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> ■有情即非情 非情即有情というのは大聖人の仏法には存在しません。
大聖人、観心本尊抄に曰く、
【夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無んば已みなん。介爾も心有れば即ち三千を具す。乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り】
(新編644P)
「介爾も心有れば即ち三千を具す」の「介爾」とはどういう意味だ?
自分でよく考えることだね。
次に、同じく観心本尊抄に曰く、
【問うて曰く、百界千如と一念三千と差別如何。答えて曰く、百界千如は有情界に限り、一念三千は情非情に亘る。不審して云く、非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何。答えて曰く、此の事難信難解なり天台の難信難解に二有り一には教門の難信難解、二には観門の難信難解なり】
(新編645p)
阿呆曰く、「百界千如と一念三千と差別ありまんのん?」
ここで大聖人ははっきりと天台の百界千如を打ち破り、大聖人のお説き遊ばされる一念三千とは「情非情に亘る」、即ち 有情非情の差別はない、とお説き遊ばれるのだ。これが大聖人の仏法である、お分かりか?
次に、お前のようなノ~タリンが大聖人に次のように質問する。「不審して云く、非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何」
(疑って曰く、非情に十如是亘るならば草木にも心があって有情のように成仏が出来るのか?)
大聖人曰く、「此の事難信難解なり」つまり血脈相伝仏法を破壊しニセ本尊を拝しているようなお前さんにはこのことを理解することは非常に難しいことであるとおっしゃっておられるのだ。
しかし天台は、教学(教門の難信難解)と修行(観門の難信難解)をすればこれを悟ることが出来ると説いている。しかし大聖人は「受持即観心」といわれ、本門戒壇の大御本尊を信ずる人々は容易にこのことを悟ることが出来、成仏の境涯へ行くと説かれているのである。
以上、
下、創価史上歴史に残る名文句だね。表彰ものであるナ
■有情即非情 非情即有情というのは大聖人の仏法には存在しません。
■有情即非情 非情即有情というのは大聖人の仏法には存在しません。
■有情即非情 非情即有情というのは大聖人の仏法には存在しません。
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