2011年8月8日(月) |
日本を原子力利用へと導いた1950年代の米国の対日原子力技術協力。その背景に、日本列島への核兵器配備という高度な戦略目的が隠されていたことが、米政府が解禁した公文書から明らかになった。 核大国である米国が日本に対して声高に叫んだ「原子力の平和利用」は、核兵器持ち込みとセットだった事実があぶり出された格好で、驚きを禁じ得ない。 米国立公文書館の解禁資料によると、当時のアイゼンハワー政権は核兵器を「安価な兵器」とみなし、通常戦力で優位を誇るソ連軍に対する切り札に位置付けていた。当然のごとく、アジアの最前線である日本への配備が画策された。 ところが、54年の第五福竜丸事件で構想は難航。そこで思いついたのが「原子力の平和利用」による被爆国ニッポンの懐柔策だった。原子力への理解が深まれば、国民の反核感情を和らげることができ、ひいては核兵器配備も可能になる−との見通しからだった。 しかし結果的に、日本国内の反核の流れを押し止めることができず、妥協策として生まれたのが「コア」と呼ばれる、核物質部分を含まない核爆弾本体の配備だった。54年から55年にかけてのことである。 一方、欧州への核配備は計画通りに行われた。ということは、米国の核戦略は日本国民の「核ノー」の声に屈し、方向修正を迫られたと言うことができる。反核感情を過小評価していたとしか言いようがない。 しかし、コア抜きの核爆弾本体が日本国内の米軍基地に配備されたという事実は残る。本紙は以前、冷戦時の米軍三沢基地にコア抜きの核爆弾本体が保管され、有事の際にはコアを装てんした上で出撃する計画だったことを機密文書から明らかにしたが、あらためて裏づけられた形だ。 本紙の調査によると、三沢以外の出撃基地は入間(埼玉)、小牧(愛知)、板付(福岡)など。コアは米軍政下にあった沖縄の嘉手納基地に置かれ、開戦が迫ると同時に、日本国内の各空軍基地に運び込まれる手はずになっていた。 まさに、日本列島は日本国民の知らないうちにソ連、中国に対する核出撃基地と化していたのである。 核に拒否反応を示す日本国民を強引に、核使用の随伴者にしようとしていた米国。その手法は非難に値するとともに、それを密約という形で黙認していた日本政府もそしりを免れまい。 米公文書を入手した日米史研究家の新原昭治氏は「原子力の平和利用という宣伝を通じて、日本への核兵器持ち込みをもくろんだ米国には驚く。平和利用がこうした企てと一体化していたことが、安全無視の原発の暴走につながったと思えてならない」と語る。 現代に目を転じると「核なき世界」を訴えたはずのオバマ政権が臨界前核実験に踏み切り核兵器に執着する姿勢を鮮明にしている。 核反対の声が無力ではなかったことを歴史が証明している以上、ノーと叫び続けなくてはいけない。 |