むかし、むかしのお話。東の森から現れた女の子がいました。深い色の髪の毛と瞳の、神秘的な肌をした愛らしい女の子です。国の中で誰も見たことのない色をしたその子は、大きな青いお空に手を伸ばしました。
「ああ、なんてきれいなお空なのかしら!」
女の子があんまりきれいな声で、歌うように言ったので、お空は照れて赤く染まりました。森の近くに住んでいた男の子が、それを見てわんわんと泣いてしまいました。
「なんてことだろう! お空が赤くなったら、すぐに暗くなってしまう。きみのお髪やおめめのように、まっくらになってしまうんだ! そうしたら、ぼくはどうやってお家に帰ればいいの?」
男の子は東の森から帰る途中でした。女の子は困ってしまいましたが、すぐににっこりと笑って光る石を男の子に手渡しました。それから、沈んでいく太陽を指差して、言いました。
「この石が、あの太陽のようにあなたの道を照らしてくれるわ。だから、もう泣かないで」
男の子は女の子にお礼を言って、家に帰っていきました。心の優しい女の子は、てくてくと森の中に行きました。夜の森は恐ろしい魔物が出ます。だから子どもは入ってはいけません。でも、女の子は違いました。みんなが怖がる魔物にもすてきな笑顔を向けていたので、魔物でさえも女の子のことが大好きでした。
*
ぱたん、と古い本を閉じた青年を、オーレリアンはにこにこと人の良い笑みを浮かべながら見ていた。青年は見た目の若さに似合わず、気難しそうな顔をして口を開いた。
「先生、確かに『アラヲリ童話』の原書は、始祖ウィリアと思わしき人物の描写がなされています」
苛々とした様子を隠そうともしない教え子に、オーレリアンは言葉を挿まないことによって続きを促す。
「大体、僕は『アラヲリ童話』の原書が、重要な歴史書だとはどうしても思えないんです。始祖ウィリアは魔物を従えたとの伝説もありますが、現代のように愛玩動物として魔物を飼うための道具もなければ、野生や魔力を抑えるための食品も開発されていません。そんな中、5000年以上昔の人物が、果たして魔物が獰猛になる夜という時間帯で……しかも縄張りであるかもしれない森に住むでしょうか。それに……」
「はいはい。セオ、君の言い分はわかったよ」
オーレリアンは下がった眼鏡を指で押し、元の位置に戻した。教え子であるセオリィシオは、7年間も担任をしているのにどうも自分とは考え方が合わないようだ、と苦笑する。
――普通、子どもの頃からものを教えていれば、少しは考えが似通うこともあるだろうに。
オーレリアンが先日発表した論文にあるように、今では子どもの寝物語となっている『アラヲリ童話』の原書は、偉大な功績と伝説だけが残っていて、正確な記録は一切ない始祖ウィリアの貴重な資料となっている。しかし、ウィリアに並々ならぬ憧れを抱いているセオリィシオにとっては、許しがたいのかもしれなかった。
「先生、僕は始祖ウィリアについては『聖都民の日記』が1番信憑性に富んでいると思います」
拗ねたようにそっぽを向いたセオリィシオに、オーレリアンは「そういうところだけは昔と変わらないんだから」と笑った。今年、成人の儀を受ける資格を得る16歳になるはずの彼は、始祖のこととなると急に幼くなる。
「だけど、セオ。『聖都民の日記』には、ウィリア様の『己を信ずるものは勇に富み、他を信ずる者は優に富む。ゆうは有りといふ。有ることを知るは賢者なり。由なきことだに受くは、すなはち強き者なり』という言葉にあるだろう」
「先生、ですが……先生の論文を信じてしまうと、始祖ウィリアは……」
「うん。今まで信じられていた学説は大きく覆されてしまうね。そこで、だ。そんなに言うのなら、私の論文が正しいか確かめに行っておいで。『アラヲリ童話』では、ウィリア様……いや、女の子は『東の森に帰り、美しい花になりました』とある。童話に秘められた様々なモチーフや微妙な言い回しを分析していくと、『東の森』はミールイの森だ」
セオリィシオはオーレリアンの言葉に、頬をひきつらせた。
「せ、先生! ミールイの森はいまだに人間では太刀打ちできないようなS級の魔物も生息するとされる危険区域ですよ!」
「君は武術の授業でも首席じゃないか。それに、S級の魔物はかなり奥深くにしか生息していないらしいし、『アラヲリ童話』にはこうある……『女の子はいつもふわりと良い香りがしました。魔物たちはその香りをかぐと、いつでも夢見るようにうっとりしてしまいます』……『女の子はいつもお守りを持っていました。女の子が大事にしているそれを見て、いつしか魔物たちは、その不思議な模様が大好きになりました』……」
オーレリアンは研究室の奥の、自分専用の棚から薄い板を取り出した。セオリィシオはそれを見て、目を見開いた。その薄い板が見たこともない素材で、さらに描かれた模様(というよりは、記号)が王家に受け継がれるものと酷似していたからだ。その記号の上方には「3325」と、なぜか数字が描かれていたのも不思議さを助長している。
「数年前にある遺跡で発見したもので、おそらくそれが『魔物の大好きな模様』だと思う。王家のもとのは少し違うけれど、そういえば確かに王族には魔物を従える才能に溢れる方ばかりだ。もしも危なくなったら、これを使うと良い」
そう言って、不思議な板と共に手渡された鍵を見て、セオリィシオはため息をついた。
「脱出の鍵ですか……こんなものまで用意しているなんて」
脱出の鍵と呼ばれるそれは、呪文を唱えながら何もないところで鍵を3回左に捻ると、あらかじめ登録されている場所に繋いでくれるという便利なものだ。便利だが、高価なうえに場所を登録する手続きが非常に面倒なので、使っている人を見ることはあまりない。
「行けば良いんでしょう。この板の効果も気になりますすね」
「健闘を祈るよ」
ひらひらと手を振ってきたオーレリアンを無視して、セオリィシオは研究室を出た。
ミールイの森は、王都であるダイルゼからそう遠くないところに位置する。ダイルゼの真東へ向かうと辿り着く、広大で深遠なる森は普段は誰もよりつかない。城の兵士でさえ、近づくのが嫌で関所すら置かれていないような場所だ。建前は
「ミールイは古来より王家に伝わる神聖にして崇高な森である。踏み入れるものを拒んではいけないとあり、人が監視するなどもっての外である。どうしても入りたいものは入れば良いし、そうでないなら近寄ってはならない」
と、あるが、セオリィシオは信じていなかった。魔力が高い魔物ほど知能が高いので、確認されているS級の魔物と関所をおかない約束しただけだと考えていたのだ。そう民に告げないのは、魔物の意向に従ったとなれば国が魔物に怯えていると思われ、示しがつかないからだ、と。
「……朝からなんでこんなところに」
はあ、とため息をつく。論文への抗議をするつもりで研究室に行ったら、まさかこんなことになるなんて、と。朝といっても昼近く、もう陽は高いところにあるはずなのに、森は暗い。初夏だというのに肌寒いし、ぴりぴりと嫌な気配もする。
――魔物が寄ってこないのは、この板のおかげか。
やわらかな土を踏みしめながら、森を歩く。行くあてもなかったが、自然と足が動いたことに気がつき、セオリィシオは意図的に足を止めた。よかった、操られているわけではない、と安堵してから、再度歩を進める。
「おかしいな……」
ミールイの森は、疑い深いセオリィシオさえ信じざるを得ないほど「伝説」級の魔物がいるはずの場所だ。それは文献だけでなく、生物学者ゲアトの命がけの研究で明らかにされているし、いくつかの魔物は写真を撮られている。
ところで、この世界において「写真」は魔力の込められた魔石をエネルギー源とした、模写の魔法が込められた箱状のものによって作製される。ボタンをおすだけで魔法が展開されるので、子どもから大人まで簡単に扱える便利なものだ。
静寂の中を、セオリィシオはただ進んだ。行く前は面倒だとか魔物に対する恐怖だとか、そういったものが渦巻いていた胸中は、今は晴れている。緑のよい香りと、肌に触れるひややかな空気は森の奥へ行くほど強くなる。しかし不快感は覚えない。まるで、自分が古代の世界へと入り込んでいると錯覚させる。その錯覚に気がついたときの、少しの高揚。
「……墓?」
立派ではないが、そこだけ時が止まっているかのように清潔な――そう、人など誰も入らない森の中にあるにも関わらず、手入れされている印象を受けるその墓石は、闇のような漆黒だった。
セオリィシオは全身が粟立つのがわかった。黒とは、この国において至高の色である。魔力の象徴とされ、その色を基調としたマントは王族しか身につけることしか許されない。マントのみである理由は、始祖ウィリアが黒い鎧を当時の騎士団長に送ったとされるためだ。
「なんだ、これ……記号?」
セオリィシオは墓石に刻まれているものを指でなぞった。心なしか、ぴりぴりとする。名のある魔法使いの墓なのかもしれない。しかし名のある魔法使いかどうかは、記号の意味を解して誰が眠っているのか知らなければ判別できない。
残念ながらその記号は王都ダイルゼにある教育機関で最高峰のフズルベ学院で首席のセオリィシオでも見たことがなかった。古代語から現代文学、魔術の研究はもちろん、あらゆる文字や文様、記号などには精通しているはずだが、そもそも文字だとしたら横ではなく縦に刻まれているというのはおかしな話である。
「いや、しかし始祖の書き記したとされる古代神創文字と似ているな……『私』、『愛する』……ああくそ、最初の文字がわからない……『私の』……『永久』か? ええと」
ふわり、と花の香りが鼻腔をくすぐり、彼は墓石から目を放して、辺りを見渡した。緑は豊かだが、さきほどまでは気にならなかった匂いゆえに、どの花が放っているかはわからなかった。気を取り直して墓石を見る。
「あ……もしかして、『永久に私の愛する方へ』か? なんだ、名前じゃないのか」
彼は落胆したが、そう呟いた瞬間にむせかえるような花の香りがした。脳を麻痺させるようなそれによって一瞬目がかすみ、森の空気が変わったことに気がつく。さわさわと吹いた風は、さきほどの凛とした冷えたものではなく、やわらかく何かを包み込むようなものだった。その風によって、墓石の横から一筋の糸のようなものがなびいたのを見つけ、彼は墓石の裏を覗きこんだ。
「女、の子?」
そこに背をもたれて眠っていたのは、どこまでも白い女の子だった。髪の毛から伏せられた睫毛、身を包むパフスリーブのひざ丈ワンピースまでもがすべて白で、ただひとつ例外はアイボリーとクリームイエローの中間のような神秘的な色をした肌だけであった。
この世界で人間の肌の色といえば3色しかない。人口の6割は白い肌で、3割は褐色、残り1割は魔物とのハーフなどに見られるサーモンピンクだ。その点、この少女はどれにもあてはまらない。
――もしや、魔物か。
セオリィシオは剣に手をかけた。それを知ってか知らずか、少女は睫毛を振るわせて、倦怠さを露わにしたようにゆるゆると目を開いた。
「黒? そんなはずは……」
口が乾いて、声が掠れたのがわかった。その瞳は、確かに黒かった。誰も持ちえない――それこそ魔物でさえ持つことの許されない、魔力の源の色だ。その少女は、魔力を持たないとされる白に包まれながら、その瞳には確かに誰もが望んだ色を宿している。
「おはよう、ございます?」
セオリィシオの動揺とは正反対に、少女は暢気にそう言った。疑問形なのは、まだ頭が冴えていないのだろう。ぼやっとした顔は、まるで幻でも見ているかのようだった。
「……君は、いつからここで寝ていたんだい?」
焦りに近い感情によって、まだ心臓がバクバクと音を立てている。しかし彼はできるだけ穏やかにそう問うた。少女はこてんと幼い所作で首を傾げた。
「わかりません。ずうっとこうして眠っていたから。時を数えるのなんて、忘れてしまいました」
少女は墓石に手をかけて立ちあがろうとした。だが、ずっと眠っていたせいか足もとがおぼつかず、ふらりと体が傾く。セオリィシオは慌てて少女の軽すぎる体を受け止めた。ふわり、と花の香りがした。
――風が吹いて、彼女の香りが運ばれてきただけか。
彼はそう納得した。それにしてはむせかえるような密度だった気はするが、あまり深くは気にしないことにした。
「大丈夫?僕はセオリィシオ・アキュレイ。君は?」
「ミトセ」
短く答えた少女は、セオリィシオの腕につかまりながらようやく自分で立った。ただ、支えがないと辛いようで、足は震えていて頼りない。
「テオリシオさん」
「セオリィシオだよ。呼びにくかったらセオで良い」
彼は笑いながらそう言った。体に力が入っていないのと同様、呂律も回っていないようだと判断したためだ。ミトセはぱちぱちと目をしばたかせ、それからこくりと頷いた。
「セオさん。ひとつ、お願いがあります」
「なんだい?」
「お腹が空きました」
真面目な顔でそう言ったミトセを、彼は抱き上げた。
「なら、ダイルゼまでおいで。君がどうしてこんな危険なところで眠っていたのかは知らないけれど、戻ってきたいなら明日にでも戻れば良い」
セオリィシオにはミトセが何事か呟いたように聞こえたが、なんと言っているかはよく聞き取れなかった。というより、事実としてはセオリィシオの知り得ない言語だったゆえに、わからなかった。彼としては声が小さかったからと自己完結していたが。