あとわかったこと
ドゥ・フォレストがマッカーサー宛に書いたとされる正力追放解除の嘆願書は本当にドゥ・フォレストが書いたのか
正力がいかにしてテレビ事業を始めることを思い立ったのかについてはいくつかの説がある。それらの説で重要視されているものにドゥ・フォレストがマッカーサー宛に書いたとされる正力追放解除の嘆願書がある。猪瀬直樹の『欲望のメディア』から引用すると次のような書き出しで始まっている。
「元帥閣下 一九二四年、小生の発案によるトーキー映画の日本による特許を取得し、つづいて日本に導入をはかる上で尽力くださった東京の皆川芳造氏は、以来小生の友人であります。氏は、昨年、日本においてTVセット製造の両面にわたるテレビ事業を開設するよう進言しました。・・・・・皆川氏はこの重要な事業に正力松太郎氏を加えることを望んでおります。正力氏は組織者、経営者として、その実績は日本ではほかに類をみないほど優れた人物であります。」
ドゥ・フォレストが書いたとされているのだから原文は英語である。『大衆とともに25年』にも引用されている。だが、この原文を読むと、この嘆願書が本当にドゥ・フォレストの手になるものなのかどうか疑わしくなる。その理由は次のようなものだ。
1)この嘆願書はドゥ・フォレストの会社の便箋にかかれていない。サンノゼ歴史館に残るドゥ・フォレスト文書にのこる書簡は彼が会社を興してからは(次々とつぶしてはまた設立したが)常に会社の便箋を使って書かれている。彼の性格からしても、自分が会社のオーナーであることを相手にアピールするために、相手が大物であればあるほど会社の便箋を使うはずである。だが、これはレターヘッドもなにもない、白い紙にタイプされている。
2)この時期(一九四八,四九年)ドゥ・フォレストー皆川間で交わされた書簡がサンノゼ歴史館のコレクションからは出てこない。
3)この嘆願書の文章はサンノゼ歴史観に残るドゥ・フォレストの文章とは違う。もっとも、サンノゼのほうもドゥ・フォレスト自身が書いたものではなく、秘書が書いたのなので、秘書、あるいは書き手が変わっただけだとも考えられる。
4)この嘆願書のコピーは柴田秀利文書からも出てくる。皆川―ドゥ・フォレストラインで生まれたはずの嘆願書がなぜ柴田文書からでてくるのか。柴田を操っていたGHQ将校がマッカーサーの心を動かすために(あるいは正力に読ませて彼を感動させ、その気にさせるために)ドゥ・フォレストのものとして偽造した可能性を示唆している。だが、柴田が社史を書くために皆川からコピーをもらったということもありうる。
もちろん、これでは決め手を書くので、さらに文体の比較、サインの比較、未発見の文書の発掘に努めるつもりである。
ちなみに、猪瀬直樹は嗅覚鋭く、この嘆願書の胡散臭さを嗅ぎ取っている。彼は『欲望のメディア』でこう推測している。
「はじめに皆川が日本語で下書きし英訳、それをアメリカのデ・フォレストに送り、デ・フォレストが自分のサインを入れ、マッカーサー宛に出した。英文のコピーを正力に見せ、彼が『深く感動』することも計算のうちだったのではないか。」
私はこのような面倒なことをして作成したというより、もっとストレートに日本にいる皆川と誰かが正力をテレビ事業に引っ張りだすために偽造したと考える。
そうだとすると、説明のつくことがある。
柴田は一九五一年に電波管理委員のアメリカ視察に同行し、カール・ムント上院議員と会見を果たし、彼から後にムント・ミッションとして来日するヘンリー・ホールシューセンを紹介される。訪米に先立って彼は正力から自分の追放解除をムントとドゥ・フォレストに働きかけてくれと頼む。だが、柴田はムントとホールシューセンには追放解除を依頼するのだが、ドゥ・フォレストと会った形跡はないのだ。
その証拠に『戦後マスコミ回遊記』にはドゥ・フォレストに会ったという記述は出てこない。ドゥ・フォレストはラジオの父、真空管の父として、エディソンに次ぐ大発明者とされている。彼に会ったのならば、あの有名人好きの柴田が、会見の様子を自慢げに披瀝するとか、老発明家がいった言葉を引くとかしそうなものだ。柴田は帰国してから正力にドゥ・フォレストが「すでに過去の人だったからだめだった」と説明しているが、会ってはいないだろう。ドゥ・フォレストが年寄りで、尊大だということから門前払いされたか、さもなければ最初から会う気がなかったかのどちらかだろう。だが、アメリカの友人から聞いたらしく、この発明家がハリウッドにいることは知っていたようだ。
食い下がってまでドゥ・フォレストとの会見を果たしていないことから、もともとドゥ・フォレストは正力をテレビ事業に立ち上がらせる工作に加わっていなかった可能性が浮かんでくる。そもそも、ドゥ・フォレストはあの嘆願書に関わっていないのだから、正力の追放解除を彼に依頼するとすれば一から説明し、説得しなければならない。これは面倒だし、やったところでムントたちへの働きかけに比べれば、効果はあまり見込めない。だから、ドゥ・フォレストとの会見に柴田はこだわらなかったのだ。ドゥ・フォレストのマッカーサー宛の嘆願書の偽造に柴田がかかわっていたと考えるのも、このように柴田がドゥ・フォレストと会見を果たさずのこのこ帰ってきてしまったと思われるからだ。
だからといって、このことによって通説が大きく変わるわけではない。策略家としての皆川および柴田の彫りが一層深くなるだけだ。
ションバーガーという先達
ジョン・ダウワーがハワード・ションバーガーの思い出を何かの本の序文に書いていた。一日の仕事(第二国立公文書館での資料収集)を終えて、別れ際にダウワーがションバーガーに今日はどこに泊まるのかとたずねると、車と答えたそうだ。その後数日間、資料収集が終るまでションバーガーは車に泊まり続けたという。
資料収集はそうとうの重労働だ。だいたいの人(アメリカから見て外国人が多い)はカートにMSボックス(資料が入っている箱)を一〇から二〇積んでいる。それを一日、ないし半日で読み通す。その上で、必要なところをコピーする。今なら許可を取ればデジタル・カメラもスキャナーも使えるが、ションバーガーが存命のころは順番を待ってコピーをとるしかない。
なおかつ、資料もいまのようなきれいなMSボックスにフォルダーで分けられて整然と入ってはおらず、大型のダンボール箱に雑然と詰め込まれていたはずだ。文字もにじんでいるものもあり、長時間読んでいるとかなり目に負担がかかる。老体のションバーガーにはこたえただろう。そのあとに、彼は車で寝たのだ。
ションバーガーはフルブライト・プログラムで一年間広島大学にいたので、日本人の研究者にも知り合いが多い。その一人袖井林二郎氏のいうところによれば、彼はニューディーラー派だということだ。
なるほどと思った。
メイン大学の教授なのだから、お金がないはずがないのに、車でアメリカ各地を駆け回り、車に寝泊りして、膨大な資料を収集する。自分は特権階級ではない。その自分の目からアメリカの特権階級たちがいかにマッカーサーに「逆コース」をとらせ、戦後の日本を形成していったかを見ることに意味がある。歴史家としてのスタンスが生き方なのだ。
何度も渡米しているのに(一度はメイン大学にいっているのに)生前の彼に会うことがなかったのはかえすがえすも残念だ。だが、彼は素晴らしい研究を残した。これらを導きの星として公文書という荷を立ち寄った港で積みつつ、歴史という大海を航海している。彼の研究は今後も彼にあったことのない人々をアメリカ各地の図書館や公文書館に赴かせるだろう。
ウィリアム・ホールステッドはOWI
あとでわかったことではないが、書き漏らしてしまったことがある。CIA調書によればユニテル社長で日本テレビの設計者でもあるホールステッドは、戦時中OWI(戦時情報局)の施設部に所属していた。つまり、つい先ごろなくなったアイバ・戸栗・ダキノ(東京ローズといわれるアナウンサーの一人だとされる)に対抗して対日プロパガンダを流す任務に参加していたことになる。
このころのVOAはニューヨークにあったので、彼の勤務地もニューヨークだったと推測される。もともと彼はニューヨーク州の山間部マウント・キスコの出身だ。
とすればやはりニューヨークにあったOSS(戦略情報局)のMO(士気部)、とりわけ日本向けブラックプロパガンダを手がけていたクライマンやクロウリーともつながりがあったかもしれない。つまり、日本テレビとOSSの関係はジャパン・ロビーとのつながりで一九五二年頃急浮上するかのように見えるが、ホールステッドなどとの関係からも伏線として以前からあったともいえる。
戦争というものは、平時では出会いさえしない人々をさまざまな形で結び付けるものだ。
柴田秀利はCIAのスパイか
柴田は『巨怪伝』のなかで自らCIAのスパイであったことを認めるととれる発言をしている。問題は、どのような「スパイ」か、ということだ。CIA文書からは一九五五年の初めに極東支部の局員が、柴田が正力を裏切ろうとしていて使えるかもしれないので本部(ラングレー)で検討してくれと書き送っている文書がでてくる。これに対して彼をなにによって「コントロールできるか」という問い合わせが本部からあり、「金」という回答がされている。ただし、柴田は正力に命じられて二重スパイとしてCIA局員に接触していたと私は考えている。
以後柴田はポハルトという暗号名でよばれることになる。しかし、翌年には極東支部から柴田が「雇ってくれ(feed)」と申し入れているが、どうするかという問い合わせが本部に対してなされている。これにたいして本部はノーといっている。つまり、CIAは柴田が情報を持ってくればそれを買うが、だからといって継続的に抱えようとは思っていなかったということだ。
つまり、柴田は情報提供者(informant)の一人であって、局員とかその協力員とかということではなかったのだ。ただし、このころから柴田は二重スパイながら、CIA寄りになっていったようだ。正力から独立したがっていたので金が必要だったのかも知れない。
問題は柴田がCIAにとってどんなスパイだったかではなく、彼がアメリカ側にどんな情報を漏らしたかということだ。正力個人に関する情報、讀賣新聞と日本テレビに関する情報ならば、忠誠心とか信義に関する問題ですむ。だが、正力が原子力委員長になり、原子力行政のトップとなってからは、彼の動きや意向をアメリカに漏らすことは、国家機密を漏らすことになる。これはもはやモラルの問題にとどまらないだろう。柴田が国家機密を漏洩したかどうかは、いろいろ複雑で長い話になるので、次作で明らかにしたい。
笑えるのは一九七六年に『ニューヨーク・タイムズ』が「戦後間もなくCIAが恩恵(favor)を与えたのは岸と正力」と報じたとき、日本のメディア数社が当時日本テレビを辞めていた柴田に談話を求めたことだ。柴田は「そういえばあのとき正力は・・・・・・」などといかにも自分は関係なく、正力だけが関係していたこのようなことをいっている。どこの社のどのような記事かいちいちここに引用しないが、関心と暇がある人は図書館にでもいってバックナンバーを読んでみることをお勧めする。
柴田のために名誉を毀損された人々は多いが、一人ここで名誉回復しておくべきは電電公社総裁梶井剛だろう。『戦後マスコミ回遊記』で柴田は梶井がアメリカから借款を得たと国会で嘘の答弁をしたと断罪している。これはあまりにもひどすぎる。拙著でも明らかにしたように、本当のことをいっていたのは梶井であって、嘘をついていたのは柴田だった。梶井が借款を得ていたことを柴田はドゥマン・グループの菅原啓一などから聞いていた。だからなおさら悪質だ。ただ、梶井の二五〇〇万ドル借款も正力の一〇〇〇万ドル借款をつぶすために吉田に命令されたダミー借款ではあった。
今後も歴史的事実を掘り起こして、いわれもなく名誉を毀損された人々の名誉回復をしていきたい。
D・S・ワトスンは実名か
困ったことに、柴田が『戦後マスコミ回遊記』で国務省職員(CIAかもしれない)として名を挙げているD・S・ワトスンを実名だと思い込んでいる人々がいる。これに尾ひれがついて「ニューヨークでD・S・ワトソンに会って聞いたところCIAだと認めた」という途方もないことまでまことしやかに語られている。
現ブッシュ政権の幹部がジョゼフ・ウィルソン駐ガボン大使の妻がCIA局員だとメディアにリークしたということで守秘義務違反(法律違反)に問われると同時に大変な窮地に立たされたことは記憶に新しい。このような現実に照らして、D・S・ワトスンは実名ではありえない。CIA文書でも柴田の相手はホワイトで消されて空欄になっている。(国務省の外交文書と読み合わせるとだいたいの察しはつくが、たいした重要性もないし、本人が存命の可能性が高いし、命も惜しいのでD・S・ホームズとでもしておこう)たとえ本人が退職していたとしても、自らCIAだと認めたなどということはさらにありえないことだ。
GHQの情報関係将校へのインタヴューから、この方面の人々の口のかたさに何度も閉口させられた経験があるので、本当にCIA局員ならばインタヴューにすら応じないだろうと断言できる。もっとも、インタヴューしようにも、実名と連絡先がわからないからできないだろうが。
情報関係者にかぎらず、この手の証言者というものは、なかなか本当のことはいわない。自分のためとか守秘義務のためというより、他の仲間や組織に迷惑や害が及ぶからだ。それをいわせるためには、こちらも他の文書で事実関係をよく調べ、何度もあって信頼関係を築き、なんのための証言なのかについてよく説明し、その意図の真摯なことに信用を得なければならない。
それでも、たとえば「正力と会ったことがあるか」、「何度か」くらいは答えてもらえるが「いつ、どこであったか」、「なんの目的であったのか」などという質問には答えてくれない。あとは、文書を読んで自分で埋めるしかないのだ。また、歴史の証言者たちは自分たちの言葉の重みをよく知っていて、興味本位の質問などには答えない。
日本人はもちろんアメリカの研究者にとってもCIA局員の実名を突き止めることは難しい。私がよくやるのは、ほとんど全部公開されているOSSの文書を手がかりにすることだ。とくにXII所属のOSS局員はその後CIAに入った可能性が高い。ときどき国務省や国防省の文書に名前が登場するので、その関連の職務に就いていたことが推測できる。だが、これも初期のころの、それもOSSからCIAに移った局員しかわからない。
D・S・ワトスンが実名だと思っている人、みずからCIAだと名乗ったと思っている人は、このへんのことがわからない人に違いない。
正力松太郎の公職追放はいつか
これまでいわれてきたように一九四六年一月ではない。早稲田大学山本武利教授も明らかにしているように、戦犯指定の項目にG項が加わり、かつ正力松太郎がそれに該当すると判断されたのは一九四七年九月のことだ。拙著でもCIA文書に基づき九月一〇日としている。なぜ、これまで一九四六年とされたのか、むしろ不思議だ。神話を作る人がよく使う伝聞か。
戦争犯罪容疑者とされたときも、一九四五年一一月一六日付外交文書57号(United States Department of State / Foreign relations of the United States : diplomatic papers, 1945. The British Commonwealth, the Far East,Volume VI 1945) でわかるように、初めから指定されていたのではなく、最後になってつけ加えられている。
つまり、鈴木東民らが騒ぎ立てたので、そしてGHQのニューディーラーたちがそれにつられたので、急遽付け加えられたのだ。とはいえ、一九四五年でなくとも、いずれ戦争犯罪容疑者とされただろう。いずれにせよ、よくいわれてきたことだが、GHQの戦争犯罪者や公職追放者の基準はいいかげんなものだったのだ。
本書でもいうように、正力はなにかしたというよりも、就いていた地位によってGHQの咎めをうけたと考えるべきだ。ただし、我々が日本人として、彼が戦時中に讀賣新聞を通じて行なっていたことをどう判断し、断罪するかは別の問題だ。讀賣新聞は戦時中に大幅に発行部数を増やし、今日のような大新聞に発展していったことは厳然たる事実だ。
なぜ一九五三年にアメリカのタングステンの備蓄が不足したのか。
拙著ではハワード・ションバーガーの『ジャパニーズ・コネクション』に基づいて、朝鮮戦争のために軍需物資としてタングステンが不足し、かつ主要産地の一つソウルの南東江原道の上東鉱山が北朝鮮の勢力下にあったためとしたが、その後ハリー・S・トルーマン図書館で見つけた資料によれば、これに加えてアメリカで原子力発電所の建設が本格化したことも不足した原因だということがわかった。
『梶井剛遺稿集』
拙著の二校の段階で梶井剛の『梶井剛遺稿集』(社団法人電気通信協会、1979年)を入手した。この本の「日記 抄、日本電信電話公社時代」の一九五三年七月二七日の日記は次のようになっている。
九時半公社に行き、外資導入の案を承認して、副総裁より大臣に説明する。総理の要求なりと。四年間に百億宛(ママ)なり。
つまり電電公社に外資導入(つまり借款)をせよと命令したのは吉田だった。時期も柴田の一〇〇〇万ドル借款が大詰めを迎えていたころと符合する。吉田は正力の借款をつぶすために梶井に外資導入を命じていたのだ。
また、一九五三年の日記の記入は十月十日までなのに、翌年は一月四日から付けられている。この間にヨーロッパ・アメリカを視察し、キャッスル日記からもわかるようにワシントンDCでキャッスルに会っていたのだ。そのほか正力、ユニテル、クロフォード法律事務所のことなど拙著の記述を裏付ける事実が書かれている。
また、一九五五年、五六年、五七年の記述からは、このころになっても正力がユニテルを使ってマイクロ波通信網を建設しようとして、梶井と衝突していたことがうかがわれる。つまり、これまでの定説とは違って正力は一九五四年一二月の電気通信委員会の決議ののちもマイクロ波通信網をあきらめなかったのだ。
これはCIA文書ではもっとはっきりでてくる。つまり、原子炉を日本が購入する上で便宜をはかってくれとCIAに要請するときですら、必ずそのまえにマイクロ波通信網をねだっている。CIA関係者もこれにはあきれながらも、その反面で面白がってもいる。