サッカー元日本代表DFで、日本フットボールリーグ松本山雅FCの松田直樹選手が4日午後1時6分、長野県松本市内の病院で死去した。34歳だった。群馬・前橋育英高から1995年に横浜M入りし、リーグ制覇に貢献。96年アトランタ五輪、00年シドニー五輪、02年ワールドカップ日韓大会など各年代の日本代表でも活躍した。情熱あふれるファイターの早すぎる死に、日本サッカー界が悲しみに包まれた。
2日午前に松本市内で練習中に急性心筋梗塞で倒れてから約51時間。数多くのサッカー関係者、日本中のサポーターらの祈りも届かず、松田選手は帰らぬ人となった。
グラウンドから信州大病院に搬送されたときは心肺停止状態。その後は微弱ながら心臓の鼓動が戻り、人工心肺装置で血流を維持したが、最後まで意識は戻ることなく、家族らにみとられて静かに息を引き取った。
4日午後に会見を開いた松本山雅の加藤善之監督は「とにかく、非常に残念というか、悔しい。今でも選手の、仲間のところに戻ってほしい。それだけです」と言い残し、涙を拭きながら会見場を後にした。
同クラブの大月社長は、最期をみとった松田選手の兄から「直樹がお世話になりました。直樹の夢は本当にJリーグに上がることだった。途中でこういう形になって申し訳ないが、夢をみなさんに託したんで頑張ってほしい」と伝えられたことを明かした。また、ファンから届いたお守りを松田選手の胸に置くと、脈が安定したと話していたという。大月社長は「約束は必ず果たさなければいけない。あらためて決意を誓った」と語った。
16年間在籍した古巣・横浜Mのクラブハウスも悲しみに沈んだ。MF中村俊輔は練習後、迷わず再び松田選手の眠る松本へと車を走らせた。
3日に松田選手を見舞った栗原は「マツさんの悔しがる顔を見るのも楽しかったんで…。勝って…、優勝して…、悔しがらせたらいいなと思います」と気丈にも泣きながら話した。GK飯倉は「松さんは試合を見てると思います。だから、勝ちたい」と次節の柏戦を松田選手へ捧げることを誓った。
横浜Mは5日から11日まで横浜市西区の練習場に献花台を設置し、「ミスターマリノス」と呼ばれた松田選手への献花を受け付けることを決めた。
「このチームはまだまだだけどさ、これから強くなるよ。JFLの戦い方も分かってきたし、みんな気持ちを持ってる。絶対、J2に上がるからさ。また見にきてよ。関東の試合じゃなくてこっち(松本)の試合だよ」
マツと電話でこんな会話をしたのはわずか2週間前のことだった。「分かった。行くから」と答えた約束がもう永遠に果たされないなんて、いまだに信じられない。今、込み上げてくるのは悲しみではなくて「なぜ?」「どうして?」という疑問と怒りに似た感情だ。あんなに大好きだったサッカーを松田直樹から奪ってしまうなんて、どんなに残酷なことか運命を呪うしかない。
本当に横浜が、マリノスが大好きな男だった。17年前、17歳のいがぐり頭の少年が当時の獅子ケ谷グラウンドに来た日のことは今でも忘れられない。
「オレ、20歳までに日本代表に入ります。今、日本の最高のDFは井原さんでしょ。マリノスで井原さんを抜けば日本代表のレギュラーっすよね」
仰天するコメントを平然と話すあふれるような自信と火の玉のような情熱。いまだにこんなルーキーには出会ったことがない。その情熱は時としてマツ自身も焼き尽くす。スーパープレーの直後の信じられないファウル。チームメートに、審判に、そして自分自身に真っすぐぶつけられる怒り。喜び、怒り、悲しみ、そんな人生のすべてをグラウンドの上で表現するマツにファンだけでなく私も酔いしれた。
大好きだった横浜を去る時、マツはこう話した。「サッカーを続けさせてください」。ボロボロになるまでマツをプレーさせることを横浜は許さなかった。指導者としてチームに残る選択肢もあったが、マツはもっと大好きなサッカーを選んだ。「スタジアムとサポーターに惚れた」といって移籍を決めた松本山雅で、マツはまた躍動し始めた。
4月30日、チーム初勝利のアルウィンスタジアムでマツはこう話す。「サブもスタッフも含めてチームが一つになって勝てた勝利。このチームで優勝して、J2で優勝して上に上がるからね」。あの満面の笑みが最後の思い出となってしまった。
集中治療室で懸命に闘うマツを2日、マリノスの選手たちが見舞った。「直樹、ほらみんな来てくれたよ。あんたマリノス大好きだったでしょ。みんなに迷惑ばっかり掛けてきて。みんな来てくれたんだから。だから目を覚ましなさい」。そんな母親の呼び掛けに病室は号泣だったという。
私は倒れたという一報を代表合宿の地、札幌で聞いた。厳しい状況と聞いて「どんな状態でもいい。サッカーやれなくてもいいから生きていてほしい」と祈った。でも、マツならこう言ったかもしれない。「オレからサッカー取り上げないでよ」と。破天荒でわがままで気分屋で、でもこんなに誰からも愛された男はいない。横浜Mの栗原は「わがままばっかり言う人だったけど、最後くらいみんなの言うことを聞いてほしかった。最後に…、言うこと聞いてくんなかった」と号泣した。愛されることも、悲しませることも含めてすべてが「松田直樹」だった。
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