「世界の主流は原発推進」という新聞の見出しを見て、「多いことは正しいことか」というソクラテスの疑問を思い出した。哲人は自答する。「僕は常々、熟考の結果、最善と思われるような主義以外は、内心のどんな声にも従わないことにしている」(岩波文庫「ソクラテスの弁明 クリトン」)
ちかごろ、激越な首相批判などめずらしくもないが、それにしても日立製作所会長の次の発言には恐れ入った。
「首相が何を言おうと原子力の海外展開を進めたい」(日経新聞7月23日朝刊)
軽井沢の経団連フォーラムで「脱原発」首相への不満が爆発したらしい。商売熱心、経済大国を背負う責任感の発露には違いあるまいが、福島原発事故が映し出した問題の基本が見失われている。原発は安全ではないという基本が。
安全なら問題はない。「だから安全な原発をつくろう」と主張する人に聞きたい。どうやってつくりますかと。
防波堤をかさ上げし、高圧電源車を常駐させ、非常用発電機を空冷式にする……。いずれも政府が検討している新安全基準の一端だが、それで安全と言えますかと問いたい。
「科学技術を信頼せよ」と主張する人に聞きたい。この期に及んで「核燃料サイクル」(使用済み燃料の再利用循環)の完成を信じますかと。展望なき核燃料再処理工場や高速増殖炉をどうやって動かすのか。ついに矛盾が露見した今、現実を見る代わりに、目をつぶって進むのですかと尋ねたい。
折しも原爆忌から終戦記念日へ向かう今、1945年8月を思わないわけにはいかない。終戦を探る鈴木貫太郎首相に対し、陸軍武官の一団がクーデターをかまえて抵抗した。
「神州不滅」「国体護持」を叫んだ当時の軍人と、「何が何でも原発を」と息巻く今日の財界人は似ている。軍人が固執した国体は天皇と無敵陸海軍だった。今日の国体は経済大国である。経済大国の武装解除などありえぬと財界主流は言う。66年前と違い、ついに終戦には至らないかもしれない。
いま仮に、原発の安全性には目をつぶり、輸出促進へゴーサインが出たとしよう。その場合でも使用済み核燃料の最終処分という問題が残る。
毎日新聞7月31日朝刊にモンゴル核処分場計画の続報が出ていた。日米主導でゴビ砂漠に国際共同処分場をつくる。計画を本紙がすっぱ抜き(5月9日朝刊)、地元メディアの批判も高じて立ち消えになったかと思ったら、生きていた。
続報によれば、6月16日、訪米中のモンゴル大統領がオバマ大統領と計画推進で合意。これに先立ち、米エネルギー省の副長官が、訪米中の細野豪志首相補佐官(当時)に計画推進の意向を伝えたという。
使用済み燃料は高レベル放射性廃棄物だ。無害になるまで10万年かかる。地中深く埋めて管理しなければならないが、先進国では住民の反対が強くてつくれない。日本はもちろん、米国も、ラスベガス北西のネバダ州ユッカマウンテンにつくりかけたが、あきらめた。
だからモンゴル。見返りは原発だ。このやり方は、札束を積んで農村部に原発を並べた日本の70年代と似ている。日本国民は3・11で誤りに気がついたが、外国なら問題なしと言えるだろうか。アメリカも一緒、モンゴルも喜んでいる、ですむか。熟考が問われている。(敬称略)(毎週月曜日掲載)
毎日新聞 2011年8月8日 東京朝刊
8月8日 | どこに安全があるのか=山田孝男 |
8月1日 | 経済成長、誰のため?=山田孝男 |
7月25日 | みんな直人が悪いのか=山田孝男 |
7月18日 | どうにも止まらない=山田孝男 |