紀宮さまを取材して 編集委員・井上茂男

 ◆これからも「ドンマーイン」を
紀宮さまの地方旅行に初めて同行した時のことを思い出す。 
1990年3月8日。神戸市の三菱重工神戸造船所で行われた
旅客船「にっぽん丸」の命名・進水式に出席された時のことだ。
紀宮さまが斧(おの)を振り下ろして2万2000トンの巨船をつなぐ綱を切ると、
紙吹雪の中で白い船が海へと滑り出ていく。
3000人が見つめる先で緊張されているように見え、
皇室担当になったばかりのこちらも身を固くした。

当時、紀宮さまは学習院大の2年生。昭和天皇の喪が明けて平成の皇室が本格的に稼働し、
成年皇族となった紀宮さまの公務も始まろうとしていた。
1か月後、21歳を前にした初めての誕生日会見で舌を巻いた。
最初は消え入るような声だったが、メモなしですらすらと答えられた。
皇后さまの「皇室は祈りでありたい」という言葉を引き、
「大切なことに対して、いつも、そして長く心を寄せ続けるということを私は日本の皇室の姿として心に描いております」と皇室像を述べられた。
会見が終わり、奥深さを同僚と「すごい」と言い合った。
皇后さまの「祈り」という考え方は、この時、紀宮さまに教わった。

あれから15年。ご結婚にあたって思うのは、
皇室での存在感と、折々の「お言葉」の味わいである。
ボランティアフェスティバルや盲導犬育成のイベントなどは特に大事にされてきた。
外国の公式訪問は計8回。婚礼や葬儀を除けば皇太子さまと肩を並べ、
「プリンセス・サヤコ」はかなりの知名度である。

側近の一人に紀宮さまの最も印象に残る公務を聞いてみた。
2001年に行われた阪神大震災6周年の「ひょうごメモリアルウォーク」。
急きょ出席して市民と2キロを歩かれたが、直前の参加決定に警備当局が難色を示しても、
「それでは行く意味がありません」と譲られなかった。
「(震災を)過去のものにしてしまわない努力は、一方で、貴い犠牲を無駄にせず未来にいかすため、
あの日の惨事を繰り返し思い返すという大変つらい傷みを伴う努力であると慮(おもんぱか)られます」。
被災者と行動を共にしたからこそ、一語一語に重みがあった。
 家族も優しく支えられた。93年に皇后さまが声を失われた時も、2003年に天皇陛下が
がんの手術を受けられた時も、献身的な看病は語りぐさだ。
皇太子さまの人格否定発言の際には、両陛下と皇太子さまの「仲介役」を務められた。

71歳を迎える皇后さまの文書回答が思い浮かぶ。
「失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしている時に、
そばに来て『ドンマーイン』と言ってくれる子どもでした」
93年当時、週刊誌上では「皇室批判」が続いていた。
それも「思いがけないこと」に入っているはずだ。紀宮さまの存在にどれほど救われただろうか。

結婚直前の宮内庁を取材していて感じたのは、喜びに同居する一抹の寂しさだ。
90年の秋篠宮ご夫妻のご結婚も、93年の皇太子ご夫妻のご結婚も取材したが、
その時にはなかった空気である。「穴が開いたような気持ち」。正直に感想を語った幹部もいた。
紀宮さまが両陛下に感謝の思いを伝えた12日の「朝見の儀」を取材した。
儀式が終わって退出される両陛下の背中を、紀宮さまはじっと見つめていた。
姿が消え、扉が閉まる。その扉を3秒ほど凝視し、紀宮さまも部屋を出られた。
扉の向こう側とこちら側。この時、皇籍を離れることを実感されたに違いない。
有識者会議は女性・女系天皇の容認を打ち出した。仮に皇室典範が改正されていたら、
宮家を創設し、皇室に残った内親王である。
結婚で皇族の身分を離れる最後の内親王かもしれず、惜しむ声もうなずける。
頼もしいのは、紀宮さまが新居を選ばれるにあたって、皇居との近さを大事にされたことだ。
民間人の「黒田清子(さやこ)」となって、「ドンマーイン」には新しい視点が加わるだろう。
いつでもささやけるように、足しげく里帰りをしていただきたいと思う。お幸せに。
(2005年11月15日 読売新聞) 

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