頭脳ゲームとして世界的に注目され始めている囲碁。日本の囲碁界で歴史を塗り替えると期待されている存在が、2009年に史上最年少で名人位を獲得した井山裕太二冠(22)だ。ことしは七大タイトルの1つ「十段」を獲得し、国際棋戦「博賽杯金仏山国際囲碁超覇戦」では中国、韓国のトップ棋士を破って優勝。若くして頂点に立った男の目は、常に世界へ向けて光っている。(聞き手=福島大輔)
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‐昨年秋に名人を防衛され、今年は十段を獲得。さらに国際棋戦も制するなど、順調そのものですね。
「そうですね…。今年は年明け早々、棋聖戦という、囲碁界で一番大きなタイトル戦でスタートしまして、その後十段戦。1月から4月の終わりごろまでは、タイトル戦のことばかり考えていましたね。棋聖戦の方ではふがいない負け方をしてしまって、その流れで十段戦だったんですが、何とか切り替えて勝つことができたので、終わったときはホッとしました」
◆記者は5年ほど前にも、井山名人にインタビューをしたことがある。当時は「阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦」を制し、最年少タイトルホルダーとして注目され始めていた。
‐以前から、ゆくゆくは世界の舞台で勝ちたいとおっしゃっていました。今回、非公式戦とはいえ、国際棋戦を制したことは大きいですね。
「名人を取ってから、国際大会にも出させていただいていたんですが、まったく結果が出せなくて、世界との実力差を感じていたんです。今回、韓国と中国のトップ2人に勝つことができて、その日は今まで囲碁棋士を10年ぐらいやってきましたが、一番うれしかったですね」
‐多くの最年少記録を塗り替えてきて、プレッシャーを感じることは。
「周りの方から期待していただいているというのは常に感じています。プレッシャーではありますが励みにもなりますので、それが苦しいと感じたことはあまりないですね」
‐順調に来られた中で、七大タイトル初挑戦となった08年の名人戦で敗れました。
「すべてが初めてでしたし、相手が張栩さんでしたので、どれだけ自分がやれるかという不安と、それ以上に自分に対する期待がありました。2カ月ほどの長い戦いでしたので、緊張感から解放されてホッとした部分もあったんですが、それ以上に張栩さんとの力の差を感じた部分があって、非常に悔しい思いはしました。ただ、また絶対ここに戻ってきたいと」
‐宣言通り1年後にまた挑戦し、今度は圧勝。
「戻ってきたいとは言ってましたが、こんなにすぐ戻ってこられるとは思ってませんでした。それでも、2年連続で同じ相手に負けるわけにはいかないという思いはありましたし、1年目よりいい戦いができればと考えていました。大きな舞台を一度経験していた分、少しやりやすくもあったし、自分の打つ手に自信もありました」
‐20歳で名人位に就いた瞬間の心境は。
「取った瞬間はまったく実感がわいてこなくて、終わった瞬間にすごい数の報道陣の方が対局場に入ってこられて、何が何やら…という感じだったんですが、自分が名人という立場になって、果たしていいのかなという気持ちは正直、ありました。ただ、名人になったからといって、今までやってきたことを変えるのではなくて、精いっぱいの碁を打ち続けるだけだと思っていました」
‐囲碁界に入るときの最大の目標は名人だったのでしょうか。
「タイトルを取れる棋士になりたいというのはありましたが、小さいころはタイトルの違いもわかっていませんでしたから(笑)。やはり名人というのは非常に歴史のある棋戦で、名人というとどの世界でも優れた人を評するように、響きもいいですし、最初に取った大きなタイトルが名人ということで、自分でも驚いています」
‐囲碁界以外からも注目が集まりますよね。
「名人を取ってから、徐々にそういうものも出てきまして、名人になったことで、日本だけではなく世界からもそういう目で見られますから、『日本の名人はなかなかやるな』と思われたいというのはありましたから、それまで以上に責任感が出てきましたね」
‐何歳までにタイトルを、という思いはあったのでしょうか。
「プロになったのが12歳の時で、師匠の石井邦生先生に『10代の間にタイトルを取ってほしい』と言われました。最初に名人に挑戦したのは19歳で、その時は負けて取れなかったんですが、10代で、というのは目標にしていました。ただ最初はやはり、あまりにも遠い目標で、実際は20歳でしたけど、こんなに早く取れるとは思っていませんでした」
‐将棋界では羽生善治二冠が、かつて七大タイトルを全制覇しました。
「棋士である以上は、七冠制覇は夢ですね。不可能に近いとは思いますが、羽生先生はそれをやられましたので。今の自分には想像もできませんが、目指して頑張りたいです。羽生先生の本で、『七冠を達成するなら、若いときしかないと思っていた』というくだりがあったと思うのですが、1年1年が勝負だと思いますので、もっと力をつけて、少しでも強くなりたいですね。体力的には20代が一番ありますし」
‐最近は同世代に、スポーツ界などでも世界で戦う選手が増えています。日本を代表して世界と戦う心境というのは格別なものがあるかと思うのですが。
「普通に生活していてなかなか経験できることではないですしね。昨年、アジア大会で囲碁が正式種目として認められて、初めて日の丸を背負って戦うという経験をしたのですが、身震いするような感覚でしたね」
‐将来は五輪種目に、という期待もあります。
「囲碁は日本ではまだまだマイナー競技というか、若い人の競技人口が少ないんですが、世界的には、ヨーロッパなどでも盛んになっています。どんどん囲碁の魅力を世界的に伝えていきたいと思いますし、いずれはオリンピックの種目になるような、誰もが知っているゲームになればいいなと思いますね」
‐ご自身が囲碁を始めるきっかけは。
「5歳のとき、父親が会社の同僚と囲碁でも始めようという話になったらしく、スーパーファミコンと囲碁のソフトを買ってきまして、それを見ているうちに、というのが最初ですね」
‐囲碁に引き込まれた魅力というのは。
「どうなんですかね…、小さいころから本当に負けず嫌いで、最初は父親に負けて泣いてばかりでした。1つのことに夢中になるタイプで、最初は単純にゲームとしてやっていたんですが、だんだん自分が強くなってきたのがわかって、もっと強い人と打ちたい、強くなりたいという気持ちが出てきました。あと、囲碁は自由なゲームですから、一応定石というのはあるんですが、知らなくても打てる。縛りが少ない、やりたいようにできるというのが合ってたのかなと思いますね」
‐5歳で始めてからは、囲碁一色の生活でしたか。
「囲碁はずっと続けてましたが、小学校のころとかは友だちと遊ぶのも好きで、学校から帰ったらだいたい囲碁の勉強ではなく、友だちと外で遊んでいましたね。当時は囲碁を職業にしようなんて全然思ってませんでしたし、楽しみの1つに、友だちと遊ぶのと同じ感覚でした」
‐その中で石井先生から誘いがあって、プロになるかどうかという決断があったと思います。
「石井先生には6歳で出会って、よく教わるようになったのですが、プロになるために院生になるかどうかで、小3の時に『目指してみてはどうか』と勧められました。僕は正直、プロというのがどういうものかわかってなかったんですが、院生というのは同世代の若い人ばかりで、そういう相手と打てるというのは魅力でした。それまでは碁会所とかで、年齢的にはおじいちゃんのような方ばかりと打ってましたので…。だから院生になったのも、はっきりプロを目指すというより、教室に通うような感覚でしたね」
‐中学生でプロになって、高校には行かないという決断をされました。
「普通だったら大きな決断だったんでしょうけど、僕は中学入学と同時にプロ入りを決めて、その時点で高校に行くつもりはあまりありませんでした。せっかく好きなことが職業になったのだから、悔いのないようにやりたいと。高校に行きたくなかったわけではないんですけどね。高校に行かないと決めた以上は、囲碁を精いっぱいやらなきゃいけないな、とは思いました」
‐プロに入ると、また対戦相手は年上ばかりだったかと。
「年齢はあまり関係なく、強い人と打ちたいというのが一番でしたね。それに韓国や中国では、同世代でもっと強い人がたくさんいますから、どこか常に、世界というのを意識して、そちらに目が向いていたような気がしますね」
‐もし仮に、囲碁棋士になっていなかったら、どういう職業に就いていたと思いますか。
「こればっかりはわからないですが、やはり勝ち負けがはっきりする世界が好きなんだと思うんで、どういうものかわかりませんが、勝負の世界を目指していたのではないかと思います」
‐勝負に挑む際の心構えで、一番大切なことは何でしょう。
「そこが一番難しいところじゃないかと思うのですが、僕はあまり勝ち負けを強く意識しすぎないようにしています。勝ちたいと思って勝てるものでもないので、それよりは常にベストを尽くそうという気持ちを持って臨んでいるんですが、ただ、そうはいっても勝ちたいという気持ちは出てきてしまうんで…。そこが難しいところで、まだまだ精神面が弱いなと思うこともありますね」
‐勝負師として、避けて通れない部分ですね。
「どうしても勝ちが近づいてくると、どの世界でもそうだと思うんですが、どうしても楽に勝ちに行こうとしてしまいがちなので、形勢が少し良さそうだと思っても、勝ちやすいというよりは最善を目指そうと考えるようにはしています」
‐長時間の対局の間、集中力を持続させるのも大変なのでは。
「ずっと持続させるのは、不可能だと思いますね。ところどころで抜きながら、ということになると思うのですが、そこでふと気が抜けたときにミスをすることもあるので、難しいですね」
‐集中力を養う方法はありますか。
「それがわかればいいなと思うんですけどね(笑)。対局は時間も長いですから、それだけ集中できる、囲碁のことを考えられるように、普段の練習ですかね。1人でも、何人かで勉強するときでも、時間を忘れてやっているときもありますから。楽しくないことを長くやるのは苦痛だと思いますが、やはり囲碁が好きだからできるのかとは思います」
‐勝負術においてのこだわりは。
「心理面の問題ですけど、形勢が悪いときに、勝負勝負といくのではなく、じっと我慢してチャンスを待つというか。少し悪いときはどうしてもばん回しようと思って無理な手を打ってしまうことが多いんですが、それでは強い相手には通用しない。そういうときにこそじっと耐えてチャンスを待つ。相手も人間ですから、ミスをすることもありますし。そういうのは若いときから、わりとできていたかなと」
‐そうした落ち着きは、20歳前後の方にはそうそうないとは思うのですが。
「そんなに自分では落ち着いているとは思わないんですけどね。ずっと囲碁界でやってきて、負けず嫌いなので、負けないためにはどうするかを考えると、冷静に状況判断をすることが一番負けにくいかなと思って、やっているんでしょうけどね」
‐どの世界でも大事なことですね。
「そうですね。優れている方はやはりそういう部分がうまいと思いますし、勝負の世界ですと、負けることもあるんですが、負けてもすぐ気持ちを切り替える、そこも大事だと思います」
‐負けた後の方が大事だ、という方も多い。
「そこは常に考えています。人間、負けたときの方が何かつかみやすいというか…。勝ちが続いていると、これでいいのかと思ってしまいがちで、負けた後の方が反省点が見えてきますね」
‐大勝負での負けは、より力になりますか。
「ショックも大きいんですけどね。乗り越えたときは、さらに上に行けるかなと思っています。負けた後に成績が良くなるというのは、多いかもしれません。負けた後をどう過ごすかは、非常に大事だと思います。もちろん、常に勝ちを目指してやってるんですが、勝ってばかりだと見えてこないものもあるのではないでしょうか」
‐気持ちの切り替えはどのように。
「終わった直後は、勝負のことはあまり考えずに、ちょっとお酒を飲みに行ったり、軽く体を動かしたり、ビリヤードをしたり…。対局の次の日は、囲碁から離れていることが多いですね。次の対局はまたすぐ来るんで、引きずっていてはどうにもなりませんから」
‐常に勝負の世界に生きるつらさというのはありませんか。
「それはありますね。勝ってるときはいいんですが、負けが続くこともありますんで、そういうときは、ちょっと休みたいなと思ったり…。それでも囲碁が好きだという気持ちがなくなったことはないんで、しんどいなと思うことはよくありますが、囲碁をやめたいなと思ったことはないですね」
‐数々の最年少記録を塗り替えてこられましたが、これからの目標は。「やはり棋士として、もっと成長したい、もっと強くなりたいというのが一番です。あとは、いろいろ最年少記録も作ることができましたが、囲碁は非常に選手寿命が長いというか、生涯現役という先生もたくさんいらっしゃいますので、自分も長く第一線で活躍できるような棋士でありたいと思います。生涯現役までいけるかはわからないですが、囲碁が好きだという気持ちがある限りは、できるだけ続けていきたいですね」
‐その過程で「七冠」というのは…。
「そうですね。目標としてはありますね。相当大変なこともわかってはいますが(笑)」
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井山 裕太(いやま・ゆうた)1989年5月24日生まれ。大阪府東大阪市出身。5歳で囲碁を始め、6歳で読売テレビ「ミニ碁一番勝負」で5人抜きを達成。番組で解説を務めた石井邦生九段に入門し、2002年にプロ入り。05年10月、第12期阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦で優勝し、史上最年少でタイトルを獲得。08年には史上最年少で七大タイトル(名人戦)に挑戦するも、3勝4敗で敗退。09年に再び張栩名人に挑戦し、4勝1敗で勝利。20歳4カ月と、史上最年少での名人および七大タイトル獲得となった。今年4月には十段位を獲得し二冠に。5月には国際棋戦「博賽杯金仏山国際囲碁超覇戦」で優勝。