今週の初めに、故郷へ帰ってきました。

目的は2つ。親の折伏と、お墓参りです。
日ごろ、所属寺院の御住職が、報恩抄にある”四恩”がとても大切だと教えて下さっています。

1.父母の恩
2.衆生の恩(社会)
3.国土・国主の恩
4.仏への恩

この「四恩」をわきまえずに、いくら立派な説を唱えようとも、それは仏法を行ずる者ではなく、「餓鬼道、畜生道」であると戒めてくださいます。

親への折伏は、今回は実りませんでした。
もう、論理的にはかなわないので、終始、過去の「正信会」僧侶に懐いた不信感だけを盾に、50年もやってきた事を変えられないから、そちらはそちらでやってくれという按配です。
まあ、まだ元気でなんとかなっているから強気なのだと思います。
ただ、「毒気深入失本心故」。本当に毒気が深くて我慢偏執の塊でした。
御本尊を、日達猊下のが良くて、日顕猊下のはダメで、日寛上人のが良いとか言い出したので、失笑してしまいました。
どの猊下様の御本尊様も、血脈があれば、等しく戒壇の大御本尊様と拝し、等しく仏力、法力、信力、行力の四力が合わさって、等しく仏様であり、功徳が湧き出す如意宝珠であります。
それは、書写される猊下様が変わっても、血脈付法の法水写瓶唯授一人の猊下様が戒壇の大御本尊様の御内証を書写されるから、自宅の御本尊様は義ではありますが、戒壇の大御本尊様へ猊下様を通してご祈念してるのですから、当然功徳はあるのです。
逆に言えば、自宅の御本尊様を戒壇の大御本尊様と思い祈らなければ、絶対に功徳はない。分身の義の仏ですから。

結局、創価学会は、自宅の御本尊だけでも功徳力があると勘違いしてる事がはっきりとしましたね。
戒壇の大御本尊様に功徳力があるのであって、分身の書写の御本尊様は大御本尊様に血脈がつながっていて初めて功徳力を発揮する事を知らないのか、否定してるのか、まあわかりませんが、あまりに御本尊様に関して無知すぎますね。

私は、芸能人で例えます。
本物の「嵐」が歌うステージと、VTRで見る「嵐」のステージは、ある意味「嵐」のステージには違いありません。が、所詮、VTRの映像は複製された映像でしかなく、生きている本物の「嵐」の生の歌声ではありません。勿論、VTRでもファンならば感動はします。しかし、生LIVEを同じ空間で生きている本物の「嵐」と共有する感動には天と地ほどの開きがあるでしょう。
いわば、創価学会の御本尊は、画質の悪い海賊版のVTRのようなもの。盗撮したものだから、法律で言えば著作権違反のVTRで、常に効力は無効で、しかも罰せられるまがい物。

創価学会はニセ本尊が、本物の戒壇の大御本尊様と血脈がある御本尊様と同じと思い、「御本尊はどれも同じです、信の中にあるのですから、胸中に持ってるのですから」=(池田の意見の意訳)という適当な詐欺に引っかかっているのです。
そもそも、我々凡夫は、一念三千の当体として仏界、仏性を持っていますが、”自力”で仏界、仏性を出す事が出来ず、悟りもない無明の九界の衆生です。
御本尊様は、我が色心に埋没している仏性を引き出す、縁、呼び水、自分で仏界を見れない凡夫にとっての鏡なのです。だから、正しい御本尊への信が無い者にはただの書画。仏眼には仏と見えますが。
正しい御本尊は何か?それが唯一絶対の戒壇の大御本尊様。この大御本尊様との血脈の無い御本尊は、どんなに形を似せようが、それは仏では無いと言う事。
盗んだ本尊には、唯授一人の血脈付属がないから、盗んだ人の餓鬼・畜生界の意が印し、恨みと妬みの地獄界の怒りが印し、魔の増上慢が入っているから、亡国の因、衰退の因、亡びの因、悩乱の因が入っている。

事実、悲しいかな、我が父母と兄の3人は、3人のうち2人が、統合失調症で通院し、母は日々絶望と不安と愚痴の中に漂う生活をしていました。ここまで悩乱がひどいのかと、泣きそうになります。
生きていて何が楽しいのかわからない、ただ生を貪るだけにしか見えません。
近所の幼馴染の学会員も、同級生は福岡へ行ったきり音信不通で、その弟は難病が発症して車椅子生活とか。やはり何処の学会員も、恐ろしい現証が出ている。
それでも、毒が深すぎてわからないようでした。
恒例の、「帰れ」、「二度と来るな」、も言われましたが、これが折伏。
何度でも来るからよろしくと言ってきました。
必ず、救い出したい。必ず、救い出して見せます。

お墓参りについては、別に書こうと思います。