2011.8.7
長崎への原爆投下は避けられた
昨夜のNHKスペシャルは、原爆投下当時の日本軍諜報部が、B29による「特殊任務」を察知していたとの証言を発掘していました。この話は、終戦から間もない時期にも、一度読んだことがあります。(文芸春秋の記事だったように思います。)傍受した通信から、原爆が関係する作戦が探知されていたということでした。昨夜の番組では、さらに具体的に、長崎への原爆機を迎撃できなかった航空兵の無念をも取材していました。
遅れていたと言われる日本軍の諜報活動ですが、その程度の解析能力を持っていたことは、体験者である阿川弘之氏の著作を通しても知られています。「2発目の原爆機」についての情報は、参謀本部のトップにまでは届いたようですが、当時はソ連軍の参戦が大問題で「御前会議」が緊迫しており、対応が遅れて8月9日11時の長崎原爆投下には間に合わなかったのでしょう。
しかし現地の防空戦闘隊「紫電改」に迎撃命令が出ていれば、全力をあげて撃墜することは可能であったでしよう。少なくとも、警戒警報も出さずに原爆投下を許したのは、信じられないほどの怠慢でした。広島原爆の経験から、「少数機の攻撃でも軽視しないように」との広報は出していたのですから、警報が出ていれば、かなり多くの人たちが救われたに違いありません。
このように「想定外の非常事態に弱い」のは、日本官僚の昔からの体質なのでしょう。歴史に「……たら」「……れば」は通用しないそうですが、私もここでは一言いいたくなります。長崎への原爆機が首尾よく事前に撃墜できたら、長崎の町が救われたことは確かです。しかし、それでも大勢が変わるほどのことはなかったでしよう。原爆の威力はすでに証明され、ソ連軍の侵攻は止めどなく進んでいたのですから。
もし2発目が失敗しても、アメリカ軍の日本侵攻作戦に大きな変更はなかったでしょう。私が以前に読んだ情報では、長崎の後に、もう一度「3発目の原爆機」らしいB29がテニアン基地から飛び立ったが、途中から引き返したとのことでした。日本がようやく真剣に終戦工作を始めたことを知って中止したのだろうと私は解釈していました。
それにしても、自国の国民を守ることについては、最後まで真剣にならない日本の軍隊でした。
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Excerpt: 日本で聞いた町の声を書きたいのですが、なにげない声の背景にも語りきれない重たいものがあるだろう、そういう重たいものが彼らの意識にのぼっていないこともあるだろう、意識してい
Weblog: 木霊の宿る町
Tracked: 2011.8.8 00:24:46
最初の1つがネバダ砂漠のアラモゴル核実験で使ったトリニティー。
残りの2つが広島のリトルボーイと長崎ファットマンで、うちリトルボーイだけがウラン原爆であとはプルトニウムで作られていた。
しかし、このアメリカによる対日原爆攻撃と日本の無条件降服との因果関係は薄いと思われます。
日本が降服を決意した最大要因は矢張りソ連軍の対日参戦であり、敗戦必至の日本としてはぐずぐずしていて(アメリカ軍には良いが)ソ連軍に降服する事態だけは如何しても避けたかったのでしょう。
アメリカ大統領のルーズベルトは日本の固有領土である千島列島を餌にしてソ連軍参戦に拘った理由とは硫黄島や沖縄戦の様な辺境の土地でも、日本本土での日本軍との決戦のアメリカ軍の損害の大きさを実感していたので本土上陸作戦(Xデー)はしたくなかった
ソ連軍参戦を聞けば直ぐにポツダム宣言受諾する日本の事情を良く知っていたのです。
ではなぜポツダム宣言受諾が遅れたのか.それは天皇とそのまわりが天皇制の存続のために中立国を介して交渉していたからです.8月5日までに受諾していれば,ソ連参戦も広島原爆も長崎原爆もなかった.
ですからその犠牲は天皇制存続のための犠牲でした.こうして天皇とそのまわりが戦後に残った.それが結局は日本の官僚制の無責任とアメリカ従属を生みだしました.そのあげくが今回の福島原発事故です.
この本質を忘れないようにしたいものです.
日本で「戦争に反対し天皇制を打倒する革命」が起こる可能性は、当時はありませんでした。そういう意味での「……たら」「……れば」は、現実味の薄い仮定ではないでしょうか。
私も8/7に、あのNHKの番組についての感慨をブログの記事にしました。陸軍参謀ら首脳部、いわゆる当時の日本の「エリート」たちの、あの時の心理状態を予測しての私見です。エリートの語源であるエーリュシオン(「自分の利害損失と関係なく他人や物事に尽くせる人」の意)とは、懸け離れた日本のエリートたちの古今の共通点、空恐ろしいものがあると思います。
今後ともご活躍のほど期待しております。
偉くない人(庶民)が偉くて、偉い人が愚鈍なのが日本なのですね。教育に欠陥があるというよりも、偉い人の評価基準が歪んでいるような気がします。まさに今の政治と直結しますね。