木曜日 晴れ 7時起床
今日は9時から新中2の授業があるが、千葉からの支援物資も届くため、授業は家族に頼む。こんなことはめったにないが、スケジュールが重なったので、どうしようもない。
8時3分に菅井さんから電話が入る。もう到着したとのことで、喫茶店等の休めるところがないかと聞かれたが、あいにく亘理では、コンビニくらいしか開いてそうにない。
急いで朝食を済ませ、佐藤記念体育館へと向かう。
- 積み下ろし風景。手前の赤ちゃん用品は間に合っているとのこと。
- 食料品や下着類、養生テープなどを搬入。原付バイクは受け入れていただけなかったので、私が個人的に使わせていただきます。
- 車いす4台と、半分の物資は山元町に持っていきます。
- 生鮮食料品以外は、宮城病院南の山元町体育文化センターに搬入。自衛隊員のご協力で、スムーズに。
- 要るものと要らないものは、亘理町と同様のようです。
- 台車に載せてアリーナ?内まで搬入。この後生鮮食料品は山元町役場に搬入しました。
- 最後に教室前で記念撮影。左から、菅井啓之さん、国際武道大学の 大場洋平君、株式会社ダイム dime inc. 代表取締役 石田雅英さん、プロ太鼓奏者のTAKERUさん。ありがとうございました。
- 受け入れていただけなかった分の一部は、私がいったんお預かりしました。後ろの荷物です。
- 赤ちゃん関係が主ですが、個人的に必要な方にお配りしたいと思います。
正午に終了したので、藤五郎でカレーでもと思ったのだが、定休日でやってない。教室で荷物を降ろした後、吉田のラーメンショップでみんなで昼食を済ませた。皆さんはこれから郡山に物資を届けるとのこと。ご苦労様でした。お気を付けて。
教室に戻り、大家さんの許可のもと倉庫を貸していただけることになった。急いで妻を呼び、倉庫に搬入させていただく。
午後2時から上下水道課2階で全員協議会。
河北新報
特産2ブランド壊滅 宮城県南沿岸部の亘理・山元
枯れたイチゴの苗を見つめる岩佐信一さん。畑の塩害も深刻だ=1日午後2時ごろ、宮城県山元町
津波でがれきがなだれ込んだ山下イチゴ選果場=1日午後3時ごろ、宮城県山元町
破壊された漁港施設の前にたたずむ鈴木さん(左)と大和さん。ホッキ貝漁の再開を誓うが…=1日正午ごろ、宮城県山元町の磯浜漁港
東日本大震災の大津波は、太平洋に面した東北の漁港を破壊し尽くし、農地を荒野に変えた。宮城県南沿岸部の亘理、山元両町では、二大ブランドのホッキ貝とイチゴが壊滅的な打撃を被った。全国に名をはせる特産品は復活できるのか。現地の惨状をルポする。
◎イチゴ/枯れた苗塩害深刻
「自分にはイチゴしか作れない。でも、ここではもう無理かも」
収穫の最盛期は目前だった。海岸線から1キロも離れていない畑で、枯れたイチゴの苗とビニールハウスの残骸を見つめ、宮城県山元町山寺の農業岩佐信一さん(57)が途方に暮れていた。
宮城県の亘理、山元両町を貫く県道相馬亘理線は、通称「ストロベリーライン」と呼ばれ、沿線は年間販売額約35億円を誇る東北最大の「イチゴ王国」だ。岩佐さんも11棟約45アールのビニールハウスで県産オリジナル品種「もういっこ」などを育てていた。
2年前に建てたばかりの自宅は、1階の天井まで浸水。妻敏子さん(53)は「イチゴがあるから人並みに暮らせた。農機具を買う余裕なんてもうない」と肩を落とす。
近所のイチゴ農家は、亡くなったり行方が分からなかったりする仲間も多い。津波の襲来に備えてハウスの戸締まりに引き返し、犠牲になった人もいる。「それだけ、みんなが自分の作るイチゴに誇りを持っていた」と岩佐さんは語る。
みやぎ亘理農協中部営農センター(亘理町吉田)によると、亘理、山元両町のイチゴ農家約380戸100ヘクタールのうち、被害がなかったのは山間部の23戸4ヘクタールだけだった。
中部営農センター長の土生利仁さん(51)は「まさに全滅だ」と嘆く。主要なイチゴ選果場2カ所も廃虚と化した。
本格栽培を始めて4年目を迎えた「もういっこ」は、作付面積が全体の5割を超え、主力品種へと育っていた。北海道や首都圏での評判も上々で、土生さんは「ようやく軌道に乗ったばかりだったのに」と悔しがる。
山元町産業振興課は「個人でハウスを再建するのは資金的に難しい」とみている。海水に漬かった土壌が元に戻るのに何年かかるかも見通せない。
自身もイチゴ農家の亘理農協組合長岩佐国男さん(69)は「来年の苗作りの準備だけでもできるよう、国に支援を求めたい。農家の意欲がしぼんだら産地は終わりだ」と危機感を募らせる。
(高田瑞輝)◎ホッキ貝/漁船大破「漁場は…」
自衛隊員らによる行方不明者の捜索活動が続く宮城県山元町の磯浜漁港。震災の10日ほど前にあった「やまもとホッキ祭り」のにぎわいがうそのようだ。
荷さばき場は、鉄骨が折れ曲がり、がれきと化した。震災当日の朝もホッキ貝を水揚げした漁業鈴木仁さん(51)は「こんな大きな津波が来るとは…」と言葉を失った。
磯浜漁港では漁師約70人のうち9人が津波にのまれ、7人が亡くなった。いまだに行方の分からない2人の中に、鈴木さんの父正一さん(82)もいる。
県内のホッキ貝の水揚げ量は年間約100トン。磯浜漁港は、このうち40トン前後を占める随一の水揚げ港だ。首都圏など大消費地での評価も高い。地元漁協の組合長を務めた正一さんは、漁場に禁漁区の設定を提唱した資源保護の功労者だった。
正一さんを捜して漁港周辺や遺体安置所を巡る鈴木さん。「海で働くのが自分の宿命と思っている」と漁の再開を誓う。
だが、漁師たちの意欲とは裏腹に、現実は決して甘くない。
磯浜漁港所属の漁船約30隻は、大半が大破し、残る数隻も陸上に打ち上げられた。防波堤も壊れ、ホッキ貝の生息に適した遠浅の漁場が、津波で荒らされていないかどうかも気掛かりだ。
県漁協山元支所運営副委員長の大和郁郎さん(64)は「たとえ何年かかっても、ホッキ祭りのあの活気を取り戻さないといけない」と漁再開までの長い道のりを覚悟する。
大和さんも、妻(60)と中学3年の孫(15)を津波にさらわれた。
漁港を囲む磯地区(住民504人)の死者、行方不明者は45人に上る。避難所に身を寄せる約130人は3日、宮城内陸部の角田市と柴田町に2次避難した。
仮設住宅の建設も予定されているが、津波への恐怖心もあって現段階では、多くの人が磯地区での生活再建に否定的だ。
磯地区の行政区長星新一さん(63)は「江戸時代から続く歴史のある漁村でもある。漁師たちが地域復興の原動力になってほしい」と話した。
(佐々木篤)