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旧関東軍細菌部隊の人体実験

米で批判再燃 TV、フィルム放映




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1985年12月7日(朝日新聞)

旧関東軍細菌部隊の人体実験
米で批判再燃 TV、フィルム放映


【ワシントン6日=岩村特派員】パールハーバーデー(真珠湾奇襲の日)を7日に控え、米国内で旧日本軍の人体実験問題がにわかに関心を集めている。ABCテレビが5日夜のゴールデンアワーに、旧満州の関東軍細菌部隊(731部隊)の残虐行為をドキュメンタリー番組として紹介したのに続き、6日には下院退役軍人問題委員会のウィリアムズ議員(民主)がこの番組を受けて「人体実験の被害を受けた米国人の実態を調査し、医療補助などの補償措置をとるべきだ」と米政府に対策を求める記者会見を行ったためだ。同委員会の小委員会では来年3月ごろまでに公聴会を開く相談も進んでおり、旧日本軍の人体実験が米議会で取り上げられる公算が出てきた。

テレビ番組は、マッカーサー元帥のもとで日本占領直後に731部隊の研究成果の米国への引き渡しと引き換えに、同部隊幹部らの戦犯訴追を免責するのに携わった当時の米軍医中佐、マレー・サンダース博士(75)が英国のテレビ局のためにまとめた写真やフィルム、文書の写しで構成された。「丸太」と呼ばれた中国人や旧連合軍捕虜でチフスやコレラなどの細菌を植え付けられた、との指摘に、番組を見た人たちは、「日本軍がこんなことをしていたとは知らなかった」「旧ナチスと同じ残虐ぶりだ」と、衝撃を広げた。
6日のウィリアムズ議員の会見には、フロリダ州から病気を押して駆けつけたサンダース博士(元コロンビア大教授=細菌学)が同席。「731部隊の人体実験は、天皇も知っていたと思う」と発言。軍医中佐として同部隊の研究調査に当たった際、日本側の説明役だった故内藤良一氏(731部隊長の参謀格といわれた。ミドリ十字会長となり、82年7月に死去)から再三にわたり「人体実験は絶対にやっていない」と言われたのを信じて免責を決めた、といきさつを説明。「しかし、その後人体実験の事実が判明し、免責は全くの誤りだった」と語った。
ウィリアムズ議員は、「ソ連、中国、英国、オーストラリア、米国の兵士らが、数千人も、捕虜として旧満州の731部隊に連れてこられ、モルモットにされた」と糾弾。多くの米兵が被害を受けたのに、米政府がこれまで補償措置を講じてこなかったのは、日本との「取引」のいきさつを明らかにするのを恐れたためだ、と指摘して、これらの被害者が高齢化しつつある現在、医療助成を急ぐべきだ、と主張した。
米兵の被害の実態については、同議員は「米政府が調べるべきだ」とする一方、「開戦翌年の42年に1000人以上の米人捕虜が連れてこられ、その冬のうちに半分は死んでしまった」と述べた。
同議員の事務所によると、地元のモンタナ州全体で「旧満州で日本軍による人体実験に使われた」という人が4人判明している、といい、いずれもいまだにマラリアの発熱や体調不振に悩まされているという。



【参考文献】

七三一部隊関係
石井四郎  (第一・三代部隊長)
北野政次  (第二代部隊長)         ミドリ十字共同設立者・取締役/日本学術会議南極特別委員/文部省百日咳研究会
吉村寿人  (凍傷研究班)          京都府立医科大学学長/日本学術会議南極特別委員/生気象学会会長
笠原四郎  (ウイルス研究班)        北里研究所
田中英雄  (ペストノミ研究班)       大阪市立大学医学部長
湊政雄   (コレラ研究班)         京都大学教授
田部井和  (チフス研究班)         京都大学細菌学教授/兵庫県立医科大学教授
所安夫   (流行性出血熱研究班)      東京大学教授/帝京大学教授
江島真平  (赤痢研究班)          国立予防衛生研究所
二木秀雄  (結核研究班)          ミドリ十字共同設立者
岡本耕造  (病理研究班)          京都大学医学部長/近畿大学医学部長
石川太刀雄丸(病理研究班)          金沢大学医学部長/金沢大学癌研究所所長/日本学術会議会員
草味政夫  (薬理研究班)          昭和薬科大学教授
八木沢行正 (植物学研究班)         国立予防衛生研究所/日本抗生物質学術協議会理事
朝比奈正二郎(発疹チフス・ワクチン製造班)  国立予防衛生研究所
園口忠男  (細菌戦研究班)         陸上自衛隊衛生学校副校長
増田美保  (細菌戦研究班)         防衛大学校教授
安東洪次  (大連支部長)          東京大学伝染病研究所教授/実験動物中央研究所所長
春日忠善  (大連支部長)          北里研究所/文部省百日咳研究会

村田良介  (南京一六四四部隊)       国立予防衛生研究所所長(第七代)
小川透   (南京一六四四部隊)       名古屋市立大学医学部教授

陸軍軍医学校防疫研究室関係
内藤良一  (陸軍軍医学校防疫研究室)    ミドリ十字共同設立者・社長・会長
宮川米次  (東京帝国大学伝染病研究所長)  東芝生物物理化学研究所所長
緒方富雄  (東京帝国大学伝染病研究所助教授)東京大学医学部教授
細谷省吾  (東京帝国大学伝染病研究所教授) 東京大学伝染病研究所教授
柳沢謙   (結核研究)           国立予防衛生研究所所長(第五代)
小島三郎  (東京帝国大学伝染病研究所教授) 国立予防衛生研究所所長(第二代)
小林六造  (京都帝国大学教授)       国立予防衛生研究所所長(初代)
戸田正三  (京都帝国大学教授)       南極特別委員/金沢大学学長
木村廉   (京都帝国大学教授)       日本医学会副会頭/名古屋市立大学学長
正路倫之助 (京都帝国大学教授)       第一期学術会議会員



【関連記事】

「捕虜400人を焼殺」 元関東軍隊員ら大阪で証言
大阪市浪速区で開かれている「平和のための戦争展」に3日、「悪魔の飽食」の作家森村誠一氏らが訪れ、旧関東軍防疫給水部本部第731部隊(関東軍細菌戦部隊)の元隊員ら4人と対面、4人は「終戦時、400人の捕虜を焼き殺した」などと語り、伝えられている80―100人を大きく上回る新事実を明らかにした。同部隊は第2次大戦中の中国で、残虐な人体実験やペスト、コレラ菌などで細菌爆弾を開発して使用、森村氏が「悪魔の飽食」で小説化した。(日本経済新聞 1982/08/04)

慶応大学で731部隊人体実験の報告書見つかる 細菌戦の活動裏付け
旧関東軍731部隊(部隊長・石井四郎元中将)が戦時中、中国ハルビン市郊外で毒ガスや破傷風菌を使って行った人体実験報告書の原本2冊がこのほど見つかった。慶応義塾大学太平洋戦争史研究会(代表・田中明経済学部教授)が東京・神田の古書店で入手したもので、同研究会では「同部隊の人体実験について文献的な証拠が発見されたことは大きな意義がある」と話している。
見つかった報告書は「きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察」と「破傷風毒素並芽胞接種時ニ於ケル筋「クロナキシー」ニ就テ」の2冊。
両報告書の分析を進めている同会の松村高夫・同大経済学部教授によると「きい弾…」と題する報告書は猛毒のイペリットガスを使った実験結果をまとめたもので、表紙には「加茂部隊」(731部隊の別名)と書かれ、「極秘」印が押されている。
実験は昭和15年9月、3ケタの番号をつけた中国人捕虜ら21人を対象に行われ、さまざまな条件下でイペリット弾を発射し、毒ガスを浴びた「被験者」の症状を記述。計3200発のイペリットを浴びた「被験者」は翌日になっておう吐を繰り返し、体に無数の水ほうができたことなどが書かれている。
また毒ガス水溶液を飲ませたり、「被験者」の水ほうの内容液を他の人間に接種するなどの実験結果も報告されている。(日本経済新聞 1984/08/15)

旧陸軍の細菌兵器開発 軍医学校防疫研究室が中枢 手足に731部隊使う
作家の山中さん 極秘報告書を発見
旧満州でひそかに細菌兵器開発をしていた旧関東軍防疫給水部(満州第731部隊)の部隊長、石井四郎元軍医中将(終戦時)が、731部隊に先立って組織した陸軍軍医学校防疫研究室(東京都新宿区)の極秘の研究報告書が、作家の山中恒さん(57)の手でこのほど見つかった。日本の細菌戦研究については戦後、米国陸軍の調査団が石井元中将らから聴取した報告などがあるが、いずれも関係者の供述が中心。関係書類は、ほとんど空襲のために焼けたか破棄されたといい、現物が見つかったのは極めて珍しい。旧日本軍の細菌兵器開発はこれまで、生体実験で知られる731部隊が中心とされてきた。しかし、この資料によって、防疫研究室は「石井機関」とも呼ぶべき大掛かりなネットワークの中枢にあり、731部隊など「防疫」を“隠れみの”にした実践部隊を手足に研究を進めていたことが、初めて裏付けられた形だ。

見つかったのは『陸軍軍医学校防疫研究報告』で、昭和14年から19年までの研究のうち、第2部10号から947号までの間の61冊。うち22冊にはマル秘と記されている。表紙には表題のほかに分類番号、受付期日と印刷部数などが表示されている。第510号の「陸軍軍医学校防疫研究報告十進分類法」には、研究報告の分類法が事細かに書かれており、見つかった報告書が、膨大な研究報告の一部であることをうかがわせる。
報告は、日中戦争での延べ1万人を超える陸軍防疫機関の組織や活動をはじめ、コレラやペスト菌の大量培養、フグ毒の大量精製、輸血のための乾燥血しょう技術など広い範囲に及ぶ。特に注目されるのは、第99号の「支那事変ニ新設セラレタル陸軍防疫機関運用ノ効果卜将来戦ニ対スル方針並ニ予防接種ノ効果ニ就(つい)テ」。昭和15年3月30日、当時軍医大佐だった石井元中将が、陸軍軍医学校で開かれた軍陣医薬学会で講演した記録だ。
それによると、固定の防疫機関として、昭和11年9月に関東軍防疫給水部がハルビンに作られた。その後14年5月までに、中国の大学や病院を占拠して北京の天壇中央防疫所に北支那防疫給水部、南京中央病院に中支那防疫給水部、広東中山大学に南支那防疫給水部が設けられ、それぞれに支部、出張所があった。
また(1)関東軍防疫給水部は220人の将校、技師を含む1836人の組織で、他の固定機関も600人から1200人規模の組織だった(2)各225人で構成されていた師団防疫給水部などを加え、15年当時までの日中戦争に陸軍防疫機関全体で、将校、技師、下士官、技手、兵、雇員合わせて延べ1万45人が動員された、などもわかった。
山中さんは、戦争中、乾パンに珪藻(けいそう)土が混ぜられたという話を追って文献を探していた62年夏、都内の古書店でこの報告書を入手した。その後、資料の歴史的価値に気づき、『消えた細菌戦部隊』『標的・イシイ』などの著書がある常石敬一・長崎大教授(科学史)と分析してきた。
また複数の元防疫研究室員も、当時の資料であることを確認した。
日本の細菌戦研究は、攻撃的な研究や生体実験は満州で行われ、東京の軍医学校は防御的な基礎研究に限られたというのが通説だ。しかし第99号の報告の中で石井元中将は、「将来の方針」として「陸軍軍医学校を拡充して全般の基礎的研究に重点を置き、戦地では、この実際的応用の研究に邁進(まいしん)する必要がある」と述べており、防疫研究室の中枢機能を高め、防疫給水機関との連携をさらに強めようとしていたことも明らかになった。

<陸軍軍医学校防疫研究室> 欧米を視察した石井元中将の提唱で、731部隊の編成より4年前の昭和7年8月、新宿区戸山の同校内に設置された。米軍の調査では、軍医学校の9割以上が空襲で破壊され、細菌戦に関するすべてのファイルがなくなったとされる。新潟にあった支所で記録が発見されたという報告もあるが、その所在は現在のところ不明だ。

<関東軍防疫給水部> 創設者の石井四郎元軍医中将の名をとって「石井部隊」とも呼ばれる。旧満州のハルビン近郊にあり、多数の中国人、ソ連人らを細菌兵器研究などのために生体実験したといわれる。(朝日新聞 1988/08/21)

見えぬ兵器、見えぬ研究 「公表できぬ」暗い記述
「石井機関」報告書
旧関東軍防疫給水部(満州第731部隊)の細菌兵器研究は、これまで、部隊長だった石井四郎元軍医中将が、日本から遠く離れた地で行った「暴走行為」といった受けとめ方が多かった。しかし、今回見つかった『陸軍軍医学校防疫研究報告』によると、東京の軍医学校との緊密な連携があったことが明らかになった。細菌兵器の研究は極度に機密性が高く、報告書でもあからさまな記述はないが、公に出来ない研究が行われていたことは随所にうかがわれる。こうした資料が戦後43年を経て見つかったことに、関係者は驚きを隠さない。

伏せ字の用途

第99号の報告で石井元中将は「昭和8年以来、特殊の研究に従事致しまして」としている。昭和8年は、軍医学校の隣に防疫研究室が新築され、「石井機関」が正式に発足した年といえる。また報告には「基礎的の諸実験は何(いず)れも満州で行ひましたので、ここに公表の自由を持たないのは全く遺憾であります」「満州某地に於て行ひました特殊の実験の結果はここに申し上げる訳にはなりません」などという表現もみえる。
731部隊を追いかけ、『悪魔の飽食』を書いた作家の森村誠一さん(55)は、第130号「ペスト菌発育促進物質の研究 第二編 大量生産の研究」に注目する。「ペストこそ731部隊の研究の本命。ソ連の南下に対する抑止力にしようとしていた。関係者の証言でわかっていたが、裏付ける研究報告が見つかったのは初めてでしょう」というのだ。
この報告は改良培地の試験結果だが、その「総括及結論」には「改良培地上のペスト菌は著しく発育旺盛にして○○用、診断用、予防接種用として適当なるものと認む」と書かれている。
○○用とは何なのか。
元防疫研究室軍医大尉の小酒井望・順天堂大学浦安病院長(70)は「想像だが、攻撃用でしょう。防疫研究室の研究の半分以上は防衛的なものだったが、細菌戦は核抑止論と同じで、敵以上の攻撃力がないと防衛できないとされた」という。
米国公文書館にある米軍の調査報告書『トンプソン・リポート』には、石井元中将の片腕といわれた防疫研究室教官、内藤良一元軍医中佐(終戦時)が「(軍医学校では)生物戦の攻撃的側面を含む研究も行われていた」と述べ、その例として「食糧に対する謀略に使える安定した毒物の発見につとめた」としている。『リポート』はこの一例にフグ毒を挙げている。フグ毒は食物に混ぜても味が変わらず、フグを食べる習慣のない国では中毒の原因が分かりにくい。そのため要人の暗殺用に考えられていたという。
見つかった研究報告の第639号と第696号が、フグ毒に関するものだ。第639号は、文献の集成。第696号の「河豚(フグ)毒の大量精製法に関する研究」は、フグの卵巣の抽出法を見きわめたとしている。

保管と処分は

これらの研究報告はだれが作り、どこに保管されていたのか。9冊の表紙には「編集(委員)内藤」の活字が、墨で消されているのが見える。また第135号には、丸で囲んだ「内藤」のサインが赤鉛筆で記されている。
これについて、「こういう研究の統括は内藤元中佐が一手に引き受けていた」というのは、19年8月から終戦直後まで防疫研究室にいた福見秀雄・元国立予防衛生研究所長(74)。内藤氏は、のちミドリ十字会長になり、57年に亡くなった。
福見さんによると、恩師に当たる小島三郎・元国立予防衛生研究所長が、こうした研究報告書を自宅に保管していた。しかし、終戦直後軍の命令で全部処分したという。

大学の学者も

報告には軍医以外の研究者の名前もある。米軍の調査記録を『標的・イシイ』にまとめた常石敬一・長崎大学教授(44)は「石井元中将の母校京都大学や東京大学など、主要な大学から学者が嘱託で研究に加わっていた」という。
「これまで731部隊の残虐行為にばかり焦点が当たってきたが、実際はその陰に隠れていた防疫研究室が『石井機関』のかなめだった。嘱託研究者は、軍医学校の委託研究費がもらえるほか、満州での生体実験のデータも手を汚さず入手できた。こうした研究者の閉鎖社会が“石井機関”を生み、支えていた。現在まで、それについての反省がないことに批判の目が向けられなければいけないだろう」と指摘する。(朝日新聞 1988/08/21)

細菌戦731部隊の活動 謎の実態、赤裸々に
元隊員の供述調書もとに出版 フリーライター入手
「私はマルタ(細菌実験用の捕虜)を使って生体実験の比較テストを行った」「林口支部は1カ月15キロの細菌生産能力があった」──。ペスト、コレラなどの細菌を兵器に転用してその大量開発を行い、国際法上禁止されている細菌戦を遂行しようとした旧関東軍細菌戦部隊(石井731部隊)。部隊長の石井四郎陸軍軍医中将ら元幹部は敗戦直前に関連軍事施設を破壊させていち早く逃亡、戦後も口をつぐんだため、いまだにその全容は謎(なぞ)に包まれている。だが、中年のフリーライターの執念が実って、元隊員が中国官僚の取り調べに対して、細菌戦部隊の活動の実態を赤裸々に語った供述調書のコピーの入手に成功、それが『殺戮工廠・731部隊』(新森書房)という本にまとめられ、関心を集めている。(白井 久也記者)

このフリーライターは、兵庫県・裏六甲出身の滝谷二郎氏。39歳。
滝谷氏は十数年前から、仕事の関係でチベット、シルクロード、大興安嶺など中国の秘境を訪ね歩き、近年は黒竜江沿岸地帯の少数民族問題などを追いかけてきた。86年8月、この取材の根拠地となった黒竜江省のハルビン郊外の平房にある石井731部隊跡地の建物を改造した記念館で偶然、元隊員の証言記録を見つけた。戦後、中国官憲に逮捕された元隊員が撫順の戦犯管理所で、尋問に答えた供述調書の一部であった。

滝谷氏は731部隊の悪業の数々を糾弾した森村誠一著のベストセラー『悪魔の飽食』(正続)を読んでいたが、元隊員の重々しい証言に接するのは初めて。「何とかその全部を入手できないものか」と思い立ち、記念館関係者の示唆を頼りに探し回った結果、ついにその所在を突き止めることに成功した。
だが、供述調書は「某所で極秘書類として保管されており」部外持ち出しは厳禁だった。そこで、翌87年11月に訪中したとき「長年、中国で仕事を通じて培った独自のルートを活用、複数の中国人協力者を得ることができ、何回にも分けて供述調書をコピーしてもらって、日本に持ち帰った」という。

滝谷氏が入手したのは、石井731部隊林口支部長の榊原秀夫軍医少佐ら計4人の供述調書。榊原氏はその中で、同部隊の任務や組織について詳細な供述をする一方、林口支部は対ソ細菌戦遂行のため、終戦時には本部の命令により、チフス、パラチフス、コレラなどの細菌の保存培養や量産を行い、1カ月15キロの細菌を生産できる態勢になっていたほか、隊員たちに細菌戦教育などをしていたことを暴露している。
また、同部隊第4部三谷班員の上田弥太郎氏は、ペスト菌を注射されたマルタの生体実験の比較テストや、死体解剖の事実を供述。さらに同部隊少年隊員の田村良雄氏は、細菌弾爆破によるマルタの生体実験に参加して、マルタ12人の殺害行為に加わったなどと述べている。
このほか、同部隊実習軍医の山下昇氏は細菌の生体実験の助手を務めていたが、これ以上人殺しの手伝いを続けるのはごめんだと同部隊を脱走、憲兵隊に逮捕され、敗戦後一時シベリアに抑留されたことなどを調書の中で明らかにしている。
滝谷氏は供述調書が本物かどうかを確かめるため、戦後、中国から帰国した4人の消息を追いかけ、榊原、田村両氏の居所が分かった。榊原氏は病気療養中のため、面会ができなかった。だが、88年に3回訪中したとき、中ソ国境地帯の林口支部の跡地を訪ね、「榊原調書の証言内容を実地検証によって確認」し、証言が本当だという確信を得た、という。
また、田村氏とは直接面談して「私の供述調書である」との確認を取った。上田、山下氏は所在が分からず、調書の確認が取れなかったが、コピーの入手経路から判断して、これまた「本物であることは間違いない」との結論に達した、としている。

滝谷氏の本は、石井731部隊本部があった平房周辺の村民が、同部隊から逃げ出したネズミがまいたペスト菌に感染して大量死亡した事件の中国側の被害報告なども収録しており、『悪魔の飽食』を書いた作家の森村誠一氏は、自著と比較しながら、次のように語っている。
「私の本は731部隊の残酷オンパレードではなく、戦争の構造や戦争の非人間性をえぐる戦争諭の各論として書いた。滝谷氏の本は戦争論について筆があまりさかれていないが、生の記録がそのまま収録され、私の本よりもより具体性があり、戦争論の各論として優れている」
731部隊員には、部隊解散のさい(1)731の軍歴を隠せ(2)一切の公職につくな(3)隊員相互間の連絡は禁ずとの命令が下された。しかし、幹部は精魂会というOB会を組織、相互間の連絡は密で、戦後、医学や薬学界、地方政界、実業界などで指導的立場についた名士も少なくない。これに対して中、下級隊員の中には長く中国で戦犯容疑者として管理所に収容され、戦後10年もたってから復員、恵まれた職もなく、苦労した人が多い。
滝谷氏が入手した供述調書が「自分のものだ」と認めた田村氏はすでに退職の身。昔のことを振り返ると「初めは何も分からなかったが、途中から意識してやり、取り返しのつかない悪いことをした」と心が痛んでならない。「服罪して責任の一端を果たしたが、全部を果たしたわけではなく、戦争責任解明の道義的責任があり、それを果たすことが日本が被害を与えたアジアの国々に対するせめてもの償いだ」。田村氏はこうして今も、「重い過去」を背負いながら、昔の戦犯仲間と一緒に「反戦・平和」を唱え、余生を日中友好にささげている。

細菌兵器の研究・開発は、近年の遺伝子組み換え技術の目覚ましい発展によって、新しい段階を迎えた。長年、科学者の立場から細菌兵器の問題を追いかけ、『消えた細菌戦部隊』という著書の中で、石井731部隊の残虐非道を告発した常石敬一神奈川大学教授は「731部隊の問題をうやむやにすると、強力な生物(細菌)兵器がつくり出される恐れがある」と警告している。(朝日新聞 1989/06/22)

細菌戦 緊迫の法廷「関東軍731部隊」のハバロフスク軍事裁判
写真を入手 「生体実験」を暴露 41年前ソ連側撮影
敗戦時の関東軍総司令官山田乙三陸軍大将(故人)ら12人が1949年12月、ソ連に対する細菌戦の準備と遂行にかかわったとして、罪に問われた「関東軍細菌戦部隊ハバロフスク軍事裁判」から、今年は41年。朝日新聞社はこのほど、この裁判の模様をソ連カメラマンが撮影した貴重な記録写真を入手した。極東シベリアのハバロフスク市の士官会館で行われた裁判は公開で、収容人員約800人の軍事法廷の傍聴席は連日超満員だったという。6日間にわたる審理ののち、山田元大将ら12人全員に有罪判決が下された。(白井 久也記者)

日本の在満関東軍は戦時中、将来の細菌戦に備えて、現在の中国・黒竜江省の省都、ハルビン市郊外の平房地区に建設された「満州731部隊」(部隊長 石井四郎陸軍軍医中将)の軍事基地で、細菌兵器の研究・開発を極秘に行っていた。1945年8月9日、対日参戦したソ連軍は、この軍事基地を急襲したが、石井中将ら731部隊の幹部はいち早く日本へ逃走したため、山田元大将ら関東軍幹部と逃げ遅れた731部隊員らを逮捕、身柄を本国へ送還した。山田元大将らはハバロフスクで厳しい取り調べを受けたのち、計12人が細菌兵器の準備と使用にかかわった罪で、起訴された。

士官会館を舞台に

軍事裁判は1949年12月25日から30日まで、ハバロフスク市の士官会館講堂で開かれた。裁判の焦点は(1)731部隊がどのようにして、細菌兵器の研究・開発を行ったか(2)量産化された細菌兵器が、実際に対ソ戦に使用されたかどうか(3)被告たちはこれらの過程に、どのようなかかわりを持っていたか──などの立証にあった。
裁判が進むにつれて、731部隊が大量のネズミとノミを飼い、ペスト菌、炭疽(たんそ)菌、チフス菌、コレラ菌などを生産、抗日運動や情報活動を行ったかどで捕らえられた中国人、ソ連人、朝鮮人の囚人に対して、細菌の生体実験を行った事実が、暴零された。生物化学者として、このとき証人台に立ったオリガ・ルキニチナ・コズロフスカヤさん(72)は、「私たちはいつも病気を治すために闘っていたのに、彼らは何と人殺しをやっていた」と身の毛のよだつ思いで、日本人被告の証言を聞いたという。
山田元大将はソ連国家検事の尋問に対して、関東軍最高司令官として、細菌戦準備と細菌兵器を製造する731部隊を統括、ソ連だけではなく、中国、モンゴルや米国、英国などにも細菌兵器を使用する考えがあったと、陳述した。また、731部隊・西俊英軍医中佐はソ連国家検事の尋問に対して、731部隊が1939年のノモンハン事件(ハルハ川会戦)で、細菌兵器を使用したと証言した。

率直に容疑認める

予審段階で、ソ連側調査官グループの日本語通訳班長を務めた、ゲオルギー・ゲオルギビチ・ペルミャコフさん(73)は、裁判の模様を回想しながら、「山田元大将ら日本人被告の法廷での態度は、尊敬に値するものだった」と、次のように語った。
「ロシア人が裁かれる裁判は、普通、予審で罪状を認めておきながら、法廷では否認する例が多い。これに対して、山田元大将らは予審で証拠がない容疑事実は否認したが、証拠を突きつけられると率直に認めた。また、法廷では起訴事実をはっきり認め、否認することはなかった。この正直な態度は、裁判官や傍聴人の心証に、よい影響を与えた」
年の瀬も迫った12月30日の軍事法廷で、裁判長のチェルトコフ法務少将は、判決を下した。山田元大将、梶塚隆二元陸軍軍医中将、川島清元陸軍軍医少将ら将官4人は25年の禁固労役刑、その他8人の被告は2年から20年の禁固労役刑だった。

中国には「証拠陳列館」

歴史的な軍事裁判が行われた士官会館は、アムール川を望む文化と休息の公園沿いの坂道の途中にある。軍事法廷が設営された講堂は、正面玄関から入った1階の突き当たりにあり、中をのぞくと士官の研修会が開かれていた。会館の大きな催しはここで行われ、映画の上映や子供劇場などにもよく使われるという話であった。
41年前のハバロフスク軍車裁判が、ソ連で語られることはいまやまれである。だが、731部隊本部があったハルビン郊外の平房では、当時の建物の一部が「中国を侵略した731部隊犯罪証拠陳列館」(韓暁館長)に改造され、一般に公開されている。
昨年夏、女性説明員の曹雪莉さん(20)の案内で、館内を見た。731部隊で細菌研究や、細菌兵器の開発に従事した研究者、学者、技師らが生体解剖用に使ったとされる器具、生体解剖した臓器などをホルマリンに漬けて収蔵するガラス容器、細菌実験用のフラスコなどに交じって、陶製の細菌爆弾が展示されていた。曹さんは、語る。
「年間約2万人の参観者があります。そのうち外国人は約1500人で、9割が日本人です。女性の中には参観中に、気分が悪くなったり、突然、吐き出したりする人がいます。これまでに十数人の元731部隊員がやってきて、展示品を見ながら、涙を流していました」
帰りがけに訪問帳のページをくっていたら、北京在住の日本人女子留学生の次のような感想文が、目にとまった。
「ここへ来て初めて、戦争の悲惨さを痛感しました。多くの日本人はこういった事実をまともに見る機会が非常に少ないように思います。日本の教科書では、日本帝国主義の犯した罪を詳細に語っていません。私は日本へ帰って、少しでも多くの人にここを参観した状況を語り、また、ハルビンに来る人がいたらここを参観するようすすめます。……」(朝日新聞 1990/02/05)

旧日本軍の細菌研究所、シンガポールに存在? 地元紙報道
【シンガポール20日=大橋記者】シンガポールの英字紙「ストレーツ・タイムズ」はこのほど、細菌戦研究で知られる旧日本軍731部隊の関連研究施設が第2次世界大戦中、占領下の同国に存在した疑いが強い、と報じた。当時、伝染病の研究施設で働いたことのある元閣僚の証言に基づくものとしている。
同紙によると、証言したのは元社会問題相のオスマン・ウオックさん(67)。大戦中の1942年から2年間、シンガポールを占領していた日本軍の「防疫実験所」で助手として働き、ねずみからノミをとる仕事をした。ノミは伝染病の血清を注射されたねずみに移されたという。
オスマンさんは当時、この実験所の研究目的を知らなかったが、関係者には危険な施設との認識があった。日本人の所員が誤って病原菌を持ったねずみに手をかまれ、間もなく死亡する事故があった。
実験所があったのは現在、保健省関連施設が入っているビル。当時は軍の複合施設の一部で、「オカ9420部隊」と呼ばれていたという。(日本経済新聞 1991/09/21)

旧日本軍が毒薬人体実験 帝銀事件捜査資料に研究員証言
弁護団解読『平沢氏無罪の根拠』
戦後史のナゾの1つといわれる帝銀事件で、昭和62年に獄中死した平沢貞通元死刑囚=当時(95)=の再審を請求し続けている弁護団が18日までに、これまで判読不能で“幻の資料”といわれた、当時の警視庁捜査官の捜査日誌を解読した。日誌には、旧軍関係者の証言で旧陸軍特殊部隊による中国、ロシア人捕虜などに対する毒薬人体実験の実態が生々しくつづられており、大きな反響を呼びそうだ。
捜査日誌は、昭和23年の事件発生当時、警視庁捜査1課係長だった甲斐文助警部(55年死去)が、陸軍技術研究所の元研究員や元特務機関員らに捜査員が事情聴取した内容を記録したもの。「甲斐日誌」とも呼ばれ、全12冊、約3000ページに及ぶ。
甲斐氏が帝銀事件研究家に提供したものを弁護団が借り受けたが、独特の字体で書かれ読めなかったため、平沢元死刑囚の養子の武彦さん(33)らと2年半がかりで解読した。
日誌によると、元陸軍第6技術研究所の運用班員=当時(66)=は次のように証言している。(原文のまま)「人物実験を満州で行った/(略)ガスの漏れぬコムバッキングの中に入れてスイッチを捻(ひね)ると青酸ガスがすぐ出てくる/(略)人間には荷札を付けて 一号何分(注=何分で死んだかということ) 二号何分と外で見ている/処分は特設火葬場/電気仕掛けでミジンも残らないようにして仕舞う/(略)何一つ残らぬ」
昭和15年ごろ、南京の特務機関にいた人物も「三カ月いる間に青酸加里(カリ)で三人 人を殺した/(略)殺したら後は日本人の人力車が之(これ)にのせて所定の場所に行き埋める」と毒殺を告白している。
捜査は、中国人やロシア人捕虜らに細菌実験をしたとされる旧関東軍731(石井)部隊の関係者にも及んだ。ある軍医=当時(43)=は「十年十一月頃(ごろ) ハルビン郊外/精油工場で人体実験の立ち会いをした/(略)当時の薬は青酸加里をビールに入れて呑(の)ませて殺した」。別の部隊関係者も「十九年春頃 七棟の二階に捕虜がいて/七十人位(看守の鍵=かぎ=を取り)が革命歌を歌って騒ぎ出した/之を全部殺した(ガスで殺した)」と捕虜殺人の様子を証言している。
また、同日誌によると、陸軍第9技術研究所の元技術大尉=当時(36)=は「若(も)し青酸加里を使ふ場合よく青酸加里の特徴を研究した大家か、若(もし)くは全く素人がやる以外一般化学者はそういう即効性のもので十六人も殺すことはできない(危険で)青酸ニトリールの方がやり良い」と証言。弁護団は、事件で使われた毒物は、確定判決で認定された青酸カリでなかった、としている。
日誌の全容を解読した弁護団では「甲斐手記は平沢氏の無罪の証明だけでなく旧日本軍の過去の罪の告発でもある」と話している。

<帝銀事件> 昭和23年1月、東京都豊島区の帝国銀行支店に中年の男が訪れ「近くでチフスが発生したので、予防薬を飲んでほしい」と行員に薬液を飲ませ、12人が青酸中毒で死亡。男は現金16万円余りを奪って逃げた。
捜査当局は犯人が残した名刺などからテンペラ画家平沢貞通元死刑囚を強盗殺人罪などで起訴。平沢元死刑囚は公判では否認したが最高裁で死刑が確定。病死後も弁護団が再審請求を続けている。同事件では毒物を使った手口などから、旧軍関係者も事情聴取の対象となっていた。(中日新聞 1992/01/19)

731部隊 新資料発見 旧ソ連の軍事裁判
伝聞情報を省き手堅く組み立て
中国大陸で細菌戦の研究や人体実験をした旧日本軍731部隊の関係者を裁いた「ハバロフスク軍事裁判」の新資料が、ロシア国立古文書館にあったことがわかった。裁判記録の内容の信ぴょう性についてはこれまで疑問とする見方もあったが、新資料からは旧ソ連が裁判の2年前に人体実験の実態をつかみ、手堅い情報に絞って公判を組み立てた過程がうかがえる。
資料は常石敬一神奈川大教授とTBSモスクワ支局の調査チームが入手した。「ハバロフスク裁判起訴準備書面のための資料」「ハバロフスク裁判検事局資料」「日本の細菌戦準備に関する資料」で、計約3000ページに及ぶ。
部隊の元部長や関東軍軍医部長ら10人の日本語尋問調書も、この中に含まれている。それによると、(1)兵器開発のための細菌生産(2)捕らえられた中国人やソ連人らへの人体実験(3)細菌兵器の使用など、内容の多くは裁判で明らかにされた事柄と重なっている。
だが、ハバロフスク裁判には出てこなかった証言もある。
たとえば、関東軍防疫給水部支部の庶務係が、ノミやネズミを731部隊に運んでいた他の軍属からの伝聞、と断ったうえで述べた調書では「収容者ヲ電流ニテ凍結サセ後復活サス」「静脈ニ空気ヲ注射シ瞬間死亡後解剖」などの人体実験を挙げている。
ところが、これらの内容は、同庶務係が裁判で証人に立った際には証言から省かれている。
既に出版されている公判記録と、今回の資料を読み比べた常石教授は、(1)伝聞情報を裁判での証言内容から省き、確実な情報で公判を組み立てている(2)10人のうち、裁判の2年前の1947年に尋問を受けている6人全員が、人体実験の事実を直接・間接に認めており、ソ連が裁判の準備に時間的な余裕を持っていたことがわかる、と指摘する。そのうえで、「ハバロフスク裁判は戦勝国が捕虜を裁いたことから、証言が任意性に欠けるという評価が、日本の研究者の間であったが、この資料で裁判の手堅さが明らかになった」と語っている。(朝日新聞 1993/08/12)

「人体実験の手助けした」
731部隊の元少年隊員 戦争集会で証言 高山
【岐阜県】旧日本軍の「731部隊」の関係者2人が証言する集会が10日夜、高山市鉄砲町の真蓮寺で開かれた。就任直後の細川首相はこの日「侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」と、踏み込んで発言したが、集会で、侵華日軍第731部隊罪証陳列館の館長として長年、同部隊を研究している韓暁(ハン・シャオ)さん=中国ハルビン市=は「日本が中国でやったことなのだから、日本人が中国へ来て調べるのが当然だ」などと述べた。
“悪魔の部隊”とも呼ばれる同部隊は、関東軍防疫給水部として創設された。細菌(生物)兵器の研究・製造段階で、強制連行した中国人やソ連人約3000人を人体実験したといわれているが、実態は不明な点が多い。集会での証言者は、韓さんと同部隊の少年隊員だった篠塚良夫さん=千葉県八日市場市在住。
韓さんによると、部隊は細菌研究、防疫、伝染病予防など8部門で活動。「特別輸送」の名目で中国全土から人を集め、コレラ、チフス菌などをうえ付けての人体実験を行った。
また「歴史は忘れることができない。当時の様子を知るため遺族を捜して聞き取り調査しているが、記録がないため困っており、日本側の協力を望んでいる」と述べた。
篠塚さんは「試験的に細菌兵器を使ったことがあるはずだ。人体実験や人体解剖の際に2度、手助けしており、日本軍による残虐行為があったのは間違いない。実験段階で多くの中国人たちが殺されており、実戦に使用されたのと同じ被害があった」と証言した。
また、韓さんが旧731部隊関係者ら日本側の協力を要請したのに対して、篠塚さんは少年隊員だったため詳細を知らないとしながらも「強制連行した中国人の名前を記憶している人もいるだろうが、731部隊の元兵士らの中には『非常に愛国心が強い人ばかりだから、今も全員が口を割らないはずだ』と話す人もいる」と話した。(中日新聞 1993/08/12)

731部隊 細菌戦、日本側にも資料 防衛庁所蔵
軍が人体実験奨励
防衛庁防衛研究所図書館に所蔵されている陸軍幹部の業務日誌などから、旧満州でペストやコレラ菌を使った細菌兵器をひそかに開発していた旧関東軍防疫給水部(731部隊)が中国各地で実際に細菌兵器を使っていたことを示す記述が見つかった。専門家によると、731部隊の細菌戦は中国側の資料などで公表されていたが、日本側の資料によって裏付けられたのは初めてという。サモア、オーストラリアや米軍に奪われたサイパンを取り戻すための細菌作戦も記されている。日誌の中には、細菌による人体実験を奨励する参謀本部の意向や、細菌の使用を軍中央が正式な作戦命令として出していた事実も記載されていた。
見つけたのは、学者らでつくる「日本の戦争責任資料センター」(代表・荒井信一駿河台大学教授)の研究者グループ。防衛研究所図番館に保管されている参謀本部の作戦参謀の日誌や陸軍省医務局医事課長の備忘録などに、731部隊に関する記述が含まれていた。会議の内容や連絡事項、作戦命令などが克明にメモされている。
作戦課にいた参謀の日誌によると、1941年11月25日付には、11月4日早朝に、97式軽爆撃機1機が、中国湖南省の常徳で36キロのアワ(ペスト菌のついたノミ)を散布した記載がある。2週間後には「11月20日頃猛烈ナル『ペスト』流行(中国側)各戦区ヨリ衛生材料ヲ集結シアリ」と戦果を報告している。
これより前の40年9月18日付には、細菌戦の攻撃目標として寧波、金華、玉山、温州、台州、麗水など中国各地の名が挙げられている。10月7日には「今迄(まで)ノ攻撃回数六回」とし、具体的な細菌の散布方法を検討している。
米国立公文書館に保存されている42年3月付の中国政府の資料「中国における日本による細菌戦の企て」によると、寧波への細菌戦は40年10月27日に行われ99人がペストに感染して死亡、金華は11月28日、常徳へは41年11月4日に行われており、時期的にも符合する。
今回明らかになった日誌などには、42年5月、参謀本部に731部隊の部隊長石井少将ら部隊の幹部を集めて、細菌戦実施の大本営陸軍部指示を伝達したことが記されている。
また、陸軍医事課長の44年5月付の備忘録には、「丸太」(まるた=人体実験された捕虜)が「500名」収容されていて、「傷者ノ一〇%―三〇%発症」など、実験結果とみられる記載がある。同じ日付で、「丸太使用実験ハ中央トシテ大イニ軍事的ニ重要ナ事」と、人体実験を奨励している。(朝日新聞 1993/08/14)

細菌戦「士気上ル」「三週間後ペスト猛威」
731隊員、日誌で報告 対米使用も検討
戦後48年間、隠され続けていた731部隊の細菌作戦の実態を示す陸軍幹部の日誌類が防衛庁防衛研究所図書館に眠っていた。コレラやチフス、ペストなどの細菌を空や陸上から散布する作戦は暗号で「ホ号」と呼ばれていた。作戦が成功して「部隊ノ士気上ル」と報告する731部隊の隊員。誤って多くの日本兵が細菌戦の犠牲になった事件をきっかけに一時は消極的になるが、終戦間際には、再び米軍に対して使用することを検討し始めるなど、細菌戦の実態が浮き彫りになった。
1941年11月4日に中国の常徳で細菌戦を実施した後の12月2日付の参謀本部作戦参謀の日誌には、参謀の報告が記されている。「(細菌戦)実施後約十日バカリニテ常徳付近ペスト 三週間後(判読不明)ヨリ常徳ヲ中心トスル散布ニテハ『ペスト』猖(しょう)ケツ(猛威)ヲ極メアリ」
フィリピンのバターン半島では日本軍に対して米軍が抵抗していた42年3月に、細菌戦が検討されていた。「マニラニ五十―百名ヲ置クコト(細菌)千キロ位ヲ十回位必要 爆弾三百発位アルベシ」として、具体的な作戦計画を示す地図が描かれている。
さらに4月には、サモア、アラスカ・ダッチハーバーなどでも細菌戦を実施する計画を示している。
5月27日、731部隊の部隊長である石井四郎少将ら部隊の幹部が参謀本部に集められた。14日から始まった浙〓(せっかん)作戦に細菌戦を実施するためとみられる打ち合わせで、「機密保持ニ注意 飛行機ハ新散布器ヲツケタル九九双発機ヲ使用ス 友軍ノ感染防御」などの注意が与えられ、同月30日、大本営陸軍部指示が下された。
後に米軍の捕虜となった日本兵が米軍に対して証言した内容をまとめた米軍資料がすでに明らかになっているが、それによると、浙〓作戦で、日本兵が誤って汚染地域に入ってしまったため、1万人以上が赤痢やコレラ、ペストにかかって、うち1700人以上が死んだ、という。
作戦の責任問題については、当時陸軍大臣を兼ねていた東条英機首相の言葉として「自分ハ陸相テアリ首相テアリ総長テアリ自分ノ責任タ」(本人が出席していたかは不明)と紹介されている。
さらに、44年7月にサイパンが陥落した後は、サイパンやグアムに細菌戦を実施する計画が進められたが、細菌の生産が追いつかないなどのために、最終的には終戦間際の45年7月24日には医務局長が「ホ号ハ全面的ニ中止」と決断している。(朝日新聞 1993/08/14)

731部隊中国人犠牲者 遺族の追悼を予研側が拒否
旧日本陸軍の細菌戦部隊「731部隊」の犠牲者の遺骨ではないかとの指摘も出た人骨が多数見つかった東京都新宿区の国立予防衛生研究所(予研、山崎修道所長)で今月5日、731部隊による人体実験の犠牲となった中国人遺族が献花、追悼しようとしたところ、拒否されていたことが21日までに分かった。
拒否した理由について、厚生省は「発見された人骨と731部隊の関連ははっきりしていない」と説明しているが、中国から遺族らを招いた市民団体代表大島孝一さん(76)は「関連がはっきりしていないのは政府が真相解明の努力を怠ってきたからで、拒否するのはおかしい」と話している。
人骨は平成元年7月、予研の敷地内から掘り出された。現場は戦前、旧陸軍軍医学校があった場所。同校に細菌戦研究の統括機関があったとされることなどから人骨と731部隊との関連が指摘されたが、調査に当たった新宿区は昨年、明確な結論は出なかった、と発表した。
市民団体によると、731部隊による人体実験で夫を亡くしたという中国人女性(72)らが今月初め、日本各地の集会に招かれて来日したのを機会に、遺骨発掘現場に花をささげて追悼することを要望したが、厚生省や予研側は拒否した。(中日新聞 1993/08/22)

旧日本軍の細菌戦施設跡 マレーシアで確認 日本の研究者ら
【タンポイ(マレーシア・ジョホール州)17日=竹信悦夫】太平洋戦争中、旧日本軍が進めていたペスト菌兵器の開発研究と製造のための秘密施設の活動跡が17日までに、マレー半島南端ジョホール州の精神病院の構内で確認された。「ペスト菌の培養のほか、菌を媒介するネズミやノミの飼育、繁殖など実用化へ向けての研究が進められていた」とする関係者の証言をもとに、高嶋伸欣・筑波大付属高校教諭ら民間の研究グループが、現地調査して見つけた。同教諭は、今回の調査結果を12月に発行予定の「季刊戦争責任研究」第2号に発表する。
確認された施設は、旧日本軍の5つの細菌戦部隊の1つ、南方軍防疫給水部の活動跡。ジョホール州都ジョホールバルの北東約13キロのタンポイにある精神病院「プルマイ病院」にあった。
手がかりになったのは、同部隊の軍属だった静岡県浜松市在住の竹花京一さん(80)が91年12月に自費出版した回想記「ノミと鼠とペスト菌を見てきた話−ある若者の従軍記」。自らが目撃した細菌戦部隊の活動ぶりを記すとともに、その所在地について「タンポイ高原に位置す」とした。
さらに「時計台のついた2階建ての(中略)本部建物」を基点に建物が点在するなどと施設の特徴を描いており、高嶋教諭と日本人留学生らが今年初めから踏査して捜し出した。
竹花さんの著書によると、この研究施設ではペスト菌で兵器をつくるため、菌株の保持・培養、ネズミにペスト菌を注射し、その血液をノミに吸収させる毒化作業などが行われ、使われるネズミやノミも構内で飼育、繁殖させていた。
同病院の記録では、同病院は1937年に創設。太平洋戦争で日本軍に接収され、「日本占領期は兵士のキャンプとして使用された」となっている。
最も秘密性が高い研究施設跡とみられる一角は、病院敷地内の中心部にあり、高さ3―4メートルのコンクリート塀で周囲からは内部が見えない。今も服役中の患者などが収容され、立ち入りは禁止されている。
高嶋教諭は、「これまでの調査では、ここでは生体実験には至らず、ペスト・ノミの生産までだったと判断しているが、その当否を見極めるためにも関係者の協力をお願いしたい」と話している。

<旧日本軍の細菌戦部隊> 旧日本軍は、森村誠一氏が「悪魔の飽食」シリーズで取り上げた関東軍防疫給水部(731部隊・本部ハルビン)をはじめ、北京、南京、広東、シンガポールをそれぞれ本部とする計5つの細菌戦部隊を持っていたことが、各種の資料で明らかになっている。しかし、731部隊以外の部隊に関しては、不明の部分が多く、実態はほとんど解明されていない。(朝日新聞 1993/10/18)

旧日本軍細菌戦部隊、映画に 被害、加害の双方証言
「侵略」追う市民グループ
細菌兵器開発のために、東アジアで人体実験をしていた、とされる731部隊など旧日本軍細菌戦部隊の実態を、被害者、加害者合わせて21人の証言をもとに構成したドキュメント映画「細菌戦部隊・731」(90分)が市民団体の手によってつくられた。5年間に9回の現地取材を重ね、初めて細菌戦による中国人被害者の証言も得た。ナゾの部分が多い細菌戦部隊の全体像に一歩迫る労作、と専門家は評価している。12月1日、静岡市で初公開される。(静岡支局・上林 格)

製作は映画「侵略」上映全国連絡会(本部・静岡市、会員約1000人、代表・森正孝同市立中教諭)。同会が「日本が侵略した事実を直視しよう」と、80年から作っている映画「語られなかった戦争──侵略」シリーズの5作目になる。延べ50人のスタッフが手弁当で中国、韓国などを回り、120時間分のフィルムを編集した。
取材班は一昨年、細菌戦の中国人被害者から初めて話を聞いた。製作姿勢に共感した中国政府の関係者が協力、学者らを通じて生存者らを捜し出してくれた。
中国側資料などによると、浙〓(せっかん)作戦の舞台となった浙江省義烏県崇山村には、ペスト菌に感染させたノミが投下され、村人1000人のうち約380人が死んだ、という。
映画に登場する王栄良さん(66)は両親と兄弟6人を失った。当初「思い出したくない」といやがったが、やがてぽつりぽつりと語った。「1日で20人死んだ日もあった。高熱を出し、母は水が欲しいと懇願した。父は床につめを立て、ライオンのような叫びをあげた」
寧波市の銭貴法さん(67)は、寧波作戦ただ1人の生存者。「煙のようなものを伴って落ちてきた」ペストノミに感染し、生死の境をさまよった。
88年、取材班は南京虐殺事件の取材で南京を訪れ、国立の公文書館「中国第2歴史档案館」から、1644部隊の生体実験に関する資料を入手。100人余の中国人捕虜にペストなどの病原菌を注射し、全員を死亡させたことが分かった。
同部隊の本部は現在、中国解放軍の病院になっている。日本人として初めて建物内の撮影を許され、細菌実験室、人体実験室、「マルタ」(生体実験用捕虜を当時そう呼んだ)収容所などの跡を探った。
一方、1855部隊済南支部で通訳として働いた韓国人男性(72)は今年8月、「生体実験を見た。山東省済南市から西に約8キロの集落で、コレラ菌を使った細菌戦も行った」と、新事実を明らかにした。
元隊員など加害者の日本人は、11人(うち故人1人)が登場する。
731部隊の創設者、石井四郎中将の元運転手(75)は、ペスト菌の感染実験中に縄をほどいて逃げ出した捕虜40人を、「口封じのためにトラックで次々にひき殺した」と告白した。
「解剖台に載せる時、子供だけは助けてくれ、と叫んだ中国人女性の声が、耳から離れない」。死ぬ4カ月前、初めて生体実験とのかかわりを告白した元隊員(当時80)もいた。
証言者は中、下級隊員ばかり。幹部は1人も出てこない。「彼らの口は重い。一般隊員らの証言を積み重ねるしか、真実に迫る方法はない」と森代表は語る。
上映の問い合わせは森代表(054−263−0989)へ。

当時の様子が伝わる

細菌戦部隊に詳しい常石敬一・神奈川大学教授(科学史専攻)の話 旧日本軍の細菌戦部隊について、今の段階で分かっていることを、幅広い証言者を登場させ、全体像がつかめるようにうまくまとめている。細菌戦の被害者の貴重な証言を初めて得たが、半世紀前の事実を昨日のことのように覚えており、当時の様子がよく伝わってくる。

<細菌戦部隊> 旧日本軍は1936年から41年にかけ、旧満州(部隊名731)、北京(1855)、南京(1644)、広州(8604)、シンガポール(9420)に細菌戦用の部隊を置いた。創設者は石井四郎軍医中将。
ペスト、コレラなどの細菌兵器を大量に開発し、ジュネーブ議定書(1925年)で禁止された細菌戦を遂行しようとした、とされる。スパイ容疑や抗日活動などで逮捕された中国人、ロシア人、朝鮮人らの捕虜を使った生体実験が施された。
ソ連や中国の資料によると、細菌兵器による実戦は、少なくとも寧波作戦(40年)、常徳作戦(41年)、浙〓作戦(42年)の3回ある。いずれも731、1644の両部隊がかかわり、浙〓作戦は最大規模。死者は寧波作戦が約100人、常徳作戦が36人とあるが、正確には分かっていない。
戦後、アメリカは戦犯免責を条件に、細菌兵器などの研究データを提供させ、幹部らは東京裁判を免れた。その後、医学・薬学界、実業界などで指導的立場についた人も少なくない。細菌戦実施の事実は、最近、防衛庁で見つかった資料からも裏付けられた。(朝日新聞 1993/11/30)

731部隊「細菌戦、7カ所で実施」 42年、中国での作戦
防衛庁保管日誌で確認
多数の日本兵がコレラなどにかかって死亡したといわれていた1942年の中国・浙〓(せっかん)作戦で、旧関東軍防疫給水部(731部隊)が、細菌を井戸や食物に混入させる細菌戦を実施していたことが、防衛庁防衛研究所図書館に保管されている参謀本部作戦課の参謀の日誌で確認された。当時、日本軍は「中国軍による細菌戦」と宣伝していたといわれる。この作戦で、細菌戦を裏付ける日本側の資料が明らかになったのは初めてで、専門家らは日本側の細菌戦で日本兵が犠牲になったことの裏付けになる、としている。
この日誌は今年8月、存在が明らかになった。内容を検討していた中央大学の吉見義明教授が、細菌戦の記述を見つけた。
浙〓作戦は浙〓鉄道沿線を42年5月から9月まで攻撃した。同年8月28日付の日誌に「ホ号(細菌戦の暗号)ノ実施ノ現況」として、鉄道沿線の浙江省・広信、広豊、玉山、江山、常山、衢県(くけん)、麗水などの7カ所で実施されたことが具体的に記されている。
広信、広豊、玉山ではペスト菌をネズミに注射して放したほか、米に乾燥菌を付着させてネズミ−ノミの経路で人間への感染をねらった。江山、常山では、井戸に直接入れたほか、食物につけたり果物に注射したりして実施。衢県と麗水はパラチフスをつけたノミを使っている。
さらに、この作戦に参加していた15師団と22師団について「実施地域卜関係アリ撤退後攻撃開始ス」と記している。この2つの師団が撤退を開始したのは8月19日であることから、この直後に細菌戦が開始されたとみられる。
また10月5日の日誌には、731部隊の大佐から細菌戦の結果報告があり、「(ペスト菌)ハ先ス成功?衢県T(チフス)ハ井戸ニ入レタルモ之ハ成功セシカ如シ(水中ニテトケル)」などと記されている。
捕虜になった元日本兵の証言では、約1万人がコレラなどの感染症にかかったといわれる。731部隊の研究を続けている常石敬一・神奈川大教授が集めた証言では、作戦に参加してチフスにかかった元兵士が「中国軍が細薗戦をやった、と軍から教えられた」と語ったという。
731部隊の細菌戦の経緯は、日本の戦争責任資料センターが発行している「季刊戦争責任研究」に掲載される。(朝日新聞 1993/12/22)

「細菌特攻隊 準備あった」 731部隊元隊員ら証言
日中戦争当時、中国大陸で細菌兵器の開発などをしていたとされる旧関東軍731部隊が、敗戦直前の1945年(昭和20年)初夏、玉砕覚悟で敵陣へ細菌をまく「特攻隊作戦」を準備していた、と元隊員らが語り始めた。内部では「夜桜特攻隊」とも呼ばれていたという。どれほど現実味を帯びていたかは専門家の間でも疑問があるが、緊迫した戦況を受け、細菌戦部隊にも「特攻精神」が植え付けられていた。
「細菌特攻隊」を朝日新聞記者に語ったのは、同部隊の元衛生兵で神戸市兵庫区の溝渕俊美さん(71)や四国に住む元部隊兵。溝渕さんは、元部隊兵でつくる戦友会の中心で、白分の体験や戦後に同僚らから聞いた話を整理した。
それによると、溝渕さんらは45年6月、中国各地の支部からハルビン本部の各部に転属となった。溝渕さんは教育部だったが、ペスト研究班に配属された数人が、ひそかに特攻隊の先陣を命じられたという。
四国の元隊員(今年3月に死去)は終戦前後、溝渕さんに対して、「潜水艦などで米国西海岸に夜間上陸した後、ペストノミをまいて走り回る予定だった。到着目標は45年9月22日ごろで、燃料は片道分しかない、と数えられた」と語っていた。「夜桜」の由来については「人知れず咲いて散る、という意味の通称だった」と話していたという。
また、四国に住む別の元隊員(72)は「自分以下17人の特攻隊で、8月17日に出撃する予定だった。行き先は言えない」と語り、「実際に『夜楼』という特攻隊の命名式が本部であり、自分も参加した」と話している。
一方、ペスト班の隊員の中には「細菌特攻隊など知らないし、ありえない」と話す人もいる。
45年8月9日にソ連が参戦した直後に部隊は日本に戻り始めたため、「特攻隊」は、存在していたにしても幻に終わったことになる。命令した側の731部隊幹部の証言や資料は出ていない。

実現性乏しかった

731部隊の細菌戦に詳しい常石敬一・神奈川大教授の話 細菌特攻隊は、当時のアイデアとしてはありうるが、実現性があったとは思わない。1945年になると敗色が濃くなり、部隊での細菌の増殖はほとんどストップしていたし、具体的に作戦を展開するとすれば、陸軍参謀本部の承認も必要になる。その形跡は見当たらない。真相は不明だが、隊員の士気の鼓舞を目的に、部隊内で「決死の覚悟」を確認し合っていたことは十分考えられる。

<731部隊> 旧関東軍防疫給水部の通称。部隊長の石井四郎軍医中将の名を取って「石井部隊」とも呼ばれる。1936年に正式に編成され、ハルビンに本部を置いて中国人、朝鮮人、ソ連人らに対する人体実験や、ペスト菌などを使った細菌兵器の研究開発をしていたことが資料などから分かっている。(朝日新聞 1994/05/30)

旧日本軍731部隊員が証言 人体実験で“悲劇”
あすサマーセミナー 神谷さんら発表へ
【愛知県】「軍隊ではいかなることも、任務として服従するのが当然だった」──戦時下の中国東北部(旧満州)ハルビンに本部を置き、捕虜たちに残虐な実験を繰り返したとされる旧日本軍の「731部隊」。その元隊員の証言を私立名古屋国際高校(昭和区)の神谷則明教諭(43)を中心にした教員グループが聞き取り、リポートにまとめた。「戦争で何が行われたか。何がそれを可能にしたかを、戦争を知らない世代に伝えなければ」と22日に、愛知淑徳高校(千種区)での第6回愛知サマーセミナーの中で発表する。
元隊員は名古屋市内に住む79歳の男性。終戦時、隊員には部隊の活動内容を口外しないようにと厳重な指示が出されたが、残された命は短いと思い、「自分には何一つ得になることはないが、これだけは話しておかねば」と元隊員の経歴を知って証言を頼んだ神谷教諭らに話した。
元隊員は昭和15年、25歳のときに軍属(軍所属の文官)として、731部隊に配属された。部隊の活動内容については何も知らされずに、食料係からペスト菌を扱う班にまわされ、20年8月に731部隊が解散するまで約6年勤務する。仕事は丸太(まるた)と呼ばれる人体実験に使われる捕虜たちの健康管理だった。
捕虜に1日3回食事を与え人体実験に適した健康を維持しなければならない。捕虜をやせさせ過ぎたりすると上官にしかられた。
ペスト菌を媒介させるノミを陶器製の容器にいれて丸太の頭上に飛行機から落下させる模擬細菌爆弾の実験も見た。終戦間際に、戦争犯罪の証拠を消すために丸太を毒ガスで処理する現場に立ち会った時のことなど詳しく証言した。
元隊員は部隊内での残虐行為に「それぞれの責務を果たすだけ、という気持ちしか、あのころはなかった」と振り返ったといい、神谷教諭は「個人の残虐行為だけでなく、残虐行為を受け入れてしまう人間をつくる社会や教育体制があったことが大きいと思います」と話している。
リポートは第6回愛知サマーセミナーの「広島・長崎・アウシュヴィッツ そして731部隊」の講座で発表される。市民も参加でき、入場無料。(中日新聞 1994/07/21)

731部隊施設隠滅「実験囚獄まず壊せ」
爆破の元工兵隊長 石井中将の指示証言
戦時中、旧満州(現中国東北部)ハルビン郊外で細菌兵器開発の極秘研究を進めていた旧日本軍の「731部隊」施設を敗戦直前、証拠隠滅のため破壊した部隊は、独立混成隊131旅団所属の工兵隊だったことが元隊長の証言で明らかになった。工兵部隊名が明らかになったのは初めて。
「部隊長の石井四郎軍医中将から、最初に人体実験用の囚人を収容していた特設監獄を爆破してくれ、と直接指示された」と証言した元工兵隊長は長野県駒ケ根市に住む自営業、石原勇さん(77)。独立混成隊131旅団は敗戦直前の1945年7月末、ハルビンで編成され、石原さんは編成と同時に工兵隊長として転属。施設破壊の命令を受けたのは、ソ連軍が参戦した翌日の同8月10日昼過ぎで、2個小隊約60人がトラック8台に分乗、爆薬40トンも積んで出発した。
石井中将は、部隊本部管理棟の屋上に石原さんを案内。管理棟に囲まれた特設監獄を指差しながら「(管理棟も含め)三越百貨店の3倍ぐらいあるが、最初に監獄を形が残らないように壊してくれ」と話したという。
工兵隊は監獄や実験棟、ペストやコレラ菌の話まったボンベを保管した倉庫などを次々と爆破。作業は12日朝まで続いた。石原さんは「石井中将は会うなり、日本はポツダム宣言を受諾する。戦争は負けだ、とはっきり告げた。敗戦の確かな情報をつかんでいた様子だった」と話す。
731部隊の全容を紹介する「731部隊展」全国実行委員会事務局長の渡辺登さん(64)は「工兵隊を動員したという話は伝わっていたが、部隊名は不明だった。石井隊長の指示内容まで明らかになり、破壊工作の真相を解明する貴重な証言だ」と注目している。(毎日新聞 1994/08/09)

731部隊細菌戦「置いた餅食べ死亡」
中国人らから証言 静岡のグループ
「月餅(げっペい)を食べた人たちは全身青黒くなって死んだ」──旧関東軍防疫給水部(731部隊)による細菌戦の実態を調べている静岡県の市民グループが、この夏、細菌兵器が使われたという地域を訪れ、中国人から被害を訴える生々しい証言を得た。
静岡市の中学教師、森正孝さん(52)ら6人が、中国浙江省の江山、衢(く)州の2市を訪ねた。いずれも、昨年明らかになった防衛庁防衛研究所所蔵の陸軍参謀本部作戦参謀の業務日誌などから、731部隊が細菌兵器を使ったとされる地域だ。
森さんらは、江山市路陳村の鄭蓮妹さん(62)に会い、コレラ菌が入っていたと思われる餅(もち)について聞いた。
鄭さんによると、トラックで村に来た日本軍が家の近くの竹やぶに、黄色い月餅のような餅を置いていった。食べようとしたが、嫌なにおいがしたため口にせず、2個拾って持ち帰った。それを食べた妹と、鄭さんのいいなずけの母親が下痢とおう吐を繰り返し、2人とも翌日の夕方、死んだ。村ではほかに餅を食べた十数人が死んだ──という。
衢州市の衢県は、参謀の日誌で「目標トシテ適当ナルカ如シ」(1940年9月10日)と記されている。
中国側資料では、同年10月4日、ペスト菌に感染したノミが麦と交ざった状態で飛行機からばらまかれ、翌年にかけて274人が死んだ、とされる。(朝日新聞 1994/09/06)

「実験用のノミを飼育」 731部隊展で元少年兵が活動証言 /福岡
「私の飼育したノミで数百人が死んだ。川も汚染させた。私が加害者であることは間違いありません」
小倉北区の市立商工貿易会館で開催されている「731部隊展」で17日、元少年兵だった鶴田兼敏さん(73)=佐賀県唐津市=が、配属されていた当時の活動について証言した。
鶴田さんによると、1938年11月から1年間、旧満州で関東軍防疫給水部(731部隊)で働いた。担当は昆虫班。「ブリキ缶の中に、身動きができないように金網で仕切ったネズミを入れ、ノミに血を吸わせる仕事でした。血を吸ったノミを集め、研究室に持っていく。それが、ペストの研究班だったわけです」
当時、731部隊では、ペストに感染したノミを使い、人体実験が行われたという。感染させられた中国人らは、息のあるうちに解剖され、あらゆるデータが収集されたという。
鶴田さんはノモンハン事件(1939年)の際、防疫・給水の名目で戦場へ出動。ソ連軍などへの感染を狙い川の上流に腸チフス菌をまく作戦に参加した。部隊で見聞した話を他言しないように命令されたという。
731部隊展は18日までで、同日も午後1時と3時の2回、元部隊員だった2人が当時の活動について証言する。(朝日新聞 1994/12/18)

米軍 731部隊幹部に戦犯の免責 細菌情報と引き換え
旧陸軍参謀の尋問録で判明
終戦直後の昭和20年10月、米陸軍太平洋総司令部の科学調査団が、極秘に細菌兵器開発をしていた旧関東軍防疫給水部(731部隊)幹部に対する尋問で、細菌兵器などに関する情報を入手するため戦犯の免責を与えていたことが17日、旧陸軍の元参謀(84)=東京都在住=所有の「尋問録」から明らかになった。
731部隊の戦犯の免責については、関係者の証言しかなく疑惑段階にとどまっていた。今回の尋問録は免責の事実を戦後半世紀を経て初めて文書で裏付けた。科学調査団の占領軍での地位は高く、21年から始まった戦犯を裁く東京裁判で、731部隊が審理対象にならなかった真相を解く貴重な手掛かりになりそうだ。
元参謀は特殊兵器の研究を含む科学情報全般を統括した旧陸軍の責任者。
尋問録は、石井四郎・731部隊長の片腕といわれるA大佐と、同部隊第2部所属の昆虫学者のB少佐、元参謀の3人に対して、米陸軍の生物戦研究機関キャンプ・デトリック所属のサンダース軍医中佐がそれぞれ尋問した内容が記録されている。A、B両氏が、尋問中に側近の記録したメモを基に作成し、統括責任者の元参謀に渡した2通と、元参謀の直筆1通が尋問録として元参謀の自宅に保存されていた。
それによると、サンダース中佐は元参謀への尋問で「戦争犯罪卜無関係ニ純科学的ニ調査ヲスル」と調査の趣旨を説明。B少佐への尋問でも「コレハ戦争犯罪トカヲ云々(うんぬん)スルノデナクタダ科学者トシテ話ヲ進メ度(た)イ」と戦犯問題は追及しない意向を暗に伝えている。
またA大佐の尋問録には、尋問のやり取り以外に「戦争犯罪者ノ摘発卜言フコトトハ別箇ノ問題ダカラ安心シテ話シテ貰(もら)ヒ度イト言フコトヲ……」との注釈があり、免責が尋問前に確約されていた事実を明らかにしている。
サンダース中佐は免責を与えた上で、ネズミを使った「ペストノミ」(ペスト菌に感染したノミ)の増殖方法など生物戦の情報を入手している。
サンダース中佐は同部隊の尋問を調査報告にまとめ米軍に提出しているが、戦犯免責については記載していない。元参謀は「米軍は細菌兵器に魅力を感じており(戦犯訴追より)兵器情報を強く欲しがった」と証言している。

<731部隊> 石井四郎軍医中将を部隊長に昭和11年(1936年)、中国東北部(旧満州)ハルビンで正式発足。生物戦に対する防御研究のほか、細菌爆弾の開発、ペストノミの増殖など生物兵器の応用研究を行った。「マルタ」と呼ばれる捕虜を使った人体実験は当初、米軍の調査では明らかにされなかったが、旧ソ連の捕虜となった同部隊幹部の証言などから発覚。犠牲者は3000人にものぼるといわれるが東京裁判では審理対象とならなかった。(中日新聞 1994/12/18)

731部隊が米兵にも実験 米紙報道
【ワシントン10日=共同】10日付の米紙ワシントン・タイムズは、第2次大戦中の中国大陸で細菌戦の研究をしていたとされる旧関東軍防疫給水部(通称731部隊、石井四郎部隊長)が当時の満州の奉天(現在の藩陽)で米兵捕虜に人体実験をしていたことを示す当時の米軍の報告書が見つかったと報じた。
それによると、文書は1945年12月3日付の米軍防ちょう部隊の報告書で、731部隊が「ハルビンで中国人に、ムクデン(奉天の英語名)で米国人に、それぞれ腺(せん)ペスト菌を実験として注射していた」と記録している。
米政府は、米兵が731部隊で人体実験の対象になったことについて明確な証拠がないとして認めていないが、文書を米国立公文書館で発見したグレゴリー・ロドリゲス氏は報告書の存在を、米政府が報告をもみ消していたことを示す新証拠と主張している。ロドリゲス氏の父親は42年の日本軍によるフィリピン占領後、奉天に移送された米兵捕虜1500人の1人。ロドリゲス氏は今年2月に日本に行き、広島で同部隊の元メンバーと会い、部隊の一部が奉天に派遣されていたとの証言も得たという。(朝日新聞 1995/03/12)

731部隊の元兵士が証言 戦後50年を考える会の集いで /千葉
「菌が弱ると培養ではだめ。人(中国人)を通して強くした」。君津地区の高校数諭やOBらを中心に結成した「戦後50年を考える会」(中村強代表)が先月、木更津市の文京公民館で「731部隊の実像にせまる」と題した集いを開いた。731部隊に従軍した1人の元兵士が、当時の生体実験の様子を証言した。(小松重則)

証言したのは富津市に住む斉藤荒助さん(82)だ。1941年から終戦まで従軍し、防疫を主な任務としていた。ハルビンの関東軍防疫給水部(731部隊)の本部で1カ月間の教育を受け、牡丹江の同部隊支部で3年間、国境付近の防疫任務にあたった後、野戦防疫給水部隊を編成して南の桂林へと転戦したという。

【証言】731部隊は不思議な部隊だった。兵舎の周囲に高圧電流が流れる鉄線が張られ、立ち入り禁止の看板には「違反せし者は射殺す」とあった。初年兵教育が始まって、間もなくわかったが、明らかに他の部隊と違って雰囲気がものものしかった。

部隊の役割は細菌戦のための病原菌謀略と毒ガスの研究だったという。斉藤さんは本部で歩兵教育と衛生教育を受け、病原検索班として防疫、消毒の任務についた。

【証言】ペスト菌を混ぜた麦を周囲の集落に空中からまき、多くの人が死んだ。感染者を部隊で治療して、また菌を採取した。これには、スパイが来ないように人を遠ざける目的もあったと聞いた。菌をまいたことは上官から固く口止めされた。牡丹江の支部に行った時は、ハルビンの本部と1週間に一度くらい行き来があった。部隊の代表が、いろんな菌を木箱に入れ、真っ赤な布に包んで持ち運んでいた。あの部隊では細菌が一番偉いんだと思った。

当初は対ソ連戦を意識した北の任務だったが、終戦間際には、アメリカに対抗するため南に行動した。その際には部隊名を伏せ、表向きは野戦病院として任務にあたったという。

【証言】桂林では、コレラがはやって日本の兵隊がたくさん死に、4種混合ワクチン(ペスト、コレラ、腸チフス、パラチフス)が大量に必要になった。菌を持ち歩いていると退化して使えなくなるので、憲兵が連れてきた40人くらいの中国人をろう屋に入れ、バイキンを食わせ培養した。1人の大便から菌を採取し、食物に混ぜて次の人に食べさせる。何人かの体を通して菌を強くしていくのが生体培養の方法だった。

【証言】コレラ菌は10人くらいの人体を通すと菌が強くなった。菌を食わせてころっと死ぬと、上官が「これでいい」といった。培養に使った中国人は、初年兵の気合を入れるために銃剣で突かせたり、血管にどのくらい空気や水を入れたら死ぬのか、血をどのくらい採ったら死ぬのか、調べたりした。要するに部隊内でまとめて殺した。細菌はすべて、軍司令官の命令でつくった。

斉藤さんの証言から、生体実験、生体培養の実態が浮かび上がる。しかし、こうした経験は、731部隊の行為の一握りの部分でしかない。死体焼却場やガス発生室を設置していた部隊本部では、さらに凄惨(せいさん)な人体実験があったことを想像させる。

【証言】総攻撃の後の桂林に入った時、道端に転がっている無数の死体を避けようともせず車が走って行った。日本の兵隊の墓は小高い丘に簡単な墓標を記してきちんと並んでいた。その時、戦争はこういうものなんだと思った。戦後50年たち、我々の命も残り少ないので話す機会も限られている。2度とやってはいけないことだから……。

731部隊に詳しい常石敬一・神奈川大教授(科学史)の話 人体を通して菌株を保存することは、731部隊の本部ではしていたが、施設が十分整っていない出先の隊では、あまり聞かない。菌の効力が薄れた時に、動物の体内を通して強くできるというのは、戦後になって錯覚であることが分かったが、当時はそれしか方法がなかったため、通常ネズミなどを使って盛んにやっていた。(朝日新聞 1995/06/01)

長き沈黙 父が「731部隊」証言
父は名古屋市南区の自宅で、いつものように2合の晩酌をやっていた。
高校教師の息子が、父に貸した本のことをふと思い出した。「この問題、よく知ってるの」
酔った父が口を開こうとした。母が「お父ちゃん」と制し、指を唇に当てた。父は黙って杯を重ねた。
12、3年前のある夜のことだ。
本は当時、ベストセラーになっていた森村誠一『悪魔の飽食』。旧関東軍で生体実験を続け、細菌戦を行った「731部隊」を告発した書だ。
息子は父の過去のくらがりをのぞき見たような気がして、それきり問いをのみ込んだ。

父、神谷実(80)は1915年、三河の地主の家に生まれた。40年、関東軍に軍属として入った。ハルビン近郊の官舎で相部屋になった男の妹と結婚し、戦後、名古屋に引き揚げて鶏肉店を開いた。
息子、則明(44)は朝鮮戦争が始まった50年に生まれた。名古屋の大学に進むと、久屋大通公園を埋めた集会で沖縄返還を訴え、ベトナム反戦を叫ぶデモに加わった。
学生運動に明け暮れて店を手伝わない三男坊に、父は何も言わなかった。

則明が父の過去に初めて触れた気がしたのは、教師になって数年後だ。
新聞を切り抜いている父に、「何やっとるの」と聞いた。父は口を濁した。後に『悪魔の飽食』として出版される連載だった。
そして、母が父の言葉を封じ込めた日、疑念が確信へと変わる。
89年、担任するクラスが学園祭で「戦争」を企画した。「生徒のために」と自分に言い聞かせ、思い切って部隊のことを尋ねた。
「ああ、ひどいことがいろいろあった」。母は他界していたが、父の口は重い。話は10分と続かなかった。

その後、父は肺の病に倒れた。1日中、酸素吸入のチューブを離せない。時に激しくせき込む。
昨年6月、組合の催しで発表することになった則明は、題材にあえて731部隊を選び、父を訪ねた。
日が照りつける暑い日だった。「お父ちゃんが知ってることを教えてほしい」
父はいつものようにふとんの上に正座した。かすれ、震える声で、「話すのはこれが最後だ」と言った。せき込む父の背をさすりながら、則明はメモをとった。リポート用紙が足らなくなり、チラシをかき集めて書きなぐった。
──おれが受け持ったのは、中国やソ連の捕虜8人だ。丸太とか材料とか呼んでいた。
ペスト菌をもったノミを試験管に入れ、捕虜の腕にあてた。死ぬのを覚悟していたのか、彼らは黙っていた。
終戦のとき、捕虜は毒ガスか何かで殺された。おれは8人の死を確かめて、船に乗った。手帳など、部隊にいた証拠はみんな、日本海に投げ捨てた……。

ハルビン近郊で父と同宿した母の兄が、同じ部隊に属していたのを知ったのは、つい最近のことだ。会ったこともない伯父は、阪神大震災で家の下敷きになって死んだ。
そのがれきの中から、若い日の父の写真が出てきた。軍服を着た父は、表情を消して、直立していた。
則明はいま、父の証言をまとめ、出版する準備を進めている。
「ぼく自身、父に気兼ねして避けていたんだと思う。これからは、父がやったことを心に刻み、教師として事実を伝えていく」

「あれだけの人を殺した。戦犯だろう。話せば迷惑のかかる人もいた。憲兵の怖さが頭を離れなかったしね。でも、ぼくももう死んでいく」
薄暗い長屋の6畳間で、罪悪感と自己弁護の間を揺れ動きながら、老人は語り続けた。
そんな父を見ながら、則明は言う。
「語ることで、父は自分を告発したんだと思う」
遠いあの日々の行いについて。
その後の、長い沈黙について。=敬称略(社会部・佐藤 純)(朝日新聞 1995/07/02)

GHQが人体実験の事実追及を阻む? 「731部隊」で米紙
【ロサンゼルス13日=共同】旧日本軍の細菌化学戦部隊、731部隊が中国で米兵捕虜に人体実験を行ったとされる問題で、米カリフォルニア州サンノゼの地元紙は13日、日本占領に当たったマッカーサー元帥の連合国軍総司令部(GHQ)が戦後、この戦争犯罪の事実調査を阻んで関係者を追及の手から保護していたと報じた。
同紙によると、1947年、中国側の要請を受け、司令部の情報部門が731部隊の責任者に関する報告書をまとめたところ、上層部に「最高機密が含まれる」ともみ消され、法務部門が「731の調査は米統合参謀本部の直接命令に限定」と指示した事実などが、解禁された当時の米側の秘密文書で新たに分かったという。
米兵捕虜への人体実験はこれまでも生存者らが指摘しており、生物兵器での旧ソ連に対する優位確保のため、実験情報などと引き換えに米国が追及を避けたとみられていた。(朝日新聞 1995/08/15)

生体実験で詳細報告書 東京で見つかる
内モンゴルで旧日本陸軍 抗日ゲリラ8人に
1941年2月、中国・内モンゴルの雪原で、日本陸軍が中国人「死刑囚」8人を使って実施した生体実験の詳細な報告書が見つかった。凍傷実験のほか、天幕内で手術が可能かどうか知るために開腹手術をしたり、足を切断したり、羊の血を輸血するなどの実験をしたあと、全員を殺して埋めている。中国では、731部隊のほか北京、南京などでの生体実験が知られているが、関係者の供述が中心で、これほど克明な報告書が見つかることは珍しい。
「駐蒙軍冬季衛生研究成績」と題された、約400ページに及ぶ陣中日誌と研究報告で、生体解剖の様子など約50点の写真が添付されている。中国語教育史の研究者・鱒沢(ますざわ)彰夫さんが束京の古書店で見つけ、現代書館が復刻版を500部つくった。表紙に「極秘」「贈呈」と書かれているが、だれに贈られたものかはわからない。
復刻版によると、研究班は大同(タートン)陸軍病院の軍医少佐を班長として構成。厳寒地での負傷者の処置などを研究するため、当時日本のかいらい政権下にあった内モンゴルの蘇尼特右旗(スーニートーユーチー)西方の盆地に天幕を張って、実験をした。
実験台にされた8人は、15歳から49歳。名前も記されている。慰霊祭の弔辞に「御身等ハ不幸ニシテ蒋介石ノ走狗トナリ正義ノ皇軍ニ不利ナル対敵行動ヲナスニ至ル 捕エラレテ死刑ヲ宣告セラル」とあり、抗日ゲリラだったようだ。
この8人に「生体1号」から「生体8号」までの番号をつけ、胸を小銃で撃って経過を観察したり、血液型の違う血を輸血するなどの実験をした。1人は、死体の血を輸血する実験のために「屍血必要ナル為射殺」。6人は実験後に射殺し、1人は生体解剖した。
「生体」の刻々と変わる様子の記録とともに、日誌には「零下二十七度ニ下降シ凍傷実験ニハ良好条件ナリ各員研究ニ没頭 途中ノ熱キ甘酒ニ一同元気百倍」などと書かれている。
研究班は、2月11日に皇居の方向を向いて「宮城遙拝万歳三唱」して「紀元節」を祝って、軍の本拠地張家口(チャンチャコウ)で解散した。

非常に詳細な記録

常石敬一・神奈川大学教授(科学史)の話 これほど詳細な旧日本軍の人体実験の記録は見たことがない。公表を予定されたものではないから、データが無機的に並べられ、医学研究の名のもとに殺人をした軍医たちの、ためらいではなく熱意や使命感が伝わってくる。まったく後ろ向きの一生懸命さだ。犠牲になった中国人8人の名前が記録されているのだから、偽名かもしれないが、せめて遺族を捜すことができないだろうか。(朝日新聞 1995/08/15)

731部隊の証拠隠滅明かす 元隊員ら、記録集を来月出版
中国東北部(旧満州)に本拠を置き、細菌兵器の開発や捕虜の生体実験をした旧関東軍防疫給水部「731部隊」の元隊員らが、ソ連軍侵攻による撤退や証拠隠滅工作の細部を手記と資料でつづった記録集を10月に出版、戦後の細菌爆弾の日本海投棄や連絡要員を通して秘密を保持しようとした実態を初めて公にする。
編集作業を進めているのは山口県豊浦町の和田十郎さん(70)。1945年3月に入隊し、牡丹江支部に配属。主としてペストや赤痢、腸チフスなどの細菌培養を担当した。自らも赤痢に感染して入院。8月9日のソ連参戦直後、シベリアに抑留されたが、731部隊員だったことを隠し、46年12月、復員した。
「いち早く帰国し、責任をとらなかった最高幹部に比べ、中堅や兵卒は抑留さlれたり、戦犯裁判にかけられたりした」ことに疑問を感じた和田さんは、50年代から資料を集め始め、「歴史の真実を記録に残そう」と考えてきた。
和田さんが集めた元隊員31人の証言によると、部隊は優先的、組織的に引き揚げ列車や帰還船の提供を受け、8月25日ごろまでに博多港や山口県仙崎港などに上陸。「2000トン」もの資料や物資を持ち帰ったという。だが、それらの物資がどこに行ったのか、引き揚げ記録から部隊関係者の記録を消し去ったのはだれか、までは解明できていない。
ハルビン郊外の部隊本部での証拠隠滅作業は主に初年兵が担当し、ノミやペスト生菌は焼却。完成していた細菌爆弾数百発は列車で釜山まで運び、8月20日から23日にかけて上陸用舟艇で日本海に投棄した。
主要な部隊員には復員後、サンフランシスコ講和条約の締結のころまで、「徒歩連絡要員」が毎月のように巡回訪問。連合国に逮捕された際の供述内容について、想定問答を作って口裏合わせをしていた。「打ち合わせや連絡には、証拠が残るから手紙はもちろん電話さえ使わず、必ず連絡員が来た」(元隊員)という。
また、編集過程で、陸軍大臣が関東軍のほか中国各地の派遣軍やシンガポールの南方軍総司令官にまで「(各地の)防疫給水及び化学部関係部隊」(731関係部隊)を「速やかに復員」させるよう命じた機密電報も見つかった。
一方、手記を寄せている元隊員の1人で、ソ連侵攻時、本部本館前で警備をしていた溝淵俊美さん(72)=神戸市在住=らによると、「マルタ」と呼ばれた実験台の中国人らの遺体処理は8月9日午前7時から100人ほどの兵士によって始まった。鉄板の上に、まきを並べ、ガソリンをかけて焼いたが、400体以上もあり、12日正午前までかかった。(朝日新聞 1995/09/19)

旧日本軍「1644部隊」の記録担当 細菌研究の実態 手記に
中国人捕虜にペスト菌/書類焼却し証拠隠滅
日中戦争当時に細菌戦を研究していたとされる、旧日本軍の中支那防疫給水部「栄1644部隊(中国・南京市)に所属し、2年前に亡くなった名古屋市の男性が生前、部隊での人体実験や敗戦時の証拠隠滅の様子を、手記や証言テープに残していたことが明らかになった。部隊の全容を知り得る立場にいた記録担当者の貴重な証言で、これらは、遺族によりまとめられ、12月15日発刊の専門誌「季刊戦争責任研究」に発表される。
男性は、83歳で亡くなった名古屋市の石田甚太郎さん。亡くなる3日前、姉の孫で中国現代史を研究する日本女子大大学院研究生、水谷尚子さん(29)=宇都宮市=に手記を渡し、証言を録音した。
旧日本軍の細菌戦部隊としては、旧満州(中国東北部)ハルビンの「731部隊」が知られる。しかし、1644部隊に関しては、当時の中国国民政府が行った戦犯裁判での元隊員の証言などがわずかに残っているだけだった。今回の証言は、とりわけ中国人捕虜の管理について詳しく語られており、研究者も注目している。
手記は1975年から85年ごろにかけて書かれ、400字詰め原稿用紙約280枚、録音は約4時間に及ぶ。内容は、部隊の構成や研究施設の構造、研究や作業の内容と、細かく多岐にわたっている。
手記などによると、ポスターなどを描く商業美術画家だった石田さんは、42年8月から3年間、軍属の「軍画兵」として同部隊に勤務。細菌兵器の研究をしていた部隊心臓部の第1科に配属され、実験の記録や将校からの報告などをつづる日報の記載作業に携わった。また、機密書庫のかぎの管理も任された。
部隊では医師たちが「マルタ」と呼ばれる中国人捕虜に、ペストやコレラなどの細菌、ムカデやマムシなどの小動物の毒を投与し、人体におよぼす影響などの実験をしていた。研究は医師同士でも互いに機密とされていたが、図表書きを任されていた石田さんは研究室に自由に入れた。「顕微鏡をのぞきながら、捕虜から摘出した臓器に表れる毒物反応のスケッチや着色をした」という。
また、「捕虜は(南京市内の)老虎橋にあった憲兵隊から、多い時で一度に5人から8人が、外から見えないようシートをかけたトラックで運びこまれ、ロツと呼ばれる檻(おり)に監禁されていた」と語り、捕虜を管理していた上官の実名も挙げている。
さらに、敗戦時の8月15日、石田さんは「機密書類の抹消を命じられた。防空ごうに竪穴をあけ、書庫内にあった書類すべてを、約40時間かかって焼却した」。残っていた捕虜は「青酸カリを飲まされたり、注射されてから焼却された」と、部隊ぐるみの証拠隠滅を詳しく証言している。
水谷さんは、石田さんから人体実験に使われたという解剖バサミや書庫のかぎも託された。2年がかりで部隊関係者らに会い、証言内容を確認した。水谷さんは「(石田さんは)復員後、絵の道を絶ち、無念の人生を送った。当時の関係者に気を使いながら、沈黙し続けていた。亡くなる直前に事実を明らかにしたのは、戦争の隠された部分を公にし、その教訓や反省を後世に託したかったからだと思う」と話している。

「消えた細菌戦部隊」などの著書があり、化学兵器の研究で知られる常石敬一神奈川大学教授(科学史)の話 1644部隊については、元隊員ら7、8人の断片的な証言はあるが、部隊全体におよぶ証言はこれまでなかった。研究の記録係という、かなり多くの部分を知り得る立場の証言として貴重だ。従来の証言とも整合し、信頼性がある。

<「栄」1644部隊> 旧日本軍が南京市に設置した、細菌戦研究をしていたとされる部隊。旧日本軍は1936年から41年にかけて、南京のほか旧満州(中国東北部)のハルビン(部隊名731)、北京(1855)、広州(8604)、シンガポール(9420)へも同様の部隊を置いた。創設者は石井四郎元軍医中将。(朝日新聞 1995/11/20)

中国で細菌兵器研究の旧日本軍「栄1644部隊」
元隊員が跡地へ“しょく罪”の旅
中国・南京市にある旧日本軍の細菌戦部隊「栄1644部隊」の跡地を、元隊員がこの盛夏、戦後初めて訪問し、日中合同の現地調査に協力した。同じような部隊でも、資料の発見や元隊員の証言が相次ぐ「731部隊(関東軍防疫給水部)」とは違い、やみに包まれてきたが、戦後半世紀を経てやっとベールを脱ぎ始めた。しょく罪の旅ともなった元隊員に同行した。(宇都宮支局・荒間一弘)

「あなたはここでどんな仕事をしていたのですか」
「戦後初めて部隊を訪問した感想は」
中国のテレビ局「中央電視台」「南京電視台」などのカメラが一斉に元1644部隊員、深野利雄さん(77)も=横浜市在住=に向けられ、アナウンサーらが矢継ぎ早に質問をぶつける。
古ぼけた建物の1階ロビー。この建物こそが、中国人捕虜に病原菌を注射する人体実験や、ペスト菌をもったマウスにノミをたからせ、細菌兵器「ペストノミ」の製造を行っていた死の施設である。現在は中国人民解放軍の病院で、外国人が立ち入れる場所ではない。
深野さんは中国側の関心の高さに驚きながら、意を決したかのように口を開いた。
「ボク自身は人体実験にはかかわっていなかったが、腰に剣を付けて中国の大地にいた侵略者の一員だった。その責任は十分に感じています」
深野さんは昭和15年7月に衛生兵として召集を受け、同年10月、南京に送られた。配属先は「731部隊」の弟部隊である「栄1644部隊」。
部隊内では伝染病菌の検査と研究を担当する「3科」に所属。南京を通過する兵隊の検便を行い、コレラ、チフスなどの流行を防ぐのが主な仕事だった。
部隊のもう1つの隠された役割、「1科」で行われていた“悪魔の実験”は、部隊内では公然の秘密だった。
「昭和17年3月ごろの深夜、『1科の兵隊で警備するから』と、東門から歩哨が引き揚げさせられた。建物の前にトラックが止まり、人の大きさぐらいの木箱を4、5人がかりで中に運び込むのを見た」と深野さんは証言する。
実験対象にされた「マルタ」と呼ばれる中国人捕虜の搬入だった。
深野さんが指した方向、建物の前から続く道の先を見ると、50メートルほど向こうに「マルタ」が運び込まれたという門が今もあった。
「人体実験を部外者に知られないために、2階以上には1科以外の者は上がれなかった」「ここで腰に短銃をつり下げた衛兵2人が常に見張っていたんだ」
当時を回想しながら指さした薄暗い階段の踊り場は、今は人影もなく静まり、窓からは行き交う中国人たちののどかな生活が見える。
「コレラ、ペストなどの細菌サンプルを入れた数千本の試験管が壁いっぱいに並べられていた」という菌株室があった本部棟。今は米国の最新式の機器を導入した200床の腎臓(じんぞう)透析センターなど、江蘇省最大の病院「南京軍区総医院」に生まれ変わっていた。
深野さんは、昭和50年代中ごろから、詩の雑誌に、部隊での体験を詩に託して発表してきた。
「ボクらはもう戦争はイヤだから、生きている限り平和のために活動していく」という深野さん。今回の調査団への同行も、2つ返事で承知した。
そしてこの日、すすけた茶色の建物は忌まわしい思い出とともに当時のままの姿で立っていた。だが、病院内は明るく塗り替えられ、忙しそうな白衣姿の職員らは、調査団に好奇の目を向けながらも笑顔を投げかけ通り過ぎる。
深野さんは調査を終え建物を後にしたとき、何かホッとした、重荷を下ろしたような穏やかな表情になっていた。
1644部隊の実態解明には中国側も関心を寄せ、調査団の活動は地元マスコミでも大きく報道された。
同行した南京大の高興祖教授(67)も=日本史=は「1644部隊の研究は中国でも4、5年前から始まったばかりで、その存在はほとんど知られていない。歴史を正しく理解して、初めて中日の友好関係を築ける」と、日中双方からの実態解明を呼び掛けている。

<栄1644部隊> 昭和14年に南京市につくられた「中支那防疫給水部」の別称。東北部ハルビンの「731部隊」から枝分かれした。研究部門は4科まであり、約1600人いたらしい。終戦直後のハバロフスク軍事裁判などで、細菌兵器研究や人体実験の疑いが指摘されたが、詳細は不明。今回は、日本の市民や弁護士らでつくる「日本軍による細菌戦の歴史事実を明らかにする会」(代表委員・森正孝さんら)の約30人と中国人研究者が合同で部隊跡や細菌戦被害地を調べた。(中日新聞 1996/08/21)

人体実験の731部隊、事実隠匿で口裏合わせ
旧軍関係者の資料で判明
戦時中、中国東北部で細菌兵器の開発を進めていた旧関東軍の「満州第731部隊」が終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)の尋問に備え、人体実験や細菌作戦実施などの事実を隠匿するため、幹部間で徹底した“口裏合わせ”をしていたことを示す文書が7日までに、神奈川大の常石敬一教授(科学史)が旧軍関係者から入手した資料の中から見つかった。
同部隊による組織的な事実隠匿を裏付ける文書の発見は初めて。文書は「マルタ」と呼ばれる捕虜を使った人体実験などについて「絶対表に出さない」としており、東京裁判へ向けた戦犯訴追作業が進む中、戦犯を免れるために必死だった部隊幹部の内情を伝える一級の歴史資料だ。
文書は陸軍の印が入ったB4判便せん1枚の手書きで、1942―45年3月まで2代目の部隊長だった北野政次軍医中将あての10項目の「連絡事項」。終戦直後に同部隊幹部と連絡を取っていた旧軍関係者が戦後、自宅に保存していた。
筆者、日付は不明だが、「増田大佐ハ(中略)司令部ヘ出頭セリ」との記述から、常石教授は、部隊創設者の石井四郎中将の「片腕」とされた増田知貞大佐に対するGHQの尋問が始まる45年10月ごろに部隊関係者が書いた、と分析している。
文書には冒頭「○及『保作』ハ絶対ニ出サズ」と記載。これまでの研究から「○」はマルタを、「保作」は細菌作戦を指す暗号と判明しており、これから尋問される北野中将に、人体実験や中国での細菌戦などの秘密を守るよう連絡していたことが分かる。
また、捕虜を収容した同部隊の7、8号棟を「中央倉庫」、兵器用にペスト感染したノミを培養していた田中班を単に「P(ペスト)研究」、穀物用細菌兵器を研究していた八木沢班の実験場を「自営農場」と言い換え、細菌戦研究は「上司ノ指示ニアラズ防御研究ノ必要上一部ノモノガ研究セルモノ」とするように指示している。
北野中将は46年1月、上海から帰国した直後に尋問を受けるが、1年後にソ連側の指摘で人体実験の事実が浮上するまで、他の幹部とともに真相を隠し通した。事実発覚後、同部隊は人体実験のデータ供与の見返りに、あらためて免責を獲得し、東京裁判での訴追を免れたとされる。

<731部隊> 石井四郎軍医中将を部隊長に1936(昭和11)年、中国東北部の旧満州・ハルビンで正式発足。「マルタ」と呼ばれる捕虜を使った人体実験で細菌兵器を極秘に研究、細菌爆弾の開発やペスト菌に感染したノミの増殖など実戦化を進めた。実際に中国などでペスト菌などを散布する細菌作戦も展開した。実験の犠牲者は3000人にも上るといわれるが、米軍は人体実験の事実をつかめないまま、同部隊の戦犯免責を確約、東京裁判では審理対象とならなかった。その後、部隊幹部の証言などで真相が発覚した際、データ供与の見返りに、再度免責したとされる。(日本経済新聞 1997/01/07)

細菌戦 初の賠償提訴へ 東京地裁に
中国の100人、日本に謝罪も要求
旧日本軍の731部隊など細菌戦部隊が日中戦争中に展開した細菌戦で被害を受けたとして、中国の6カ所の約100人が今年8月、日本政府に謝罪や損害賠償などを求めて東京地裁に提訴することが21日、分かった。中国東北部の731部隊本部であった人体実験の被害者遺族らによる訴訟は現在同地裁で進行中だが、細菌戦実戦による被害者らが裁判に訴えるのは初めて。細菌戦は、被害者数を含め実態がほとんど明らかになっておらず、訴訟は全体像解明を進める上で突破口の1つになりそうだ。
提訴するのは、中国浙江省の寧波、衛州(くしゅう)、義烏(ぎう)、江山各市、上崇山村と、湖南省常徳市の計6カ所約100人。
日本側の市民団体「日本軍による細菌戦の歴史事実を明らかにする会」(森正孝代表委員ら)のメンバーが3月下旬訪中し、被害者や遺族らと最終的に8月提訴で合意した。
同会の調査などによると、寧波市では1940年10月、日本軍機が空中から麦などを中心街に投下、その後ペストが流行し、一帯で100人以上が死亡したという。
同様にペスト攻撃にさらされた上崇山村では人口の3分の1にあたる約400人が死亡したという。
42年に展開された浙〓(せっかん)作戦の過程では占領地域から日本軍が撤退するのに伴い、細菌戦部隊がペストのほかコレラやチフスなどさまざまな菌を散布。江山市ではコレラ菌入りのもちなどを食べた80人以上が死亡したという。
裁判を支援する森さんは「人体実験に焦点が当てられているが、細菌戦の遂行こそが731部隊などの真の任務だ。殺された被害者の無念や遺族の悲しみを受け止め日本人としての戦争責任を果たしたい」と話している。

<浙〓(せっかん)作戦> 1942年4月、米軍機による本土空襲に危機感を抱いた大本営が、米軍機の離着陸に利用された中国・浙江省の飛行場などを壊滅させる目的で行った作戦。この作戦では、731部隊(本部ハルビン)と栄1644部隊(本部南京)が合同して大規模な細菌戦を展開したとされる。(中日新聞 1997/04/21)

731部隊の人体実験 詳細な資料発見
【北京7日共同】中国共産党機関誌、人民日報の海外版は7日、旧関東軍防疫給水部(731部隊)が日中戦争時、中国東北部のハルビン市郊外で中国人らに行った人体実験についての詳細な資料がまとまって見つかった、と報じた。
同紙によると、資料は1940―41年に731部隊により作成された全31冊。同部隊の跡地にある731部隊罪証陳列館の研究員が黒竜江省公文書局から発見した。
中国専門家は、これほどまとまった形で同部隊が作成した資料が見つかったのは初めてとしている。
資料には中国人捕虜らの特別移送を意味する「特移扱」の印が押され、捕虜の氏名、略歴、捕虜拘束の経過、学歴のほか、人体実験などについて詳細に記載している。(中日新聞 1998/01/08)

731部隊戦犯隠し発案 旧ミドリ十字創設者、故内藤良一氏
人体実験、細菌戦の秘匿指示 部隊幹部の書簡で判明

薬害エイズ事件の製薬会社、旧ミドリ十字(大阪市)の創設者で戦時中、中国で人体実験を繰り返した旧陸軍「731部隊」との関係が取りざたされてきた内藤良一元軍医中佐(故人)が、終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)の戦争犯罪調査が本格化する中で、同部隊の戦犯隠しに深く関与していたことが14日までに、部隊幹部直筆の書簡から明らかになった。
同部隊については、幹部らを尋問した米軍が当初人体実験の事実をつかめないまま、細菌兵器技術の情報入手を優先させ戦犯免責を付与した。書簡は人体実験や細菌作戦について秘匿し、それ以外の情報は積極的に提供する、という内藤氏の戦犯追及対応策を紹介しており、部隊幹部らの戦犯事実の隠匿が内藤案に基づくことが初めて分かった。
戦後、米国の医学者らとも親交を図りながら製薬業界での地歩を固めた内藤氏が、戦犯隠しの黒幕だったことを示す内容は、日米の関係者間に波紋を広げそうだ。
書簡は1945(昭和20)年11月9日付で、731部隊で部長職を歴任した増田知貞軍医大佐(故人)が潜伏先の千葉県内から陸軍省軍事課で軍事科学情報を統括した新妻清一中佐(同)にあてたもので、陸軍の便せん5枚に毛筆で執筆。神奈川大の常石敬一教授(科学史)が生前の新妻氏より譲り受けた資料の中から見つかった。
増田大佐は書簡で米軍調査への考え方を説明し「○タ(丸の中のタ)と○ホ(丸の中のホ)以外は一切を積極的に開陳すべし」との内藤氏の「持論」を紹介。「◯タ(丸の中のタ)」は人体実験用の捕虜「マルタ」を、「◯ホ(丸の中のホ)」は細菌作戦をそれぞれ指す部隊関係者間の隠語で、内藤氏が人体実験と中国での細菌作戦や未遂に終わった米国への攻撃計画だけは秘匿するよう主張していたことが分かる。
新妻氏所蔵の別の文書によると、2代目部隊長の北野政次軍医中将が尋問された46年1月ごろ、部隊幹部間でマルタと細菌攻撃を秘匿する口裏合わせが行われており、内藤氏の「持論」がその後、部隊の基本方針となったことを示している。
米側公文書などによると、終戦時に陸軍軍医学校教官だった内藤氏は米軍の調査開始直後の45年9月に通訳として出頭を求められ、731部隊の人体実験について「誓ってそういうことはない」と否定。その後の米軍の部隊関係者への尋問で通訳を務めたことなどから戦犯隠しをリードする役割を果たしたとみられる。

米との取引仕切る

731部隊に詳しい秦郁彦日大教授(日本近現代史)の話 書簡は内藤良一氏が(免責獲得の)中核だったことを裏付けている。アジア地域に広がる細菌戦研究機関の中枢は(内藤氏が籍を置いた)陸軍軍医学校防疫研究室で、内藤氏は陸軍の細菌戦ネットワークのいわば事務局長だった。石井四郎部隊長はこのころ、偽装葬式を出したくらいで表には出たくなかった。そこで米軍との仲介役であり通訳であった内藤氏が米国との取引を全部仕切ったということだろう。

<731部隊> 石井四郎軍医中将を部隊長に1936(昭和11)年、中国東北部のハルビン郊外で正式発足。「マルタ」と呼ばれる捕虜を使った人体実験で細菌兵器を極秘に研究、細菌爆弾の開発やペスト菌に感染したノミの増殖などの実戦化を進めた。実際に中国でペスト菌などを散布する細菌作戦を展開したほか終戦前には米国への攻撃も画策、未遂に終わった。実験の犠牲者は3000人に上ると言われる。(東京新聞 1998/08/15)

発見された書簡の抜粋

発見された書簡の読み下しの抜粋は次の通り。



新妻中佐殿

11月9日1900

秋元村において

増田大佐

拝復

ただいま伝書使来着し、貴翰(きかん=あなたの手紙)拝見つかまつりそうろう。

京都において田中少佐、S(米軍の調査担当者サンダース軍医中佐)に面会いたしそうろうよし、会見録も拝見つかまつりそうろう。x(細菌戦関係者間でノミを指す隠語)を出せしはあまり面白からずと愚考いたしそうらえども、やがては少しずつ覆面が落ちてゆくのではないかと心配いたしおりそうろう。
(中略)
なお内藤中佐の意見は○タと○ホ以外は一切を積極的に開陳すべしという持論にこれありそうろうあいだ、ご参考までに申し上げおきそうろう。
(中略)
実際問題として731にて攻撃として使用つかまつりそうろう予算の大部分はPx(ペスト菌に感染したノミの隠語)関係にて、これは事実上の数字は秘匿しておかざれば、当方の攻撃意図が暴露いたしそうろう事とあいなるべくそうろう。
(中略)

勿々(そうそう)


▽戦後も公然と表社会を歩む

戦犯免責の黒幕はやはり「石井の番頭」だった−。人体実験など重大戦犯事実の隠ペいで、 東京裁判での訴追を免れた関東軍防疫給水部、通称731部隊。終戦から53回目の夏に見つかった部隊幹部の書簡は、研究成果をだしに、旧ソ連との冷戦に備えた米軍から戦犯免責を引き出すシナリオを書いた内藤良一元軍医中佐の影をくっきりとあぶり出した。内藤氏は石井四郎部隊長の側近で、戦後は薬害エイズ事件の旧ミドリ十字を創設。免責で戦後も表社会を公然と歩み続け、部隊で研究した技術を土台に同社を血液製剤の国内トップメーカーに押し上げた。新史料の発見は戦犯逃れの舞台裏を白日の下に明らかにした。

▽コーディネーター

「内藤さんは中国各地の防疫給水部隊を見る全体の親方みたいなもの」。
内膝氏をよく知る元部隊幹部(83)はこう証言する。内藤氏は731部隊での常駐経験はないが、石井部隊長が責任者の陸軍軍医学校防疫研究室(防研)の教官を終戦まで務めた。
「防研は石井ネットワークの中枢」と指摘する常石敬一神奈川大教授は生前の内藤氏を取材。内藤氏は自らを「石井の番頭」と表現した。軍医学校関係文書によると、防研へは各防疫給水部隊から活動状況が逐一報告され、防研を仕切る内藤氏は731部隊の全容を把握できる立場だった。
「内藤は軍と民のコーディネーター。国内の大学で開発されたワクチンや治療薬の試作品が防研の内藤に持ち込まれ、731部隊やその姉妹部隊で人体実験する。
「隠ぺいの狙いは自分の役割を隠すことだった」と常石教授。戦時中、東大伝染病研究所(当時)に在籍した防研関係者も「内藤さんが東大の研究室へよく来ていた」と証言している。

▽米うならせたデータ

「このときの上官は有名な石井四郎という人でこの研究を認めて金はいくらでも要るだけ使わせてもらった」
旧ミドリ十字の前身、日本ブラッド・バンクが創設される1950年、厚生省からの認可取得を後押ししてもらおうと、連合国軍総司令部(GHQ)へ提出した同社の「企画草案」の中で内藤氏は石井部隊長との関係を自慢げに披歴している。
文中の「研究」とは、細菌を保存、運搬するために内藤氏を中心に部隊で研究を重ねた凍結乾燥技術。元部隊幹部は「凍結乾燥させたペスト菌を爆弾に詰める研究をしていた」と証言している。

▽研究成果だしに免責

内藤氏ら関係者は「マルタ」と呼ばれる捕虜を使った人体実験と細菌作戦を秘匿して45年秋以降、順次免責を獲得する一方、細菌爆弾の開発状況など、それ以外の情報を積極的に提供した。
しかし47年にソ連が人体実験を暴露し、捕虜の部隊幹部を強制労働処分に。窮地に立った内藤氏らは今度は人体実験データをちらつかせ米側に再度免責を要求。各種細菌の致死量などの情報は「戦犯訴追よりはるかに重要」とワシントンをうならせた。
秦郁彦日大教授は「石井は米軍にとって絶対的存在。自分の信頼度を高めるために今度は内藤が石井を利用した」と草案を分析。常石教授は「免責を逆手にGHGに脅しをかけた」との見方だ。
同社発足時の取締役6人のうち細菌戦関係者は内藤氏を含め4人。2代目部隊長の北野政次氏も後に同社へ迎えられた。

▽隠ぺいの共犯者

6月25日、シカゴ・オヘア空港。「ワシントンの命令だ」。市民集会で証言するため渡米した731部隊元少年隊員、篠塚良雄さん(74)は係官から入国を拒否された。
米政府は96年、非人道的行為を理由に部隊関係者の入国禁止を決定したが、拒否の事実が表面化したのは初めてだ。
「50年間、事実をやみからやみへ葬り去ろうとしてきた。許せない」。今回見つかった書簡を読んだ篠塚さんの声が震えた。人体実験にも立ち会い、戦後は中国の戦犯管理所に約5年間収容された。
「米国も免責付与により部隊の隠ぺいに深くかかわった。証言でその点を明らかにされるのを恐れたんじゃないか」。支援者の一瀬敬一郎弁護士は、事実隠ぺいの「共犯者(米国)」の本音を推し量る。(神戸新聞 1998/08/15)

731部隊など旧軍関係者、米入国禁止リストに
50―100人、非人道的行為で
【ワシントン17日=共同】細菌兵器開発のため人体実験を行った731部隊(関東軍防疫給水部)など、旧日本軍の非人道的行為を調べているエリ・ローゼンバーム米司法省特別調査部長は17日までに、米政府が旧日本軍の行為を「(ユダヤ人を虐殺した)ナチスドイツと同じ戦争犯罪」とみなし、戦争犯罪を対象とした米政府の入国禁止リストに既に「50人から100人」の旧軍関係者を登録したと明らかにした。
米国は第2次大戦直後、731部隊に対して細菌兵器情報提供の見返りに東京裁判での免責を与えたが、同部長は「当時はそうした措置をとらざるを得なかったが、米政府は90年代に入り旧日本軍の戦争犯罪を重視し始めた」と強調。米政府が旧日本軍の戦争犯罪を調べ直す政策に変更したことを確認した。
米政府は96年12月、731部隊や従軍慰安施設関係者16人を入国禁止リストに初めて登録したと発表したが、米政府独自の調査で南京虐殺参加者も含めて登録者は拡大した。
同部長はリスト作成のための協力を日本政府から拒否されている問題で「4、5回以上、米国務省を通じ協力を要請したが、まったく返答がない」と不満を表明した。
日本政府は「起訴されなかった人は完全な市民として扱われており、こうした人が不利益を受けると知っての協力はできない」(斉藤邦彦駐米大使)との立場を取っている。(日本経済新聞 1999/04/18)

中国で人体実験の記録初公開 731部隊の日本側公文書
日中戦争中に旧日本軍の「731部隊」(関東軍防疫給水部)がひそかに行った細菌兵器研究で、人体実験用に移送された中国人に関する日本側の公文書66件が2日、中国黒竜江省ハルビンで初めて公開された。これまで戦犯裁判などで人体実験による死者45人の氏名が判明しているが、今回の公文書に記載されているのは大部分が新たに判明した犠牲者とされ、黒竜江省政府は「日本軍による中国人民虐殺の動かぬ証拠」と強調している。
同省新聞弁公室によると、これら公文書は1997年10月、黒竜江省公文書館で発見され、分析が進められてきた。東北地方各地の憲兵隊が「ソ連のスパイ」として捕らえた中国人52人について、氏名、年齢、出身地、逮捕の経緯などを詳細に記した上で、人体実験用の「特別移送」を申請する報告書や、それに対する関東軍憲兵司令部の指示が主な内容。うち42人がハルビン郊外にあった731部隊本部などに移送されたことが記載されているという。
公文書はすべて日本語の手書きで、ほとんどが41年7―9月のもの。憲兵隊司令官の印や署名のほか、「特移(特別移送)扱」「防諜(ぼうちょう)」などの印も押されている。ある文書には「(逆スパイとして)逆利用の価値なく、特別移送が適当と認む」と赤鉛筆で書かれた憲兵隊長の「所見」も張り付けられていた。
731部隊はペスト、コレラ菌などを使った細菌兵器の研究開発のため41年ごろ正式発足した。中国側は約3000人の中国人、ロシア人、朝鮮人らが残酷な人体実験で虐殺されたとしているが、45年の終戦時に廃棄されたため、部隊の原資料はほとんど残されていなかった。中国当局は今回の日本側文書を、残虐行為を立証する貴重な証拠として、ハルビンの公文書館でコピーを一般公開する。(時事通信 1999/08/02)

「中国人スパイ利用価値なし」 731部隊へ移送裏付け
日本軍文書を黒竜江省公開
【ハルビン(中国黒竜江省)2日清水美和】中国黒竜江省公文書館の田汝正館長は2日、ハルビン市内で記者会見し、旧日本軍が細菌兵器開発や人体実験を行ったとされる「731部隊」に、関東軍憲兵隊が逮捕した中国人スパイなどを「特別移送(特移)」と名付け、組織的に送ったことを裏付ける旧日本軍秘密文書を初公開した。文書は関東軍憲兵分隊などが逮捕したスパイを「逆利用の価値なし」などと判断すると、同憲兵隊司令部の決裁を経て、事実上の「処刑」として731部隊に送った実態が浮き彫りにされている。
731部隊については、部隊による細菌戦で肉親が死亡したなどとして、1997年8月、中国人108人が、日本政府に対し損害賠償を求める訴えを東京地方裁判所に起こしている。しかし、外務省はこれまで日本側に同部隊に関する公的な記録は残っていないとしている。
田館長によると「特殊移送」文書は戦後、中国共産党東北局(当時)が押収し、同省公文書館が譲り受け保存していた旧日本軍関係文書の中から、一昨年10月、66件が発見され、同公文書館で研究してきた。文書は関東軍憲兵分隊などが、「ソ連のスパイ」などとして逮捕した中国人の逮捕状況や犯罪事実、経歴などを詳細に記した調書を作成。上級機関に「特別移送」についての判断を仰いだもの。主に41年7月から9月の間に、逮捕された中国人52人について作成され、憲兵隊司令部の判断で42人が731部隊に送られている。
名分隊は「性格が頑固で悔い改める様子がない」「将来の利用価値がない」などの理由で「特別移送」と求めており、それが事実上、処刑に相当するものであることをうかがわせる。
旧ソ連の戦犯裁判などで人体実験による死者45人の氏名が判明しているが、今回の文書に記載されているのは大部分が新たに判明した犠牲者とされる。
田館長は「関東軍憲兵隊と731部隊の関係は資料が処分されていたため、研究が進まなかったが、文書の発見は研究に新たな道を開くものだ」と強調した。

<731部隊> 石井四郎軍医中将を部隊長に1936年、中国東北部ハルビン郊外で発足。マルタ(丸太)と呼ばれる捕虜を使った人体実験で細菌兵器を開発し、ペスト菌などを散布する細菌戦を実施した。実験の犠牲者は3000人に上るといわれ、旧ソ連・ハバロフスク軍事裁判などで部隊の実態が明らかになった。(中日新聞 1999/08/03)

731部隊のペスト菌調査報告書見つかる
細菌兵器開発のために人体実験を繰り返したとされる旧関東軍防疫給水部(731部隊)が、1940年に中国東北部の農安、新京(現・長春)で流行したペストを軸にペスト菌を体系的に調査した報告書が現存していたことがわかった。731部隊はペスト菌を最も効果的な細菌兵器と位置づけていたといわれ、同部隊の細菌戦の実態を解明する手がかりになる資料として注目される。
報告書は、松村高夫・慶応大教授(社会史)が昨年8月、同大医学部図書館の倉庫で見つけた。背表紙には「高橋正彦ペスト菌論文集」と書かれており、53年ごろ同大学で製本されたと見られる。高橋は当時、同部隊細菌研究部でペスト研究の責任者だった陸軍軍医少佐。42―43年に作成された「陸軍軍医学校防疫研究報告」27点を収録、全体で約900ページに及ぶ。随所に「秘」と記されている。
米国は終戦後の47年、731部隊に対する2回の調査を通じ、両地域のペスト感染死者の臓器を病理標本として提出させた。標本のうち57人の調査結果は米国ユタ州ダグウェー軍実験場で「Q報告」として保管されている。その序文は「高橋博士らは疫学・細菌学的な調査を実施。日本語で印刷されたそれらの報告書は1948年7月、すでに米国陸軍に提出されている」としているが、これまで「日本語の報告書」は行方不明だった。
死者57人は「Q報告」ではイニシャル表記だが、高橋論文集の実名リストの性別、年齢、病名と一致していることから、「Q報告」作成の基礎データになったと推測される。
報告書の中で注目されるのは、「昭和十五年農安及新京ニ発生セル『ペスト』流行ニ就テ」と題する報告で、「昭和十八・四・十二」の年月日が入った6点。中国人の死者数百人と言われ、40年6―11月ごろ猛威を振るった両地域のペスト流行について、図表、グラフなどを交えて疫学、細菌学、臨床各面の所見を中心に説明。感染経路、ネズミの種類ごとに付着するノミの種類と数量、死者の臓器の分析結果、菌株の検出、気象との関係、家屋密度・構造などまでに至る詳細で体系的なものだ。
客観的な記述が続く中で、「『……人ペスト』ノ発生スルタメニハ有菌鼠ノ率ガ或程度以上(此ノ場合ニハ約〇・五デアツタ)ニ昇ルコトノ必要デアルコトガ判ル」など実戦を視野に入れたと思われる記述もある。
各報告には「担任指導 陸軍軍医少将 石井四郎」などとあり、石井・731部隊長(発生当時)の指導によることを示している。
松村教授は「『Q報告』で言う『日本語の報告書』とは、一連のこの報告書であり、その後の細菌兵器開発に役立ったのではないか」と見ている。
中村明子・共立薬科大客員教授(細菌学)は「感染源の究明から防疫までの多角的な疫学調査で現代でも通用する水準だ。ここまで綿密に研究するからには応用する前提があったと考えても無理はない」と指摘する。
「旧日本軍の731部隊が研究・開発したペスト菌などの細菌を散布されて、被害を受けた」と主張する中国人の遺族らが日本政府を相手に損害賠償を求める訴訟が、東京地裁で行われており、報告書は証拠書類として原告側から近く提出される予定だ。(朝日新聞 2000/09/09)

旧日本軍731部隊の跡地から細菌爆弾の破片など大量発見
第2次世界大戦中の旧日本軍731部隊の駐屯地跡から、注射器や高圧滅菌炉、細菌爆弾の破片など中国に侵略した旧日本軍の細菌や毒ガス実験などの証拠となる物件1200件余りが専門家の発掘作業によって発見された。
発掘作業に参加した中国侵略旧日本軍731研究所の金成民所長は、「日本政府は現在にいたるまで731部隊の存在は認めているものの、健康な人の体を使った細菌実験などの犯罪行為の核心部分については否定している。今回の発掘で発見された大量の物件は731部隊の行なった罪悪行為を十分に証明するものだ」と述べた。
731部隊とは旧日本軍が第2次世界大戦中に組織した世界最大の細菌戦争秘密部隊で、1932年哈尓浜(ハルピン)市に研究センターを設置。健康な人の体を使ってペストやチフス、コレラなどの細菌や毒ガス実験を行い、1万人以上の中国、旧ソ連、朝鮮、モンゴルからの戦争捕虜や一般市民がここで命を落とした。1945年8月、731部隊は撤退に際し主な実験設備を爆破した。
今回の発掘作業は昨年の5月に開始され、これまでに発掘の1期工事が終了。731部隊の駐屯地跡と発掘された物件は6月12日から一般に公開される予定。 (人民日報 2001/06/07)

旧陸軍軍医学校跡の人骨 国の関与認める
731部隊の関連は「真相わからぬ」 納骨堂保管へ
東京都新宿区戸山の旧陸軍軍医学校跡地で1989年に発見された大量の人骨について、厚生労働省は14日、「軍医学校の医学研究用に集められた死体とみられ、戦場から集められた戦死者も含まれていた可能性がある」と国の関与を初めて認めた調査結果を公表した。また、同省は人骨を新宿区から引き取り、新たに建設する納骨堂で保管する方針を明らかにした。
人骨は国立感染症研究所などの入る戸山研究庁舎の建設中に、約100体が見つかった。同区が専門家に依頼した鑑定では、複数の地域の黄色人種に属する骨が混在しているとの結果だった。
調査結果によると、軍医学校関係者などへのアンケートで、これらの人骨が、中国で人体実験をしたとされる「731部隊」から送られてきたものとする証言が2人から得られた。厚労省は「そうでないとの回答もあり真相は明らかにできなかった」としている。また、発見場所に近い運動公園予定地付近にも人骨が大量に埋められているとの指摘が出ている問題について、調査結果は「埋められているとの回答は伝聞情報の1人にとどまり、発掘調査の必要はない」とした。
骨を遺族に返すことを目指している「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」代表の常石敬一神奈川大教授は「骨を焼いたりせず、保管することにしたのは評価できる。歴史ときちんと向き合い、さらに発掘調査が進むよう今後も提案していく」と話している。(東京新聞 2001/06/15)

人体実験の277人判明 関東軍極秘文書を公開 中国公文書
【長春(中国吉林省)24日共同】日中戦争当時、旧関東軍防疫給水部(731部隊)が中国や旧ソ連、朝鮮の捕虜計277人を、細菌兵器開発のため人体実験に利用したことを裏付ける関東軍憲兵隊の極秘文書の存在が、24日までに明らかになった。
中国吉林省公文書館(長春市)が、9月18日の満州事変70周年に向けて今年1月から詳細な整理、研究を進め、9月から内外に初めて公開した。小泉純一郎首相の靖国神社参拝などの歴史問題で日中関係がぎくしゃくする中、日本に侵略の歴史をアピールする狙いもあるとみられる。
憲兵隊は証拠隠滅のため大部分の文書を終戦時に焼却しており、約3000人と推定される人体実験の犠牲者の1割近い氏名が分かったのは初めて。犠牲者に旧ソ連や朝鮮の捕虜がいたことも日本側の文書では初めて確認され、人体実験の真相を解明する重要な手掛かりとなりそうだ。
憲兵隊がスパイ容疑で拘束した捕虜のうち、3、4割を人体実験に使ったことも文書で分かった。
文書は1939年5月から45年5月の間、関東軍憲兵隊司令部や各地の分隊が作成した80点、計約630ページ。スパイとして拘束した捕虜を人体実験に利用するためハルビンの731部隊に「特別移送」した際の連絡文書や「捕虜処分一覧表」などで、捕虜の氏名のほか出身地や写真を添付した文書もある。
これまで黒竜江省が99年に公表した類似の憲兵隊文書で52人の氏名が判明していたが、このうち33人は今回の文書でも再確認された。
公文書館によると、この文書は55年、撫順戦犯管理所(遼寧省撫順市)に収容されていた日本人戦犯の供述に基づいて、長春市の関東軍憲兵隊司令部(現吉林省政府庁舎)の地下から3600点の文書の一部として発掘された。

<731部隊> 石井四郎軍医中将を部隊長に1936年、中国東北部のハルビン郊外で発足。「丸太」と呼ばれる捕虜を使った人体実験で細菌兵器を開発し、ペスト菌などを散布する細菌戦を中国浙江省などで実施。米国への細菌攻撃も計画した。実験の犠牲者は3000人に上るといわれ、最近になり、元部隊員の証言などから実態が明らかになりつつある。被害者の一部は日本政府に対し損害賠償請求訴訟を起こしている。(共同通信 2001/09/24)

尹集鈞氏、米炭疽菌事件と旧日本軍731部隊の関連性を指摘
炭疽(たんそ)菌調査のため浙江省金華市入りした米国籍の華人作家、尹州釣氏(米国旧日本軍細菌戦罪行調査委員会会長)は27日、米炭疽菌事件と旧日本軍731部隊が行っていた細菌戦の関連性について現地の記者の取材に応じ次のように述べた。
今回の調査はCNNテレビの要請でわざわざ行ったのだ。金華市は第2次大戦の細菌戦被害程度の高い地区。第2次大戦中、旧日本軍の731部隊は大量の炭疽菌を培養し、生身の人を実験台にその効果を試していた。731部隊の第3遠征隊は1942年、浙江・江西戦役に参戦。旧日本軍の1644部隊とともに、飛行機を使って炭疽菌など130キロの病原菌を特定の地区に運び、水源地や湖沼、住宅地に散布し、多くの人々が疫病に感染し亡くなった。
米当局の情報によると、米で問題となっている炭疽菌はAmesと呼ばれる種類で、旧日本軍731部隊の細菌専門家が研究開発を担当した。第2次大戦後、彼らは米メリーランド州Fort Detrickの生物兵器実験室で20年(1948〜68年)余りにわたり研究を続けていた。Amesは当時の研究を基に新たに開発された新種で、危険性は極めて大きい。
尹氏はこれから江西省玉山などを調査した後、調査資料をもってCNNテレビ出演する予定。(人民日報 2001/11/30)

【吉林】旧ソ連による731部隊の裁判記録を発見
旧ソ連が、旧日本軍の細菌戦に関わった戦犯を裁いた時の公判を記録した書籍「細菌戦用兵器の準備および使用の廉(かど)で起訴された元日本軍軍人の事件に関する公判書類」が、吉林市の収集家宅で見つかった。この本は1950年にモスクワの外国語出版局から発行されており、全83ページ、すべて中国語で書かれている。
前書きには「細菌戦用武器の準備および使用で起訴された、旧日本陸軍の軍人12人の裁判が1949年12月25日から31日まで、ハバロフスクで行われた。起訴された軍人には、日本関東軍総司令官・元陸軍大将の山田乙三を含む」と書かれている。
第45ページには審問に答える山田乙三の言葉が「私は罪を犯したことを認める。私が生体実験を行った事実は明確だ。私は別の者らがこのような実験を行うことを許可したのだから事実上、実験対象となる中国人、ロシア人、満州の現地人を日本軍の各組織によって送り込み、強引に殺害することを許可していたことになる」と記録されている。第380ページには、証人として出廷した元731部隊員の古都良雄が「私が参加した派遣隊の業務は、何かといいますと、それは貯水池、井戸をチフス菌及びバラチフス菌によって汚染する方法による細菌攻撃でありました」証言したことが記されている。(人民日報 2002/05/21)

名簿などの公文書/化学戦機材・禁止弾
旧日本軍、組織的に処分
敗戦の直後、日本軍が組織的に公文書を処分していたことが、米国で公開された資料から浮かび上がった。外交上不利益になる公文書の焼却などを指示する日本軍の暗号通信を、米側が傍受し解読していた。軍による公文書の処分については、証言などでは残っているが、裏付ける資料はほとんどなかった。
この米側資料は「マジック 極東概略」。米陸軍省が、第2次世界大戦中に解読した日本軍の暗号通信を要約し、関係部門に配っていた速報だ。「日本の戦争責任資料センター」研究事務局長の林博史・関東学院大教授(現代史)が米国立公文書館で入手した。
資料によると、処分の指示は45年8月15日午前0時に始まった。
「ご真影や連隊旗、天皇の手によって書かれた書類を集め、部隊指揮官は崇拝の念をもって焼却せよ」と、陸軍省が主な野戦司令部に命令した。玉音放送が敗戦を告げた同日午後には、「陸軍の機密文書と重要書類は、保持している者が焼却せよ」と命令を追加。
翌16日、海軍省軍務局長が主な指揮官に向け、「敵の手に落ちたとしても、帝国にとって外交上不利にならないもの」を例示。捕虜のリストや死亡記録は保持するように指示し、暗にほかの文書の処分を求めた。
前線に近い部隊になるにつれ、処分対象の指示は具体的になった。
同月20日、上海にある支那方面艦隊は、将校の登録簿や勤務経歴を「即座に焼却せよ」とした。戦争責任を追及される際に、だれがどこに配属されていたかが分からないようにするためとみられる。
インドネシアの海軍第23根拠地隊は8月24日、「化学戦用機材」や、人体に命中すると体内ではじけて傷を大きくし、残酷を極めるとして1899年のハーグ会議で使用禁止が宣言されていた「ダムダム弾」の処分を命じた。明らかになれば国際的な批判にさらされることを恐れたようだ。
戦争犯罪を裁いた東京裁判に詳しい吉田裕・一橋大大学院教授(日本近現代史)は「戦犯追及に備えて関係資料は徹底的に処分されたが、それを裏付ける資料がまとまって出たのは珍しい」と言う。林教授は「軍にとって何が都合が悪いかを冷静に識別し、組織的に処分したことが分かる」と話す。(朝日新聞 2002/07/18)

毒ガス実験場確認 中国東北部 731部隊 対ソ戦念頭に設置
細菌兵器や毒ガスの研究をしていた旧関東軍防疫給水部(731部隊)が演習場に使った跡とみられる複数の穴を、名古屋市見晴台考古資料館学芸員の伊藤厚史さん(41)=愛知県豊橋市植田町=と、軍事研究家で会社社長の辻田文雄さん(54)=岐阜市長良雄総=らが、中国東北部の海拉爾(ハイラル)近郊のバエンハン地区で確認した。
実験場跡とみられる遺構は中国東北部でこれまでに2カ所見つかっている。バエンハンにも部隊の支部があり「実験用の穴を掘ったらしい」との現地の人の証言は残っていたが、遺構が確認されたのはこれが初めて。
731部隊の本部は中国東北部の哈爾浜(ハルビン)にあった。細菌兵器や毒ガスの実験では、中国人の捕虜や馬や牛などの動物をくいに縛り付け、ペスト菌などを入れた爆弾を近くで破裂させて菌に感染するかを調べていた、とされる。
伊藤さんらは、その証言を裏付けようと2000年5月に調査を実施し、結果をことし6月、専門誌に公表した。
それによると、草原の中から多数の穴が見つかった。このうち50カ所について、大きさや向きなどを計測したところ、軍隊が陣地に使う塹壕(ざんごう)と同じタイプの穴と確認できた。穴に軍馬などを入れ、細菌兵器や毒ガスの効果を試したとみている。
伊藤さんは「バエンハンの穴は、寒冷地の敵陣地を想定した実験場で、対ソ連の野戦を念頭に置いていたのではないか」と分析している。(中日新聞 2002/08/11)

731部隊が細菌戦 東京地裁初認定 死者は1万人以上
中国人遺族ら 損害賠償請求は棄却
日中戦争時に旧日本軍「731部隊」から細菌兵器による攻撃を受けたとして、中国人の被害者や遺族ら180人が日本政府を相手に、総額18億円の賠償と謝罪を求めた訴訟の判決が27日、東京地裁で言い渡された。岩田好二裁判長は「細菌戦でペストやコレラに羅患(りかん)し、多数の死者が出た」と、細菌戦が行われたことを認める初の判断を示した。しかし「個人が相手国に直接、賠償を請求することはできない」と訴えは棄却した。原告側は控訴する方針。
731部隊の存在と人体実験については、1997年8月の「家永教科書検定訴訟」の最高裁判決などで、定説と認められたが、細菌戦に触れた裁判例はなかった。
訴えていたのは、中国浙江省と湖南省で直接被害を受けたとする11人と遺族ら。
判決で、岩田裁判長は731部隊の設立経緯や人体実験が行われたことに触れた後、細菌戦について原告の主張通りに認めた。その上で、被害者救済について「細菌戦は非人道的との評価は免れない。何らかの補償などを検討するなら、国会において高次の裁量により決すべきだ」と述べ、立法の必要性に言及した。
判決によると、同部隊は1940年10月ごろから42年6月ごろまで、両省の4都市にペスト菌やコレラ菌を空中や地上で散布した。その後、近くの町や農村にも伝染し、少なくとも1万人以上の死者を出した。
国側は事実関係の認否をせず、法的な責任に限って主張。戦争のような公権力の行使による個人が受けた損害への国の賠償責任を否定した過去の戦後補償裁判を踏襲し、請求を退けるよう求めていた。
被害者らは、93年に731部隊に関する新資料が見つかったのを機に原告団を結成。97年8月と99年12月の2次にわたり、戦争被害への賠償を定めたハーグ条約や民法の不法行為規定に基づき提訴した。

<731部隊> 1936年8月、満州(中国東北部)・ハルビン郊外に「関東軍防疫部」(後に関東軍防疫給水部)として発足。感染病の予防や浄水の供給を目的としたが、実際には、ペストやコレラ、チフス菌などを使った細菌兵器の研究開発をしていたとされる。責任者だった故・石井四郎軍医の名前から「石井部隊」とも呼ばれ、中国人やロシア人の捕虜らを「マルタ(丸太)」と称して人体実験に使い、殺害したとされる。東京裁判でも、731部隊については裁かれることはなく、米軍への細菌兵器の機密提供と引き換えに幹部が免責されたと指摘されている。森村誠一氏の著書「悪魔の飽食」で一般に存在が知られるようになった。(東京新聞 2002/08/28)

731部隊元隊員 ペスト菌「実験した」 菌培養、生体解剖も
27日の東京地裁判決は旧日本軍の731部隊の細菌戦を事実とし、当時の国家責任も認めながら、賠償請求を退けた。被害者遺族らの評価と失望が交錯する中、日本の「戦後」が再び問われている。
「731部隊が細菌兵器を開発し、中国各地に散布したことは間違いありません」
39〜45年に軍属として同部隊航空班に所属した松本正一さん(81)は東京地裁に提出した陳述書にこう記した。
松本さんは陸軍飛行学校で訓練を受けた後、731部隊の本部があったハルビンに赴いた。現地で細菌兵器についての詳しい説明はなかったが、周囲の話などから次第に作戦の内容を理解した。
最も順調に進んでいた「兵器」はペスト菌だったという。菌を感染させたノミをジュラルミンの箱に入れ、飛行機の両翼に取り付ける。箱は空中で開き、ノミが地上にまかれる仕組みだ。
松本さんはペスト菌をまく作業に直接かかわらなかったが、同じような装置を使って飛行機から水をまいたり、投下後に周囲の様子を調べに行ったりしたという。
731部隊の少年隊に所属していた篠塚良雄さん(78)も法廷で証言した。陳述書では、自分がペスト菌やコレラ菌を培養し、生体解剖にかかわった事実を赤裸々に語ったうえで、「自分が犯した戦争犯罪を、終生、世界に伝えていく責任がある」と結んでいる。

事実認否避ける 政府見解に影響

旧日本軍の731部隊が細菌戦を行ったと初めて認定した27日の東京地裁判決(岩田好二裁判長)は、死者数にも踏み込み、「中国側の調査では約1万人にのぼる」と言及した。同部隊の活動を「確認できない」としてきた年来の政府見解にも影響を与えそうだ。
判決が認定したところでは、同部隊は陸軍中央の指令に基づき、ペスト菌を感染させたノミを3カ所から空中散布したほか、1カ所でコレラ菌を井戸や食物に混入。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増えた。
しかし政府の責任について、判決は「国際慣習法に違反する国家責任が生じていたが、その責任は78年の日中平和友好条約などで決着した」と原告の請求を棄却した。
また、「日本の国会が立法措置によって救済に乗り出すべきなのに、これを怠っている」との主張に対しても、「細菌戦の被害は誠に悲惨、甚大だが、法的な枠組みに従って検討する限り、立法を怠ったという違法があったとはいえない」と退けた。

浜秀樹・法務省民事訟務課長の話 主文を聞いた範囲では、国の主張が認められたと考えている。(中日新聞 2002/08/28)

【黒竜江】旧日本軍の野外人体実験に関する有力な証拠を発見
黒竜江省安達市で17日、中国侵略日本軍細菌戦・毒ガス研究所の金成民所長は、旧日本軍731部隊の安達実験場跡で土と陶器で作られた細菌弾が炸裂した破片11枚を発見し、細菌人体実験の被害者が拘禁された「牢獄」跡を確認したことを明らかにした。
専門家は、現在までの被害者と加害者の証言をもとに国内で初めて発見された当時の旧日本軍731部隊による野外人体実験を裏付ける有力な証拠とみている。
分析を経て、これらの細菌弾の破片は宇治式50型と判明した。この破片は、旧日本軍731部隊の本部で発見、731部隊罪陳列館に保管されている同類の破片と完全に一致し、「牢獄」跡の証拠を合わせて、731部隊が生きた人間に細菌弾実験を行っていたことを証明するものと確認された。 (人民日報 2002/09/18)

731部隊の戦跡を世界遺産に 王鵬・罪証陳列館
抗日戦争勝利58周年の節目に合わせ、侵華日軍第731部隊罪証陳列館の王鵬館長は、今後10年以内に731部隊の戦跡に世界戦争遺跡公園を建て、世界文化遺産登録を目指す計画を表明した。
王館長によると、第2次世界大戦で最大規模の細菌戦の足跡をしるした731部隊戦跡は2000年5月、専門家らの考証を経て初めて保護措置が取られた。このほど、同戦跡の第2期プロジェクトが発表され、一部の遺跡を掘り起こして整理するほか、新たな展示館を建設する計画が固まった。また、当時の731部隊の本部庁舎を復元し、旧日本軍の当時の活動を再現する。
世界遺産にこれまでに登録されている戦跡は、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所博物館、日本の広島原爆ドームの2カ所。(編集SO)(人民日報 2003/08/17)

731部隊員は3560人
第2次大戦中、細菌兵器開発のため中国で人体実演を行った旧日本軍の「関東軍防疫給水部(731部隊)」に1945年の終戦直前に所属していた軍人、軍属は計3560人に上っていたことが明らかになった。
厚生労働省が川田悦子衆院議員(無所属)に階級、役職別の人数一覧表を公開した。(中日新聞 2003/09/05)

寒天の大量調達を申請 731部隊、細菌戦準備?
日中戦争時に中国でペストやチフスなどの細菌兵器を開発し、細菌戦を行ったとされる旧関東軍防疫給水部(731部隊)の石井四郎部隊長が、1939(昭和14)年に、細菌培養に必要な寒天の大量調達を申請していたことを示す文書を、岐阜市の軍事研究家が10日までに見つけた。
専門家によると、同部隊の寒天調達に関する文書はこれまであまり知られていない。調達は40年以降、本格化した中国での細菌戦への準備だった可能性が高いという。
文書は日本とアジアの近隣諸国の歴史資料をインターネットで公開している「アジア歴史資料センター」(東京)で発見した。原本は防衛庁防衛研究所が所蔵している。(共同通信 2003/09/10)

731部隊移送文書「私が作成」
細菌兵器研究のため人体実験を行ったとされる旧関東軍731部隊に中国人らを送りこんだことを示す証拠として中国黒竜江省が99年に公表した旧関東軍憲兵隊の内部文書の一部について、広島県の元憲兵の1人が「私が作成した」と名乗り出た。
名乗り出たのは広島県呉市在住の元憲兵本原政雄さん(83歳)、公表文書のうち2件を作成したと明かした。旧ソ連側のスパイ容疑で虎頭憲兵分遺隊が国境付近で逮捕した中国人2人の取り調べ報告書で、いずれも41年9月に作成。2人とも「利用ノ価値ナシ」とし、731部隊への「特移扱ガ適当」と記した。
本原さんは朝日新聞の取材に、取調べの状況も何度も見た、と証言。両足を縛って天井から逆さづりしたり、長いすに後ろ手で仰向けに縛った上でぬらした布を口にあてて呼吸しづらくしたり、といった拷問が行われていたという。本原さんは「戦争の残虐行為を正しく後世に残し、平和に役立てたい」と名乗り出た理由を話している。(朝日新聞 2003/10/08)

仏映画会社が731部隊の罪行を全世界へ発信
旧日本軍の731部隊(生化学兵器専門部隊)の罪行に関する資料を収めた、黒龍江省哈爾濱(ハルビン)市の侵華日軍731罪証陳列館で10日、フランスの映画制作会社「マラソン」が731部隊に関するドキュメント映画の撮影作業を終えた。撮影された映像は、近く全世界35カ国で放映される予定。今回の撮影は、在中国フランス政府機関の紹介により実現した。
撮影クルーは「日本細菌戦史実調査会」会員の1人を含む、全4人。今回は731部隊の建物跡、犯罪行為を証明する文書や写真、細菌実験風景のミニチュア、および細菌実験用に建設された遺体焼却炉、動物飼育室などが重点的に撮影された。また、朱玉芬さんなど731部隊細菌実験の被害者2人にインタビューし、731部隊の一般市民への残虐行為など、歴史的事実の証言を得た。
同陳列館の王鵬館長が「近年多くの欧州の映画・テレビ製作会社が哈爾濱市を訪れ、731部隊の罪行を撮影している」と話したことからも分かる通り、旧日本軍がアジア諸国で行った細菌戦の歴史に、ますます多くの欧州人が注目している。(編集NA) (人民日報 2003/10/10)

細菌戦賠償訴訟、77歳の証人が自費で訪日へ
中国の元高級会計士、方時偉さん(77)は20日、自費で南京市から日本を訪問し、細菌戦賠償訴訟団と共に28日に日本で行われる控訴審に参加する。
方さんは1928年2月2日、浙江省衢州に生まれた。1942年8月の細菌戦では、旧日本軍の細菌部隊が、汚染された大豆や麦粒、正体不明の粉末などを航空機で空から投下し、炭疽(たんそ)、コレラ、赤痢、チフスなの病原菌を衢州の都市部に次々と撒き散らした。まもなく、ペストや疥癬(かいせん)などの伝染病が都市部にまん延し、多数の一般市民が感染して死亡した。当時14歳の方さんは、この細菌戦で母親を亡くした上、自身も炭疽菌に感染し、身体には今も大きな痕跡が残っているという。
方さんは、「第2次大戦中に旧日本軍が実行した細菌戦の証拠は確たるもので、中国人は目も当てられないほどの損害を受けた。今回の日本での訴訟では、自身の体験によって、旧日本軍が衢州で行った残忍非道な犯罪行為を訴え、暴き出すつもりだ」と話している。(編集SN)(人民日報 2004/10/18)

731部隊・南京虐殺賠償訴訟 2審も敗訴
旧日本陸軍「731部隊」の人体実験や南京大虐殺の被害に遭ったとする中国人や遺族が、日本政府に総額1億円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が19日、東京高裁であった。門口正人裁判長は「国際法上、戦争の被害者個人が外国に損害賠償を求める権利はない」として、請求を退けた1審判決を支持し、原告側の控訴を棄却した。原告側は上告する方針。
訴えていたのは、731部隊の人体実験で夫を失った敬蘭芝さん(83)、南京大虐殺の際に銃剣で刺され流産した李秀英さん=昨年12月に85歳で死去=ら10人。門口裁判長は「(戦時下の非人道行為を禁じた)ハーグ陸戦条約は、軍隊構成員の所属国が被害者に直接賠償責任を負うと定めたものではない。当時は個人の賠償請求を認める国際慣習法もなかった」と判断。「人道主義の下に個人の賠償請求を認めるのは、敗戦国とその国民に負担を課すことになり、戦後処理に混乱と脅威をもたらす」と述べ、原告側の主張を退けた。
当時の中国民法に基づく請求も「日本軍による殺人や傷害に国際私法は適用されない」と否定。仮に同法が適用できるとしても「大日本帝国憲法下では、公権力による損害に国が賠償責任を負わない『国家無答責』が確立していた。20年で請求権が消滅する『除斥期間』の延長も認められない」と結論付けた。
1999年の東京地裁判決は「日中戦争は侵略行為で、わが国は真摯(しんし)に中国国民に謝罪すべきだ」として、南京大虐殺や731部隊による人体実験の事実を詳細に認定していた。
しかし門口裁判長は、侵略行為か否かなどには全く言及せず、法律判断だけで請求を棄却した。(東京新聞 2005/04/20)

731部隊細菌戦訴訟、高裁も被害認定・賠償認めず
第2次大戦中に旧日本軍の731部隊などが行った細菌戦で被害を受けたとして、中国人被害者と遺族計180人が日本政府に1人あたり1000万円の損害賠償と謝罪を求めた訴訟の控訴審判決が19日、東京高裁であった。
太田幸夫裁判長は「細菌戦は国際慣習法に違反する行為だが、対戦国に対する個人の賠償請求権はない」と述べ、請求を棄却した1審・東京地裁判決を支持し、原告側の控訴を棄却した。原告側は上告する方針。
判決は1審同様、同部隊などが1940〜42年、中国の浙江、湖南両省で、ペスト菌に感染させたノミを飛行機から散布したり、コレラ菌を井戸に入れたりした結果、原告など多くの人々が被害を受けた事実を認定した。
しかし、「被害者への救済措置は、政治的、外交的判断に基づく内閣の裁量に委ねられている」として賠償請求は退けた。
国側は1、2審を通じて、731部隊の存在などについて認否をしなかった。(読売新聞 2005/07/19)

日本の戦時医学犯罪を暴露 福島県立医大講師
福島県立医科大学の末永恵子講師が23日、日本・新宿で行われた「人骨発見16周年集会」で「戦時医学の実態──満州医科大学の研究」と題する報告を行った。報告で末永氏は、日本の戦時医学が日本軍国主義の植民地政策に積極的に参与し、軍事侵略を利用して医学研究を進め、さらに軍・司法と協力して医学犯罪を行った事実を詳細に紹介した。また、当時の満州医科大学が標本収集のために墓地を盗掘し、殺害された抗日烈士の遺体で医学研究を行い、生体解剖も行っていたなどの犯罪行為を暴露した。
報告後、末永氏は記者に対し「日本の多くの戦時犯罪は、十分に暴露される前に次第に忘れ去られている。戦時犯罪を理解しなければ、真剣な反省ができないばかりか、容易に同じ轍(わだち)を踏むことになる。だから日本による戦時犯罪の研究には非常に重要な意義があるのだ」と述べた。

▽新宿人骨発見

1989年7月22日に新宿区の建築工事現場で、切断・穿孔など人為的破損の痕跡がある大量の人骨が発見された。日本軍の中国侵略期、現場には陸軍軍医学校があった。(編集NA)(人民日報 2005/07/25)

旧日本軍の人体実験、外国人犠牲者のリスト見つかる
戦時中に旧日本軍に逮捕された後、関東憲兵司令部から731部隊に特別移送され、細菌を使った人体実験の犠牲となった外国人(「特移扱い」と呼ばれた)22人の名簿と資料が1日、中国の歴史研究者によって初めて公表された。犠牲者は旧ソ連の兵士やスパイ、旧ソ連のために活動していた朝鮮人スパイなどで、旧ソ連人15人、朝鮮人6人。
名簿と資料は、旧日本軍が未廃棄のまま残し、黒竜江省・吉林省の資料館や中央の資料館に保存されていた日本語書類の中から見つかった。書類は関東憲兵司令部司令官が署名発行したもので、外国人犠牲者の氏名・性別・年齢・本籍地・職業・身分・当時の住所・逮捕地点とその理由、各憲兵隊長による「特移扱い」伺い、関東憲兵司令官による承認番号などのデータが、比較的完全な形で残っている。(朝日新聞 2005/08/02)

731部隊長名のノート発見 元側近宅から2冊
細菌兵器開発のため人体実験を繰り返したとされる旧関東軍防疫給水部(731部隊)の部隊長・石井四郎軍医中将の署名が表紙に記された未公開ノート2冊が、側近だった夫妻の自宅から見つかった。石井氏は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に資料を提供し、戦犯の訴追を免れたが、これまで本人の手記は見つかっていない。直筆ノートならば、GHQにも明かさなかった終戦後の足跡や内面を記した貴重な1次史料ということになる。
A5判の大学ノート。表紙に鉛筆で「1945―8―16終戦当時メモ」「終戦メモ1946―1―11 石井四郎」と記され、終戦直後に書き留めた備忘録とみられる。在米ジャーナリストの青木冨貴子さん(57)が東京都内の元側近宅でノートのことを知った。
元側近の妻によると、石井氏は戦後まもなくこの元側近宅を訪れ「アメリカ人が来て没収すると困るから」とノートを預け、59年の死去まで返還を求めなかったという。
青木さんは米国立公文書館の文書をもとにノートを分析し、「ごく少数の関係者しか知らない部隊幹部の住所など、本人でないと知り得ない事実が書いてある」ことから直筆ノートと判断。石井氏が部隊を創設し、戦後に訴追を免れるまでの経緯を5日発売の著書「731」(新潮社)にまとめた。
ノートは略語や隠語を多用した断片的なメモの羅列のため、青木さんは当時の史料とつき合わせて解読を試みた。

■「1945」メモ

記述は敗戦翌日から始まる。ソ連が対日参戦し、8月9日に旧満州に侵攻すると、石井氏は東京から駆けつけた司令官に、一切の証拠物件を雲散霧消させるよう命令を受けた。ノートには〈新京(現長春)に軍司令官当地訪問/徹底的爆破焼却、且、徹底防諜を決定す〉と記されている。
しかし石井氏らは大量の病理標本や浄水機などの機械類、ワクチンなどを持ち帰った。ノートには〈抽出持込〉〈搬出積込〉と記され、命令を受けた直後から資料を持ち出す作業に取りかかったことになる。
石井氏の帰国経路をうかがわせる記述もある。8月16日、〈新京 停車場貴賓室に徹夜〉。そこから釜山に到着し、貨物船を手配。〈26/8 医務局〉とあり、8月下旬に東京に戻り、26日に陸軍省医務局を訪れたようだ。

■「1946」メモ

石井氏が自宅蟄居(ちっきょ)中に書いたとみられる。
〈連合国20/11招待時の買出し一覧表〉と記され、GHQ詰めの米国人将校の名前がある。青木さんは「石井が45年11月20日に将校6人を自宅に招き会食したと考えればつじつまが合う」と語る。
会食時の米軍将校らの会話の内容とみられる個所もある。〈ミスター・イシイを知っているか まだ満州にいて帰らぬ〉などとある。「GHQの一握りの幹部は45年秋から石井の所在を知っており、会食にまで応じながら、尋問のため石井を探し回っていたGHQの調査担当者には隠していたのではないか」と青木さんは推測する。(朝日新聞 2005/08/04)

旧日本軍の細菌戦、中国人の被害27万人以上
旧日本軍の細菌戦をめぐる対日訴訟原告団の王選団長は、このほど南京で開かれた「ナチスによるユダヤ人虐殺と南京大虐殺をめぐる国際シンポジウム」で、1932年から45年にかけて中国で設立された60の細菌部隊と分隊が、少なくとも27万人以上の中国人に被害を与えた、と述べた。
王選団長によると、日本は対中侵略戦争の期間に、中国へ細菌部隊を派遣しただけでなく、中国本土に細菌兵器の研究と生産の基地を建設、実戦で一般住民に細菌兵器を使い、ペスト菌、炭疽菌、鼻疽菌を中国の山林や川、田畑に撒き散らし、中国の無数の一般人に被害を与えたという。また旧日本軍は、中国のあらゆる戦場で細菌戦を展開した。しかし世界的にみれば、戦争で細菌兵器を使った例はきわめて少ない。
王選団長とそのほか内外の学者の研究によると、旧日本軍は1932年、中国東北地方の黒龍江省背陰河地区に細菌実験部隊を設立した。1936年には天皇の極秘命令に基づき、日本軍は哈爾濱(ハルビン)に731部隊を設立、主に人間に使用する細菌兵器の研究と開発を担当させた。731部隊に続いて旧日本軍は、長春、北平、南京、広州などの多くの都市に細菌部隊を設立した。これら部隊は60以上の分隊または派遣機構を持っており、参加した人数は1万人を超えた。1945年の戦争終結時にも、731部隊はまだ3千人余りを数えた。ハルビンの731部隊と、長春の100部隊は、炭疽菌と鼻疽菌を大量生産した。731部隊による炭疽菌の生産能力は、毎月600キロに上った。1941年から42年にかけ、100部隊は1トンの炭疽菌と500キロ以上の鼻疽菌を生産したという。
調査によると、旧日本軍の細菌部隊のほとんどすべてが、生きた人間を使った細菌兵器の実験、細菌戦の研究を行い、細菌兵器を大量生産した。正規の細菌戦部隊以外に、中国にいた日本軍の陸軍病院や各部隊、防疫給水部、さらには一般の部隊や普通の病院、医学関係の組織までが、細菌戦争に関わった。
遅くとも1938年には、中国に侵略した旧日本軍は中国で細菌戦を始めた。終戦後の調査によると、旧日本軍は中国の20以上の省で細菌作戦を展開。その中で規模や住民への被害が大きかったのは、浙江、江西、湖南などの各省で、被害者は少なくとも27万人に上る。(編集CS) (人民日報 2005/08/10)

731部隊に現金供与 人体実験データ目的に 秘密工作、2000万円以上
米、細菌兵器開発を優先 公文書、初めて確認

【ワシントン14日共同=太田昌克】第2次大戦中に中国で細菌による人体実験を行った旧関東軍防疫給水部(731部隊)の関係者に対し、連合国軍総司令部(GHQ)が終戦2年後の1947年、実験データをはじめとする情報提供の見返りに現金を渡すなどの秘密資金工作を展開していたことが14日、米公文書から明らかになった。総額は、国家公務員(大卒)の初任給ベースで比較すると、現在の価値で2000万円以上に達する。
人体実験で3000人ともいわれる犠牲者を出した同部隊をめぐっては、GHQが終戦直後に戦犯訴追の免責を約束したことが分かっているが、米国が積極的に働き掛ける形で資金工作を実施していた事実が判明したのは初めて。文書は、米国が731部隊の重大な戦争犯罪を認識していたにもかかわらず、細菌兵器の開発を最優先した実態を記している。
文書は47年7月17日付のGHQ参謀第2部(G2、諜報部門)=肩書は当時、以下同=のウィロビー部長のメモ「細菌戦に関する報告」と、同月22日付の同部長からチェンバリン陸軍省情報部長あて書簡(ともに極秘)。神奈川大の常石敬一教授(生物・化学兵器)が米国立公文書館で発見した。
両文書によると、ウィロビー部長は、731部隊の人体実験を調べた米陸軍省の細菌兵器専門家、フェル博士による部隊関係者への尋問で「この上ない貴重なデータ」が得られたと指摘。「獲得した情報は、将来の米国の細菌兵器計画にとって最大限の価値を持つだろう」と、G2主導の調査結果を誇示している。
具体的な名前は挙げていないものの「第一級の病理学者ら」が資金工作の対象だったと記載。一連の情報は金銭報酬をはじめ食事やエンターテインメントなどの報酬で得たと明記している。陸軍情報部の秘密資金から総額15万―20万円が支払われたとし「安いものだ」「20年分の実験、研究成果が得られた」と工作を評価している。
当時の20万円を国家公務員(大卒)の初任給ベースで現在の価値に置き換えると2000万―4000万円に相当する。
GHQ中心の調査は、フェル博士が47年6月に中間報告をまとめた後も別の専門家が継続。47年末の別の米軍資料は総額25万円が支払われたとしており、資金工作がその後も続いた可能性を示している。

米公文書の要旨

【ワシントン14日共同】旧関東軍防疫給水部(731部隊)関係者への秘密資金工作に関する米公文書の要旨は次の通り。

▽1947年7月17日付のウィロビー連合国軍総司令部(GHQ)参謀第2部(G2)部長から極東委員会へのメモ「細菌戦に関する報告」(極秘)

一、陸軍省の細菌戦専門家のフェル博士は以下の点を報告している。
一、陸軍化学戦部隊と陸軍、国務、司法各省の代表が出席した会議は、博士の調査で得られたすべての情報を機密にしておくことで非公式に合意した。
一、獲得した情報は、将来の米国の細菌兵器開発計画にとって最大限の価値を持つだろう。
一、報告書の内容は、人体実験の概要や中国軍に対する野外実験で使われた戦術など。博士は(1)日本側は真実を伝えている(2)細菌兵器製造では米国の方が進んでいる(3)人体実験データはこの上なく貴重だろう―と結論づけている。
一、こうした重要な情報は(731部隊の活動に携わった)第一級の病理学者に対する巧みな心理的アプローチによって、初めて獲得できるものだ。
一、金銭報酬をはじめ、食事や贈り物、エンターテインメントなどの報酬、ホテル代、検体発掘経費が支払われた。15万―20万円に満たない額で、20年分の実験、研究成果が得られた。
一、軍情報部の秘密資金を制約なしに活用することで、こうした情報獲得が可能になった。部隊関係者を(金銭的に)つなぎ留められなければ、彼らの要求を満たすことはできず、これまではぐくんできた関係も損なわれる。

▽7月22日付のウィロビー部長からチェンバリン陸軍省情報部長あて書簡(極秘)

一、フェル博士の報告は内容的に興味深く、軍情報部の秘密資金を無制約で活用し続ける必要性を説明している。
一、報告にある情報は、15万―20万円で得られた。安いものだ。
一、(しかし)こうした支出は現在、制約を受けている。新たな制約は日本からの情報提供を困難にするだろう。
一、現場の情報関連部局は制約に抗議している。私の経験から言うと、こうした制約ほど国際的な情報収集活動を破壊するものはない。

<731部隊> 1936年、ペストや炭疽(たんそ)菌などの細菌兵器を開発、実用化する目的で旧日本軍が創設した。正式名は関東軍防疫給水部。軍医だった石井四郎部隊長(故人)の名前から「石井部隊」とも呼ばれた。中国黒竜江省ハルビン郊外に本部が置かれ、東京の陸軍軍医学校や中国各地の関連部隊と連携。中国各地で細菌戦を展開したほか、中国人やロシア人らに対する人体実験を行った。終戦時の証拠隠滅に加え、連合国軍総司令部(GHQ)が実験データ提供の見返りに訴追はしないと約束した取引により、部隊幹部らの戦争犯罪責任が問われることはなかった。部隊幹部らが戦後、連合国により戦争犯罪責任を問われることはなかった。

真相、闇に追いやる取引 吉見義明・中央大教授

旧日本軍の生物・化学戦に詳しい吉見義明・中央大教授(日本現代史)の話 旧関東軍防疫給水部(731部隊)の人体実験データは、国家と旧軍が日本国民のお金を使って収集した国家機密だった。本来なら、反省を込めて国民の前に明らかにすべき事実だったにもかかわらず、お金を介して米国に渡していたわけで、何ともやりきれない。731部隊(の真相)は依然、闇に包まれている。部隊の全体像をつかめない状況を作り出した重要取引だったともいえる。(米政府内には)日本の戦争責任を明らかにしようとした勢力と、すべてを明らかにせず隠ぺいしようとした勢力があったが、後者が最終的に勝利していった。

なりふり構わぬ情報取引 常石敬一・神奈川大教授

常石敬一・神奈川大教授(生物・化学兵器)の話 調査を担当したフェル博士など米本国の生物戦専門家と連合国軍総司令部(GHQ)参謀第2部(G2)による731部隊関係者からの人体実験に関する情報収集は、戦犯にしないという「アメ」と、断れば戦犯訴追になるという二者択一を迫ることで「強圧的」に行われたと考えていた。しかし実態は、金品で歓心を買って情報の入手が行われていたことが明らかとなった。
ここには戦勝者と敗戦者という構図はない。むしろ、人体実験の事実を見逃していた失態を暴露された前者と、ひた隠しにしていた真相が暴露された後者が、なりふり構わず、金品を介した情報取引に走っていく姿勢が浮かび上がってくる。
1947年末にまとまる米側最終報告には「25万円でこれらのデータは入手できた。情報の価値からすれば取るに足らない額だ。これら情報を自発的に提供した人々が、このことで面倒に巻き込まれないよう処置されたい」という「矛盾した記述」がある。
「自発的に提供」との表現で、人体実験の情報収集が金品を介していた実態を覆い隠そうとする一方で「25万円」との金額を明示することにより、G2が望む情報収集のための陸軍省機密費の支出の妥当性と必要性を訴えている。米国の軍、官僚機構とは、こうした「矛盾」がまかり通るところのようだ。(共同通信 2005/08/14)

ref. US paid for Japanese human germ warfare data
(ABC News 2005/08/14)

旧日本軍731部隊 ノミ使いペスト菌兵器
日米の資料で研究判明
【ワシントン=共同】太平洋戦争中に細菌戦の準備を進めた旧関東軍防疫給水部(731部隊)が、ノミを使って致死性の高いペスト菌の細菌兵器を研究開発した過程や、ペストで死亡した患者データの詳細が16日、日本側文書や米議会図書館の資料で判明した。同図書館は、部隊関係者が戦後、米軍に提出した人体解剖記録(英文)を一般公開する方針を決定。公開に先立ち、共同通信と神奈川大の常石敬一教授(生物・化学兵器)に閲覧を認めた。
日本側文書は、731部隊幹部らが執筆した日本語の秘密論文集「陸軍軍医学校防疫研究報告第一部」などで、ノミの増殖法や細菌戦に適した条件、爆弾に詰めた際の生存能力などを包括的に研究、当時のソ連を標的とした細菌兵器開発の経緯を伝えている。常石教授が国立国会図書館関西館(大阪)で発見した。
英文記録は3種類の病理解剖データで、ペスト菌に関する「Q報告」、炭疽(たんそ)菌の「A報告」、鼻疽(びそ)菌の「G報告」。「Q報告」は、1940年6月から秋にかけて中国東北部の農安と新京(現在の長春)でペストに感染して死亡した住民57人の解剖結果をまとめた。
日本側文書によると、731部隊幹部だった平沢正欣陸軍軍医少佐(当時)は医学論文の中で新京のペスト流行を研究し、犬に付着する「イヌノミ」が感染媒体だったことを立証。この過程で、感染したイヌノミを人間に付着させる人体実験も実施した。
少佐はほかにも、機密扱いの4本の論文をまとめ(1)爆発でノミの脚に障害が発生すればペスト菌の運搬能力が低下(2)ノミは光を嫌うため雑草地への散布が有効−などを解明。爆発力が小さくて済むけい藻土製の「石井式細菌爆弾」の開発に至る基礎研究を行った。
他の部隊関係者はノミを大量輸送する方法を研究。大量のノミを狭い場所に集めた場合、死亡率が高くなることを突き止め、ペスト菌に感染させた「ペストノミ」を小分けして戦地に送る輸送方法を提唱した。

<ペスト> 本来はペスト菌常在地域に生息するネズミやリスなど、齧歯(げっし)類の動物がかかる病気だが、ノミの媒介で人間にも感染する人獣共通感染症。感染経路や症状から腺ペスト、肺ペストなどに区別され、特に肺ペストの患者からはせきなどで人から人へ急速に広がる。致死率が高く「黒死病」として恐れられた。中世欧州ではたびたび大流行。日本では1926年を最後に患者は発生していない。旧日本軍の関東軍防疫給水部(731部隊)は、ペスト菌を兵器として研究、開発した。(中日新聞 2005/08/17)

韓国「反日歪曲」報道 特ダネ、実は中国映画から盗用
【ソウル=黒田勝弘】韓国のテレビが「8.15」に特ダネとして報道した“旧日本軍による生体実験”と称する映像が、実は中国で制作された反日・劇映画の場面だったことがわかり、大誤報として問題になっている。韓国のマスコミや諸団体は反日キャンペーンのためにこの種のでっち上げ的な“歴史歪曲(わいきょく)”をよくやる。今回の誤報事件は「日本糾弾なら何をしてもいい」といった韓国マスコミの安易な反日報道の実態があらためて暴露されたかたちだ。
問題の映像は韓国の2大テレビ局のひとつであるMBC(文化放送)テレビが「光復60周年記念日」の15日夜のニュース番組で報道した。報道は戦前、旧満州に駐屯していた日本軍の細菌戦研究部隊「731部隊」が自ら撮影した生体実験の様子だとして、生きた人間から臓器を取り出す“残酷場面”などを白黒の記録フィルム風に紹介した。
放送は「ロシアの軍事映像保管所」から独自に入手した実際の記録フィルムとして特ダネ扱いだった。しかしニュースを見た視聴者から「映画の場面と同じだ」との指摘や非難、抗議の声が上がり、MBCは調査の結果、1980年代に中国で制作された劇映画「黒太陽731」に登場する場面であることが判明したため、翌16日夜のニュースで誤報を認め謝罪した。
この中国映画は韓国でも1990年に「マルタ」という題で公開され、当時「日本軍の蛮行」を描いた反日映画ということで大ヒットし話題になっている。
映画はカラーだったが、テレビではいかにも本物の記録のように白黒に変えられ、意図的なでっち上げ映像になっている。
MBC側は表向き仲介のロシア側の話を信じて入手したとし、テレビ局に悪意はなかったという姿勢だが、十分な検証を抜きにした“反日報道の垂れ流し”という批判は免れそうにない。(産経新聞 2005/08/18)

731部隊の文書寄贈 証拠隠滅の経過記す
戦時中に旧陸軍が行った細菌兵器開発をめぐる証拠隠滅の経過や、中国で人体実験を繰り返した「731部隊」に米占領当局が戦犯免責を与える経緯などを記した当時の旧軍関係者の個人文書が31日、防衛庁の防衛研究所に寄贈された。
文書は終戦時に陸軍省軍事課員として、軍事科学情報を統括した当時の陸軍参謀、新妻清一元中佐(故人)が終戦処理の経過を克明に記録し、戦後、自宅に保存し続けた「新妻ファイル」と呼ばれる史料。新妻氏の遺族と防衛庁側の間で調整され、戦後61年を経ての寄贈となった。(共同通信 2006/05/31)

ドイツの生物学者 旧日本軍の細菌戦を調査 浙江省
「旧日本軍による細菌戦で被害を受けた中国の人々の、60年余りにわたる甚大な苦しみには驚愕と震撼を覚える。しかし、国際社会でこれらの旧日本軍の犯罪行為を知る人は非常に少ない。このようなことを2度と起こさないために、世界中の人々があの非人間的な細菌戦を知る必要がある」
ドイツのハンブルグ大学の細胞生物学者であり、国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)生物兵器査察員でもあるヤン・ファン・アケン氏は、浙江省義烏市でこのように語った。新華社のウェブサイト「新華網」が伝えた。
アケン氏は8日から11日まで、補佐のツィクラー氏を伴い、同省衢州、金華、義烏の各市を訪問。旧日本軍細菌戦中国被害者訴訟原告団の王選団長の案内を受け、60年余り前の旧日本軍による浙江省での細菌戦の重大な被害について詳しい聞き取り調査を行った。
アケン氏によると、今回の調査結果は、2006年11月にジュネーブで開かれる国連「生物兵器禁止条約」(BWC)第6次審議会議に提出される。また、旧日本軍が中国で行った細菌戦の実態が、世界のメディアを通じて明らかにされる。
細菌戦の中を生き延びた衢州市の呉世根さんは、旧日本軍が播いたペスト菌により、弟と妹を失った。「(当時)9歳になる2番目の弟は、苦痛のあまりベッドの板を掴み、血を流していた」と、苦しみながら死んでいった弟の様子を涙ながらに語った。
衢州市衛生防疫ステーションの元所長、邱明軒さん(75歳)は、長く同市の細菌戦調査に携わっている。邱さんは旧日本軍が1940年と1942年の2回、同市で展開した大規模な細菌戦の実態をアケン氏に説明した。邱さんの調査によると、当時、同市や周辺の農村でペスト菌に感染して死亡した人は、5万人を超える。
金華市湯渓鎮曹界村では、かつて炭疽菌に感染した被害者の戴兆開さん(70歳)が、ズボンの裾をまくり上げて見せた。戴さんの両足には松の木の皮のようにただれた傷口が残っている。アケン氏はその痛々しさに眉を曇らせながら、炭疽菌への感染の経緯や、現在使っている薬について、詳細に聞き取った。
細菌戦で403人の命が奪われた義烏市崇山村では、アケン氏は、日本軍が1942年秋に撒き散らしたペスト菌と、生体解剖という残虐行為を重点的に調査した。訴訟原告団の王培根事務局長は、「日本軍は、ペスト菌に感染した村人を捕まえて村にある林山寺に連れて行き、仏教の聖地で彼らの内臓を取り出し、細菌弾を作るのに用いた。この村の多くの老人は、被害者が死の直前に上げた凄惨な叫び声を一生忘れることができないと言っている」と語った。
4日間の聞き取り調査に、アケン氏とジグレ氏は強く震撼させられたという。アケン氏は同省での調査を終えた後、「今の心境はとても複雑だ。旧日本軍の細菌戦が中国の人々を60年以上も苦しめてきたことに非常に心が痛む、一方で、王選団長らの人々の歴史の証拠を取り上げる行動には、心が慰められる」と述べている。
アケン氏はまた、「今回の調査で、私は旧日本軍の細菌戦はまさに事実であり、人々の推測ではないことを確信した」と表明。更に多くの人々にこの歴史的事実を知らせ、このような悲劇が世界で繰り返されないようにしなければならないと語った。
王選団長は、「ドイツの生物学者による調査は、旧日本軍の細菌戦の証拠が確たるものであることを再度説明した。また、訴訟を最後までやり抜くという原告団の決意がさらに固まった」と述べた。原告団は、1997年8月から現在まで、日本政府に謝罪と損害賠償を強く求め続けている。
中国国内や海外の多くの研究により、1931年から1945年までの間、旧日本軍の731部隊などの細菌戦部隊が数十回にわたる細菌戦を展開し、中国の人々に甚大な被害を与えたことが明らかにされている。(編集YS) (人民日報 2006/06/12)

日本で細菌攻撃検討か 731部隊長の直筆メモ
【ワシントン21日共同】太平洋戦争中に中国旧満州で細菌兵器開発を進めた旧関東軍防疫給水部(731部隊)の石井四郎部隊長(陸軍軍医中将)が1945年8月の終戦直後、日本に進駐する米軍など連合国軍を標的に細菌攻撃を検討していたことが、同部隊長直筆のメモに記載されていることが21日分かった。731部隊が終戦直前に特攻隊による細菌攻撃を準備したことは分かっているが、終戦後も部隊長が攻撃の可能性に言及していたことが判明したのは初めて。
メモの表記は断片的で攻撃計画がどこまで具体化していたかは不明。しかし、メモは軍幹部が「犬死(に)をやめよ」と部隊長に伝えたことを記すなど、当時のやりとりを生々しく伝えている。
メモは、部隊長が終戦翌日の8月16日から同26日までの動きを大学ノートにまとめた「1945−8−16 終戦当時メモ」。米在住のジャーナリスト、青木冨貴子さんが、部隊長に仕えた旧軍属から入手、同部隊の研究を長年続ける常石敬一神奈川大教授(生物・化学兵器)が解読作業を進めた。
メモは部隊の終戦処理の方針や経緯を記載。「内地へ出来る限り多く輸送する方針 丸太−PXを先にす(する)」とあり、人体実験用の捕虜「マルタ」に加えて「PX」の暗号が意味するペスト菌に感染した「ペストノミ」を、日本に早期輸送する方針を決めていたことが分かる。
また「(相模湾に)25日米兵上陸 全国にばらまく」「帰帆船ならば人員器材が輸送出来る見込(見込み)」と指摘し、細菌兵器攻撃の可能性に言及。米軍の進駐を前に、兵器関連の要員や器材の搬送を検討していた経緯を記している。
しかし、米軍先遣隊の日本到着2日前の同26日には梅津美治郎陸軍参謀総長や河辺虎四郎参謀次長が「犬死(に)をやめよ」「静かに時を待て」と部隊長に指示。陸軍上層部からいさめられたことを示唆している。

731部隊長メモの要旨

【ワシントン21日共同】旧関東軍防疫給水部(731部隊)の石井四郎部隊長が終戦直後に残した「1945−8−16 終戦当時メモ」の要旨は次の通り。(原文の片仮名はひらがなに、漢字の旧字体は新字体に置き換え。×は判読不能)

 ▽(731部隊支部のあった)大連の処置

 1、満鉄(南満州鉄道)に全部移管
 2、機秘密書類の徹底焼却
 3、全然無関係に決す
 4、人員は満鉄に移管

 ▽連(連絡の意)

 1、安東、平壌、京城、大丘、釜山に連絡所を設く
 2、最も釜山に近く全員集結す 或は遂次集結す
 3、内地ヘ出来る限り多く輸送する方針 丸太−PXを先にす

 ▽方針

 婦女子、病者、及高度機密作業者及順次全員は万難を排して内地に能う限り速に内地へ帰還せしむ

 ▽輸送連絡所の設置

 1、之がため将校の×ゆる連絡員を(部隊幹部の)大田大佐か柴野梯段(梯団(ていだん)=部隊の意)より取る。
 2、部隊全員を一先つ平壌に集結す
 3、安東、平壌、京城、大丘、釜山に連絡所を出し輸送に任せしむ
 4、輸送機関は主力は船舶 一部は飛行機とす
 5、船舶は(関東軍の)山形参謀に交渉して優先的に確保す

 ▽8/25「原子爆弾」

 中国軍医電316号

広島市空襲時発生したる負傷者にして最初微傷程度のものが逐次活気を失ひ頭髪脱落し口内炎出血性傾向貧血白血球減少(特に顆粒(かりゅう)白血球減少)等の症状の下に死亡者相当数あり之が原因並に治療方法研究の為血液病学、病理学者等を主とする研究班を派遣せられ度

 ▽8月22日

 徳寿丸22夕着 8/23発予定
 相見(相模)湾に25日米兵上陸 全国にばらまく
 帰帆船ならば人員器材が輸送出来る見込

 ▽8/26

 1、医務局 予備、復員 資材は付近の陸病(陸軍病院)へ
 2、高山、中山復員案 一部は東一院附(陸軍第一病院) ××× 研究機密
 3、河辺(陸軍参謀次長)、民族防御賛成、科学進攻賛成、科学の負け、犬死をやめよ、予備帰農賛成
 4、梅津(陸軍参謀総長) 民族防御賛成、科学進攻賛成 静かに時を待て 多年御苦労を謝す
 5、荒尾(陸軍省軍事課長)、予備賛成 説明はだれでも出来る 他の人の方が可 民族防御賛成 基礎科学をしっかりやる× 誠心誠意最後迄後始末を堂々 豚箱に入る約1年の期間あらん

<731部隊> 旧日本軍が1936年に正式発足させた、ペストやコレラなどの細菌兵器を開発するための部隊。中国東北部ハルビン郊外に本部を置き、正式名は関東軍防疫給水部。通称「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜ら約3000人に人体実験をしたとされ、中国湖南省などでペストに感染させたノミを空中散布するなど細菌戦を実行した。終戦時に大半の施設を爆破して証拠隠滅を図り、戦後、石井四郎部隊長らの免責と引き換えに、米軍に研究データが提供された。(共同通信 2006/07/21)

生体解剖:フィリピンでも 大戦末期 元衛生兵が証言
第2次大戦末期、フィリピン・ミンダナオ島で、負傷兵の治療などに当たっていた元上等衛生兵曹の牧野明さん(84)=大阪府枚方市=が、仕えていた軍医とともに現地住民を生きたまま解剖したことがあると証言、その体験を基に、近く語り部活動を始める。解剖は軍医が衛生兵の医療実習として個人裁量で行ったとみられる。戦時中の生体解剖は旧満州(現中国東北部)の生物戦部隊「関東軍731部隊」が中国人に行った例が知られているが、専門家によるとフィリピンに関する証言は初めてという。【久木田照子】

牧野さんは海軍第33警備隊の医務隊に所属。1944年8月から同島西部のサンボアンガ航空基地で負傷兵の治療などに当たった。医務隊は30代の軍医(大尉)を筆頭に、補佐役の牧野さんら三十数人がいた。
牧野さんによると、解剖は同年12月から、米軍のスパイと疑われた住民(捕虜)に対し、基地内の病院で行われた。軍医の指示を受けながら2人で執刀。麻酔をかけた上で、10分〜3時間かけて、手足の切断や血管縫合、開腹手術などをした。解剖中は部下が助手や見張りをした。
米軍上陸直前の45年2月まで3日〜2週間ごとに行われ、犠牲者は30〜50人に上るという。遺体は部下が医務隊以外に知られないように運び出して埋めた。
牧野さんの部下だった80代の男性は「かわいそうで解剖には立ち会わなかったが、(何が行われていたかは)仲間に聞いて知っていた。遺体も見た」と話している。
解剖が始まる2カ月前には、レイテ沖海戦で日本海軍が壊滅的な打撃を受け、サンボアンガも空襲されるなど戦局は厳しさを増していた。軍医は牧野さんに「おれが死んだら、おまえが治療を担当しなければならないから」と解剖の理由を説明したという。
45年3月に米軍が同島西部に上陸後、日本兵はジャングルを敗走。病気や飢えなどで医務隊も大半が死亡し、軍医は自決したという。
牧野さんは「命令に逆らえず、むごいことをした。戦争体験者が減りつつある今、自分には戦争の真実を伝える責任がある」と話している。(毎日新聞 2006/10/19)

大戦末期に比で生体解剖 元海軍衛生兵が証言
太平洋戦争末期に、旧日本軍がフィリピンのミンダナオ島で行った捕虜の生体解剖を、元海軍衛生兵の牧野明さん(84)=大阪府枚方市=が25日までに証言した。
戦時中の生体解剖は旧満州(中国東北地方)の731部隊や九州大病院のケースが知られているが、フィリピンで行ったという証言はこれまでなかったという。
61年余り家族にも言えず、夢に見るなど苦しみ続け、「なぜ今更」と証言に反対する戦友もいたが「このまま埋もれさせては亡くなった人が浮かばれない」と決意。戦争体験の語り部として、悲惨な歴史を伝えていくつもりだ。
牧野さんは海軍の第33警備隊の医務隊に所属。1944年8月、ミンダナオ島サンボアンガ航空基地に配属された。生体解剖が始まったのは同年12月。22歳だった。
「捕虜を連れてこい」。上官の30代の軍医に命じられ、米軍のスパイとして捕まった住民男性2人を連れて行くと「これから解剖する」と告げられた。場所は病院にしていた学校。おびえきった2人に服を脱ぐよう命じ、手足を手術台に縛りつけた。顔に布をかけエーテルをかがせると、数分で意識を失った。
「おれが死んだらおまえが治療をしなくてはならないから」と軍医に言われ、震える手で腹にメスを入れた。「これが肝臓だ」。軍医に示されたが、頭に入らなかった。「命令とはいえ、罪のない者に何とむごいことをしているのか」。心の中でわびた。
手足の切断、血管縫合、開腹手術−。生体解剖は翌45年2月まで続き、女性や子どもを含む約30人が犠牲になった。軍医の「おい、やるぞ」という一言で始まり、息を吹き返すことがないよう最後にロープで首を絞めた。遺体は部下が運び出して埋め、解剖は医務隊だけの秘密にされた。
「命令に逆らえば殺される。そんな時代だった」と牧野さん。45年3月、米軍がミンダナオ島へ上陸。日本兵はジャングルを敗走した。「必死で逃げながら空を見上げたら、真ん丸な月が出ていた。故郷でも見てるのかと思うと、心細くて涙が出た」
牧野さんは数年前から枚方市の小中学校で語り部活動をしている。「生々しすぎ」生体解剖の話はしなかったが「こんな悲惨なことを2度と繰り返してはいけない。1人でも2人でも戦争の真実を伝えていきたい。機会があれば、償いの証言を続ける」と話す。(共同通信 2006/11/25)

旧日本軍「細菌戦研究」 米が機密文書公開
米国立公文書館(メリーランド州)は、旧日本軍が当時の満州(現中国東北部)で行った細菌戦研究などに関する米情報機関の対日機密文書10万ページ分を公開した。

石井中将 尋問記録も

文書目録によれば、石井四郎軍医中将を含む731部隊(関東軍防疫給水部)関係者の個別尋問記録が、今回の公開分に含まれている。また、細菌戦研究の成果を米軍に引き渡したとされる石井中将が、米側に提出する文書を1947年(昭和22年)6月ごろ執筆していたことを裏付ける最高機密文書も今回明らかになった。(ワシントン 山本秀也)

戦争犯罪を立証

今月12日に公開された機密文書は、ナチス・ドイツと日本の「戦争犯罪」を調査するため、クリントン政権当時の99年に米政府の関係機関で構成された記録作業部会(IWG)が、米中央情報局(CIA)や前身の戦略情報局(OSS)、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)などの情報文書を分析し、機密解除分をまとめて公開した。
IWGの座長を務めるアレン・ウェインステイン氏は、「新たな資料は学者らが日本の戦時行動を理解する上で光を当てる」と意義を強調するが、作業は「日本の戦争犯罪」を立証する視点で行われた。日本語資料の翻訳と分析には中国系の専門家も加わっている。
細菌戦などに関する米側の情報文書は、これまでも研究者が個別に開示請求してきたものの、一度にこれだけ大量に公開された例は少ない。
情報の一部は34年(昭和9年)にまでさかのぼるが、終戦の45年(同20年)前後4年分が大半を占めている。
文書内容の大半は731部隊など細菌戦研究に関する内容だ。公開文書の概要によれば、37年12月の南京事件に関する文書が一部含まれる。IWGでは「慰安婦問題」を裏付ける文書も探したが、「目的を達せず、引き続き新たな文書の解析を図る」と述べるなど、調査では証拠が見つからなかったことは認めている。

日本の使用警戒

細菌戦の研究競争が大戦下で進む中、米側は日本の細菌兵器使用を終戦まで警戒していたほか、奉天(現瀋陽)の収容施設で、連合軍の捕虜に細菌実験が行われた形跡がないかを戦後調べたことが判明した。同じく米本土に対しても、日本からの風船爆弾が細菌戦に使われないか、米海軍研究所が回収した現物を大戦末期に調べ、「細菌の散布装置がついていないことから、当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も公開された。
細菌戦に関する米国の日本に対する関心は、44年ごろから終戦までは、細菌兵器の開発状況と731部隊の活動実態の解明に重点が置かれ、終戦から47年ごろまでは、同部隊関係者への尋問による研究成果の獲得へと、重点が移っている。
米側が最も強い関心を抱いたのは、731部隊を指揮した石井中将だった。45年12月の情報報告には、千葉県の郷里で中将が死亡したことを装った偽の葬式が行われたことも記されているが、翌46年から47年には中将に関する報告や繰り返し行われた尋問の調書が残されている。

保身引き換えに

石井中将は自らと部下の保身と引き換えに、細菌戦研究の成果を米側に引き渡したとされてきたが、47年6月20日付の米軍最高機密文書は、こうした説に沿う内容を含んでいる。
「細菌兵器計画の主要人物である石井中将は、問題全体にかかわる協約を現在執筆中だ。文書には細菌兵器の戦略、戦術的な使用に関する彼の着想が含まれる。石井中将の約20年にわたる細菌兵器研究の骨格が示される見通しであり、7月15日には完成する」
同じ文書には、「日本南部の山中」に隠されていた「細菌に侵された200人以上から採取された病理学上の標本スライド約8000枚」が、47年8月末までに米側に提供されることも付記されていた。
米側では日本からの情報収集を急ぐ一方、冷戦でライバル関係となる旧ソ連に細菌戦に関する情報が渡ることを強く警戒していた。ハバロフスク裁判のため、旧ソ連が請求してきた細菌戦関連の証拠引き渡しを渋る一方、約30人の731部隊関係者が「モスクワ近郊で細菌兵器の研究プロジェクトに従事している」とする48年4月の情報報告も今回明らかにされた。(産経新聞 2007/01/18)

「病原体の生体実験 毎日2〜3人解剖」 731部隊元隊員証言
戦時中に中国大陸で、捕虜などに人体実験を重ねた旧日本陸軍731部隊の衛生兵だった三重県尾鷲市の大川福松さん(88)が8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席、「毎日2〜3体、生きた人を解剖した」と証言した。当時の体験を人前で明かしたのは初めてで、「不正なことは、社会に、はっきり示さなあかんと思うようになったから」と語った。
大川さんは早稲田大で細菌学を学び、1941年に召集。44年8月から旧満州(現中国東北部)にあった関東軍防疫給水部本部(通称731部隊)の「ロ号棟」で、衛生伍長をしていたという。所属した班は、ペストやコレラ、梅毒などの病原体を人体に注射して感染の状態を調べたり、人為的に凍傷を作ったりしていた。最初は「大変な所に来た」と思ったが、次第に感覚がまひし、「そのうち、毎日2〜3体解剖しないと仕事が終わらん気になっていった。多い時は1日5体を解剖した」と証言した。
子持ちの慰安婦を解剖したこともあった。「子どもが泣いている前で、母親が死んでいった。子どもは凍傷の実験台になった」と語った。(読売新聞 2007/04/09)

731部隊ら2件の補償訴訟、中国人側の敗訴確定…最高裁
戦時中、旧日本軍の731部隊が行った細菌戦や人体実験などで被害を受けたとして、中国人被害者と遺族らが国に賠償を求めた2件の戦後補償訴訟の上告審で、最高裁第1小法廷は9日、原告側の上告をいずれも退ける決定をした。
中国人側の敗訴が確定した。
訴訟は、〈1〉731部隊などが1940〜42年、中国各地で散布した細菌でコレラやペストなどの伝染病に感染させられた被害者ら計180人〈2〉731部隊による人体実験で肉親を殺されたり、南京大虐殺などで負傷させられたりした被害者ら計10人──が、95〜99年に東京地裁に起こした。
180人が原告となった集団訴訟の1、2審判決は、731部隊が飛行機からペスト菌に感染したノミをばらまくなどの細菌戦を行い、多数の死者を出したと認定したが、旧憲法下での国の不法行為は責任を問われないという「国家無答責」などを理由に、請求を棄却。もう1件の訴訟の1審判決も、旧日本軍の加害行為を認定した上で、請求を退け、2審も原告の控訴を棄却していた。
最高裁は先月27日、中国人強制連行訴訟の判決で、「72年の日中共同声明で中国人個人の賠償請求権は放棄された」とする判断を示している。(読売新聞 2007/05/09)

元731部隊の篠塚さんが体験講演/小田原
旧日本陸軍731部隊に所属した千葉県在住の篠塚良雄さん(83)を招いた講演会が3日、小田原市千代の本立寺で開かれた。約100人を前に、細菌の大量生産や生体実験などにかかわった当時の体験を語った。
反戦平和と日中友好を目指す「撫順(ぶじゅん)の奇蹟(きせき)を受け継ぐ会」湘南支部(青英権代表)の主催。
篠塚さんは、1939年に15歳で同部隊の少年隊に入隊。末端要員として細菌の運搬から始まり、細菌をばらまくために使うノミの大量生産、中国人らへの生体実験や解剖などに従事したという。
篠塚さんは「入隊時は恐怖心はなく、やりがいがある仕事が待っているような気がした。次第に人間としての本来の善悪の区別が付かなくなっていた」と当時を振り返った。部隊の任務に手を染めたことについて「100年たってもぬぐい去ることはできない」と悔やむ思いを明かした。
また、「中国人らの被害に思いをはせることで日中友好は成り立っていく」と呼び掛けた。
参加した同市千代の主婦(57)は「自分は戦争を知らない世代なので数少ない生き証人の話が聞けてよかった。過去の事実を知った上で平和や憲法問題を考えていきたい」と話していた。(神奈川新聞 2007/06/04)

731部隊:占領下、米軍が関係者の郵便物検閲を指示
第二次世界大戦後の占領下で、米軍が「細菌戦」などを研究した旧日本軍731部隊の関係者12人の郵便物を検閲するよう指示していたことが分かった。山本武利・早稲田大教授(メディア史)が国立国会図書館の米公文書資料から、検閲指示の秘密文書を発見した。米軍は人体実験などのデータ提供と引き換えに、同部隊員らの戦犯訴追を免除した。その一方で、郵便検閲により関係者の動向を探っていた事実が明らかになったのは初めて。謎の多い部隊をめぐる情報収集に、米側が戦後、硬軟両様の手段を駆使していた事実が浮かび上がった。【大井浩一、栗原俊雄】

文書は1946年2月15日付で米陸軍参謀第2部(G2)から、連合国軍総司令部(GHQ)の民間検閲局(CCD)あてに出された1枚。上下に「機密」のスタンプ、右上には「廃棄」を求めた手書きのメモがある。
内容は2項目で、最初に「下に挙げた人物の郵便物を検閲するように」と指示。731部隊長だった石井四郎(1892〜1959年)や、石井の側近で戦後はミドリ十字を創設した内藤良一(1906〜82年)ら12人の氏名をローマ字で、肩書や住所とともに列挙している。満州事変の首謀者、石原莞爾(1889〜1949年)の名前もある。
検閲のポイントは五つで、石井や細菌戦に関するあらゆる言及など。「会合の手はず」なども挙げ、関係者同士の連絡にも注意して検閲するよう求めている。
第2の項目は、部隊の研究施設にいた「医学的な背景を持つ」とされる9人のリスト。住所は「不明」だが、これらの人物の動向にも注意するよう求めたとみられる。2つのリストとも、従来731部隊の関係者として知られていなかった名前が含まれている。
米軍は占領開始直後の45年9月から、同部隊関係者の尋問を始めたが、当初から戦犯免責をちらつかせ、情報を引き出そうとした。47年には実験データを提供させ、関係者の訴追は見送った。今回の文書は、米軍が尋問により証言を引き出すと同時に、郵便検閲を通し、ひそかに情報を得ようとしたことを示す。
山本教授は「東京裁判(極東国際軍事裁判)が始まる前の時期で、731部隊の免責に必要な作業だったのかもしれない」と話している。(毎日新聞 2010/02/06)

731部隊:元隊員5人が実名 「731部隊の真実」改訂版発刊 /岩手
◇備忘録を追加収録
中国東北部のハルビンで細菌兵器の研究を目的に人体実験をしていた旧日本軍731部隊の元隊員らの証言集「731部隊の真実」の改訂版が9日、発刊された。1995年の初版で仮名だった県内出身の元隊員5人が実名を明かした。5人の備忘録や別の元隊員の証言も追加収録した。
発行者は、労組や聞き取りを続ける有志らでつくる「731部隊の証言を残す岩手の会」。事務局の佐々木徹さんは「加害の事実にも目を背けず、読んでほしい」と話す。
元隊員は95年当時、中国人や朝鮮人のマルタ(実験体)を麻酔をかけず解剖したり、ペスト菌を注射したりといった実態を語った。だが、証言の内容が残虐で、箝口(かんこう)令が敷かれていたため、仮名希望の元隊員が多かった。刊行後、元少年隊1期生だった花巻市の鎌田信雄さん=故人=らが実名で体験を語るようになり、同会の高橋龍児さんが全員から実名公表の許可を得た。
改訂版は500部印刷。盛岡市の書店・東山堂本店、都南店で販売している。税込み1200円。問い合わせは同会(019・687・6171)。【山口圭一】(毎日新聞 2010/08/10)

「戸山の人骨」発掘調査へ 731部隊犠牲者と指摘も
1989年に大量の人骨が見つかった旧陸軍軍医学校跡地(東京都新宿区戸山)で、厚生労働省が年内にも発掘調査を初めて行う。
跡地をめぐっては、軍医学校で働いていた元日赤看護師の女性が2006年に「人体標本を埋めた」と証言した。中国で人体実験をしたとされる旧日本軍の「731部隊」の犠牲者ではないかとの指摘もあるが、身元や経緯は不明のまま。新たな手掛かりの発見につながるか注目されている。
戸山付近には戦時中、陸軍の医療関連施設が集中。細菌兵器や生物兵器を開発していた「731部隊」(関東軍防疫給水部)の研究拠点もあった。89年7月、一角で国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)の建設工事中、少なくとも62体分の人骨が見つかった。(共同通信 2010/10/30)



【関連サイト】

731部隊元隊員証言記録(Dr. 山本の診察室)

戦争体験を語る「中国侵略中の日本陸軍の病院における生体解剖」(東京反核医師の会)



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