●上海列車事故の記憶
その一週間前、私は高知学芸中を卒業した。その卒業式で、校長の佐野先生は学芸創立30周年の記念として、今高校の修学旅行団が中国に行っておりますと話をしていた。佐野校長は朝礼だとか集会がある度に平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」という言葉から話を始め、最後は中国の悠久たる大地がどうのこうのとか、蘇州のどこそこはこうだとかで話を終える、とにかく中国好きな人だった。その日はまた話が異様に長く、かなりの人が眠りへと誘われていた。学芸は私立の中高一貫教育校であり、ついでに予備校まで作ってしまうような、いわゆる進学校の類いに入るものである。また、殊更にスポーツが強いとか東大に何十人も合格する訳でも無い、高知県外の人なら誰も知らないような平凡な、そして平和な進学校でしかなかった。
卒業式から一週間後、夕飯も終えた七時過ぎ、ニュース速報が入った。飛行機でもまた墜ちたかなと思いつつそれを見ると、高知県の私立高校の修学旅行団を乗せた列車が上海郊外にて前から来た列車と正面衝突した模様とのテロップが出ていた。県内の高校で中国に修学旅行団を出しているのは明徳義塾と学芸だけで、随分前に明徳が中国に出発という記事が出ていた事を覚えていた事と、卒業式の校長の話からもそれが学芸である事はすぐに理解できた。地元テレビ局に勤めている父はすぐに会社に確認の電話を入れ始め、私もラジオを点けて情報の入るのを待った。暫くして、学校名は高知学芸高校との速報が流れた。親戚からもまだ高校には入ってなかったよなという確認の電話が鳴り始め、友達との電話ではまあ大した事は無いだろうという話になった。
情報はそれ以来、途切れてしまった。しかし、その間にもテレビ局は続々と学芸の校舎を映し始めていた。あの校舎に局の配線が何本と走り、あの教室に旅行団の生徒たちの親が集まる姿が映し出される。少しずつ自分の学校が突如置かれた状況が理解できるようになってきた。少なくとも学芸は大事故に巻き込まれたようだ。11時のニュースからは事故の全貌が明らかになりはじめた。現場は単線の信号所、中国では鉄道事故が最近多発していたこと、そして死者がでた模様だと。しかし新華社からの情報はまばらで、二名とか十何名とか全く状況が読めない。旅行団参加者の名簿が発表されたりするうち、108名の生存者がホテルで飯を食べている映像が入り、2名の死者の名前が明らかになる。事故現場の映像も流された。傍観者としてでしか居られない私の目に映るのは、まず死者は2名で済むようなものでは無いということと、生存の生徒たちの親とまだ不明の生徒の親たちの表情の差異であった。
翌朝、母が私を起こしに来るなり、「川添先生が、亡くなったみたいよ」と言った。川添先生は剣道で名を馳せた人であった。体は大きく、校内で歩いてる時はいつもハワイ土産っぽい柄の短パンをはいていた。剣道部の顧問であり、私が中一の時仮入部はしたもののすぐやめようとした際、随分と叱られた。しかし、校内でばったり会う時には口癖のように「元気でやりゆうかえ」とにこにこしながら聞かれた。その川添先生が死んだという。校内にはもう一人川添姓の先生が居るし、まだ解らないと言い聞かせたが、やはりあの川添先生であった。もはや、事故は大した事ない等と言っていられるような状況では無くなっていたのだ。
父が学芸の生徒名簿を貸してくれ、といった。何故だろうか、私はその時貸そうとしなかった。貸せるか、とすら思ったように記憶している。私は泣いて抵抗していた。父は局における旅行団参加者の確認作業のために名簿を貸してくれ、と言っている。確かに父にそれを貸した所で私が損をするとか、何かに使うようなあても無い。しかし、貸したくなかった。あの朝の食卓の情景は、未だ忘れられない。外は暗く、室内の電気が煌々としていた様に思う。テレビは学芸の風景と親たちの憔悴しきった顔、事故現場を流し続ける。今までに経験したことも無い動揺と無気力感が私の体を支配していた。父の名簿への固執は、父の義務の為の作業に思えてならなかった。それへの反発と、この動揺を停めて欲しい気持ちで、私は貸せなかったように今思う。結局貸したかどうかは、覚えていない。
昼過ぎスーパーに飯を買いに行くと、号外が出ていた。その頃には死者は二十七名にまで増えていた。その中で知り合いの人は川添先生一人で、先輩で知っている人はいなかった。その晩だったか、生存の生徒が高知空港に帰って来た。校長、生徒代表、JTB職員による会見が空港ですぐさま行われた。まず始めにそれぞれの名前を言って下さい、と記者の一人が言い、校長の次に生徒代表が名前を言った。その途端、記者が「もっと大きな声で言って下さい!」と怒鳴った。一体何を考えているのだろうか。自分たちを何様だと思っているのだろうか。この日、同じ様な感じで生徒を迎える親たちと記者たちの間で幾つかのもめごとがあったという。俺たちが伝えてやっているんだ、といった風の傲慢な記者たちの態度には疑問を持たざるを得ない。その取材対象である人の感情や心理を全く無視して取材を行った所で、一体どうして真実を伝えることが出来ようか。視聴者の受けを気にし、特ダネを追い求める余りマスコミが忘れ去ったものは大きい。
そして27日、二十七人の遺体が高知空港へと着いた。何百人もの人が空港に仮設された安置所に並ぶ棺に手を合わせた。ひときわ大きな棺は川添先生である。
29日、私はかねてより予定していた島根の祖父母の家に向かった。行くか行くまいか、ずっと迷っていたが、このまま高知にいて事故のニュース漬けになっていては気が狂いそうだった。ただひたすら頭の中を上海とか3月24日とか二十七名等といった言葉が駆け巡り、他の思考が居る場も無かったのだ。島根に行って、少し高知から、学芸から離れたかった。島根では、祖母と鳥取砂丘に行った。祖父からは戦争や会社時代に行った中国の話を聞いた。楽ではあったが、どうしても空しさは消えない。何をやっても、何処へ行っても、離れないのだ。何処へ行っても雑誌に、テレビに学芸という字が踊っている。何処へ行っても忘れることが出来ないのだ。
4月8日、私は学芸高校に入学した。別に入学と言っても、単に先生と教室が変わるだけの話で、何の感動も無い。違うのはテレビカメラに囲まれ、佐野校長の長い中国話が事故のことばかりになった事だった。そして昨年度の皆勤、精勤の生徒の名前が発表された。その中には亡くなった人の名前が幾つもあり、親たちの席からはすすり泣きの声が漏れた。それはとても入学式の風景と言えるものでは無かった。私はF組に入ったのだが、オリエンテーションで担任が元々このクラスの担任予定は川添先生だったという。もう何から何まで列車事故が染み付いている。
5月29日、県と学校による合同慰霊式が行われた。二十七の遺影が並び、学芸の校章が大きな花輪となり、天皇からの花までもが両脇に置かれていた。一人一人の亡くなった生徒への親からの言葉を読んでいたアナウンサーがその中途に泣き出した。大きな県民体育館全体が重い空気で充満していた。
6月7日、美術の時間中に資料を図書館で探していた時、突然臨時放送が入った。校長が静かな口調で悲しいことを伝えねばなりません、と言った。ずっと重体であった生徒が亡くなったという。上海とか中国という言葉に無意識の状態においてもその人は泣いて首を振ったという。事故で足を失いながらも、体調は快方に向かっていたというだけに心が痛む。一緒にいた友人と黙祷をした。 事故に遭った学年の教室はいつまでも席の後ろが空いていた。教室の脇には遺影が花とともに飾られ、新しくメモリアルルームという部屋もつくられた。そこには旅行の途中の集合写真や千羽鶴が置かれ、いつでも開放されている。学校の敷地の一隅には慰霊碑が建てられた。
事故から六年、記憶はどんどん薄れてゆく。忘れてはいけない、忘れてはいけないと毎日一度はいつのまにかあの事故の、あの日の情景を思い出している。それは全く無意識のうちに、ふっと気が付いたら頭の中を流れているという感じだ。しかし、人間の脳というものは都合良く出来たもので、少しづつ何かを忘れていっている気がする。こうして文章にしてみると、それが本当によく分かる。3月24日の速報の瞬間から、どんどん記憶が希薄になっていくのだ。
今も4遺族が学芸と裁判で係争中である。学芸側が旅行行程の下見をしていなかった事や、事故後の遺族に対する誠意の欠如など、金銭でなく心の問題を争点に、高知地裁で口頭弁論を行っている。まだ、事故は終わっていないのだ。
デジタルの時計をふと見たら、何故か3・2・4の配列に出くわす事が多い。ただ他の瞬間のそれを覚えていないだけなのだろうか。3月24日が近くなるにつれてあの事故の事ばかりが気になってしようがない。そして、3月24日になると何も考えられなくなる。事故のことばかりが頭を駆け巡る。そして、必ず黙祷する。24日を過ぎると、ほっとする。そして、そこからまた記憶が薄れてゆく。忘れたくない、忘れたくもない。でも、忘れてしまう。ホントに都合のいい、どうでもいいような事ばかり入れて大事な事を忘れる頭である。でも、やっぱりこれからもこれを繰り返すに違いない。そうこうしているうちに、今年も24日が過ぎてしまった。
◆九四年秋、高知地裁で上海列車事故の判決が下された。学芸高校側の下見の不十分を厳しく批判したうえで、遺族側(途中一遺族が訴訟取り下げ)の損害賠償請求を「学校側の事故の予見は不可能だった」として棄却した。遺族側は控訴を見送り、裁判は終了した。
Camera Talk第5号(1994.6)所収
このテキストは、1992年頃に原稿用紙に殴り書きしてあったものを、94年に当時大学で発行していた「camera talk」に掲載したものです。
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コメント
確かこのニュース速報の時、鳥人間コンテスト見てたんだよな。ええーそりゃ大変だっつって、鈍感な私は自分の学校とはすぐには気付かなかったです。明徳か?なんて。
朝になって見覚えある写真が映された時も現実感がなくて、春休み中だったから友達の家(そいつも学芸)行って一日中ファミスタやってたですよ。でもなんか無言で。
このことについてはあえて触れなかったのか、あまり高校時代みんな話さなかったような気がするね。
やっぱり忘れていくもんだけども、毎年春になると思い出すし上海と聞くとどうしても連想してしまう。でも不謹慎だろうけど人は死ぬということを親類以外で最初に思い知ったことであり、生きてるうちはやりたいことをやろうと思うようになった時でありました。ていうかやりたいことをやれとタケムラに言われた私。
まあそんなことはいいんですが。今度帰省したら学芸寄ってみようかななんて思います。
...増田って生きてるのかな?
Posted by: ヒライ | 2005年09月27日 22:31
実感なかったね。そして語らなかったね。
でも、結局あの事故から事故の学年が卒業するまでの3年間、
誰もが「黙した」がゆえか、その後も誰もが黙したまま。
いま、学芸関係の人であの事故のことを伝えようとしている人っているのか?
伝えないでいいこととは思えないんだけど。
てゆかおいらそんなこというたっけ?
だとしたらおいらあんまり昔から変わってないな(笑)
増ばあね。うーん。生きていると思うけど・・・
Posted by: 18 | 2005年09月28日 01:14
同じ地区にお住まいだった
ご姉妹のお姉さんがこの事故で亡くなられました。
特に親しいというわけでもなく、
私より一つ下の妹さんが
小学校のとき、生徒会の活動をしてたので、
妹さんの方をよく知ってました。
事故後、憔悴した妹さんがTVに映っているのを見て
えーーーっ!?と思ったものでした。
事故当時普通に校区にあたる
公立中学に通っていた私は
学芸って高校の修学旅行海外ながや〜
なんてあらためてびっくりしたものです。
当時は衝撃が大きかったですが、
確かに、記憶の中でも風化しつつある事故で、
改めて思い出しました。
と、同時に大学生のときにバイク事故で、
また社会人になってから仕事中に事故で亡くなった
高校時代のクラスメートのことを思い出しました。
この二人は仲がよくて、
クラスのムードメーカー的な
男の子たちだったので。
Posted by: たんぽぽ | 2005年09月28日 13:33
すっかり風化していますよね。学芸自体が忘れ去ろうとしている感じもします。
でも、上のヒライ君も書いていますが、3月24日が近づくといつも心のどこかが濁りだします。自分たちは直接事故に遭った訳ではないけど、いまだにどこかやりきれないものがある、そんな感じ。。。
Posted by: 18 | 2005年09月28日 17:18
上海事故は教育者とか学校とか、嫌いなものをより嫌いにしてしまった。
祖母も教諭だったし、親類や知り合いにも教育者は多いのだが、本当は嫌いだ。
事故の後、前に勤めておられた先生のお嬢さんが亡くなられたというのでお通夜に参った。
きれいなお顔で、同じ年の娘がいたから生きていさえすればというご両親の思いが伝わってきた。
我が家の墓の前を通って毎朝夕にきれいにお花で飾られたお墓に参る親御さんも居られた。
祖母が100歳でなくなったのに、余りまじめに通わなかった頃だ。父は亡くなられた子の祖父から「下司君、少しは墓参りしいや」と忠告されていた。
当時、思ったのはアメリカではこんなときには臨床心理などを現地に派遣して、フォローするのに日本ではしないんだということだった。
裁判でもそんなことは触れられなかったと思うのだが、今の今からすれば不十分な対応だったのではないかと思う、当時の余りにも遅れた日本の「平均的な水準」ではなかったかと思う。
そして、その後に裁判を起こした親御さんたちがいるとの報には、私は裁判ということのよしあしよりもそうしなければ生きていけない切羽詰ったものを感じた。
学芸の親御さんたちの地位や学歴などは、高知県でも恵まれた方が多く含まれ、その中であえて裁判に訴えるメリットは「大人」の感覚ではない。
あえて、そのような道をとらざるを得ないもの、生きていさえすればという思いは何よりも多かったのだろう。
裁判の後で、学校へ行けない子供たちの援助に向かった親御さんたちもいたという話を聞いてそうしなければならない、突き動かすものの大きさを感じた。
嫌いなものの正体、それは学校の先生は自分を語れないといういことだ。
「教え子を再び戦場へ送らない」という誓などもう期待しても無理だろうし、県庁の知事行政職に比べても教職の飲酒運転の多さなどは、自らを解き放てない集団であることをよりよく語っているのだと思う。
川添先生のお父さんには小津高校の授業で戦後復活した学校剣道を習ったことがある。
胴着等はGHQの命令で軍国主義がもっとも強かった海南(現在の小津)の校庭で焼き払われてから15年もたった頃だった。
お父さんに似ておられたようで、そんな先生なら一生懸命に学んでみたいと思っている。
Posted by: 下司孝之 | 2006年02月08日 23:05
実際、悪夢のような出来事でした。20年近くたった今でも、鮮明にあのことが思い出されました。
私の親は高知学芸高校の教員でした。上海列車事故にも引率として同行しておりました。(引率教員には当番制があり、その年は当番ではなかったが、引率欠員のため出発半月前に急きょ引率指示)
「修学旅行で初の中国に行くでェ」と親が電話してきたのを覚えています。
当の私は大学4年を迎え様としていました。関東の大学に在籍中で、その時は、友人10数名と伊豆旅行をしておりました。
3.24 夜 夕食を終え民宿に戻ると事故の一報を見ました。最初は親の中国行きの事も忘れていて「大変やぁ」とTVを見ていました。次第に事故の大きさが分かり、親の安否も分からなくなっていました。
3.24 深夜 実家に連絡をしました。親の消息は以前分からず、「中国へ行け」と叔母からTELを受け(遺体の場合、確認が困難らしく)呆然としましました。
3.25 朝 高知行きの航空券を手配すれど移動の時期でもあり翌日の航空券しか手配できませんでした。
3.25 夜 臨時便にて中国より第一陣が帰国。帰国名簿に親の名あり。
3.26 夕 高知へ・・・。報道陣が待ち受ける総合病院へ駆けつけました。何重の身元確認チェック後、やっと病室にたどり着けました。そこには、骨盤が縦に骨折した親が、「中国に生徒が残っている。早く行かんといかん。早く行かんといかん。」という傷だらけの親がいました。
3.27~ 病院にて 同便で帰国できた負傷された生徒さんが何人もお見舞いに来ていただけました。ほとんどの方が怪我をされており、現場を見てきた生徒さんでした。そのときは必ず私は廊下に出てじっと待っていました。中からは「○○さん!」、「先生~!」って言って号泣する声ばかりでした。
50日後 退院 メンタル的なこともあり50日間親の看護で24時間寝泊りしました。大学に戻れたのはGW明けのことでした。この間のことは一生忘れることはできません。亡くなられた生徒さんのご両親から罵倒されることもあり、また、同情もされることもありました。同乗された生徒さんからは心からの励ましを頂き涙することもありました。しかし、私の親の事故への責任はこの日から始まりました。
現在 桜の時期になるといつもご遺族への弔問をしています。家に入れて頂けないご遺族は道路から手を合わせているそうです。
親は、あれから熟睡することはありません。薬で眠り、うなされて起きる毎日です。私をはじめ親類は加害者なのかもしれないし、被害者の親を「もう忘れろう」と言ってあげたいです。でも、この言葉は亡くなられた生徒さんを決して忘れない親にとって、決して言ってはならない言葉だと誰もが感じています。
学校側の色々な報道がされてきました。関係した職員はもうほとんど退職しています。風化しているとはこのことです。誰が悪くて、正しかったのか・・・・
それを知っているのは上海に行った200名の方たちだと思います。
Posted by: 悪夢 | 2007年07月23日 00:59
今年で早くも20年。私の姉と兄が卒業生で、姉は犠牲者の同級生であります。姉は幸い先の班で事故には合わなかったものの、姉は地元の同級生をなくしました。(しかも実家が近くで幡多地区しかいえませんが)翌月に兄が入学しましたが、それからは国内ばかりだそうですね。あれは衝撃的で、当時小学校だった私は今でもはっきり覚えています。
社会人になって4年くらい学芸の近くで一人暮らしをしていましたが、だんだん風化しているように感じます。
今は香川にいますが、今日の朝の四国のニュースで今年で20年と報道があり、忘れかけていた出来事がよみがえりました。
列車事故関連の報道では姉がよくインタビューに出ていて(慰霊式と卒業式と2回もインタビューされた)、姉は小学校から一緒だった同級生をなくしているので重々しい感じでインタビューに答えていたように思います。
この事故を風化させないためには、姉を含めた同級生や先生が語り継ぐ以外他はないでしょうね。
Posted by: HYの妹 | 2008年03月24日 21:37
初めまして。ネットニュースで報告書が出たとの記事を読み、事故について調べていてこちらへ辿り着きました。
私は生まれも育ちも広島県で、当時11歳になるかならないかという年頃でしたが、ニュースで何度となく耳にしていたのでしょう、「上海列車事故」という言葉だけはなんとなく憶えています。
私がこの件について調べてみようと思ったきっかけは、wikipediaの記事中に「不可解な旅行目的」との記述が見られた事でした。ネット上にも当時の関係者の立場から書かれた記事が少なく、ご遺族のおっしゃる「誠意がない」などの『納得できない感覚』がどこから来ているのか、事件の全体像を知りたかったのです。
今回タケムラさんのテキストとコメント欄を読ませていただいて、ぼんやりとしか見えなかった事故の姿がようやく見えてきました。改めて、在校生・職員・そのご家族など、当時の「現場(学校)」を知る方にしかわからない感覚があるものだとつくづく感じました。
このような出来事を思い出し語るのは苦しい事でしょうが、どのような形ででも語り継ぎ、記録を残していただきたいと思わずにいられません。ありのままに語ることで、隠されてしまった傷も癒される機会を持てるのではないかと思うからです。
長くなってしまいましたが、最後に、犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
今年の3月24日には私も黙祷させていただきます。
Posted by: ぽぽん | 2009年03月15日 23:30
平成21年4月23日の産経新聞の記事で中田喜美子さんが資料を集めているとのことで
ちょっとお知らせらせしたいのですが、、
事故の数ヶ月前に見たテレビでこの事故を
予見するような旅行業者の話を記憶しております。どう連絡したらよいかお知らせください。
以上
Posted by: 北田 | 2009年04月23日 09:42
北田さん>連絡は私にでしょうか???もしそうなら、下の「タケムラ」のところからメールできますので、よろしくおねがいします。。。
みなさま>ひさしぶりにコメント。北田さんのコメントや、20年を経て発行された報告書からふと思うのは・・
事故前に国内で中国の鉄道事情が大きく報道されていたわけではないでしょうし、もし真面目に現地調査をしていたとしても、事故の可能性が確実に予見できるかといえばまたギモンもある・・・ということでした。「事故は予見できた」という話は大事故には付き物ではあると思うんですね。予見の可能性の論議になってしまうと、意外とその論議は八方塞がりにはなりやすい。
加害者・被害者の側双方に、現実にはそれぞれ言い分があり、課題もあり・・・という側面があったりするとは思うのです。加害者側の言い分や課題というのは言うまでもないですが、被害を受けた側にとっても、(むろん被害を受けた側の過失というのは当然極めて小さいわけですが)「被害を受ける可能性の予見」があったかどうか、というのも少しだけ問題になると思うのです。
当時は、いまみたいにネットがある時代でもなく一般人が海外情勢を簡単に知れる時代でもありませんでしたから、その予見をするための情報も不足していましたし、調べる手だても少なかったわけです。おそらく、学校も被害を受けた生徒側も同様に、手だてが無い。
その中で、上海に行く。まさかこれだけの事故になる・ならないの問題はともかく、双方が「情報が無いところへ旅にいく。そこで起きるアクシデントの可能性」を予見するべきではあったろう、とは思うのです。覚悟と置き換えてもいいかもしれない。
たとえば飛行機に乗るなら、おいらは墜落のリスクをいっつも少しだけ考えるんですね。ちょっと部屋をきれいにして旅に出るとか。隣町に行くのとは訳が違うので、やっぱりそう思う。家族や知人が乗るのでも、ちょっと気になるぐらいですし、WBCで選手がみんな同じ飛行機で渡米するのを聞いても少しだけドキドキします。
まあこれはもしかすると私自身がこの事故を第三者的に経験したゆえの習慣なのかも知れませんが、こういう事故が起きてしまうと、結局は事故を誰も予見できなかった、というところへなんとなく帰着してしまうので、「事故の予見性」そのものが論点になってしまうとどこか混乱していく。裁判はその泥沼にはまっていったいい例だと思いますし、ボンバルディアの事故問題で高知新聞が陥っているところもこのあたりのような気がする。
今回の事故で一番あかんのは、こういう予見の話ではなく、やはり学校側の責任感のなさや遺族への思いのなさ(慰霊祭での校長のコメントとかもそうだし、何しろ20年もかかって報告書をつくるというだらしなさ)ですよね。
こういう学校の最悪の姿勢がなければ、いまなお和解されていない遺族の方もここまではこじれなかったでしょうし、きっとどこかで許すラインができたはず。
だけど、学校はそのラインをいつまでも真剣に引こうとはせず、20年放置して「もうだいぶ忘れたんちゃう」みたいな頃に報告書を出して来て、「担当が変わって」だの「文言を調整して」だのまるでどこかの三流役人のような言い訳を平気でする。これが裁判が終わって2、3年目とかに出たのならまだわかるけど、20年も引っ張る言い訳になんかなるはずがない。
そうかこの姿勢だから裁判になり、慰霊碑にも入らない方がいるんだと改めて思いました。結局、学校側は誰も責任を持とうとしてない。「佐野校長が中国大好きだったから行くことになったがよ〜、やき責任はうちらあにはない」ぐらいにしか思ってないんじゃいかと思えてくる。
HYの妹さんが書いているような「先生が語り残す」こともしてないのでしょう。メモリアルルームつくって慰霊祭を毎年していればそれでいい、にもしなってるなら、まさにそれは風化。学芸のページにはもちろん事故のことなんてひとつも出ていないですし、今後は追加の調査も特にしない雰囲気。
上海列車事故の検索でうちが一番になるようじゃホントはあかんのです。
Posted by: タケムラ | 2009年04月23日 11:02
北田さん
あり。メアドが出ませんね
office@camera-talk.com
までどうぞ。
Posted by: タケムラ | 2009年04月24日 17:21
投稿、記入がうまくいかないので短くします。
被害者の元会長、矢野さんに連絡出来ました
古い話ですが詳しく話して於きました。
要は事故の数ヶ月前に讀賣テレビのイレブンピーエムの後番組の江本選手が司会していた番組に出ていた、旅行業者の一人が事故の危険を話をしていたと言う事です。外国人が乗る列車が単線部分で前に来る事も話してました。わたしは事故の知らせにヤッパリ起こったなと思いました。以上
Posted by: 北田 | 2009年04月26日 02:48
先の投稿内容の補填です、断片的になりご免なさい。
私の住む地域に近いところで起きたJR福知山線の脱線事故の記事が産経新聞に掲載されていました。この事故の原因は、15秒、30秒単位の窮屈な運転時間を守ることを要求されていた運転手の精神的な余裕の無いことも原因の一つですが、危険な急カーブの処に安全装置を設置しなかった、利益重視の経営者達の予見の無さが原因だと私は考えてます。
関連記事の中で上海列車事故の話があり亡くなった女子高生の母上の中田喜美子さんが資料を集めていたとの一文が有りこれを見て中田さんにお知らせしたいと思いました。
結果、産経新聞社では駄目で、高知新聞の広報のUさんに説明して、中田さんに伝えてくれるように話しましたが伝わって無いようでした。 その後 、上海事故の遺族会の元会長に連絡が出来たのでこの内容を話しました。
前回の投稿の補填ですが、テレビ番組では3人の旅行業者がいくつかの旅行先の話をしていたのですが中の一人が中国の或る路線では外国人と中国人が乗る車両がハッキリ区別され後方だった外国人の車両が単線部分で前部に変わると話してました、その他、安全を憂慮すべきことが有るのでその方面への旅行は止めた方がいいとハッキリ言ってました。当時は中国への旅行者が多かったのでしょう。この番組を司会していた元野球選手の江本氏は関係者が気を付ければいいのでしょうと締めくくってました。
この番組は多くの人が見たはずなのに事故の追憶の話の中に此の件が出てこないので
私の心にづっと引っかかてました。
21年もすぎてから遺族の方にこの話を伝えて良かったかどうかと私は現在考えています。
読売テレビで此の番組の音声記録だけでも調査してくれるコネが有ればいいのですが。
また、当時イレブンピーエムや此の後番組などは高知方面では放送してなかったかも知れませんが。
今更、何の役にも立たないでしょうが、当時、こんな旅行業者が居たことを皆さんに知ってもらいたいのです。 以上
Posted by: 北田 | 2009年04月28日 23:57