◆4月11日午後4時、官邸
4月11日、枝野官房長官は、20キロ圏外で新たに避難を要請する「計画的避難区域」の指定を発表した。あわせて20~30キロ圏内で幼稚園や小中学校を休校としながら緊急時に自力で避難できる人は区域内にとどまれる「緊急時避難準備区域」の指定も明らかにした。指定に伴い、20キロ圏内は立ち入りが禁止される「警戒区域」になる。
飯舘村は全村が「計画的避難区域」の見通しとなった。この日、村役場で開かれた事業者向け説明会。菅野村長は「この(全村避難の)場面がとうとうやってきてしまった。(国に)負けるか分からないが、本気で頑張る」とあいさつした。たとえ全村避難でも村民の生活を崩壊させないよう国に迫る「闘争宣言」だった。
菅野村長は温厚な人柄と評されるが、決断すると徹底して闘う一面もある。隣接する旧原町市(現南相馬市)などとの合併協議が進んでいた04年、「合併して市になれば中心部以外は取り残されてしまう」として突如、離脱を表明。直後の村長選では合併推進派との激戦を制し、効率化と一線を画す行政を進めた。
5日後の4月16日、飯舘村を訪れた福山副長官に、菅野村長は三たび相まみえた。その場で菅首相宛てに提出した「要望書」には8項目の柱を並べた。
焦点は「牛の移動や補償」「工場の操業継続」「帰還のための土壌改良」。翌17日には枝野長官が村役場を訪問する。この間、政府側は村にひそかに約束したと明かす。
「安全に影響のない限り、(村の提案は)すべてのみます」。村が正式に避難区域に指定されたのは、5日後の22日のことだった。
政府との激しいやりとりで、村の要望のいくつかは実現した。それでも菅野村長は何度もやりきれなさを感じた。避難先として「ある県には数百戸の部屋がありますから、どうか」と持ちかけられたことがある。
「部屋が空いていれば、何のこだわりもなく岐阜でも長野でもどこにでも行けというのですか」。村長はさらに続けた。「だから心の通わない政治をしていると言われるんですよ」
村の計画的避難が始まったのは5月15日。村民は5月末時点で1427人にまで減った。
2011年6月10日