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第一部
第5話 新しい伝説の始まり
 第1章

 部屋のなかはツーンとカビくさいにおいがした。
 太陽の光があたっていないだけあって、暗くてみすぼらしい店だ。だけど店内は信じられないことに、かなりの人々でガヤガヤとにぎわっていた。

 店のすみでは黒マントの怪しい男が壁に背をもたれて新聞を読んでいたり、数人の吟遊詩人が武勲詩を声高らかに歌っていたり、荒れくれ男が黒ビールをごくごくと飲んでいたり、ポーカーで賭け事をしていた。そのうち一人は葉巻きをぷかぷかと吹かしていた。小柄なほっそりとした山高帽をかぶった男が親しそうに酒場のママと話をしていた。彼女は金髪の長い髪をうしろに束ねていて、ちょっと素敵な若奥様という感じだ。

 ナオミとエンガチョが店にはいると、店の客たちはこの小さなお客、そのうち数人はジョジョと黒ヤギを珍しそうに見つめた。
「エドガー・ボブスリー、この子が電話で話していた……アリスの娘なの?」
「ああ、エーデル。アリス・ニトの娘ナオミ・ニトだ」

 エンガチョの本名がエドガーということにナオミはきょとんとしていた。最初は誰のことを話しているのかわからなかった。エドガー・ボブスリー、まったく外見とは似てもにつかない立派な名前じゃないか。
「そんなに驚くこともないだろうに、エンガチョっていうあだ名はお前さんの父さんがつけてくれた名前なんだぞ」とエンガチョは誇らしげに唸った。
 男の説明によれば、この人は母アリスのアッパータウンの親友だとか。
 エーデルはナオミのほうをじっーとしばらく見つめていた。彼女の沈黙とともに店内のガヤガヤ声はいつのまにかやんでいた。何ともいいようのない静かさが店内に流れたと思いきや、いきなり店は歓声につつまれた。

「ようこそ、旅立ちの宿エーデルの酒場へ」
 酒場のママはニコッと微笑んだ。
「あなたのご両親もこの酒場から新しい冒険へと旅立ち、アッパータウンで数多くの伝説を作ったの、それはすごい伝説だったわ。その一人娘がこの酒場にやってくるなんてね、これはきっと新しい伝説の始まりよ」
 ナオミは何といっていいのかわからなかった。
 酒場のママは急いでカウンターからでてきて、瞳に涙をぐっとうかべてナオミを力いっぱいに抱きしめた。女性ならではの母の甘い香り、胸のふくらみに少女のこわばった心は安らいでいく。銀のロザリオが顔に頬に当たって、少し痛いけど。

「で、どこのどいつだ。ホワイトのかわりってのは?」
「僕ですよ」
 店のすみのテーブルに座っていた、山高帽の男は少女にそっと一礼した。 
 
(えっと誰だっけ。ああ、ナカタ先生だったっけ?)
 ナオミはうっすら思いだしたようだが、なぜか若い男はクククッと苦笑していた。
「タナカ、ピックル・タナカです」と若い男はいった。
 彼は優秀さが認められ、かの町で代理教師として採用されたそうだ。
「タナカ先生はブルトン人だったの?」
「ええ、君と同じ日系ブルトン人ですがね」
 ピックル・タナカは優しく笑みをこぼしていた。
「そうそうエンガチョから、護衛の話は聞いているかね?」
 ナオミは顔をくもらせ、エンガチョは聞こえなかったふりをしたので、ピックル・タナカは酒場のママにあきれ顔をみせ、首席特別捜査官から託された、ある言葉を伝えた。

 ホワイト次官からの伝言。
――暗殺者(ヒットマン)が君の命を狙っている、気をつけたまえ。

 その筋の話では暗殺者とは、小モンテカルロとの噂だ。
 小モンテカルロ、ジョルジョ・パパティーノ。エンガチョの話によれば、黒伯爵たちの間では、迷いの森の辺境伯の後継者とも謳われる悪党だ。ダ・カーポを黒ヤギにさせたのもロベルト・パパティーノ、パパティーノ家の末席の仕業だとか。
「な、なんで…私が。何も悪いことしていないのに…」
「ヤツの目的は正直分からん。恐けりゃ、アッパータウン行きを辞めちまえばいい」
 いや同じことだ。昨日はカンペールの古森でフェンリルに襲われた。どこにあっても命を狙われるなら、騎士たちがたくさんいる、アッパータウンのほうがかえって安全かもしれない。
「まあ、そうともいえるな。だが用心にこしたことはない」
 エンガチョはそういうと、ナオミに服の上から自分の腹と胸を触らせた。

「エ、エンガチョ! これって…」
 男の身体には抉られてた痕がたくさんあった。
「これが迷いの森の一味のやり方だ、残忍極まりない。いいな、連中には用心しろ」
 もしかして昨日の狼の群れはパパティーノが放ったものか?  
 サンチョ・ボブスリーはそんな自分を助けてくれたのか、いやきっとそうに違いない。今はどこにいるのかわからないが、どうか無事でいてほしい。

 殺し屋からナオミを守るため、迷いの森の特別捜査官たちはタナカをアッパータウンまで同行させることにしたという。
「僕はこれでも魔法剣の使い手なんだぞ」
 てんで弱そうに見えるが、法螺でないことを信じたい。
 皆が自分を見ている。じっと見られることが、こんなに恥ずかしいこととは思いもしなかった。吟遊詩人なんかは驚きのあまり口をぽかーんっとあけている。いい加減、もうしめればいいのに。自分が歌っていた武勲詩の続きを忘れてしまっているかのようだ。
 エンガチョは誇らしげにナオミを見ていた。
「やはりお前さんは英雄の娘だ、皆が誇りに思っている」
 やっと曲を思い出したらしく、吟遊詩人が少女を称える賛美歌を歌いだした。

 頃合をみはからい、エンガチョがカウンター席へと大きな体で人ごみをかきわけていく。ナオミとジョジョは後ろにくっついていきさえすればよかった。
「よっこらっしょっと」
 エンガチョが椅子に座ると、誰かが声をかけてきた。
(…あっ、ほうき人間だ…)とダックスフンド。
 ジョジョの言葉どおり、ほうきのような頭が話しかけてきた。
「聞いたぜ、エド。お前の兄弟(ブラザー)の脱走には共犯者がいたって、もっぱらの噂だぜ」
「いつもの迷いの森のアホどもの戯言(ゴシック)だ」

 エンガチョとほうき頭はバター葉巻きを吸いながら世間話をしていた。景気がどうやこうや、最近はどうやこうや、末っ子のテルがアッパータウン行きが決まったという話だ。テルという言葉で思いだしたらしく、エンガチョはほうき男が旨そうに吸っている、バター葉巻きをみて得意げにいった。
「その息子とやらは今日はみかけないな?」
「せがれは店をみてまわっているよ、なんせもうすぐ騎士候補生だからな」と噂の少年テルが見物から戻ってきた。
(…あっ、今度はほうき人間の子どもだ…)とダックスフンド。
「父ちゃん、アルマーオの親爺さんが、仕入代のツケを払えってさ」

 少年はナオミの雰囲気が少しかわった――正確には大人びいたことに戸惑いつつも、彼女との再会に喜び沸いた。
「じゃあ、僕と同じなんだね。君もアッパータウンにいくんだ!」
 二人の出会いを遮るように電話石が喧しく鳴った。
 エンガチョは勢いをよく電話をとったと思いきや、すぐに声が聞きとれないぐらいに小さくなった。キョロキョロと挙動不審になって、まわりを気にするように電話の主とボソボソと話を終わらせると、フンッと鼻を鳴らした。
「五分後に人と会うことになっちまった、そのまえにお前さんに渡すもんがある」
 男はナオミに何やら分厚い、重い、黄色みがかかった羊皮紙の封筒を渡した。

 少女が震える手で封筒を裏返してみると、剣と盾の紋章が刻まれた、白い蝋によって封印されてあった。封筒のなかにはラテン語? いや正確にはブルトン語で書かれた何かの権利書がはいっていた。
「アッパータウン伯からの贈り物だ。ミスリル金貨三十万分の株券なんだな」
 ナオミはしっくりこない表情で、エンガチョの言葉をそのままくりかえした。
「エンガチョ、ミスリル金貨って?」
「俺たちブルトンの通貨、ミスリルだ。アッパータウンではフランは使えん」

 紀元前一世紀初め、ブルトン人はギリシャ・ローマの金貨を真似て、ミスリル銀から特徴的な合金製ブルトン硬貨を造った。彼らの硬貨の蓄えの多くは、一八三五年六月に発見されたアマンリの財宝、一九四一年二月に発掘されたサン=ジャック・ド・ラ・ランドの財宝として見つかった。
 またブルトン人の統一通貨ミスリルは、フランスの通貨フランと五分五分で交換できるらしい。
 子爵の爵位継承権は公爵預かりとなっているものの、ナオミには両親が残した株主という資産がある。いわゆるアッパータウンの株主だ。この資産は現在、ナオミが成人になるまでトモロヲ・ブドリが預かっていたが、彼女がアッパータウン行きを選んだこともあって、伯爵は彼女にその立場というか、株主としての責任を担わせることにしたそうだ。

「俺たちの国は株式会社だ、というのは先ほど説明したとおり。アッパータウンもブルターニュ地方株式会社のなかにある都市の名前なんだが、これも株式会社になっておる。お前さんの母上はそのアッパータウンの主要株主なんだな」
 ブルトン人は国家や市町村を株式会社化することによって、物事を戦争で解決しなくなった。役人も働くようになったし、特権意識もなくなった。業績をあげるために身分や学歴に関係なく、才能ある人間が登用されるようになった。自分たちの地位や名誉、保身ばかり考える高齢者よりも、若者に力を与えることによって、まず未来が開けた。

 どの時代においても青年は時代と未来を拓く、熱と力である。
 ブルトン人は国をもたず、会社を国とする民。株式国家(カントニー)ゆえに領土の拡大や他民族の支配、どっかの国みたいに世界の覇権を争う野望など彼らにはない。独占されていた役人業務も民間に解放され、二重行政や予算の無駄遣いも減った。
 さらに領地を株式会社化して、互いが株式を持ち合うことによって領地紛争もなくなった。領民が株主であるため、役人たちは必死に働き、領民に利益を還元し、領地とともに領民は豊かになってきたという。これこそ新しい時代における、国家のあるべき本来の姿なのかもしれない。

 エンガチョのちんぷんかんな話にナオミはめまいがしてきた。
「お前さんは奨学生とも聞いておる。まあ、買い物したときはお前さんのサインだけで事足りる。あとからトモロヲ・ブドリのほうに請求書がいくことになっておる。もう一つ、お前さんに渡すもんがあるじゃねえのか。なあ、エーデル?」
 エンガチョの視線にエーデルは、あの預かり物を思い出したかのようだ。
「ああ、ごめんなさいね。そうそうあなたに渡すものがあるの、ちょっと待っててね」
 エーデルがゴソゴソッとしたと思えば、カウンターから取り出したのは白布で包まれた長細いものだ。「開けてごらんなさい」との言葉のまま、白い布からでてきたのは赤い鞘の立派な剣--羊皮紙の添え書きが床にぺラッとおちた。
 ジョジョが咥え、ナオミはそっと拾い読み上げた。
「これはかつてお父上の剣でもあった。生前、わしが彼に贈ったものだ。お父上亡きあとは形見としてわしが預かっておったんじゃが、君がアッパータウン行きを決めたことを祝福して、この剣を君に贈りたい。トモロヲ・ブドリ宮中伯…」

 少女は父ともに生きた長剣をギュッと握りしめた。
 アッパータウンの旅立ち、自分はいろんな人に祝福されているんだと思えば、言い表せない嬉しさがこみ上げてくる。ジョジョは「殺し屋には祝福されていないけどね」とせっかくの気持ちに水をさすけれども。
 旅支度に必要なことはエーデルに聞けばいい。ダ・カーポはアッパータウンの呪い解放の第一人者シャルル・パリオリという錬金術師にみてもらってくれ、それだけいうとエドガー・ボブスリーは忙しさのあまり、小銭入れをカウンターに置き忘れて、どたばたと店をでていった。

 ナオミはエンガチョが置き忘れた小銭入れを手にとるやいなや、悲鳴をあげた。なんと小銭入れと思っていたのは、ガマガエルだった。
「ガマグチガエルっていうんだ、お金を守るのが役目さ」
 手紙を守る騎士切手と同族だと、テルは当たり前のようにいってのけた。エンガチョのガマグチガエルは炎のようなバラ色だ。カエルといわれなければ、四角いエナメル財布に見間違えてもおかしくない。おそらくブルトン人にとって、彼らにとって、ガマグチガエルは常識なんだろう。
 少女はエンガチョに会ったら渡そうと、この一風変わった小銭入れをしまいこんだ。
「ねえ、ナオミ。宿は決めているの?」
 ナオミは首を横にふった。
「じゃあ、今夜の泊まる場所はうちで決まりね! うちは宿屋もかねているのよ」とエーデルの笑顔が夏の太陽のようにまぶしい。今は冬だけど。



 第2章

 酒場の外は人という人でにぎわっていた。 ブルトン語で『小さな海』を意味する、モルビアン湾の付け根に建設された都市ヴァンヌ。一世紀にローマ帝国支配下にあった頃、湾に面した都市ロクマリアケールを滅ぼし、ブルトン人たちはフランス南部に都を築いた。そうこの地はブルトン人の公国発祥の地であり、ブルターニュ公国滅びの地。
 ブルトン人しかはいれない、せまい旧市街。

 潮の香りににわかに漂うヴァンヌの旧市街には、武器屋や防具屋、地図屋や紋章屋、それから錠前屋や宝石店、五百年も続いている魔女の宅急便屋や乾燥薬草の老舗などナオミがみたことも聞いたこともないお店がたくさんあった。また不死鳥の羽根、一角獣の角などを売っている怪しげなお店や木の実の専門店。「只今都合により使用不可」のかけ札がかけてある、なぜかこんなところにもあるダ・カーポの開かずの扉。
「あった、ここだ!」
 テルは「一級星占い師ウォーレン、エルフ館」の看板をあごでさした。
 館内はどことなく薄暗い感じがした。埃くさいといってもよく、神聖な感じがただよってくる。ナオミは妙なことにまるで規律の厳しい図書館にきているような感じがした。それもそのはず、ここはブルトン人の古代図書館なのだから。

「…あの、誰もいないのですか?」
 ナオミの不安そうな声が館内に響いた。

 天井まである大きな本棚、あそこをみても本棚、こちらをみても本棚。まるで本棚の迷路みたいだ、円卓の机には赤や黒の羊皮紙の本がどっさりと積まれている。
 ここは古い物語や知識がたくさん眠っている素敵な部屋、この建物のなかはまるで時計が止まっているかのようだ。少女は瞳を輝かしてまわりをみてまわった。不思議なことに通路にはプラネタリウムみたいに星座が浮かんでいた。ナオミの目の前をさそり座がゆったりと通っていった。
 あそこには獅子座流星群といった流れ星、さらに奥深くにはアンドロメダ星雲もみえる。銀河系のあらゆるもの、青くて美しい地球、そして白くて小さな月。

 とても神秘的な回廊の端っこに司書らしい、耳がとがったお爺さんが白いソファーに腰かけて、本をゆったり読んでいるのを二人はみかけた。本のそばには青い鳥が老人の本をめくる手伝いをしていた。老人は耳が自分たちより長い。
「…ほらっ、エルフだよ…」
 ナオミの心の声をテルが小声で代弁した。
 肘掛け長椅子の近くには大きな鏡があった。自分たちの姿がくっきりとうつっているのがわかる。二人の存在に気づいたお爺さんは老眼鏡をはずして「こんにちわ」とにっこり顔をあげていった。

「これは鏡なのだよ。じゃがただの鏡ではない。この鏡はね、地上世界で最も残酷な生き物を映すことができる『魔法の鏡』。はたしてお嬢さんたちには何が見えたかね?」
「僕は『迷いの森の辺境伯』が見えました!」
 大きな声でテルは自信満々でいった。少年の言葉に老人はニコッと微笑み、「なるほど、ではお嬢さんは?」とナオミにそっと視線をなげかけた。
 
 戸惑いながらも、ナオミは小さな声で呟いた。
「私は自分の姿が見えました」

――そう嘘はいけない。

「なるほど、見えるものはしかたあるまい」老人はさらに頷いた。
「私がいったことは間違ってはいないはずだよ。でも自分の姿を見たと正直にいったのは君だけだよ、大抵ヒトは嘘をつく」
 一級星占い師ウォーレンは少女の瞳をじっと見つめた。
「あの男のおかげで君の運命はかわったようじゃな、めでたい」
 小説に登場するエルフと同じく、予言と魔法の種族だけあって、意味深な呟きだ。
「君たち従騎士(スクワイヤー)の借り教科書はまがって右の棚のところ。返却日は一年半後。素晴らしい本に出会えることを願っておる。ゲーテのファウストは必須書籍じゃよ」
 ナオミはエーデルから手渡された羊皮紙、買い物目録に目をやりながら、教科書を選びにいく。それにしても何もか見透れているような老人の緑色の瞳、この老人には嘘がつけない瞬時に少女は思った。テルは平気で嘘をついたが。
(きっと根性がまがっているんだよ)とダックスフンドはぼやく。

 本だらけの館内は天井までぎっしりと本の山だ。
 図書館のなかに本があるのか、本のなかに図書館があるのかわからないぐらい本だらけ。皮製本の古文書から新聞紙のような薄い雑誌本などいろいろある。確かなことは一生かかっても読みきれそうにない、大量の本がここにはあるということだ。
 図書館のなかはたくさんの人で、静かながらにぎわっている。
「君たちは始まりの従騎士かい?」
 テルの横で本を選んでいる男の子は、ナオミに話しかけてきた。男の子は無理やりナオミのなかに割り込もうとしたので、テルは彼の足をどさくさにまぎれて踏みつけた。
「イタッ!」男の子がうめいた。
「石ころかと思った、ごめんよ」
 テルは心がこもっていない声で謝った。
「僕はアッパータウン在籍一年の従騎士さ」
 いやはや男の子はなんとも人を見下したような話し方をする。
 男の子の隣にいる女の子に目をやれば、彼女は男の子によく似ていて、とても意地悪そうでそばかすだらけの女の子だ。男の子の隣にいることから、少年のガールフレンドか何かだろうか――。

 男の子はナオミの視線に気づいたようだ。
「僕はマルコ・パパティーノ、この子は妹のリサだ」
 パパティーノ、ナオミはこの名前にちょこっと用心した。
 この一族は迷いの森の辺境伯と関係があるとかないとか、エンガチョにいわれたからだ。冗談半分にテルが「へえ、スパゲティみたいな変てこな名前だな」といったのがよほど気にくわなかったらしい。このいかすかない少年マルコ・パパティーノは眉毛をピクリッと動かした。
「世間知らずの田舎ブルトン、君の名は?」
「僕はテル・ウォ・アボカドだ」とテルは冷たくあしらった。
「ウォ・アスパラガス……」
「お兄様、ウォ・アスパラですわ」
 リサは誰もが知っている常識という感じでいった。
「ウォ・アボカドだ!」テルは拳をギュッとかためていった。
「これは失礼、ウォ・アボカド家。君がパパと一緒にタッグを組んで、いつも冒険のたびにパパの足を引っぱってたというエロール・ウォ・アボカドの息子か」

 マルコは劣等生を相手にするかにのような反応だ。
 それよりも悪い。ゴミが犬の糞にみえるかのような目つきだ。むしろ犬の糞だ、泥と思って踏んでしまった犬の糞を、地面になすりつけるような卑下したような目だった。
「君たち絶対に驚くぜ」
 アッパータウンには百階建ての家がわんさかあって、それにものすごい広いから誰かが特別いそぐ場合は、郵便局にいってすぐに箱につめてもらう。それを大砲に入れてぶっぱなすと、その人が行きたいと思うところにいけるらしい。質屋では脳みそを質にいれておけばね、学歴にもよるけどミスリル金貨百枚は貸してくれる。最近のブルトン人は二十四時間だけ、脳みそとプリンを入れかえるだけで生きられるから――とマルコは、こんなごたくを並べる。

「そんなたわけた話をする、君の脳みそはプリンなんだな」とテル。
「君の名は?」
 マルコは犬の糞を無視して、ナオミに握手を求めてきた。
 少年の人を軽蔑する視線にナオミは頑張って無視した。ジョジョも同じように頑張って無視した。噂というのは口と尊と書いて噂と書くのだが、今では相反して大半は悪意や恐ろしさ、嫉妬による尾ひれがついている。噂が評判どおりの〝ウワサ〟である確率は歩いている人がバナナですべって転んで死ぬ確率とどっこいどっこいだ。

「この子はナオミ・ニトだ、彼女に何かようかい?」
 自己紹介をかってでたのはピックル・タナカ、ナオミの護衛だ。
「へえ、こりゃ、たまげた」
 マルコは興味深く、じっとナオミを見つめた。
 少年が何かいおうとしたとき、遠くでマルコ! リサ! と叫ぶ声が聞こえてきた。
「あっ! 父さんと執事のカトニグレが僕らを呼んでいる、もういかなくちゃ! 僕たちは忙しいんだ、アホどもの相手はしていられない。だって今日はカンペールの友人と落ち合うことになっているからね」
 パパティーノ兄妹は呼び声のところへ駆けていった。



 第3章

「ものすごく嫌なヤツだったな」
 テルが少年に聞こえるようにいった。すぐさま分厚い本がテルの頭を直撃した。犯人はマルコ・パパティーノだ、彼は遠くからあっかんべえをしている。なんと本当にいやな少年のことか。
 二人と一匹のあとをついてまわる、ピックル・タナカにナオミは先ほどの件を尋ねた。
「従騎士というのは騎士候補生って意味だよ。始まりの従騎士というのは新人(ルーキー)という意味だ。よく上級生がつかう言葉さ」
「ふーん。やっぱり嫌なヤツ!」
 テルの言葉に一人と一匹はそろって頷いた。
 また騎士になるには親方騎士の従騎士になって、社交界の礼儀とやらを数年間みっちりと学ぶとか。
「…親、親方騎士(マスター・ナイツ)って?」とナオミ。
「君たちの後見人だ、親方とともにいろんな冒険をするのさ。騎士になるまではその親方の家に寝泊まりして、騎士の儀礼を学ぶことがブルトンの習慣だ」

 タナカの説明によると、まず騎士として認められるには従騎士、すなわち騎士候補生として、他の騎士や諸侯のもとに仕えなければならないらしい。これは古ゲルマン人の習慣とやらで従士制度といわれるものだとか。この制度は自由民の子どもたちが名士のもとで、衣食や武器、仕事を与えられて教養と保護を受けながら、一人前の騎士に育てあげてもらうというもの。

 親方は後継人として騎士候補生の行動に責任をもち、騎士としての儀礼などを伝授する義務がある。騎士として認められるには領主の推薦を必要とする。それを成しえたとき初めて、二年に一度に行われる叙勲式にて、ブルターニュ歴代公爵アーサー・ブルトン自らが叙勲者の肩を聖剣で軽く叩くことによって、騎士に叙勲されるそうだ。
「でもその聖剣だが、複製(レプリカ)という話もあります。迷いの森の辺境伯の戦いのおりに行方不明になったって専らの噂。まあ、本当に偽物だったらどえらい話ですが。聖剣は即位に必要な証、王冠よりも大切なものですからね」
「だけどそれが偽物だったらおもしろいよな」とテル。
「そういう者にかぎって、なぜか無惨な死にかたをしています」 
 タナカの真面目な言葉にテルはピクッと顔をひきつらせた。無惨な死にかた、暗殺や任務中による不自然な事故死だ。聖剣を偽物と疑う輩にはこういう罰があたる。

「私たち優しい親方に出会えたらいいのにね、テル」とナオミ。
「残念なことに君たちは、どの親方の従士になるかは選ぶことはできません。親方も君たちを選べなくてね。すべては先輩から後輩へと『引き継ぎ』儀式で、住みこむ地区も親方も決められてしまう。そうそう地区というのは縄張り、元領地のことです」
 ところであの少年は最後に気になることをいった。
 カンペールの友人、自分たち以外にアッパータウンにいく予定の子どもたちなどいただろうか。まったく見覚えがない。今はそんなことより旅支度を楽しむべきだろう。ナオミははぐれないようにテルの服をギュッと握りしめながら、図書館の外にでた。

 次に二人がむかったのは『ヨハネス・ハウルの薬局』だ。
 思わずラクダの唾液と二週間ぐらい洗濯していない、靴下のようなにおいに二人は鼻をおさえた。鼻呼吸から口呼吸へと呼吸方法をかえても、それでもまったく苦にならないほど面白いものが陳列してあった。
(…ねえ、僕、なんだか腐りそうだよ…)
(シッ、聞こえるじゃないの、ジョジョ)
(…あと五分もいたら、たぶん耳から腐りだすよ、きっと…)

 木の棚に置いてある小瓶には紫色の液体に漬けこんであるトカゲやイモリ、なかには人間の手みたいなものさえある。
 天井には毒消し草や乾燥薬草、干し肉や人の耳のような乾物などが糸に通してぶらさがっていた。壁からは松の木が生えていたり、見たことのない動物の剥製がたくさんあった。そのほかに人のかたちをした植物マンドレイク、しかもその近くにはからからに干物(ミイラ)化したドーベルマンがあった。
「うわあ。あれ、犬だよ」とジョジョ。
「きっと餌をもらえなかったのよ」とナオミ。
「しかも干乾びちゃっているじゃないか」

 すると薬剤師のヨハネス・ハウルがチッ、チッ、チッと人差し指をたてて怪しそうにやってきた。
「いいえ、お客様。これはナス科の多年草マンドレイク、どうやってできるのかといいますとモン・サン・ミッシェルの死刑囚の血や体液から生まれるのです。こいつから抽出されるアルカロイドは即効性の痺れ薬でして暗殺専用です、フフフ。
 うまく使えば貴重な薬となりまして、根を乾燥させてブドウ酒で煮詰めたり、根の外皮を潰して汁をとり、はちみつ水に混ぜれば睡眠薬、麻酔や麻薬になります。そのほかに目薬や鎮痛薬などその効果は幅広い。鎮痛薬の使用量の三倍の量にて、切開のときの全身麻酔にも使えます。また黒魔術の材料としても使われたりと万能薬なんです」
 ハウルの説明によれば、万能薬ゆえマンドレイクの採取には危険が伴うとか。この植物の表面には猛毒があり、触れればたちどころに死んでしまう。さらに引きぬくときは恐ろしい悲鳴をあげるらしい。そしてこれを聞いた者は死んでしまうか、あるいは発狂してしまうとか。

「そのため魔術師(ヴィザード)のあいだでは自分は耳栓をつけて、犬にこの植物を抜かせるという方法が取られたのです。もちろん犬は知らずに引き抜いたあと、死んでしまいます。ですから死んだ犬がついたマンドレイク、これは本物を意味するのです、フフフ」
 有名な話ではギリシャ神話の怪物スキュラは、魔女キケロがマンドレイクを材料に作った魔法の液体によって、美しいから醜い怪物になった。それゆえ魔女薬草(キルカエア)と呼ばれ、マンドレイクを持っていることは魔女の証拠として、所持者は処刑された。かの聖処女ジャンヌ・ダルクもマンドレイクを使用して、人民を惑わしたというのが直接の処刑理由になっているとか。

「死んじゃうって、何秒で死んじゃうの?」とテル。
「…フフフ、およそ三秒です。どうでしょう、お客様。私にその犬を火トカゲと交換してくれませんかね? もうあれ一つだけになっちゃって、困っているところなんですよ」
 ハウルはニヤリッ、と無気味な目つきでジョジョを見つめた。
「ごめんなさい。私、イモリ大っ嫌いなの」
「フフフ。トカゲですよ、しかも珍しい襟巻き」
「なんなら黒ヤギでもいいですが…」
 ピックル・タナカは冗談も休みやすみいえ、とぼやく。
 ジョジョは「僕、アイツ嫌いだな」と呟き、ナオミもヨハネス・ハウルという人はあまり好きになれない、たぶん友だちにはなれないだろうと思った。ナオミたちはミスリル銀貨一枚分の乾燥薬草を買うと、早々とこの店から立ち去った。

 ポリー・スミスのお洒落な防具屋では色白の肌、鼻がすらっと高く、髪を女の子のように伸ばした、黒毛の男の子が大きな鏡のまえに立っていた。黒い毛虫が少年の腕や腰のまわりを動きまわっている。

 その子はナオミと比べると、首もとには彫刻が美しい純銀の指輪のような首飾(ペンダント)りをしており、どことなく上品な感じがして大人びていた。この少年は確か『路地裏』のカウンター席に座っていた男の子だ。
 一瞬、少年と目があえばドキッ! と胸をときめかせたことは否定できない。
 いやはやテルと比べれば天地雲泥の差、少年と青年の差、いやむしろハムとウィンナーの差だといえる。
 ジョジョは「テルをハムに例えるなんてハムに失礼だろ」とぼやくけれど、透きとおる男らしい声が、さらに男前を際立たせていよう。どうしてだろう? なぜか胸が痛い。自分はこの少年に惚れたのかな。

 恋の女神に心を鷲づかみにされているかのようだ――きっとこれが一目惚れというものなんだ。

「制帽とブーツ、肩掛けベルトはあそこにあるから好きなデザインのものを選んでちょうだいね。シャツブラウス、ネクタイ、ハイソックスはあそこね。さてとまずは丈を測らせてもらうわ、驚かないでちょうだいね」
 レディ・ポリー・スミスはナオミとテルにそろって大きな鏡のまえに立たせると、内ポケットから黒い毛虫を取りだした。黒い毛虫はウニョウニョと身体をまげながら胸やら腰やら、三人の身体を動きまわっている。

 ナオミはもうすぐで悲鳴をあげそうになった。
「もしかして君も騎士候補生かい?」と突然、例の少年がナオミに声をかけてきた。
「う、うん。でも今年から入団するの」
 ナオミは少しづつ声を小さくしていった。
「じゃあ、君とは同期の仲ってことだな。よろしく」
 男の子の顔が幾分か和らぎ、初めて同士は自分たちの名前をお互いに交わしあった。この子とはパパティーノ兄妹とは違って、仲良くなれそうだ。

「俺はロミオ・ロートレック。皆からは『ロロ』と呼ばれている」
「僕はテル・ウォ・アボカド。ナオミの友だちだ」とテルが二人の会話に割り込んできた。
「そうか。じゃあ、三人そろって握手をしよう」
 テルもこの感じのいい少年が気に入ったらしかった。しばらくいろんな話をしていくうちに三人はすぐさま親友のように仲良くなった。子どもは誰とでも仲良くなる才能を秘めている。これが子どもというもので、おそらくこれこそ子どもの特権というものだろう。そもそも友情に人種や言語の垣根は存在しないのである。

「ねえ、ロロはどうしてアッパータウンにいくの? 私は自分探しの旅にいくの」
「俺は…」ロロは口ごもってその先をいおうとしない。
 人は誰しも心の闇というものを胸に抱いているものだ。
「ご、ごめん。いいたくないことだった?」
「人探しをしているんだ」
「人探し?」
「ああ、俺って孤児なんだ」
 男の子はこの町のロートレック孤児院出身だという。
 二週間前ぐらいに自分宛に手紙が届いた。その手紙には自分がブルトン人であり、アッパータウン行きの手続きはすでに済ませたというものだった。ロロは羊皮紙の手紙を大切そうに内ポケットから取りだし、ナオミに恥ずかしそうに、また嬉しそうにみせた。

 さて看板には『ポリー・スミスのお洒落な防具屋』とあるが、実際のところ彼女の店は防具屋というより、ちょっとした高級ブティックといったほうが素敵かもしれない。ヨーロッパのファッションリーダーの一人、ナポレオン三世の影響はもちろんのこと、騎士といえども、昔のように全身に鎧をまとうわけではなく、現在のフランス共和国親衛隊、国家憲兵隊のような軍服が主流だ。
「さあ、終わりましたよ。お疲れさまでした」

 テルの丈を測っていた毛虫がぶるぶるとふるえ、銀色の糸をお尻からぷるぷるだして小さなまゆになった。ポリー・スミスはまゆを手に取り、ナオミたちも終わったとあって三人の名前を改めて聞くと、各々のまゆに名前を書き記していていた。何とも不思議な光景なのだが、ナオミはもう慣れっこだ。
「あと一時間もするとまゆから『服の職人虫』がでてくるのよ」
「『服の職人虫』?」
 ナオミとテル、ロロは声をそろえていった。
「人のかたちをした、とってもかわいらしい虫の妖精でね、お嬢ちゃんたちにそれは素晴らしい白いマントを作ってくれるのよ。白いマントをつくったあとは毛虫にもどっちゃうけど」とおばさんはいった。ともあれ出来上がったマントは後日もらいにいくことにして、三人は金のバックルつきの黒靴を買った。

 お店をでたナオミたちは、もときた道へと歩きはじめた。
 帰り道は全員なぜか無言だった。新しき友人ロロことロミオ・ロートレックは今夜、泊まる場所は『路地裏』に予約してあるとのことだ。ロロとジョジョは買い物疲れのために黙っていたが、ナオミとテルは旅立ちへの期待と不安が胸を苦しめていた。タナカはそんな彼らを後ろから、黒ヤギとともに静かに見守っていた。
 すでに路地裏は人気がなくて静まり返っている。
 そんななかエーデルは眠たいところを我慢して、自分たちの帰りをわざわざ待っていてくれた。冷めているとはいえ、食事も用意してくれていたことにナオミはつい目頭が熱くなってしまった。

「あら、あなたは…えっと」
「ロミオ・ロートレックです、宿泊の予約をしていた者です」
「そうだったわね。あなたたち、さっそくお友だちになったのね」
 エーデルはロミオ・ロートレックを歓迎した。
「四人とも、お疲れ様でしたわね。さあ、食事の準備ができていますよ」
 食事を食べ終わった四人は、彼女のあとについて奥部屋から二階への階段をあがっていった。彼女のランプを先頭にせまい通路をナオミたちは一列に進み、やがて小部屋にたどりついた。
 エーデルが部屋にはいるやいなや、暖炉の火がボッと勢いよく燃えあがった。
「ここはテルとロロ、タナカさんが泊まる部屋ね。ナオミ、あなたは隣の部屋よ」

第6話に続く。









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