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意志論小論(2)


【 §2 意志慾求と対象行為 】

          上 現前しうる事況と現前しようとする事況

 先にも触れた通り、本論は意志を慾求のひとつと見なし、基本慾求と対比するために意志慾求とよぶことにする。意志慾求とはどんなものか。たとえば、われわれが「虫を追い払いたい」と感じ、現に虫を追い払うような場合、この「虫を追い払う」という行為は意志慾求によって惹きおこされたものだとされる。意志慾求とは、まさしくそのようななにかである。意志慾求は、慾求だからには、なんらかのものを求めているわけであり、而して、求めている当のものとは行為である。本論は対象行為と表現しよう。
 それにしても、この点は充分注意されてしかるべきだとぼくにはおもわれるのだが、なにしろ意志慾求は見えにくい、つかみがたい形の慾求である。どういうことか。基本慾求の場合、われわれは充たされない基本慾求というものをもったことがある。無論だ、こんなことは言うにも値しない。しかし、意志慾求の場合ならどうか。われわれは、虫を追い払わない「追い払いたさ」をみとめたことがあるだろうか。それはたんなる基本慾求なのでないか。ふむ、言葉の扱いをはっきりさせておかなくてはなるまいが、意志慾求を基本慾求から分かつことにアクティブな意味がもしあるとすれば、それは「意志慾求だけが行為にいたる」ということを措いて外にないだろう。この点にのみ、ひとつのセクションを割いても意志慾求を論じねばならない理由がかかっている。すると、虫を追い払いたいだけで追い払わないような「追い払いたさ」は、もちろん意志慾求とは言いがたい。だが、現に虫を追い払おうとして、もろもろの事情により、追い払いをしくじることも時にはありうる。こういう事態についても、われわれは「追い払う意志をもった」と表現するならわしである。してみると、意志慾求は、常に充たされている(行為を完遂している)とは言えないながら、常に充たされようとしている(行為を遂行中である)ということは言える。論理の糸を、すでにうごきはじめた行為からくびすをかえすように辿り、時間的に先行するものとしての意志慾求が発見される。「水をのむ」が事況だった通り「虫を追い払う」もまた事況であるということ、すなわち、行為とは事況のひとつなのだということをかんがみるに、次のことが言えるだろう……現前しようとする事況の中にのみ、意志慾求なるものは見出されるのだ。
 意志慾求と基本慾求とがほんらい同一だということ、もはやこのことには論を待たないようにおもわれる。基本慾求が対象事況に対するのと同じ形で、意志慾求は対象行為とかかわり合っている。それは、求める当のものの現前をめがけるという形である。なおまた、この求める当のものというのが共通して事況なのだった。意志慾求は基本慾求とどのように違うのか。論じられるべき唯一の点がこれであり、しかも、その解答は与えられている。意志慾求だけが行為にいたるのである。よろしい。ならば、議論にのぼすべきはこれのみだ。「いったい行為とはなにか」……話のすじみちが明きらめられた。
 けれども厄介な話だ。なるほど、フォカスがむすばれたのはよかったとはいえ、これはまことに難しい。結論に辿りつくまでに、いろいろなことを、急ぎ、ぼくは言ってしまわねばならない。こういう論述法は、あまり好ましくもないが、理解を共有するためにはさけて通れない。

【1】 事況には、現前しうる事況と、現前しえない事況とがある。「あるものが存在し、かつ、存在しない」という事況は、われわれにイメージされることがならない。すなわち、このような事況は、与えられることが、存立することが、ゆるされない。言うなれば、これは不可能な事態なのである。論理の役割は、われわれに対して可能的事態を呈示することにあった。ということは、論理は常に、現前しうる事況だけしか示さないわけである。イメージされうる事況は、たとえどれほど実現可能性がひくかろうとも、いちおうは可能的事態として扱われなければならない。魚が宙を泳ぐことも、鳥にぶらさがって月まで行くことも、なにしろ可能には違いないのだ。現前しようとする事況は、少なくとも現前しうる事況でなければならない。

【2】 そして、行為が現前しようとする事況であることは明きらかなのだが、現前しようとする事況だからといって、おしなべて行為だというわけではない。意志慾求がなくとも、基本慾求は、充たしおおされることがある。むしろ、基本慾求が充たされようとする現場に意志慾求の介在がみとめられるのは、とくべつな場合においてだけのことだろう。誰かと喋りたい、という基本慾求をわれわれがいだいており、そこにたまたま友人がたちよってくれた場合なら、われわれは「友人がたちよる」という事況を自分の意志慾求のせいだとはおもわないだろう。「友人がたちよる」というのは、慾求した者の行為だと、とても言えそうにはない事況である。一方、好ましくない虫を追い払う手のうごきを、われわれは自分の意志慾求によるものと見なす。「虫を追い払う」というのは、われわれにとって行為なのである。ここにはどんな違いがあるのか。

【3】 しさいにながめるなら、これは明きらかなことなのだが、ある事況が行為であるためには、少なくともその事況が「このからだ」を介して現前するようなものでなくてはならない。虫を追い払うのは、いつもこの手なのだ。それは無論「このからだ」にぞくする。「友人がたちよる」というのは、ぼくのからだにはかかわりがなく、したがって行為だとはみとめられなかった。けれども、このことをもって行為成立の充分条件だとすることはできない。それは早合点というもので、たとえばぼくが歩いており、誰かにぶつかられたような場合、誰かにぶつかられたということは(ぶつかられたものが「このからだ」だろうとも!)ぼくのなした行為なのでは決してあるまい。すると、どういう話になるだろうか。

【4】 あと一点、事況が現前しようとする現場に注目したい。前のセクションからひきつづき、もう少しだけ「水」の場合に拘泥してみるが、われわれに「水のあるところに行きたい」という基本慾求が与えられたのち、どうかして、その対象事況が現前してしまったとしてみよう。いつしか水のあるところに辿りつき、眼前に水をながめているのである。すると、もう水のあるところに行きたいとは感じなくなる。すなわち、基本慾求が充たされる。基本慾求のつらなりが、あらたな基本慾求を生もうとしなくなるのである。けれども、基本慾求のうちのいくらかは、まだ求めることをやめてはいない。まだ水を有してはいないからであり、まだ水をのんではいないからだ。こんどは水をすくいあげたとする。「水を有したい」という基本慾求も充たされる。残すは「水がのみたい」という基本慾求だけだ。水をのみくだしたとする。一群の基本慾求が、ついに治まる。基本慾求が充たされようとする現場、基本慾求のつらなる尖端、意志がはたらくのは常にそこにおいてである。

 これだけの論述をふまえ、われわれはもはや論じうる。意志慾求のふところのうちに、筆をみちびく万端がととのった。

          下 意志慾求あるいは幸福の捏造

 現前しうる事況は、意志慾求を介することにより、現前しようとする事況になる。事況はむやみに――というのは「意志慾求を介さないでも」という意味なのだが――現前したり、しようとしたりすることがあるのだった(友人がたちよってくれる場合など)。「現前しようとする」と書くのは冗長だから、ここからは「現‐現前」と書くことに決める。意志慾求をながめ、ぼくがすぐに気のついたことは、対象行為はあらかじめ心がまえされている、すなわち、事況の現‐現前に先がけて対象行為は心に弁えられている、ということだった。しかしながら、これは基本慾求の場合と同一である。先述の通り、基本慾求を与えるものとは対象事況なのだった。むしろ、とりあげられるべきは、それがどう心がまえされているのか、どう弁えられているのか、ということだろう。対象事況は、基本慾求に対して「現前しうる事況」として描かれている。対象行為は、意志慾求に対してどんなふうに描かれているのか。「現前しうる事況」に加え、こうも描かれているのではないか。つまりは「まさに現前せしめうる事況」としても。
 まさに現前せしめうる事況とは、どんな事況のことを言うのだろう。現前しうる事況のうちには、くりかえし現前するものがある。これら、現前のくりかえしを、いつかわれわれは学ぶだろう。それが学ばれると、次に学ばれるのは、常に慾求とかかわる形で現前するならいの事況である。われわれがそれを慾求した場合に、常に現前してくれるような事況が、一群、存在している。「虫を追い払いたい」と慾求すれば、いつも、現に「虫を追い払う」という事況が現前するのだ。これを換言すると、慾求が事況を「現前せしめた」ということにもなろう。しかし、これは捏造だ。慾求が事況を現前せしめたのではない。そういう力が慾求に内在していたのではない。慾求すると、事況がおのずから現前してくれたわけだ。かかる場合、われわれは慾求を意志とよび、現前した事況を行為と表現するのである。意志慾求という基本慾求が、なんらかの力を有するものとして捏造される。われわれにはしかし、ただ慾求することしか可能でない。
 それだから、まさに現前せしめうる事況とは、行為とよばれる現‐現前的事況のことだ。現前しうる事況は、それが「まさに現前せしめうる」と見なされた時点で、すでにして現‐現前的である。まさに現前せしめうる事況は、現に現前しようとする事況であり、まさに現前せしめうるものとして事況が与えられたとたん、その事況は現に現前しようとする。対象事況を与えるのは論理で、論理という力が事況の現前にかかわるすべてである。論理は、基本慾求から基本慾求を作り出す。はじめの「より好ましくありたい」から、論理は対象事況をつらねてゆく。「より好ましくありたい」は、現前しうる事況であるが、すぐさま現前せしめうるような事況でない。「虫をどうにかしたい」でも、まだ現‐現前的とは言いがたい。だが「虫を追い払いたい」ならどうか。この事況はまさに現前せしめうるのでないか、つまり現‐現前的なのでないか。そうなのだ、われわれは現に虫を追い払うのだ。われわれが現に虫を追い払うということだけが、この事況の現‐現前性を示しつける。この事況は「まさに現前せしめえた」のだ。だからこそ「現前しようとした」のだ。そこに、なんらの力もはたらくわけでない。事況の現‐現前は論理を介するが、論理が事況を現‐現前させるのではない。
 だが、事況が現‐現前するとは、いかなることか。論理は、ありたけの力で、対象事況を「まさに現前せしめうる事況」にまでひきつける。対象事況をなりたたせるための現場とは、未来のことである。これに対して、対象事況を現前せしめうるという言明は現在のものだ。論理は、はるかなる未来から、目の前の未来へと、対象事況を現在にひきつける。「虫を追い払う」という、手のとどく未来を尖端に、すべての慾求がつらねられた。けれども、現在と未来とはひとつになれない。どれだけひきつけられようと、未来が現在につらなることはたえてない。この深淵だ。「まさに現前せしめうる事況」と「現‐現前的事況」との間には、この深淵がよこたえられている。この深淵は、そしてとびこえられる。ほとんど無のうちに、なんらの力をも介さず、この跳躍が遂行される。現在が未来にむけて跳躍する。この現場こそが意志なのだ。意志のうえに、現在は未来とかかわり合う、むつみ合う。だから、意志というのは力なんかではない。意志とはようするに、われわれを存在させるただ一点の無なのである。……
 意志慾求を介す介さないにかかわらず、基本慾求が充たされたということは、より好ましい好悪気分と共に再び事態が明けわたされたということである。あらゆる基本慾求が自己を充たし、求めるものがおしなべて与えられたということを、われわれは幸福という言葉で表現している。幸福とはだから、十全な好ましさなのである。不幸という言葉は、まだ求めるものがすべてえられていないということを意味する。ひとつも求めない場合、あるいは、なにもかも求めるだけを与えられる場合、われわれは幸福なのだと言ってよかろう。
 けれども事情は錯綜している。幸福は、われわれに対し、常に明きらかなわけではないからだ。求めるものの不分明は、なんともいえない苦しさを与えるだろう。充たされない気分、不安な気分、うれわしい気分というのがこれである。われわれがうまく論理をはたらかせられないことが、かかる気分を作り出す。だが、話はこれに止まらない。「充たされない気分」そのものが、われわれに対し、常に明きらかとは言えないからである。どのような好悪気分の中に自分は生きているのか。自分はいったい充たされているのかそうでないのか。誰がこんなことを示せるだろう。示してくれるものはなにもない。好悪気分をひらくのはいつだろうと自分だ。「好悪気分を呈示するものとはなにか」……このことが、次に論じられなくてはならない。いまはまだ、ぼくはそのためのすべをもたない。本論は、いったんここに打ちきられる。ぼくにはしかし、ひしひしとうったえかけてくる言葉がある。……

fig.

 本論を書いたのには、現今ぼくがもっとも苦しんでいる問い、すなわち、論理とはなにか(論理は存在とどうかかわるか)という問いにむけて、布石しておきたいというわけがあった。この理由は、しかしあとから追加されたものであり、事のおこりは、幸福について論じようとしたことである。本論を書くというこころみは、おもいがけない示唆をぼくに与えてくれた。無論、ぼくの力不足のせいもあり、本論は充分なものとは言いがたい(しかし、哲学に充分なんて境地があるんだろうか)。それはそれとして、示唆というのは、ひとつには時間論とのかかわりである。意志慾求は、現在と未来とのかけはしを作る。慾求のなりたちから時間論をながめることは、そう無理なこころみともおもわれない。それから、もうひとつには「このからだ」の発見。「このからだ」を介するから行為が成立するのではなく、はんたいに、行為の成立を通じて「このからだ」が見出されるのではないか。すなわち、常に慾求とかかわる形で現前するならいの事況が発見され、その事況に常にかかわってくるような存在のことを、われわれは「このからだ」と言うことにしたのではないか。これはおもしろい論点で、ひろげると cogito すなわち「この思惟」の発見を論じられるかもしれない。なるほど、自分の思惟に対する意志というものは存在する。「意志論について考えたい」という意志慾求から「意志論について考える」という行為が現前する。だが、たとえば感情など、自分のおもい通りにはならないものもあるわけだが、感情が「他の存在者にぞくするもの」ではなく「自分にぞくするもの」として発見されるのはどういうわけか。どんどん話は繋がってゆきそうだ。あとは論理にかんして。ぼくは、なにしろあらゆる哲学論(説明理論)が捏造に見えてしかたのない人間なのだが、論理という存在が、なにかしらこの捏造のシンボルになっているのだなということが、ますますはっきりしてきたようにおもわれる。論理とは、無のはざまを担う、かぎりなく無にちかしいなにかだろう。そして、そうだ。この『意志論小論』という説明理論を、捏造として、いつか自分であばけるのなら、これほどうれしいことはない。ぼくの哲学は、どうも、あらゆる存在を無にかえそうとするこころみなのらしい。
 どれもこれも、説明理論という説明理論が、みな捏造に感じられ、なんとも言われない感覚をいだいたりする。
 もし捏造だとすると、どれくらいたいへんな捏造だか、そして目もくらむような気分になる。

(了)............

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◇脱稿:前半2007年3月30日/後半同年4月13日
◇原稿用紙換算枚数:前半17枚/後半18枚/合計35枚

 幸福論を書いたついでに、意志論が書きたくなって、なんとなく筆をとりはじめたのですが、半月以上かかりました。これだけ論文に苦しめられたのはひさしぶりです。だいたいぼくは、内容を決めてから書き出すのでなく、書き出してから内容を決めるので、はじめ、こんなになるとは予測だにしていませんでした。「基本慾求→意志慾求→対象行為→対象事況」のモデルを、かんたんに説明だけするつもりだったのです。それが、書き進めるにしたがい暗い林に迷いこんでしまい、次から次へとうたがいが繋がり合い、とうとうこんなものになってしまいました。
 哲学では、どうもぼくには大論文を書くことは不可能なようです(『差別論』はちっとも哲学ではないです)。こういうふうな、こまごまとした小論を集めて、分量を作ってゆくしかありません。本当に、哲学というのはえたいのしれないものだと思います。大きな山を、端からシャベルで崩してゆくような仕事しか、ぼくにはとてもできません。とはいえ、人の哲学を理解することも苦手ですし。どうしたものか。

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