【萬物相】旧満州の「慶尚道村」
【金泰翼(キム・テイク)論説委員】 韓国と中国が国交を正常化する前、小説家のパク・キョンリ氏が旧満州(中国東北部)を旅行中に突然涙を流す、という一幕があった。中国黒竜江省ハルビン市郊外にある朝鮮族(韓国系中国人)の家庭を訪れたときのことだ。慶尚道の方言で話すパク氏の話に耳を傾けていた、この家の世帯主の(×)女性がパク氏に「故郷はどこか」と尋ねた。パク氏が「慶尚南道統営(市)」と答えたところ(ると)、女性は「ええっ、私の母親の実家も統営だよ。統営の山陽面」と話した。
そして、女性は家の中から何かを持ってきた。真ちゅう製の茶わんとスプーンだった。「祖父が故郷から持ってきたものだ」という。最近のものよりも、かなり大きなものだった。パク氏は茶わんを触りながら、大粒の涙を流し、後にこうつづった。「女性の祖父母や両親は、布団の包みの中に茶わんやスプーンを入れ、流浪の民として(中朝国境の)豆満江を渡った。その様子を思い浮かべると、涙が出ないはずがない」。
日本による植民地時代、韓半島(朝鮮半島)からの移民たちを満州に運んだ列車を、人々は「棄民列車」と呼んだ。「棄民」は「捨てられた百姓」を意味する。日本による収奪が次第に激しくなり、田畑の収穫の半分を取り上げられても、韓半島で小作農として耕作ができれば、まだましな方だった。それすらもできない人たちは満州に移り住んだ。当時、『三千里』という雑誌には「満州に行って金を稼ぐには…長老たちを集め会議を開く」という座談会の記事が掲載された。ある参加者は「朝鮮で1坪(約3.3平方メートル)の農地を買う金があれば、満州で20坪の農地を買える」と発言し、「満州ドリーム」をあおった。
満州に移り住む韓国人は、1910年の20万人から、45年には170万人に急増した。30年代、満州に向かう最終列車に乗った人たちは、慶尚道の出身者たちだった。当時すでに、間島(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州一帯)には咸鏡道の出身者たち、奉天(現在の瀋陽)には平安道の出身者たちが移り住んでいた。このため、慶尚道の出身者たちは満州北部の吉林、長春、ハルビンなどに向かった。吉林市近郊には、慶尚道の方言や風習が今なお残る「慶尚道村」があるという。この地の人々が、韓屋(韓国伝統の家屋)を建て、韓国の専門家たちと共に昔ながらのオンドルを復元する作業に取り組んでいるという記事が、4日付の本紙に掲載された。
かつて飢えに苦しむ韓国人たちが移り住んだ満州は、チャンスや希望があふれている地ではなかった。中国人たちによる差別や嫌がらせ、マイナス30度の寒さに耐え、出没する馬賊(馬にまたがった盗賊)などと闘いながら生活の基盤を固め、韓国の言語や文化を守り抜いてきた。満州での韓民族(朝鮮民族)の歴史は、高句麗だけではない。日本による植民地時代、韓国人たちがさまざまな困難に直面しながら生活の基盤を築いた満州の「慶尚道村」は、韓国の「文化的な領土」であり、その歴史は韓国の現代史の一部といえる。