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第1回「萩原朔太郎記念とをるもう賞」リーフレットと毎日新聞「歌壇・俳壇」コラム |
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第一回 萩原朔太郎記念「とをるもう賞」作品募集 |
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目的:
詩の原点。朔太郎の詩業にちなむ、清新な詩集賞による、詩の発展。
市の文化振興をめざします。
対象:
平成22年(2010)4月1日から、平成23年3月末までに
発行された詩集(奥付発行日年月)。
新人・新鋭による詩集を対象とします。
(翻訳、復刻、再版、遺橋集、全詩集、アンソロジーなどは除く。)
応募方法:
締切 平成23年3月末日
該当の詩集2冊を下記事務局あてお送りください。
表彰:
賞状と副賞50万円(記念品・河内藍染)
選考委員:
粟津 則雄、季村 敏夫、暮尾 淳、三井 葉子
発表:
平成23年5月
各新聞紙上、 報道機関およびホームページ上にて発表。
贈呈式:
平成23年6月(予定) 八尾市「プリズム・ホール」に於て。
主催:
萩原朔太郎記念「とをるもう賞」運営委員会 NP0やお文化協会
後援:
八尾市 毎日新聞社
応募先・お問い合わせ先
NPOやお文化協会
〒581-0006大阪府八尾市清水町1丁目1-18 TEL・FAX 072-924-3363
mail:info@yaobnk.com URL:http://www.yaobnk.com/
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萩原朔太郎と八尾市 |
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萩原朔太郎は日本近現代詩のうえで詩と散文と評論にその多彩な活動によって金星の如く燦然と輝いております。後に続く詩人に与えた影響は計り知れないものがあり、詩の出発点に立った詩人には敬慕の存在であり、時には道標でもあり、詩の創作に携わる詩人には詩の原点であり、常に仰ぐべき手本でもありました。また詩の読者や詩に関心を持つ人々にとっては、その詩集はつねに机上に置かれ、旅の途上などに必携のものとして愛されております。
朔太郎の詩は繊細な感受性と抒情性に満ちておりますが、 それは新しい詩の言葉の創出でもありました。それは二十世紀初めの近代日本語に豊かな言葉、つまり精神を創り出すことにもなりました。
朔太郎の詩が導いた日本語の豊稜です。
萩原朔太郎は群馬県前橋市の医家に生まれましたが、元々萩原家の出自は大阪府八尾市の医を業とする家でありました。代々その業は継がれて現在の萩原氏に至っております。萩原朔太郎はその青少年時代、八尾の伯父の息萩原栄次と親しく交わり、つねに往来をしておりました。先年、現在の当主隆氏によって当時の朔太郎と栄次が交わした書簡等が氏の著書『若き日の萩原朔太郎』によって公表され、これまで知られることがなかった朔太郎の少年時代の日々が明らかになり、試作の苦悩が綴られて朔太郎の詩人としての出発に八尾市の萩原家が深く関わっていることに注目が集まったことは多少とも朔太郎に関心を持つ人には周知の事実であります。これによって朔太郎の伝記的、評伝研究はいうまでもなく詩についての評論、研究も量的にも質的にも飛躍的に拡大しました。
このようにみてくると、朔太郎の詩に八尾市の歴史と風土が関わり、育まれたことは確かであります。萩原朔太郎をこの八尾市において顕彰することには大きな意義があることと思われます。
ここに新たに萩原朔太郎にちなむ萩原湖太郎記念「とをるもう賞」を設ける所以であります。
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NPOやお文化協会理事長 西辻 豊 |
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父・栄次と朔太郎 萩原朔太郎記念「とをるもう賞」設立に想う 萩原 隆 |
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萩原朔太郎の父・密蔵の護生は嘉永5(1852)年10月19日で、生家は河内国(現在の八尾市)南木の本にある。彼は明治15年、東大医学部別科を首席で卒業し、群馬県立病院医員を拝命して同地に赴く。明治18年に県立病院が廃止されたあと、前橋市内で開業したが、下足札を出さなければ整理がつかないほどの流行医であった。
私の父・栄次は故郷の三木本村小学校高等学科を率業したあと、叔父・密蔵を頼って上前し、前橋萩原医院に住み込みながら前橋中学校へ通った。その当時密蔵夫妻は二人の子持ちだった。長男朔太郎六歳と長女ワカ二歳とである。朔太郎は県立師範学校付属幼稚園から付属小学校へ進学していたが、その送迎が書生として住み込んだ栄次に与えられた仕事であった。後年朔太郎は栄次宛書簡の中で「…小国民を読んで聞かせてくださった兄は私の一番なつかしい人でした…」と書いている。それほど少年の心はひたむきに八歳年長の従兄に向けられていたのであった。
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朔太郎をはじめ、その弟妹たちのことを父は<>大切なお友達>と語っていた。栄次は、ことに朔太郎を、この八歳年少の従弟を実の弟たち以上に愛していたと思う。
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朔太郎ほど晩成の詩人は少ないのではないか? それほど世に出るまでのいわゆる遍歴放浪の時代は長かった。その理由の一つは彼が医家の長男として生まれたことにある。何度となく医学への進学を志し、その都度挫折している。朔太郎の不遇時代に、彼を励まし力づけ、いたわり続けたのは栄次であった。栄次は強情なまでに朔太郎を弁護し、信頼する態度を変えなかった。朔太郎の処女詩集『月に吠える』の冒頭献辞に『従兄・萩原栄次氏に捧ぐ』と書かれているのはそのような経緯による。
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朔太郎の食事ののろさは有名である。ぼんやりと考えごとをしていて著をとっても、いっこう口に運ばない。困り果てた家人は彼のため、特別に小さめのおにぎりを準備していた。
「あんなにご飯をこぼすひとは見たことがない…」
昭和11年8月、朔太郎が栄次の臨終を見舞いに来阪したとき、給仕にあたった我が家の女性群の感想である。
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我が家には先組伝来の漢書・医籍以外には蔵書は意外に少なく、書架にあるのは朔太郎から贈呈された初刊本が主たるもの。したがって私は幼いころから朔太郎の作品に親しむことになる。『虚要の正義』『宿命』『廊下と室房』などは耽読した。暗唱できる詩も少なくない。だが、『青猫』や『氷島』など到底子供に共感できるはずがない。『郷土望景詩』など平易なものに限られていたけれども…。
朔太郎は私にとっていわば両価的人物であった。医家を継ぐ身にとっては、<朔ちゃんみたいになるな>と言われたが、私は朔ちゃんが好きである。昔も今も、彼の全作品を、その破天荒で破減的人生も含めて大好きである。いま萩原朔太郎記念「とをるもう賞」が創設される連びとなったことは、我が家にとってはむろんのこと、私自身にとっても身に余る光栄と喜んでいる次第です。
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主催事務局 NPOやお文化協会
〒581-0006 大阪府八尾市清水町1丁目1−18
TEL・FAX 072−924−3363
mail:info@yaobnk.com URL:http://www.yaobnk.com
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