|
2011年4月30日土曜日
『石焼きイモの詩』紙上座談会
2011年4月24日日曜日
師弟の絆はもつれていませんか?
『師弟相違せばなに事も成べからず (御書P900)』
・・・あなたの師弟の絆は、もつれていませんか?実例をもとにほぐしてみましょう。
以下は、サイト21世紀 近未来志向の創価学会員よ集え!の投稿者から承諾を得ての転載記事です。
(※「石焼きイモの詩」は、奄美の会員に配布された公式録画DVDからの電訳です。登場する人物名は一部略させていただきました。若干加筆訂正しております。)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
石焼きイモの詩 投稿者:野茶坊
…山本副理事長(現総務会議長・総九州長)の人となりを示す記録を紹介させていただきます。
2年前(2006年3月)の奄美における「指導」を、野茶坊の心の友〔どらン猫小鉄〕こと***が逐語電訳し、公開するのを心待ちにしていた力作(?)です。
これをどのようにお読みになるかは皆様お一人お一人の自由であることは申すまでもございません。
かなりの長文ですので、分割掲載させていただきます。連続投稿になりますが、ご容赦ください。
題して『石焼きイモの詩』。
…のっけからハプニングぶくみの、楽しい「指導」でありました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「奄美広布決着誓願大会」(奄美光城県壮年・男子総会)における山本武総九州長指導
2006年3月27日 奄美大島文化会館
《式次第》
・題目三唱
・学会歌『威風堂々の歌』
・挨拶(H.M県壮年部長)
・体験・活動報告(地区部長2名)
・「弟子の戦いで断固築かん奄美城」(K.N県長)
・合唱『一献歌』『新・火の国の歌』
・記念品授与並びに挨拶(J.N総県長)
・総九州長指導(山本総九州長)
・題目三唱
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《以下、山本武総九州長指導の全容》
司会:総九州長指導。山本総九州長。
山本武総九州長:はぁい。
S.H地区部長:(司会マイクの前に立って)ここで、山本総九州長に、壮年部を代表して、一言御礼を申し上げます。
山本総九州長:はァ。(場内笑い)
S.H:九州長!
山本:はい。
S.H:奄美のために、いつも、いつも、ありがとうございます。
山本:〔返礼〕 (場内拍手)
S.h:さきの衆議院選挙で…、
山本:ええ。
S.H:徳州会の…
K.N県長:これは予定にないところだから…〔止めに入る〕
S.H:奄美広布の、いちばん大事な話を…。
K.N:いやいや、今、ちょっと話し中だから…。
山本:どうしたん?
K.N:***(聞き取り不能)。予定にないことで…。
山本:彼、司会者…? 司会者…?
K.N:司会じゃないんです。
山本:ああ、司会じゃないんなら、ごめんなさい。
ああ、びっくりした。
ありがとう。きょうは、いろいんな人がおるからね。(場内笑い)
S.H:〔静かに司会席の横に座る。会合終了までそのまま動かず。〕
※以上のやりとりの中の《S.H地区部長》は、山本総九州長に飛び入りでの質問を試みたのですが、県幹部に阻止され、山本総九州長にも無視されたワケです。会合終了後にも、後日においても、山本総九州長あるいは県幹部から《S.H地区部長》に対する何らの「指導」もしくは対話の機会を設けるはたらきかけもなく、完全に黙殺状態だったとのことです。なお、「徳洲会」につきましては、お手数ながら、ネット等でお調べください。
(野茶坊・注)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
でも、きょうは、ひじょうにスッキリした…、スッキリしたって言うと、婦人部がいるとスッキリしないのかって言うと、そういうわけじゃないけど…。(場内笑い)
あのぉ、婦人部の皆さん、うしろで応援してくださっているから、心からありがとうございました。
きょうは、男だけの会合…、ええ~、ワタクシも気兼ねなく、最後まで…、や、気兼ねなくっつうとまた…、言葉に気をつけないかんですが…、気兼ねなく最後までやりたいと思いますが、ようございますでしょうか。(場内拍手)
それでぇ、最初にですねェ、あのォ、やっぱり、島々から来た、来てくださった方…、
これは、船代を使い、飛行機代を使い‥ですねェ…、あのォ、簡単に幹部は会合やるから来いっちゅうけども、みんなお金と時間と、そして、もしかすると、きょうは月曜日だから、仕事の都合までして(ママ)来てくだすったんだと思います。皆さんと一緒に心から歓迎申し上げたいと思いますが、いかがでしょうか。(場内拍手)
ええ、最初に徳之島!(「はい!」の返事)。 ああ~…。徳之島が22名だ。さっき、あのね…。24名か。ごめん、22と4じゃだいぶ違う。おおごとばい、え~、へ(笑い)。
県長がね、紹介してくださったけど…。
それでねェ、ここの…、さっき県長に許可うけた…、御宝前の品をね、島から来た方々に、せめてもの思いでね、あのォ、お渡ししてもいいかつったら、県長が、「それは、御本尊に聞いてください」…(場内笑い)。さっき、お題目を三唱する時に、御本尊様に聞きました。そしたら、「善きかな善きかな」(場内笑い・拍手)。
(M総県壮年部長を指して)ちょっと、壮年部長。いちばん数の多いバナナが徳之島だ。数、数が多い方がよかろう。はい、いちばん前におる…、誰でもいいんだよ。代表!
ちょっと、その三宝は返してよ(場内笑い)。上だけ取って、上だけ。そうそう、上だけ。
・・・中略・・・
〔徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島からの参加者に御供物分配〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(以下、大意)
・感無量です。
・広宣流布が池田先生と共に80周年へ向かう今、つまり、池田門下生の私たちにとって・は広宣流布の総仕上げに入りました。
・池田先生が去年の12月から全力の指導を始めました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(以下、逐語)
今年の1月からの衛星中継での秋谷会長をはじめとする幹部の指導が変わったことに気がつかれた方…。気がついていらっしゃる…。
秋谷会長も、もう指導でなくなった。会長も、先生の弟子の一人として、先生を守り、学会を守るためにわが人生のすべてを捧げますという、指導というよりも、ご自分の反省と誓いと決意と、先生の一人の弟子としての思いを語られる話に変わったことに気がついていらっしゃると思う。
3月の本部幹部会では、正木壮年部長が、「秋谷会長といえども、みんな弟子です、その池田門下の弟子が、総仕上げに立ち上がる時が来ました」という、正木壮年部長の話だった。
去年の12月から池田先生は、秋谷会長をはじめとする本部の首脳の方々を三日とあげず呼ばれて全魂の指導を始められました。それは、今も続いています。先だっても、皆さん方気づいているかどうかわかりませんけれども、先生の元で最高協議会が開かれたという記事が二日続けて載ってました。
先生は今まで…、私も信心して48年、本部の職員になって私はもう40年になります。先生の元でさまざまな薫陶も受けてきました。先生の元でさまざまなご指導を受ける機会も、皆様方を代表して幾たびもありました。そしてその時、先生は一番時々に大事な指導を全力で私たちにしてくださった。だけど、ひとつのテーマについて先生が去年の12月から今に至るまで3ヶ月も、毎日のように指導されている経験は、私は初めてです。
先生はこうおっしゃっておられる。それは、これから先、50年、100年、200年と学会の広宣流布が進み栄えていくその日、もう一度創価学会を根本から作り直そうと。
それは、仏法の方程式からすれば、50年、100年後の学会と言っても、今の姿にすべてが含まれている、つまり、今の一瞬に未来のすべてがあるというのが仏法の方程式です。
どんなに50年・100年後、学会が栄えるような図面を描いていっても、今の姿がいい加減では、これは絵に描いた餅です。つまり、50年も100年も1000年も栄える学会をどうすればいいかということは、今その姿を作り上げておかなければいけない。
先生はその戦いを現実に手をかけて始められたということです。そして、その魂魄は何か。それは師弟の精神。学会は三代の会長以外、師匠はいないんです。ですから、これから…、今、秋谷会長は5代目か…、5代目ね…、5代目の会長だけども、これから10代も15代も20代も続くでしょう。その時に、もし変な会長や、あるいは変な幹部が出たならば、これだけ三代の会長、なかんずく、池田先生と共に世界に広がった学会を作り上げてきた苦労が水の泡になってしまう。そんな学会に絶対にしてはいけないッ!
そのためには何か。今の学会の中に、弟子の精神、師弟の精神というものを、毛スジもたがわぬものを今の学会にさらに深くさらに深く〔大きな身振り〕作り上げておかなきゃならない。先生は、その戦いに〔両拳を握る〕、手をかけて始められたということです。
私は、先生のその指導をうかがうにつけて、今、80周年に向かうこの5年というのは、ただごとでない時が流れてるな、ただごとでない弟子の戦いの始まりが今だな…。そして、師弟の精神の根本と言っても、じゃあ、だれが作るのか。それは、池田門下生である私たち一人一人が、自分の生き方をそこに貫くしかない。大勢の会合で指導したからできるわけじゃない。自分がどうするか。きょう集まった一人一人がどうするか。先生の弟子として俺は、今のこの5年間の広宣流布に賭けるぞと、人生の腹を決めるかどうかです。そして、その本物の弟子が奄美の地に何人いるか。
池田先生はこの3月の本部幹部会の時に…、九州総会でした…、その時にこう言われた。
牧口初代会長が九州まで足をのばして指導に行かれた時に、牧口先生が何と言われたか。
「青年はいないか。私は本物を探しに来た」と言われたよ。私は、なぜ今、池田先生がそのことを私たちに教えてくださったのか。それは単なる牧口先生の言葉じゃない。池田先生が私たちに、九州には何人の本物の弟子が立つのかということを先生が呼びかけてくださっているように私には思えてなりませんでした。
私は、この時、九州に本物の池田門下生が…、そのために私自身、総九州長とか、何とかという役職は関係なく、山本武という、先生に薫陶を受けた、わが決めた人生の、先生の弟子としての生き方を、もう一回その原点にかえって、この5年間、先生の弟子として、どこまで迫った生き方が自分に問うことができるか、生まれ変わった思いで戦おうと思って、今日は来ました(場内拍手)。
どうか、奄美の壮年部の皆さん。きょうは、一番いい時に、九州の中で奄美が一番先に、壮年部が立ち上がったなと言う思いで今日は感激で一杯でございますけども、やりませんか!(場内拍手)。わかりましたね。(?? 聞き取り困難)
石焼きイモの詩 2
しかも、きょうは、壮年部の合唱団が「一献歌」を歌ってくださった。この「一献歌」というのは、師匠と弟子の、仇討ちの誓いの歌であります。
私は、自分の体験で恐縮ですけれでも、昭和52年に…、その前には昭和40年だ…。
ちょっと体験発表していいね?(場内拍手)
体験発表な。もう、あんた…、役職っちゅうよりも、私も弟子、皆さんも弟子…。
昭和40年にですね、ボクは聖教新聞の本社に合格して採用していただいた。昭和40年でした。もう、ただただ、そん時は、池田先生のもとに24時間、広宣流布ができたら、こんな嬉しい人生ないな、ただただ、それだけが自分の人生の願いでした。
我が家は、おやじが寝たきりでした。半身不随で、そして、病院代も払えなかった。
母親がいろんな行商をしながら、お茶を売って回ったり、京染めの反物の注文をとって歩いたり…、まあいわゆる…、それまで主婦だった女性がお金を稼ぐ道は、当時はそのくらいしかありませんでした。今でこそ、パートとか、何だとかあるけど、昭和40年頃は、あんた…、パートなんかなかったろう…〔涙声?〕。
パァとよ〔右手をこめかみの横でぱぁと広げる仕草〕(場内笑い)。お金はパァと…。
だけど、ボクはとにかく、学校を…、アルバイトば~っかりして学校を卒業して、家にお金入れられるかと思ったら…、私の心の中で、家を助けなければならないと言う思いが半分、そして、でも若かったから…、とにかく先生のもとへいきた~いという思いと、どっちが強かったかというと、そっちの方が強かった。ボクは今でも、亡き父母に、申し訳なかったな、親孝行したい時には親はなしち言うけど、そん通りばい。
今言うても**(聞き取り不能)、**(聞き取り不能)メモリアル・パークばい。
まにあわん〔涙声? 明らかな演技〕(場内笑い)。
それで、就職したのが40年。
それで、私は昭和52年に、ふるさとの大分に転勤の命令がくだりました。
それは、第1次宗門問題が勃発したからです。
その頃、第1次宗門問題といえば、坊主が先生や学会の悪口を言いまくりたくっていた。
その震源地が大分でした、全国の…。
どうも大分にきな臭い煙が出とる。誰か本部から行って応援しないと、大分の人がかわいそうだ。当時、大分出身は、本部におる人間は二人しかおらんかった。 一人はMK君という東大を出た当時全国青年部主任部長。私ゃ大分大学・駅弁大学を出た、しがない聖教新聞の記者、きしゃポッポ…(場内笑い)。
ねぇ、かたや未来洋々、私ゃ未来まっ暗…そんなこたぁないけど…、それで、私に白羽の矢というか、黒羽の矢…。
ほでボクは52年に大分へ帰ったのよ。だから宗門問題ちゅうのは、私の人生を狂わせたとまでは言わんけども、ああた、左右しやがりまくりたくったのよ。
そらぁ、当時の宗門問題はきつかった、第1次は…。学会が謗法とか、成仏しないとか…。ね、どんだけ学会が謗法と言われたか…。ほんッとにくやしかった。坊主が折伏したのかッ! 坊主が屏風に坊主の絵を上手に描いたっちゅう早口言葉があるけども、折伏しとらんじゃないか!全部学会員がやったんじゃないかッ! 歯ぎしりする思いでした。
そして、池田先生がそのむこうに(ママ)、54年4月24日、勇退された。それは私たち弟子にとって、紅涙ふりしぼるという言葉が…、血の涙が出るほど悔しかった。私は、終生この日は忘れまいと、決意をいたしました。
そして、56年に池田先生が、「いちばん苦しんだところが、いちッばん一番幸せになるんだよ」と言って、大分に来てくださった。悔し涙の真っ只中で、先生が大分に来てくださった。今から25年前です、今年の12月で25年目です。
そしてその時、先生が、今この歌をずうぅっとォ…、指導に回る時に、「いつもこの歌をかけながら、行った先で聞きながら指導に回ってるんだよ」と言ってェ…、先生が、「テープ持って来い」と言われた。そして、指導が全部終わった、夜9時過ぎでした。熊本に先生が移動した後、熊本で先生が、熊本のこんな大広間に…、夜の9時か9時半頃、先生は下に降りてこられて、役員が、当時、まだ百名近くの役員がまだ残ってた。残った役員の人みんな来いって先生言われて、「いいよ」。先生がこの辺に座って、百名くらいが取り囲んで…、そして先生は「お世話になったな」。懇談をしてくださった。その時に「あのテープを持って来い」って言われて、持ってきて聞かせてくださったのが、この「一献歌」です。
「万策尽きて破るとも天あり地あり師匠あり」
池田先生がご勇退をされる…、ご勇退をされたのは、54年の4月24日です。
ん? 54年じゃない…。そうだな、54年の4月24日です。
その前の年の、53年の11月18日、この「一献歌」の一節を墨痕鮮やかに書かれた。
「万策尽きて破るとも天あり地あり師匠あり」
先生が勇退をしてでも収めなければならなかったこの事態…。
しかし! どんな立場になっても、戸田先生の弟子として…、戸田先生のまことの弟子は自分しかいない。だから、どんな身になっても、戸田先生の遺言だけは、どんな嵐でも、実現をしてみせる。先生のその深い思いが、「万策尽きて破るとも天あり地あり師匠あり」。
「五十三年霜月十八日。徒然なるままに、徒然なる歌を認む」と書かれてあります。霜月十八日というのは、11月18日、創立の記念の日であります。
私は、この歌を歌う時に、池田先生が今日まで歩んできた…、19歳の時から78歳に至る今日まで、自分のお金も、身体も、時間も、何もかもすべて…、戸田先生の弟子として、戸田先生の遺命を実現するためにすべて賭けてこられた先生…。
先生は、朝から晩まで、一分一秒も、先生の人生には私(わたくし)の時間がありません。公私とあります、公(おおやけ)と私(わたくし)。先生に私(わたくし)の時間は一分もないんです。私も先生とご一緒させていただいて、地方指導に行ったこともあります。本部で何日間か先生に常随給仕させていただいたこともある。先生の周りには、先生のお仕事の下請けと言ったらおかしいけども、報告書を持っていったり、先生のご指示をまた伝えたりする、まあ、いわば秘書の役割をする人たちが…、部門があります。この人たちの部門のお仕事は、普通の会社とは違います。どう違うか。それは、先生が目が覚めてから、おやすみになるまで、仕事。はぁ~あ、あの部署の仕事というのは、俺たちだったら身がもたんなと思うよ。だけど、よくよく考えたら、いちばん身がもたないのは先生でしょ。つまり先生は、朝起きてから寝る時間まで、広宣流布なんです。その人生を今日まで貫き通してくださった先生がいらっしゃるから、今、190カ国じゃありませんか(場内拍手)。190カ国よ。
私は、きょう、この話を皆さんと分かち合うつもりは、ありませんでした。だけど、きょう、「一献歌」を聞かせていただきながら、どぉ~しても、このことだけは、皆さんと、きょう、誓い合いたい。この思いで、まいりました。
石焼きイモの詩 3
話は一転しますけども、この前、私、2月に2週間ばかり、インドネシアに行ってまいりました。インドネシアに行ったことのある人…? ああ、おるねぇ、やっぱり奄美は…。
山本:いつごろ行ったン?
挙手者:4年ぐらい前です。
山本:え…? ああ、4年ぐらい前。何しに行ったン…?
挙手者:音楽研究です。
山本:え…? 音楽研究て、あの、あれかい、サンクロンじゃない、何つったか、インドネシアの…、あの竹のポロッポロッポロッつう何よ…
挙手者:***(聞き取り不能)
山本:日本語で言うてくれんか(場内笑い)
挙手者:竹の****(聞き取り不能)
山本:ああ、竹のな…。どこ行った?
挙手者:バリ島、***、***(聞き取り不能)。覚えてない島もございます。
山本:わかりました。ボクはきょうは…、今回、私は2月に行ったんですが、あなたが行かなかったとこばかり行ってきました(場内笑い)。あのぉ、ジャカルタ…、それからバリ島ってのは、これは、どちらかって言うと、リゾートでね…、だよな、リゾート。だからまぁ、どちらかというと、ハワイじゃないけど、観光地ですね。そこは学会員少ないから、ボクは行ってないんです。そんなとこ行きよったら…、そんなとこ、あんたは行っていいんだよ、目的が違うから。バンドンとかスマトラとか…。ああ、バンドン、スマラヤ、ジョグジャカルタ、それから、ジャカルタと行ってきました。
5月の14日に、このジャカルタの首都に…、ジャカルタですが、首都がね…。ここに会館ができるんです、大きな会館が。
このインドネシアというのはですね、国土は日本の5倍あるんです。人口は2億2000万あります。世界で4番目に人口が多い国。中国、インド、アメリカ、インドネシア。こんな大きな国なんです、意外と。
ほで、この2億2000万の人口の9割がイスラム教徒です。世界でいちばんイスラム教徒が多い国なんです。だからもう2億人近くがイスラム教徒。
ですから、もう…、イスラム教の礼拝所…、モスクと言います。これがもう、日本で言えば公民館単位ぐらいにあるんです。ジャカルタという首都にはもう、でぇっかい塔が立ったモスクがあります。そして、そのモスクは小さいかろうと大きかろうと、塔があって、その上には、マイク…、スピーカーが四方八方についています。ほで、そこで一日に何回か、お祈りの声が街中に響くんです。一日に3~4回ぐらい。もう、そこら中から響くから…、もう、会合してても打ち合わせしてても響く。「うゅ~~ゅぅ~~う~ュ~~~」つって(場内笑い)、これを2週間、***(聞き取り不能)あんた…(場内笑い)…、そらァ、あんた、謗法ばい(場内笑い)。それをあんた、2週間も聞きよったら、おかしゅうなるわさ、たいがい(場内笑い)。だから、これを聞いたら、あんた、帰ったら勤行ができんようになるとまずいと思って(場内笑い)、それで途中からボクはもう、耳で聞いて頭で感ずるのを変えたんです。「石焼ぁ~きいもぉ~」(場内笑い)。
そういう国だけどね、イスラム教は国教じゃないんです。だから折伏できるんです、折伏。それで、あなた、1万何千人でしょ、学会員が…。ほで、この5月に会館ですよ。
***(聞き取り不能)、そらぁ、あたし、地方もずぅっと回りましたけどね…、もう…、もう、回りながら途中でふと気がついたの。日本におる時と生活のスタイルが全然変わらんわけです、朝起きたら勤行して打ち合わせをして家庭訪問して座談会行って会合行って…て、あんた、どこに行ってもそれが変わらん。俺ぁ何しに来たっちゃろうかねぇて(場内笑い)。
で、ずうぅっと回りました、家庭訪問。水が最悪です。〔先出のインドネシアへ音楽研究に行った人を指さして同意を求めるように〕ね、水…。水、飲めないんです。
だから、****(聞き取り不能)時も、この…、ミネラルウォーター。
日本と世界中、どこに行っても変わらないのは、座談会終わった後、お茶とお菓子が出ることです。それで、ずぅっと田舎まわったときにも、来るたん…、あのぉ、行くたんびに座談会の後、お茶と、あのぉお菓子出るのはいいけど、そのお菓子がねェ〔顔をしかめる〕(場内笑い)、そらもう何とも知れんつったら悪いけど…、こん中、インドネシアの人、おらんな…〔右手を挙げる〕(場内笑い)…、もう何とも知れんですな。だけど、あっこは電気が暗い国だからよかった、顔が見れんから…。ほらもぉう…、油の臭いがねえぇ~、あわんのよ。
ほんで4カ所ほど回って、ジャカルタの首都に帰ったら、直通の下痢よ。もう、ジャッジャジャッジャ、ジャッジャジャッジャ、もうあんた、所かまわず時かまわずガンガン、三日間止まらんかった、三日。3キロ痩せましたよ。だから帰って婦人部の皆さんに言うたんよ、痩せたい人はインドネシア連れて行ってくださいって(場内笑い)。
ほうで、ボクの**(ほか?)に4人行ったんだけど、婦人部の…、何回も行っている婦人部の人がねぇ、ボクに、会合始まる前、薬くれてねぇ、これ飲んだら2時間は止まるち言うんです。箱に書いてある文字読んだら「下痢ストッパー」て書いてある(場内笑い)。そらぁ…、三日三晩ね、バナナばっかりで過ごしました。
ほでぇ、とうとうたまらんで三日目にクリニック行ったんですよ、地元の。その連れて行ってもらったクリニックが「SOS」て書いてある(場内笑い)。そこで薬もらったら、ピシャッと止まった。
で、ボクと行っているもう一人の男性の人がですね、SGIの南アジア部長ち言うて、あすこの…、あれ…、あのぉ、池田先生と一緒にですね、あのぉ…、アジアはほとんどの国、行ってる、先生の随行で…。そん人が我々と一緒に行ってくれた。その彼がですね、「もう山本さん、この程度の、あんた、アジアまわって下痢でねぇ…、下痢はインドネシアのパスポートよ」とか言われてね…(場内笑い)。**がいいちどのことかと思うてねぇ〔聞き取り困難・意味不明〕。ほんで彼が…、自分がインドに行った時にね…、池田先生の随行で行って、先発隊で行ってね、それで1日か3日前に行って、いよいよ先生が到着されるという時にね、下痢になったんだって。こうやって脂汗でね〔顔をしかめて身振り〕、すごぉ~い苦しかったんだって…。そん時に、インドの現地の学会員の人が、これ飲みなさいつって、大きな薬2つくれたら、ピタァッと止まったんだってよ。ほで、あとで聞いたら、その薬はね、牛の下痢を止める薬(場内笑い)。で、あんた、まぁ牛扱いだよ(笑い)。たいがい、あんた、えばるこたぁないよ、人間並みじゃないよ、牛並みよつうて言うてさ…。そだら、むこうから帰ってきたわ。そだら、ああた、山本さん、ああた、せめて、まぁ馬並みですなて…。ピタァッと止まった。
で、ボク思ったのはね、世界広布は奇蹟ですよ。ほんっと思った。かんったん****〔聞き取り困難、意味不明〕、ね、先生が、世界を回る時に、先生の奥様が、小さな炊飯器を持っていって、そして、洗面所のコンセントにそれ突っ込んでメシ炊いて、先生に朝食べていただきながら世界まわったって話聞いたことあるけどねぇ、私は、そうかなぁ、すごいことだなァと、観念で思ってた。だけど、実際、異国に行って、世界広布というのは奇蹟だと思った。池田先生の戦いがどれほどすごいか。
石焼きイモの詩 4
52年のあの宗門問題。「万策尽きて破るとも天あり地あり師匠あり」と言い、先生が詠まれた心中のあの時の学会と、今この…、きょうも先生がこのメッセージに書いてくださった…、ね…、「妙法を受持する人を大梵天も帝釈天も仰いで尊敬されるであろうと仰せの通り、世界中の梵天帝釈から学会賞賛の声が寄せられる時代に入りました。」て書いてあるよ。その通りでしょう。
この前、福岡では、聖教新聞の55周年の祝賀会を行いました、外部を招いて。800人来ました。九州をつかさどる七社会ていうのがある。九電、九電工、西部ガス、福岡銀行、西鉄、西日本新聞、もういっちょう何だ…、福岡銀行言った? まぁいいや。七社ある。
5年前にも祝賀会やりましたけども、その時には社長で来たのは1人でした。あとは専務が来たり代理が来たりでした。今回は七社会の現役の社長が全員勢揃いしました。びっくりしたのは、来た800人です。その顔ぶれをよみあげただけでね、ため息がついた(ママ)。驚いてました。この5年間で社会の環境は一変しました。
その次の日、ワタクシは沖縄に行きました。沖縄でも55周年をやり、200人が集まりました。I 知事ておるでしょ? あの人の先祖は喜界島ですってね。喜界の人、おるかい? 喜界にはI さんの墓がある…、ああ、I さんじゃない、I さんの一族の墓。
そのI さんが、200人の…、学会員じゃないですよ、200人の来賓を前にして、彼はスピーチをしました。ボクはビックリしました。彼はこう言いました、私、そこにいた。きょうは、県庁を出る時に…、まぁ言葉は少し違うかも知れない、意味はそういうことです、県庁を出る時に…、秘書が書いてくれた挨拶の原稿をきょうは読んだけども、とても硬くて面白くないから、読むのをやめますて…。そんで、私は、長年聖教新聞の愛読者です。ですから、むしろ私が日頃読んでいる聖教新聞の感想を述べることの方が、きょうはいいと思って、原稿なしでしゃべりますってぇとっから始まった(拍手)。
そして、彼が言うには、実はワタクシの弟が、聖教新聞には「わが友に贈る」と「名字の言」と、そして、「人間革命」だけは「新・人間革命」だけは毎日読めと、弟から言われてますので、そこだけは毎日読んでますて言うんです。壮年部でも読んでねぇのいるんじゃないか?(笑い)
毎日読んでますって。その弟っちゅうのはね、創価大学1期生の卒業生なんです。その弟から言われた。ですから、聖教新聞読んでいる。そうすると、今思い出すのは、自分がこの前の選挙の時に…、3年か4年前か知りませんが…、いや、さぁ…、2~3年前の選挙…、そん時の2週間前に、池田先生のスピーチの大きな見出しがあったっちゅうんですよ。それは何やったかなぁ…、おい、Nくん〔県長or総県長。同姓〕よぉ、何やぁ、そのぉ…、あたる〔=指名される?〕と思ってなかった? パァッといくんよ。ねぇ…、えぇ…? あのねぇ…、あのねぇ…、うぅんとねぇ…、苦難…、きょう、全体会議であったやん…、苦難…、苦難は…、苦難にねぇ、一歩も動ずることなかれ!っていうような言葉なんですよ、先生の…。それが選挙の真っ只中でどれだけ私を勇気づけてくれたか。あの2週間は、池田先生のその言葉を胸に抱きしめて戦って勝ちましたて言うんですよ(拍手)。ねぇ! ほでぇ、自分は、もっと思うのは、「人間革命」を読んでると、創価学会の方が幾多の試練に(ママ)乗り越えて今日発展されているかということ、その皆さん方の非難中傷を乗り越えた歴史がよ~くわかりますち言うの。そして、もっと私が感激するのは5面です。それは体験談です。あすこの体験談読むと、自分が読むたびに思うのは、それこそ人生の試練の真っ只中にそれを信仰で乗り越えてこられた方の、まばゆいばかりの体験が書いてある。それを読むたびに、読むたびに、私なんかまだ苦労が足りないな、この人に比べたら、まだ苦労が足りないな…。その体験談の、私は愛読者ですち言うんです。
そして最後に、聖教新聞が550万もの…、ね…、朝日・毎日・読売に匹敵する新聞になれた発展のその要因は、ひとえにワタクシ思うに、配達員の皆さんのご苦労だと思います(拍手)。おぉ~う、あんた、俺よりわかっとるじゃないか。そしてその配達員の人…、池田先生が心から激励されている姿があるから550万の聖教新聞の今日がありますつって、200人前にして言うたよ。
〔メッセージをさして〕先生がここに書いていらっしゃる通~~りの時代が今、音を立てて来ていると思いませんか。そしてその広宣流布を、いよいよこの5年間で、本当に弟子が立ち上がって成し遂げた時に、それは…、それは…、「一献歌」の仇討ちを果たせるんじゃありませんか。
私はきょう、奄美の同志の皆さんと、その出陣をしたいと思いますが、ようございますでしょうかァ!(拍手) 戦おう!
最後にねぇ、もう一回その思いを込めて、壮年部の皆さんの「一献歌」を、歌いたい人は歌っていいし…、ううぅ…、聞こうよ。な、もう一回、やってやらんね。いいね、いい…。もう一回、その決意込めてね…。これを歌って終わりにしましょう。いいですかぁ。
じゃ、私も立って歌おう。
〔「一献歌」合唱〕
どうもねぇ…、これ歌うと、胸がさっ…(涙声?)。今年の5月3日***(聞き取り不能)、今年の5月3日が(ママ)ねぇ、壮年で大折伏やろう! きょうから! ねっ。壮年部の手で。入っても入らんでもいいから、奄美中の**(聞き取り不能)に、先生のこと学会のことをね、下種して歩こうよ。それでまず、今年の5月3日はね、奄美壮年部の、弟子の万歳をする、その誓いをきょうから出発したいと思います。よろしくお願いします。ありがとうございました。
(以上 おわり)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
参考資料 by 南里Guy ―創価学会 会則 第5章総務会―
(地 位)第28条 この会に、重要な会務の決定機関として、総務会を置く。
(構 成)第29条 総務会は、総務をもって構成する。
(権 限)第30条 総務会は、この会則に定めるもののほか、次の案件を審議し、議決する。
1) この会の年間活動方針
2) 宗教法人「創価学会」の代表役員以外の責任役員および監事の任免(責任役員は総務または参議の中より選任する。)
3) その他会長が必要と認める事項
(会長選出委員会)第31条 この会は、総務会に、次の者からなる会長選出委員会を置く。
1) 総務会議長
2) 総務会副議長
3) 総務の互選によって選ばれた者15名
2. 会長選出委員会については、別に定める。
(総務会議長および総務会副議長)
第32条 総務会に、総務会議長および総務会副議長を置く。
2. 総務会議長は、総務会の議事を整理し、総務会の事務を総理し、総務会を代表する。
3. 総務会副議長は、総務会議長を補佐し、総務会議長に事故のあるときは、総務会議長の職務を行なう。
4. 総務会議長および総務会副議長は、総務の互選によって定める。
5. 総務会議長および総務会副議長の任期は、総務としての任期による。
(招 集)
第33条 総務会は、毎年1回、会長がこれを招集する。
2. 臨時総務会は、会長が必要と認めるときこれを招集することができる。中央会議の議決または総務総数の3分の1以上の要求があったときは、会長はこれを招集しなければならない。
(定足数・表決)
第34条 総務会は、総務総数の3分の2以上の出席がなければ、議事を開き、議決することができない。
2. 総務会の議事は、出席総務の過半数でこれを決する。ただし、名誉会長、総務会議長、総務会副議長、総務、会長選出委員会委員、監正審査員、中央審査員、責任役員および監事の選出については、総務総数の3分の2以上の多数を必要とする。
・・・あなたの師弟の絆は、もつれていませんか?実例をもとにほぐしてみましょう。
以下は、サイト21世紀 近未来志向の創価学会員よ集え!の投稿者から承諾を得ての転載記事です。
(※「石焼きイモの詩」は、奄美の会員に配布された公式録画DVDからの電訳です。登場する人物名は一部略させていただきました。若干加筆訂正しております。)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
石焼きイモの詩 投稿者:野茶坊
…山本副理事長(現総務会議長・総九州長)の人となりを示す記録を紹介させていただきます。
2年前(2006年3月)の奄美における「指導」を、野茶坊の心の友〔どらン猫小鉄〕こと***が逐語電訳し、公開するのを心待ちにしていた力作(?)です。
これをどのようにお読みになるかは皆様お一人お一人の自由であることは申すまでもございません。
かなりの長文ですので、分割掲載させていただきます。連続投稿になりますが、ご容赦ください。
題して『石焼きイモの詩』。
…のっけからハプニングぶくみの、楽しい「指導」でありました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「奄美広布決着誓願大会」(奄美光城県壮年・男子総会)における山本武総九州長指導
2006年3月27日 奄美大島文化会館
《式次第》
・題目三唱
・学会歌『威風堂々の歌』
・挨拶(H.M県壮年部長)
・体験・活動報告(地区部長2名)
・「弟子の戦いで断固築かん奄美城」(K.N県長)
・合唱『一献歌』『新・火の国の歌』
・記念品授与並びに挨拶(J.N総県長)
・総九州長指導(山本総九州長)
・題目三唱
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《以下、山本武総九州長指導の全容》
司会:総九州長指導。山本総九州長。
山本武総九州長:はぁい。
S.H地区部長:(司会マイクの前に立って)ここで、山本総九州長に、壮年部を代表して、一言御礼を申し上げます。
山本総九州長:はァ。(場内笑い)
S.H:九州長!
山本:はい。
S.H:奄美のために、いつも、いつも、ありがとうございます。
山本:〔返礼〕 (場内拍手)
S.h:さきの衆議院選挙で…、
山本:ええ。
S.H:徳州会の…
K.N県長:これは予定にないところだから…〔止めに入る〕
S.H:奄美広布の、いちばん大事な話を…。
K.N:いやいや、今、ちょっと話し中だから…。
山本:どうしたん?
K.N:***(聞き取り不能)。予定にないことで…。
山本:彼、司会者…? 司会者…?
K.N:司会じゃないんです。
山本:ああ、司会じゃないんなら、ごめんなさい。
ああ、びっくりした。
ありがとう。きょうは、いろいんな人がおるからね。(場内笑い)
S.H:〔静かに司会席の横に座る。会合終了までそのまま動かず。〕
※以上のやりとりの中の《S.H地区部長》は、山本総九州長に飛び入りでの質問を試みたのですが、県幹部に阻止され、山本総九州長にも無視されたワケです。会合終了後にも、後日においても、山本総九州長あるいは県幹部から《S.H地区部長》に対する何らの「指導」もしくは対話の機会を設けるはたらきかけもなく、完全に黙殺状態だったとのことです。なお、「徳洲会」につきましては、お手数ながら、ネット等でお調べください。
(野茶坊・注)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
でも、きょうは、ひじょうにスッキリした…、スッキリしたって言うと、婦人部がいるとスッキリしないのかって言うと、そういうわけじゃないけど…。(場内笑い)
あのぉ、婦人部の皆さん、うしろで応援してくださっているから、心からありがとうございました。
きょうは、男だけの会合…、ええ~、ワタクシも気兼ねなく、最後まで…、や、気兼ねなくっつうとまた…、言葉に気をつけないかんですが…、気兼ねなく最後までやりたいと思いますが、ようございますでしょうか。(場内拍手)
それでぇ、最初にですねェ、あのォ、やっぱり、島々から来た、来てくださった方…、
これは、船代を使い、飛行機代を使い‥ですねェ…、あのォ、簡単に幹部は会合やるから来いっちゅうけども、みんなお金と時間と、そして、もしかすると、きょうは月曜日だから、仕事の都合までして(ママ)来てくだすったんだと思います。皆さんと一緒に心から歓迎申し上げたいと思いますが、いかがでしょうか。(場内拍手)
ええ、最初に徳之島!(「はい!」の返事)。 ああ~…。徳之島が22名だ。さっき、あのね…。24名か。ごめん、22と4じゃだいぶ違う。おおごとばい、え~、へ(笑い)。
県長がね、紹介してくださったけど…。
それでねェ、ここの…、さっき県長に許可うけた…、御宝前の品をね、島から来た方々に、せめてもの思いでね、あのォ、お渡ししてもいいかつったら、県長が、「それは、御本尊に聞いてください」…(場内笑い)。さっき、お題目を三唱する時に、御本尊様に聞きました。そしたら、「善きかな善きかな」(場内笑い・拍手)。
(M総県壮年部長を指して)ちょっと、壮年部長。いちばん数の多いバナナが徳之島だ。数、数が多い方がよかろう。はい、いちばん前におる…、誰でもいいんだよ。代表!
ちょっと、その三宝は返してよ(場内笑い)。上だけ取って、上だけ。そうそう、上だけ。
・・・中略・・・
〔徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島からの参加者に御供物分配〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(以下、大意)
・感無量です。
・広宣流布が池田先生と共に80周年へ向かう今、つまり、池田門下生の私たちにとって・は広宣流布の総仕上げに入りました。
・池田先生が去年の12月から全力の指導を始めました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(以下、逐語)
今年の1月からの衛星中継での秋谷会長をはじめとする幹部の指導が変わったことに気がつかれた方…。気がついていらっしゃる…。
秋谷会長も、もう指導でなくなった。会長も、先生の弟子の一人として、先生を守り、学会を守るためにわが人生のすべてを捧げますという、指導というよりも、ご自分の反省と誓いと決意と、先生の一人の弟子としての思いを語られる話に変わったことに気がついていらっしゃると思う。
3月の本部幹部会では、正木壮年部長が、「秋谷会長といえども、みんな弟子です、その池田門下の弟子が、総仕上げに立ち上がる時が来ました」という、正木壮年部長の話だった。
去年の12月から池田先生は、秋谷会長をはじめとする本部の首脳の方々を三日とあげず呼ばれて全魂の指導を始められました。それは、今も続いています。先だっても、皆さん方気づいているかどうかわかりませんけれども、先生の元で最高協議会が開かれたという記事が二日続けて載ってました。
先生は今まで…、私も信心して48年、本部の職員になって私はもう40年になります。先生の元でさまざまな薫陶も受けてきました。先生の元でさまざまなご指導を受ける機会も、皆様方を代表して幾たびもありました。そしてその時、先生は一番時々に大事な指導を全力で私たちにしてくださった。だけど、ひとつのテーマについて先生が去年の12月から今に至るまで3ヶ月も、毎日のように指導されている経験は、私は初めてです。
先生はこうおっしゃっておられる。それは、これから先、50年、100年、200年と学会の広宣流布が進み栄えていくその日、もう一度創価学会を根本から作り直そうと。
それは、仏法の方程式からすれば、50年、100年後の学会と言っても、今の姿にすべてが含まれている、つまり、今の一瞬に未来のすべてがあるというのが仏法の方程式です。
どんなに50年・100年後、学会が栄えるような図面を描いていっても、今の姿がいい加減では、これは絵に描いた餅です。つまり、50年も100年も1000年も栄える学会をどうすればいいかということは、今その姿を作り上げておかなければいけない。
先生はその戦いを現実に手をかけて始められたということです。そして、その魂魄は何か。それは師弟の精神。学会は三代の会長以外、師匠はいないんです。ですから、これから…、今、秋谷会長は5代目か…、5代目ね…、5代目の会長だけども、これから10代も15代も20代も続くでしょう。その時に、もし変な会長や、あるいは変な幹部が出たならば、これだけ三代の会長、なかんずく、池田先生と共に世界に広がった学会を作り上げてきた苦労が水の泡になってしまう。そんな学会に絶対にしてはいけないッ!
そのためには何か。今の学会の中に、弟子の精神、師弟の精神というものを、毛スジもたがわぬものを今の学会にさらに深くさらに深く〔大きな身振り〕作り上げておかなきゃならない。先生は、その戦いに〔両拳を握る〕、手をかけて始められたということです。
私は、先生のその指導をうかがうにつけて、今、80周年に向かうこの5年というのは、ただごとでない時が流れてるな、ただごとでない弟子の戦いの始まりが今だな…。そして、師弟の精神の根本と言っても、じゃあ、だれが作るのか。それは、池田門下生である私たち一人一人が、自分の生き方をそこに貫くしかない。大勢の会合で指導したからできるわけじゃない。自分がどうするか。きょう集まった一人一人がどうするか。先生の弟子として俺は、今のこの5年間の広宣流布に賭けるぞと、人生の腹を決めるかどうかです。そして、その本物の弟子が奄美の地に何人いるか。
池田先生はこの3月の本部幹部会の時に…、九州総会でした…、その時にこう言われた。
牧口初代会長が九州まで足をのばして指導に行かれた時に、牧口先生が何と言われたか。
「青年はいないか。私は本物を探しに来た」と言われたよ。私は、なぜ今、池田先生がそのことを私たちに教えてくださったのか。それは単なる牧口先生の言葉じゃない。池田先生が私たちに、九州には何人の本物の弟子が立つのかということを先生が呼びかけてくださっているように私には思えてなりませんでした。
私は、この時、九州に本物の池田門下生が…、そのために私自身、総九州長とか、何とかという役職は関係なく、山本武という、先生に薫陶を受けた、わが決めた人生の、先生の弟子としての生き方を、もう一回その原点にかえって、この5年間、先生の弟子として、どこまで迫った生き方が自分に問うことができるか、生まれ変わった思いで戦おうと思って、今日は来ました(場内拍手)。
どうか、奄美の壮年部の皆さん。きょうは、一番いい時に、九州の中で奄美が一番先に、壮年部が立ち上がったなと言う思いで今日は感激で一杯でございますけども、やりませんか!(場内拍手)。わかりましたね。(?? 聞き取り困難)
石焼きイモの詩 2
しかも、きょうは、壮年部の合唱団が「一献歌」を歌ってくださった。この「一献歌」というのは、師匠と弟子の、仇討ちの誓いの歌であります。
私は、自分の体験で恐縮ですけれでも、昭和52年に…、その前には昭和40年だ…。
ちょっと体験発表していいね?(場内拍手)
体験発表な。もう、あんた…、役職っちゅうよりも、私も弟子、皆さんも弟子…。
昭和40年にですね、ボクは聖教新聞の本社に合格して採用していただいた。昭和40年でした。もう、ただただ、そん時は、池田先生のもとに24時間、広宣流布ができたら、こんな嬉しい人生ないな、ただただ、それだけが自分の人生の願いでした。
我が家は、おやじが寝たきりでした。半身不随で、そして、病院代も払えなかった。
母親がいろんな行商をしながら、お茶を売って回ったり、京染めの反物の注文をとって歩いたり…、まあいわゆる…、それまで主婦だった女性がお金を稼ぐ道は、当時はそのくらいしかありませんでした。今でこそ、パートとか、何だとかあるけど、昭和40年頃は、あんた…、パートなんかなかったろう…〔涙声?〕。
パァとよ〔右手をこめかみの横でぱぁと広げる仕草〕(場内笑い)。お金はパァと…。
だけど、ボクはとにかく、学校を…、アルバイトば~っかりして学校を卒業して、家にお金入れられるかと思ったら…、私の心の中で、家を助けなければならないと言う思いが半分、そして、でも若かったから…、とにかく先生のもとへいきた~いという思いと、どっちが強かったかというと、そっちの方が強かった。ボクは今でも、亡き父母に、申し訳なかったな、親孝行したい時には親はなしち言うけど、そん通りばい。
今言うても**(聞き取り不能)、**(聞き取り不能)メモリアル・パークばい。
まにあわん〔涙声? 明らかな演技〕(場内笑い)。
それで、就職したのが40年。
それで、私は昭和52年に、ふるさとの大分に転勤の命令がくだりました。
それは、第1次宗門問題が勃発したからです。
その頃、第1次宗門問題といえば、坊主が先生や学会の悪口を言いまくりたくっていた。
その震源地が大分でした、全国の…。
どうも大分にきな臭い煙が出とる。誰か本部から行って応援しないと、大分の人がかわいそうだ。当時、大分出身は、本部におる人間は二人しかおらんかった。 一人はMK君という東大を出た当時全国青年部主任部長。私ゃ大分大学・駅弁大学を出た、しがない聖教新聞の記者、きしゃポッポ…(場内笑い)。
ねぇ、かたや未来洋々、私ゃ未来まっ暗…そんなこたぁないけど…、それで、私に白羽の矢というか、黒羽の矢…。
ほでボクは52年に大分へ帰ったのよ。だから宗門問題ちゅうのは、私の人生を狂わせたとまでは言わんけども、ああた、左右しやがりまくりたくったのよ。
そらぁ、当時の宗門問題はきつかった、第1次は…。学会が謗法とか、成仏しないとか…。ね、どんだけ学会が謗法と言われたか…。ほんッとにくやしかった。坊主が折伏したのかッ! 坊主が屏風に坊主の絵を上手に描いたっちゅう早口言葉があるけども、折伏しとらんじゃないか!全部学会員がやったんじゃないかッ! 歯ぎしりする思いでした。
そして、池田先生がそのむこうに(ママ)、54年4月24日、勇退された。それは私たち弟子にとって、紅涙ふりしぼるという言葉が…、血の涙が出るほど悔しかった。私は、終生この日は忘れまいと、決意をいたしました。
そして、56年に池田先生が、「いちばん苦しんだところが、いちッばん一番幸せになるんだよ」と言って、大分に来てくださった。悔し涙の真っ只中で、先生が大分に来てくださった。今から25年前です、今年の12月で25年目です。
そしてその時、先生が、今この歌をずうぅっとォ…、指導に回る時に、「いつもこの歌をかけながら、行った先で聞きながら指導に回ってるんだよ」と言ってェ…、先生が、「テープ持って来い」と言われた。そして、指導が全部終わった、夜9時過ぎでした。熊本に先生が移動した後、熊本で先生が、熊本のこんな大広間に…、夜の9時か9時半頃、先生は下に降りてこられて、役員が、当時、まだ百名近くの役員がまだ残ってた。残った役員の人みんな来いって先生言われて、「いいよ」。先生がこの辺に座って、百名くらいが取り囲んで…、そして先生は「お世話になったな」。懇談をしてくださった。その時に「あのテープを持って来い」って言われて、持ってきて聞かせてくださったのが、この「一献歌」です。
「万策尽きて破るとも天あり地あり師匠あり」
池田先生がご勇退をされる…、ご勇退をされたのは、54年の4月24日です。
ん? 54年じゃない…。そうだな、54年の4月24日です。
その前の年の、53年の11月18日、この「一献歌」の一節を墨痕鮮やかに書かれた。
「万策尽きて破るとも天あり地あり師匠あり」
先生が勇退をしてでも収めなければならなかったこの事態…。
しかし! どんな立場になっても、戸田先生の弟子として…、戸田先生のまことの弟子は自分しかいない。だから、どんな身になっても、戸田先生の遺言だけは、どんな嵐でも、実現をしてみせる。先生のその深い思いが、「万策尽きて破るとも天あり地あり師匠あり」。
「五十三年霜月十八日。徒然なるままに、徒然なる歌を認む」と書かれてあります。霜月十八日というのは、11月18日、創立の記念の日であります。
私は、この歌を歌う時に、池田先生が今日まで歩んできた…、19歳の時から78歳に至る今日まで、自分のお金も、身体も、時間も、何もかもすべて…、戸田先生の弟子として、戸田先生の遺命を実現するためにすべて賭けてこられた先生…。
先生は、朝から晩まで、一分一秒も、先生の人生には私(わたくし)の時間がありません。公私とあります、公(おおやけ)と私(わたくし)。先生に私(わたくし)の時間は一分もないんです。私も先生とご一緒させていただいて、地方指導に行ったこともあります。本部で何日間か先生に常随給仕させていただいたこともある。先生の周りには、先生のお仕事の下請けと言ったらおかしいけども、報告書を持っていったり、先生のご指示をまた伝えたりする、まあ、いわば秘書の役割をする人たちが…、部門があります。この人たちの部門のお仕事は、普通の会社とは違います。どう違うか。それは、先生が目が覚めてから、おやすみになるまで、仕事。はぁ~あ、あの部署の仕事というのは、俺たちだったら身がもたんなと思うよ。だけど、よくよく考えたら、いちばん身がもたないのは先生でしょ。つまり先生は、朝起きてから寝る時間まで、広宣流布なんです。その人生を今日まで貫き通してくださった先生がいらっしゃるから、今、190カ国じゃありませんか(場内拍手)。190カ国よ。
私は、きょう、この話を皆さんと分かち合うつもりは、ありませんでした。だけど、きょう、「一献歌」を聞かせていただきながら、どぉ~しても、このことだけは、皆さんと、きょう、誓い合いたい。この思いで、まいりました。
石焼きイモの詩 3
話は一転しますけども、この前、私、2月に2週間ばかり、インドネシアに行ってまいりました。インドネシアに行ったことのある人…? ああ、おるねぇ、やっぱり奄美は…。
山本:いつごろ行ったン?
挙手者:4年ぐらい前です。
山本:え…? ああ、4年ぐらい前。何しに行ったン…?
挙手者:音楽研究です。
山本:え…? 音楽研究て、あの、あれかい、サンクロンじゃない、何つったか、インドネシアの…、あの竹のポロッポロッポロッつう何よ…
挙手者:***(聞き取り不能)
山本:日本語で言うてくれんか(場内笑い)
挙手者:竹の****(聞き取り不能)
山本:ああ、竹のな…。どこ行った?
挙手者:バリ島、***、***(聞き取り不能)。覚えてない島もございます。
山本:わかりました。ボクはきょうは…、今回、私は2月に行ったんですが、あなたが行かなかったとこばかり行ってきました(場内笑い)。あのぉ、ジャカルタ…、それからバリ島ってのは、これは、どちらかって言うと、リゾートでね…、だよな、リゾート。だからまぁ、どちらかというと、ハワイじゃないけど、観光地ですね。そこは学会員少ないから、ボクは行ってないんです。そんなとこ行きよったら…、そんなとこ、あんたは行っていいんだよ、目的が違うから。バンドンとかスマトラとか…。ああ、バンドン、スマラヤ、ジョグジャカルタ、それから、ジャカルタと行ってきました。
5月の14日に、このジャカルタの首都に…、ジャカルタですが、首都がね…。ここに会館ができるんです、大きな会館が。
このインドネシアというのはですね、国土は日本の5倍あるんです。人口は2億2000万あります。世界で4番目に人口が多い国。中国、インド、アメリカ、インドネシア。こんな大きな国なんです、意外と。
ほで、この2億2000万の人口の9割がイスラム教徒です。世界でいちばんイスラム教徒が多い国なんです。だからもう2億人近くがイスラム教徒。
ですから、もう…、イスラム教の礼拝所…、モスクと言います。これがもう、日本で言えば公民館単位ぐらいにあるんです。ジャカルタという首都にはもう、でぇっかい塔が立ったモスクがあります。そして、そのモスクは小さいかろうと大きかろうと、塔があって、その上には、マイク…、スピーカーが四方八方についています。ほで、そこで一日に何回か、お祈りの声が街中に響くんです。一日に3~4回ぐらい。もう、そこら中から響くから…、もう、会合してても打ち合わせしてても響く。「うゅ~~ゅぅ~~う~ュ~~~」つって(場内笑い)、これを2週間、***(聞き取り不能)あんた…(場内笑い)…、そらァ、あんた、謗法ばい(場内笑い)。それをあんた、2週間も聞きよったら、おかしゅうなるわさ、たいがい(場内笑い)。だから、これを聞いたら、あんた、帰ったら勤行ができんようになるとまずいと思って(場内笑い)、それで途中からボクはもう、耳で聞いて頭で感ずるのを変えたんです。「石焼ぁ~きいもぉ~」(場内笑い)。
そういう国だけどね、イスラム教は国教じゃないんです。だから折伏できるんです、折伏。それで、あなた、1万何千人でしょ、学会員が…。ほで、この5月に会館ですよ。
***(聞き取り不能)、そらぁ、あたし、地方もずぅっと回りましたけどね…、もう…、もう、回りながら途中でふと気がついたの。日本におる時と生活のスタイルが全然変わらんわけです、朝起きたら勤行して打ち合わせをして家庭訪問して座談会行って会合行って…て、あんた、どこに行ってもそれが変わらん。俺ぁ何しに来たっちゃろうかねぇて(場内笑い)。
で、ずうぅっと回りました、家庭訪問。水が最悪です。〔先出のインドネシアへ音楽研究に行った人を指さして同意を求めるように〕ね、水…。水、飲めないんです。
だから、****(聞き取り不能)時も、この…、ミネラルウォーター。
日本と世界中、どこに行っても変わらないのは、座談会終わった後、お茶とお菓子が出ることです。それで、ずぅっと田舎まわったときにも、来るたん…、あのぉ、行くたんびに座談会の後、お茶と、あのぉお菓子出るのはいいけど、そのお菓子がねェ〔顔をしかめる〕(場内笑い)、そらもう何とも知れんつったら悪いけど…、こん中、インドネシアの人、おらんな…〔右手を挙げる〕(場内笑い)…、もう何とも知れんですな。だけど、あっこは電気が暗い国だからよかった、顔が見れんから…。ほらもぉう…、油の臭いがねえぇ~、あわんのよ。
ほんで4カ所ほど回って、ジャカルタの首都に帰ったら、直通の下痢よ。もう、ジャッジャジャッジャ、ジャッジャジャッジャ、もうあんた、所かまわず時かまわずガンガン、三日間止まらんかった、三日。3キロ痩せましたよ。だから帰って婦人部の皆さんに言うたんよ、痩せたい人はインドネシア連れて行ってくださいって(場内笑い)。
ほうで、ボクの**(ほか?)に4人行ったんだけど、婦人部の…、何回も行っている婦人部の人がねぇ、ボクに、会合始まる前、薬くれてねぇ、これ飲んだら2時間は止まるち言うんです。箱に書いてある文字読んだら「下痢ストッパー」て書いてある(場内笑い)。そらぁ…、三日三晩ね、バナナばっかりで過ごしました。
ほでぇ、とうとうたまらんで三日目にクリニック行ったんですよ、地元の。その連れて行ってもらったクリニックが「SOS」て書いてある(場内笑い)。そこで薬もらったら、ピシャッと止まった。
で、ボクと行っているもう一人の男性の人がですね、SGIの南アジア部長ち言うて、あすこの…、あれ…、あのぉ、池田先生と一緒にですね、あのぉ…、アジアはほとんどの国、行ってる、先生の随行で…。そん人が我々と一緒に行ってくれた。その彼がですね、「もう山本さん、この程度の、あんた、アジアまわって下痢でねぇ…、下痢はインドネシアのパスポートよ」とか言われてね…(場内笑い)。**がいいちどのことかと思うてねぇ〔聞き取り困難・意味不明〕。ほんで彼が…、自分がインドに行った時にね…、池田先生の随行で行って、先発隊で行ってね、それで1日か3日前に行って、いよいよ先生が到着されるという時にね、下痢になったんだって。こうやって脂汗でね〔顔をしかめて身振り〕、すごぉ~い苦しかったんだって…。そん時に、インドの現地の学会員の人が、これ飲みなさいつって、大きな薬2つくれたら、ピタァッと止まったんだってよ。ほで、あとで聞いたら、その薬はね、牛の下痢を止める薬(場内笑い)。で、あんた、まぁ牛扱いだよ(笑い)。たいがい、あんた、えばるこたぁないよ、人間並みじゃないよ、牛並みよつうて言うてさ…。そだら、むこうから帰ってきたわ。そだら、ああた、山本さん、ああた、せめて、まぁ馬並みですなて…。ピタァッと止まった。
で、ボク思ったのはね、世界広布は奇蹟ですよ。ほんっと思った。かんったん****〔聞き取り困難、意味不明〕、ね、先生が、世界を回る時に、先生の奥様が、小さな炊飯器を持っていって、そして、洗面所のコンセントにそれ突っ込んでメシ炊いて、先生に朝食べていただきながら世界まわったって話聞いたことあるけどねぇ、私は、そうかなぁ、すごいことだなァと、観念で思ってた。だけど、実際、異国に行って、世界広布というのは奇蹟だと思った。池田先生の戦いがどれほどすごいか。
石焼きイモの詩 4
52年のあの宗門問題。「万策尽きて破るとも天あり地あり師匠あり」と言い、先生が詠まれた心中のあの時の学会と、今この…、きょうも先生がこのメッセージに書いてくださった…、ね…、「妙法を受持する人を大梵天も帝釈天も仰いで尊敬されるであろうと仰せの通り、世界中の梵天帝釈から学会賞賛の声が寄せられる時代に入りました。」て書いてあるよ。その通りでしょう。
この前、福岡では、聖教新聞の55周年の祝賀会を行いました、外部を招いて。800人来ました。九州をつかさどる七社会ていうのがある。九電、九電工、西部ガス、福岡銀行、西鉄、西日本新聞、もういっちょう何だ…、福岡銀行言った? まぁいいや。七社ある。
5年前にも祝賀会やりましたけども、その時には社長で来たのは1人でした。あとは専務が来たり代理が来たりでした。今回は七社会の現役の社長が全員勢揃いしました。びっくりしたのは、来た800人です。その顔ぶれをよみあげただけでね、ため息がついた(ママ)。驚いてました。この5年間で社会の環境は一変しました。
その次の日、ワタクシは沖縄に行きました。沖縄でも55周年をやり、200人が集まりました。I 知事ておるでしょ? あの人の先祖は喜界島ですってね。喜界の人、おるかい? 喜界にはI さんの墓がある…、ああ、I さんじゃない、I さんの一族の墓。
そのI さんが、200人の…、学会員じゃないですよ、200人の来賓を前にして、彼はスピーチをしました。ボクはビックリしました。彼はこう言いました、私、そこにいた。きょうは、県庁を出る時に…、まぁ言葉は少し違うかも知れない、意味はそういうことです、県庁を出る時に…、秘書が書いてくれた挨拶の原稿をきょうは読んだけども、とても硬くて面白くないから、読むのをやめますて…。そんで、私は、長年聖教新聞の愛読者です。ですから、むしろ私が日頃読んでいる聖教新聞の感想を述べることの方が、きょうはいいと思って、原稿なしでしゃべりますってぇとっから始まった(拍手)。
そして、彼が言うには、実はワタクシの弟が、聖教新聞には「わが友に贈る」と「名字の言」と、そして、「人間革命」だけは「新・人間革命」だけは毎日読めと、弟から言われてますので、そこだけは毎日読んでますて言うんです。壮年部でも読んでねぇのいるんじゃないか?(笑い)
毎日読んでますって。その弟っちゅうのはね、創価大学1期生の卒業生なんです。その弟から言われた。ですから、聖教新聞読んでいる。そうすると、今思い出すのは、自分がこの前の選挙の時に…、3年か4年前か知りませんが…、いや、さぁ…、2~3年前の選挙…、そん時の2週間前に、池田先生のスピーチの大きな見出しがあったっちゅうんですよ。それは何やったかなぁ…、おい、Nくん〔県長or総県長。同姓〕よぉ、何やぁ、そのぉ…、あたる〔=指名される?〕と思ってなかった? パァッといくんよ。ねぇ…、えぇ…? あのねぇ…、あのねぇ…、うぅんとねぇ…、苦難…、きょう、全体会議であったやん…、苦難…、苦難は…、苦難にねぇ、一歩も動ずることなかれ!っていうような言葉なんですよ、先生の…。それが選挙の真っ只中でどれだけ私を勇気づけてくれたか。あの2週間は、池田先生のその言葉を胸に抱きしめて戦って勝ちましたて言うんですよ(拍手)。ねぇ! ほでぇ、自分は、もっと思うのは、「人間革命」を読んでると、創価学会の方が幾多の試練に(ママ)乗り越えて今日発展されているかということ、その皆さん方の非難中傷を乗り越えた歴史がよ~くわかりますち言うの。そして、もっと私が感激するのは5面です。それは体験談です。あすこの体験談読むと、自分が読むたびに思うのは、それこそ人生の試練の真っ只中にそれを信仰で乗り越えてこられた方の、まばゆいばかりの体験が書いてある。それを読むたびに、読むたびに、私なんかまだ苦労が足りないな、この人に比べたら、まだ苦労が足りないな…。その体験談の、私は愛読者ですち言うんです。
そして最後に、聖教新聞が550万もの…、ね…、朝日・毎日・読売に匹敵する新聞になれた発展のその要因は、ひとえにワタクシ思うに、配達員の皆さんのご苦労だと思います(拍手)。おぉ~う、あんた、俺よりわかっとるじゃないか。そしてその配達員の人…、池田先生が心から激励されている姿があるから550万の聖教新聞の今日がありますつって、200人前にして言うたよ。
〔メッセージをさして〕先生がここに書いていらっしゃる通~~りの時代が今、音を立てて来ていると思いませんか。そしてその広宣流布を、いよいよこの5年間で、本当に弟子が立ち上がって成し遂げた時に、それは…、それは…、「一献歌」の仇討ちを果たせるんじゃありませんか。
私はきょう、奄美の同志の皆さんと、その出陣をしたいと思いますが、ようございますでしょうかァ!(拍手) 戦おう!
最後にねぇ、もう一回その思いを込めて、壮年部の皆さんの「一献歌」を、歌いたい人は歌っていいし…、ううぅ…、聞こうよ。な、もう一回、やってやらんね。いいね、いい…。もう一回、その決意込めてね…。これを歌って終わりにしましょう。いいですかぁ。
じゃ、私も立って歌おう。
〔「一献歌」合唱〕
どうもねぇ…、これ歌うと、胸がさっ…(涙声?)。今年の5月3日***(聞き取り不能)、今年の5月3日が(ママ)ねぇ、壮年で大折伏やろう! きょうから! ねっ。壮年部の手で。入っても入らんでもいいから、奄美中の**(聞き取り不能)に、先生のこと学会のことをね、下種して歩こうよ。それでまず、今年の5月3日はね、奄美壮年部の、弟子の万歳をする、その誓いをきょうから出発したいと思います。よろしくお願いします。ありがとうございました。
(以上 おわり)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
参考資料 by 南里Guy ―創価学会 会則 第5章総務会―
(地 位)第28条 この会に、重要な会務の決定機関として、総務会を置く。
(構 成)第29条 総務会は、総務をもって構成する。
(権 限)第30条 総務会は、この会則に定めるもののほか、次の案件を審議し、議決する。
1) この会の年間活動方針
2) 宗教法人「創価学会」の代表役員以外の責任役員および監事の任免(責任役員は総務または参議の中より選任する。)
3) その他会長が必要と認める事項
(会長選出委員会)第31条 この会は、総務会に、次の者からなる会長選出委員会を置く。
1) 総務会議長
2) 総務会副議長
3) 総務の互選によって選ばれた者15名
2. 会長選出委員会については、別に定める。
(総務会議長および総務会副議長)
第32条 総務会に、総務会議長および総務会副議長を置く。
2. 総務会議長は、総務会の議事を整理し、総務会の事務を総理し、総務会を代表する。
3. 総務会副議長は、総務会議長を補佐し、総務会議長に事故のあるときは、総務会議長の職務を行なう。
4. 総務会議長および総務会副議長は、総務の互選によって定める。
5. 総務会議長および総務会副議長の任期は、総務としての任期による。
(招 集)
第33条 総務会は、毎年1回、会長がこれを招集する。
2. 臨時総務会は、会長が必要と認めるときこれを招集することができる。中央会議の議決または総務総数の3分の1以上の要求があったときは、会長はこれを招集しなければならない。
(定足数・表決)
第34条 総務会は、総務総数の3分の2以上の出席がなければ、議事を開き、議決することができない。
2. 総務会の議事は、出席総務の過半数でこれを決する。ただし、名誉会長、総務会議長、総務会副議長、総務、会長選出委員会委員、監正審査員、中央審査員、責任役員および監事の選出については、総務総数の3分の2以上の多数を必要とする。
登録:
投稿 (Atom)