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戸田のサタン皆殺し原水爆禁止宣言は、法華経の外道解釈から

2010/05/01 07:15

 

戸田のサタン皆殺し原水爆禁止宣言は、法華経の外道解釈から

 

 

 戸田城聖の法華経講義での思想的誤認が「原水爆禁止宣言」にも影を落としている。その誤りの原因は戸田の法華経の理解が外道解釈から抜け出てなくて一念三千・十界互具を正しく解けなかったことにある。戸田は、キリスト教徒の如く善悪をとらえて、原爆を使用した者はすべてサタンであり悪魔であるとして、サタンをことごとく死刑にすることで地上の平和を実現しようと宣言したのである。しかしこれは仏法者の思想ではない。これは戸田城聖が善と悪が永遠に分離し闘争する外道の教え(外道とは内道にたいする語で、仏法以外のキリスト教などの思想は、善悪を分離し対立して説くのである)に毒されていた証拠である。戸田城聖は日蓮大聖の仏法つまり日蓮正宗の一念三千・十界互具を理解していなかった。地獄界というサタンの生命も仏界に変化することを支持していなかったのである。まるでキリスト教徒の如く「サタン」を出現させて、これを死刑にしなければならないと外道の誤まれる生命軽視の思想を振り回したのであった。

 

 

 「もし、原水爆をいずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、我々世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利を脅かすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。」と戸田はいう。 

 

更に戸田城聖は繰り返し続けて述べている。

 

 「その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界にひろめることこそ、全日本青年の使命であると信ずるものであります」といったわけである。

 

 

 つまり原水爆使用したものは、サタン悪魔であって、 ことごとく死刑にすべきであるという思想である。

 

 これが戸田城聖の思想であり、創価学会に引き継がれているという「原水爆禁止宣言」であり池田大作の「平和宣言」の基本なのである。これが外道の論議だといわれるのは、十界互具という仏法の法門がこの戸田の発言には見られないからだ。一念三千の生命は十界互具しなければ、悪者は永遠に悪者でしかないのである。その低い外道の思想からは、たしかに戸田のように死刑が必要になってくるわけである。創価学会が死刑を否定しないのはこの戸田の「原水爆禁止宣言」によっているのであろう。

 

 サタンという悪魔をすべて死刑にすれば全世界が平和になると戸田のように考えるのは、善はどこまでいっても善であり、悪は悪から変われないという善悪の平行線の思想があるからである。儒教やキリスト教など外道の思想では、悪が善に変わり善が悪になる仏法の十界互具の思想を否定しているわけだ。サタンを死刑にすれば平和になるという戸田城聖の思想は仏法の思想ではないのだ。

 

 

 この誤まれる戸田城聖の思想は創価学会公明党という姿をとって現代の日本の社会にまで尾を引いて毒し続けている。法華経を使いながら魔術の如き手法で戸田の悪義を造作して人々を誤魔化すことは日蓮大聖人の仏法の正しい理解を妨げている。それは原水爆の禁止になるどころか逆に現在の日本社会と世界とを戦争へと駆り立てる原因になってしまう。日本の社会や経済を破壊させ人々の精神をむしばんでいるわけだ。政治や社会の混乱というのは、この宗教の誤りと乱れにあるのだが、創価学会の戸田の「原水爆禁止宣言」が日本社会の不幸の元凶になっていることを理解したがらない人は多い。 

 

 戸田城聖の著作である「創価学会会長 戸田城聖口述 日蓮正宗方便品寿量品精解 東京 精文館発行(昭和33年2月1日発行)」 を引用しながら、戸田の法華経解釈が誤った外道の読み方を出てなかったことを以下に指摘しておこう。

 

  外道と内道の違いとは、そこに生命の永遠性が説かれているかどうかだ?また十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)という我々人間の所持する生命のそれぞれの断面は、相互に分離し隔離されて変革できない固定したものではない。それらは永遠に不変で変わらない存在だと戸田は考えるからサタンはサタンであり続けなければならないのである。それらが相互に十界の他の生命の諸相を包含し内在させているという思想が戸田城聖は欠落していたのである。これは日蓮大聖人の仏法を理解できてなかったということである。そのことがサタン(悪魔)も仏の生命をもち、かつ仏もまたサタンの生命が可能だという法華経での十界互具の思想の基礎を戸田が理解できなかったということなのだ。したがってサタンをすべて処刑にすれば問題がすべて解決されるという戸田城聖の原水爆禁止宣言は仏法者の考えからは出てこないのである。

 

 ところが外道であるキリスト教などでは神は完全な善であって、これは絶対にサタンに取って変わることはない。また逆にサタンは神にはなれないのである。キリスト教などではどんなに努力しても人間でさえ神の善的存在にはなれない。外道の世界では善と悪が永遠に対立し分離している。サタンは絶滅されなければならないものとする戸田城聖の思想は極めてこのキリスト教の思想を引きずっているといえる。

 

 戸田城聖が法華経講義で創価学会員にどのように教えていたかをみてみる。戸田の法華経講義は後に一冊の本に纏められたのが「創価学会会長 戸田城聖口述 日蓮正宗方便品寿量品精解 東京 精文館(昭和33年2月1日発行)」である。ここで戸田は、法華経の文底の読み方の箇所で、「次に、これを一念三千の法門に読む読み方を一ついたします。」(同 184頁 )、として説明している。

 

 戸田城聖の法華経解釈の特徴である「別釈)というのが載っている。これは「文上・文底」のほかに「別釈」を立てているのである。たとえば、司馬遷の書いた史記という本にでてくる話をこの「別釈」として前掲書191頁に於いて引用している。 

 

(別釈)として「支那に史記という本を書いた司馬遷という人がおります」として伯夷・叔斉の話をしている興味深い箇所がある。

 

 『殷の紂王を周の武王が亡ぼしたときに、この戦争の総大将が太公望で、とても偉い人でした。魚を釣りに行くのに、針を伸ばしてしまって、魚がひっかからないようにして釣っている。どうしてかと聞かれて「魚が喰いつくと面倒だ」といったという。そういう面白い男が、参謀になったときに、伯夷・叔斉が、「革命というのはいかん」といって諌め、ついに周の武王が天下を取ったときに、「周の栗は食まず」といって、首陽山という山へ上がって、うえ死にしている。ところが、あるドロボーの親分が、罪のない者を三千人殺している。それで一生涯、酒と肉には事かかずに死んだという。「この原理は如何?」と司馬遷は書いています。伯夷・叔斉は聖人であるが餓死した。ドロボーの親分は罪のない者を三千人殺して、酒と肉にあきるほど、一生楽しんで死んだ。この原理は、そういう偉い人でもわからなかった。それは、漢学や儒教ではわからない。それは仏法で説く前世の問題であります。この世で、われわれは大して良いことなんかできるわけはないのだから、題目を唱えて生きたいと思う。題目だけは来世にも持ってゆける、金は持ってゆけません。折伏した、その手柄はもってゆける、それが来世への福運となって現れてくるのです』( 戸田城聖口述 日蓮正宗方便品寿量品精解 東京 精文館(昭和33年2月1日発行)」191頁。

 

 

 

 

 

 

 戸田城聖口述 日蓮正宗方便品寿量品精解 東京 精文館(昭和33年2月1日発行)

 

 

 

 

 戸田城聖口述 日蓮正宗方便品寿量品精解 東京 精文館(昭和33年2月1日発行)」191頁。

 

 

 

 戸田のこの見解は、三世の因果の福運をいっているわけであって、ある意味では一見仏法の解釈のようでもあるわけだが、これはいまだ因果異時(いんがいじ)の世界観でしかなのである。つまり過去世に福運を積んだ結果が現在に現れているという見解なのだ。原因がまず過去に作られて、後に結果が起こるという一見して疑問のない解釈なのだ。

 

 ところが日蓮大聖人の仏法は過去が現在を、現在が未来を作り出すというだけでなく、現在が過去までも決めてゆくというものである。毒はいつまでも毒でなく、つまりサタンはいつまでもサタンでなくて、過去の毒・サタンもこの現在に薬と変わると説くのが仏法での「変毒為薬」という法門なのである。この仏法の基本さえサタンを皆殺しにせよと叫ぶ戸田城聖は理解していなかった。そしてその戸田の遺訓を継承する創価学会の幹部らも同様に因果律に迷っているのである。原因と結果が時系列に従ってそれぞれ別々に存在しているのでサタンはあくまでサタンとしか見られないのである。サタン・悪魔だからすべて死刑にすれば世界は善になり平和になると考えるの正しい平和論ではない。このような「原水爆禁止宣言」では返って悪の増長と善への対立を高めるだけである。

 

 過去から現在、そして未来へと因果の規定関係が一方向に存在するのではないのである。それらは同時につまり逆方向にも存在する因果倶時(いんがぐじ)の法門なのである。そこからは、認識としては時間的に先行する親に対し、後に生まれた子供が従うのが親孝行だとか、現在的な社会関係の拘束性を基に、主人に対し家来は従わなければならないとかの主従関係や君主的制度の規定関係をも覆すものとなるのだ。すなわち、日蓮大聖人の法門からはむしろ、そういう規定された恩を振り捨ててゆくことが真実の恩を報ずることになるとされている。これは親や君主が誤まっている場合には、それを糾し諌めることが重要になってくるということである。

 

 

 したがって伯夷・叔斉の話も日蓮大聖人においては戸田城聖の解釈とはまったく異なってくるのである。その意味で戸田は法華経を解釈しているようだけれども返って法華の心を殺してしまっているともいえるのである。

 

 戸田城聖や創価学会の言うように、漢学や儒学の外道の解釈を立て用いることも、また法華経を正しく用いないで、法華経以外の一切の華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日等の爾前・権教という因果倶時でない教えを立て用いることが誤まりだということだ。

 

 さらに日蓮大聖人は伯夷・叔斉の話しでは、現世での不正に挑戦し社会を変革するモデルとしても描かれているとも拝せられる。現在の社会の不正という事実結果は、過去に原因があるのでそれは変換不可能であり変えられないものだとする諦観の思想に日蓮大聖人は挑戦し反対しているのだと思えるのである。

 

 むしろ権力の誤りや不正にたいしては、それを暴き糾すことが、現実の社会を良くして行くと捉えているのではないだろうか。「立正安国論」はそういう日蓮大聖人の思想から著わされているのだと思えるのである。

 

 

 例えば、「聖愚問答抄」(平成新編「日蓮大聖人御書」(日蓮正宗総本山大石寺 平成6年7月16日発行)401頁-402頁では、この周の伯夷・叔斉の逸話を、日蓮大聖人は、殷の比干(ひかん)や夏(か)の竜蓬(りゅうほう)、太公望、秦の綺里季(きりき)、漢の厳光(げんこう)、晋の介子綏(かいしすい)などと一緒に挙げていて、主命に従わなかった忠臣の例として示されているのである。

 

 

 伯夷・叔斉の話しは「兄弟抄」では次のようになっている。勿論、このコンテクストは複雑であるのはいうまでもない。前掲書 の「聖愚問答抄」や「松野殿後家尼御前御返事」(同御書1357頁)なども参照ねがいたい。

 

 「二人共に父母の国を捨てゝ他国へわたりぬ。周の文王につかへしほどに、文王殷の紂王に打たれしかば、武王百カ日が内いくさをおこしき。白ひ・叔せいは武王馬の口にとりつきていさめて云はく、をやしして後三ヶ年が内いくさををこすはあに不孝にあらずや。武王いかりて白ひ・叔せいを打たんとせしかば、太公望せいして打たせざりき」(平成新編「日蓮大聖人御書」(日蓮正宗総本山大石寺発行 平成6年7月16日) 983頁。

 

 

 

 

 

 

 

平成新編「日蓮大聖人御書」(日蓮正宗総本山大石寺 平成6年7月16日発行)  

 


伯夷・叔斉は親の意見に従わず、また武王という権力をも諌めているのである。

 

 


  衆生が仏になるという成仏に関しての話しだが、これは死んでから他土の冥土へ行くことではない。ましてや戸田城聖がやった如く、自分の人生を心理的な再解釈で魔術の如く誤魔化すことでもないはずだ。この現世で十界互具の自己と社会の転換を実現することである。ところが、十界互具を否定している戸田の思想ではこれは無理なのである。仏法の変毒為薬も転重軽受の法門もサタンや悪魔を排除し絶滅させることでは問題は解決できない。そうではなくて悪や障害と同居しながらもそれに負けずに、世の中がそして自己の存在が日蓮大聖人の仏法によって強く直(なお)しくなって行くことが実は必要なのである。それが一念三千の十界互具という仏法の初門の法門なわけである。それを戸田はわからなかったのか誤まって理解していたわけだ。

  

 戸田城聖の法華経講義は当時の教学部一級講義でなされ昭和21(1946)年頃から始まった。 

 

 後に「原水爆禁止宣言」とか「原水爆宣言」などと呼ばれることになったこの宣言は創価学会の青年部を集め横浜・三ツ沢競技場という場所において昭和32(1957)年9月8日になされている。 

 

 これが戸田城聖のいう「原水爆を使用したものは、サタン悪魔であってことごとく死刑にすべきである」という思想である。繰り返すと、この戸田の発言は仏法的には誤まった低い教えの外道の論議でしかないのである。それは十界互具を否定してしまっていて善悪の二元論で解決がつくとしているからである。サタンは悪魔であってこれをことごとく死刑にすれば原水爆問題は解決すると考えている。この戸田城聖の論議は正しい日蓮大聖人の仏法を蝕(むしば)み破壊する現代の念仏思想なのだともいえる。

 

 

 

 

 

 

戸田のサタン皆殺し宣言で、「原水爆使用者は死刑に」と、横浜・三ツ沢競技場で「原水爆禁止宣言」

  

 

  戸田城聖という人は、核を使う者は「SATAN」だと呼び、ことごとく死刑にすべきだと昭和32年9月8日に宣言している。原水爆使用したものは、サタン悪魔であってことごとく死刑にすべきであるという思想である。これは一見して原水爆禁止に有効な発言のように思えるが、仏法的には外道の論議なのである。それは十界互具を否定してしまっていて善悪の二元論で解決がつくとしているからである。サタンは悪魔であってこれをことごとく死刑にすれば原水爆問題は解決すると考えている。これは正しい日蓮大聖人の仏法ではないのである。戸田のこの宣言は神奈川県の横浜・三ツ沢競技場という場所においてであった。 後に「原水爆禁止宣言」とか「原水爆宣言」などと呼ばれることになったものだ。

 

 戸田城聖Toda Joseiはそこで 「それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、我々世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利を脅かすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。」 「戸田城聖先生 講演集 下」(昭和36年10月12日 初版 創価学会発行)346頁~348頁には、「原水爆使用者は死刑に」と題した横浜三ツ沢競技場で開催された青年部東京第五回体育大会での講演が掲載されている。(以下に写真掲載)

 

    

 

 「戸田城聖先生 講演集 下」(昭和36年10月12日 初版 創価学会発行)346頁~348頁には「原水爆使用者は死刑に」と題した横浜三ツ沢競技場で開催された青年部東京第五回体育大会での講演が記録されている。以下に写真掲載する。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

  ここに創価学会の戸田城聖の思想の根本的な誤りがある。十界互具を無視する外道の論議を宣言したところで、それは、正しい日蓮大聖人の仏法ではないのである。そのような仏法に似せた誤まれる思想を世界に遊説して廻っている者がいて、世界の戦争を惹起させる原因を作っているのであると「立正安国論」には説かれているのである。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

  もし創価学会が原爆の使用に反対するのなら、これまでに太平洋や大陸の砂漠でなされた核実験をやってきた国々の指導者をSTANサタンとして死刑にすべきではなかったのか。原爆の脅威とは後々まで残るからだ。ところが創価学会の池田は勲章などを彼等原爆使用の責任者からもらって喜んでいるのはどうしたことか。米国の長崎と広島への原爆投下はひとりで原爆が落ちたのではない。落とした人がいるのであり、創価学会の戸田城聖の遺言を守るならば彼等こそサタンとして死刑されるべきなのである。創価学会は何をしているのだろうか、不思議なことだ。Yokohama横浜・三ツ沢競技場での戸田の言葉は忘れてしまったのか?時代に合わないとして戸田の言葉はもう用いなくなったのであろうか。

 

 しかし仏法者の目からすると死刑にすればすべて済むというのは、それでは誰も救われないということなのだ。つまり一念三千の生命観からも、核爆弾の利用は良くないがそれを使用するサタンの生命を固定的に取られてしまった思想や宗教こそが問題であったのだ。戸田氏の仏法の一念三千の法門観は外道にも及ばない幼稚な理解であったのである。これを戸田城聖は自らに糾明し反省し治さなければならなかったのではないか。戸田城聖の非仏法的な思想の貧困性がそこに見えているわけだ。

 

 サタンを死刑にしてしまえばそれで問題が解決するとする戸田城聖やそれに追従する創価学会の平和論には疑問が残るのである。それで世界が平和になるというのだろうか。世界に少なくなっている死刑擁護の国に日本と米国の名前が先進国といわれる8カ国の中にある。逆に言うと世界の流れは死刑廃止にあるのだが、創価学会は戸田城聖が「原水爆禁止宣言」を遺訓としたために死刑反対ができないでいるということである。創価学会は死刑擁護の立場でこれを推進する団体であるわけだ。誤まれる師を持つことの恐ろしさが創価学会の運命に基礎づけられているわけだ。

 
 今回の 池田大作の平和提言(本文末尾に引用掲載した)だが、どこで提言されたのだろうか?提言された場所が産経新聞には書いてないようだ。まさか幽霊の言葉ではなかろうから、どういう会場でどのような人々を前にしての池田の提言だったのかは書いてほしい。

  

 戸田の三ツ沢競技場での発言は、これは後に「原水爆禁止宣言」と呼ばれることになるが、ここで戸田氏は原爆を使用するものをサタンと呼びすべて死刑することを宣言したのである。

 

 今回の池田大作の発言は1月25日に発表されたというが、どこでなされたのか?

  あるいは創価学会からの新聞社への通信文でしかなかったのか?その辺を明快に知りたいものである?

    

 
    

 

 

以下の写真は、 「革命の大河-創価学会四十五年史」(上藤和之、大野靖之 編 聖教新聞社1975年11月18日発行)

 

 

 

 

 

 

以下の写真は戸田氏の昭和32年9月8日のもの。

 

 

164頁

 

 

 

 

165頁

 

 「それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、我々世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利を脅かすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。」 (「革命の大河-創価学会四十五年史」 聖教新聞社1975年11月18日発行)の165頁参照。と宣言している。

 

 

 

 

 

 

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 ◆【参考記事】

 

 

創価学会の池田名誉会長が平和提言

2010/01/25 19:31

 創価学会の池田大作名誉会長は25日、「新たなる価値創造の時代へ」と題する平和提言を発表した。創価学会インタナショナル(SGI)結成記念日に合わせた毎年恒例の提言。今年は、原爆投下から70年にあたる5年後に、広島と長崎で「核廃絶サミット」を開催することなどを呼びかけた。

 提言では核時代に終止符を打つ取り組みとして「核兵器の不使用」に関する条約の整備や、核使用を戦争犯罪とするための国際刑事裁判所規定の改定などを提起。日本には非核三原則武器輸出三原則を堅持し、核廃絶や世界の脱軍事化へのリーダーシップを発揮することなどを求めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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