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第一部
第1話 星読みの予言
――ビクッと鳥肌が立つとともに、ナオミは目を覚ました。

(今さっき自分は一瞬だけ夢をみていた、また新渡勇人ニト・ユージンという少年の夢を――)
 今はまわりをみなくちゃいけない。
 森から逃げ出そうとする者に容赦なく、巨大狼の群れは襲いかかる。ナオミの耳に悲鳴とともにヒトを味わうペチャクチャッという嫌な音が聞こえた。

 ナオミの鼻に血のにおいが届く。
 水汲みにきていた男に数匹が群がっている。身体の上に小山ができ、少し離れたところに泉ですれ違った男の首が不思議そうにこちらを見つめていた。
 ナオミは心が麻痺し、現実を呑みこめないでいる。
 前には巨大な白狼が七匹。後ろには五匹、うち四匹はヒトを喰っている。ナオミは恐怖のあまり身を木陰のなかにくの字になるようにして、ギュッと小さくなった。パキッと少女が踏んだ小枝に白い狼はピクッと耳をたてた。

 ヤバイ! ガルルルッーと白い狼の唸り声が聞こえる。
 ぺチャッと涎が聞こえる。狼と自分を隔てているのはこの木陰だけだ。身体を動かせばパキッとまた小枝を踏んだ音がした。一瞬、白狼と目があった気がしないでもない。

(もう、だめだ!)

 ナオミが瞳を閉じれば、狼は叫び声をあげて、ナオミの木陰を飛び越えた。すぐに「うわああー!」という悲鳴が聞こえ、またペチャクチャッとヒトを味わう嫌な音が聞こえてきた。
 どうやら助かったようだ。
 ナオミが恐るおそる瞳を開けた――その瞬間、目の前に巨大な白狼がナオミを凝視していた。白き悪魔は唸り声をあげ、牙を剥きだしている。その口からは先ほど喰らった、人の顔の痕跡らしき食べかすが残っていた。
 白狼が大きく口を開けた瞬間、ナオミはぐっと瞳を閉じた。
 同時にキャン、キャンッと狼の鳴き声が聞こえた。ナオミが白狼に目をやれば、狼は口に剣を突き刺されたらしく、血泡を吹いて無残に死んでいた。

 黒ずくめの男は「大丈夫か?」とナオミにそっと手を差しだしてやれば、少女は震える手で彼の大きな手を握りしめた。同時に恐怖のあまり、ナオミの頬からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
 ナオミは黒ずくめの男の後ろをみて、目を大きく見開いた。男は少女の恐怖にせまった目をみて、警戒を怠らないように静かに振り返った。黒ずくめの男の後ろには、尋常ではない巨大な狼の群れが唸り、待ち構えていた。

 まだあの嫌な音が聞こえる。
 ガツガツと嫌な音、ペチャクチャとヒトを味わう音だ。
 黒ずくめの男は外套を襲ってきた白狼にかぶせ、瞬時に隠しもっていた剣で狼を左右に切り捨て、道を拓いた。にぶい感触と生温いものががしぶいて二人の顔を汚した。首筋を伝って、小さな胸に滴り落ちる感触にナオミは震えた。
「不利だ、泉に戻るぞ!」
 多勢に無勢だ。改めて男の顔をみると、顔にはおぞましい刺青がはいっている。荒くれ者の無頼漢のようだが、この人は一体何者なんだろう?

 男はナオミの手を握りしめ、小走りに森の奥へと駆けだす。
 狼の群れはあばら骨と肉の塊となった、一分前までは男と呼ばれた死体を喰い捨て、彼女たちに襲いかかってきた。鼻先も牙も赤く染まっている獣を斬り退け、水飛沫をあげて泉に駆けこんだ刺青の男は、ぶつぶつと何やら呟きはじめた。瞬間、泉に光の六芒星の円陣が現われ、ナオミたちを光で包みこんだ。
「聖水の魔法陣、守護聖人イヴの護りだ! 魔獣どもはそこに踏みこめん」
 セイスイノマホウジン、シュゴセイジンイブノマモリ?

 今日はクリスマスイブだけど何の関係が? それとマジュウってなに? 
 ナオミの心は空っぽだった。瞳に映るものが現実として理解できていない。男は全身血まみれに狼をなぎ倒していく。右ふくらはぎを深く噛まれ、膝をつく黒ずくめの男。狼の群れが前屈みになって頭を低く垂れるのを見てとり、男は柄を握りなおす。
「うおおお――おぉ!」
 跳躍してきた最後の一匹にむかって、剣を振り上げる。
 勢いあまって前のめりにと倒れつつも、剣は白い毛皮を切り裂いた。狼の身体は痙攣を起こしていた。立ち上がったと思えば頭がゴロッと落ちたが――まだ意識はある。血泡を吹きつつも、その目玉はナオミにむけられていた。これは仲間を殺され、黒き炎の憎しみが宿った眼だ。

 力尽きたのか、瞳に光がなくなると、男はなえた手で何とか手を握りなおし、剣を地に突き立て、体重をささえていた。声をあげて息をすれば肺が痛い、脇腹など焼けつくように痛い。
「さっさとでるんだ!」
 男はナオミを睨み据えた。

 サッサトデルンダ? 嫌だ。怖い、ここから一歩もでたくない。
「新たな追っ手がくるまえに――さあ!」
 語気強くいわれ、脅されるように殺戮の現場に足を踏みいれた瞬間、頭だけの白い狼は昆虫のように這うようにして、鋭き牙をむきだし、ナオミを喰らった。少女の意識が薄らいでいくなか、男の「しまった!」という声が聞こえてきた。

――ザクッ、土を踏む音が聞こえた。

 フェンリル狼、悪戯好きの神ロキの子。
 北欧神話に登場し、神々の末裔であり、現在は迷いの森に住みつく白い悪魔だ。全員始末したと思っていたが、一匹まだいたのか、もうどうでもいい。じきにすべてが終わるのだから。さあ、喰え。ひとかじりにしろ、楽にしてくれと顔をあげたが、森の木陰から現われた男の姿をみて、そのまま狼の死体に顔を落とした。

――謀られた。絶望のあまり顔をあげることができない。

 あの制服には見覚えがある。そうだ、かつて私が着ていた制服、まさかあの男が。
「――きさま!」
 男は狼の死体に顔をうずめたまま、声を荒げた。
「やはりきさまかぁっ!」
 まさかお前とは思わなかった、男は腹の底から叫んだ。
 間近に足音が聞こえ、顔をあげた瞬間、不敵な笑みをうかべ、暗闇から現れた男は、刺青の男に向けて拳銃を二発、容赦なく撃ちこんだ。撃たれた男の頭から無言の血が流れ、脳みその破片がナオミの顔にへばりついた。

 殺しを終えた男は息が絶えたえの少女にも銃口を向けた。
 オネガイ、タスケテ! と擦れた声で命乞いしようとも、男は首を横にふる。
 怖い、と心の底から思った。
 死ぬのは怖い、他人に殺されるのはもっと怖い。誰かが男の声をつかって、「運命を変えてみせろ、ヒトの子よ」と呟いたようにも思えたが、きっと気のせいだろう。

――ああ、意識が遠のく。

 これが死ぬってことかな。これでお別れだね、サヨナラ。
 薄れゆく意識のなか、ドンッと鈍い音ともにカンペールの森で、羽を休めていた青い鳥の群れは羽ばたいた。そのうち一匹は古き都ヴァンヌの方角へ飛び去った。









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