竜尾車2007.11.24

 

 スクリューの原理を応用して、低いところの水を高い田に汲み上げる「竜尾車」という潅漑用具があった。江戸時代、佐渡の金山で湧水を掻き出すのに使っていたのを、水田に転用したと言われる。畿内から北陸、東北にかけて普及したらしいが、明治時代には廃れてしまい、仕組みがよくわからなくなった。それをアマチュア民俗研究家が解明したという記事を大津支局時代に書いた。

 

 かんがい用具「竜尾車」/アマ研究家が構造・操作法を解明/説明あいまいな学者たちの文献1977.12.06 朝日新聞滋賀版)

 江戸時代から明治の初めごろまで鉱山や農業のかんがいに使われていた「竜尾車」。一部破損した実物を元に、大津市に住むアマチュア民俗研究家がこつこつと調べ、苦心の末、その構造と操作方法を解明、復元した。「我が国の技術史研究のうえで基本的なことがらのはずなのに、文献の説明はあいまいだったり、誤ったりしていることも分かった」という。この調査結果は滋賀民俗学会の月刊誌「民俗文化」に発表される。

 大津市上田上(かみたなかみ)牧町、国鉄職員田村博さん(四一)がその人。同町にある「田上郷土史料館」の理事として、地元の民俗研究に打ち込んでいる。問題の「竜尾車」は、昭和四十三年に史料館ができてまもなく、上田上平野町の住民から「物置を建てかえ中に出てきた」といって持ち込まれた。

 長さ約二メートル、直径約三十五センチの長い桶(おけ)。中に軸棒があり、らせん状に板が張ってある。最初、田村さんらはこの名称も用途もよく分からなかった。「竜尾車」と知ったのは、四十九年に出た『ものと人間の文化史―機械』(吉田光邦著、法政大学出版局)をたまたま読んでから。以来、田村さんは『百姓伝記』(古島敏雄校注、岩波書店)、『大日本百科事典』(小学館)、『日本鉱業史要』(西尾_次郎著)など可能な限りの文献にあたった。その結果「竜尾車」はアルキメデスのスクリューポンプの一種で、江戸時代に中国から技術導入され、はじめは佐渡の金山で排水用に、やがて農業のかんがい用にも使われたことが分かった。また実物が東京の国立科学博物館、佐渡の相川郷土博物館、滋賀大学史料館などに保管されていることもつきとめた。

 ところが、肝心の構造や操作方法がよく分からない。いろんな人に聞いてみても「中のスクリューを回すのだろう」という返事だし、吉田氏や古島氏の説明もそういう表現になっている。例えば、吉田氏は「この記事(『百姓伝記』)は竜尾車の構造を誤っている。桶の内部がスパイラル(らせん)になるのではなく、しん木がスパイラルにならねばならぬからだ」とし、古島氏も『百姓伝記』の注に「らせん面は桶でなく、心木の表面にほらねばならない」としている。

 だが、田村さんの目の前にある竜尾車は桶の外からクギでらせん板を打ちつけてあるのだ。「よそのものはどうか」と、わざわざ足を運んだり、手紙で問い合わせてみたが、どれも桶にらせん板を固定してあり、とても中だけを回したとは考えられない。

 答えは、ある日ふと浮かんだ。「全体を回しても、理屈は同じじゃないか」。そうと分かれば、あとは簡単。資料や他の実物を参考に、欠けていた金具と、桶をななめに立てるための受け木を作り、まずボールで実験。下の口から入れたボールは、桶を十回ほど回転させると、みごと上の口から転がり出てきた。今度は田んぼのわきの小川まで運んで実際に水につけて回してみると、確かに水が上がってきた。

 田村さんは「つい明治時代まで使われていた道具の使い方がもうはっきりしないなんて……。文献にきちんとした説明がないのもおかしい」と話している。

 吉田光邦氏の話 これまで文献に載っていなかった形式として中と外が一体になって回転するものがあったということは認めるが、だからといって中だけ回る形式のものがなかったということにはならないだろう。これまでの文献を否定するのはおかしい。

 田村博さんの話 古い文献は説明が十分でなく、中と外が一体だったとも分離していたとも読めるが、私の調べた限りでは分離型のものは現存しない。分離型だと、桶とらせんのすき間をできるだけ小さくしなければ水がもれてしまう。わざわざそんな難しい細工をしてまで分離型を作ったとは考えられない。

 

 要するに、螺旋状に板をはめ込んだ長い桶をそのまま回転させるだけでよかったのだ。答えがわかってしまえば、「コロンブスの卵」のような平凡な発見にすぎないが、元はと言えば、後世の技術史研究者が実物をよく知らないまま、生半可な知識で解説を加えたことが混乱を招いた。

 ここで、上の記事に出てくる文献を整理しておく。

 『百姓伝記』は1680年ごろ書かれたと見られる著者不詳の農業技術書である。農業史学者の古島敏雄氏が校注を施し、最初はその抄録が1972年に出た岩波の『日本思想大系62/近世科学思想・上』に収められた。次いで1977年に全文が岩波文庫『百姓伝記』上下2巻として出版された。

 『日本鉱業史要』は、戦時中の昭和18年(1943年)に十一組出版部というところから出版されている。西尾_次郎氏は鉱山技術者とみられるが、詳しいことはわからない。

 『ものと人間の文化史―機械』は1974年に法政大学出版局から出た。著者の吉田光邦氏は科学技術史が専門で、当時は京大人文科学研究所の助教授。のちに教授になり、研究所長も務めた。

 さて、岩波文庫『百姓伝記』の記述は次のようになっている。「すいしやうりん」というのは水上輪と書き、竜尾車の別名である。

 

 一、すいしやうりん、ふかき処より高き処へ、水をまきあぐるものなり。上ほそなる桶の、九尺も二間も長みあるやうにゆい、桶のうちをほらがいかさゞいの内のごとく、段々からくり、しん木に小したをして立て、そのしんぎをうごかし引に随て、ふかき井の水、たかき処へあがる。こしらへ六ケ敷(むつかしく)、工手間多く入、損じぎははやく、徳すくなし。

 

 水上輪の構造については、佐渡市教委のホームページに古い図面が掲載されている。これを見れば、『百姓伝記』の記述がよく理解できる。然るに、文字づらだけを追ったせいか、古島氏は次のような注を付けた。

 

 すいしやうりん=螺旋面を持つことからみてアルキメディアン・スクリューであるが、この項の説明では水はあがらない。螺旋面は桶でなく心木の表面にほり、引き上げるのでなく、回転させねばならない。佐渡金山の一つでは一六五〇年頃、排水用に同じものを水上輪とよんで使っている。

 さゞい=さざえ。その内側の螺旋面を表すものであろう。

 しん木=心木。

 小した=弁。一方にだけ水の通じるように取り付けた弁。

 

 確かに『百姓伝記』の記述にはあいまいなところがある。「桶のうちをほらがいかさゞいの内のごとく、段々からくり……」と説明しておきながら、すぐに「しん木に小したをして立て、そのしんぎをうごかし引(く)」と言ったのでは、桶と心木との関係がよくわからない。そこで古島氏は、螺旋面は桶に取り付けるのではなく、心木に取り付けるものだと断定した。つまり、心木とスクリューだけが回転し、外側の桶は回転しないと誤解したのだ。「小した(舌か)」は、螺旋面を作っていく木の部材のことであって、古島氏がこれを弁と解したのも、首をかしげざるを得ない。

 一方、『日本鉱業史要』には「水上輪」に関して以下のような記述があるという。吉田氏の『機械』から孫引きする。

 

「長九尺上に径一尺、下に径一尺二寸の円錐形の木筒にして、竹たが十五輪を以て之を緊束し、中央に六角の木製堅軸あり。其上端に鉄製の肱柄ありて回転に便ならしむ。而して軸には四分板を以て製したる螺旋状の翼あり、三、四十度に斜架して軸を回転して水を上ぐるなり」

 

 西尾氏もまた「軸には四分板を以て製したる螺旋状の翼あり」「軸を回転して水を上ぐるなり」と書き、筒は回転せずに、軸とスクリューだけが回転するかのように読み取れる表現をしている。

 古島氏が『百姓伝記』の校注を施すに当たって『鉱山史要』に目を通したかどうかはわからない。また、吉田氏が『機械』の執筆に際して『史要』のほかに、2年前に出た『百姓伝記』抄録を参照したかどうかも定かではない。しかし、書きぶりからみて、古島氏の校注に引きずられているように思われる。

 つまり、1943年に出た『史要』に軸だけが回転するような記述があった上に、古島氏が校注で「百姓伝記の記述では水は上がらない」と断じたために、吉田氏も「百姓伝記は竜尾車の構造を誤っている」と決めつけたのではなかろうか。

 活字にすることの責任は大きい。間違った記述が世に出てしまうと、それが独り歩きする。著者に権威があればなおさらだ。古島氏の『百姓伝記』も、吉田氏の『機械』もそのまま版を重ねている。

 記事中の談話にあるように、吉田氏は私の取材に対して「これまで文献に載っていなかった形式として中と外が一体になって回転するものがあったということは認めるが、だからといって中だけ回る形式のものがなかったということにはならないだろう」と、間違いを認めなかった。当時の取材ノートを引っ繰り返してみると、吉田氏は「西尾氏の『日本鉱業史要』は立派な文献であり、そのような文献まで否定することはできない。それが史学だ」とも語っている。

 百聞は一見に如かず。現物がまだ残っているのだから、西尾氏、古島氏、吉田氏の誰か一人が現物を手に取って見さえしていたら、こんなことにはならずに済んだ。

 机上の学問は恐ろしい。