以前のエントリーでは、書けば書くほど、叫べば叫ぶほど事実の蓄積となり、包囲網は狭まるばかりだと表現いたしました。公安警察が参加者一人一人の発言を記録し、資料蓄積して個人の思想傾向まで把握しようとするのは当然としても、所謂「行動保守」が敵として認識している部分までが逐一ネットにアップされた動画を通じて「罪名拾い」をするようになれば、無警戒無自覚であればあるほど危険だと警告する意味合いでした。

京都・徳島両事件は関西行動保守が行った問題提起型運動の究極であり、それが刑事事件や民事に繋がったのですが、あくまでも「運動論」としては予想の範囲内であるとも言えるでしょう。そして、問題提起型の激しい活動に対する総括と反省(相対化と差別化)の上に立って、社会的な広がりを目指す(社会性を意識する)運動へと脱皮していく事を期待しておりましたし、そのようにも書きました。

しかし、筆者の思いは虚しかったようで、関西行動保守の主流が今現在行っている活動は、次から次へと敵を作り出して激しい言葉で弾劾糾弾する旧来の問題提起型活動と何等変わりなく、それは則ち自ら進んで「訴訟ネタ」を敵に供給するという誠に愚かな行為の繰り返しでもあります。

時と場合によっては激しい言葉も行動も必要です、筆者とて老骨に鞭打って憎き「敵」に詰め寄る事を辞さない覚悟は常に持っておりますが、「乞食」「きちがい」等々何故政治活動に無縁なこういった一般社会では禁忌とされるような言葉を「今この時」に至っても投げつける必要があるのか、あるいは撫子にふさわしくない「下ネタ」で相手を愚弄する必要があるのか、投げつけられた個々人にとっては何時でも「侮辱」「名誉毀損」で訴え可能なフリーハンドを与えるのか・・・・ 

また、先のエントリーで取り上げた「ライタイハン活動」のような、「奈良水平社差別街宣」と同じような誤りを続けて繰り返すのか。 

議論ができる土壌、批判する勇気とそれを受け止める勇気、それらのベースとなる知性と知識の蓄積、今更言い募っても虚しいばかりですが、危機が進行する「この時」だからこそ先鋭と広がりの矛盾を解決していく方向で軌道修正すべきではないでしょうか。 

若者よ、思い切って疑問をぶつけよう、自らの思索を深めよう、そして自分が望む方向に踏み出そう。世の中を変える道筋は幾らでもあるのだから。