学会員によるブログも、結構あると思われます。
何を表現するかは自由ですが、最低限のルールは存在します。
会合で録音、録画が不可になってるんだから、文字でも漏らして
はいけない内容ってありますよね。それを書いてはいけません。
あのtwitterでも書きこんではいけないものがあるのに、いちいち
言われないと解らない大学生とかいますね。あんな感じで、本人
に全く悪気はなくても、発信してはいけない情報は発信してはいけ
ないんです。
でないとそんな人間は、会社の情報なんかでも平気でバラしそうだし。
「信用できない人間」と一度思われると、それを払拭するのは中々
大変ですからね。
だからといって、ありきたりの情報ばかりを発信しても、面白みは
ありません。もちろん、正確に伝えなければいけない教義なんかの
資料としての情報は借り物の言葉を使わなければいけないのでしょう
が、普通のことは、自分の言葉で表現できるサイトが増える方がいい
と思うのです。
学会員といっても、色んな立場や境涯の人がいます。世間の物差しで
いうと、「勝ってる、負けてる」と言われるかもしれません。
しかし仏法の立場からいうと、色んな境涯、つまり病気だったり失業
してたり、障害を抱えていたり経済苦だったりとかの人も、別に卑下
する必要はないのです。
むしろ、そういう人が今、何を考え、どんな生き方をしているのかを
ありのまま(といっても、個人情報まで出す必要はない)に表現して
貰った方がいいのです。
つまり、「よそ行きの創価学会ではなく、あなたという創価学会」を
表現して欲しいのです。
もちろん、非学会員も色んな境涯の方がいますから、当然境涯や境遇
の低い学会員は馬鹿にされたりすることもあるでしょう。でも、同じ
ような境涯や境遇の方だったら、何か感じるものがあると思うんです。
しかし、よそ行きの言葉で表現されていたら、共感されるものも共感
されなくなりますので。
そういう意味で、ひとりの信仰者としての生き様を、自分の言葉で表
現できるサイトが増えた方が、学会理解は広がると思うのです。
まぁ身近な例で言えば「創価の森の小さな家」みたいな感じでしょうか。
等身大の創価学会でいいんです。
そんなことを言ってる私も実は、そういう風にしようとイメージしなが
ら中々できていないという現実があります。なぜ書けないかというと
おそらく、信心が惰性に陥って成長してないからではないかと。
自分を客観的に表現しようとすることによって、自分の成長具合も自分
で気づきますので、是非取り組んでいただけたらと思います。
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