第1章
ジジ亭と真向かいにある、生粋のブルトン人ニコレット氏が経営する『山荒し』は、歴史あるブルトンパブだ。連日わいわいと村の人々、ブルトン人たちがここにブルトン語を求めてやってくる。
そんなことはじつはどうでもよくて、酒場にはいろんな噂が飛びかった。店員もペチャクチャと噂話。店の主人もペチャクチャと噂話。お客さんもペチャクチャと噂話。でも誰かが本当のことを聞きたいときは、この店にはこないのだった。
薄暗い石造りのパブは、隅のほうでワイナリーの農夫たちがおいしそうに塩味のガレットをつまみにして、シードルを静かにちびちび飲んでいた。カウンター席では人のよさそうな大きな男の人がこの店の看板娘と話をしていた。
ちょっと離れたカウンター席ではパイプをゆったりと吹かしながら、日刊新聞「毎日ブルトン新聞」を得意そうに読んでいる老人がいた。暗闇に隠れてシードルを飲んでいるのは今朝一番で、この村にやってきたジジ亭に宿泊している例の黒紳士だ。
ナオミとテルが店にはいると、とたんに会話は静まった。
パブの皆はテルを知っているようだ。なかにはニタッと無気味な笑いをうかべる者たちもいた。少女をみて看板娘のサンタマルタは、グラスに手をのばして「二人とも、牛乳でいいかしら」とからかった。
突然、店内に爆笑が沸いた。
サンタマルタはとても心がきれいな村娘だ。この人も自分で同じで親がいない。彼女はナオミにニコッと微笑だあと、二人に甘酸っぱいアップルサイダーを作ってあげた。
「で、今日は絵描きのグッドウィルとは会わないのかい?」
看板娘に太った男はさりげなく、話の続きをはじめた。
「絵のモデルは明日よ、エンガチョ」
サンタマルタはどこか嬉しそうだ。
「フンッ! クリスマスデートかい!」
クリスマスといえばサンタクローズだ。彼女には毎月、決まってミスリル金貨三十枚を送ってくれる足長おじさんがいる。そのおかげで生活には困ってはいない。同じ親なしといえども、ナオミとは根本的にそこが違っていた――彼女は親の愛情に恵まれてはいないものの、貧乏ではないということだ。
「あの人はたぶん、君のことが好きだと思うんだな」
「うーん、どうかしらね。でもとっても優しい人よ」
「そうかい、俺っちは大嫌いだな。この人参もだけど…」
エンガチョは本当にグッドウィルという人が小憎らしいという感じだ。だけどナオミはこんなとこで、仕事をサボっているエンガチョが小憎らしい。太っちょのエンガチョは鼻を鳴らし、バター葉巻きを注文した。
「おい、わん公。人参でも食うか?」
(いらないよ)とジョジョはプイッと横をむいた。
サンタマルタは「二フランよ」といって、エンガチョにバター葉巻きを手渡せば、彼はさっそくそれをぷかぷかとうまそうに吸いだした。まわりはバターのいい香りがただよってくる。テルも父親からの頼まれごとを思い出したらしく、エンガチョの吸っているバター葉巻きを三本注文した。
「まだ未成年なんだから吸っちゃだめよ」
バター葉巻きを三本手渡しながら、サンタマルタは憂う。
「吸わないよ、たぶん。それでいくら?」
「五フランでいいわ」
「でも黒犬が吸うかも。このダックスフンド、不良だからね」
(…鼻でもかじってやろうか?)とジョジョはボソボソ呟いた。
ちょうどそのときカウンター席の今では昔懐かしい、オークでできた高級ゴシック電話機が皆の注目をあびた。電話はやかましい音をたてる。
「はい、こちら『山荒し』です。ええ、息子さんのテルくんですか?」
サンタマルタはチラリッと少年に目をやった。
「うちの父ちゃんだ。帰りが遅いから怒っているんだ!」
テルの顔は青ざめた。
「いいえ、もう帰りましたよ。お金を忘れてるって? ご心配なく葉巻代はいつもどおりつけておきましたわ。あれっ、電話が切れちゃってるわ。すぐにアボカドさんは都合の悪い話になったら電話を切るんだから」
看板娘サンタマルタはぷりぷり怒っている。
「俺が払ってやるよ、テル。ほれ、五フランだ。先生のおもり代なんだな。どうせ恒例のリンゴの飾りつけだろ? お前たち素晴らしい社会経験ができてよかったな。俺に感謝しろよ」
――やはりそれが嫌で、この男はパブで仕事をサボっていたのか。
確信犯エンガチョはテルのかわりに代金を支払ってやると、わが恋敵とばかりに、グッドウィル画伯の文句をぶつぶついいながら山荒しをあとにした。
第2章
――ポッポー、ポッポー、ポッポー。
鳩時計が真夜中の十一時を告げた頃、支配人でバーテンのニコレット氏がぬっとでてきた。男は「十一時だぞ!」とテルをギロリッとするどく睨みつけた。
「さあ、帰った、帰った。子どもの時間は終わりだぞ!」
まったくそのとおりだ、ヤドリギ夫人に知れたら往復ビンタどころじゃない。うたた寝していたダックスフンドは、めんどくさそうによれよれと、二人についていった。
子どもたちがいなくなると店内の雰囲気はがらりと変わり、さびれた感じになった。
「…あの子たちはブルトン人だろ? どうしてでかけない?」
声の主は黒紳士ジェラールだ。
「でかけるっていうと、その…騎士の見習いですかい?」
ニコレット氏はぼやいた。
「それがブルトン人の伝統じゃないか」
騎士の古いしきたりで騎士になる子は、十三歳の誕生日までに騎士の従者として独り立ちしなければならない。でもその年での独り立ちは今の世の中にあわず、年々その伝統は廃れつつあった。ブルトン人の世の中も変わりつつあった。
ブルターニュの人々が働く場所が、ブルターニュ地方株式会社。
それは名前を変えたブルターニュ公国といってもいい。社長のアーサー・ブルトン歴代公爵といっても、世襲で本人が名乗っているだけにすぎないものの、ブルトン人においては大きな意味をもっていた。
ブルトン人とは『アーサー王と円卓の騎士団』を先祖に持つ、フランス人のことだ。彼らがフランス西部にブルターニュ公国を建国したのは一千年前といわれ、歴史的にブルターニュ地方は、フランスとは違う独自の文化を育んできた。
ブルトン人は先祖の遺産として受け継いだケルト伝統の音楽と文化、そして『アーサー王と円卓の騎士団』の社会秩序を誇りにしている。
その領土は常にイギリス王国とフランス王国に狙われ、十六世紀には公国としてフランスに併合された。隣国に併合され、国としての地位は奪われても、ブルターニュ公国の領土と歴史は、その子孫たちに脈々と受け継がれていった。
やがて時代は大きく転換した。フランスに革命が起きた。
俗にいうフランス大革命である。革命後、フランスが王制から共和制へと変わっていくなかで、フランス国王がその領土と身分を失ったように、ブルターニュ公爵もその領土と身分を失うはめとなった。もはや公爵とは名ばかりにすぎず、公爵領などはなから存在しない没落貴族となった。
そんな滅亡の危機にあった公爵家を救ったのが、現公爵の祖父アーサー・ブルトン十六世だ。青年実業家でもあった公爵は人々に呼びかけて、一風変わった名前の不動産会社をつくった。それがブルターニュ地方株式会社。
ブルトン人たちは公爵の呼びかけで、ブルターニュ地方株式会社に自分たちの土地を預けた。とくに大きな土地を預けた領主たちはその大きさから市長、町長、村長とよばれる領地、土地の経営者となった。また彼らも公爵を見習って、自分たちの領地を株式会社にした。
こうしてブルターニュには多くの株式市町村が誕生し、ブルターニュ地方株式会社はブルターニュ地方のほとんどの土地を所有する大手不動産会社、財閥となったのである。彼らはいち早く古い国家概念を捨て去った、新しい国家を作ったともいえよう。
これに伴ってフランス語が彼らの公用語となった。民族の言葉「ブルトン語」は野蛮な過去の象徴として、フランス政府から捨て去るべきものとされた。
ニコレット氏はグラスをキュッキュッと磨きながらいった。
「今じゃねえ、お客さん。危険だからといって見習いをやらさない親もいるんですよ。最近の子どもはブルトン語もろくに喋れなくなってますしね」
ブルトン語は自分たちにとって文化と歴史そのもの。
またブルトンの騎士道は自分たちの社会秩序そのものだ。現在、ブルトン語を喋れるブルトン人は二百万人、そのうちブルトン人社会で生きることを選んだのは五十万人だとか。
「ブルトン語を失えば、我々はすべてを失う。このままでは百年後、ブルトン人がブルトン語を喋れない世界がやってくるだろう。まったく世も廃れたもんだ」
ジェラールは世の不条理を呪うように、吐き捨てた。
「で、お客さん。お探しの女の子は見つかったんで?」
男は目をうっすらと細め、「…手遅れだった」と意味深に呟くといなや、ブルトンパブ『山荒し』をこれまたうさんくさそうにでていった。
このうさんくさい男とわずかに擦れ違いにトランクケースを右手にもった、威圧感ある中年紳士がヤドリギとともに扉の鐘をカランッと鳴らして、店のカウンター席にすわった。
二人はバーテンにハイボールを頼み、何やらボソボソと喋りはじめた。紳士はヤドリギに「毎日ブルトン新聞」のある記事を声にだして読んだ。
『ポニーからロドへ、正義の鐘は誰がために鳴る』
愛するブルターニュの民衆よ。
新しい王は我らの敵、世を欺く者だ。
黒伯爵、黒子爵、黒男爵は諸君の仲間だ。
私は真実のために、正義を貫く。
悪を打ち砕くための聖なる力は、
旅立ちの都に懐かしき友とともにある。
我とわが友よ、ロアゾンとともにあれ。
ヤドリギは困惑した表情で紳士に聞いた。
「ムッシュ、このちんぷんかんな記事がどうかしたですかい?」
「これはサンチョ・ボブスリーの部屋にあった紙切れだ」
このちんぷんかんぷんな記事は脱獄不可能と称された孤島の監獄モン・サン・ミシェルの脱獄に成功した、今、ブルトンの世を騒がしているサンチョ・ボブスリーの部屋から発見された紙切れの一文だ。
迷いの森の特別捜査官たちが夜通しで彼を追っているなか、男は見事に今も逃げきっていた。結果、先ほど当局より賞金がかけられたとのことだ。
「変装しているようだが、すでに目星はついている」
長年培われた捜査官の感というものだろうか、さすがだ。
「どうしてヤツがカンペールにいると?」
「私の目は節穴ではない」
「…先ほどすれ違った男がそうとでも?」
ヤドリギはまわりをみまわし、さらに捜査官に小声で訊いた。
「パパティーノにそう聞けといわれたのか?」
鋭い、さすが迷いの森の特別捜査官次官だけはある。その男の名がでると、ジジ亭の亭主は黙りこくった。
「…… … ……」
何もしゃべらない。まるで巨顔石像のようだ。
山荒しの主人は二人のまえに、ハイボールを置くと蓄音機に手をかけた。
微妙な間を音楽でごまかすかのように。
迷いの森の首席捜査官は、サンチョ・ボブスリーはニト夫妻暗殺の主犯格だ。もはや生かすも殺すも自由の賞金首になった今、九年前の仇討ちにはもってこいだ、と唸る。
「軍警察に感謝しなきゃならんな、アイツは殺されても文句はいえない…」
ホワイト次官は冷たい眼差しで冷笑した。
「で、殺っちまうんですかい?」
異様な殺気、血生臭さというべきものを感じたらしい。
ホワイト次官には、軍警察特別捜査官としての守秘義務がある。
警察は市民の安全を守るのが役目であれば、軍隊は国外の脅威から国内社会の治安を守るのが役目だ。もともと武力を行使する主体にかわりなく、軍警察とは警察と軍隊の組織を合わせもつ、ブルトン政府唯一の武装組織。別名を「国家憲兵隊」とも呼ばれる。
「酒の肴にすぎん、忘れろ」
ホワイトはハイボールをほどよく飲んだ。
また再びゴシック電話がジリリリーッ、とやかましい音をたてる。
ダ・カーポからの電話とあって、ニコレット氏はホワイトのほうをチラリッ。特別捜査官次官はめんどくさそうに「フランス人の電話は耳が痛くてかなわん」と、町一番の変わり者の声を聞くためにカウンター席をたった。
考古学者は先ほど、祖父トモロヲ・ブドリから伝言を預かったという。その伝言の内容が信じられない内容だったので、ホワイトは彼女の言葉を四回目も聞き直してしまったほどだ。
「ホワイト次官、知っていますの?」
「何も知りたくないね」男はぶっきらぼうにいった。
人が他人を嫌って、その存在を認めたくないとき、その存在を見る人の瞳というものは恐ろしいほど冷たくなる。それはブルトン人も変わらない。だけどこの世に生まれて独りぼっちということは絶対にない。
「もうすぐ十三歳よ」
「フンッ、それがどうした?」
「あの子もブルトンの社交界を知ってもいい年頃よ」
返事に困ったホワイト次官は、飲みかけのグラスに目をやった。
思えば九年前、サンチョ・ボブスリーに殺された、ナオキ・ニト夫妻は自分のかけがえのない親友の一人だった。氏は親友としてあの子のその後を見届ける義務がある。だが何年間たってもトモロヲ・ブドリは何も教えなかった。
あの子を迎えにこようとさえしなかった。
ナオミはこれからもずっとフランス人として、これからも生きていくのだろうと、これがあの人の意志だと自分はふんだという。
「アッパータウンには、あの子を迎えてくれる仲間がいますわ」
あの子がブルトン人にもどるのが正しいのか、間違っているのか、おそらくその答えはアッパータウンにあるのだろう。ナオミがアッパータウンに行こうが行くまいが、自分はサンチョ逮捕に全力を尽くすだけだ、という。
「あの子の未来は、運命の女神が決めることだ」
特別捜査官次官は勢いよく電話をきった。意味深な言葉だ。
カウンター席に腹立だしそうにもどるや、男は運命の女神とやらの板挟みを呪うように店一番の度数が高いブランデーを頼み、直で喉に流しいれた。その仕草は喉を潤すというよりもやけ酒といったほうがよい。大人はときにそういうことを仕出かす生き物だ。原点は子ども時代の一気飲みだろう。誰が教えたのか、きっと酒の神バッカスあたりだな。
第3章
ジジ亭は集まった村の名士たちでにぎわっていた。
冬のカンペールのなかにあって、遠くから眺めてもその華やかさは町一番だ。例の黒ずくめの男は、この地に足を踏みいれることになった、ある星読みの言葉をグラスのなかに思い浮かべていた。グラスの中は氷と顔、光で混沌としている。
「だがヒトは違う。運命を変えるために行動することができる――」
ある星読みの言葉を復唱する黒紳士。
――運命の女神に戦いを挑み、自分は見事に敗れた?
ナオミはブルターニュワインをすすめようと深刻な顔の男に近づいた。名士たちへの振るまいにおかみは忙しく、ナオミがぼんやりとしているものなら「さっさと仕事を片付けないか!」と怒鳴りつける。
ジェラールは椅子に座ったまま、ヤドリギ夫人にふりむいた。
「おかみ、働かせすぎじゃないかね?」
男の言葉遣いにはみすぼらしい服装のなかにも、紳士らしさがかいまみえた。夫人は児童労働をさせているかのように思われたことがよっぽど悔しく、何もしないぐうたらを食べさせるわけにはいかないと言い放った。
「お客様とは違って、あの子には乳搾りがありますの。チーズづくりのためのね」
おかみの不快な顔をみて、さらに少女の皸だらけの手をみて男は静かに唸った。
「そのチーズはいくらの値で売れるのかね?」
うっとしい男だ、ふっかけてやれ!
「二十フラン!」
「よろしい、では百フランで買いましょう」
この言葉に前夜祭に招かれていた、ハレルヤの個人教授をしている家庭教師のピックル・タナカは思わず目を点にした――――変てこな客だな、ここのチーズは本当は二フランだぞ。皆の視線をあびるなか男は百フラン札を皿の下にそっといれ、ナオミを優しくみつめた。
「これで君は自由だ、ほんの数時間だけだが…」
どうやら男が買ったものはチーズではなく、彼女の時間だったようだ。
ジジ亭の亭主は(この男、何者だろう?)と目を細めて、豚のような顔つきで用心深くながめていた。おかみは返す言葉がなく、自分の考えをまっこうから否定された人間が体験する、あの感覚におちていた。唇を噛みしめ、その顔つきにはゾッとする憎しみが感じられた。
ナオミは休んでよいか、恐るおそる夫人に訊いた。
「フンッ!」
おかみの鼻の穴がいつもより二倍ふくらんだ。
「あ、ありがとうございます」
ナオミはおかみのほうをむかって、心はジェラールにいった。
ヤドリギは名士たちの会話にまじりながらも、目だけは黒紳士ルレスエロ・ジェラールを凝視、おかみはそんな彼にそっと耳打ちした。
「ねえ、あの黒ずくめ、何者かねえ?」
「フンッ!」とおかみと同じように亭主も鼻を鳴らすと「わしが思うにだな、世間知らずの若造か…」さらにもったいぶって「暇つぶしの音楽家だな。だが金はもっている。いいか、どんどん酒を飲ませろ」とジジ亭の亭主は金持ちに対する、この旅籠の掟を教えてやろうと囁いた。
「先生、一曲弾いてもらえませんか?」
男に声をかけてきたのはピックル・タナカだ。
「失礼ながら、おかみさんからあなたのお名前がルレスエロ・ジェラール先生とお伺いしたので…」
「以下にも」
「ではやはり、あの有名な音楽家の――――」
「今じゃ誰も知らない、しがないオルガン弾きだよ」
「ですがルレスエロ・ジェラール先生といえば…」
タナカがあまりにもせがむので、男はガタッと席を立った。
コツッ、コツーッと床に音をたてて、黒ずくめの男が向かったのは部屋の端にある、埃がつもったオルガンだ。
音楽家はフーッと一息かけたあと、オルガンの蓋をあけると勢いよく、ダダダ、ダーンッと弾きはじめた。最初はベートーヴェンの『運命』を弾き、すぐに美しいバラードへと曲目はうつり、数分後には会場は拍手喝采となった。
さすがかつて有名な音楽家だっただけはある。
「先生、今の曲名は?」
「ロホルトへのソナタ、私の人生の師が作曲したバラードだ」
愛想もなく、これで気がすんだろう――――と男はテーブル席にもどった。まだナオミは男が奏でた、美しいメロディの虜になっているかのようだ。
夢心地でそっと深々と雪降る、窓の外をぼんやりと眺めていた。
するとフロックコートを深く着た、いかめしい顔つきの男が部屋のなかを鋭く凝視しており、少女は思わずギョッとよろめいた。もう一度、窓い目をやれば、もうそこには誰もいない。
疲れから幻影を見たのだろうか。いやそんなはずはない。確かについ先ほどまで窓の外で誰かが、この部屋を覗いていた。そんな少女におかみは悪態をつき、ジェラールは「疲れているんだろう」と少女を守った。
おかみは男のテーブルまでくると、腰をおろした。
「…ねえ、ジェラール大先生…」
うわ、気持ち悪い。猫なで声だ。
黒紳士はブルターニュワインを飲むのを一瞬ためらった。
「その…いやねえ、私だってあの子に幻をみさせるほど、せかせか働かさせているわけじゃありませんわ。でもねえ、野良はハレルヤとは身分が違いますの」
おかみは自分の面子をたもつだけで精一杯だ。
「身分が違うとは?」
男はナオミにチラッと目をやった。
「あの子は孤児なんですの、おわかりになりまして?」
暖炉近くの名士たちは酔いがまわり、楽しい気分になっていた。
男はただ黙ってワインを一口飲み、さりげなく窓の外に目をやった。するとナオミと同じように男もギョッとよろめいた。おかみもつられて窓の外に目をやったが、窓の外はクリスマスの前夜祭にふさわしい雪降る夜だ。
――ボーン、ボーン、ボーン。
暖炉の間の古い時計の振り子が、静かに午前零時を打った。
「旦那、大旦那。宴会はもう終わっちまいましたぞ」
猫なで声の亭主、まったく夫婦そろって気持ち悪い。金に媚びた人間も同じだ。
酒が身体全体にまわったらしく、男は自分の部屋に戻ろうと席をたった瞬間、床に倒れこんでしまった。いわんこっちゃない。そんな男の仕草をみて、ヤドリギ夫妻は不適な笑みを浮かべ、亭主のヤドリギ氏は自分の出番だと直感したようだ。亭主はいくらふっかけてやろうか、勘定のことで頭がいっぱいだ。金亡者と名を変えればいいのに。
「野良、肩をかしてやれ! こいつは酒が入るとてんでだめだな」
何が彼をここまで追いこんだのか。
ジェラールは窓の外に何を見たのだろうか。
朝方、狼をフウインした男とは、てんで別人になった黒ずくめの男を二階の部屋まで運んでやった。途中、螺旋階段で大きく転んで無意識ながらに、黒紳士は気になることを呟いた。その言葉はやはり「ナオミ」だった。
冷たい水を飲んで頭を冷やしたのか、正気にもどった男は椅子にもたれかかり、少女に礼をいった。小さな子どもを一人の人格者として、感謝をのべる男にナオミは思いきって訊いてみた。疑問は考えていても埒があかない、やっぱり訊いてみるのが一番だ。
「なぜおじさんはナオミ・ニトを捜しているの?」
たちまち男の顔が険しくなった。
いや、やっぱり訊いてはいけないことだったようだ。やばい、ばい。バイバイだ。ここは謝っちゃえ。子どもだから許してくれるよ。
「君はナオミ・ニトを知っているのか?」
黒ずくめの男はチラッとナオミをみた。少しでも手がかりがほしいかのようだ。
嘘に嘘を塗り固めてできるのはせいぜい耳糞か、鼻糞ぐらいなものだ。真実をこしらえることなんてできっこない。だって真実は嘘からは生まれないのだから。ナオミは正直になることを選んだ。
それは彼女の運命の針をカチリッ――と確かに動かした。
――――たぶん五分は進んだと思う。
男は自分がカンペールにやってきた目的を語った。
その内容は彼女にとって衝撃的なものだった。この黒ずくめの男はナオミ・ニトという女の子に会いにきたものの、ジジ亭の亭主がいうには少女はつい最近、行方不明になったそうだ。この手の行方不明はたいがい何者かに殺されている場合が多く、生存説はまったく期待できないと聞かされたとか。
行方不明? そんなバカなことがあるもんか!
毎度の嘘ながら、慣れているとはいえ、あきれてものがいえない。朝方、確かに死にそうになったけど――――自分は運命を変えて生き残ったのだ。
「死んだなんて嘘に決まっているわ。だ、だってその子は……」
大人は何でこうも嘘をつきたがるのだろう。あの大人たちはすぐに嘘をつくから、これから彼らの名前は嘘八百にしよう。
「だってその子は?」
ナオミは胸が高鳴った。心臓が今にも飛びだしそうなほどだ。
「あなたの目の前にいるんですもの!」
ナオミ・ニトは男の目をみて、厳正にいった。
いきなり何ともいえない震えが襲いかかった。いや電撃かもしれない。
心に斧を打ち込まれたような衝撃といってもよく、男は声にならない声でうめいた。そうこれは感嘆の声だ。黒ずくめの男は少女にもう一度尋ねた。彼女の口からでた言葉、それは男が捜していた名前そのものだった。
その名前を聞いて男の胸に激震が奔った。
「君がナオミ・ニト!」
少女は自分の名を呼ばれ、静かにコクッと頷いた。
野良という名前はヤドリギ夫妻によって名付けられた名前だ。確かにその日からナオミは長い年月、自分を取りもどすことなく、行方不明になっていた。
冷静さを取りもどすために男は、冷たい水をもう一杯を飲んだ。
「俺は君を連れ去りにきたんだ」
その言葉を訊いて少女は驚き、ジョジョは(やっぱり人さらいだったんだ)と警戒の体勢をとった。だがただの人さらいではない、きっと何かわけありの人さらいだ。
「君をアッパータウンに連れていきたい」
男の言葉に胸がドクンッと鳴った。
「…ア、アッパータウン?」
ナオミの声はにわかに震えていた。
「君をアッパータウン、俺たちのブルトン人の社交界に招待したいと思っている。君は騎士候補生となって、ブルトンの歴史を学びにいくんだ」
黒ずくめの男はブルターニュ地方株式会社の理を少女に教えてやった。
騎士候補生、つまり騎士見習いはブルターニュ地方株式会社の『円卓の騎士団』のなかで騎士や騎士候補生たちと団体生活とともにブルトン人の社交界を学ぶ。ナオミの場合は爵位の関係で、その社交界がアッパータウンだという。
ナオミは困惑して黒ずくめの男に尋ねた。
「私、騎士にはなれないと思う。だって女の子ですもの」
「はじめに言葉ありきほどあてにならん。ブルトンの社交界に性別などまったく関係ない。はじめに行動ありきかどうかだ」
そもそも騎士とはなんであるのか。従者(従士)として領主に仕え、心身ともに通過儀礼を受ける者たちのことだ。中世末にはその軍事的意義は低下し、騎士の称号は重要な功績をあげた人々に栄誉として与えられるようになった。
現代の英国では騎士の称号は男女を問わず、卓越した業績をあげた者に君主が与え、騎士に叙任された者は姓ではなく名前の前に男性はサー、女性はデイムという敬称をつけて呼ばれる。同じくブルターニュ地方株式会社も社会秩序、ブルトン人の成人教育にすぎない。
こんなつまらない話にダックスフンドはうたた寝をしていた。
「ブルトン人は十三歳になれば、一人立ちをしなくちゃいけない。騎士への学びは誰人も邪魔はできない。君が望むなら連中もそうせざるえない。『円卓の騎士団』はブルトンの子どもたちのためにあるのだから」
連中、あのヤドリギ親子のことだ。
男がいう円卓の騎士団の意味は分からないけど、確かに今の生活を続けていても先は知れている。
「君は騎士の証をたてることを忘れてはいけない」
騎士の証をたてること、意味はいまいち分からない。でも唯一分かっていることは騎士になれば、ヤドリギ親子から解放されるということ、未来が拓けるということだ。
「やめときなってば!」とジョジョ。
うまい話には必ず裏がある――そうかもしれない。
「なぜおじさんは私を連れていこうとするの?」
ナオミは高鳴る胸のドキドキをおさえながらいった。
「…なぜ? 知れたことだ。運命の女神が私にそうしろと命令するからだ!」
この人は運命の何なんだ?
もしかして運命の使者か? ただ音楽家のように見えるけど。
「それに君には、アッパータウンに行かねばならない理由がある」
キミニハ、アッパータウンニイカネバナラナイ、リユウガアル。
「君は騎士となり、ご両親の爵位を受け継ぐ必要がある」
ご両親の爵位? 爵位ってどういう意味なんだろう――にしてもこの人は両親のことを知っているようだ。誰かが両親のことを語るとき、いつも少女の声は小刻みに震える。興味深い、じつに興味深い。もっと話がしたい。
コノヒトハ、ワタシノリョウシンヲシッテイル。
胸が高鳴り、ドックンと鼓動が激しく脈打つのがわかった。
「君のご両親とはアッパータウンでともに学んだ仲だ。私とは白馬の友だった」
竹馬の友の間違いじゃないのか? でも今は言い間違えなどどうでもいい。
「君はご両親のことも――両親がなぜいないのかも知らない」
いや何も知らなすぎる、知らないというのは恥ずかしいことではないが、知ろうとしないことは恥ずかしいことだ。また知らないということは恐怖でもある。無知は臆病であり腰抜けだ。だから人は恐怖を払いのけるために知らねばならない。それが自分にとってどんな災いをもたらせようとも。
男はナオミに自分のこと、両親のことをどこまで知っているのか問いかけた。
少女は何も答えることができなかった。当然だ、だって何も知らないのだから。
「アッパータウンに君の歴史はある」
黒ずくめの男の言葉が胸奥深く、ズサッと剣が突きささった。
彼女にとってこの九年は空白の九年といってもいい。ナオミの空白の歴史、両親の歴史を知る鍵はアッパータウンにある。もはやアッパータウンにいくことは、ナオミにとって自分の生い立ちを知ることに他ならない。
「あ、あの…、ジェラールさんは、その…えっと…」
少女は今まで感じたことのない、胸のときめきを感じている。
「…ジェラールは偽名だ、俺の本当の名は……いずれわかる」
今は急がねばならない、自分はわけあって追われている身。窓の外に自分を追いかけているヤツの姿をみた。そうだ、君がみた同じフロックコートの男だ。事情なら、おいおい説明する。とにかく今は急がねば。
「ヤドリギおじさんが――許してくれない」
扉越しにゴトッという物音が聞こえた。ジョジョは僕じゃないよ、という目つき。明らかに誰かが聞き耳をたてていた? 犯人はなんとなくわかる。きっとあのブタだ。
やはりだめだ、あの大人たちが許してくれるものか。
こんな下女のような生活が嫌で逃げだしても、口ではでていけと口汚く罵られても、何度も連れ戻されているではないか。運命を変えることなど、そう容易くはない。
「だから何だ?」
男は短く言った。
苛立っているようだが、短期は損気だ。
「ヤドリギおじさんが――」とナオミが同じことを言おうとしたとき、男も興奮するブタの鼻息を感じたらしい。立ち上がり、つかつかとドアのほうへ歩いていく。ドンッと勢いよくドアを開ければ、階段を慌てふためいて下りていく、ジジ亭の亭主の丸いでっぷりした無様なブタの背中が見えた。
「運命に挑むことを決して忘れるな。運命に挑むことを恐れれば、やがて過酷な運命のあまり人を怨み生きることになる」
ナオミはジェラールの顔をみて、驚愕した。
男の髪の毛が蛇になり、顔も険しくなっていく。顔から膿がで、ミミズのような生き物がはいでている。まるで伝説に謳われる蛇女のようだ。その姿はおぞましく、とてつもなく恐ろしい。
「蛇女の呪いだ。俺は運命を呪い、人を怨んだからこうなった」
運命を呪うということは、そういうことなのかもしれない。
ジェラールの怒りがおさまれば、その呪いも次第にひいていく。どうやら蛇女の呪いとやらは、怒りと連動しているようだ。
「いいか、ナオミ。君の人生は君のものだ、ヤドリギのもんじゃない。君の運命は君のものだ、もちろん君の運命を拓くのもヤドリギじゃない」
じゃあ、誰が拓くの?
「君だ!」と男にいわれ、ナオミは目の裏が痛くなってきた。
運命を拓くのは痛みが伴うのかもしれない。少女は運命の針がさらに七分進んだ、そんな気がした。かわりに目がゴリゴリと痛くなってきた。きっと脳が活性化しているんだ。
「ナオミ・ニト、運命の傍観者になるな。いつも運命の挑戦者でいろ! 運命は中立だ、その中立に傍観するか、挑戦してみるかの差で君の人生は大きく変わる」
第4章
「なんてこった!」
ヤドリギ氏は顔色を真っ青にして、階段から駆け下りてきた。
宿屋の亭主の感というべきか、男は黒ずくめの男の話を盗み聞きをしていた。ヤドリギはすぐさまホワイトに連絡をとり、指名手配の男を見つけたことを報告した。先ほどの会話の内容からしてみて、間違いないと確信したかのようだ。
「本当に指名手配の男ですか?」
ハレルヤの顧問家庭教師のタナカは、皆にかくも冷静につとめるよう促した。
「間違いない。わしはヤツと同窓の友だったんだ。これが十何年前にヤツと一緒に撮った写真だ。何だって? 顔が違うだと? 今の世の中、顔なんぞ変装すれば何とかなるもんだ。ふん、これで賞金はわしのもんだ」
噂をすれば何とやらだ。例の男は昼間の冷静さを取りもどし、荷物をまとめて少女とともに下りてきた。男はヤドリギ氏を軽蔑した眼差しで言い放った。
「野良を? ご冗談を…」
「この子の名前はナオミ・ニトだ」
黒ずくめの男は不機嫌にいった。
「同じでしょうに」
「違う! 名前を失うことは自分を失うことだ!」
ヤドリギ氏に一喝したあと、男はナオミの手を握りしめた。
フロックコートから百フラン札を五、六枚とりだして宿をあとにしようとした瞬間、居間には雪でずぶぬれになった男たちが数名、雪崩込んできた。
男たちは黒ずくめの男を取りかこんでいる。ヤドリギ氏は努力が水の泡にきえず、報われたことに綻び、大きな顔がさらに大きく見えた。
みるたびにますますでかく見える。
「信用すべきは捜査官の感だな、サンチョ・ボブスリー」
強面の男たちを従えているらしい、やりての男が一歩抜きでて、睨み見据えるようにいった。特別捜査官次官ホワイトの第一声だ。それは間違いなく、ナオミとわけあってジェラールと名乗る男が窓の外でみた男だった。
「…本当に指名手配の男なんですか?」
タナカ先生は情けないほどオドオドしていた。
確かに新聞に載ってあるサンチョ・ボブスリーとは顔が似てもにつかない。
居間の客人もざわめいたが、ホワイトは「変装薬で顔を変えているんだろう、数時間後には顔がもとに戻るはずだ」といい、部下にトランクケースを開けさせた。
「半日とはいえ、満喫したか? ジジ亭はお前にはもったいない」
人々がさらにざわめいた。革張りのトランクケースには、地下へと続いている階段に地下室があった。ホワイトはまったく気にもしない様子だ。このトランクケース、空間魔法によって持ち運びができる携帯牢獄だ。
「モン・サン・ミッシェルまで、ひとまずこの牢獄がお前の宿だ」
なるほど。ジェラールなる人物の本当の名は、サンチョ・ボブスリーというのか。
でも何だか、何だか変だぞ!
朝から起こっている出来事にしても、この変てこな革張りの荷物入れにしても、そう何かがいつもと違う。気になるのはこの人が犯罪者なのか――そうには見えないけど。
「おこしいただけますかな?」
ホワイトはシュボッと葉巻きに火をつけていった。
「くたばりやがれ!」
サンチョ・ボブスリーは間髪いれず唸った。
蛇女の呪いが顔中に広がり、その姿に皆が驚愕している。
「きさまらの妄想や寝言は、孤島の牢獄でたんまり聞いてやる!」
黒紳士サンチョ・ボブスリーはニト夫妻の一人娘、ナオミ・ニトをアッパータウンへと連れていくのだ、と言い放った。
「きさまが? この子をアッパータウンへと連れていくだと?」
九年前、ニト夫妻を殺した犯人として、監獄にぶちこまれたサンチョ・ボブスリーは自分の罪を特別捜査官次官に指摘されても、とくに否定しなかった。いやこの事実にボブスリーは人生を呪うがように自嘲気味にいった。
「――政府の犬どもめ!」
彼らの会話にナオミは動揺した。
落ち着け、持ちつけ、深呼吸だ。一、二、三。
そしてよく考えよう。いやだめだ、それでも動揺は隠せない。
「こ、殺されたって?」
数分たって、よくやく飛びだした悲鳴にも似た驚きの声だ。
ナオミは目のまえが真っ白になった。こうも親切に自分を助けてくれた男があろうことか、いやはや自分の両親を殺した犯人だというのだから。
ワタシハ、ヨンサイノトキニオヤニステラレタ、トキイテイタ。
おぼろげながらヤドリギ氏に預けられた記憶がある。両親の顔は覚えていないけど。
「捏造られた記憶だ、君の両親は『迷いの森の一味』に殺された」
「そうだ、お前に殺された」
ホワイトは葉巻をぷかぷかと吹かしながらいった。
「違う! 俺は無実だ」
無実の男はナオミをじっと見据えた。
「ナオキは私の無二の親友だった。君はヤドリギからすべてを聞いていると思っていた、私が冤罪で刑に服していることも。だがそうではなかった……」
ボブスリーが物凄い形相でナオミの育ての親、ヤドリギ夫妻を鋭く睨んだので、夫妻はビクッとすくみあがった。明らかに顔には恐怖感がににじみでていた。この夫妻は真実を捻じ伏せていた、本当の大嘘つきなのだ。
「さっさとこの男をぶちこんでくれ!」
ヤドリギは胸くそ悪そうにいった。
ボブスリーのこめかみには太い青筋がくっきりとみえた。あと一分ぐらいで堪忍袋の緒がブッチンと切れてしまうのではないか、ナオミはハラハラした。
「ブルトンの恥さらしが!」
「恥さらしはお前のほうだ、ボブスリー!」
ホワイト次官は大声で怒鳴った。
ボブスリーを取りかこんでいる、特別捜査官たちはピストルをかまえている。
抵抗することは得策ではない。男は大人しく特別捜査官次官の言葉に従い、敷居に片足を踏みいれていた。ボブスリーはトランクへと収納される今、そっとナオミのほうに目をやったものの、少女はさりげなく目をそらしてしまった。
「ボブスリー、一つ教えてやる。その子はきさまが連れていかなくともアッパータウンへと行くことになっている。ブルトン政府『ふくろう党』とトモロヲ・ブドリの決定だ。皮肉なもんだな」
ホワイトは手荒な真似をせずにすんだお礼とばかりにいった。
――――フクロウトウ。トモロヲ・ブドリ。
朝から聞いた覚えのない名前ばかり、不思議だ。
さらに腑におちないことがあるのか、特別捜査官次官は葉巻きを数回ふかすと、ほとぼりがさめるまで、なぜ誰も知らないところに身を隠さず、わざわざ人目はばかるこの町にやってきたのかが理解に苦しむと唸った。
その言葉を聞いてか、脱獄囚はピタッと、地下階段に一歩下りたところで両足を揃えた。
「なぜ俺が命を絶たなかったのか? 知れたことだ」
ボブスリーの言葉に皆が耳をたてた。
「…ジェラール・ルレスエロという人が俺に教えてくれたんだ…」
「お前が名乗っている、その偽名の男がなにを教えてくれたんだ?」
「自分のためじゃなく、人のために生きることをだ」
そう人のためだから、今まで自分は生きてこられたんだ、と男は昔を振り返る。
「百歩譲ってそうだとしても、なぜそこまでして生にこだわる?」
「死んだ友との約束を守るためだ」
この言葉がホワイトをさらに唸らせた。
九年間、ボブスリーは自分は無実だと言い続けてきた。自分ならぬれぎぬであれども、あそこにいるぐらいなら、とうに命は絶っている。脱獄の機会に恵まれたとはいえ、そうまでしてお前が生きてはたしたい、仲間たちの約束とは一体何なんだと。
「約束は守ってこそ約束だ!」
サンチョ・ボブスリーは厳かにいった。
俺に友の誓いに見切りをつける権利がどこにある?
死んだ友との誓いはニト夫妻に何かあれば、ナオミの後見人になることだ。今まで無実の罪で牢獄につながれ、必要なときに会いにいけなかった無責任な自分を、彼らが許してくれるとは思わないが自分勝手な誓いをたて、声も届かないところから約束を守れずにごめんじゃすまされない。そうボブスリーにとって守るべきものは、ナオミではなく、友との約束だったのだ。
――――やっぱりこの人は自分の味方なんだ。両親の友人なんだ。
今さっき冤罪で刑に服していたともいっていた。きっと本当に何かの手違いなのだ、私はこの人を信じる。いやこの人を信じたい、心の底から。
「ナオミ!」
男の声にうつむいていた少女は顔をあげた。
「『ロアゾン』とともに!」
ボブスリーは右手を左胸に拳をあてる。
「くだらん!」
と、またホワイトは唸る。
「そんなことをやるから獄につながれるんだ!」
ロアゾンとともに? ロアゾンって何だ? 獄につながれる?
どういう意味かは知らないけど、彼女も無意識に同じように拳を胸にあてた。
サンチョ・ボブスリーの姿がトランクケースから見えなくなると、ホワイトはしっかりとふたを閉め、ヤドリギにことの詳細を見ていた者たち、とくに非ブルトン人に少し渋めの忘れ薬を飲ますよう命じた。
この忘れ薬、一さじでも飲むと、液体の濃さも関係あることさながら、暗示をかけることにより、すっかり当時の記憶を忘れさせてしまう、ブルトン人の伝統ある秘薬だ。古より彼らブルトン人は門外不出の剣と魔法の文化を守ってきた。
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