あるがままでいいんだよ...守護さんとぼくのおしゃべり

本当は、大丈夫です。大丈夫なんです。

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一人であり、一人でない

 
 
 
 
ぼく( ̄o ̄) 言葉って、真実の一端しか表せないですよね。
これはブログ書いてる人なんかは、実感として、本当にそう思うと思うんです。
 
 
 
守護さん(⌒∇⌒) 言葉は記号化だからね。
水も無数の水が在るのに、「水」と置き換えられてしまう。
 
 
 
( ̄o ̄) ですよね。
それでね?この現象界ってさ、2元性の世界でしょ?どこまで行っても。
でもね、あるがままを生きてるとき、2元性じゃないなって。
 
 
 
(⌒∇⌒) あるがままは2元性じゃない。
あるがままを解釈するとき、すでに2元性だが。
 
 
 
( ̄o ̄) 感覚で生きてる人ってさ、すでにあるがままなんじゃないかなぁ。
それは、「こう感じれる、っていう思考」の前にいる、感じるってこと。
というか、言葉では難しいのだけど、
感じるって認識する前の、
感覚そのもの
感じるという感じさせてくれる他者がいて、感じられる自分がいて というその前の
感覚そのもの
 
もちろんそれを味わう思考とかねそういうのも大切なんだけどね、
感覚そのものがいまここの原点かもしれないなぁ。
 
「在る」
というかね。
 
 
 
(⌒∇⌒) そのときは、一人であって、一人じゃない
 
 
 
( ̄o ̄) 以前さ、
「お前は神の孤独を理解したことがあるか?」
っていう意見を聞いたことがあるんですけどね?
実はぼくはそれを感じたことありません。
 
 
残念ながら、無いんですよ。ぼくはねそういう孤独を感じたこと。
2元性の日常の中で孤独を感じることはあります。
でももっと根源的な孤独を感じたことは、残念ながらない。
 
 
ぼくの意識が広がったとき、
その時、
 
喜び、安心、やすらぎ しかなかった。
 
その後、あー分離というのは、完璧幻想なんだなと そんな風に感じました。
孤独もね。
 
そこには自他が無く、一人という概念さえない。(いや概念はあるかwすべてだから。)
 
「ワンネス」ってさ、よく言うじゃん?
 
それってさ「一つ」っていう意味じゃん?
 
だけどね?
 
「一つ」っていうのは、二つがあるその中のひとつじゃなくて、
 
I AM」
 
っていうことなんです。このI が一つっていうかね。
 
自他のある一つじゃなく、
 
全部で、それしかない。
 
全部繋がってる。
 
それしか、って書くと、「〜しか」って言う部分が、2元性っぽいんだけど、そうではなく、
 
とにかく、
 
存在そのもの全部それ
 
そういう感覚です。
 
孤独っていうのは、そこから離れたときにしか出ないと思うんですよ。
孤独を感じるのは自我です。もちろん。
 
でも、いま現象界で、その分離を突き詰めてどんどん深い深いところをじっくり観つめたとき、そのように感じることがあるのかもしれない。
ぼくはそうなったことがないから分からないけど、そういう分離の中で、自我を究極的に観つめると、そういうことはあるかもしれないなぁ と思います。
 
もしかしたら、そういうのを、原罪っていうのかな?
そこから離れるのが原罪なら、自我のゲームに参加することが原罪なんだろうね。
それは神が始めたゲームだけど。
 
 
 
(⌒∇⌒) ではあえて言おうか。
人は孤独を感じることが出来る。
人は傷つくことが出来る。
 
「空」というのはね、空っぽなの。
空っぽだから、いろいろなものが入れるとか、そういう理屈ではなく、空なんだよ。
だけど、その存在はエネルギーそのもの。
それを意識と呼べば、それは意識だ。ただの意識。
その周りでは、それが揺らいで、そのエネルギーのいろいろな揺らぎが、いろいろな彩りを生み出す。
それを層と表現する人もいる。
連続した濃淡のある層。
その揺らぎの在る部分がさらに個性化して、どんどんどんどんエネルギーが収束し、収束した波があなたたちだ。
 
 
 
( ̄o ̄) うん。
我々は自我の殻をかぶってさ、分離のゲームをしてるのだけれど、光の影をわざわざ作って、光を味わっているというかね。
自我が在るうちは孤独も存在するのかも知れんけど、(それは本質の「仕組み」を自我がそう認識してしまうから)、
ぼくらは一人であって、一人ではないんです。
 
面白いことに、その中間も味わえます。
繋がりを感じつつ、グラデーションの彩りを味わうことが出来る。
レムリアという時代は、その彩りを喜びとして味わっていた時代だと思うな。
 
 
 
(⌒∇⌒) すべては幻想というのも、だから実にその通り。
だけどね、知識からそう嘘ぶるのと、深いところまで味わって、愛からそのように語るのとは、またちがうんだな。
そして幻想も、空から派生したエネルギーの末端なんだよ。
 
 
 
( ̄o ̄) 知識はフィルターで解釈しちゃうから。
なんかさ、
ぐだぐだとりとめも無く書いちゃったけど、
いまここで、いまここを生きましょう(笑)
だって我々はいまここにいるのだから。
そこに闇があれば、光で照らしてください。
じっくりと。
 
 
ぼくらは内側で繋がってますけれど、外側でもポチで繋がりましょ〜
ありがとうございます。
 
 
 
 
例え無人島にいても、植物たちがいて、大地があります。
いつもありがとうございます。
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閉じる コメント(12)

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公園の緑とかに最近よく絶句するんですけど、きれーだなぁってつぶやきじゃあとてもじゃないけどなんかっていうか、、、
んあああぁぁ、って唸ってます(笑) 削除

2011/7/29(金) 午前 8:43 [ こたろー ]

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こたろーさん
ああ、そうですよね。


話は変わりますが、それとは別に、無人島状態になって、「人は人なしでは生きていけない」ということを感じてみたい気もします。
(なんというか、人がたくさんいるというところに戻れるという保証なしに。まったく人がいない状態へ)

本当に寂しくなるか?
どんな風に感じるんだろう?
夢でもいいから体験してみたい。

サバイバルとか、実務的なことを抜きにして、ぼくは人は人なしには生きられないという気持ちにならないような気もしてるんです。
意識上は。

かならずおかげさまが周りに在る。

まーなってみないと分かりませんが。

2011/7/29(金) 午前 9:06 [ あくえりあん ]

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なんかおもしろそうですね〜
ひとりでいるのが大好きだし全然寂しがりじゃないので、なんかいけそーな気持ちもしますが、なってみないとわかんないですもんね。でも、おもしろそうだな〜。 削除

2011/7/29(金) 午前 9:20 [ こたろー ]

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「在る」と、対象ありきの感情、感覚は消えちゃうのですか? 削除

2011/7/29(金) 午後 1:24 [ blue ]

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blueさん
究極そうですね。
究極というか、日常でもあるかな。
頻繁にあります。すでにその場と一体になる感覚です。
ぎゃははって笑っているとき、対象とかそういうのを超えて笑いそのものになっているのと似ています。

それと、瞑想中、対象を眺めることも出来ます。
そのときは対象があります。
対象は、記憶だったり感情だったり。
ただ、それにフォーカスせず、それがあり、流れるままに観るというとき、カルマを空から眺めている感じです。
何者でもない「在る」から、眺めている状態ですね。

うまく伝わってますでしょうか??

2011/7/29(金) 午後 1:55 [ あくえりあん ]

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根源的な孤独。わたしもわかんないんだよね〜。それ
経験してないことだから。
根源的な孤独って何だろう?って思ってた。
こないだ、麻美ちゃんとこでわかんないからきいたら
究極の裏をみたんだって。
そして、表裏あわせると、結局は白だって言ってた。
そのときのやり取り、地デジスタートっていう記事の
コメントにのってる。
気が向いたらみてみて♪ 削除

2011/7/29(金) 午後 2:44 [ スピカ ]

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スピカちゃん
みました。
ふぅ〜む。
以前ぼくにコメくれた人(メールだったかな?)も「神の孤独」と言ってたんだよね〜。
ぼくはね、神からの分離でしか孤独は無いと断言しちゃう(笑)
だって観ちゃったから。
一 を。

でも、麻美ちゃんも「神の裏の顔」って言ってるねー。
でも真は白っても言ってるねー。

こりゃ体験したものしか分からんちんだね。

「それ」の後に感じたって言ってるってことは、自我のことやろか。
けど、麻美ちゃんは「神」っていろんな意味で使うので、これは言葉の限界かも知れんと思うところ。

やっぱ体験しないとわっかんないなぁ。

でもあえて言いましょう。ソレは「安心」でした。
そしてソレから真に離れることは出来ないって。
すべては愛だったって。

2011/7/29(金) 午後 3:45 [ あくえりあん ]

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神が孤独感から自らを分割した(意識上)ていうのはなにか性質上自我からの発想な感じですよねー。

人との比較での話はできないし意味ないけど、何度も何度も体験して(あまりにドップリだったんで日常とのギャップですぐ自我の中にうもれて何のこっちゃわからなかったです笑)
感覚的に最近ぼくも確信してるのは絶対的な安心、みーんなずーっといっしょ感、無条件の愛〜みたいな
とにかく自我が心配するよーなハートがきゅっとなるよーな本質じゃあ、いっさいぜったいないです。それは自我ちゃんの素敵な妄想(笑)ぼくも100パーセント断言します♪
根源的なものは、わたしはだれだろー、なんでここにいるんだろー的なシンプルなとっても純粋な、好奇心的なものな感じじゃないかなぁ?と思います。 削除

2011/7/29(金) 午後 4:23 [ さすがのさすけ ]

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さすがのさすけさん
自我でいろんな味わいと表現がありますのでね。
ぼくもさすがのさすけさんと同じく思っとります。自我でw

でも、ソレのとき、ハッキリした意識でした。
だから、ソレがどっぷりまどろみの概念を具現化したのが、この重ったるく鈍い自我とカラダなんじゃないすか?

神の戯れ とはよくいったものですね。

2011/7/29(金) 午後 4:38 [ あくえりあん ]

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後者のはわかるような気がします。
行為そのものになるってのはまだ経験ないですけど。
ほんっとにただ「観る」だけなんすねぇ・・
時々、これは生きてるってゆうのか?なんて考えが横切ったり
するんですが、これもまた観念かなと思ったり。。。
でも、「自分の人生」に腹を括れるようになってきたのは
スピに出会っての大きな収穫です。 削除

2011/7/29(金) 午後 4:40 [ blue ]

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blueさん
瞑想中は、いろいろな層のいろいろなものが浮上します。
その時は、それらにフォーカスしないのが瞑想です。

例えば、過去生が出てきても、それにもフォーカスしない。
そんなことは後でゆっくり考えればいいことです。自我でw

日常では、例えば不安などが出てきたら、それを感じます。
ただそれと一体にはなりません。
それを観る。
そして流していく。

自我は、生きてる感が欲しいんですよね(笑)
苦しんで苦しんでストーリーに浸かって、ぐるぐるして、一生懸命そこから這い上がるのが大好きです。

2011/7/29(金) 午後 4:46 [ あくえりあん ]

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そーーーーかぁ!確信してるのは安心してる自我ちゃんなんだ!
すごいうれしい!あくえりあんさんありがと〜 削除

2011/7/29(金) 午後 5:06 [ さすがのさすけ ]

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開設日: 2010/3/27(土)

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