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--どんな子ども時代でしたか?
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私はとても病弱な子どもで、高校入学時も最初からほとんど登校できずに、家でほとんど寝て過ごしていました。ときどき調子が良くなった時だけタクシーで登校していたのですが、テストの成績は常に3位前後だったんですね。学校でほとんど顔を見ないのに、この生徒は何なんだろう?と不審に思われていたはずです。
科目で好きだったのは漢文と歴史です。歴史はずっと100点を取り続けていましたね。当然文系に進みたかったんですが、ちょうどソ連で人工衛星が打ち上げられたこともあって、世の中は理系ブームだったんです。先生にも説得されて、理系に進むことになりました。東大にいた学生時代は勉強もしましたが、教授の講義を生徒が採点しようという提案をしたり、やんちゃなこともたくさんしましたね。
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--就職後のお仕事を教えてください。
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最初に入社したのは、大学の主任教授に紹介された旭化成工業(現:旭化成)です。この時も、入社してすぐに2ヶ月休まなければならない健康状態でした。せっかく希望に燃えて就職したのに、ショックでしたよ。毎日仕事が終わると疲れ切ってしまって、着替える前にロッカーの前で少し休まなければいけない程でした。それが26~27歳で身体がガラッと変わるんです、丈夫になったんですね。
当時の旭化成というのは、繊維や石油の仕事から、電子や住宅、エネルギーといった新しい領域のビジネスをやり始めていました。私はその中でエネルギーの分野、具体的にはウランの研究をしていました。発電所や原子爆弾などに使われる濃縮ウランの技術研究ですね。
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--非常に重要な技術開発に携わってこられたんですね。
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天然ウランを濃縮ウランに変える技術というのは、非常に難しいんですね。日本には当時そんな技術はないので、濃縮ウランをアメリカから購入するしかなかったんです。危険を伴う研究実験ですから、反対する人たちもたくさんいました。私は43歳で研究所長になり、一つの研究で300億円を使うようなプロジェクトに携わりましたが、常にいつ誰に襲われるか分からない状況でした。
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そして1993年に芝浦工業大学工学部の教授に誘われ、また大学に戻ってきました。私の場合、絶対これをやりつづけなければいけないとか、給料や待遇はこれだけもらわなきゃいけないとか、そういうことは全く気にしないんです。誰かが自分を必要としてくれて、自分がそれをやりたいと思ったらやる、それだけなんです。特許もたくさん取得しましたが、権利や報酬は全て放棄しています。
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--その後はどんな活躍をされましたか?
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大学で教える以外にもいろんなことをやってきました。リサイクルに関する本や『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』という本を書きました。読売テレビ『たかじんのそこまで言って委員会』に出演した後、自分の本が急に売れるようになって、一般の人たちにも名前が知られるようになりましたね。
世の中で当たり前だと思われていることは、本当にそうなのか。みんながこうするから自分も同じことをするというのは合理的な行動なのか。私がずっとやってきたのはそういうことに対して立ち止まって考えて、疑問を持つことです。正義や理想を掲げて偉そうなことを言うだけでは、社会は変わりません。結局、わたしたちが日々自分の好きなことをやって、毎朝目が覚めた時に「今日は何をしようか」と思えるのが一番幸せなことなんじゃないでしょうか。
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