スポーツ【松田直樹選手死去】サッカーを愛したやんちゃ小僧 早すぎるピッチとの別れ2011.8.4 14:32

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【松田直樹選手死去】
サッカーを愛したやんちゃ小僧 早すぎるピッチとの別れ

2011.8.4 14:32
J1の広島戦でプレーする横浜F・マリノスの松田直樹選手(左)=2010年10月31日、横浜市のニッパツ三ツ沢球技場

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J1の広島戦でプレーする横浜F・マリノスの松田直樹選手(左)=2010年10月31日、横浜市のニッパツ三ツ沢球技場

 直樹コールが鳴りやまない。昨年12月4日、横浜Mでの最終戦では涙が止まらなかった。「俺、マジでサッカー好きなんですよ。もっとサッカーやりたいです」。心からサッカーを愛した男は、感謝を込めてサポーターに現役続行を訴えた。

 2004年、酷暑の中国で開かれたアジア杯では影の殊勲者だった。控えに回りながら全力でシュート練習、ミニゲームに臨んだ。「すごい集中力だ」とジーコ監督は賞賛。奮闘は先発組の強い刺激になり、チームは2連覇へ駆け上がった。

 気温40度近い中での練習後、シャワーを浴びてバスへと向かう途中だった。妙齢の女性を見つけると「きれいだね」と記者や仲間に話しかけて笑った。ピッチでの鬼のような形相とは対照的に、飾らない人柄で周囲の心をわしづかみにした。

 男気も一流。07年10月のナビスコ杯川崎戦では即席GKに。味方GKが退場処分を受けた際、交代枠を使い切っていたためユニホームの色を変えてピッチに立ち続けた。誰もが戸惑う場面で、真っ先に手を挙げた背中で仲間を鼓舞していた。

 日本が初めて16強入りした02年のW杯日韓大会では全4試合に、“マイアミの奇跡”と呼ばれる1996年アトランタ五輪のブラジル戦にもフル出場し、日本サッカー界が歴史の扉を開く瞬間には欠かせない役者だった。

 よく、負傷した仲間の名前をシャツに記してユニホームの下に着た。気が抜けた若手のプレーは怒鳴った。今季から所属するJFLの松本山雅でも、情に厚い熱血漢のままだった。長野で伝えたいことは山のようにあったはず。早すぎる。(榊輝朗、奥山次郎)

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J1の広島戦でプレーする横浜F・マリノスの松田直樹選手(左)=2010年10月31日、横浜市のニッパツ三ツ沢球技場
2002年6月、サッカーW杯日韓大会のロシア戦で相手選手をマークする松田直樹選手(左)=横浜国際総合競技場
サッカーJ1 横浜FMー神戸 優勝し、鈴木チェアマンからトロフィーを渡される横浜F・マリノスの松田直樹(中央)=2003年08月02日、横浜国際

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