『闇は暁を求めて』 ルネ・ユイグ氏との対談(講談社・1981年10月発刊P44~、P53~)より抜粋
しかし、原子力エネルギーは、石油の場合よりもずっと恐るべき汚染をひきおこす危険があります。私がここで提起したい問題は、人類は今後ますます大量のエネルギー資源を必要とすることが正しいかどうかという点です。
※緊急追記・転載
「創価の大道」さんhttp://twitter.com/sokanodaidouより引用
機関誌「大白蓮華」 1981年(昭和56年)3月号
ルネ・ユイグ/池田大作 対談『 闇は暁を求めて 』
現代の危機 「原発について」
池田 : さて、石油の枯渇にそなえて、それに代わるエネルギー資源が現在探求されていますが、その第一候補と目されているのが核エネルギー、原子力エネルギーです。
これについては、あなたのお国のフランスでも、相当、力を入れていると聞いています。
物質的欲望の追求を正しいとみとめる観点に立てば、これは正しいというべきでしょう。しかし、もし、この大前提から問い直すならば、エネルギー消費も減少の方向に向かうことが可能であるかもしれないのです。そうしたエネルギー消費の減少をめざしたうえで、汚染を生ぜず、しかも枯渇しないエネルギー資源の開発に取り組むべきだと思います。
ユイグ : 原子力エネルギーが不可欠の代替エネルギーになると仮定しても、この解決は汚染という新しい危険を、これまで以上にはげしいものにするでしょう。
この点はいまやより身近なものとして、その全体観から研究する必要があります。
原子力エネルギーに対して危険性を感情的に指摘している世論が危険を誇張している面はあるにしても、大丈夫だという専門家たちの議論も少し自己満足的のように見えます。
予防の確実さについての技術者の信頼は、ときおり裏切られるものです。
1978年、イギリスのある工場で生じた放射線の漏洩は何週間にもわたって気づかれないまま、働いている人びとの大部分の健康を害したのでした。
事物の自然の働きの中では、視覚、聴覚、嗅覚、あるいは味覚等の感覚が私たちに急を知らせるようになっており、それによって、私たちは危険を見破ることができます。
核の危険の場合は、私たちの器官が反応するのは損傷を受けたあとで、その
ときは、もうおそいのです。
ただ、人工の探知機だけが、それもたまた運よく使ったときに、防御の役をしてくれることがあります。
池田 : 私は、資源全般の消費に対する考え方の転換が全人類に徹底されなければならないと訴えるとともに、とくに原子力エネルギーの問題は、過去に人類がぶつかってきたいかなる問題とも質を異にしていることに気づくべきだと言いたいのです。
つまり、蓄積されている量がある限界まで達しなければ無害か、有害であっても致命的でないのが、核以外の物質の汚染でした。ところが、原子力エネルギーの廃棄物の場合は、それがどんなに少量であろうと、かならず致命的な害を及ぼします。
その意味で、原子力エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとえ平和利用であっても、慎重に考慮すべきであると考えます。 そして、もし、絶対的に、永久的に安全な、廃棄物の処理法が発見されれば、そのときはじめて利用を再会してもよいと思います。
しかし、それまでは、いったん中止しても、危険な廃棄物を生じないエネルギー資源の開発、循環可能で枯渇の恐れないエネルギー資源の開発に、現代科学の総力を傾注して取り組むべきであると思うのです。
※緊急追記・転載
「創価の大道」さんhttp://twitter.com/sokanodaidouより引用
機関誌「大白蓮華」 1981年(昭和56年)3月号
ルネ・ユイグ/池田大作 対談『 闇は暁を求めて 』