化物
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もしも人でなしが、生きることのすべての理由を喪ってしまったとしたら、そいつはもはやたんなる化物にすぎない――。
ぼくは、これからいったい、なにを求め、なにを楽しんだらよいのだろうか。
おおくあるものからひとつのものをえらびとることは、今やぼくの範疇ではなくなってしまった。こんなことになるなんて、考えてもみなかった。なにしろぼくは、生きることにあまりにも執着をもちつづけた人でなしであったし、きっとこれからもそうであるだろうと予期していたのであったから。いや、あれは予期ではなかったのかもしれない、すなわち幻想であったのかもしれない。そうすると、なんとあやふやにぼくは生きていたものか。そして、今あるぼくはなんとあやふやであることか。もういちど幻想を取りもどすことはできない相談だろうか。およそできない相談であろう、と、この化物は語る。たまたま言葉をもちいうる時には、この化物はこんなことばかり語っている。
死ぬことは怖いか。
死ぬことは怖いか。
死ぬことは怖いか。
怖がることはまさしく真実であった、それから怖がることは義務になった。なんという義務だろう、こんな義務があってよいものか。おそろしい義務感によって、ぼくは死ぬことをひたすら怖がっていた。くだらない、もちろんくだらない。見ていられない人でなしだ。どうも仕かたのないろくでなしだ。
ここに及んで、ぼくははじめて読者に喋りかけよう。
君は、死ぬことは怖いか。
むしろ、だ。
君は、君が生きていると信じられるのか。君において美しくないものなどあるのか。
君よ、イメージしてもらいたい、君はぶらぶらとおもてを歩いているのである。さあ、道におちている石のひとつひとつが君において美しいか。道に生えている草のひともとひともとが君において美しいか。美しいならば、君は、今のぼくがもつ価値基準に照らしてさいわいである。いやもうやめよう、くだらなくなってきた。
ひさかたぶりに血の言葉をみいだしたとよろこんだとたん、ぼくはなかば文章をつむぐことがおもしろくなくなってきている。ともすると、音も光もない泥沼のふかくに沈みこんでしまいそうになるのだ。苦しみから心を衛るには、いっそこうなるしかないということ。ぼくは書こう、苦しみにあらがうために書こう、苦しまないよりは苦しむがよいから。そうしておかないと、ぼくはまったく誰でもなくなってしまう。ぼくが君にとっての誰かであるためには、ぼくは書きつづけなければならない。
求めるものは。
求めるものはあるのだ。また、求めるものがあるかぎり、ぼくはぼくでいられるのだ。しかし、求めるものがあることは分かっても、それがいったいなんなのかということが分からない。こうしてかきまわすことで、もっと分からなくしているのかもしれない。
ぼくはぼくである。論理的に詳述するなら、ぼくであるということは、ぼくであるということと等値である。しかし、このままでは充分とは言いがたい。誰がぼくであるということが、誰がぼくであるということと等値であると、ぼくは主張したいのだろうか。「ぼくが」と答えるしかない。そうすると、先のテーゼは、ぼくがぼくであるということは、ぼくがぼくであるということと等値である、というテーゼに書き換えられてしまう。しかし、これではいけないのだ。これでは無意味なテーゼでしかない。ぼくは「ぼくがぼくである」というテーゼこそを真であると主張したいのである。分かりやすく言うなら、このテーゼをPとおくとして、ただ「Pということは、Pということと等値である」と述べるだけでは、Pそのものが真であると証明できないということだ。では、どうしたらよいのか。論理ではどうにもならない。証明不能である。
そもそも、ぼくがぼくであったとして、なにがうれしい。
これも幻想なのか。不毛だ、考えたくもない。
言葉なんか通じなければ、ぼくがこんなものを書くこともなかったのに。
けっきょくのところ、ぼくがぼくでありうるか否かということは、ぼくの「ありかた」によることであって、他のいかなることでもない。ところで「ありかた」とは、そして「ある」とは、どういう意味か。その言葉を用いる構造であるとすればよいのか、実存していることであるとすればよいのか、ただ美しいなとながめていたら事たりるのか。
こういうことを書きちらすのはやめよう、哲学はうんざりだ。
ぼくは論理をいささかも信じられなくなっている。論理の基盤をなすものはなにもない。論理が真であることを論理的に証明することはできない。そしてまた、論理が真であることを論理的に証明できたとしても、こんどは論理的に真であると証明されたものこそがまったき真であるということを証明できない。まったき真――まったき真――それはなんなんだろう。だが、なにもかもがアイロニカルだ。ぼくはファルスを書いているつもりはないのに。
ぼくが論理を疑えば疑うほど、論理はいかにも堅牢になってゆく。ぼくが論理の言葉を失っても、この本がこの本でなくなることはないし、あのグラスがあのグラスでなくなることはない。就中、ぼくがぼくでなくなることはない。確実に。ぼくは人と喋ることができる。人と疎通することができる。ほんとうにふざけたことだ。あまりにもふざけている。これでは、ぼくはただのできそこないじゃないか。そのできそこないのぼくが、今しも文章をつむいでいる。誰が。ぼくが。ぼくであるところのぼくが。よろしい。
苦しくなんかない、苦しいから。
文章を書くということは、ありとしあるすべてを物語化するということだ。虚構化と言ってもよい。そこで、物語のなかでは、ぼくは道化を演じるしかないのである。どんな言葉もみんな嘘になってゆく。物語に真実は含まれていない、含まれていようがない。この言葉の海、なんという海。ほらもうくだらないでしょう。いかにもくだらないでしょう。作者と読者とは、ついに分かり合うことがない。作者は物語を書いているつもりでいて、おのれを物語化しているにすぎないのである。小説もそう、論文もそう、エッセイもそう、言葉を排出するということは、そういう意味しかもちはしない。
ぼくがぼくであるという幻想がまちがいで、もしもぼくがぼくでないとするならば、こういうことにはなんの不都合もないのであるが。
今ぼくはどれだけ真実を書いているのだろう。かりにそんなことが作者に分かるのだとすれば、ぼくはこんなものは書かないだろうし、生きてもいないだろう。文章を書くことに真実がないからこそ、文章を書くことは「ぼくをぼくにする」のである。誰でもないこのぼくに。事実ではないこのぼくから、言葉は事実としての[ぼく]をくぎってゆく。それらはみな嘘くさいが、それでいてみな真実だ。文章を書く時にのみ、語りえないぼくは語りうる真実の[ぼく]として捏造される。ミエも建前も存在しえない。で。
分かった、もうよいとしよう。これはみんな幻想である、ぼくに現れては消える幻覚である。ちらちらゆれるばかりの知覚風景、そうなんだろう、そうなんだろうとも。
これは物語である。それはつまり幻想である。こんなところで、ぼくは、君にまたひとつ幻想を語る。
ある時ぼくは恋をした、それはまさしく燃えたけるようにして。ぼくはなにひとつとして求めなかった。ぼくは恋がいかなるものかをしっていたから。恋とはいつでも「もはや喪われた」という感情、要するに喪失の記号である。人は恋を過去にみいだす。けっして未来にはみいださない。人はともかく宇宙に恋をする。けれども、宇宙は「もはや喪われ」ている。そこで人は現実を喪失する。これが恋である。恋とは始まりの物語ではない、それはむしろ終わりの物語である。ぼくは他者と愛し合わなかった。愛してしまえば恋は死んでしまうからである。ぼくは生きた恋の味をあじわいたかった。ぼくは味わった、それは苦かった。触れ合いを求めはする、しかし、触れ合いはいつでもしくじりに終わる。そういう諦念こそが恋である。ぼくは誰とも触れ合えない。触れ合えたようなつもりになってごまかすのはごめんだ。人はいつでもひとりである。生まれてから死んでゆくまで、とわの異邦人にすぎない。だからぼくは恋をする。愛ではなくて恋をする。
触れ合うことは苦しいことだ。それなのに、どうしてぼくは触れ合いを求めているのであろうか。ちらちらゆれるばかりの幻影のなかから、なにゆえかぼくは他者をつかもうとする。触れ合えないからだ。そもそも触れ合いというものはないからだ。ぼくが求めているのはいつでもぼくだ。そして、ぼくが求めている「ぼく」は喪われている。もはや喪われている。そこで、ぼくはぼくに恋をする。ぼくがぼくであることを確かめようとする。しかも、ぼくという事態が「もはや喪われ」ていることが分かっていながらも、である。おそろしいナルシシズムの執念だ。ところがぼくは、この執念すらも喪ったのではなかったか。この時、人でなしは化物になった。ぼくは化物だ。生きることに苦しんでいるあいだはよかった、今やぼくは苦しいのは苦しいが、苦しむ理由を喪っている。つまり、生きる理由を、である。
物語を作る楽しみは、同時に嘘を作る哀しみでもある。ぼくはぼくである。ぼくはぼくでない。どちらが真実なのだ。好いかげんにしよう。やめよう。やめられないのか。やめたいのか。
ぼくは純粋である。ぼくは純粋などではない。ぼくは人でなしだ。人でなしであればよかったのに。論理はみんなまちがっている。けれど論理はぼくを嘲笑う。これは嘘にまみれている。という言葉は嘘にまみれている。という言葉は嘘にまみれている。ほら言葉なんかまやかしだ。
この化物は語る。ぼくは人でなしでありたい。それが叶わないなら語る化物でありたい。語るということはナルシスティックである。ぼくはナルシスティックな化物でありたい。だが、ナルシストは人でなしだ。化物はナルシストではないのである。化物は絶望すらもしない。化物は「いかなる意味でも生きていない」という意味でのみ生きている。化物に語りうる言葉はない。とすれば。
ぼくは生きている。ぼくは生きている。違うだろうか。違うだろうか。
なにもかも、もうすぐ終わる。そのことは分かっている。みな、みな、終わる。ところが終わりは終わらない。終わりとは終わらない装置のことである。なにもかもぼくは喪う。なにもかもが喪われてゆく。
死ぬことは怖いか。いったいぼくは人でなしか。
死ぬことは怖いか。いったいぼくは化物か。
死ぬことは怖いか。いったいぼくはぼくなのか。
もしも人でなしが、生きることのすべての理由を喪ってしまったとしたら、そいつはもはやたんなる化物にすぎないから、だから――。
だから君はそこにいないんだろう。君はとっくに消えてしまった。君とはぼくのことだ。もうにどと、君はぼくのところに現れてはくれないんだね。ぼくは君に心から恋しよう。ならば、これは恋文だ。
そんなにいやらしく笑わないでくれ、おまえみたいな青緑の化物をぼくはしらない。
(了)............
◇脱稿:2006年9月25日
◇原稿用紙換算枚数:13枚
現在のぼくにとって軸をなす作品です。これを書くまでにぼくが書いてきたものと、これを書いてからぼくが書いたものとには、本人が言うのもどうかとおもいますが、深淵がよこたわっているのです。これを書いてからのち、ナルシシズムを軸とする自分の文学理論にたいして、ぼくは意識的になりました。「人でなし」は、ついに「化物」にならないではいられない。「化物」は、しかしどうしても乗りこえられるべきものなのです。戦いの場が「自分−神」のラインから「人でなし−化物」のラインにシフトしたとも言えます。もっとも、この作品はそうおもしろいものではありませんね。
これを書いた時、ぼくはたいへん悪い精神状態のなかにいました。生きるためのあらゆる気力が失われたような状況でした。この作品は、ですから自己カウンセリング的な意味合いを強くもっています。毒ぬきされた、その毒がこれだということです。無気力も、あまりひどくなると「ものを書く気力」に転化するようです。