第1章
領主館のまえはサッカー球場ほどの石畳の中庭だ。
彼らがここを通ったときはただの広場だったのに、戻ってくると赤い絨毯が敷かれ、百十数もの円卓が置いてあった。円卓にはシルクのテーブルクラスが敷かれ、真んなかにはずっしりと置いてある高級ヴェネチアンガラス――――赤や青、緑や黄など色とりどりの花々が生けられていた。領主館にはこの町の旗と紋章、そして各地区の紋章旗がかかげられて、玄関ホールにいた音楽隊もそばに控えており、まるでどこぞの舞踏会のようだ。
すでに歓迎会は始まっているようだ。
クリスマスもまもない冬の季節、広場は暖炉の魔法がかけられ、やわらかい蒔きストーブのような温かさがあった。社交ダンスを躍っている者や会話を楽しんでいる者、食べることに夢中になっている者、領主館前広場は騎士候補生たちで、わいわいがやがやとにぎわっていた。
「ねえ、ここ席が空いてるわよ」
声の主は猫目の女の子コクリコ・サクラダだ。ロレンツォも横に座っている。
「ようこそ、キング・アーサーは君たちを心から祝福するよ」
ナオミはロレンツォと改めて握手をかわした。
大人しくしているとギャルソンたちが、次々と銀色の大皿に料理を運んできた。とくに一番驚いたのは広場の真んなかにある大きな鉄板にのっけてある、野ばらダックの丸焼き入りというこの町の名物料理。
銀皿にはラムチョップからミートローフ、荒びきソーセージ、カモのフォアグラのココット仕立て、イベリコブタの煮込みトリュフ添え、うす焼きクッキーのキャビアのせ、ロブスターの姿焼き、ミートパイ、ホットドッグ、マッシュポテト、温野菜などざっと品目は五百種類はこえていた。
ナオミとテル、ロロはみたことのないご馳走に興奮のあまり、生唾を呑んだ。
ジョジョ・ダックスフンドは円卓の下で、尻尾をふりふりしている。いつまでたっても肉がこないので、ジョジョは主人に荒びきソーセージやスペアリブをとってよ、とナオミの靴をバシバシと前足で叩いていた。
円卓の下にはすでにジョジョが食い散らかした、肉の骨が十五本は転がっている。
明らかに肉の食べすぎだ。それでもジョジョは肉を要求するので、彼の健康を心配したナオミは銀皿にてんこ盛りにされた温野菜を円卓の下に置いてやった。ジョジョはムカッとしたらしい、温野菜の皿をそのまま返してきた。
「…だから僕はチビのままなんだ…」とダックスフンドはぼやく。
先生たちの来賓席は自分たちの円卓とは違って、豪華な長テーブルだ。
おしりから金の糸をだすという黄金蚕のまゆで作られた、金銀のテーブルクロスは真昼の太陽を燦燦と反射して、とてもまぶゆいほど。そのなかで召使いのユトレヒトは途中欠席したものがいなかなど羊皮紙の名簿をみながら、いちいち人さし指で人数を数え、ぶつぶつと名簿と照らしあわせていた。
ピックル・タナカはこういう食事会は慣れているらしい――紳士らしく、首もとに柄つきナプキンをつけて、とても上品に食事をしていた。ときどき右肩にとまっている黒カラスにパンくずをあげていた。
長テーブルの真んなかには、威風堂々とした豪華な領主の椅子がある。椅子なのに威厳があるといってもよいぐらいだ。この町の領主トモロヲ・ブドリの椅子だろう――――だが領主館のまえで会いましょうといいながら、老伯爵の姿はどこにもみあたらない。
テルは急いで食べるあまり「をぉっっふぉ、おほ、おほ」と咳きこみ、皆から同情された。
そんな少年の言い訳は「僕は食道と気管が細いんだ」で、ジョジョは「ただ食い意地がはってるだけだ」とぼやいた。
「落ちついて味わって食べなさい、誰もとりはせん」
声の主はものすごい高いシェフ帽子をかぶった老人だった。
シェフと目があえば、ナオミたちは「あっ!」と驚きの声をあげた。それもそのはず、この老人はコックのようだが、じつは領主トモロヲ・ブドリその人だった。
「わしは美食家でのう、料理がちょっとした趣味なんじゃ。いや畏まった挨拶はいらん、無礼講じゃ。ほらっ、君たちは料理がまるで魔法みたいだと思わんかね? 怒った人や悲しい人、それから寂しい人も美味しいものを食べれば、素敵な笑顔になる。とても優しくなれる」
「なあ、伯爵」
ロロが二人の会話に割ってはいってきた。
「騎士メダルを集めるだけで、本当に騎士になれるのか?」
無礼講とはいえ、年上への敬語を知らないとみえる。
「むしろ騎士としての教育のほうが必要不可欠といえよう」
伯爵は騎士メダルが規定枚数に達していなくても、儀典特例として騎士に叙勲されることがあるという。メダルはあくまでも社交界でどれだけの人々と交流してきたかを問うものであって、ただの数字にすぎない。
社交界とは上流階級や芸術家などの人々が集まり、交遊する場のことだ。ときに知的で洗練された会話や振る舞いをすることが求められる。ちなみに宮廷や貴族の邸宅を舞台にした社交界をサロンと呼ぶ。
「各サロンでは騎士の心得を学んでもらう」
領主館を仰ぎ見て、少年は唸る。
「残念じゃがそこは領主館であって、サロンではないのう」
「じゃあ、だったらどこがサロンなんだよ?」
ロロは少しイラッときている。
「ここがサロン、君たちの社交場じゃよ」
ロロはこの人のいうことがさっぱりだった。この領主館が社交場なのかと聞いてみればそこは領主館だという。さらに社交場はどこにあるのかと尋ねてみれば、ここが社交場だというのだから。
「この町そのものが君たちのサロンだよ。君たちはこの町から学ぶのじゃ、この町で生きている人々から紳士淑女に必要なことを学ぶ。小さな建物のなかで本から学ぶんじゃなくてね」
「だったら僕らは勉強しなくていいんだね!」
テルはとても嬉しそうな顔つきでいった。
「君のお父上も同じことをいっておったな、ウォ・アボカド」
さすが親子、血は争えんとトモロヲ・ブドリは優しく微笑む。
騎士候補生にとって町の人すべてが学びの対象だ。ブルトン人は一般世間のように一人の教師が三十人とか、四十人の生徒に教えるようなナンセンスなことはしない。人を教え、人を育てるからこそ常に一対一と向き合う。人格をもって人格を育てる、そこに子どもや大人というものは一切関係ない。それが俗にいう師弟教育、人間教育というものだ。
「わしらはこの方法を見習いと呼ぶ。生きかたを見て、そして習えとな」
そもそもナオミたちは見習い、親方の仕事を手伝うのが役目だ。
突然、テルがものすごい大きな声で叫んだ。
「仕事だって! 僕たち働くの? それ、児童労働ってヤツだぞ!」
「町のところどころに文化人、芸術家、学者たちが住んでおる、学びたいときに名士宅を訪ねればよいだけのことじゃ。諸君はすれ違う人々を教師と思いなさい」
ナオミはこれがブルトンの社交界なんだ、と今更ながら理解していた。
「引継ぎとは親方が住んでいる地区を引き継ぐことじゃ。君らの衣食住は親方が保証してくれるはずじゃ。騎士に叙勲されたら見習いは終了。では、頑張りたまえ」
円卓の騎士団とは基礎魔法教育組織の名前、実質的に教育を受ける場所は各貴族の領地なのだ。
アッパータウンというのは、アッパータウンの人々から騎士としての生き方を余すことなく学ぶところ、勉強したいときに勉強するのが本来、勉強っていうものかもしれない。
町そのものが大きな校舎だと思えばいいだけのこと、ロロはしぶしぶ納得できたようだった。町そのものが社交界であり、町の人々すべてが教師であるとは、いやはやブルトンの人間教育もたいしたものだ。この教育に学歴など無意味である。
第2章
話が終わったトモロヲ・ブドリは、ナオミのそばにまん丸になって、スヤスヤと気持ちよさそうにうたた寝をしている黒ヤギを見て「報告は受けておる。孫娘はわしが預かろうかのう。ここまで連れてきてくれてありがとう。君たちに騎士メダル五枚!」と黒ヤギを抱きかかえて、右隣の円卓へと料理の評価を聞きにいった。
ロロは黒ヤギがテルのペットだとずっと思っていたらしく、驚いていた。
「あの、誰を探しているの?」
「ああ、アンナ・ハイネノハイネの仕事を引き継いだ男の子の見習いだよ、どんな子か知りたくてね」
食後のスイーツを運んできたギャルソンは、テルを探しているようだ。
「アスパラガスっていう名前らしいんだ。まさにシェフの従騎士の名にふさわしい」
テル以外、皆が爆笑した。
「ウォ・アボカドならあっちの円卓にいたよ」
テルはムスッとして、ギャルソンに嘘をついた。
「もしかして君がテル・ウォ・メキャベツかい?」
「アボカドだよ…、っていうかメキャベツとアボカドをどうやって間違えるんだよ。同じ野菜なのはわかるけどさ、メキャベツって明らかに字体が違うじゃんか。テル・ウォ・メキャベツ、どんなにロールキャベツが好きなんだよ」
「まあ、次の子は冗談が通じなさそうだけど、素直そうだな」
ギャルソンは腕を組むとうんうんと頷いてみせた。
「ちなみに僕はキャベツが大嫌いなんだけどね」
目の前の少年がアンナ・ハイネノハイネの仕事を引き継いだことがわかったらしい。テルはギャルソンの隙をみて、銀の盆にあるリンゴをひとかじりして、そっともどした。
彼なりの報復とみてよさそうだ。
「ねえ、アンナ・ハイネノハイネの仕事って?」
少年はさりげなく聞いた。
「シャトー・ブルトンホテルの厨房での皿洗いやおつかいだよ」
(テルにぴったりな仕事じゃんか)と円卓の下のジョジョ・ダックスフンド。
「じゃあ、ウォ・アボカド。厨房で会おう!」
ギャルソンはテルと握手を交わすと、陽気な口笛を吹きながら、モードレッド地区の円卓にスイーツの銀の盆を運んでいった。
しばらくして「このリンゴ、誰かの歯形がついているよ」とマルコ・パパティーノの怒りの声が聞こえてきた。ナオミたちは笑いをこらえるのが必死、もうすぐで笑い死にそうだった。テルは口をもぐもぐさせながら(僕は作るよりも、食べるほうが好きなんだけどな)とボソボソと呟いた。
歓迎会も終わりに近づきつつあるようだ。
ナオミがアイスクリームを食べているとき、親方の話題になった。
「私は新聞記者の従騎士なの」とちょっぴり自慢げなココ。
「ロレンツォはどうなのさ?」テルが聞いた。
「僕は時計職人の従騎士だよ。そういう君はシェフの従騎士だったな。なんだか僕、お腹が痛くなってきちゃったみたいだぞ」
「うーん、私も毒をもられたみたい」とコクリコ・サクラダ。
「ふん、へんてこ生徒会のパッパラパーめ!」
テルは鼻を鳴らした。
食後の安らぎ、アールグレイの紅茶がギャルソンたちによって運ばれてきた。ナオミはなんだか眠たくなってきた。
来賓席ではホットワイン、夕焼け色に輝いているものを美味しそうに飲んでいた。ピックル・タナカは何回もおかわり、彼は黒カラスに好かれているらしくて、数羽のカラスが彼に群がっていた。ユトレヒトといえば英国王室調の顎髭を生やした、狐顔の金髪の男の人とおびえるように会話をしていた。
するどい視線、ビクッと思わずナオミは震えた。
顎髭を生やした狐顔の金髪の男がこちらを見つめたときだ、彼女は何といっていいものやら、言葉にならない果てしない憎しみ、いや憎悪をその人から感じた。殺意といっても過言ではない。あの目はお前がニト夫妻の娘か! という目つきだった。
「ねえ、あの人は誰かしら?」
ナオミはロレンツォに彼のことを訊いてみた。
あの男はモードレッド地区子爵ジョルジョ・パパティーノ。パパティーノ兄妹がいばっていられるのは、あの親父のおかげだ。
「…あの人が小さな辺境伯、小モンテカルロ…」ナオミは呟いた。
自分の命を狙っている噂の暗殺者だ。
そして六人いる子爵のうちの一人にして、子爵の筆頭格だ。
仮に伯爵の身に何かあれば、彼が副領主としてアッパータウンを引率する。そもそも副領主は伯爵家の家政を取り仕切っている家宰が担うものだ。以前までこの地位にあった者は、ランスロット地区子爵のクーデンホーフだった。
「株券の問題で交代になったんだよ」
正確には株主序列の問題だ。
確かに数ヶ月前までアッパータウンの主要株主はブドリ伯爵、次は家宰、その次はふくろう党だったが、誰も気がつかないうちにパパティーノは株をどんどん買占め、皆が気づく頃にはトモロヲ・ブドリに次ぐ大株主第二位にまで成り上がっていた。
その結果、株主序列により彼は副領主の座を手に入れた。
「それに息子のマルコはモードレッド地区の補佐役だしね」
マルコ・パパティーノが補佐役というのは驚きだ。
補佐役は生徒会長が直接指名するものだが、モードレッド地区の場合、親父が地区子爵だったこともあって、その息子マルコ・パパティーノが生徒会長のかわりに子爵自らの指名によって、補佐役に任命されたらしい。
「生徒会長もアイツの手下の呪いにかかって、今療養中だし」
キング・アーサー地区の補佐役ココの言葉だ。
生徒会がパパティーノの担当授業『悪魔祓いのいわれ』があまりに邪悪で、必要以上のことを皆に講義している、とトモロヲ・ブドリに告発したことを根にもっているとか。そのせいで生徒会長が病気に伏せているとは。
難しいことはナオミにはよくわからない。ただエンガチョのパパティーノの名前には要注意だ、という言葉が脳裏にかすんだ――そのときだった。
突然、ナオミの背後で憎しみがこもった声がした。いや頭の中からかもしれない。恐るおそる振り返ったものの、そこは自分の影しかない。
「もう一度、お前と会うなんぞ、思ってもみなかった!」
少女はカチン! と固まった。
空耳? まわりを見渡せば、誰もその声に気づいていない。
「いずれお前を殺す!」
憎しみがこもった声、男の人の声がまた聞こえてきた。
――――自分の声? 心の声か?
ナオミは両耳を両手で塞いで、ぎゅっと目を閉じた。すると声は止んだ。やはり空耳なのかしれない。
「きっと疲れているんだよ」ジョジョが気休めにぼやく。
でもこの声、聞き覚えがある。そうあの男、サンチョ・ボブスリーの声だ。
皆が紅茶を飲み終わる頃合をみはからい、シェフ姿のトモロヲ・ブドリが満足そうに声を張り上げた。その厳格な声に、石畳の中庭は一瞬で静まり返った。
「ここで町の新しい人事を発表させてもらう」
待ってましたばかりに赤毛のロレンツォをはじめ、皆が大きく拍手をした。
「サー・ピックル・タナカ、前任のパパティーノ子爵からの引き継ぎにより、悪魔祓いのいわれを担当してもらうことになった。パパティーノ子爵は副領主兼任のため、ご自分が経営されるカジノ経営に専念してもらう」
すぐさま騎士候補生たちの喜びの拍手が聞こえてきた。
ただマルコとリサ・パパティーノ兄妹がいる、モードレッド地区からは「この泥棒野郎!」とか「この町から去れ!」などの野次が飛びにとんだ。
「ほらっ、パパティーノをみてみてよ」とココのヒソヒソ声だ。
ジョルジョ・パパティーノ子爵は悪魔のような形相だ。
ピックル・タナカ先生に今にでも決闘を申し込むぞという感じで睨んでいた。以前は彼が悪魔祓いのいわれを担当していたのだが、あまりにも専門的に教えるため、いや正しくは生徒会の言い分を重視したトモロヲ・ブドリは男の副領主の地位を立てにして、波風がたたないように担当を解任したようにみえる。
「最後に町壁をこえて、どうやって町壁をこえておるかは知らんが、迷いの森に無断に立ちいらぬことじゃ。迷いの森は禁断の森、あそこは死者の墓場――――幽霊の仲間になりたい人はどうぞご自由に。とくに赤毛の生徒会書記……」
トモロヲ・ブドリはお茶目な瞳で赤毛のロレンツォを見つめた。
「馬屋番のヨセフさんから、馬を勝手に持ちださないで下さいとのお願いがありましたぞ。自分の馬を持ちだすときはヨセフさんに必ず一声かけてくださいね。
それから入団生の皆さんの馬もすでに届いておるそうじゃ。落ちついたら見にきてくださいとのこと、また武器は兵舎の武器庫ロッカーへ、それ以外はつめこまないように。毎年決まって猫や犬など干物とのご対面はごめんですぞ。入団生の皆さんは親方との顔合わせがあるので、最後まで残っておいてください」
ココは新聞記者の従騎士、聞くからにとても素敵で楽しそうな仕事だ。
自分は一体全体どんな素敵な仕事と出会えるのか、そんなナオミにテルは「きっと牛乳配達だぜ」と気分を台無しにする。
「校歌とともに解散」とトモロヲ・ブドリの声。
領主館前にひかえていた音楽隊は彼の合図とともに校歌を演奏、騎士候補生たちは校歌を口ずさみながら、ちょぼちょぼと石畳の大広間からいなくなった。
マイケル・コービーなんかは、自分は校歌を覚えてきたぞといわんばかりに大声で歌っていたので、テルは彼に「目立ちたがり」というあだ名をつけくわえた。
「そこの音痴の君、やめたまえ!」
ユトレヒトはつい口ずさみ、コービー少年は顔を真っ赤にした。そんな少年をブドリは「うむ、なかなか勇気がある」と反対に大きく褒めた。
「あとのことは副伯、頼みましたぞ」とトモロヲ・ブドリ。
副領主の座にある筆頭子爵を、副伯爵という意味合いから副伯と形式的に呼ぶ。子爵が伯爵の領地を下克上する場合、だいたい副伯による謀反の場合が多いとか。
「ええ。ご心配は不要ですぞ…」
ジョルジョ・パパティーノは野心家らしく、不気味に微笑んだ。
第3章
数十名の入団生を迎えにきたのは腰抜けだった。
腰抜けの名はサー・ロエスレル・ドラゴンヌ。うっすらと不精髭を生やし、体型はすらっとしている黒髪の騎士だ。その昔はロドというあだ名で皆から、尊敬されていたものの、九年前から臆病風に吹かれ、いつかしらか腰抜けと呼ばれていた。
そんな彼もナオキ・ニトの親友の一人だ。
「…副伯閣下、場所は『剣と盾』でよろしかったですね?」
「そうだ、あとは内密にはこびたまえ」とパパティーノ副伯。
ドラゴンヌは何かにおびえたような口調だった。
男前なのだが、どこか頼りない。彼はパパティーノ子爵から小さな袋を受けとるやいなや、引継ぎがある新入団生四十九名のうち、ナオミたちキング・アーサー地区の総勢八名の騎士候補生を引き連れて、ごみごみした町のなかへと消えた。
アッパータウンは本当に美しい町だ。大きなまるい広場、荷馬車の露店商、それから路地を馬で散歩して歩く人々、大きな大聖堂もみえた。キング・アーサー地区教会と呼ばれ、キング・アーサー地区の人々の集会所だとか。
「ドルイド教の教会でもあります」
「ドルイド教って?」ナオミは首をかしげた。
それは一般世間に忘れられた、滅びかけたブルトン人の伝統ある宗教だ。ドルイド教の神官は樫の木の賢者という称号で呼ばれ、社会的最高地位にあって、賢者にして預言者、天文学者にして神官という立場にある。
またドルイド教の名の由来はそこからきている。
ドルイドの社会的役割は宗教的指導者にとどまらず、政治的な指導をしたり、公私を問わず争いごとを調停したりと、ブルトン社会におけるさまざまな局面で重要な役割を果たしていた。
ローマの将軍カエサル・シーザーが記した歴史書によれば、ドルイドの社会的影響力はかなり大きなものだったようである。必要があれば公然と裁判を開き、人々に賠償や罰金を課するという裁判長の役も担った。ドルイドは祭事を司り、政治の指導者でもある立法者だ。この政務や祭事を助けるのがウァテスと呼ばれる助手。ときにドルイドの代弁者も兼ねる。
「これらは現在、領主と副領主の仕事です」
「パパティーノが公平に人を裁けるのか、疑問だな」
テルがナオミたちの心を代弁した。
「パパティーノ卿はアグリッパ教徒ですから、関係ありませんよ」
副領主のパパティーノが唯一、興味を示さなかった役職だ。
そのおかげで家宰のクーデンホーフが変わりなく今もその地位にある。ドラゴンヌはブルトン社会にはドルイド教と非公式のアグリッパ教、この二つの宗教があるという。
ブルトン社会ではドルイド教を『聖教』と呼び、信仰者を聖教徒と呼ぶ。対するアグリッパ教は『悪魔教』と呼ばれ、聖教徒は彼らのことを悪魔教徒と呼ぶ。双方とも信じる者は神と悪魔と相反している。
ドラゴンヌの意外な言葉にナオミたちは言葉を失った。
「…あ、あのう。アグリッパ教ってどんなことするんですか?」
「悪魔崇拝ですかね」
なるほどアグリッパ教、非公式になるわけだ。
ブルトンホテル大通りではオープンカフェとかで、お洒落なテーブルや長椅子が所狭しと並べられており、紳士や婦人たちが腰かけてペチャクチャと会話を楽しんでいた。お洒落なパン屋や西洋菓子のお店など商店がずらりと立ち並ぶ。
「ねえ、先生。ちょっと見てもいいですか?」
やはりナオミも女の子だ。
「だめだ」といわれても、彼女は見たこともない風景に思わず立ちどまってしまう。ナオミとテルはドラゴンヌに何度も怒鳴られても、やはりその素晴らしい風景に足をとめているばかり。一歩歩くたびに何か新しい発見と出会いがあるのだからしかたがない。
この先の煉瓦大通りでは、きらびやかな軍服の騎士たちが隊列をつくり、馬とともに行進してきた。ナオミたちは通りからはずれた、せまい横丁へとはいった。
横丁では賑やかに昼市が開かれていた。
「今夜の夕食にどうだい!」
「お姉さん、美人だからまけとくよ。犬も一緒だからさらに値引きだ」と値引き対象とあって、ジョジョは「失礼なおっさんだ」とぼやいていた。
市場は野菜や豚肉、鳥肉を売っている屋台でひしめきあっている。どこの町にも市場をお祭りと勘違いしている、近所迷惑な連中がお客のなかには必ずいるものだ。ここにもそんなはた迷惑な連中がいた。酒に酔ったならず者が決闘を挑んでいた。
「やっちまえ、ジョージ!」
「てやんでい、負けるな。ヘンリー!」
こんな野次が飛びかうなか、決闘者たちは相手に一礼、つかつかとその場から十二歩ほど静かに離れた。決闘の武器は片手ピストルだ。介添人らしい男が「いいね? 一発かぎりの勝負だぞ」と呟くと、双方とも黙って頷く。
あれれ? 野次馬のせいでいつのまにかドラゴンヌと別れてしまったぞ。
路地裏は見物客でいっぱいだ。決闘というものは人目にふれないところで、夜明けに行うものが通例であるのだが、若さゆえの愚かさ、成りゆきでこうなったのだろう。しかし後先考えない若さなど、愚かさ以外なんでもない。
男たちは位置につくと、もう一礼した。
「若さというものは恐れを知らない。ある意味、愚かな罪だ。で、君らはその彼らの決闘をおもしろおかしく書き立てるわけだ。売文主義は社会のゴミだよ」と町医者らしい、決闘の介添人は隣の男に嘆いていた。
「ホーエンハイム先生。それが新聞というものです」
「というがね、悲しい記事など誰も読みたいとは思わんよ」
野次馬で声が消され、ボソボソ声で介添人とこんな会話をしているのは、この町に本社がある出版最大手の毎日ブルトン新聞社の記者の一人だ。記者から医者と呼ばれた介添人は、ナオミの肩にそっと手をおいた。
「お嬢さんたち、決闘という人を傷つける愚かな行為をよくみておきなさい。人が人を殺そうとすることが、どんなことなのかを心に留めるために」
「は、はい」
ナオミの返事が終わるのを待っていたのかのように、すぐさまあたりにドーンッ! というピストルの音が鳴り響いた。ヘンリーと呼ばれた男が「…グフッ…」と路地裏に無言のまま倒れこんだ。
「キャ――――ッ」すぐさま悲鳴が飛びかう。
周囲が騒然となるなか、介添人はすぐに近寄り、どこを撃たれたのかを訊いていた。外科医らしいこの介添人は「腹部かね、うーむ。全治三ヶ月」と診断。
すぐに「誰かこの愚か者を私の診断所に運んできてくれないかね?」と大声で救援を頼んだ。何人かの男たちが名乗りでてくれたので、ナオミはホッと胸をなでおろした。
「ねえ、ドラゴンがこっちを見ているよ」
ジョジョが興奮冷めきれない声でナオミにいった。
「もーう。ドラゴンヌよ」とナオミが「ヌ」をつけくわえた男は、野次馬をかきわけ、ずんずんとやってきた。
「決闘なんて子どもが見るものじゃない、『剣と盾』じゃ、君たちがくるのを皆、首をながくして待っているんだぞ」とは三人の手をギュッと強くつかむ、と市場のにぎわいや人ごみからひっぱりだした。
四人と一匹は市場の裏通りを寂しく歩いていく。
裏通りには市で売るための商品を運んできた、荷馬車がいくつかみうけられ、古びた一日預かりの馬屋からは馬のいななきが聞こえてきた。
薄汚れた路地、ところどころにある水たまりからはポチャンッと魚がとびはねた。狭い横丁にはいれば、それはほかの横丁とは違って、昼間だというのにうす暗い。下町というか、どことなく不衛生で不気味だ。テルがロロの後ろにそっとまわって「わっ!」と声をあげた。
「ウゲェ!」
瞬時にテルの悲鳴が聞こえた。
ロロの拳が少年の脇腹に容赦なく食い込んだのだ。いつもすましているロロでさえ、緊張してこのザマだ。ナオミは大声に驚いてロロに抱きついたし、ジョジョなんかはもうすぐで逃げだしそうになった。
ドラゴンヌは文字通り腰が抜けそうになった。
「悪ふざけもほどほどにしなさい。君から騎士メダル一枚没収だ」
テルの舌打ちが聞こえた。二、三分ほど歩いたところで不精髭のドラゴンヌは「さあ、ついたよ。このなかにはいるんだ」と低い声でいった。
古びた戸口のうえにあるカボチャのランタンが、蔦の葉にまみれた看板を照らしだし、看板には『剣と盾』という消えかかった、文字がうっすらと書かれている。そよ風とともにカサカサッと揺れる蔦の葉――――これらが『剣と盾』の不気味と陰鬱さを物語っているといよう。
円窓からは温かそうな光がにわかに優しくもれている。
ドラゴンヌが戸口を勢いよく、咳き込むように激しく、ドンッ、ドンッと叩けば、キィッーと木戸は古びた音をたてて、そっともの静かに開いた。そして色の黒いいかにも悪党顔の男がぬっと顔をだした。
「最後の三人を連れてきた、市場見物していたんだ」
「それはご苦労さんだったね」と男はそれだけいうとナオミとテル、ロロを家のなかへ手招きした。
恐怖のあまりすくみあがった三人、その背中に「どうした、さっさと入りなさい」と腰抜けが声をかけた。三人は押しこまれるようにして、足を一歩づつ踏みだす。それにしても『剣と盾』は黒い霧の香り、危ない香りがする。
彼らがはいったところは狭苦しい殺風景な宿屋だ。奥にはカウンター席と粗末な円卓、長椅子だけしかない。一瞬、ナオミは空き家かと思ったほどだ。
「そうびくびくなさんな。我らのサー・ロド、偉大なる白銀…」
円卓に腰かけて、ラム酒をちびちび飲んでいた数人の男はゲラゲラと大笑い。
「…あ…ああ。か、からかうのはよせ…、普通の名前で呼べ…」
かつての自分のあだ名であったことを忘れたような、言葉の響きだ。人はきっと腰抜けになると昔の栄光を忘れてしまうのかもしれない。昔の栄光にしがみつくのも情けない話だが、自分の歴史を忘れるのも悲しい話だ。
歴史は、歴史だから歴史なのだ。忘れてはいけない。
「…ところで聞いていると思うが――――これは例のものだ…」
ロエスレルはパパティーノから預かった小袋を男に手渡した。荒男は小袋のなかから、一枚のミスリル金貨を取りだして、そのはしっこをガキッと勢いよく噛んだ。
「……」
「申し分ない、まえよりも精巧な造りだ」
「親方が迎えにくるまで、それまで大人しくしておくんだよ」
ナオミは用事が済み、急いで外にでようとするドラゴンヌを呼び止めた。
「まだ僕に何かようかい?」
サンチョとサラの右胸に拳をあてる行為を思いだしたのだ。
父の友人に共通するものといえばあの言葉だ。ナオミが「『ロアゾン』とともに」と右手を左胸にやれば、ドラゴンヌは見てはいけないものをみてしまったと顔色を真っ青にして、『剣と盾』からひょろひょろとでていった。
一体全体どうしたというのだろう? あのかわり具合は異常だ。
「きっとお腹が痛くなる『呪い』の言葉かなんかだよ」
ジョジョの言葉はあまり当てにならない。
「さあ、お前らついてくるんだ」そういうと男は立ちあがり、右手に鍵の束、左手にカンテラをもって奥の部屋へとのっしのっしと歩いていった。
宿屋の主人は力をいれて、落とし戸を持ち上げた。
なかは真っ黒な地下室のようだ、左右の壁には魔法によって、キノコが電球のようにうっすらと鈍く光っている。いやぼんやりとなかを照らしている。
男は親指をたてて「なかへはいれ!」という合図をした。
「…ガキども、さっさと階段をおりろ!」
「あ、あの…。暗くて何にも見えないんですけど」とナオミ。
地下室への階段を躊躇しているナオミに、宿屋の主人は険しい顔になった。
「そのうち目がなれてくる。おい、さっさとしろ!」
男は甲高い声をあげ、つりあがった瞳をギロリッ、と眉間によせた。何とおぞましい顔つきなことか。きっとこんな面を悪党面と呼ぶんだろう。大人気なくも右手には拳銃をちらつかせている。これ以上、この男を怒らすことは得策じゃない。
三人と一匹は慌てて階段をおりた。テルなんかは途中で思いっきり転んでしまったようだ。それからすぐにガチャン! と扉がしまる音が三人の耳に聞こえた。暗闇に目がなれてくると、白い目玉がギョロギョロと動いているのがわかった。
暗闇のなか、子どもたちはお互いによりそっていた。
なかには不安げにあたりをみまわす子、しくしくと泣きだす子もいた。その頼りない声には聞き覚えがある。きっとマイケル・コービーに違いない。
「拳銃で子どもを脅すなんて信じられないよ」
抵抗するにも抵抗できない、とテルの不満が聞こえてきた。
不安なあまりナオミがロロにすりよれば、ロロは彼女の腰にさりげなく手をまわす。テルは気づいていないようだ。ロロの温もりが、体と心が冷たくなったナオミにじーんと伝わってきた。
ナオミはそっと顔を赤らめた。
自分は一体なにを期待しているのだろう?
するとジョジョがまぜてとばかりに、二人のなかに割りこんできた。
「…ねえ、ナオミ…」
少女は黙んまりを決めこんでいる。
「僕、一日もここにいればモグラになっちゃうよ」とジョジョ。
「ジョジョ、あんたっていつもこうなのね」ナオミのあきれ顔。
犬といえども親代わり、さすが侮れない。
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