れまでのとりくみ01〜04

岡山高生研ミニ全県ゼミ12月例会(12月2日・於岡工

70年代の論文から
「高校生論と高校生活指導---正統的青年論の盲点」(竹内常一氏)

 機関誌150号は、「『高校生活指導』再見」と題して、全国高生研創設以来、機関誌「高校生活指導」誌を飾った諸論文を鳥瞰しつつ、70年代、80年代、90年代の10年単位の括りのなかで、それぞれの時代の理論と実践を象徴する代表的論文を数本ずつ集録しています。そして、それぞれの時期について、鈴木あぐ理氏(70年代)、望月一枝氏・井沼淳一郎氏(80年代)、池野眞氏・上条隆志氏・山田育男氏(90年代)の各氏が解説を施しています。
 岡山高生研ミニ全県ゼミ12月例会(12月2日・於岡工)では、70年代を代表する論文として、竹内常一氏の「高校生論と高校生活指導ー正統的青年論の盲点」を輪読。感想を交えて意見交換しました。
 たまたま、参加者の年齢構成は、この論文が書かれた当時(1971年)、ちょうど高校生、もしくはその前後の青・少年期を送っていた世代に偏っていて、視点の偏りを自覚せざるを得ませんでしたが、実際に教職に就き、青年教師として過ごしたのは70年代後半の時代の空気を思い出しつつ、論文の提起していたものを読みとろうとしました。
「三無主義」か「無限のエネルギー」か?
 この論文は、まず、高校生・青年の「三無主義」を嘆く声と、いやそれは仮象であって、彼らはその陰に無限のエネルギーを秘めているのだとする期待論が繰り返し語られる現実状況に触れつつ、それらが、一見対極に位置する高校生観・青年観と見えながら、実は、同根異種、表裏一体の高校生論・青年論であると指摘しています。そして、ほとんどの教師は、同時にこの二つの考えを併せ持ち、実際、この二つの極の間を行き来し、期待・興奮と絶望とを繰り返している、と論じています。そして、このような高校生論は、「土着」の神人合一観・神人理想論、ないしは、その原型を大正期教養主義にまで遡ることができる教養主義的教育観の磁場のうちにあり、民間教育運動の諸説も決して例外ではないというのです。
 「三無主義」・・・そういえば、自分らが高校生の時、もうこの言葉は使われていたっけ。それにしても...「土着の神人合一観・神人理想論」?!「大正期教養主義」?!もう、この辺りの用語の抵抗感で、消化中枢は活動停止に陥っています。
「昔の人たちはこんな難しい論文を読みこなして、血肉化してたのかね?」「そういえば、我々が若かった頃の高生研の先輩は、いつも難しい本を読んで、難しい議論をしてたっけね」「そんな先輩達が、一目も二目も置いて傾倒していたのが竹内先生だったね」「この論文を書いた頃の竹内先生って、考えてみれば思いがけない若さだよね」etc.変なところで話は弾みますが、なかなか内容に迫る議論になりません。
 
高校生論をどう見るか
 単純化して言えば、こういうことでしょうか?
 そもそも若者というものは、生来的に、無限のエネルギーを備え持っており、それをパ〜っと存分に発揮したあとは、社会構成体との和合=有機的調和(「むすび」「和」「まるくおさまる」)に至るものだという若者観が「土着的」にあって、進歩的・革新的教師も知らず知らずこの発想に染まっちゃっている。つまり「生徒は本来積極的で健康な要求をもち、エネルギーを持っている」→「従って教師はその要求=エネルギーを信頼し、その発現を援助すべきだ。」などという発想自体、そのあらわれだ。
 古くさい国家主義的・国粋的・非合理的なエネルギー論には批判的な人も、もう少し合理主義的でリベラルな装いをなすエネルギー論とは無縁ではいられない。そのルーツは大正期教養主義であり、それは、主として古今東西の古典の読書を契機に自己を掘り下げ、自己探求、自己反省、自己究明を通じた自己実現、すなわち個性=神性の実現を図ろうとするものだ
 今日の高校生論は、もちろん大正期教養主義そのままに主観的・観念論的・合理主義的ではなく、むしろ主情主義的、生命主義的、非合理主義的であるかも知れないが、両者には、@社会的現実そのものの捨象、忌避、また、それへの高踏的・批評的態度、A内面的中心確立のための自己探求の苦悩、B「個人主義」的自己実現の焦燥的態度、C自己と社会との直接的融合への主観的、主情的渇望などの共通点がある...
 でも・・・ね、「どんなに無気力に見えても、生徒は本来積極的で健康な要求をもち、エネルギーを持っているはず。それを正しく導けば大きな力を発揮する。裏切られても裏切られても、それをとことん信頼するしかない。」と、人に説きもし自分に言い聞かせもして、これまでやってきた気がする。この「信念」が、我々の教育活動の支えになっていた面もあるのです。それが、70年代の初めに(つまり、我々が教職に就くより前に)、すでに、こんな風に否定されていたなんて、ちょっとショック...というか苦笑ですね。
 たしかに、「高校生は、もっとエネルギーを持っているはず、熱いはず」と、熱く期待すればするほど、現実の目の前の高校生達の冷淡なまなざしに、当惑といらだちをかき立てられる思いは、誰しも、イヤというほど経験してます。そんなとき、「最近の高校生はどうなってるの?」「見えない、つかめない」と嘆き、憤激した経験は、これまた枚挙にいとまなしです。
 ありもしない架空の高校生像を、勝手にこしらえ上げておいて、目の前の現実の高校生がそれに当てはまらないからといって、苛立ったり嘆いたりしているのだとしたら、悲惨を通り越して滑稽ですね。「三無主義高校生」の命名は、そのハシリであったかもしれませんし、それでも足りず、四無、五無と増えて、私の知る限りでは「十三無主義(曰く、無気力、無関心、無責任、無感動、無抵抗、無批判、無能力、無作法、無学力、無教養、無節操、無定見、無思想...おお、壮観!!)」にまで膨れあがった情けない高校生・青年像は、高校生・青年の貧困をではなく、むしろ、高校生観・青年観の貧困を暴き出していたのかも知れませんね。
もう、青年はいない...!?
 そして筆者は、1930年代を苦闘した思想家戸坂潤を引用します。
 すなわち、子どもは現実主義者で、青年は理想主義者で、壮年は自我主義者だと言ったヨーロッパの思想家がいたが、現代の青年はそうではなく、「今日の青年は...その空想や理想という、自然的な欠点か特権かを振り回すだけの余地を、極度に速やかに失いつつある」ので、現代の日本や日本に類する社会事情の国では、自然的な意味における青年なるものは無い...、その意味で、もう今日では青年はいないのだ。多くの青年指導者や青年教訓者は、いないものに向かって道を説いている」。
 まさに、そのとおりの状況が、今日の日本の現実ではないかと、筆者は問いかけています。。とすれば、現実の目の前の高校生の中には、正統的青年論が期待するような、「神の子としての種子」が生来的に存在しているわけではなく、健康なエネルギーがあるとすれば、それは、彼らの外側の自然と社会の中に閉ざされていると言うのです。
 イヤ、困りました。目の前の高校生・青年達が、健康なエネルギーに満ちた存在ではないのだとすれば、我々は、何に依拠して(何を励みにして)、そして、どのように教育活動を、とりわけHRづくりや自治活動の指導を進めていったらいいのでしょう。
青年を青年に、ヒトを人間にするものは?
 筆者は、こう結論づけています。「(目の前の高校生・青年が、)三無主義的青年、高校生ばかりであるとすれば、教育はこの現実から教育創造に努める外はないのである。」
「高校生活指導は、学習法的生活指導のように、青年=エネルギー論や神人合一論を前提にして、自己探求と自己実現に生徒をむかわせるのではなくて、社会や集団の中で対立し、抗争し、統制し合っている現実の力関係をしっかりと知的にも情的にも認識させながら、この力関係の民主主義的改造にとりくませるなかで、生徒集団にもちからのあることを順序正しく認識させていく必要がある。生徒集団、生徒個人が...客観的に持っているちからを現実に行使させ、集団内外の、ひろく社会の現実的な力関係をそれによってゆるがせていくことによって、無気力、無関心、無感動という閉ざされた意識の地平を切り開き、この物質的な生徒達の力に依拠して着実に現実的なパースペクティヴ(見通し路線)をおしひろげ、強固な意志を形成していかねばならぬ。...(パースペクティブ形成につながらない下手な政治的アジティションや中途半端な未来賛歌でなく)あくまでも集団のちからによって自然や社会のうちに閉じこめられていた自我を奪還していかねばならぬ。集団や社会の発展の必然性を揺り動かしていくなかで、生徒集団のちからによってその必然性を切り開いていくなかで、生徒たちはヒトから人間になっていくのである。」
 さらに筆者は、迫り来るファシズムを前にした昭和11年に哲学者三木清が「人間は社会から生れる。従って新しい人間が生まれるためにはみづから社会に働きかけてこれを変化しなければならぬ。即ち世代が新しい人間のタイプとして自己を確立するといふことと社会に働きかけてこれを変化するといふこととは決して無関係なことではない。一方青年は自己を新しい人間として確立するのでなければ社会を変化することができぬ。他方社会が変化するのでなければ青年は自己を新しい人間として確立することができぬ。人間は社会的に活動することによってのみ自己を形成しうるのである。」(「青年に就いて」)と述べているのを引用しながら、「現代にあっては青年は青年になるために、ヒトから人間になるために、集団的なちからによって社会=集団を民主的に改造していく権利を必要としている。高校生は青年になるために、人間として教育されるために...自治する権利を必要としているのであり、その権利の行使の正当に指導してくれる教育を要求しているのである。教育を受ける権利は学習する権利にとどまらず自治する権利を含んでいるのであり、それは教師に真に科学的な教授と民主的な政治的訓練を要求しているのである。」と強調しています。

自治的体験を通して集団のちからを獲得させる

 つまり、大切なのは、高校生=青年の内部に秘められているはずの、「健全なエネルギー」に期待し、その発揮を呼びかけること(そして、多くの場合、失意と幻滅にうちのめされ、「イマドキの高校生」を嘆くことになる)ではなく、彼らに自治の権利を保障しつつ、生活の現場での、具体的な自治的な活動の経験を通して、集団のちからを体得させていくことなのですかね。書いていて、ますます糸がもつれてきましたが、これが私の理解力の限界。今回はこれで終わります。(文責:倉敷古城池高 山本)

これまでのとりくみ01〜04