第1章
「ナオミ、かけたまえ」
ホワイト氏が暖炉のそばの椅子を示した。
ここはジジ亭で年に数回使うか使わないかの最高級の部屋だ。暖炉に火がはぜ、部屋は騎士物語のタペストリーや飾り盾に剣などがおかれ、豪華という言葉が似合う。ホワイト氏は落ちつきはらって、ナオミの向かいに腰をおろした。
「私は迷いの森の首席特別捜査官ムッシュ・ホワイト」
ナオミはコクッと頷いた。
変わった名前だが先ほどの一連の動きからしてみれば、刑事というか捜査官であることは確かなようだ。数人の部下を従えていることから、責任ある立場に違いない。
軍警察は捜査部門、警察部門、軍部門の大きく三つに分かれる。
捜査部門は諜報活動や犯罪捜査が担当であり、迷いの森の特別捜査官はこの捜査部門の人々のことを指す。ホワイトは特別捜査官三百名を率いる捜査部門の最高責任者「首席特別捜査官」であり、正式には次官という階級に属する。これは警察部門、軍部門も同じである。これら三人の次官を統括するのが軍警察の長官であり、最高司令官ブルトン歴代公爵だ。
――ところでナオミ、君は…。
ホワイトの声が少しずつ遠のいていく。
ん、ここはどこだろう? ナオミは自分が図書館らしき場所に一人立っていたことに気づいた。身体はジジ亭、しかし精神は違うところにあった。
ここは瞳に封じこめられた少女の過去。九年の時をへて、記憶は目を醒ます。
「…これがその、ナオミの記憶の写しですか…」
「…うむ…」
「結局、事件の真相は……」
老人は記憶の本と呼ばれる、分厚い本をパタッと静かに閉じた。図書館らしき館の一郭には老人と家宰らしき女性が立っていた。何かを見ていたようだが、ナオミは何もわからない。記憶の写しとかいっているけど。
本のなかに記憶を閉じこめる、そんなこと今まで聞いたことがない。でも事実だっていうことはわかる。きっとこれもブルトン人の魔法文化なんだ。
「目撃者がいたそうです」
殺しの目撃者はロエスレル・ドラゴンヌ。
「知っておる」
キラッと光っている白色のあご髭の老人がいった。
この老人の名はトモロヲ・ブドリ宮中伯。ブルターニュ地方株式会社の株式市町村のひとつ、アッパータウンを任せられている老齢の領主。あご鬚がモップのように地面に垂れている。
「…コ・クーボは今だ逃亡中だとか…」
家宰のクーデンホーフ。
コクーン・コ・クーボは名高い子爵の次男。家督と爵位をめぐり、兄ピエモンテ・コ・クーボ夫妻を殺したとかで一ヶ月前から指名手配になっていた。ニト夫妻とは無二の親友だった。
トモロヲ・ブドリは神妙な顔つきでいった。
「この件にコ・クーボは関係あるまい。本質からそれてはいかん」
トモロヲ・ブドリのいうとおりだ。
この事件の本質はサンチョ・ボブスリーが本当にニト夫妻を手にかけたかどうかだ。その場にいたから犯人になるのであれば、この国に裁判というものはいらない。
ナオキ・ニトは首席特別捜査官という立場にあった。ホワイトは彼の後釜だ。
今回の事件はそれに関係するものに違いない。夫妻を殺されなければならないほどの重大な秘密。ボスを殺された特別捜査官たちは血眼になって、捜査に当たった。彼らが行き着いた先、それがあのサンチョ・ボブスリーだった。偶然、その場にいた夫妻の友人、ロエスレル・ドラゴンヌの証言により、夫妻を手にかけたのは間違いない。
サンチョ・ボブスリーはニト夫妻を殺したのは「サンチョ・ボブスリー」だ、すなわち自分だといい、ヤツは迷いの森の辺境伯の手下だった、と他人事のように自分の犯行を自供した。
捜査部門のなかでは狂ってしまったという噂もあるが、そもそも友人を殺すような人間は、最初から狂っているのかもしれない。かくしてこの事件は男の自白によって、学友の告発と証言、一人の学友が行方不明のまま幕を閉じた。
深い悲しみにさいなまれるなか、部屋のはじっこの黄金の巣でうたた寝をしていた、色とりどりの数匹の九官鳥たちがペラペラと何かを喋りだした。赤色や青色、黄色など色とりどりの数匹の九官鳥たちが「ルンルン、ルンルン。ルンルン」といきなり電話のベルの音の真似をはじめたのだ。いやはやそのうち赤色の九官鳥が「電話、電話。ジリリン、ジリリーン」と喚きたてていた。
トモロヲ・ブドリが赤い九官鳥に近づいて、ぺこっと嘴をあけた。
「ムッシュ・ホワイト次官補どのが到着しました」ユトレヒト執事の急ぎの声。
「クーデンホーフ、聞いてのとおりじゃ。わしらは真実を受けとめねばならん。不幸は突然やってくるもの、だがそれを受け止める度胸があればたいしたことではない」
事件の「真相を知る男」は、執事のユトレヒトに連れられて領主の間にやってきた。男は毛布にくるまれた、小さな何かを大事そうに抱きかかえていた。
「ムッシュ・ホワイト、ご苦労じゃったね」
「ナオミの記憶の入れ替えは成功しましたが、副作用として視力がだいぶんおちました。いずれ封印補強の眼鏡が必要になるでしょう」と男の憔悴しきった声。
「案じておこう、顔は変わったかね?」
――顔が変わる? 自分は幼いときに顔面神経麻痺にでもあったのか?
「顔は多少、瞳は緑から黒になりました、呪いを開放をすればもとに戻りますが――」
「…いや、けっこう」
二人は毛布のなかのナオミをみた。少女は傷ついているものの、すやすやと気持ちよさそうに眠りこんでいた。そばには黒犬の赤ちゃんが弱々しい声で鳴いていた。
「本当の記憶を取り戻すことは?」とトモロヲ・ブドリ。
「ニト家伝統のフェンリルフンドが記憶の守り人です」
フェンリルフンド、フェンリルとダックスフンドの混血。
フェンリルの従兄弟みたいなものだ。別名をホワイトダックスフンド。ジョジョが黒くてチビなのは、ダックスフンドの血、長生きなのはきっとフェンリルの血が色濃くでているせいなんだ。なんか胸のつっかえがとれた気がする。
記憶のなかのホワイトはこの犬が主人に忠誠を尽くすかぎり、強力な呪いで瞳のなかに隠したナオミの記憶がよみがえることは、彼女が自分の運命を知ろうとしないかぎり、ありえないと保証した。ブドリは満足そうに瞳を閉じた。
「今回の事件は気心知れた者たちの不幸でした」
次官補の苦渋にみちた表情に老人は頷いてみせた。
「ところでサー、本当にニト夫妻は……」
「ニト夫妻は死んだのじゃ」
クーデンホーフの疑惑にトモロヲ・ブドリはきっぱり答える。
この言葉に家宰の顔が引きつった。受け入れがたい現実だが、受け入れざるえない現実なのだと老人の口調は優しいながらも、目はいつもより鋭い。
「あの子はヴァンヌのロートレック孤児院にでも?」
家宰はしゃくりあげながら、チーンと二度も鼻をかんだ。
「心配無用じゃ、クーデンホーフ。縁戚のサー・ヤドリギが彼女を是非とも引きとると申しでておってな、この子はそこに預けようと思っておる」
彼女の目の痛み、運命を開くとともに記憶の封印が紐解かれつつあった。
自分の記憶が瞳に封印されていたことは驚きだったが、ようやく本当の自分を取り戻せた気がする。瞳とともにすっきりした気分がどこか心地よい。それは頬にとめどなく流れる涙のせいだけじゃない。
ナオミの瞳の色が群青色へと変わっていく。
「…ナオミ・ニト、君の未来と運命を祝福する…」
少女は涙を拭いて、首席特別捜査官の言葉に頷いた。
亭主のヤドリギ氏は、紅茶とクランペット菓子をホワイト氏とナオミの間にあるテーブルの盆に置くと、ドアをゆっくりと閉めて部屋を出ていった。
「で、ヤツからどこまで聞いたかね?」
ムッシュ・ホワイトは紅茶を注ぎながらいった。
「あー、アッパータウンについてだが。まあ、そのう、なんだ。もう知っていると思うがこの国には二つの政府がある。ひとつはフランス人の政府、もうひとつは我々ブルトン人の政府だ」
国際社会では領土なき国家ゆえに非公式の政府だ。
剣と魔法の社会を産業革命の油の時代のなかで守っている騎士の政府。その存在はマルタ騎士団とさほどかわらない、ときに株式政府と呼ばれることもある。
「ブルトン人はブルトン政府の方針に従わねばならない。十三歳になればフランス人とは違う教育を受けねばならんのだよ。ブルトン人である君も例外はない。まあ、昨今では教育の自由ということで選べるようになったんだがね」
ホワイト氏は紅茶を一口飲むと、クランペットをナオミのほうに押してよこした。
「君には運命を選択する権利がある」
今の生活を続けていても自由はない。未来は拓けない。
「また君には爵位継承権が認められている」
「爵位って?」少女は瞳を大きく見開いていった。
そういえば、サンチョ・ボブスリーも同じことをいっていた。
部屋は静まり返った。暖炉の火が音のみ、虚しく聞こえてくる。
「なぜヤドリギ夫妻が君を憎むのかわかるかね?」
ナオミはそれがわかっていたら、苦労はしないと顔つきだ。
「君がナオキ・ニト夫妻の娘だからだよ」
ホワイトの言葉にわが耳を疑った。
今から十三年前まで、ヤドリギ家はアッパータウンの、とある子爵の家柄だった。
一方、ニト家は子爵家に仕える執事の家柄だったそうだ。先代子爵死後、誰もがヤドリギ夫妻がその爵位と領地を相続する者と思っていたが、先代の遺言状を読み上げれば驚愕すべきことが書かれていた。
「君のお父さんは、先代ヤドリギ卿と執事ニト女史との間にできた子だった」
先代はヤドリギ夫妻よりも、ニト夫妻を溺愛していた。
家督は当然、ニト夫妻に相続させると書かれていた。ヤドリギ夫妻に与えらえたのはカンペールの別荘『ジジ邸』、ヤドリギ氏はそれを旅籠「ジジ亭」に改装し、何とか生活の糧としてきた。
そうか、だから下僕のように自分に接してきたのか。
子爵、伯爵の子飼いという意味。元々は副伯と称される伯爵の補佐役である。
アッパータウンには伯爵を長として、補佐役の子爵が六人いる。また子爵一人に対して男爵一人が補佐役につく。ナオミはその六人の子爵のうちの一人といってもよい。彼女は幼くして子爵の身分にあるものの、正式にはまだ子爵ではない。現在、ナオミの子爵の位は彼女が騎士になるまで、公爵預かりとなっている。
「あ、あの…子爵になればどうなるの?」
「君が望むがままの自由な生活を謳歌できる、それが貴族になるということだ」
食うことにも困らず、着る物にも困らず、金にも困らず、自由な生活。ナオミが望んでいた生活が男の言葉にはあった。本当にこんな下女のような生活が大きく変わるなら、この誘いをのってみる価値はある。
「捜査部門の内部情報だが、ヤドリギ夫妻は復爵を願いでている。その条件として、公爵陛下は『あるモノ』を見つけてくるように命じているそうだ」
ホワイトもそのあるモノの正体は知らないという。
それだけ聞けば十分だ。要するにヤドリギが『あるモノ』を見つけ、子爵の位に返り咲くのが早いか、自分が騎士となって父の爵位を受け継ぐのが早いか――の問題だ。ナオミは昔の怨恨には一切興味はない。
今、彼女の興味があることはただ一つ。
「私、アッパータウンに行きます。自分の運命を拓くために」
その言葉と瞳には並々ならぬ決意が感じられた。彼女は自ら運命の針を動かした。
「君の選択を誇りに思う」とホワイトは彼女に右手をさしだすと、ナオミは彼の太い右手を力いっぱいに握った。
第2章
パチッと暖炉のなかの炎が静かにはぜた。男は落ち着いた口調がナオミの耳に心地よく響く。
「旅立ちの費用はアッパータウン伯が肩代わりするから、安心したまえ」
どうして? とホワイトに質問すれば、ナオミは爵位継承権が認められているものの、資産等は皆無にふさわしい。つまり貧乏ということだ。そういう騎士候補生のためにあるのが奨学金制度だ。もちろん返済の義務はない。
「見習い期間中は週に一回、青い鳥が君に金貨を一枚運んでくる」
話に割りこむように突然、特別捜査官のフロックコートから聞こえた。
「ムッシュ。先ほど電話を頂いたんですが。あれ、いないんですかい? ちえっ」
誰かの舌打ちする声が聞こえて、声はツゥー、ツゥーと途切れた。
(コートが喋った!)とナオミはびっくりした。
ホワイトは慌ててフロックコートの内ポケットから大きな石を取りだした。それは紅玉と呼ばれるコランダムの変種で、声を電波させることができる電話石と呼ばれるものだ。
ホワイトが「五十五番、エンガチョ」と長方形の宝石に問いかけると、ピ、ポ、パ、ピ、ポ、と音を鳴らしはじめた。すると電話がかかったらしく、石はひそかにビリビリと放電する。
「ああ、ホワイト次官閣下ですかい? それであの子は?」
「エンガチョ、彼女はブルトンの道を選んだ。問題は集合場所まで誰が連れていくかなんだが、私はヤツを孤島の牢獄まで送り届ける責任がある」
「だったら明日にでもお伺いさせていただきますぜ、ムッシュ」
ガチャッ! という音とともに共鳴はやんだ。声の主はダ・カーポの助手だ。
ムッシュ・ホワイトは、その変わった電話をよれよれのフロックコートにいれた。まるで現代人が携帯電話をしまいこむかのように。ナオミはその素晴らしい宝石に瞳を輝かした。
「そういうわけだ、ご亭主」
ホワイトはドアに厳しい目をやった。
ヤドリギ氏は顔を赤らめて、恥ずかしさを隠すように「どういうわけで?」としらを切りとおして姿を現した。自分は盗み聞きではなく、偶然とおりかかったかのように装う、その姿にはどうしても無理があった。そもそも悪党に誇りなどない。
「この子をアッパータウンへと連れていくことになった」
「承服しかねる!」
「それとも君らには、ナオミ・ニトを連れていかれては困る理由があるのかね?」
「きさまには関係ないことだ!」ヤドリギは声を荒げ、ジジ亭の亭主は怒り狂った。
なんて分かりやすい男なんだろう。
「わしはこいつの九年間の保護者だ、他人ごときに身内のことをどうこういわれる筋合いはなかろう。こいつを渡すのなら、こいつの両親の署名がはいった書類をもってきた者のみだ。あんたに子どもを渡してほしいといった内容をしたためた書類だ」
ナオミは呻いた、そんな書類などどこに存在しようか。
ホワイトは何も答えず、フロックコートをゴソゴソさぐった。そしてボロボロになった羊皮紙の巻き紙をとりだすと、ジジ亭の亭主に突きつけた。
「もっともだ。さあ、これを読みたまえ」
ヤドリギ氏は羊皮紙を受けとり、その内容を読んだ。
『誓 約 書』
我ら夫婦、ブルトンの騎士道に誓う。我らの身に何かあれば、この書類をもつ者にわが子の親権のすべてを委ね、娘ナオミの後見人であることを。我ら夫婦はここに誓う。
誓約者 ナオキ・ニト アリス・ニト
立会人 ヤドリ・ヤドリギ
「この署名に見覚えはあるだろう?」男は静かにいった。
これは十数年前、自分が子爵子息の身分にあった頃、ニトの子どもが生まれたおり、夫妻とともに立ち会った後見人に関する誓約書だ。ヤドリギは口惜しくもそれを認めざるえなかった。
誓約の魔法で嘘をつけば呪い殺されるからだ。さすがの大嘘つきのヤドリギもこの誓約には逆らえないとみえる。この誓約書は一時間前の取り調べまでは、サンチョ・ボブスリーの手のなかにあったものだが、彼は牢獄に送り返される運命であり、今は自分が誓約書にある後見人にあたるとつけくわえた。
「いまいましい、くそったれめ!」
完全に打ちのめされていたヤドリギは、ナオミの姿をみるやいなや「おい、何時だと思っているんだ。さっさと寝床にいけ!」と八つ当たりしたが、ナオミは生まれてはじめて「まだ聞きたいことがあるの!」とヤドリギの言葉に逆らった。
――運命の針は動き出したら、もう止まらない。
これだけはどうしても聞いておく必要があった、そう先ほど逮捕されたサンチョ・ボブスリーのことだ。少女の小さな抵抗にかつての保護者は目を点にしていた。よもや二人の視線は、革張りの真っ黒なトランクケースにうつっていた。
記憶を司る脳の一部に海馬というものがある。
ナオミの場合、瞳にも海馬がある。目の前にいる男によって封じこめられた記憶だ。少女は九年前の記憶がすべてではないものの、記憶再現されていた。
「…あ、あの、ホワイトさんはどう思っていますか?」
本当にサンチョ・ボブスリーが自分の両親を殺したのかの問いかけに、ホワイトの紅茶を口に運ぶ手がにわかに震えた。迷いの森の首席特別捜査官が一瞬、ほんの一瞬だけピクッ、と眉を動かしたのを少女は見逃さなかった。
「君に私の個人的見解を知る権利はない」
もしかして犯人は別にいるのかもしれない。
四歳のとき、自分はヤドリギ夫妻に預けられた。四歳までの記憶はまったく思い出せないものの、確かなことは四歳のときまで私には両親がいた、という事実。
おぼろげに憶えている両親の声と顔――記憶が醒め始めるとともにナオミの顔はしっかりとした顔つき、髪の毛は黒色から栗色に変わりつつあった。
遠い昔になくしていた大事なもの、人には必ず一個はある。
大抵は記憶ともに忘れてしまう大事な何か。人は記憶とともに歩んできたからこそ、勘違いしてその記憶が大事だと思うけれど、本質はそうではない。大事なのは記憶のなかにある人たちとのつながりだ。まったく記憶というのは、そのうえで厄介な代物だ。
「眼鏡を調整しないといけないな、視力が合わないだろう?」
ナオミは眼鏡を外して、首を静かによこにふる。
「封印の眼鏡は……もう必要ありません」
この魔法の眼鏡を通してみる世界は思いどおりにならず、ときに見るのも辛い世の中をみせる。それは魔法ではなく、じつにナオミの心だった。心に眼鏡はいらない。レンズを通して、まわりの顔色ばかりを気にしていた自分とは今日でおさらばだ。
「トモロヲ・ブドリに良い報告ができそうだ」
第3章
それは人々が寝静まった真夜中に起こった。
いつもどおりダックスフンドのジョジョはナオミのそばで規則正しい寝息をたてて、ときおり耳をパタパタさせていた。何か空気の淀みを感じとったらしく、ふと目を覚ました。
すると男がナオミをじっと見つめているではないか。
男はぐっすり眠りこんでいる娘を凝視していた。ナオミは服を着たまま寝ていた。カンペールの冬はとても厳しいのだ。少しでも寒くないようにと冬は服をぬがないで寝るのが習慣だった。
ナオミはジョジョをしっかりと抱いていた。
古びたベッドのそばには、これまたボロボロの革靴しかない。ナオミの寝どころは物置だ。その先には宿の客人たちと共有の居間があった。かなり大きな部屋なのだが、その先に二つの扉がある。きっとヤドリギ夫妻の部屋か、ハレルヤ少年の部屋にちがいない。
男が何か呟こうとしたとき、居間の大きな古びた暖炉にそっと目がとまった。
暖炉は小さな火がはぜていた。そこにかわいらしい男の靴が片方だけあった。クリスマスの前夜に暖炉に靴を置いておくと、親切な老人が素晴らしい贈り物をくれるという、あのサンタクローズの話を男はふと思い出した。男の靴にはお洒落な箱の贈り物がつめこまれていた。暖炉のそばには宴会の名士たちからもらった贈り物がどっさり、山のように積まれていた。
男は物音をたてないように身を起こした。
そのときクリスマスツリーの端っこに申しわけなさそうにしなびれた、何かが置いてあるのに気がついた。目を凝らしてみればそれは片方の革靴だった。ところどころに修繕の痕があった。泥にまみれ、大切にはいてきたのだろう。ナオミの革靴であることは疑う余地がなかった。その革靴には何もはいっていなかった。それどころかハレルヤ少年の仕業だろうか、打ち捨てられるように居間に転がっていた。
男は古びたコートのなかを静かにさぐった。
数秒後、しわくちゃだらけの一枚の写真をとりだして、ナオミの革靴のなかにいれた。いや入れたのは 写真だけじゃない。卵のようなかたちをした赤い宝石もだ。宝石にむかって呟いたのか、何やらぶつぶつと呪文を唱えたと思いきや、次の瞬間、男の姿はどこにもなかった。冷たい空気のなかに男がいた痕跡、よどみだけが残っている。ジョジョは寝ぼけていたのだろう、とまぶたを閉じた。
翌朝、旅籠ジジ亭は大騒動だった。
世が明けるまでまだ二時間もある暗いうちから、ヤドリギはぶつぶつ呟き、暖炉の間を行ったり来たりしていた。ホワイト率いる迷いの森の特別捜査官たちは一言も口をきかなかった。聞こえてくるのはナオミが部屋掃除をしている音だけだ。
「つまりだ、次官閣下とあろうお方が殺人犯にまんまと逃げられたわけですな」
ヤドリギはいやみたらたらでいった。
「しかもヤツが逃亡したおり、腕利きの捜査官何人かが返り討ちにあったと?」
「共犯者がいた可能性もある」
「次官たるお方が言い訳などおこがましいですな」
「外からトランクの鍵が壊されていた」
ホワイト次官はコーヒーを飲みながらいった。
しかもどこか嬉しそうだ。きっとこの人もサンチョ・ボブスリーはもしかしたら、無実ではないかと疑っている一人なのかもしれないと、少女はひそかに思う。
ナオミは生まれてこのかた、不思議な感覚におちいっていた。
というのも少女は目をさますと暖炉へ革靴を探しはじめた。毎年、何もはいっていないというのはわかっていながら(去年はヒキガエルがはいっていた。一昨年は馬糞だ、すべてハレルヤのしわざだった)、やはり靴のなかをみた。
彼女はそのなかに一枚の古びた写真と宝石をみた。
写真の裏には『ナオミ・ニト夫妻とともに』と添え書きがしてあった。一緒に写っている男の人はとてもハンサムだ、男の人が腰に手をまわしている女の人も美しい。美人という言葉はこの女の人のためにあるといってもよい。初めて両親の顔をみて、彼女は一瞬、自分の運命の扉が開くのを感じた――と同時に、太陽のフレアのような輝きがある宝石にも目がいった。
こんな美しいものは生まれて初めて目にする。きっとものすごく高価なものに違いない。言葉記憶の魔法というものだろうか。赤味がかかった宝石には、あの男の声が宿っていた。
「これは火蛋白石、君が運命に挑むのなら君を守るだろう」
ハレルヤが目を擦りながら、自分に贈られてきたプレゼントの中身を確認しようとやってきたので、ナオミは大急ぎで写真とともにポケットのなかにしまいこんだ。
誰がこの素敵な贈り物をしてくれたかはすぐに察した。体中が喜びに震えた。
思えば森で偶然出会ったあのときから、そうあの桶を太い手で持ってくれたあのときから、彼女の運命の歯車は大きく回転し始めていた。物心がついた頃から、ナオミはヤドリギ親子への従僕すべき立場と孤独のなかを懸命に生き抜いてきたのだが、今は少し違った。自分のことを真摯に思ってくれる人が一人でもいれば、人は生きる理由が生まれる。そう人一倍強くなれる。
床掃除が終わったナオミは二階のはずれにある、今まで彼女が足を踏みいれたことのない古びた部屋へいくよう、ヤドリギに命じられた。ヤドリギしか使うことが許されていない亭主の間だが、部屋のなかにはいってみれば、ただの書庫だった。
埃にまみれた古びた本がどっさりと山のように積まれていた。
「おじさんは私をアッパータウンにいかせないつもりよ」
ジョジョは昨夜のことを思いだしていたが、どうもしっくりこない。夢幻を語り、主人を怖がらせるならともかく、今はそういうときではない。
一階に耳を澄ませば怒鳴り声が聞こえてくる。
「今すぐナオミを呼んできたまえ」と「あんたにそんな権限はない!」との怒鳴り声。
首席特別捜査官とジジ亭の亭主との言い争いのようだ。
やがてコツコツと革靴の音が聞こえてきた。明らかに自分の部屋に近づいている。話の決着がついたらしい。下の階で怒鳴っていた二人のうち一人が自分を迎えにやってきたのだ――あと数歩だ、もうすぐで自分の運命の扉が開く。
第4章
「おお! なんでこんなとこにナオミがいるんだ、え? 髪の色が変だけど……」
黄ばんだ大声で、可愛らしいペットの黒ヤギを連れた男は唸った。
彼女のまえに立っていた男は、首席特別捜査官でも、ジジ亭の亭主でもなかった。
ナオミはその男に見覚えがあった。彼の名はダ・カーポのところで助手をしているエンガチョだ。少女は昨夜、ホワイトがエンガチョに自分をアッパータウンへと連れていくために電話していたのをにわかに思いだした。
「うんにゃ、今からいくとこだった」と彼は胸をはる。
「ここはジジ亭の二階よ」
「へん、『ここはジジ亭の二階よ』だと?」
エンガチョは、真顔でここはダ・カーポの屋敷の図書館の書庫だといってのけた。
「ここは先生が集めた、禁断の書物が置いてある重要文庫だ」
ナオミは一瞬、自分の頭がおかしくなったのか、と思った。でもまずは深呼吸だ。
――――一、二、三。大きく息を吸い込もう。
少女は自分がここにきた経緯をエンガチョに話して聞かせた。
すると男は重要文庫がなくなれば、いつも自分が古本屋に売り飛ばしているのだろう、とダ・カーポに非難されていたことを打ち明けた。
「これでスッキリしたぞ、犯人はヤドリギだったんだな。ヤツの二階の部屋はあかずの扉だったわけだ。しかも片方だけの入りの扉のみだ。だがヤツはどうして先生の部屋に盗みにはいる必要があるんだ。小遣い稼ぎじゃあるまいし、え?」
時々、ヤドリギ氏がこの部屋にはいっていく姿は覚えている。コソコソ人目をはばかって、しかも真夜中に。理由はなんとなくわかった。例のあるモノを捜しているのだ。
「この空間移動魔法は上級魔法だ。ヤツごときが使えるはずがない」
開かずの扉の魔法は、ペア同士の鏡なら移動することができるという古代魔法をもとに復活させた魔法だ。魔法の鏡は現在も存在するが、同じように扉に古代魔法をかけて復活させようとしたヤツはなんぞ……そういえば過去に一人いた、とエンガチョは唸る。
ダ・カーポと同じことを考えるなんて、一体どんな変わった人なんだろう?
「先代ヤドリギ卿だ、ダ・カーポ先生の屋敷も昔はその人のもんだった。先生の考古学の師匠はあの人だったからな」
遺言状で研究のたしにと、この屋敷を子爵から譲り受けたのは十三年前だ。
「まあ、俺っちの無実をだ。先生に報告したくともだ……そのう、なんだ――――やれやれ、まったく」
書庫の本をむしゃむしゃと食べている黒ヤギをじっーと眺めた。
「当の本人は自分のコレクションを食いもんにしちょる」
彼女は驚きのあまりもう一度、ゆっくりと先ほどの言葉を聞きなおしただが、やはりエンガチョは黒ヤギをダ・カーポと呼ぶ。黒ヤギはナオミのところにやってくると、彼女の頬をペロペロッと舐めると、かわいらしい鳴き声をあげた。
「さよう、この黒ヤギはあのダ・カーポ大先生なんだな。昨夜、いつもどおり俺っちが『山荒し』で一杯ひっかけてから、屋敷に戻ったときには大先生はこうなっていたんだな。そして近くにはこれが転がっていた」
エンガチョは涙声になって、グスッと手の甲で涙をぬぐうと、ジャケットからしょぼしょぼに干涸びた黄金のリンゴをみせた。それはそれは美しいリンゴだったのだが、生ものらしく腐っていた。食べた者をヤギに変えるというジンクスをもっている『黄金のリンゴ』はギリシャ神話所縁のものだ。アップルパイをごちそうになれば、かわりに自分たちがこうなっていたと思えば、ナオミは言葉がでてこない。
ジョジョは黒犬から黒ヤギになるなんて、どんな気分だろうと子どものように無邪気にはしゃぐ。
「骨董品屋の競売は危ないと俺っちは注意したんだ。ロベルト・パパティーノ、そもそも名前からして危ない。パパティーノ家末席の者のしわざかもしれん」
パパティーノ家といえば高名な犯罪学者の弟子だとか。悪名高い『迷いの森の一味』であって、今回の出来事は『迷いの森の辺境伯』がらみだと、そう自分はにらんでいるとのことだった。
「その矢先にお前さんの『ここはジジ亭の二階よ』だ」
エンガチョは神妙な顔つきでいった。
もしかして今回のこの事件、ヤドリギがからんでいる可能性も否めない、男はそういいたげだった。だがむやみに人を憶測だけで疑うことは愚かなことだ。しょせん憶測は憶測なのだから。
エンガチョは黒ヤギが食べようとしていた本を取りあげ、近くに落ちていた老人の肖像が描かれた切手を拾いながら、困った顔つきでぼやいた。
「この騎士切手はいずれ歴史的価値がでる。この騎士の名前はトモロヲ・ブドリ」
エンガチョは手の親指と人差し指のなかで、ペラペラしている切手をみせた。
「トモロヲ・ブドリ?」
ムッシュ・ホワイトがその名前をいっていた気がする。
「アッパータウン始まって以来のへっぽこにして、ダ・カーポ先生の大祖父なんだな」
ナオミは騎士切手をみつめた。地面にもつきそうなそれは長い銀色のあごひげに髪、きりっとした鼻とすらりと背が高い。間違いない、あの記憶の中の老人だ。騎士切手のふちにはベリー・グッドウィルというどこかで聞いたことのあるような、またないような肖像画家の名前が署名されていた。
ナオミから切手を受けとったエンガチョは先ほど拾い上げた、黒い本をペラペラとめくりながら「…トモロヲ・ブドリ、トモロヲ・ブドリ、いかれたへっぽこ爺さん…」と呟くと、探していたページがみつかったらしい。男は切手の裏をペロリッと舐め、小さな枠のところに貼りつけた。
エンガチョはそのページをナオミにみせた。
騎士殿堂歴代十二位
氏名 トモロヲ・ブドリ・アッパータウン卿
性別 男性
年齢 一三八年と五ヵ月
職業 アッパータウン代表取締役市長
公職 宮中伯(アッパータウン伯)
爵位 伯爵
賞罰 円卓の騎士勲章・勲一等騎士
十字軍アッパータウン師団 最高司令官
住所 ブルターニュ地方株式会社
アッパータウン市株式会社
キング・アーサー騎士団一丁目一二三番地
アッパータウン・オブ・ギルウェル領主館 最上階
アッパータウン領主であるブドリ伯爵。近代史において彼ほど勇敢な騎士は存在しないといわれている。また伯爵は伝説のアイスランド人サンタクローズの友人であったことは大変有名だが、世間からはへっぽこ爺さんで知られるほうが有名。
ナオミがページを読み終えたころ、騎士切手が隙あらば逃げ出してやろうとばかりにモソモソと動きだした。
「騎士の護衛魔法だ。手紙や書類を送るときに貼るんだ」
ゴエイマホウ。なんと素敵な発音だろう。
トモロヲ・ブドリの騎士切手がペロッと手帳からはがれたので、エンガチョは親指でぐっと力強くおさえた。男の小言によれば、切手に描かれた絵柄の騎士が手紙を守ってくれるそうだ。ひと昔前まではカタツムリポストを使っていたそうだが、フランス人にエスカルゴと間違えられ、食べられるようになってから、この郵便方法を使うようになったとか。
第5章
埃まみれの書庫には窓はなく、あれから時間がどれほどすぎたのかわからない。壁には古びた西洋ランプがかかげられ、部屋をうっすらと黄色く照らしていた。
ホワイトから電話がかかってきたらしく、エンガチョは唸った。
「ナオミなら一緒だ。あ? 兄貴はそんなことしねえよ」
エンガチョは半分怒っているようだ。顔を真っ赤にしている。
「ナオミがどこにいるかって? 兄貴を悪党扱いするヤツにゃ、教えねえよ。エーデルの酒場によれだと? フンッ、いわれんでもよるさ。エーデルがあの子に会いたがっているからなあ」
――――エーデルが私に会いたがっている? エーデルって誰だろう?
自分を見つめるナオミの顔をチラッとみて、エンガチョは本題にはいった。
「ヴァンヌにいかねばならん」
男はナオミにその格好ではまずい、アッパータウンにいくまえに、身支度を整えなければならないという。騎士には騎士にふさわしい格好があるらしい。ヴァンヌはブルトン人とフランス人が暮らす中世の面影を色濃く残す町だ。カンペールの二倍ほどの大きな町だ、と学校の地理の授業で習った気がする。
エンガチョとともに書庫をでれば、あの扉がいくつもある不思議な廊下にでた。
クリスマスツリーが扉ごとに飾られ、十二月二十四日という聖なる日を祝福しているかのように荘厳で素晴らしかった。エンガチョはチラチラと少女をみては、ふーと大きなため息をついた。
「お前さんは自分の生い立ち、ブルターニュの歴史を詳しく知りたいかね?」
大男の問いにかけに少女はコクッと頷いた。
それこそナオミが一番聞きたくてならなかった心のモヤモヤであり、アッパータウンにいく理由そのものなのだ。瞳の記憶だけではあやふやすぎる。もちろん生い立ちを知ったからといって、アッパータウン行きをやめるわけではない。暗い未来をさける唯一の方法は脅威を知ることである。身支度を整えるまえに、それ相応の覚悟も必要なのだ。
エンガチョは腕を組んで、遠い瞳になって語りだした。
「受け入れる準備ができているなら……よかろう、聞かしてやろう」
まずブルターニュ地方は表向きはフランス領であるものの、じつはブルターニュ地方株式会社がすべての領土を保有しており、この地方には某社が出資する市や町、村が一千あまりある。つまるところ株式市町村としてブルターニュ地方株式会社の傘下にあるというのだ。とくにアッパータウン市株式会社は某社が出資する株式会社のなかで、最も繁栄を謳歌する株式市町村といえよう。
ブルターニュ地方株式会社は公爵を社長とし、領土をもって仕える貴族たちによって構成されている、元領主たちの組合みたいなものだ。株式会社になったといえども元封建領主である貴族たちは、その領土内において強い自治権、君主大権を持っている。
よっていかに公爵といえども、それらの領土を勝手に分割したり、他者に与えたりすることはできない。視点を変えれば公爵とは株式国家ブルターニュにおいて、もっとも勢力の強い、経営者であるとみなしてよい。
領地を経営する騎士はその社会的特権から爵位を持っている。
新しく領地を得るということは、誰かの領地を奪うということでもある。そう領地には限りがある。よって現在、新しい爵位は認められておらず、だいたいは世襲として一門を率いる実力者に受け継がれていく。
また爵位は候伯子男に大別されている。領地の経営規模、いや経営責任の大きさから爵位は異なる。首都経営は公爵、都市経営は伯爵、町経営は子爵、村経営は男爵の仕事なのだが、男爵や子爵は必ずどこかの伯爵の領地に属している。
すなわちブルターニュの一千あまりの市町村は、町経営者の子爵、村経営者の男爵、これらを統括する市経営者の伯爵、つまり株式国家ブルターニュは一千あまりの貴族たちの領地経営、株の持ち合いによって成り立っているのだ。
「最近じゃ、子爵が伯爵になるケースも増えとる」
エンガチョは由々しき事だと嘆く。
下克上というらしい。ある伯爵領では子爵が伯爵領の株の過半数を握り、自分が伯爵となったそうだ。伯爵の身分を奪われた前領主は、自ら命を絶ったという。東部のほうでは株式市町村を離脱して、その土地をフランスに差し出している輩もいるそうだ。
経営責任の大きさから町経営者の子爵、村経営者の男爵は都市経営の伯爵に属していることから考えれば、一千あまりいる貴族とはいえ、ブルターニュ地方株式会社を構成しているのは一五〇名もの都市経営者の伯爵たちだ。
伯爵は当然、国政にも参加する。誰がどの役職につくかは、株式市町村の運営実績の結果しだいだ。公爵を補佐するのが伯爵の務め、分かりやすくいえば大臣だ。そして一五〇名もの伯爵の意見を集約し、実行するのが宮廷だ。
この宮廷を統括するのが宮中伯、宮廷を取り締まる伯爵だ。
大臣の長といえる立場、つまり宰相という身分にある。現在、その地位にあるのがトモロヲ・ブドリだ。ちなみに宮廷では全伯爵に公職や大臣職が与えられている。
公職が世襲されることはまずないといえようが、いかに大臣たちがいても、最終的には公爵の決定が絶対となる。専制政治をすれば伯爵たちの不満を買い、反乱を招く。大臣たちの意向をどこまで無視できるかというのは、公爵と伯爵たちの力比べに帰する問題だ。
「対立が深まれば、モンテカルロ党のようなことになるんだな」
「モンテカルロ党?」
「希代の大悪党モンテカルロが設立した伯爵同盟だ」
「………」
――――希代の大悪党? モンテカルロって誰だ?
「その昔、護国卿と呼ばれておった男だ。そして公爵の元後見人だ」
男が護国卿の任にあった――そんなある日、男はアーサー・ブルトン歴代公爵の玉座を奪おうとしたが、未遂に終わった。
非合法政変の失敗により、お尋ね者になった護国卿が命からがら逃げこんだ先が迷いの森だ。この森は古くからエルフ族の所領、彼らはブルトン人やフランス人とも手を結ぶことはない中立の人種、かの迷いの森が未開拓地域と称される所以でもある。
その地で男は名を捨て、自らをモンテカルロ辺境伯と改めた。
モンテカルロはふくろう党に対抗する組織を作った。それが自分の名を冠するモンテカルロ党だ。このモンテカルロ党にはブルターニュ地方株式会社の主要株主、名立たる伯爵たち数十名も参加した。そして現在、ブルターニュ地方株式会社は二つの派閥によって二分されている。
アーサー・ブルトン公爵家及び伯爵連合率いるふくろう党、残りは反公爵の伯爵同盟モンテカルロ党だ。
ふくろう党の資金源は伯爵たちによる、軍需、石油などの国家を越えた多国籍企業群によって支えられている。一方、モンテカルロ党に至っては西欧王室たちの資金援助によって支えられているというが、大半の意見が王室を脅しているか、もしくは王室の表にできない裏家業によって得た報酬だとのこと。
「有力貴族が二つにわれ、ブルターニュ中が乱れた。敵味方を見分けるため、ヤツの名には高名な魔法使いが呪いをかけた。その名を語る者に災いが起こるように。だから俺たちはあの男のことを『迷いの森の辺境伯』と呼んでおるんだな」
迷いの森の森に住む、エルフの歴代君主がヤツに臣下の礼をとったのが名の由来だ。
辺境伯といえば侯爵という意味であり、公爵の次に地位がある。すなわち世継ぎのいない公爵の正統後継者ともいえる立場にあった。なぜ永世中立のエルフの歴代君主が、あの男に臣下の礼をとったのかは、未だにわからないという。ちなみにモンテカルロ党のことを、今では『迷いの森の一味』と呼ぶ。
そう、この二大勢力が実質、ブルターニュを支配している。
その頂点に君臨するのがブルターニュの支配者『聖王ブルターニュ』の称号を有する者だ。伝統的には歴代公爵が襲名することになっている聖王の称号だが、モンテカルロ党の反発もあり、強引に宣言すれば、内乱が起こりえないとのことで現在、その席は空位となっている。
「聖王宣言は運命の女神が公爵陛下の聖剣を受け取り、そしてそれを返すことによって認められる。女神が聖剣を受け返す、つまり政権を委ねるってことだ。まあ、俺っちにしてみれば強引にでも公爵陛下は、聖王への戴冠式に望まれるべきだと思うんだな」
エンガチョは話を淡々と続ける。
「やがて血で血を洗う、暗黒時代は終焉を迎えた。四回目のアーサー・ブルトン歴代公爵の暗殺未遂、ついに一人の偉大な騎士がヤツを呪われた、孤島の牢獄モン・サン・ミッシェルにぶちこんだ。その騎士の名前は……」
「そ、その騎士の名は?」
ナオミはゴクリッと生唾を呑んだ。
「ナオキ・ニト、お前さんのお父さんなんだな」
だが平穏な日々はそう長くは続かなかった。
というのも今から九年前、迷いの森の辺境伯は脱獄に成功した。まず手始めに辺境伯は自分を牢獄にぶちこんだナオキ・ニトに刺客を放った。エンガチョは二、三分前からうつむき、拳をギュッと握りしめた。
黒ヤギがなぐさめるように近くによってきたので、エンガチョは「まったくすまねえ、大先生」と呟き、自動車の急ブレーキをかけたような騒音を響かせ、鼻をずるずるとかんだ。黒ヤギはそのまま気絶してしまった。
男はナオミの顔色をうかがうように話をすすめた。
「その刺客がサンチョ・ボブスリー…」
ナオミは瞳を閉じた。まぶたに顔に刺青をしたサンチョのいかつい顔が浮かぶ。サンチョ・ボブスリーが父と母を殺害したのかは分からない。だが暗殺命令をだしたのが迷いの森の辺境伯と知り、ナオミは唇をギュッと噛みしめた。
「で、俺っちの兄貴でもある」
エンガチョの告白は衝撃だった、言葉が声にならない。
「俺が憎いか? 俺もアイツが憎いんだな」
アイツって誰?
「あの場所に居合わせたのは兄貴一人だけじゃない」
瞳の記憶によれば、それがコクーン・コ・クーボ。
男は子爵家の家督をめぐって、兄のピエモンテ夫妻を殺して指名手配となった。コクーン本人は「これは陰謀だ」と身の潔白を訴え、ニト夫妻に匿われていたそうだ。その彼も現在、彼は行方不明となっている。
「無実であれば、なぜ逃げる必要があるんだ、え?」
まったくそのとおりだ。
兄貴には身の証を立てる権利があるんだ、と弟は唸る。
確かに彼のいうとおりコクーン・コ・クーボが無実であれば、どうして逃げる必要があろう。しかしながら記憶のなかのサンチョは自分が犯人だと自白していた。これではわけがわからない。
ナオミは胸苦しそうに聞いてみた。
「あ、あの…『迷いの森の辺境伯』はどうなったの?」
ナオキ・ニト夫妻暗殺後、仲間の裏切りにあって死んだそうだ。
現在、彼の墓は迷いの森の中にある。エンガチョは一味の中で、迷いの森の辺境伯を裏切り、攻め滅ぼせる力があった者といえば、今では小モンテカルロと呼ばれ、ヤツの腹心だったジョルジョ・パパティーノぐらいなもんだとさらに唸る。
「…ジョルジョ・パパティーノ?」
「ああ、パパティーノ家は冥界の王『冥王』を輩出する、邪悪な家系なんだな」
冥界? 冥界の王? ナオミは顔をしかめた。
「まあ、お前には縁もゆかりもない世界だ。知らんでもええ」
エンガチョはしまった、という顔つきだ。
「俺っちが思うには大先生のことだ、おそらく連中につながる重大な情報をつかみ、その口封じのために……くそったれ!」
男は話題をわざと一コマほど戻していった。
ナオミはすっかり黒ヤギになった、考古学者にチラリッと目をやった。
「モンテカルロは確かに死んだ。だがヤツに忠誠を誓った腹黒き貴族どもは死んではおらん。それに今でさえ、時々だが連中の息がかかったヤツが公爵陛下のお命を狙っておる。つい最近も暗殺未遂があったほどだ」
迷いの森の辺境伯に忠誠を誓った貴族たちは黒伯爵、黒子爵、黒男爵と爵位の前に裏切りの意味である『黒』をつける。反対に歴代公爵派は『白』をつける。
今回の事件は黒と白との争いの始まり、いや九年のときをへて、昔の勢力を取り戻した連中の陰謀の始まりかもしれない――――エンガチョはいかにもそういいたげだ。
十五分後、赤い扉についた。そこにはこう書かれていた。
「『開かずの扉』No.289876578」
ブルターニュ地域圏 モルビアン県
ヴァンヌ郡ヴァンヌ市(元ブルターニュ公国の都)
ヴァンヌ旧市街、路地裏、エーデルの酒場兼宿屋、奥扉
「この開かずの扉をあければ、お前さんの運命は大きく変わる。心の準備はできとるか?」
扉のむこうからはうっすらと光と人のざわめきが漏れていた。エンガチョは黒ヤギを脇に抱え、扉をぐいっと勢いよく開けた。
第5話に続く。
ランキング参加中! 面白かったらポチッとクリックお願いします。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。