミドル級チャンピオン)もボクシングのトレーナーとして声を失いたくないから手術しなかった。5年以上たつけど元気だ。最初、オレが励ます立場だったんだけどね......」

 厳しい試練は続いた。がんの診断から半年ほどたったころ、住み慣れた鎌倉の自宅が全焼した。「家族が無事だったし、延焼しなかっただけよかった。形あるものはいずれなくなるし、大切な思い出は心の中にある」。普通ならなえてしまうところだが「落ち込んでなんかいられない」。

 ただ一つ、奇跡があった。

 「焼け跡から、一枚しかなかったお袋の写真が出てきたんだ。オレは小学2年の時、結核と診断されて療養所生活。その間にお袋は死んだ。サヨナラも言えずにね......」

 生まれたのは終戦の翌年。横浜はガレキの山だった。男ばかり7人兄弟の真ん中。1人だけ肌の色が違った。

 「事情は知らないし、本当のおやじについて聞こうともしなかった。その必要もなかったね。お袋は堂々とオレを『私の子供』って胸を張って言ったんだ。あの時代、大変なことだったと思う。名前は『明』っていうんだけど、明るく、というお袋の願いがこもっていると思うんだ」。大切な話を打ち明けるように言葉を継いだ。「育てのおやじが亡くなる直前、こう言った。『お母さん、お前のこと、とても心配していた』って。分かった、もう、OK。それ以上の言葉は何もいらないと思った」

 「人間の証明」では、西条八十の詩の英訳を手がけた。<お母さん、あなたが僕にくれた人生>などのフレーズは原詩にない。それに、「かしこまったマザーではなく、ママでなくてはならなかったんだ」。「山中」は母の姓だ。

 家庭の記憶は母親が亡くなった時で途切れる。家が貧しく、養護施設から学校に通った。「恨む? 運命を? まさか、まさか。以前、オノ・ヨーコさんがオレのことウオー・ベイビーって呼んだ。イメージ的にかわいそうって感じだけど、それは違う、オレはいつも前を見て生きてきた。生まれたらその運命を懸命に生きなくてはならない」

 20年近く海外でのボランティア活動に取り組んできた。訪ねた国はアフガニスタン、ミャンマーなど30カ国ほどになる。難民キャンプなどを回って、笑顔を忘れた子どもたちに歌声を届けた。チェルノブイリにも2回行った。

 「施設にいたから分かるけど、気に掛けてくれる人がどこかにいる、そう実感できるだけでもうれしい。いつの日か、喜びが希望に結ぶときが訪れると思うんだよね」

 養護施設を出て3年ほどプロボクサーとしてリングに立った。KO負けはない。ロッカーに転じても自分を貫いてきた。今ヘビーな戦いをしながら、新作のレコーディングに挑む。等身大の己を描く「魂の証明」になりそうだ。「敗れざる者」にラストゴングは鳴り響かない。【隈元浩彦】

.....................................................................................................................

 ■人物略歴

 1946年生まれ。ロック、レゲエミュージシャンとして日本の音楽シーンをリード。参加したフラワー・トラベリン・バンドは70年代いち早く海外を目指したことで知られる。

PR情報

スポンサーサイト検索

インタビュー アーカイブ一覧

【昭和毎日】
古き良き昭和の時代へタイムトラベル。あの頃の懐かしい写真やニュースを掲載します。

【乗りMai】
飛行機、鉄道、お宝写真満載!

おすすめ情報