場面10 不破論文・日共のトロツキズム批判

 広田さんへのメールがフェイラー・ノーティスしましたので、以下にてご通知とさせていただきます。
 広田さんはじめまして、れんだいこと申します。  小生只今ブント論を作成中です。  広田さんのサイトでの不破論文を考察しようと思い全文転載させていただきま した。  http://www.marino.ne.jp/~rendaico/sengogakuseiundo_4_hosoku2_10.htm  http://www.marino.ne.jp/~rendaico/sengogakuseiundo_4_hosoku3_5.htm    ご了承賜われば幸甚です。その他同種の引用または転載なぞさせていただきましたら有り難いです。まずはご連絡と報告まで。  2002.6.28日 れんだいこ


【不破哲三「現代トロツキズム批判―平和と社会主義に敵対する『世界革命』論」】
 広田氏の日本共産党を考えるネットの「日本共産党関係・テーマ別資料室」は、不破哲三の現代トロツキズム批判―平和と社会主義に敵対する『世界革命』論(1959.6月号前衛)を掲載している。貴重文献であるのでこれを転載しておく。
一 復活したトロツキズムの亡霊
 学生党員のあいだに生まれた極左分派が、思想的にも組織的にもトロツキズムに接近しつつあることは、早くから指摘されていたところだが、彼らが、日本共産党ばかりでなく、国際共産主義運動全体と絶縁し、これと非妥協的に闘争することを宣言し、「新しい革命的階級的政党の結成をめざす」前衛組織と称して「共産主義者同盟」なる反党組織を公然と結成した今日では、彼らが名実ともにトロツキスト集団への転化を完了したことを、はっきり確認することができる。

 共産主義者同盟の機関誌『共産主義』、社会主義学生同盟機関誌『理論戦線』などの諸論文や、その理論的指導者のひとりとなっている黒田寛一の著書『現代における平和と革命』(五九年二月刊)などは、「革命的共産主義者」と自称するこれらの「革命家」たちが、「レーニンに帰れ」という看板のもとで、その実はマルクス、レーニン主義を完全に放棄し、トロツキズムのとりことなって、労働者階級とは縁もゆかりもない反革命的立場に転落したことを端的にしめしている。

 いまでは、彼らは白分たちのトロツキズムヘの屈服を少しもかくそうとしていない。レーニンの死後その全精力をつくして国際共産主義運動に敵対しつづけたトロツキーは、彼らのもとでは、第三インターの堕落に反対してレーニン主義を擁護し、世界革命のためにその生涯をささげた不屈の英雄として、またマルクス、エンゲルス、レーニンの正統の後継者としてたたえられている。

 ソ連共産党二〇回大会以後、スターリンの個人崇拝と結びついて国際共産主義運動と社会主義国家のなかでおかされた一連の誤謬が自已批判されたことから、彼らはソ連とコミンテルンに反対しつづけたトロツキーの正しさが証明された、とこっけいな早合点をしてしまった。だがトロツキーは、スターリンとコミンテルンの方針の誤った部分にではなく、主として、その正しい部分に反対してたたかったのである。あとでみるように、これらの「革命的共産主義者」たちが展開する革命理論は、三〇年前のトロツキーの理論の文字どおりの再現で、現代のあらゆる問題がトロツキーの方法のオウム返しの借用で、「分析」されることになる。

 この小論は、トロツキズムの思想的影響を一掃し、学生運動の健全な発展を助けるために、彼らの「革命理論」を批判し粉砕することを課題とするものだが、彼らがトロツキーの後継者、現代のトロツキストをもってみずから任じている以上、内容の検討にはいるまえに、マルクス、レーニン主義革命理論の歴史のなかでトロツキーとトロツキズムがいったいどんな位置を占めていたのかを、まず明らかにしておくことが必要であろう。

 (1) 現代トロツキストたちは、トロツキーをロシア革命の理論的指導者にしたてあげ、初期のレーニンの「誤謬」(たとえば労農民主独裁の主張)を訂正してロシア革命にプロレタリア独裁のための闘争という政治的一貫性をあたえたのがトロツキーだとまで主張しているが、事実はまったく逆で、革命理論としての「トロツキズム」は、ボリシェビズムとメンシェビズムのあいだを不断に動揺し、なんらの一貫した戦略的傾向を代表しえなかった点に基本的特徴があったのだから(1)、だいたいロシア革命を理論的に指導するどころの話ではなかった。

 たしかに、一九一七年八月にボリシェビキ党に参加して以後、十月革命の現実過程のなかで、トロツキーが、あるいは軍事指導者としてあるいは政治的扇動家として果たした役割を否定することはできないだろうが、この役割も、彼が独自の理論としてのトロツキズムを代表したためではけっしてなく、むしろ彼がそのトロツキズム的見解をひっこめてレーニンの党の政治路線にしたがったかぎりにおいてのみ果たしえたものであった。

 事実、一九一七年以後においても、トロツキーが独自の政治的主張をかかげて出撃したときには(一九一八年のブレスト講和をめぐる論争、一九二〇年の労働組合をめぐる論争)、それはつねにレーニンのきびしい批判の対象となった。トロツキストたちは、レーニンがその「遺書」のなかで彼を「もっとも有能な人物」とよんだことをもって、あたかもレーニンがトロツキズムの正当性を承認した証拠であるかのようにいっているが、同じ「遺書」のなかでレーニンがジノビエフ、カーメネフの一〇月の裏切りとならべて、トロツキーの「非ボリシェビズム」を指摘していることでもわかるように、レーニンが彼を評価したのは、トロツキーが過去の「非ボリシェビズム」=トロツキズムをひっこめていたかぎりにおいてだったのである。

 (2) だが、トロツキーのレーニン的方針への服従は一時的で表面的なものでしかなかった。一九二四年にレーニンが死ぬと、トロツキーはただちにレーニンの路線への「忠誠」をたちまち捨て去ってその「非ボリシェビズム」を復活させ、それを党とコミンテルンのあらゆる方針を批判する武器として全面的に展開しはじめた。

 まがりなりにも一連の体系だった「革命理論」としてのトロツキズムについて語ることができるのは、この時期以後のことだが、ロシア革命の試練のなかでではなく、党とコミンテルンにたいする反対派活動、さらに破壊的な敵対活動のなかではじめて体系的に形成されたということは、トロツキズムの理論的性格を根本的に規定している。

 それは運動の後退や失敗をとらえて指導理論の「根本的誤謬」を摘発することのみをこととし、それ自身はいかなる現実の革命運動をも指導せず、革命運動の失敗と成功のなかで自已を検討することもしない破壊的批判の武器として刻印づけられたのであった。したがって、そこからみちびきだされた唯一の「革命的」実践活動が、社会主義国家と国際共産主義運動を解体しようとする破壊活動であったのは、トロツキズムの論理的帰結であったといってよいだろう。

 現代トロツキストたちも、トロツキズムのこの特質をそのまま完全にうけついでいる。彼らの理論活動の主要な関心は日本の政治・経済の状況や階級関係を科学的に分析し、そこから革命運動の指導理論を創造的にきたえあげることにはまったくむけられず、ひたすら国際共産主義連動と社会主義体制にたいする破壊的批判にむけられている。

 そして、革命運動の成功や前進はいっさい見ようとせず、フランスのドゴール進出、エジプトのナセルの反共主義への「転換」、パキスタンのクーデターなど世界政治における後退的現象の雑多な一覧表をつくりあげ、これらすべての責任を「国際共産主義運動を毒しつづけている日和見主義の存在」に帰着させるという方法論も、トロツキーのコミンテルン批判そのままである。

 だから彼らがトロツキーにならって、「階級闘争を裏切りつづけた公認の国際共産主義運動の指導部との思想的・理論的・政治的断絶」を当面の中心任務とし、スターリン官僚(つまり社会主義国家のことだ)と帝国主義権力の同時打倒を目標とする破壊的実践に従事するにいたったのも、やはり当然の帰結といわねばなるまい。

 以下、彼らの「革命理論」を検討するわけだが、数多い論文のなかでもとくに指導的なものと目される姫岡玲治の「激動・革命・共産主義」(『理論戦線』二号)と「革命的インターナショナリズムとはなにか」(『共産主義』一号)および黒田寛一の著書『現代における平和と革命』を中心に現代トロツキズムの骨組みを明らかにすることに力点をおいたこと、彼らの反党活動を合理化するための組織論の批判は紙数の関係から割愛したことを、おことわりしておきたい。

 (1) レーニンはトロツキーのグループを「革命と反革命の重要な原則的問題のどれひとつにも独自のまとまった答えをあたえなかった小グループ」と特徴づけ(『調停主義者すなわち道徳的な人々の新しい分派について』一九一一年、全集、第一七巻)、また「トロツキーはいまだかつてマルクス主義の重要な問題のなに一つについても持続的な意見をもっていたためしがない」(『民族自決権について」一九一四年、全集、第二〇巻)とその動揺性を酷評した。

 トロツキーとその理論にたいするレーニンの評価をみるには、上記二論文のほか『社会民主党と臨時革命政府』(一九〇五年、全集、第八巻)、『わが革命におけるプロレタリアートの闘争目標』(一九〇九年、全集、第一五巻)、『政論家の覚え書』(一九一〇年、全集、第一六巻)、『ロシアにおける党内闘争の歴史的意味』(同上)、『改良主義者の政綱と革命的社会民主主義者の政綱』(一九二一年、全集、第一八巻)、『統一の叫びにかくれた統一の破壊について』(一九一四年、全集、第一〇巻)、『帝国主義戦争における自国政府の敗北について』(一九一五年、全集、第一二巻)、『革命の二つの方向について』(同上)、『革命的空文句について』(一九一八年、全集、第二七巻)、『労働組合について、現在の情勢について、トロツキーの誤りについて』(一九二〇年、全集、第三二巻)、『党の危機』(一九二一年、全集、第三二巻)、『ふたたび労働組合について、現在の情勢について、トロツキーとブハーリンの誤りについて』(同上)などが重要である。
二 一国社会主義と世界革命

 1 その破産を歴史が証明した一国社会主義批判

 「世界革命の勝利以前に、少なくとも西ヨーロッパの革命が勝利する以前に、経済的におくれたロシアで完全な社会主義社会を建設することは不可能だ」とする理論は、トロツキーの「世界革命」理論の土台石を形づくっており、この一国社会主義批判は、それがもし誤りだとなったら、国際共産主義運動に対置させてつくりあげたトロツキズムの全体系が一挙に崩壊してしまうほどの比重をしめていた。

 だが、スターリンを先頭として遂行された二〇年代の理論闘争の経緯をふりかえるまでもなく十月革命以来四〇年間の世界史の発展は、トロツキズムのこの最大の支柱を打ち破りがたい歴史的事実の力でうちくだいた。すなわち、世界革命の不均等な発展が主要な先進資本主義国をまだ資本主義体制のもとにとどめているあいだに、ソ連は社会主義社会の建設を完了し、社会主義は資本主義的包囲を打ち破って世界体制となり、帝国主義者のいかなる攻撃をも撃退しうる力をもちながら共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始しているのである。ソ連共産党第二一回大会でフルシチョフがのべているように、「一国における社会主義の建設と、その完全かつ最終的な勝利にかんする問題は社会発展の世界史的行程によって解決された」のである。

 だが、このような明々白々な事実を目の前にしながら、現代トロツキストたちは依然としてトロツキーの一国社会主義批判に固執し、それを国際共産主義運動にたいする彼らの「革命的」批判の基柱にしようとしている(黒田の『平和と革命』は全ページ「スターリンの一国社会主義」批判でつらぬかれているし、『共産主義』や『理論戦線』の諸論文のなかにもこのテーマにささげられたものが多い)。

 彼らがすでに歴史によって破産を宣告されたこのテーゼを必死になって救いだそうとする意図はきわめて明白である。後でみるように「(1)国際共産主義運動の指導部は世界革命を裏切ったのだから打倒しなければならない。(2)いまのソ連は社会主義国家ではないのだから打倒しなければならない」というトロツキストの指導原理は、すべてこの一国社会主義批判から、みちびきだされているのだから、このテーゼを失った場合には、彼らはその反党活動を合理化するいっさいの根拠を失ってしまうのだ。

 ところが、これだけの意義をもったテーゼであるにもかかわらず、どの論文を読んでも、なぜ一国で社会主義を建設することが不可能なのかということを論証しようとする努力はどこにも見あたらず世界革命の原理として独断的に前提されているだけだ。

 この点をもっとも詳しく論じている姫岡玲治の「激動・革命・共産主義」(『理論戦線』二号)にしても、ここにあるのはプロレタリアートは世界的規模でしか自已を解放しえないということのエセ哲学的説明と、一国社会主義理論がレーニンの遺志に反してスターリンによって創造されたことを証明しようとする断片的詐欺的なレーニンの引用とにすぎない。だが、このような方法でレーニンとスターリンを対立させようとするのは、すでに三〇年まえにスターリンによって完膚なきまでに粉砕された(1)、トロツキーのこころみの不器用なくりかえしにすぎない(スターリン『レーニン主義の基礎』『十月革命とロシア共産主義の戦術』一九二四年、『レーニン主義の諸問題によせて』『わが党内の社会民主主義的偏向について』『ふたたびわが党内の社会民主主義的偏向について』一九二六年)。

 ト口ツキーによって寸断され偽造されたレーニンを読むのでなく『レーニン全集』の完全な翻訳も出ている今日、直接、系統的にレーニンを読もうとする努力を惜しまなければ、一国における社会主義の勝利の展望についての理論が、革命の進展のなかで、とくに三ヵ年の国内戦をたたかいぬく過程に、レーニン自身の手で形成され完成していった姿が、容易に理解されるだろう。

 この形成の過程を明らかにするうえでとくに重要なのは、国内戦から平和的建設への移行期にあたる一九二〇年一一月にレーニンがおこなった演説『わが国の内外情勢と党の任務』(全集、第三一巻)である。このなかでレーニンは、ボリシェビキ党が十月革命当時西欧のプロレタリア革命の勝利がロシアの社会主義の勝利の前提だと考えていた根拠を明らかにしたうえで、三年間の戦争をつうじて資本主義世界との「並存」をかちとった現在では、一国の規模で社会主義社会の建設にとりかかりこれを完成することが世界革命への最大の援助になる、と主張した。ここには、レーニンの死後にスターリンによって「創造」されたと非難されている一国社会主義建設の理論が完全な形で展開されているのである。

 2 社会主義建設と世界革命

 現代トロツキストが一国社会主義批判からみちびきだす第一の結論は、共産主義者がソ連の社会主義建設をまもるために世界革命を放棄したという非難である。だが、社会主義建設と世界革命を対立させて考えることほど、滑稽なことはない。政治経済の不均等発展の法則がとくにするどく作用する帝国主義の時代には、社会主義は世界的な規模で同時に勝利することができず、はじめに一ヵ国ないし数ヵ国で勝利し、こうして形成される二つの体制の闘争のなかで、さらに一連の新しい国々が帝国主義から離脱するという過程をとおって、世界的な規模での社会主義の勝利に到達する。これが帝国主義の時代における世界革命が必然的にとる姿であり、十月革命以後の四〇年の革命運動の歴史は世界革命がこうした形態で展開してきた歴史であるといってよい。

 そしてそのなかでは、はじめに勝利した社会主義国家の存立をまもりぬき、社会主義を建設し、そのあらゆる力量を強化することは、「世界革命の展開の基地」(スターリン)をまもることであり、それ自身世界革命を推進するためのもっとも重大な課題である。資本主義的包囲のもとで社会主義ソ連がかなり長期にわたって孤立する見通しが明確になった一九二〇年にレーニンがおこなった演説のことをさきに紹介したが、このなかでレーニンは、「全世界にわたる社会主義革命が長びく場合でも、プロレタリア権力とソビエト共和国の存続の可能性を維持する」ことが一九一七―二〇年の国内戦のもっとも主要な任務であったとし、ロシアで社会主義を建設し、「勝利したプロレタリアートは、共産主義体制、制度をつくりだすことができるということを……他の国々にたいして……行為で実証する」ことこそ、世界革命の勝利に貢献する道だとして、社会主義建設と世界革命の相互関係を定式化している。このレーニンの主張こそ、まさに、トロツキストによって、「一国社会主義による世界革命の放棄」として非難されている方針にほかならない。

 したがって一国社会主義の事実を拒否することは同時に世界革命の展開と勝利の法則を見失うことである。だから現代トロツキストは、ソ連における社会主義の勝利と社会主義の世界体制への成長がその勝利の一歩ごとに世界資本主義をより深い危機においやっており、その結果、各国の革命運動の前進のためにも、国際的舞台での帝国主義との闘争のためにも、資本主義が全一的に地球を支配していた時期には考えられなかった新しい展望と可能性がうまれていることを、少しも理解することができない。ここに彼らの革命理論の致命的な欠陥の一つがあるが、この点についてはその戦略戦術論を検討する次節で詳論することにしよう。

 3 平和共存と平和闘争の否定

 現代トロツキストがその世界革命論からひきだしたもっとも有害な結論は、両体制の平和的共存、さらに平和闘争全体の否定である。内乱によって帝国主義全体を打倒する以外に戦争を防止し平和をまもる道はないとし、現在の平和擁護闘争を小ブルジョア的平和主義として「革命的」に否定する彼らの主張の根底には、原水爆戦争の惨禍をなんとしてでも防ぎとめようとする全人類的な要求にたいするおどろくべき無関心と、世界の力関係が根本的に変化したなかで、帝国主義が絶減される以前にでも世界戦争を防止しさらにこれを消減させる現実的可能性が、歴史上はじめて世界の人民の手ににぎられたことについての完全な無理解とが横たわっているが、ここでとくに指摘しなければならないのは、彼らがたんに平和闘争の意義や平和共存の実現可能性に疑いをさしはさみ消極的に反対しているだけでなく、社会主義国や各国の労働者階級が平和共存のためにたたかうことを世界社会主義革命にたいする裏切りだとして積極的に非難し攻撃していることである。

 彼らのえがきだす現代史のなかでは、社会主義国が資本主義国と積極的に平和共存の関係を結んだり同盟を結んだりすることは、すべて帝国主義を美化し、その国のブルジョアジーが労働者階級を抑圧するのを助ける裏切りである。こうした観点から、ソ連が三〇年代にファシズムの侵略を防止するために国際連盟に加入し英仏の「民主主義」諸国と同盟を結ぽうとしたことも、それが失敗したのちに帝国主義的な反ソ包囲網を打ち破るためにドイツと不可侵条約を結んだことも、第二次大戦で米英ソの反ファッショ連合を形成して日独伊ファシズムを打ち破ったことも(2)、すべて一国社会主義による裏切りの歴史として記述されることになるが、その同じ非難がいま平和共存に集中しているわけだ。

 彼らの批判は、要約すれば、平和共存のスローガンは、(1)社会主義が他国の内政へ不干渉を宣言することによって国際主義を完全にかなぐりすて、「プロレタリア革命を内政問題に帰着さ」せ各国のプロレタリァートに「孤立的で封鎖的な革命遂行」と「犠牲」を強要すると同時に、(2)「帝国主義ブルジョアジーの抑圧下にあるプロレタリアートの階級闘争を『平和』の要求の線にまでおしさげる」ことによって社会主義を遠い彼方におしやり、(3)「二つの体制の共存を固定化し、現状維持を絶対化する」理論だというにある。だがこれほど革命と平和の相互関係についての無理解をさらけだしたものはない。

 第一に、いかなる革命もそれがその国の人民の大多数が独自的積極的にたちあがらないかぎり成功することはできない。人民大衆の革命的な力を信じえないトロツキストのみが、社会主義国の外からの武力や干渉によって世界革命を「輸出」しようと考え(3)、「内政不干渉」を世界革命への裏切りだと考えうるのだ。あらゆる革命において、打倒された支配階級の最大の力が国際帝国主義の援助にあることを考えるならば、平和共存と内政不干渉をかちとるたたかいが、革命を裏切るものであるどころか、帝国主義的干渉を阻止することによって革命を防衛するもっとも国際主義的なたたかいとなることは、だれの目にも明らかであろう。しかも「内政不干渉」の原則は、民主主義と社会主義の方向への国家的転換をかちとった諸国民への、あらゆる形態での援助(帝国主義国の侵略からその国をまもる軍事的援助をもふくめて)と少しも矛盾するものではないことは、ソ連を先頭とする社会主義諸国の行動に実例をもってしめされている。

 第二に、現在の平和闘争はけっして超階級的なたたかいではなく「新しい世界戦争の計画の組織者、扇動者、侵略と反動のとりでである大独占資本グループにむけられている」(モスクワ宣言)。資本主義国家と社会主義国家のあいだに平和的関係をうちたてることは、資本主義国家の内部で独占ブルジョアジーと人民のあいだに平和的関係をうちたてることによってではなく、逆に、労働者階級が広範な人民と連合して独占ブルジョアジーとたたかい、彼らを政治的社会的に孤立させ、帝国主義的戦争政策の転換をかちとることによってのみ達成しうる目標である。

 また戦争政策を転換させ平和政策を実行する政府をうちたてることは、独占ブルジョアジーを打倒し帝国主義戦争の根源をとりのぞくたたかいにむかって、きわめて重要な一歩をふみだすことを意味するだろう。この意味で平和共存のたたかいは「現状維持」どころか、民主主義のためのたたかい一般がそうであるように、「プロレタリア革命への移行と接近の形態」としての役割をになっている。だからこそ、各国の人民がいまかかげている平和綱領(日本では安保条約を破棄し帝国主義的軍事同盟から離脱して中立化をかちとることが中心となっている)は、たんに平和擁護闘争の綱領であるだけでなく、反独占反帝国主義の綱領のもっとも重要な部分をもなしているのである。

 したがって、現代トロツキストたちが、平和共存に反対し、安保破棄・中立化などの平和綱領を拒否し、「社会主義の実現なしに平和はありえない」と叫ぶとき、それは平和の事業を裏切るだけでなく彼らが呼号する世界社会主義革命の大業をも裏切るものだといわねばならない。

 (1) 現代トロツキストは、ソ連共産党二〇回大会で一九三〇年代の粛清のなかでスターリンがおかした誤りが指摘されたことから、一九二四―二九年にかけてスターリンが指導したトロツキー反対派との闘争もまちがっていたと考えているが、この反トロツキー闘争はその理論的内容のうえでも(もちろん個々の部分的誤謬はあるにしても)組織原則のうえでも正確なものであった。

 (2) 第二次大戦中の反ファッショ連合の政策を非難して姫岡はいう。「第ニインターの背教者たちによってすでに試みられたことのある『民主主義的な帝国主義』と『反動的な帝国主義』との分類をソピエトの存在のゆえに固守することは、国際プロレタリアートの戦略課題=国際的革命がまだ完成していないという中で、客観的にはブルジョアジーの存在を美化し、容認するものでしかなかったであろう」(「激動・革命・共産主義」)。

 (3) トロツキーの「革命輸出」論は、ヒットラーが政権を獲得したさいに赤軍はただちにドイツ・プロレタリアートの救援のために出動すべきだと要求し、ソ連がこれにおうじなかったといって非難した(トロツキー『次は何か』の山西英一氏序文より)ことに典型的にあらわれているが、トロツキーの要求する赤軍の出動が、たんにソ連を世界戦争にひきずりこむというだけでなく、ドイツ国民をソ連にたいする「国民戦争」に結集させることによって、ドイツにおける社会主義の将来をも失わせる挑発的冒険であったことは論ずるまでもないであろう。

三 トロツキズムの戦略戦術

 1 トロツキストの「フランスの敗北の教訓」

 つぎに検討しなければならないのは、この現代トロツキストたちが革命をみちびこうとしている戦略戦術はどのようなものかということである。彼らの機関誌を通読してみても、当面する日本の革命運動の方向づけとしては、「世界社会主義革命の一環としての日本プロレタリア革命」という抽象的規定以外になんらの具体的分析を発見することはできないが、その戦略理論のあらましは「スターリン主義の破綻」の典型として彼らがこのんで分析する一九五八年の「フランスの敗北の教訓」(姫岡、黒田)から看取することができる。

 たしかに昨年(一九五八年)、ドゴールの進出をまえにしたフランス人民の後退は、西ヨーロッパにおいてもっとも重大な事件の一つだったし、この後退のなかから教訓を学び前進の糧とすることは、たんにフランス共産党だけでなく国際共産主義運動全体の課題である。そしてその成果はすでに理論的には五八年二一月の仏伊共産党共同宣言のなかに、実践的には三月の地方選挙でかちとられた成功のうちに、最初の結実をみせている。

 だがトロツキストにとっては、フランスの経験から学びとるべき教訓は、「フランス共産党の裏切り」という一語につきる。では彼らはどういう点でフランス共産党を告発しようとするのか。彼らの主張を要約してみると、第一に、社会主義とプロレタリア独裁にむかって大胆に前進すべきときに、「民主的自由と共和制をまもれ」という民主主義的スローガンをかかげたこと、第二に、革命的統一戦線を結成して労働者兵士農民ソビエト政府の確立をめざすべきときに、「共和制防衛政府」の旗をかかげて国民議会内でプチ・ブル政党との取引に専念したこと、第三に、アルジェリアにたいする帝国主義戦争を公然たる国内の階級戦に転化すべきときに、内乱の勃発をおそれて労働者階級の決起をさけたことなどが主要な点である。これが「スターリン主義の現代版」である「フルシチョフの平和共存戦略」に対置してもちだされた「レーニン主義的戦術」だというのだ。

 この批判をつらぬいている第一の特徴は、現代トロツキストたちが、いつどんな場合でもプロレタリア独裁からことをはじめようとし、民族的民主主義的闘争の意義を理解しえなかったトロツキーの誤謬を忠実に再現していることであり、第二は彼らがロシア革命以後のマルクス=レーニン主義の戦略戦術理論の発展を頭から否定してしまっていることだ。

 2 民主主義のための闘争を否定するトロツキズム

 トロツキーは、ロシア革命について、労働者と農民の民主主義的連合はありえないとしてレーニンの労働者・農民の革命的民主主義的独裁のスローガンに反対し、ただちに労働者政府=プロレタリア独裁を樹立することを主張し、レーニンのきびしい批判をあびた(一九〇五−一七年)。また、中国の第一次国内革命戦争のさいに、陳独秀の投降主義的方針のために革命が重大な後退を余儀なくされたのをとらえて、民族統一戦線を堅持し連合独裁の権力をうちたて反帝反封建の民主主義革命を遂行するという正確な戦略方針そのものに後退の責任をかぶせ、ブルジョアジーと絶縁しプロレタリア独裁を樹立し、「過激な社会的綱領」へ移行することを要求した(一九二七年)。

 さらにコミンテルン綱領をめぐる討議のさいには、その主張をさらに一般化して、綱領が各国をその社会経済的発展段階におうじて三つのグループに分類し、いくつかの革命の型を規定したのに反対して、高度の資本主義国から後進植民地にいたる全地域でただプロレタリア独裁のみを目標とすることを主張し、いかなる民主主義的権力をも拒否した(一九二八年)。

 最後に、ファシズムの攻勢に直面して、コミンテルン第七回大会が反ファッショ人民戦線の戦術をうちだし、人民戦線政府の樹立を日程にのぼせたときには、崩壊するブルジョア民主主義を救うために切迫する社会主義革命を放棄する戦術として真向うから反対した(一九三五−三九年)等々。

 このような主張は、トロツキーの「永続革命」論の必然的産物である。一定の歴史的条件のもとでは、社会主義革命とプロレタリア独裁への過程に民主主義的任務を実現する革命の民主主義的段階がありうること、とくにその国が帝国主義的抑圧のもとにおかれた場合には民族的解放が社会的解放の前提となることを否定し、労働者階級が農民をはじめ他の諸階層と民主主義的同盟を結び、これを基礎として革命的民主主義的な政府や権力が形成されるという思想をいついかなる場合にも拒否し、あらゆる革命がプロレタリア独裁の樹立からはじまると考える点に、トロツキーの「革命の力学」がある。

 彼が民主主義的要求や民族問題を語る場合にも、そうした要求を実現することに意義があるのではなく、それが革命的闘争を激発することによってプロレタリア独裁のための杆槓となることだけが問題とされる。この理論のなかでは、労働者階級がいかにして農民などの広範な人民諸階層の革命的エネルギーをひきだしながらこれを同盟軍として獲得し、社会主義革命を準備するかという根本問題は消えてしまい、ただ労働者階級が決起してブルジョアジーを打倒し権力をにぎることだけが強調され、あとの階級はすべて後景にしりぞいてしまう。かれらの革命的大言壮語は、実は大衆の革命的エネルギーにたいする極度の不信から発している。

 もし国際共産主義運動がトロツキーの戦略論を採用していたら、中国や東欧における人民民主主義革命の勝利も、ヨーロッパやアジアにおける革命運動の飛躍的発展もありえなかっただろう。トロツキズムの破産はここでもまた歴史によって実証されたのである。

 だが、現代トロツキストが、破産したトロツキーの理論をそのままくりかえし、「帝国主義段階において実現さるべき一切の革命(後進国植民地革命をふくめて)の本質はプロレタリア独裁にある」とか、社会主義実現のための革命的大衆行動に一切を従属させよ」とか主張し、労働者階級が民族的民主主義的要求や綱領のもとに諸階級と結ぶ同盟をブルジョア的同盟として拒否し、革命家が民主主義的要求をとりあげるのは一時的で第二義的な「策略・取引」にすぎず、ただそれを「革命的に定式化し、方向づけ、もえたたせること」が任務だなどと主張するとき、その罪はいちだんと深いといわねぱならない。

 なぜなら、第一に、現在では、独占資本主義の危機が激化し、独占ブルジョアジーとその他の諸階級とのあいだの矛盾が尖鋭化しつつあるために、たんに以前からブルジョア民主主義革命に当面していた後進諸国だけでなく、またさしせまったファシズムの脅威に直面している国だけでなく、資本主義諸国のほとんど全体をつうじて、反独占の広範な民主主義的同盟の客観的条件がつくりだされており、労働者階級が反独占反帝国主義の民主主義的綱領のもとに広範な人民諸階層を結集しうるかどうかが、社会主義革命への前進を左右するもっとも重要な前提となってきているからである。

 第二に、世界資本主義の危機のなかで、植民地・従属国の民族解放闘争がいっそう大きな展望をもってきた(たとえば、民族ブルジョアジーの指導のもとでさえ、社会主義諸国の支持のもとに帝国主義にたいして政治的独立をかちとり、これをまもることができるようになった)だけでなく、あるいは敗戦をつうじて、あるいは軍事的政治的同盟をつうじて、大部分の資本主義国がアメリカ帝国主義への従属関係におちいり、高度に発達した資本主義国においても民族独立の課題が提起され、この民族的任務を正しく解決しうるかどうかが、労働者階級が広範な民主主義勢力のあいだにゆるぎない指導権をうちたて独占資本の打倒と社会主義へ前進する力量をたくわえるうえで、はかりしれぬ意義をもつにいたったからである。

 レーニンは共産主義者にとって重要なことは、たんに社会主義革命を口先だけで承認することでなく、「プロレタリア革命への移行あるいは接近の形態をさがしだし」幾百万の人民大衆を現実に社会主義にむかって指導することにあるとくりかえし教えている。どんなに社会主義革命について各行ごとにくりかえしてみても、この「移行と接近の形態」、つまり労働者階級がいかなる段階をとおって広範な人民諸階層と同盟し、これを指導して独占ブルジョアジーを打倒し社会主義に到達しうるかの具体的な道すじを明らかにしえず、そのための当面の任務に力を集中しえない理論は、たんなる革命的空談議にすぎず、労働者階級を社会主義革命へみちびく羅針盤とはなりえない。当面する民族的民主主義的綱領の実現のためのたたかいの意義を理解しえぬ現代トロツキズムは、社会主義革命に忠実であるどころか、それによって実は社会主義革命を永遠の彼岸におしやってしまうものである。

 3 統一戦線論におけるトロツキズム

 トロツキズムのこうした特徴は、それが革命を準備し遂行する基本的な戦術としての統一戦線戦術を事実上否定してしまうところに集中的に表現されている。しかし、こういうと「そんなことはない、ファシズムに反対する統一戦線をだれよりも先に主張したのはトロツキーだ」という反駁があげられるにちがいない。彼らによれば、トロツキーこそもっとも一貫した統一戦線の擁護者であり、その著書『次は何か』(ドイツの反ファシズム闘争についてトロツキーが一九三一−三四年に書いた論文を集めたもの)こそレーニン主義的統一戦線戦術の聖典である、とされている。

 トロツキーは、たしかにこの著書のなかで、コミンテルンの「社会ファシズム」論を批判し、ファシズムこそ当面の主要な危険であり、この攻撃を撃退するために社会民主党と共同行動をとることを主張している。その表面だけをみれば、トロツキーこそコミンテルン第七回大会で採用された人民戦線戦術の先覚者だったようにみえるかもしれない。だが、実際には、トロツキーが「社会ファシズム」論を中心とした当時の一連のコミンテルンの誤謬をつきえたのは、コミテルンのあらゆる方針に反対して無数にはなたれたトロツキズムの矢がたまたまこの分野に現実に存在していた誤謬につきささったにすぎず、この矢そのもの、つまり批判の内容やその「統一戦線」論そのものはトロツキーの他の理論同様根本的にまちがっており(1)、反ファシズム闘争に積極的に貢献するものではなかった。このことは、のちにコミンテルンがこれまでの誤謬を公然と承認し、深刻な自已批判にもとづいて、反ファッショ統一戦線の戦術をうちだしたとき、端的に暴露された。トロツキーはコミンテルンの転換を歓迎するどころか、これに真向うから攻撃をくわえたのである。

 では、トロツキーはファシズムの進出をまえにしてどのような統一戦線戦術を提出したのか。
 (1) トロツキーは「統一戦線」が共通の政治的任務=統一戦線綱領をもつことを否定する。「ファシズムかプロレタリア独裁か以外に第三の道はない」のだから、共産党が社会主義以外の綱領で自分の手をしばることはその独自性を没却することになるというわけだ。
 (2) したがって、トロツキーの統一戦線は、ファシストの攻撃に共同して対抗するための戦闘協定つまり軍事行動の統一か、労働組合などの超党派的大衆組織への共同の参加の形態以外にない。一定の政治的任務をめざしての共同行動はすべて否定される。
 (3) さらにトロツキーはプロレタリア統一戦線だけ、つまり社会民主党および労働組合との統一戦線だけを主張し、小ブルジョア的・ブルジョア的党派との統一戦線をいっさい拒否する。
 (4) この統一戦線戦術が革命運動にとってもつ意義は、それが共産党が労働者階級の多数者を獲得する戦術となる点にのみもとめられ、統一戦線が革命を達成する力量となることは否定される。
 要するにトロツキーの統一戦線戦術は、革命的過渡期や革命的危機のもとでの冒険主義的な突撃のために、社会民主主義をも一時利用しようとしたものにすぎない。

 こうした特徴を集中的に表現しているのは、現代トロツキストの愛好する「別個に進んで一緒に撃て」というスローガンである。このスローガンはレーニンも階級同盟における労働者階級の独自性をあらわす言葉としてつかったことがあるが、いまやトロツキーによってまったくちがった意味、「何のために撃つか」の協定には反対し、「いかに撃ちだれを撃ちいつ撃つかについてだけ協定せよ」という意味に「発展」させられてしまった。

 そして、トロツキーはこの「統一戦線綱領なしの統一戦線」こそレーニン的統一戦線の基本原則だと主張し、コミンテルン第七回大会で定式化された人民戦線戦術は、民主主義擁護という統一戦線綱領でその手をしばっている点でも、ブルジョア自由主義者との統一戦線を主張している点でも、民主共和国や統一戦線政府をつうじて社会主義革命へという迂回的展望を提起している点でも、レーニンの路線をふみはずしたものだと非難する。

 だが、こういった非難は、レーニン主義を漫画化するものだ。レーニン主義の武器庫のなかには、ボリシェピキ党と労働者階級が、さまざまな時期に、いろいろの階級や党派と一定の政治綱領にもとづいて結んだ統一行動や統一戦線の経験がたくさんある。たとえば、一九〇五年の革命のさい、レーニンは革命的民主主義的な農民やブルジョアジーと民主主義的同盟を結ぼうとしたし、十月革命のときにも労働者階級と貧農の同盟を土台にして左翼エス・エルとのあいだに社会主義的同盟を結ぼうとした。

 これはどちらも、革命のその段階における階級同盟の客観的な条件を背景としながら、一貫した綱領のもとに、いろいろな階級を代表するさまざまな党派と結ばれた統一戦線の典型である。だがトロツキストは自分に都合のわるいこうした経験には目をとじてしまい、コルニロフ反乱の時期におけるボリシェビキ党とメンシェビキ党の関係だけをとりだして、これがレーニン的統一戦線の典型だと主張する。このときには、社会主義革命という当面する基本的課題について根本的に利害をことにする二つの党派が、ただコルニロフ反乱を撃退するという一時的な目的のために客観的に同じ行動をとったが、たしかにここにはいかなる共通綱領もなかった。だが、そこにはまたいかなる統一戦線もなかったのである。

 レーニン自身、ボリシェビキ党はケレンスキー政府に敵対する政策から提携する政策、統一戦線の政策に転換したのではなく、「ケレンスキーにたいする闘争の形態をかえた」にすぎないことを口をきわめて強調している(『ロシア社会民主労働党中央委員会へ』全集、第二〇巻)。だからトロツキストが、彼らの統一戦線戦術はこの経験をモデルにしていると主張するのは、彼らが事実上、統一戦線戦術を否定しているのだということをみずから告白するようなものだ。

 これに反し、コミンテルン第七回大会が、反ファシズム闘争の失敗と成功の経験のなかから定式化した統一戦線戦術は、(1) ファシズムの脅威をまえにして労働者階級のまえに民主主義擁護という歴史的任務が提起され、この任務の実現をつうじてのみ社会主義革命へ前進しうるということを、大胆にうちだした点でも、(2) 独占資本の危機とファシズムの登場がひきおこした階級関係の客観的な変化(広範な人民諸階層を反独占の側に結集する可能性をうみだしたこと、ブルジョアジーの支柱としての社会民主主義の役割が変化したこと)を的確に把握したうえで、戦略的意義をもつ基本的戦術としてプロレタリア統一戦線および反ファシズム人民戦線の方針を採用した点でも、レーニンの統一戦線戦術の創造的適用であり、その正しさは、その後二十数年にわたる国際革命運動の試練のなかでみごとに実証された。新しい情勢のもとで統一戦線戦術はさらに発展させられ、ゆたかになっているが、その展開の出発点はやはり第七回大会にあったといってよい。

 ここでは現代トロツキストが展開している統一戦線論に具体的にふれることができなかったが、「革命的統一戦線」の名のもとに、民族的民主的綱領のもとでの広範な人民諸階層の統一、その中核としての社共の統一に反対する点にその主要な特徴があり、統一戦線の名のもとに事実上統一戦線戦術を拒否したトロツキーの誤りの忠実な反復にほかならぬことを指摘して、さきへすすむことにしたい。

 4 絶対不変の形而上学的戦略

 マルクス主義の戦略理論は、ドグマではなく行動の指針である。それは歴史的情勢が変化し革命運動のまえに新しい可能性がひらかれるごとに、古い定式を新しい歴史的情勢に適応した新しい定式でおきかえることを要求する。だが、すでにみてきたように、一国社会主義を否定することによって世界情勢の発展の方向や法則を理解するカギを失い、社会主義革命への「接近と移行の形態」をさがしだすことの重要性を無視することによって資本主義国内部の階級関係の変化し発展する方向を理解する基礎を失った現代トロツキストは、歴史的情勢の変化を認識することができない。「世界革命が完遂されていない以上」世界はもとのままだ、というわけである。だから、彼らが、革命運動の戦略戦術に不変の形而上学的性格をもたせ、トロツキー流に一面化されたロシア革命の経験を絶対化し、国際共産主義運動が新しい歴史的情勢におうじて革命理論を創造的に発展させたことをすべて「修正主義」として否定するのは理の当然かもしれない。

 十月革命が資本主義から社会主義への世界史的移行の時代をひらいて以来、世界情勢の根本的な変化がはじまったことは何度ものべたが、一九三五年のコミンテルン第七回大会と、一九五六年のソ連共産党第二〇回大会および一九五七年の各国共産党のモスクワ会議とは、世界情勢の変化のそれぞれの段階で革命運動のまえにひらけた展望を明確にし、戦術方針を創造的に発展させた会議として、国際共産主義運動の転機を画するものだった。そしてトロツキーが第七回大会の意義をまったく理解しなかったと同様に、現代トロツキストも、二〇回大会やモスクワ会議の意義をなにひとつ理解することができない。

 「帝国主義が残存しているかぎり、戦争は不可避であること、社会主義への議会的な道、社会民主主義の性質と役割など、レーニンが第ニインターと闘ったまさにその点において現代マルクス主義者はレーニンを修正した」(姫岡「激動、革命、共産主義」)。

 そして、戦争防止の可能性、社会主義への平和的移行の可能性、議会を勤労人民の利益に奉仕する道具にかえる可能性などの、二〇回大会で提起されモスクワ宣言で確認された一連の命題は、十月革命以後の革命運動のゆたかな経験と変化した世界情勢の科学的な分析によって裏づけられた命題であるにもかかわらず、分析や論証の努力を少しも払うことなしに、三十余年まえにまったく異なる情勢のもとでレーニンが語った命題を対置することによっていとも簡単に「否定」され、「帝国主義戦争を内乱へ」「ソヴェト権力の確立」などの「革命的」スローガンが提出される。形而上学的理論家たちは、ほかならぬレーニンのつぎの言葉を座右銘とする必要があろう。

 「必要なことは、マルクス主義者はいつまでもきのうの理論にしがみついていないで、生きた生活、現実の正確な事実を考慮しなければならないという、争う余地のない真理を学びとることである」(『戦術にかんする手紙』全集、第二四巻)

 生きた現実から日をそらしてレーニンの「公式」を棒暗記する現代トロツキストは、まさに「生きたマルクス主義を死んだ文字の犠牲にするもの」(レーニン)にほかならず、それがもたらすものは日和見主義以外のなにものでもないであろう。

 だが実は現代トロツキストにとっては、その革命理論が現実に合おうが合うまいが、それは第二義的なことにすぎない。はじめにものべたように、彼らの理論活動の主要な課題は現実の闘争を指導しうる有効な革命理論をきたえあげることではなく、「国際共産主義運動の公認の指導部」を階級的裏切りをもって告発し、共産党に敵対しその破壊と解体を主要任務とする反党組織の結成に理論的基礎をあたえることにだけあるからだ。だから「革命理論」としての現代トロツキズムの不毛性の最大の根源は、これが階級闘争と革命運動の必要からではなく、共産党と国際共産主義運動にたいする敵対活動の必要から、破壊的批判の武器として形成されているという点にこそもとめなけれぱならないであろう。

 (1) たとえばトロツキーはファシズムの本質を金融資本に利用された小ブルジョア反革命だと規定し、金融資本のもっとも反動的な部分の独裁という階級的本質を見失うと同時に、そのクーデターによる政権奪取の形態のみを固定化して考える。だから現代トロツキストは、ファシズムの進出の多様な形態、とくに、ドゴールのように議会的形態をよそおったファシズムヘの移行をみることができない。

四 社会主義打倒の反革命理論
 だが、いままでに検討してきたような極端な誤謬も社会主義国家にたいする態度の問題における彼らの主張にくらべれば、ものの数ではない。

 トロツキーのソ連国家論はつぎの三段論法からなっていた。(1) 一国における社会主義建設は不可能である。(2) だから孤立した存在をつづけているソ連は社会主義国家ではありえず「堕落せる労働者国家」(1)である。(3) だからソ連が世界革命のなかで社会主義的に再生するためには、スターリン官僚の権力を打倒する「補足的第二次革命」が必要である。

 このトロツキーの「理論」も、その他の諸テーゼと同じく現代トロツキストによって鵜のみにされた。彼らはスターリンの個人崇拝と結びついた一連の否定的現象をもって「堕落せる労働者国家」説の生きた証拠と思いこみ、こうした否定的現象を大胆な自己批判によって克服し共産主義への移行という世界史的大事業にとりくみつつあるソ連の現実の姿を研究しようともしないで、社会主義国家の革命的打倒という途方もないテーゼを臆面もなく主張する。

 ソビエトの「特権官僚の存在は……全世界に自由の王国を建設する意識的な主体としての、プロレタリアートの努カに対して、決定的な障害として存在する。したがって革命的プロレタリアートはスターリン主義というイデオロギーから訣別するのみでなくそれを物質的力で打倒しなければならない」(姫岡「革命的インタナショナリズムとは何か」、傍点筆者)。社会主義建設途上に蓄積される諸矛盾や疎外を「世界革命の前進のためのスターリン主義的官僚政府の打倒の闘争に発展させてゆくこともまた、今日の革命的共産主義者たらんとするものの任務である」(黒田)。

 そして帝国主義者によって組織され挑発されたハンガリーの反革命運動は「スターリン主義崩壊の現実的端緒」(黒田)と絶賛され、それが「ソヴェト・プロレタリアートのクレムリン特権官僚の暴カに対する革命的行動と結合」(姫岡)しえなかったことに遺憾の意が表せられる。

 しかもこの分野ではじめて現代トロツキストは教師のトロツキーをのりこえる。終生社会主義国家打倒を扇動しつづけたトロツキーも、独ソ戦のように社会主義国家が帝国主義国家による攻撃にあった場合、帝国主義者に手をかしてソ連を打倒せよと公然と主張することはできなかった。その反革命的本質があまりにもあざやかに露呈されるからである。だが現代トロツキストは、いまやトロツキーのこうした「中間主義」が我慢できないのである。

 「帝国主義国家権力の打倒はスターリン官僚の崩壊を必然に伴うであろう。またスターリン官僚の粉砕は、当然にプロレタリアートの全世界的規模での解放と結合せねばならないであろう。われわれの原則はブルジョアジーとスターリン主義官僚の『同時的打倒』という戦略の上にたてられるであろう……したがって、世界帝国主義による労働者国家の侵略という事態が現実的になった場合、帝国主義本国における革命的プロレタリアートの『帝国主義戦争を内乱へ』の闘争は、労働者国家での官僚打倒の闘争と結合されて提起されるであろう……そのようにしてのみ……マルクスの同時革命論の現代的展開をなしとげることができる」(姫岡)。

 現代トロツキストは、ついにトロツキーさえ公然と言いえなかったこと、帝国主義者がソ連におそいかかった時これに呼応して背後から社会主義国家をアイクチでさすという「同時革命」の戦術を、堂々と主張するところまで到達したのである。これが、国際共産主義運動にたいする「革命的」批判から出発して現代トロツキストがたどりついた最後の「境地」である。

 社会主義国家打倒のこの反革命的テーゼについては、もはや理論的批判の必要はないであろう。必要なのは、現代トロツキストのこの反革命的反社会主義的本質を徹底的に暴露して、政治的思想的に粉砕しつくすことだけである。

 (1) ソ連を「官僚国家主義」として批判するユーゴスラビアの修正主義は、明らかにトロツキーの「堕落せる労働者国家」説をうけついでいるが、現代トロツキストたちはチトーの「反スターリン」的立場や「ソ連国家の否定面を打倒せんとする革命的な構え方」は支持しながら、根本的には、一国社会主義の土台の上に別の形態での堕落におちいったものとして非難している。


【れんだいこの不破哲三「現代トロツキズム批判―平和と社会主義に敵対する『世界革命』論」批判】




(私論.私見)