プロフィール
生年月日 1944年(昭和19年)11月10日
出 生 地 新潟県中頚城郡三和村
卒 業 校 早稲田大学法学部卒業
院外役職 弁護士・税理士
所属委員会 日本国憲法に関する調査特別委員会・厚生労働常任委員会
役   職 民主党新潟県支部連合会 代表
1.三和村で生まれました

昭和19年 新潟県中頚城郡三和村で生まれ、牛小屋の2階で4歳まで暮らし 頚城村(当時の明治村)へ引越しました。
父は油屋を始めましたが、裕福ではありませんでしたから 私は父の仕事を手伝いながら、明治南小学校、明治中学へと通いました。
登校は大変で、吹雪きの時は道と田んぼの区別もつきません....
でも夏は、保倉川で釣りや水泳・チャンバラなどで遊びました。

父は商売がうまくゆかず、豆腐屋や鉄クズ屋なといろいろやり最後はリンゴ屋を やりました。私もカゴにリンゴを入れ一軒一軒売り歩きました。

2.始めての「立候補」でも結果は


私の始めての立候補は、中学3年の時にクラスを代表して生徒会長に立候補しました。
結果は......落選
でも、副会長には当選しました。

卒業の時、教頭先生から「将来の役にたつから」といただいた色紙...
今でも心に残っています。

『柔肌の熱き血潮にふれもみで、さびしからずや道を説く君』..与謝野晶子
当時は、意味がわかりませんでしたが、大人になるにつれて胸にしみます。

柏崎工業機械科を受験、家が貧乏だったので卒業したら働くものだと思っていました。
明治中学からの受験は、私ひとり....
加藤先生が一緒に柏崎に旅館に泊まってくれました...そして合格

3.2年の頃から学校が面白くなくて...

通学は原付自転車で犀潟駅まで行き、そこから汽車で柏崎へ
冬は、柏崎運送の社長さんの家に下宿させてもらいました。

でも2年生の頃から学校が面白くなくて休みがちになりました。
不良と付き合ったりしたこともありました。

自分でも、ずいぶん悩みました....なぜなんだろう...と
友達から『おまえ、ひょっとして機械系向いてないんじゃないか?』 と言われ、『そうか、そうかもしれない』と気づきました。
『まわりに流されるより、自分のやりたいことをやろう』と考えました。

4.早稲田大学法学部合格

つつい学生時代の写真必死で勉強した甲斐があり、早稲田の法学部に合格することができました。

ただ、その後で大変なことが起こりました。
両親が卒業式の数日前に高校に呼び出されたのです。
『残念ながら、息子さんは出席日数が足りません、卒業式に出すわけにはいかないんです』
結局、学校の温情で卒業式後に3ケ月の特別補修授業を受けることで卒業を認めてもらえることになりました...

先生一人生徒ひとりの特別授業
両親や先生方、多くの人のやさしさに涙の出る思いでした。

5. 社会を治す医者「弁護士」になろう!

時はまだ学生運動が盛んな時代でした。
農業問題研究会と歴史研究会に入部し政治や思想関係の本を読み漁りました。


やがて卒業の時期、私は進路に迷っていました。
『ただ大企業に就職してもつまらないし...どうしよう』
『何か人の役にたつ、弱い人を助ける仕事が良いな』と思いました。
『そうだ社会を治す医者...弁護士になろう』と決めました。
そうと決まったら、司法試験一発合格を目指して勉強を開始しました。
翌日から図書館通いが始まりました。
一生の間にあれほど勉強したことはない....というほど勉強しました。

6.妻との出会い、そして司法試験受験を勧める

妻、具子とは大学の頃から、つき合い始めました。
司法研修所に入所する前の一時期、彼女のアパートに転がり込んでいたこともありました....お兄さんに発見されましたが怒りながらも黙認してくれました。

研修地は金沢を希望しました、それが2人の新婚旅行となりました。

『なあ具子、せっかく法学部を出たんだから司法試験受けて見ろよ』
『これからは女性も社会的な活動をしたほうが良いと思うよ』
『でも、勉強に時間が取られると、家事ができないから』
『おれも協力するから、頑張ってみないか』

そこからは妻の勉強時間を作るために、掃除・洗濯・食器洗い....
なれない家事をやりました。
不器用な私ですが、この時ばかりは一生懸命やりました。
そして見事に具子も司法試験に受かりました。

政治家への道「労働事件が転機になりました」

判事や検事になる道もありましたが、庶民の側に立ちたかった私には迷いはありませんでした。
そして3年で独立、妻・友人と銀座に事務所を開きました。

故木島代議士の写真

弁護士をやりながら政治や哲学を勉強して雑誌に論文を発表しました。
政治に興味はありましたが、まさか私が政治家になるとは夢にも思いませんでした。
転機が訪れたのは故郷で「大島農機」の労働事件を担当したことでした。
当時の木島喜兵衛代議士に『ぜひ後継者に』と言われたことでした。

正直言って、政治家というものにあまり良いイメージを持っていませんでした、ただ弁護士を15年やってみて個別の事件だけでなく日本や地域全体のために力を尽くすことにも意義を感じ始めていました。
その時、39歳でした。


上越市に法律・政治各事務所を開設、同時に選挙基盤づくりを始動し
家族の法律相談 」を出版しました

8.始めての選挙戦「次点に泣きました」

すべてが初体験、わけもわからず、とにかく走りまわっていました。
昭和617月、衆・参同時選挙で57,560票獲得したが定数削減の壁にはばまれて次点に泣きました。
落選、人生はじめての挫折でした.....

昭和61年、現在の環境問題を先駆けた、「 バイオマス文明構想 」を発刊、大きな反響を呼びました、これが今の環境活動の出発点です。

9.皆さんの応援で当選「初志貫徹」

   つつい一家の写真         ついに政治家「つつい信隆」誕生

妻から友人から大きな応援がありました。
やると決めたら、最後までやるのが信条です。

平成22月、総選挙で2人区の厚い壁を、82,603票と4区革新初の大量得票で前回の雪辱をはらしトップ当選しました。
議員在職中に、政治改革を目的とした「ニューウェーブの会」を結成しました。
初代事務局長に就任し充実した政治活動ができました。

平成57月の総選挙で138票差で次点に泣きました。

平成810月の総選挙で10万票余りを得票することができました。
「全国最多得票落選者」として全国に知られることとなりました。

そして、平成12年の選挙で勝利することができ、以降平成15年、平成17年と四選を果たすことができました。