第十四番区郊外と第十三番完全封鎖区域との境界に、幾つも存在する廃墟。
打ち捨てられ、今や主を人から無数の鴉へと換えたその城の最上階。
異様な光景だった。
欠けた天井から覗く暗い室内を更に黒く黒く黒く染める、無数の影。
鴉だ。数百を超える無数の鴉。
暗闇を更に黒く染め、しかし無機質に輝くその瞳だけが、静かに暗闇の中、一点だけに向けられている。
感情の無い視線が交差する中心。
微動だにせぬ鴉に包囲され、無造作に捨て置かれた鉄材に座る拘束衣の囚人と、手足を束縛され、砂埃に塗れた床に転がされたライカ・クルセイドの姿があった。
「あなたは、何者なの?」
鴉の視線に怯える素振りを見せながら、ライカは囚人を真っ直ぐに見据えて訪ねた。
──本来であれば鴉など恐れる事は無いし、この程度の束縛もライカには通用しない。
変身していない状態とはいえ、即座にレーザーブレードを展開する事も可能であり、魔術的に強化された特殊な素材でも無ければ容易く断ち切る事が出来る。
ライカ・クルセイドは悪の魔術結社ブラックロッジから逃げ出した改造人間である。
故に、本来であれば生半可な拘束具ではライカの行動を制限する事はできない。
だが、組織から逃亡中であるライカは、潜伏先を悟られる事を恐れ、他人に正体をばらす事ができない。
更に言えば、目の前の囚人の魔術師としての位階を鑑みれば、例え力をフルに発揮した所で逃げ切る事は出来ない。
ライカはいざという時の為に体力を温存し、助けが来るまでの時間稼ぎの為に、聞いても答えが返ってこない様な問いを発したのだ。
ライカの問いに、囚人はゆっくりと振り返る。
囚人は口を開きかけ、一瞬だけ何かを思う様な仕草を見せた後口を閉じる。
囚人の代わりとでも言うように、周囲を取り囲んでいたカラスたちが口を開き、本来発せられるべきでは無い人語で答える。
「……『暴君』」
「『暴君』?」
予想外に答えが返ってきた事に内心驚いたライカではあったが、それを顔には出さずに鸚鵡返しに聞き直す。
「大体そう呼ばれてる、みんなからはね」
何か、言葉を詰まらせる様な間を置いた後に告げられた名前に、ライカは首を傾げ、囚人──暴君の代弁をする鴉達は僅かに、よくよく注意しなければ分からない程に自嘲の籠った声で肯定した。
「みんなって……」
「『ブラックロッジ』
「──っ!」
「あそこじゃ、そう呼ばれてる」
告げられた名前に、ライカは息を呑んだ。
このアーカムシティにおける、いや、世界中を見ても最大規模と言っていい、悪の魔術結社。
ライカの身体を改造した組織。
つまり──
「あなたも、信徒!?」
「そういう事になっちゃうね。はみ出し者だけど」
ライカは暴君に厳しい視線を向け、ぎっ、と音が鳴る程に噛みしめた歯の隙間から、絞り出す様に声を出す。
「九郎ちゃんを誘き出して、殺すつもりなのね……!」
ライカは、自分でも驚く程に感情が高ぶっているのを感じていた。
かつて日常の象徴であり、しかし今、想う相手となった九郎を殺そうとしている目の前の囚人相手に、今にも手が出そうな程に怒りの感情を震わせている。
だが、そのライカの言葉に肯定は告げられず、鴉の合唱がぴたりと止んだ。
「────違うよ」
「……え?」
暴君が、自らの口から発した言葉に、ライカは思わず間抜けな顔で聞き返してしまう。
九郎を殺すのかという問いに返された、暴君の否定の言葉。
暴君自身の喉から発せられたその声は、暴君の身体付きから想像し得る幼い少女そのままの澄んだ鈴の音の様な音。
その声には、先ほどまでの凶行からは想像も付かない様な、疲労と、淡い期待に満ちた感情が込められている。
「たぶん、テリオンも似たようなものなのかもね。『暴君』もテリオンも、形は違うけど九郎には期待してる。本当はテリオンが先約なんだけど、でも、『暴君』の方が先だった。巡り合わせに感謝しなきゃ」
「……」
意外な程に饒舌な『暴君』に呆気にとられているライカに、『暴君』は口を噤み、再び鴉達が口を開く。
合唱では無い。ライカの目の前の一羽の鴉だけが、ライカの瞳を見つめながら『暴君』の言葉を伝える。
「訳が分からないだろうけど、少なくともシスターに手を出すつもりはないから安心してよ」
酷く真摯な、声色だけで嘘では無いと信じてしまいそうになる言葉にも、ライカは表情を緩めない。
ライカは確かに目の前の魔術師の言葉が信用に足るものだと、奇妙な確信を抱いていた。
『暴君』は、この場所に九郎が来たのなら、後はシスターが逃げても追う事はしないし、人質に使う事もしないだろう。
だが、問題となるのはそこでは無い。
「……駄目よ、だってあなた、九郎ちゃんを巻き込もうとしているもの。そんなの絶対、許せない……」
ライカの憤りとはそこだ。
本来なら関わる必要の無いブラックロッジとの闘争に、目の前の魔術師は九郎を積極的に巻き込もうとしている。
自分とブラックロッジとの因縁は、もはや関係無い。
九郎を死地に追いやる相手だからこそ、ライカ・クルセイドは『暴君』の行動を、何より、今正に九郎を死地に誘う為の餌と成り果てている自分を許容できないのだ。
今にも全身に埋め込まれた魔導回路を機動しかねないライカに、『暴君』は首を横に振る。
「違う。九郎が巻き込まれているんじゃない。いや、九郎が巻き込まれているんなら、『暴君』も、テリオンも、シスターも、この街も、この星も、何もかもが巻き込まれる側なんだ」
鴉の口から放たれる暴君の言葉に、ライカは反応を示さない。
ただ、起動仕掛けていた魔道回路が、遠くからゆっくりと近づいてくる、強大な魔術師の反応を捉え、ライカの波立つ心を押さえつけた。
目の前の『暴君』を含め、アンチクロスと同じレベルの魔術師が三人。
下手に動く事も出来ず、ライカは無力感に苛まれながら、ただ大人しく機会を待つしかない。
「でも、巻き込まれたままじゃだめだ」
そんなライカに背を向け、『暴君』は自らの口で、自分にだけ聞こえる声量で、呟く。
「人は皆、眠れる運命の奴隷、眼が醒めたなら、自分で道を切り開かないと、ね」
二人の居る廃墟に入るまでも無く、近付いて来ていた魔術師達の魔力が高まっていく。
押し潰す様な圧力を伴った水気と、刃物の様に鋭い風気の気配が濃密な物へと変わる。
戦闘が、始まろうとしていた。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
暴君に操られ、自らの口から放たれた言葉の意味を考える事すらせず、大十字はマギウス・ウイングを広げ、空へ飛び発っていた。
第十四番区郊外と第十三番完全封鎖区域との境にある一番大きな建物。
九郎はそこを探すまでも無く知っていた。後輩の魔術実験に付き合わされた時に、人気が無く、万が一何か起こったとしても対処しやすいからと度々訪れていたのだ。
車でも三十分も掛からずに辿り着けるような場所で、空を飛べば更に早い。
だが、今の九郎にはその場所にたどり着くまでの時間が、苦痛に感じられる程に長く感じられていた。
仮に、浚われたのがライカ以外の誰かだったとしても、九郎は同じ全速で助けに行っただろう。
だが、浚われたのがライカ・クルセイドであるという事実が、全力で飛翔を続けてもなお遅いと感じさせているのだ。
だが、逆にその速度に危機感を抱いている者も九郎の傍には存在した。
「待て、九郎! 敵は罠を張っている筈だぞ! 事は慎重に進めねば……」
九郎の所有する魔導書、アル・アジフの精霊だ。
彼女は僅かな戦闘から、暴君が達人級(アデプトクラス)の、下手をすればアンチクロスよりも強力な魔術師と考えていた。
思慮無く策無く跳び込んでは、九郎に勝ち目はないと踏んでいたのだ。
だが、九郎は自らの魔導書の精霊の言葉にも耳を貸そうともしない。
「だからってちんたらしてらんねぇだろ! ライカさんの身がかかってんだぞ!?」
いや、貸そうとしていない訳ではないが、その理屈に頷いてゆっくりと準備を整える時間すら惜しいのだ。
偃月刀一本鍛造する間にライカさんがどんな目にあわされるか、策一つ練る間に、もしかしたら取り返しのつかない様な事になっているかもしれない。
事ここにきて、九郎とアルの思考にはずれが生じていた。
九郎は、何をおいてもまずライカの救出を最優先とし、極端に言ってしまえばライカを浚った暴君の能力に関しては一切思慮に入れていない。
まず、助ける為には駆けつけなければならない。故に準備をする時間すら惜しく、その時間を完全なロスと考えている。
アルは、ライカを救出する事を最優先としているが、その目的を達成するには確実に暴君が障害として立ちふさがるものと確信していた。
まず、助ける為には暴君をどうにかしなければならない。故に目的地に付き戦闘が始まるよりも早く、何かしらの対策を手に入れなければならないと考えている。
どちらも間違いでは無い。実際のところ、九郎とアルの両方の考えを両立しうる手段があれば、それが最善だろう。
だが、今現在速度と策を両立させる事は難しい。不可能と言ってもいい。
【……輩、せ……い、せーんぱーい】
不意に、九郎とアルは空を飛翔する自分達の隣から、聞き覚えのある声が響いている事に気が付いた。
「この声は」
「卓也か!」
アル・アジフが一瞬だれの声か記憶を掘り出すのに時間をかけている間に、九郎はその声が付き合いの長い後輩の声である事に気が付いた。
前方への飛翔を止めず顔だけで声の方へと振り返ると、そこには戦闘機と鳥の合いの子の様な、しかしその身体に鱗を生やし、馬の様な顔をした機械の鳥が並走している。
九郎がアイオーンで戦う折に多用し、卓也が飛翔用魔道兵装に組み込んでいる物と同じ、シャンタク鳥の記述を刻み込まれたアーティファクト・クリーチャー。
九郎はそれが、卓也がふとした思いつきから造り出した使い魔の一種である事を記憶に留めていた。
【はい、俺です。非常時なようなので手短に差し入れの説明だけをさせて頂きます。ささっと受け取ってくださいな】
「約に立つんだろうな!?」
言いつつ、九郎は卓也の操る使い魔がぶら下げていた包みを引っ手繰る。
包みを開く九郎の表情は、既に藁にも縋りたいといった表情では無く、心強い武器を扱う戦士の表情へと変化していた。
疑う様な事を言ってはいるが、ここぞと言う時にこの後輩がやたらと都合良く的確なお節介を焼ける事も記憶しているのだ。
【もちろん、姉に誓って。さ、アルさん】
「うむ」
荷物を引き渡し身軽になった使い魔は、アルに向けて淡く輝く文字列を飛ばし、アルはそれをマスコット形体の身体を一部魔導書形態に変化させ受け取る。
言葉で武器の解説をするのでは無く、記述の一つとして一時的に組み込むことにより、魔術兵装の一部としてアルから簡単に参照する事が出来る様になる。
更にアル・アジフから参照できると言う事は、マギウス・スタイルに身を包んだ九郎もまた、瞬時にその武装の情報を取り出し使用する事が可能であり、脳に直接情報を書き込むのと同等の速度で理解する事が可能となるのだ。
「なるほど、銃に刀か」
「あの魔術師に対抗するにはおあつらえ向きだな」
そのアルと九郎の言葉に、機械の使い魔は揃いの良い歯の列にも似たエア・インテークを剥き出しにして、身体を傾ける。
【それだけあれば、十分戦えますでしょう? 待ちかねていると思いますので、しっかり救ってあげて下さい。ではまた、休み明けに大学でお会いしましょう】
風に乗り遠ざかり、九郎達の視界から消えていく使い魔。
「おう!」
後輩の『救ってあげてください』という言葉に力強く頷き、九郎はウイングを羽ばたかせ、目的地へと加速。
爆音が響き、生まれた焦りを今さっき受け取った二丁の銃と一本の刀に手をあて、臨戦態勢になる事で和らげる。
目の前まで迫った目的地の近くから爆音にも似た地響きが届く。
周囲の建物の屋上から無数の鴉が一斉に飛び立ち、烈風が吹き荒れ、逃げ遅れた鴉達の血と羽根と肉片が宙に舞う。
「!? 何が起こっている……?」
「ちぃっ!」
目的地、一番高『かった』崩れかけのビル目掛け、全速力で降下する。
既に根元から崩れ始め、天上、いや、最上階が丸ごと砕け散り落下、地表に降り注ぎ更に微細に砕け続ける音が連続して大十字の耳に聴こえた。
月光に照らされ、瓦礫と粉塵と血風と羽根の中、三つの、いや、四つの人影。
その内の一つ、いや、二つに九郎の視線は釘付けになる。
拘束着の小柄な脱獄囚と、その肩に背負われたブロンドの女性。
暴君と、ライカ。
「ライカさん!」
九郎の叫びに、肩に背負われていたライカが身を捻り顔を上げる。
「九郎ちゃん! ん……っ!」
だが、その身を捻る動きで固定が不安定になったのか、暴君に担ぎ直されて言葉を詰まらせるライカ。
ライカのとりあえずの無事に安堵する暇も無く、九郎はライカを奪い返す為に暴君目掛け、地表スレスレを低空飛行し吶喊。
九郎が暴君とライカの二人にだけ目を奪われている間に、アルはこの場に居るまかり間違っても味方とは思えない連中の分析を行っていた。
「アンチクロスに匹敵する魔術師が現れたと思ったら、更にアデプトクラスが二人追加か。ややこしい事になっておるのう」
暴君では無いアデプトクラスの魔術師の一人は、禍々しい風の気配を纏ったストリート・キッズ風のファッションに身を包んだ少年。
もう一人は大柄な、ガウンとマスクに身を包んだ二メートルに届く筋肉質の巨漢。
「関係ねぇ。邪魔者を全員ぶっ飛ばして、ライカさんを助けるだけだ! アル!」
「お主は単純じゃなぁ……」
主である大十字の言葉に軽く肩を竦めながら、アルは求められるままに、つい先ほど追加された武装を九郎の手の中に顕現させる。
「貰い物だから予備は無い。ぬかるでないぞ」
「おうよ!」
進路を遮る様に魔導器であるヨーヨーを構えて立ちふさがる小柄な魔術師──クラウディウス目掛け、身体にぴったりと張り付けるように手の中に現れた何かを構える九郎。
クラウディウスは一瞬何が来るものかと警戒したが、九郎の手に握られている何かから感じられる魔術的な雰囲気が極々小規模な物であった為、避ける事すらせず、身体を捩じり振り被り、ヨーヨーを射出。
「はぁっ! 即席野郎が何し」
殺人的な威力の込められたそのヨーヨーで、九郎の持つ武器毎迎撃しようとしたのだ。
それは正しい判断だったのだろう。九郎の持つ武装が、真実この世界の論理のよって形作られていたならば、の話だが。
「た、あ、ぁ?」
どちらにしろ、それはIFの話に過ぎない。
常時展開している出力の弱い障壁を容易く切り裂き、九郎の手の中の武装──機械的な意匠の施された刃の無い刀は、一刀のもとにクラウディウスを何処とも知れぬ時間、空間へと追放した。
これこそ、卓也が九郎に託した武装の一つ。BOSON CARRIED TERMINATOR OUTFIT──BCTO(ボクトー)である。
魔術的な効力こそ持っていないが、内臓された複数の超小型オルゴン・エクストラクターとラースエイレム・モジュールによる異世界追放攻撃と、込められた『命中』『直撃』の呪い。
どちらもこの世界には存在しないルールによって構成されており、魔術師にはこの異常性を察知する事は不可能に近い。
振り抜かれたBCTOから、カシュ、という空気が抜ける様な音と共にカートリッジ型に纏められたエクストラクターとモジュールが排出される。
押し出される形で、BCTOの内部で新たなカートリッジが装填された。
込められていたのは科学ではなく魔術の産物。発動するのはバルザイの偃月刀に魔力を込める術式の簡易版。
日緋色金製の刀身が一時的に魔術の威を帯び、
「グォォォォォォォッッッ!!!」
巨漢の魔術師──カリグラのダイナマイトが爆発したかの如き拳圧を受け止める。
迫る拳の弾幕に対して振るわれたBCTOは『必中』の呪いの残滓を受け、過たず命中する。
だが、激情に支配され威力を増したカリグラの拳打を受け流しきれず、九郎は無様に地面に叩きつけられた。
「ヨグモ、クラウディウスヲ!」
拳打の余波で崩れ落ちる足場を転げる九郎に、カリグラの容赦の無い追撃が掛かる。
変わらぬ、いや、繰り出されるたびに破壊力が上がり続ける拳圧を、マギウス・ウイングを地面に叩きつけるように羽ばたかせ体勢を立て直し、後ろに跳び退りながら受け流す。
いや、ただ単に受け流している訳では無い。まっすぐ後ろに逃げるのではなく、僅かながらカリグラを中心に螺旋を描くように下がり、ライカへの距離を詰めているのだ。
上手く行けば直ぐにでもライカの元に辿り着けるルート。上手くいけば。
「ヨグモ、ヨグモヨグモヨグモォォォォッッッ!!」
濁った嗚咽の様な、泣き声にも似た叫び。
カリグラの狙いをつけない乱打は、その一撃一撃が頑強なビルの一角を粉砕してしまう程の威力を秘め、自然と九郎はその拳打の雨から逃れる為、螺旋運動を中止しなければならない。
「埒が明かんな」
「こうなりゃ……」
九郎は構えていたBCTOを逆手に持ち換え、もう片方の手で先程の暴君との戦闘で掠め取った大口径の赤い自動拳銃を抜きかけ、ふと思いついたようにその拳銃を元に戻す。
「使わんのか?」
「ああ、代わりにアレ出してくれ」
「早速か」
赤い自動拳銃を戻し、空となった掌に粒子が集まり、一丁の黒い拳銃を形成する。
いや、果たしてそれを拳銃と言っていいものか。
それは銃身を持たず、代わりに複雑な構造の機械で形作られた刃の無いナイフの様な物が二本、互いに背を向けて並べられている。
だが、九郎はそれがまるで必殺の威力を秘めていると確信しているかのように、躊躇い無く引き金を絞り、
「ステイシス!」
呪句(コマンド)を唱える。
「ゴロズ! ゴロズ、ゴ、ロ、ズ、ゴ──ロ──ズ──……」
銃口ならぬ矛先を向けられたカリグラの拳打が、カリグラ自身の動きが、カリグラの周囲、カリグラの一部と認識される周辺の空気までもが緩やかに減速し、拳圧の弾幕を緩め、十分に避けきれる密度に落ちた。
九郎の呪句と共に目に見えぬ程の密度で解放された、字祷子の性質を含んだオルゴン粒子。
それが照射された対象であるカリグラの周囲で重力変動を起こし、時空に限定的な歪みを生じさせ、時間の流れを極端に減速させる。
これもまた、卓也が九郎に齎した武装の一つである。
かつて恩師であるアデプトクラスの魔術師にあっけなくラースエイレムを解除され、その対策として思いついた、完全時間停止成らぬ時間遅延攻撃。
それを小型モジュール化し、斬りつめたソードライフルへと組み込んだ、対魔術師用の補助兵器。
アルに転送された説明書きには『ド・マリニーの時計とは異なるタイプの時間操作兵器』としか説明されていないが、今の九郎にとって理屈はどうでもいい。
ただ、カリグラの攻撃をくぐり抜け、ライカを抱える暴君の元へと辿り着けるという事こそが、何よりも重要なのだ。
二人の魔術師を出し抜き、重りとなる撃ち終えた拳銃を投げ捨て、再加速しながら距離を詰め暴君へと肉薄。
「九ゥゥぅぅ郎おォォオオおぉォォクゥゥゥゥゥンンっッッッ!!」
仮面に隠されていない口元を引き裂けんばかりに吊り上げ、暴君が拳を振り上げる。
「ずえぇぇぇぇぇぃぃぃりゃあぁぁぁぁぁ!!!!!」
同時、九郎もウイングによる加速を加え、BCTOを握ったままの拳を咆哮と共に突き出す。
空中で激突する拳と拳。太い生木をへし折る様な音と共に、暴君の拳の骨が拉げ、砕けた骨の欠片が肉と皮を引き裂き、小さな拳を内側から破裂させる。
拳だけでは無い。腕の半ばからも骨が飛び出し、肘から先は使いものにならないレベルで破壊される。
単純な腕力であれば勝っている。他の二人には新しい武装も通った。勝機が無い訳では無い。
取り戻せるのだ、ライカ・クルセイドを。
その事実に、九郎は口角を上げ笑った。
―――――――――――――――――――
そして、そんな九郎の健闘に『暴君』は粉砕された腕を庇いながら狂笑を深める。
初めは九郎を怒らせ、力を引き出させる為にシスターを浚ってきた。九郎は怒りによって力を増すタイプだと踏んだからだ。
だが、再び相対してみてその印象は裏切られる。
確かに、九郎はシスターを取り返す為に突っ込んできた。
だが、障害となるアンチクロス二人の内、一人を瞬殺、一人を苦も無く足止めした手並みは、間違いなく冷静な思考を維持している証拠だ。
確かに怒りはあるのだろう。だが、その激しい感情を理性で乗りこなしている。
大十字九郎は、間違い無く魔術師として順調に成長を重ねているのだ。
そして、それだけではない。
「ライカさんは返して貰うぜ!」
髪の毛にアトラック=ナチャの魔力を通し、シスターを奪い返そうとする九郎。
その九郎の手に握られている刀と、投げ捨てられた銃。
(知らない、『暴君』は、『暴君』はあの武器を知る事が出来ない……!)
そう、『暴君』はそれが何であるか、何処から齎された武器であるか理解できない。
例え無名祭祀書に記された最大最凶の禁術を用いアカシックレコードにアクセスしても、その武器に関する情報を得る事は出来ないのだから、当然と言えば当然だろう。
潰された腕を庇うのにシスターから手を放してしまい、なすすべも無くシスターを奪われる『暴君』
だが、九郎をおびき寄せる人質を奪い返されたにも関わらず『暴君』はそれを阻止する素振りすら見せない。
いや、動けないのだ。沸き立つ感情に、潰れた腕を握る手に力が入り、折れ砕け刃物と化した骨に切り裂かれた腕の皮膚を脂肪を神経を筋線維をみちりみちりと握り潰す。
歯を、涙を堪える様に、嗚咽を抑える様に食いしばる。
悲しい訳でも無い。悔しい訳でも無い。
あの武器の出所を、『暴君』は知らない。だが、『暴君』ではない『暴君』ならば──
『もしかしたら、もしかしたらだけど、これで、このループも終わるのかもしれない』
エンネアであれば、あれらの武器が誰の作であるか、容易に想像する事ができる。
痛みを産み出してまで抑え込む感情の名を、歓喜に似て、感謝に近い心の動き。
迂闊に手を出せない筈なのに、こんな周りくどい真似をしてまで『暴君』を、エンネアを解放しようとしてくれているのだ。
その事実を思い、歯を食い縛ったまま、泣き顔になりかけていた口を無理矢理に笑みの形に歪める。
(そこまでしてくれるなら、期待に答えなきゃ、だよね)
カリグラの振るう拳の余波に煽られ、九郎の腕の中に収まる事無く落下したシスターをキャッチしながら、『暴君』は嗤う、いや、笑う。
見れば目の前のカリグラは既に時間停滞をディスペルし、しかしその衝動に任せ、機神招喚の術式を展開。
地を割り噴き出す巨大な水柱が辺り一面を水没させ、カリグラの魔導書『水神クタアト』の機神招喚に適した空間に変換。
巨大な渦に飲み込まれ、同じく流されてきた瓦礫に、千切れかけていた腕を持って行かれる。
隻腕となりながらも荒れ狂う水の中で足掻きながら、『暴君』はそれまで放さない様に捕まえていたシスターから手を放す。
シスターは『暴君』が流れに抗いきれずに離したと思ったのか、振り返りもせずに渦の奥、水底へ向けて潜り始めた。
見ればシスターの頭髪は銀に染まり始め、身体の各所に字祷子が纏わりつき、仮面が、装甲が、背には翼を模したスラスターが展開している。
自らもシスターから、いや、ムーンチャイルド試験体4号『メタトロン』に背を向け濁流を掻き分け、移動を始める『暴君』。
先輩である彼女ならば大丈夫。
そう割り切り、自らの魔導書『無名祭祀書』を呼び戻す。
『暴君』自身から分裂するかの様に現れた、『暴君』と同じ容姿に全く同じ拘束衣を纏った少女。
自意識こそ命令を聞く程度にしか存在しないが、その少女こそ魔導書『無名祭祀書』の精霊。
魔導書の精霊が、弾ける。
人型が爆ぜ、しかし溢れだしたのは血肉では無く無数の紙片、魔導書の頁。
それらのページの半分が水を引き裂きながら螺旋を描き、素顔を晒した『暴君』を中心に球状に広がり、仮想コックピットを形成。
自らを機械の神と術者をリンクさせる為のデバイスと定義し直した無数の頁群。
それは混沌と、しかし整然と打ち立てられた術式に乗っ取り、術式の発動を心待ちにするかの如く、刻まれた魔術文字に光を波立たせる。
もはや水気の排除された仮想コックピットの中、髪から水を滴らせ、一糸纏わぬ姿の『暴君』が、柔らかな笑みを浮かべている。
楽しい、いや、嬉しいのだろうか。自らの心に湧き発つ感情を掴み切れず、しかし『暴君』は尚優しく微笑む。
何もかもが、嫌気が刺し、暗澹たる気分で流れるままに見過ごしてきたこの世の何もかもが、自らの意に沿う様に動き出している。
背中を押されているのだ。見えない手に、感じられる掌の感触に。
「ねぇ、見てる?」
唇を躍らせ、囁く様に、謡う様に、誰へとも付かぬ問いを放つ。
誰へ向けた声か、誰に当てた言葉か。
聞こえるか、聞こえていないかは然したる問題ではないのかもしれない。
「見ていて、聞いていて、覚えていて、忘れないで」
私はここに居て、でも、ここに留まらない。
この呪われた運命を絶ち切って、ここから飛び出してみせる。
「これが、最凶のアンチクロス、『暴君』の!」
名を、呪われた自ら肯定し、邪悪の一極としてこの世に定義する名を叫ぶ。
仮想コックピットと成らなかった魔導書のページが、『暴君』の身体に殺到し、打ちつける様にその身体を覆い隠していく。
貼り付いた紙片が赤く、紅く色付き、紙とは異なる厚みを生み出す。
革の質感を得た紙片は『暴君』の裸身を隠すだけに飽き足らず、その身体を引き千切らんばかりに締め上げる。
ぎちぎち、ぎりぎり、みしみし。
皮膚を捻じり、肉を締め付け、骨を軋ませ、しかし頁は遂に『暴君』の身体を拘束しきれず、屈伏する。
赤い革の手袋に包まれた手を開き、肘から先の無い腕と共に、翼の様に広げる『暴君』。
吊りあがり気味で、どこか猫を思わせるその瞳は決して揺らがない意思を湛え、口はその自信を現す様に笑みを形作る。
全身から、コックピット内部の淡い光を打ち消す暗色の魔力を噴き出し、その勢いで濡れていた髪から水気が飛び、猫の耳にも似た癖のある癖毛を立たせた。
それら秘されていた『暴君』のありのままの素顔を、最後に残っていた頁が覆い隠す。
頭蓋を割る程の締め付けも意に介さず、しかし口元は三日月の如く吊りあがり、亀裂の笑みを作り出す。
魔導書『無名祭祀書』の『詠唱形態』が成立し、後は術式の発動を待つばかり。
渦の上では、クラーケンの攻撃を空を飛び避け続けるアイオーン。
「──最後の、戦いだ!」
喜悦に満ちた叫びと共に、アーカムシティに、異形の機神が舞い降りた。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
「すいません、この『ミルフィーユ・オー・フレーズ』を一つください」
「────、──、──────」
材料の入荷が来月らしい。
がーんだな、出鼻をくじかれた。
「じゃ、この『ベリーベリークレープ』を」
「─────────、─────────、────────」
そんな、メニューに乗っているのにこれも材料が揃っていないなんて、残酷過ぎる……。
しかしそうか、どうしよう。結局甘い物は数が置いて無い訳だ。
それならパンケーキやミルクレープなんて手もあるだろうが、ただただ甘いだけで飽きがくるし、自分で勝手に果物を追加するのもナンだ……。
かといって、街で鬼械神が巨大戦をしているにも関わらず営業する店なんて、ここ意外に思いつかない。
ここは大人しく軽食をお持ち帰りして、甘味は自力で用意する事にするか。
「じゃ、このハムサンドを三人前ください。持ち帰りで」
後ろで豚肉炒めとライスと豚汁とおしんこを頼んでいた客(舞踏会に出席できそうな蒼白の仮面と、そのままコンクラーベに出場できそうな立派なこしらえの黄色い法衣の様なものを着ている)が、俺のお持ち帰りという言葉に心の中で食い付いた気がしたが、無理も無い。
何しろ、シュブさんがお持ち帰りサービスを始めたのはここ数年の事だ。
一ループにつき二年しかないにも関わらずここ数年とか少しパラドックスな気分だが、ここ数年なのは間違いない。
あの客の高貴な服装、どことなくこの店に似つかわしくない。
恐らくアーケードで飯屋を探している途中で巨大戦が始まり、何処の店も店員が避難してしまって、偶然空いていたこの店に飛び込んできたのだろう。
「────」
「はい、じゃ、これで丁度ですね」
代金を払い、紙袋に入れられた三人分のサンドイッチを受け取り、笑顔で小さく手を振るシュブさんに此方も笑顔で手を振り返しながら店から出る。
巨大戦が行われている第十四番区郊外とは反対側に位置するこの店からでは、人間の耳では戦闘の音が小さな地響き程度に聞こえるくらいだろうか。
細い路地からアパートの上に跳び、数度の跳躍で遠目に巨大戦が見える高いビルの上に降り立つ。
「ただいまー」
「おかえりなさい、甘いのあった?」
「おにーさん遅ーい!」
雨避けに張ったパラソルの下でティータイム用の椅子に座り茶を(紅茶ではなく日本茶である事は言うまでも無い)舐めていた姉さんと美鳥が、机の上に載せられているモニタから目を離し、思い思いの言葉で出迎えてくれた。
俺はテーブルの上にサンドイッチの入った紙袋を置き、首を横に振りながら椅子を引き、力無く腰を降ろす。
力無く腰を降ろすとか自分でも自覚してしまう程度には、俺はショックを受けていたのだ。
「ダメダメだ。ていうか、新メニューの告知しておいて材料入荷してないとかどういうことなの……」
そりゃ、何時もの大衆食堂然とした材料を揃えるのとは訳が違うのかもしれないけど、それならそれでメニューから外しておくとかさぁ……。
項垂れる俺に、紙袋の口を開け、ハムサンドの包みを取り出しながら美鳥が口を開く。
「でもあのメニュー、来月からっしょ? 広告にもそう書いてあったし」
「メニューに載ってたら普通、サプライズか何かで早めに始ったのかと思うだろ?」
特に個人経営の店ならそんなもんだろう。
「まぁまぁ、シュブちゃんも少し申し訳なく思ってオマケしてくれたみたいだし、今日の所はハムサンドを頂こ?」
「オマケ?」
姉さんに窘められながら、俺は紙袋の中を探る。
紙袋の中には、俺と姉さんの分のハムサンドの包みの他に、クリーム色で満たされた透明なカップが、蓋をして入れられていた。
ハムサンドの包みを二つ取り出し、片方を姉さんに手渡し、カップを取り出す。
「プリン?」
「いや──」
美鳥の疑問に、俺は首を振り、カップの蓋をゆっくりと開ける。
今まさにサイトロンが俺に見せたヴィジョンに間違いが無ければ、これは────
「焼きプリンね」
「いや」
姉さんの言葉に首を横に振り、震える手で透明なカップを僅かに天に掲げる。
「焼きプリンさんだ!」
・──焼きプリンさんへの敬意を忘れない。
「……今、概念条文が」
「卓也ちゃんも美鳥ちゃんも終わクロの世界なんて行って無いでしょ? 気のせい気のせい」
「いやでも」
「美鳥ちゃん」
「……あいこぴ」
俺が焼きプリンさんの表面に浮かぶ焦げの見事な具合に感動している間に何かやりとりがあった気がするが、きっと些細な事だろう。
しかしどうだ、この美しいフォルム。見ただけで分かるカラメルの絶妙なカリカリ具合。
コンビニで買えるタイプとは違う、どちらかと言えば、飲み屋で締めに注文すると出てくるタイプに近似しているが、どうにもそれだけでは無いようだ。
次元連結システムの探知能力と、ブラスレイター、テッカマン、金神などの超感覚がプリン本体の蕩ける様で、しかし決して緩すぎない硬度を想像させてくれる。
口に入れた瞬間の食感は、蕩けるというよりも解れる、解けるといったものだろうと推測できるが、それだけに留まらないだろう事は想像に難くない。
さすがシュブさん、見事な造形だ。
オマケ一つにここまで手を尽くすその心遣い、やはり天才……。
この焼きプリンさんは楽しみに取っておくとして、ハムサンドだ。
ハムサンドは、至ってシンプルなものである。
パンはやや厚切りだが、薄茶色の耳まで柔らかく齧り易い。
挟まれているハムも極々普通のハムだが、いわゆる日本の一般的ハムサンドと違って塊と見紛う程大量にハムが挟まっている。スーパーで見かける切れ端が固められたブロックが丸ごと挟まっていると考えれば間違いない。
ハムの間に申し訳程度に挟まれたレタスも萎びておらず瑞々しく輝いている。
どれもこれもシュブさんが厨房で『おいしくなぁれ、おいしくなぁれ』(常人に理解できる言語に直した場合の意訳)と真心をたっぷりと。
一人前にこれが三つ入って日本円換算で約五百円、三人前でも千五百円程度、これは安く感じる。
エンネアと入った店では軽くしか食え無かったから、このボリュームはありがたい。
ハムサンドを一つ手に取りながら、遠めに見える巨大戦に目を向ける。
「クラーケンが」
「跳んだな」
「エンネアちゃん、腰の入ったいいパンチねー」
名無しさん@鬼械神の、身体を捻って力を溜めた拳がクラーケンにクリーンヒット。
原作では木の葉の様に舞うなどと表現されていたが、どちらかと言えばビックバン打法とか、加縫 勇治辺りを彷彿とさせる。
バット、じゃないな、拳の芯で捉えた、タイミングバッチリの一打。
余りにも芯を正確にとらえ過ぎている為、クラーケンは本来前後には曲がらない胴体を一度くの字に折り、回転すらせずにそのままの姿勢で宙を一直線に飛んで行く。
名無しさんの馬力もさることながら、エンネアも良い腕をしている。もしも元の世界で見かけたなら、隣町の草野球チームに推薦するレベルだ。
「あ、帰った」
姉さんの言葉の通り、半壊したクラーケンが水柱に包まれて実体化を解く。
カリグラも一度吹き飛ばされて頭が冷えたのだろうか。
「糞餓鬼さんも居なかったしなぁ」
BCTOの起動も確認したし、数週間後に跳ばされては流石にカリグラの手伝いもできまい。
アルアジフに渡した説明書にも『何処とも何時とも知れぬ場所へ』としか書いていないから、数日後に何処か適当な荒野に放り出しただけだとしても、決して嘘では無い。
というか、
「アイオーンの武装、ロイガーとツァールじゃないか、珍しい」
バルザイの偃月刀と使い道が被り過ぎて、何処で使えばいいか分からない微妙な武装の代表格ではないか。
その扱いの悪さと来たら、使用頻度は途中から乗り換えるデモンベインのバルカンにすら劣るという。
別名、地味なシルバークロス。
大十字の息子さんは好んで使っている様だが、あれは二丁拳銃と格好よくマッチングする武装を考えた上での彼なりのオシャレだろう。
短い間合いで使うって言っても、偃月刀を小さめに鍛造すれば良いだけの話だしな。
そんなPS2移植の際に無理矢理捻じ込まれた武装を手に、今、アイオーンは自分の五倍程の大きさの鬼械神に立ち向かっているのだ。
「普通に偃月刀渡しておけば良かったんじゃないかな」
「かなぁ」
一つ目のハムサンドを食べきり、パン屑の付いていた指を舐めていた美鳥の言葉に、椅子を後ろに傾けながら消極的に同意する。
確かに、どうせエンネアが鬼械神召喚した時点で糞餓鬼もケツ巻くって逃げ出す訳だし、変に高性能な武器を渡す必要は無かったかもしれない。
いや、でもアデプトクラスの魔術師相手にどれくらい科学的武装が通用するかも試してみたかったし……。
あ、実際どれくらい通用したか確認しないと意味無いじゃん。後でカートリッジだけでも回収しないと。
「大丈夫よ、卓也ちゃん。どうせ非武装で突撃させても、ナイアルラトホテップがどうにかしてくれるもの」
「……あー、あー、そういえばそんなルールもあったね」
そう、この無限螺旋の肝となる白と黒二人の王は、輝くトラペゾヘドロンを二人同時に招喚する為に育成されている。
その為、大十字九郎は普通なら死ぬような場面でも、邪神による陰ながらのサポートよって切り抜け、次のループにつながる様になっているのだ。
その為、仮にあそこで大十字が追加武装どころか魔銃を持って居なくとも、持っているのがひのきの棒であっても、最悪全裸であったとしても、ニャルさんの怒涛のリセット&リロード&リトライによって、最悪でも門を潜る処までは辿り着けるのだ。
「ここ十周くらいニャルさんとあんまり関わって無いから忘れる所だったよ」
忘れる、というよりも、ニャルさんの事を考える回数が減り、思い出す理由が無くなっていたのだ。
通常の人間の『忘れる』がリンク切れやページ消滅であるとすれば、俺や美鳥の『忘れる』とは、お気に入りにいれたは良い物の、余り興味を引かれなくなってクリックされる事の無くなったページだと考えればいい。
勿論、どこかしらにニャルさんを想起させるような何かが転がっていれば思い出しもするのだが、ニャルさんの企みに関する何かとは、この十周ほど関わっていない。
精々、新原さんになった時にドーナツを買う時とか、路地裏に行ったらQBの銃殺死体が無数に転がっていた程度。
「ともかく、エンネアちゃんがどれだけ強くても、ここで大十字九郎を殺害する事は事実上不可能ってことね。あむ」
そう気楽に言いながらハムサンドに齧りつく姉さん(ネタばれ・両手でハムサンド持って美味しそうにもぐもぐする姉さん凄く可愛い)を習い、俺も手にしていたハムサンドに手を付ける。
遠くで魔力が収束し、炎の塊の様な物が花火の様にまき散らされた。
見れば、何時の間にかアイオーンはシャンタクを砕かれ墜落、更には手元を赤熱させ、何本か指のもげた腕を名無しさんに向けている。
クトゥグアは、本来とても制御の難しい記述だ。
神を直接招喚している訳では無く、あくまで魔術により神の力を再現している訳だが、それでもシャンタクや双子の卑猥なるもの、そもそも無機物であるバルザイの偃月刀に比べて、その力は非常に膨大である。
同格の神性であるハスターではなく、その下に存在するイタクァと同等にまで力を削られていることからも分かると思うが、その力の再現は最強の魔導書である死霊秘法アル・アジフですら完璧なものでは無い。
態と格を落とし制御しやすくして、そこから更に銃の形をした特別な魔導兵器に一旦封印する事で初めてその力をまともに運用する事が可能となるのだ。
大十字はクトゥグアを切り札的に使用していたが、制御に失敗したのは最初の一度だけだった気がする。
これはもしや、
「ひひっはほはいほひはひはいへ」
「はへ」
ハムサンドを咀嚼しながら、姉さんの言葉に頷き同意する。
恐らく、大十字はエンネアの操る名無しさんを見て、威力を限界までセーブされたクトゥグアでは分が悪いと踏み、魔導銃のリミッターを解除したのだろう。
で、魔導銃の限界までチャージした上で発砲しようとした瞬間、名無しさんの魔術弾によって迎撃され、あえなく制御を失い暴発、魔導銃を失うと共に、アイオーンにも多大なダメージを負う事となった。といったところか。
それにしても、このハムサンドはうまい。これはいいハムだ、実に美味しい。以前食べたのよりずっと美味い……、そんな気がする。
ハムとパンとレタスだけなのに、どこまで食べても飽きないぞ。
「おねーさんもおにーさんも、行儀わるいよ」
眉根を寄せた美鳥に指摘されながらも、俺と姉さんは慌てず騒がず咀嚼し、お茶で流し込む。
これだけの物を味わう事無く腹の中に詰めてしまうのは勿体ない。
御茶を飲み干し、急須から新たにお茶を注いでいると、同じくお茶を飲み干した姉さんがコップの縁を撫でながら口を開く。
「ふぅ、とにかく、どういったハンデがあってもこのルートに突入した大十字九郎がエンネアちゃん──『暴君』を仕留め損ねるなんて事は無いから、安心して観戦してるのが一番なの。わかった?」
「ムムム」
姉さんの言葉に、俺は思わず横山漫画風に唸ってしまった。
そうなると、一週間新しい刺激を与えてくれたエンネアへの恩返しにはならないか。
折角大導師を自分の腹から産む事の無いルートに更に押し込もうと思ったのだが、余計なおせっかいでしか無かったらしい。
俺と姉さんのやり取りに、何か思い出した風の美鳥が口を挟んだ。
「そもそも、エンネア自身に致命打撃つのって大十字じゃなくて金髪巨乳(姉)だよな」
「うわぁ、本当に大十字に武器渡す意味無いのか」
言いながら巨大戦に視線を戻すと、アイオーンが両腕を広げ、その先に二柱の神性を剥き出しで招喚している。
霊圧値が一万、二万、三万と上昇を続け、四万に届こうという所で二柱の神性がその身を分解し、アイオーンの手の中に収まっていく。
改めてみると、大十字は異様にまどろっこしく、恐ろしい程に器用な事をこなしている事が分かる。
即興だから仕方が無いのかもしれないが、あそこまで鮮明に実体化した神性を何の補助も無く因果律レベルで組み替えるなど、モビルスーツのOSを戦闘中に組み替えるどころの話では無い。
ゲゼで戦闘中に新しい機動兵器の概念を発案し、そこら辺のアークエンジェル級の巨大戦艦をステッキ四本だけで改造、完成したのはブラスターテッカマンと互角に戦える魔改造パラディン、みたいなキチガイ染みたややこしさ。もちろん部品は一切余らない。
そこまでするなら、クトゥグアとイタクァの記述を模写、銃器として招喚されるように書きなおした方が余程簡単だし、この無茶な再構成を行った大十字なら逆立ちして片足で皿廻しをしながらでも可能だろう。
「そうだよなぁ、あそこまで即興でイカレた武器作れるなら、俺がわざわざ武器渡す必要も無いよな」
俺は一体何を考えて銃と刀なんて渡したのか。
科学系武器の試験評価以外では、大十字をスーパーウルトラセクシイヒーローに仕立て上げようとした俺の無意識が関与しているのかもしれない。
まったく、おちゃめさんな無意識である。
「でもさ、エンネアもいい面の皮だよな。あんだけ嬉しそうに解放されるとか思ってんのに、実質このルートって珍しいだけであと三十回はある訳だし」
「それを言っちゃあ御仕舞だろう」
美鳥の身も蓋も無い言葉に突っ込みを入れる。
「『いずれ真実が我々を自由にしてくれるだろう。しかし、自由は冷たく、空ろで、人を怯えさせる。嘘はしばしば暖かく、美しい』ってね」
「誰の言葉?」
コップを傾けながらの姉さんの言葉に、美鳥が問いかける。
だが姉さんは肩を竦め、事も無げに言う。
「幾らお姉ちゃんでも、いちいち覚えてないわよ。誰が何を言っていたかなんて、ね」
姉さんはコップを下ろしながら、にやにやと笑いながら俺に視線を送ってきた。
「お礼がしたいなら、耳に優しい嘘とかがいいかもね。トリッパーの原作キャラへの言葉なんて軽くて当たり前だし、ウソを吐くには丁度いいと思うの」
次いで、コップでもってテーブルの下に置かれていた俺の鞄を指し示しながら、
「混ぜる真実もあるし、名案じゃない?」
「気付いていたのか、姉さん」
「誰よりも長くお姉ちゃんしてるんだから、当然じゃない」
俺の言葉に僅かに籠められていた驚きに、姉さんはふふんと鼻を鳴らし、言葉に出来ない程いい感じの胸を張りながら、自身満々に答えた。
「あ、やっぱなんか渡すんだ」
「ああ」
散々生活を引っ掻き回してくれて、しかもこれから更に素晴らしい品を貰う予定なのだ。
せめて一つ二つお礼の品はあってもいいだろう。
姉さんの提案を取り入れるなら、手紙の一つも付けておくのがいいか。
「ところで話は変わるんだけどさ、さっきお姉さんに拾って貰った映像なんだけど、すごいよこれ。エンネアの貴重な変身シーン魔法少女風」
美鳥が話題を切り替える様にテーブルの上のモニターを持ち、椅子を寄せてきた。
モニターに映るのは、水中に魔導書の頁でもって形成された仮想コックピットの内部と、全裸のエンネア。
やたらキラキラと輝くエフェクトと共に魔導書のページを纏い、『暴君』の拘束衣姿へと変じている。
まさか、画面に映らず描写されないプレイヤーからは察知不能な場面だからって、こんな世界観にそぐわないファンシーな変身を行っていたとは。
まぁ、エンネアったら、いけない人!
が、しかし、だ。
「だがな美鳥、エンネアも暴君も十八歳以上なので少女と言っていいかは微妙だぞ?」
なにせ十八歳以上だからなぁ。どこまで行っても魔法少女風でしかない。これで少女と言っていいのはAVのジャンルくらいではなかろうか。
しかしモニタに再生されている変身シーンは評価してやってもいい。
「いいじゃん、どうせ実年齢は分からないんだし」
「そういうものか?」
「そういうもんだよ」
そういうものなのか。
しかし、ページが着色されてから膨らんでレザーになるだけなのに、膨らみ切る度にパキィィンって感じで光が弾けるのは、どこら辺を意識したエフェクトなのだろうか。
このグローブぎちぎちの辺りはややカッコいい系も狙っているのだろうか。
途中までのエフェクトが全部キラキラなのに身体から溢れ出す魔力がやたらドス黒いのは、光と闇が合わさって最強に見えるからか。
流石エンネア、いや、アンチクロス最強と名高い暴君。変身一つとっても奥が深い。
拘束衣は別にマギウススタイルじゃなかった筈とか、その辺の突っ込みは無しにしておいてやろう。
「ていうか、卓也ちゃん、今さっきすごく残酷な事言ったわよね。平たいけど歳は行ってるから成長の見込みは無いとか、合法ロリはリアルで見ると余りにアワレだとか、エンネアちゃん可哀想……」
そう言いながら、姉さんは悲痛な視線をモニタに映るエンネアのなだらかな身体に向ける。
ハンカチを持って眼尻を拭うその腕の動き一つ一つに、豊かな胸がそのボリュームを誇示するかのように変形を繰り返す。
これが、富める者の余裕、優越すら浮かべぬ憐みの目線、もはや、向けられた者の心を貫く、鋭い刃と化している……!
「言って無いよ。捏造甚だしいよ。ていうか合法ロリとすら言って無いよ」
姉さんの言葉に突っ込みを入れると同時に、今の今までモニタを俺の方に向けてにやにやしていた美鳥がガタリと椅子を鳴らし立ち上がり、焦りの見える表情で数度ぱくぱくと口を開き、叫ぶ。
「ごごご、合法ちゃうわ! ……あ、やっべ合法でいいんじゃん、やっぱ今の無しで」
「どうした非合法、そんなに慌てて」
「非合法ちゃん何か言った?」
「ああ、もう駄目だ、メディ倫様にしょっぴかれる……!」
どもりまくってから一旦冷静になりかけた美鳥(現実時間だと満一歳、人間で考えれば当然非合法)をからかいつつ、モニタから視線を放し、再び遠くの巨大戦に視線をやる。
見れば、クトゥグアとイタクァを魔銃へと変換したアイオーンが、半壊したシャンタクとアトラック=ナチャを器用に使い、エンネアの駆る名無しさんの眼前まで跳躍していた。
向けられる銃口、執拗に繰り返し放たれる破壊力の塊と、その度に遠雷の如く響く轟音。
戦闘が、終わろうとしていた。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
結論から言って、『暴君』と彼女の招喚した鬼械神は死に体であった。
(あ、はは、こりゃ、もう、ダメかな)
感染魔術的連結状態にある鬼械神とその招喚者は、神経を疑似的に同化させているといってもいい。
それは飽くまでも神経面、つまりは感覚的な部分を共有するだけであり、鬼械神のダメージはあくまでも鬼械神のダメージでしかない。
だが、鬼械神同士の戦闘において、唯鬼械神だけがダメージを負う、という事はありえない。
先ず、完全に破壊された場合だ。この場合のダメージは肉体的なダメージではなく、精神、アストラル面での損傷だ。
鬼械神を招喚、維持する為の魔力と言うのは、ごく一部の例外を除き、あくまでも術者自身の魔力に依存する。
故に、招喚、維持している鬼械神を破壊された場合、術者は魔力、魂を著しく減衰させてしまう。
次に、肉体面での損傷。
鬼械神がダメージを負いその身を削られた仮想コックピットを剥き出しにされた場合、やはり内部に存在する術者も命の危険に晒されるのは当たり前の事実だ。
魂魄の代替物として術者を取り込む鬼械神は、基本的に術者と仮想コックピットを一番強固な部分に格納する故に、生半可なダメージでは内部の術者にダメージを与える事は出来ない。
だが、アイオーンがネームレスワンに向けた砲火は、容易くとまではいかないまでも、確実に術者へとダメージを通していた。
「まさか、九郎がここまで、強くなってたなんて……」
『暴君』が薄らと、憧憬すら秘めた眼差しを向ける先、そこに、黒い機神が居た。
銀の輝きを持つ蜘蛛の糸、アトラック=ナチャの捕縛術式をネームレスワンの首筋に巻き付け巻き取りながら、半ば砕けて空を飛ぶことも出来ない筈のシャンタク──飛翔ユニットで加速。
早業だった。魔砲弾による迎撃に掠ることすらせず、一瞬で、文字通り一つ瞬きする間もなく、目の前に九郎のアイオーンはやってきた。
そして、息吐く暇も与えない猛攻。黒と白の二丁の魔銃による絶え間ない鉄の風、雷の火、撃滅する意思の豪雨。
まるで容赦の無いその姿は死神のようで、勇者のようで、
「すごいなぁ……」
『暴君』が、何よりも待ち焦がれていた、救いの、断罪者の姿に見えた。
止む事無く振り続けていた砲撃が、ぴたりと止まる。
弾切れか。だから何だというのだろう。それで目の前の機神が止まるだろうか。
止まる訳が無い。止まる訳が無かった。
魔銃を手に、アイオーンが自らの身体を抱くように、両腕を交差させ身を畳み、魔力を圧縮させ──
解放する。
「あ──、ギ────っっ!」
焼滅呪法。鬼械神アイオーンの心臓、『アルハザードのランプ』の生み出す魔力を圧縮、解放する事により、自らを小型の太陽とするアイオーンの切り札の一つ。
ネームレスワンを、その内部のエンネアを、魔力の灼熱が焦がしていく。
細胞の一つ一つが、焼け、焦げ、塵となり、一歩一歩、確実に死へと追いやっていく。
(でも)
足りない。
太陽に匹敵する熱量を持ってしても、ネームレスワンを、『暴君』を打倒するには、あと一歩足りないのだ。
自己修復機能がネームレスワンの融け砕けた身体を、身体に刻み込まれた術式がエンネアの焼け焦げた肉体を、辛うじてこの世に踏み止まらせる。
焼滅呪法の光と、オリハルコンが蒸発して産まれた金属の雲に姿を紛れさせたまま気配を遮断。
未だネームレスワンに気付かないアイオーンに呪縛弾を放ち、その場から逃げられない様に捕縛した。
「は、はは、は……今のは、効いたなぁ~っ……ほんとに、死ぬかと、思ったよっ」
──でも、それじゃあ、殺せない。だから、
「そんなに……強くなってたなら……」
ネームレスワンの腕を掲げ、その場から動けないアイオーンに照準を合わせる。
「……受け止めて、貰わないと……九郎には……この『暴君』の……絶望を、憎悪を…………そのくらい、してもらわないと……!」
──しっかり、終わらせて、貰わないと。
「これが、最後の術(ラストスペル)……さぁ、九郎は、どうする……?」
術の対象をこの世から消滅させる、いや、無かった事にしてしまう。ネームレスワン最大の術式。
防ぐ方法は簡単だ。ネームレスワンの操者である『暴君』を殺害し、発動前に術式を中断させてしまえばいい。
アイオーンに施した呪縛は、あくまでもアイオーンをその場に留める役割しか果たしていない。
今のネームレスワンと『暴君』の状態では、発動にもかなりの時間が必要になる。
冷静に立ち向かう事が出来れば、大十字九郎は十二分に『暴君』を、殺害し得るのだ。
「術式選択──、────っ!?」
勿体ぶる様に術式の発動を遅らせ、アイオーンの反撃を待っていたネームレスワンの剥き出しの仮想コックピットを、攻撃的魔力を伴う一条の光が貫いた。
「あ、ぁ、ぁあああっっっ!」
身体を熱光線で貫かれながら、『暴君』は光線──ビーム砲の飛んできた方角に身体を向ける。
砕けたビルの合間に、光の翼を背負い、素顔を仮面で隠した白い影。
ムーンチャイルド計画試験体第四号、メタトロン。
ムーンチャイルドの成功作である『暴君』の先輩。
──九郎の、恋人だ。
頭に浮かんだその言葉に、エンネアは訳も無く堪らなく愉快な気分に陥った。
──ああ、だめだ、笑うな、笑う理由も無いだろう、笑うな、なんで、何が可笑しい。
堪えることすら出来ず、咽喉から笑い声が溢れ出す。
「あははははははは!」
アイオーンのコックピットの中の九郎とメタトロンの会話を遮る様に、『暴君』は笑う。
笑ってしまう。訳も分からず、どうしてか、なぜこんなにも笑えるのか。
嬉しいのか、妬ましいのか、滑稽なのか。
自分がどんな感情をもって笑っているのか。それすら分からずに、笑う。
笑い続ける『暴君』を、再び光線が貫いた。
「あ……、ははあは……ははは、あははははっ、はっ、っははははは!」
「──」
メタトロンはその笑い声に反応する事も無く、淡々とエンネアにビーム砲を打ち込んでいく。
貫き、
穿ち、
焼き、
燃やし、
徹底的に『暴君』の存在を否定し続ける。
「お前は──私の手で滅ぼさなければならないのだろうな」
その呟きが、自らの笑い声に掻き消されること無く、確かに『暴君』の耳に届いた。
「は、は」
──そんな事が出来たなら、どんなに楽だったか。
笑い疲れて、それでも、今のメタトロンの言葉は、尚笑える言葉であった。
「それなら、君も」
ネームレスワンの腕に、再び術式を走らせる。
ネームレスワンも『暴君』もかなり回復が進み、先よりも数段早く術式が成立したのだ。
「受け取ってくれるのかい、この、絶望をおぉぉぉぉぉっっっ!」
この世界からメタトロンの存在を否定せんと、意味消滅の呪光が迸り、
「呪文螺旋──神銃形態っ!」
指向性を持って放たれるよりも早く、アイオーン最大の破壊力が、ネームレスワンを呑みこみ、跡形も無く消滅させた。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
夕方に曇りだしていた空からは、何時の間にか激しく雨が降り注いでいた。
隙間一つ無い雨雲が、夜空から星と月を、宇宙を奪い去る。
雨が降りしきり煙る街は深海に沈む古代都市のよう。
暗く、静かな路地裏の闇を、囚人は重い足取りで歩く。
千切れた腕を初めとした体中の至る所から止め処なく流れる血は、身体を伝うよりも早く雨に洗われ消える。
血が抜け冷たくなった躰に、炎に焼かれ所々の皮膚が炭化した身体に、容赦なく雨は打ちつけ、体温を根こそぎ奪い、炎の残り香を消していく。
囚人の身体が傾ぎ、水溜りに顔を突っ込むように前のめりに倒れる。
転倒の衝撃で囚人──『暴君』の頭部を覆っていた拘束具が外れ、癖のある赤毛と、猫の様に吊りあがった紫色の瞳が露わになった。
同時に、身体を覆っていた拘束具が解け、その全てが紙の束となり舞い上がる事も無く雨に濡れ地面に落ちる。
顔を覆う物も無く、ボロボロになったセーターとスカートを身に纏った『暴君』は、片方だけ残った、しかし無事とはとても言えない腕に力を込める。
それはまるで意味の無い行動だ。まるで力の入らない腕は、杖の代わりに身体を支える強度すら残っていない。
きし、きし、と、枯れ木の枝を曲げる様な音が響き、折れる直前になって、とうとう腕に欠片程の力も入らなくなり、再び倒れ伏す。
身体が仰向けになる様に、ばしゃ、と、水溜りに盛大に背中から落ちる。
仰向けになり、まず視界に映ったのは、建物の壁に切り刻まれた、黒い、余りにも黒い曇天。
そして、空を覆う雨雲から降り注ぐ数えきれない透明な弾丸、視界を埋め尽くす雨粒。
「強かったなぁ……あいつ……」
ひとりごち、顔をクシャリと歪ませ、笑う。
「それに、結構面白いやつだったなぁ……」
呟きは雨音に掻き消され、しかし思考は止まることなく続いて行く。
大十字九郎。選ばれし者。
神殺しの宿命を背負い、神の世界を、神が世界を取り戻す為の鍵。
神殺しの刃、もしくは、魔を断つ剣。
あれもまた運命の道化に過ぎず、しかし、唯一舞台を台無しにする可能性を秘めた、未熟な大根役者。
デウス・エクス・マキナを起こし得る、細く儚い可能性。
本当の意味での、人類の、地球の切り札。
「あいつなら……本当に、ぶち壊しにできる、かな……」
どうだろうか。一抹の不安が頭を過る。
もしかしたら自分は何か、『致命的な見落とし』をしているかもしれない。
だが、そんな事は、もう自分には関係無い事だ。
これでようやく、終われる。
何時か何処かの名も知れぬ神サマが、鼻歌混じりに書き上げた、便所の落書きの様な三文芝居から、ようやく抜ける事が出来る。
汚辱に塗れた世界よりの解放。
不条理に満ちた運命からの解放。
そう、ようやく、ようやくまともに死ねる。
過去への憎悪も、
未来への恐怖も、
過去の重圧も、
未来の呪縛も、
一切存在しない、死の安息。
────本当に?
「あ……」
雨脚が弱まり、『暴君』の耳に、街の喧騒が届いた。
巨大ロボット同士の戦いが終わり、互いに無事を確かめ合う安堵の声。
馴れた様子でシェルターから飛び出し、再び日常へと戻り始めたアーカムの住人達。
邪悪に、理不尽に打ちのめされる事無く生き続ける人々の生み出す、極めてありふれた光景。
目に、耳に、侵入する。路地裏からは、決して届かない、日の当たる場所。
「う、…………あ、あぁ……、ああ……!」
我知らず、手を伸ばす。
「い、やだ……」
その光景に触れようと、その空間に入ろうと、手に脚に力を入れ、もがく。
「いや……、だ。いやだ、嫌だ……」
倒れ伏した『暴君』の躰は、もはやその位置から動く力すら残していない。
塵と泥の混じった水溜りに濡れ、襤褸切れ同然の服は見るも無残に汚れていく。
声は『暴君』が望む程に空気を震わせる事が出来ない。
『暴君』の何もかもが路地裏の中で完結し、表の世界に届かない。
「嫌だ、違う、嫌なんだ、いや、いや」
『暴君』は、残りの命を燃やし尽くす事も厭わず、足掻く。
もはや腕も脚も動かず、指先がふるふると、死にかけの虫の様に震えるだけ。
それが、『暴君』に残された、自らを主張する力。
暗闇の中でもがくその姿を、普通の世界から見る事は叶わない。
「ぃ──、──────!」
もはや声を出す事も出来ない。
かつて知る事無く憐み、嘲笑い、しかし強く憧れた場所。
──帰らなきゃ、帰らなきゃいけないのに!
奇跡的な巡り合わせで知る事が出来た。混ざる事の出来た世界。
何ていう事も無い、何事も無い、入ろうと思えば入る事の出来る、紛れ込む事の容易な世界。
──あの世界に、『エンネア』の世界に!
其処が今、どこよりも遠くに存在している。
──誰か、誰か、誰か!
目を見開き、涙を鼻水を撒き散らした必死の形相で大通りへ、日常の光景へと手を伸ばす。
──助けて、誰か、気付いてよぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!
死に物狂いで喉を震わせ、しかし虫の鳴く様な音にしかならない『暴君』──エンネアの叫び。
躰を寒さだけでは無く、怯えの感情により幼子の様に震わせ、声にならない叫びを届かせようと、咽喉を震わせ続ける。
体中が痛い。
息を吸う事が出来ない。
酷く息苦しい。
寒い。寂しい。
目の前の光景が、酷くゆっくりと、色を失っていく。
暗闇の中、あれだけ鮮明に見えていた筈の景色が、光を失っていく。
怖い、死んでしまう事が。
このまま、こんな所で、こんな死に方をしてしまうのが、どれだけ泣き叫んでも止まらない程に、恐ろしい。
──あぁ……
遂に、叫びを発する意思すら、折れる。
頭に浮かぶのは、何故、という疑問。
何故、こんなにもままならないのか。
難しい事を望んでいる訳では無い。
困難な要求をしている訳でも無い。
誰かの迷惑になる訳でも無い。
誰もが望んで、誰もが少なからず叶えている望み。
愛して欲しい訳では無い。そこまで欲張ろうとは思えない。
愛して貰えないなら、こちらから愛し続けてみせる。
抱きしめて欲しい訳でも無い。少しくらいの寒さなら我慢もしてみせる。
抱きしめて貰えないなら、自分から抱きついてもいい。寄り添わせてくれるだけでもいい。
でも、本当は、
そんな贅沢を望んでいるわけではない。
ほんの、ほんのささやかな願いなのだ。
『暴君』は、『ネロ』は、『エンネア』は、僕は、私は──
ただ、
「幸せになりたかっただけなのに……」
何処にも、誰にも届かない、最後の言葉。
誰にも看取られる事無く逝く筈だった孤独な少女。
その言葉が、路地裏に静かに染み込み、
「────その願いは本当に、魂を掛けるに足る望みかな?」
届いた。
酷く優しげなその声に、『暴君』ならぬエンネアは聞き覚えがあった。
だが、それを思い出す事ができない。思いだす為の脳は、酸素を運ぶ血液の不足に寄って急激に死滅を始めている。
誰だったか思い出せない、聞き覚えのある声。
誰だったか思い出せないのに、この声を聞き間違える筈が無いと確信している。
脳では無い、心で理解した。
ブラックロッジから逃げ出し、『暴君』でも『ネロ』でも無くなった自分を、『エンネア』として受け止めてくれた人。
あの日も、こんな雨が降っていた。
「その役を投げ捨ててまで叶えたい願いがあるのなら、俺が手伝ってあげる事もできる」
雨の音は遠く、静かな提案だけが、ゆっくりと耳朶を震わせる。
何時の間にか雨の勢いは和らぎ、しとしとと静かに街を濡らすだけの細雨へと変わっていた。
躰を打つ雨は、声の主の射す木と紙で出来た傘に遮られている。
「君には、その『資格』がある」
区切られた空。
夜空を隠す雲は割れ、真円の月が顔を覗かせている。
既に痛みは無い。痛みを感じる力も無い。
「私は、──────たい」
だが、エンネアの喉は自然と答えを口にし、
傘を持った男は、その言葉に鷹揚に頷いて見せた。
「君のその願い、必ず叶えよう」
エンネアは、その言葉に込められた歓喜の感情を受けながら、躰を弛緩させる。
恐怖はない。この声は、今まで一度たりとも自分に嘘を言わなかったから。
叶うというのなら、確かに自分の望みは叶うのだろう。
もう、何も怖くない。恐れる必要は、無いのだ。
張りつめていた気が緩み、急激に音が、光が遠ざかっていく。
喧噪も、雨音も、自らの鼓動も希薄になるのを感じ、
「──契約完了だ。君が払うべき代償は、たった一つ」
その言葉の続きを耳にする事無く、静かに、意識を闇へと沈めていった。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
「そう睨むなよ。目も開いてない癖にあたしとやろうってのか?」
「馬鹿、下手なこと言って瞼が開いたらどうするつもりだ」
受けて立つぜ、お姉さんが。と言いながらシャドーボクシングをする美鳥に小声で注意
俺は空中に羊水ごと固定された胎児を中心に、内部から順番に人間のパーツを複製し、組み上げていく。
服装は貸していた女の子向けの服では無く、初めて出会った時に着ていた襤褸切れの複製をそれらしく焼いたり穴を開けたり血を付けたりしてアレンジしたもの。
これでアヌスが胎児を回収して死体を処理しに来たとしても、俺達の存在は察知されずに済む。
エンネアの、というより、暴君の死体の複製を静かに路地裏に横たえる。
「最適化も大分早くなってきたわね」
暴君の複製を作る間持ってて貰った傘を姉さんから受取り、肩を竦める。
「まぁ、エンネアも何だかんだいって人間ベースの魔術師だからね。複雑な機構が無い分、下手なロボットとかに比べればよっぽど楽だ」
実際、昔に取り込んだシュリュズベリィ先生に比べても位階の高い魔術師ではある。
だが極端な話、エンネアの異常性はせいぜいそれ位だ。
人間のDNAパターンに、あとは身体に刻まれた傷痕、魔術的な改造痕に、脳味噌に刻まれた魔術の知識。
情報量はそう多くない。ラダム樹や金神に刻まれていた宇宙の記憶に届くか届かないか程度だろう。
「神様に対する感応性が高かった事を除けば、エンネアも普通の女の子とさしてスペックは変わらなかったんじゃないか? もちろん、無改造での話だけど」
「ま、アヌスに見出されなければ、シスターの所に来る前のアリスンとあんまり変わらない境遇だしね」
流石、まるで見てきたかのように海のものとも山のものとも知れない二次設定をそれらしく言う。
やっぱり、見てきたんだろうなぁ。エンネアの過去とか、千歳さんならどう書くんだろうか。
そんな事を考えつつ姉さんと手を繋ぎ指を絡ませ、死体に背を向け、大通りへと歩き出す。
姉さんの言葉を信じるなら、まだアヌスにも胎児にも大導師にも察知されていない筈だ。
それなら後はここから迅速に立ち去るだけだろう。
「ま、エンネアとの約束はループ直前に果たすのがベストだし、後は平常通りのスケジュールか」
シスターが寝盗られにんっしんっ出産後に赤ん坊による内側からの帝王切開で死ぬのは多分門に入った後だろうし、俺達には関係無い。
後は、ハンティングホラーだろうか。
バイクに使われる技術も気になるけど、やっぱりどうにかして上手い事ナコト写本辺りを手に入れたい。
でも、あれはあくまでも死んだふりだしなぁ。下手に取り込んで大導師殿に目を付けられたくない。
やっぱり地道に他の場所に保管されているナコト写本を探すべきかな。
「これで存分にお姉さんとベタベタできる、と。よく飽きないよね……」
俺と姉さんの後ろに張り付くようにして同じ傘に入った美鳥が不貞腐れる様に言う。
頬を僅かに膨らませた美鳥に、姉さんが口元に手を当てながら笑った。
「ふふふ、美鳥ちゃんも混ぜて欲しいならそう言えばいいのに、ねぇ?」
「姉さんが許可するならやぶさかじゃないぞ、俺は」
「え、デジマ?(RIKISI用語で『それは本当ですか』の意味)」
嬉しそうに俺と姉さんの間から顔を突き出す美鳥。
何はともあれ、無名祭祀書も大達人級の魔術師の身体も手に入って、万々歳だ。
帰ったらジンジャーエールで祝杯を挙げよう。
俺達はエンネアの死体の複製に一瞥もくれず、慌ただしく動き出した表通りへと脚を踏み入れた。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
夜が明け、カーテンの隙間から差し込む光に顔を照らされ、少女は目を覚ました。
「ん……」
恐ろしい世界の幕開け、邪悪に侵された世界、邪悪に穢された世界へ向き合う一日の始まり。
だが、世界には、それとは全く縁の無い目覚めもある事を、少女は理解していた。
かつての少女にとっては酷く不可思議で、奇妙な程に救いに満ち溢れた目覚め。
極々当たり前に人々に与えられる、一日で最初の幸福。
睡眠は死に似ていて、しかし目覚めという一点において、死と隔絶している。
目覚めた先を地獄と思うのであれば睡眠は死よりも残酷に映るだろう。
だが、そう思う感情も、生きていればこそ。
目覚めを幸福に感じられるように成ろうと思い続けていれば、自ずと人生は明るく希望に満ちた物に変えられる。
そんな陳腐な言い回しが、人生を楽しく生きる秘訣。
「んぅ……」
布団の中から伸ばした手でカーテンの隙間を閉じ、再びまどろみの中に帰ろうとする少女を妨げるモノは無い。
この家には彼女一人しか居らず、彼女の生活リズムを決めるのは彼女の仕事のスケジュールと睡眠時間の都合だけ。
寝起きでぼんやりとした思考で、少女──エンネアは、それが少しだけ、寂しい事なのだと感じていた。
「…………なんか、朝っぱらから変な事考えちゃった」
エンネアは少しの思考ではっきりと目覚めてしまった自らの脳細胞の優秀さに舌うちしながら、布団から跳び起きる。
身に纏うのはダボダボの男物のワイシャツ。
初任給で買ったお気に入りのパジャマもあるにはあるが、それは洗濯中。
決して、一人の家が寂しいから懐かしい人々を想起させるような物を使って寂しさを紛らわせている訳では無い。
大体、置きっ放しにしてあるという事は使われても文句は無いと取られても仕方がない。
文句があるのなら、直接言いに来ればいいのだ。
「直接……」
ぽつりと呟きながらドアを開け、フローリングの廊下をぺたぺたと素足で歩き、階段を降り、脱衣所へ。
大きいワイシャツを洗濯機に放り込み、洗面所の鏡を見ると、酷くしょぼくれた表情の美少女が映っている。
それはもう、街を歩けばすれ違った男が十人中三十人は振り向く(十人が全員二度見した後に最後にもう一度振り返る)プリティフェイス。
そんな愛らしい顔を曇らせていては、人類にとって致命的な損失だ。
句刻も言っていたではないか。美女、美少女は健康で、更に笑顔でこそ輝くと。
自分に自信が無い美少女なんて、人からは嫌味にしか見えないのだとも言っていた。
それは困る。唯でさえ職場には同性が少ないのだから、さっぱりと友好的な関係を築いて行きたい。
両手で頬をぱしりと叩く。
両頬に走った鋭い痛みが、しょぼくれた表情毎感情を切り替えさせてくれる。
再び鏡を見れば、そこには眼尻から僅かに涙を滲ませ、苦笑に近い笑い顔。
これもまた別の意味で情けない表情だけど、さっきの表情に比べれば百倍マシだ。
「うし、うし」
頷きながら、風呂場への扉を開け放つ。
風呂の湯は冷めているだろうけど、シャワーを浴びて身体を洗っている間に沸かし直せば、髪を洗い終えるのと同じタイミングで温まってくれる。
エンネアは風呂桶の脇にある『トゥインロード』と書かれたスイッチを押した。
浴槽に取り付けられた機械が、洗濯に使って足りなくなっていた水を自動で足しながら、湯を沸かし始める。
コックを捻り、シャワーからお湯を出し、寝汗を掻いていた身体を熱いお湯で清める。
スポンジに石鹸を付けて泡立て、身体の汚れを落としていく。
背中の洗い難い部分は無名祭祀書で分身を作り洗わせ、全身隈なく洗い続ける。
身体を再びシャワーで洗い流し、シャンプーのポンプに手を乗せ、押す。
ポ、ブヒュ、という間抜けな音と共に、途切れ途切れに白濁の液体が溢れ出した。
「ありゃ」
どうやらそろそろ切れてしまうらしい。
仕事帰りにでも買いに行くかと考えながら、エンネアはシャンプーで頭を洗い始めた。
リンスはしない。そんな事をするまでも無く、若さによって髪質はしっかりと保たれるのだ。
若さ万歳、そんな事を言うと職場の同僚には歯ぎしりされるので、表立っては言わないが。
―――――――――――――――――――
「うん、うん。わかってるってばー」
受話器を肩と顎で固定し、料理をしながらの電話。
電話の相手はアメリカ。本当なら国際電話は無いらしいのだけど、そこは驚異の技術力でカバーしてある。
──今更な話ではあるが、今エンネアの住んでいる場所はアメリカではない。
日本という、大十字九郎や鳴無家の故郷に当たる、東の果ての島国。
覇道鋼造の祖国でもあり、その縁でアメリカとはそれなりに交流がある、四季という珍しい季節の変化が見られる国だ。
春は桜、夏にひまわり、秋にはコスモス、冬には枯れた木々に雪の花が咲く、正にエキゾチックジャパンというやつだ。
無駄に自然に囲まれたこの家であれば、その風情は尚強く感じる事が出来る。
「今までだって遅刻した事は無いのに、そこまで言われる筋合いは無いって」
軽口の様に不満を言いながら、焼き上がったトーストを皿に乗せ、その上にフライパンの上から直接ハムエッグを乗せる。
同時に、今や無限の猿定理で製造されるショートストーリーと大量の録画データしか流さないテレビにスイッチが入り、画面に文字が現れる。
『ラピュタトーストの反応を検知、乗せ物を先に食べきると減点1』
はいはいと頷きながらリモコンを操作し、テレビの電源を落とす。
この家を譲り受けてからずっとこの調子なのだが、何が減点されるのかが分からずに一度も逆らった事が無い。
まぁ、大概間違った事は言わないので、無理に逆らう必要も無いのだが。
「ああ、こっちの話こっちの話。……うん、言いたい事は分からないでも無いんだけどね、やっぱりここは離れられないよ」
紙パックの牛乳をコップに注ぎながら、見えてもいないのに首を横に振る。
「うん、うん、そんな心配しなくても大丈夫だって。じゃ、また午後に、大学でね」
相手の返答を待たずに受話器を置き、数秒の間を開けて、溜息。
心配して貰えるのはありがたいのだけど、それでもこう度々同じ内容で連絡を入れられると、少しばかり面倒臭い。
アーカムが大分復興してきているのは分かるけれど、それとここに居る理由はまた別の問題なのだ。
何しろ、ここは特別な場所、エンネアが守ってやらなかったら、いったい誰が守るというのか。
この、卓也と、句刻と、美鳥の居た、日本の家を──
―――――――――――――――――――
ハムエッグの乗ったトーストを齧る。
基本的にサニーサイドアップは黄身が好まれるものだと聞いたが、どんな調味料にも逆らわず味を引き立てる白身こそが真の主役ではないか。
だとすれば、やはり下に敷かれたハムは邪魔者だろう。
何故なら、ハムを敷くとどうしてもハムの味が先に来てしまい、調味料と合わさって白身が生み出すパーフェクトハーモニーが霞んでしまう。
そんな事を考えながら、ぼんやりとテレビを見る。
『食虫植物の価値は消化液で決まる。その中でもモウセンゴケは最強の部類に入る』
テレビに映っているのは、草むらで身を伏せて何者かを待ち伏せる二匹の猫の様な狸の様な愛嬌のある生き物。
自動生成されたショートストーリー動画だが、これは録画データであり、以前も同じ内容の物を見た事があった。
ショートストーリーの生成に失敗した時は、視聴した回数の多い動画からランダムに放送される仕組みらしい。
『お前を食べる為だよー!』
二人組の内、目がぱっちりと開いた方が両手をガバリと上げ襲いかかる様な素振りをし、垂れ目気味の目が細い方が、それに何のリアクションも返さずに黙って見つめ、二人とも何事も無かったかのように元の姿勢に戻る。
「シュールだ……」
思わず呟く。
いや、このシュールさが癖になってしまい、音が無いのが寂しい時にはこのシリーズを流しっぱなしにしたりするのだが。
正直、このシリーズだけで二時間は時間を潰せる。
むしろ毎日二時間はこれで時間を潰している。
となると、実質エンネアの一日は二十二時間になっているのだろうか、この動画のお陰で。
いや、確実に実りのある二時間なので何も困りはしないではないか。
むしろ、この二時間は何もしないでいる二時間の二倍は充実感がある。
となると、エンネアはこの動画のお陰で一日を実質二十六時間とカウントする事が可能なのだ。
やったねエンネアちゃん、時間が増えるよ! 残業の。
「いや、流石に無いか」
『最強最後の強化外骨格! その名も佐久間将軍だーっ!』
トーストの最後の一欠けを口に放り込み、十分に咀嚼した上で牛乳で流し込むと、テレビに違うシリーズの映像が流れ始めた。
これまた傑作なのだけど、これを全て観ようと思ったら間違いなく午後の仕事に間に合わない。
テレビを中断して早めに出発するべきか、時間ギリギリまで見続けるべきか……
「郵便でーす」
リモコンを手に持ったまま悩んでいたら、チャイムの音と共に呼び声が聞こえてきた。
こんな辺鄙な土地に郵便物とは珍しい。
態々呼びかけるという事は、手紙とかはがきとかではなく、大きめの荷物なのだろう。
内容を吟味するには時間がかかるだろうし、とりあえずテレビはつけっぱなしにしておく事にしよう。
エンネアはリモコンをテーブルの上に置き、そのまま玄関へ向かった。
―――――――――――――――――――
エンネアへ
『久しぶり、という表現が正しいのかどうかわからないけど、とりあえず久しぶり』
『最初は時候の挨拶でも入れようかとも思っていたのだけど、そこまで堅苦しい形式で手紙を書くのは恥ずかしいので、これで勘弁して貰えると嬉しい』
『君がこの手紙を読んでいる頃、きっと俺達はこの世界には居ないと思う』
『これを書いている時期が時期だから結果を書く事は出来ないけれど、もしもループが終わったなら俺達が居る必要はないし、ループが続いたとしても、きっとエンネアちゃんのいる時間軸には辿り着けない』
『だからまぁ、色々と言いたい事はあると思うけど、一方的に伝えておくべきことを伝えておきます』
『これが届く時期を考えると、ようやく混乱が収まって、『エンネア』としての生活にも大分慣れてきたんじゃないかな』
『最低限の状況はメモを置いていたから分かると思うけど、ここでもう一度おさらいをしておこうか』
『まず、エンネアちゃんの居るその家。そこは元々俺達の家だから、基本的に自由にして貰って構わない』
『半径五十キロ圏内に店が一軒も無いけど、魔導バイクを置いてあるから移動には困らないと思う。使う時は魔導書をセット、買い物中は鍵を掛けて、魔導書を外すのを忘れずに』
『資金もある程度は置いておくけど、ミスカトニック大学の方に色々と捏造した事情を話しておいたから、机の上の紹介状を持っていけば簡単に雇って貰えるから、気が向いたら顔を出してみるのもいいかもしれないね』
『アーカムがあんな事になって人手が足りてないから、きっと喜んで迎え入れてくれる。俺や美鳥や姉さんの様な常人から見ると、あそこは酷く変態的な人生スタイルの連中ばかりだけど、基本的にはいいやつばかりだから安心して付き合って欲しい』
『ここまでは、もう家中に張り付けておいたメモから知っている内容だね。ここからが本題だ』
『気付いていると思うけど、今のエンネアちゃんの身体は、元のエンネアちゃんの身体じゃあない』
『ついでに言えば、魂の形も完全に元のまま、とは言えない』
『これについては素直に謝るしかない。ごめん。前の身体は余りにも損傷が激し過ぎたし、魂も大分弱っていたから、こういう方法を取るしか無かったんだ』
『字祷子レベルで完全に前の身体を模倣して作っているから見た目にも動かした分にも不自由は無いと思うけど、エンネアちゃん程の魔術師なら、何かしらの違和感を抱いてしまうかもしれない』
『そしてきっと、こうも思う筈だ』
『肉体だけでなく、自らを証明する最たるもの、魂すら別物と化した自分は、本当に以前と同じ自分なのか、と』
『以前の自分と今の自分が別人なら、以前の自分は暗闇から抜け出せずに死に、今の自分は自分が体験した訳でも無い経験と知識に振り回されるお人形』
『エンネアちゃんは世間に対して嘲笑的なのに自罰的な部分もあったから、そう考えてしまうかもしれない』
『確かに、以前のエンネアちゃんと今のエンネアちゃんが同一の個体であるか、それとも別の個体であるかを証明する事は難しい、いや、不可能と言ってもいい』
『でも、それでいいんだと俺は思う』
『人間っていう生き物は、面白いほど単純な理屈で動いている』
『生の始まりは化学反応に過ぎないし、人間存在は記憶情報の影、魂が無くても精神は神経細胞の火花で心を作り出してしまえる』
『イカレた神しか居ないこの世界、人間に祝福や慈悲を与える存在なんて居ない』
『人間は選ばれた生き物でも無ければ、無意味に無条件に愛されて産まれてくる訳でも無い』
『だからこそ、人は自由に生きられる。見ず知らずの何かに頼まれたからではなくて、ただ自らの意思の元、「生きよ」と命じる事ができる』
『きっとそれは、誰に証明されるよりも強い、エンネアちゃんがエンネアちゃんである証になるだろう』
『俺も、姉さんも、美鳥も、エンネアちゃんが何であるか強要するつもりはない』
『救われる事無く死んだ不幸なエンネアの記憶を引き継いだだけの人形か、荒唐無稽な救いの手に拾われた悪運の強いエンネアか』
『ただ、エンネアちゃんがどちらを選ぶにしても、取り敢えず死んでしまうまではしっかりと生きていて欲しい』
『鬱々と落ち込むのも明るく元気でいるのも、生きていればこそ、だからね』
『これから俺達の人生が交わる事は無いと思うけど、お互い交通事故と病気に気を付けて頑張って長生きしよう』
追伸
『初日にエンネアちゃんが着ていた服の様な襤褸切れ、襤褸切れの様な服かな?』
『どうにかして原形を取り戻そうと頑張ったけど、無理だったので、それらしく改造して体裁を整えてみました』
『自信作なので、できれば私服の一着にでも加えて貰えると嬉しいです』
―――――――――――――――――――
手紙を読み終え、机の上に載せられた小包に目をやる。
小包と言っても、カラフルな包装紙に包まれ、黒と赤のリボンをあしらわれたプレゼント使用の物。
包装紙に付いてたセロテープの様なものを剥がすと、中からは一着の服が現れた。
手に取り、広げる。
黒がベースで、しかし所々に白地に赤のラインの入ったフリルが施され、襟首にも同じカラーリングが採用されている。
更に赤のインナーに、太ももを編上げリボンなどで飾ったオーバーニーソックスも入っていた。
シックなカラーリングなのに、しっかりと子供らしさ、女の子らしさも兼ね備えている。
良い服だと思う。思うけれど……
「ここまでするなら、買った方が早いって」
律儀なのか、何かしらの洒落を効かせているつもりなのか。
確かに、手の中の衣服からは、初日に何処からか拾った襤褸切れの繊維が使われている。
「ふふっ」
笑いながら、服に込められた思いを受け取るかの様に抱きしめ、眼を瞑る。
自慢できる一着だ。男からの贈り物だと言えば、同僚の研究員はどう反応するだろうか。
そうだ、今日はこれを着て行こう。アーカムは今日も晴れだし、太平洋上を移動中に雨に出くわしてもバイクに搭載されたバリアで無視できる。
これまではずっと句刻や美鳥のお下がりばかりだったけど、これは正真正銘のエンネアだけの服。
大学で初めて出来た友人に見せびらかしたいし、面白いリアクションも期待できる。
そうと決まったら、テレビを見てるヒマなんて無い。
エンネアは逸る気持ちを抑えきれず、その場で服を脱ぎ棄て、送られてきた新しい服へと着替え始めた。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
衣服の一番下に入っていたパンプスを履き、書類と筆記用具を入れた鞄を手に持ち、玄関のドアを開ける。
眩しい日差しに目を細めながら鍵を閉め、家の前に止められていた魔導式自動二輪に被せられていたシートを剥がす。
キーを入れる代わりに半透明なプレートに親指を押し当て認証完了。
次に、エンジンに当たる部分に『無名祭祀書』を挿入。ハンドルを握って魔力を流し込む。
途端、唯の金属の塊だったバイクが激しい排気音と共にエーテルを吐き出し、生命の躍動感を獲得する。
こうなれば、後は魔導書を介して考えるだけでその通りに動いてくれる。
精霊任せにしてしまえば、自動二輪ならぬ『完全自動』二輪そのものにも出来るだろう。
一人乗りのバイクなのに横乗りだって問題無くこなす賢いバイク。
だがエンネアは鞄をタイヤの脇のトランクに詰め込むと、極普通にシートに跨った。
ハンドル越しに、鬼械神を操るのと同じ感覚でバイクと疑似的に神経を連結。
後はエンネアが一つ命令を下すだけでバイクは少しだけ地表を走った後に空へと舞い上がり、高度を稼いでからは音速の数十倍の速度でアーカムへと辿り着く。
何時もならそのまま空へと駆け上がる段になって、エンネアはふと家の方を振り返った。
誰もいない、彼等から譲り受けただけの家。
愛着を持つには短く、楽しい日々を思い出させる匂いも多い、複雑な家。
だけど、今日は機嫌がいい。
あの人曰く、自分が何者かを決めるのは自分だけだという。
ならあの家が何であるかも、エンネアが決めてしまってもいいだろう。何しろ今はエンネアの所有物なのだ。
ここは、住人が一人だけの寂しい、でも、確かに安心できる大切な家。
そう定義したのなら、言わなければならない言葉がある。
帰るべき所から飛び出し、戻ってくる約束の言葉。
「行ってきます!」
振り向いた先の玄関に三人の男女の姿を一瞬だけ幻視し、微笑みを浮かべたエンネアとバイクは一瞬にして空の彼方まで駆け上がる。
湿り気の少ない大気、怪奇指数も低く無く高く無く、グレムリンにも出会い難い良いフライト日より。
眼下には緑に覆われた山と川、一部ではピンク色の花を咲かせる桜の木も見える。
遠くには幾つもの山があり、それを超えて平野を超えて、その頃には地表が見えるか見えないか。
海に出る途中に街の様な物が幾つか見えた気がする。仕事が終わったら、偶には日本の街を散策してみるのもいいかもしれない。
──『暴君』の時間は、絶望に満ちた世界と共に終わり、希望の持てる未来が始まった。
見て回りたい物がたくさんある。探したい物も山ほどある。
それらをどうするか考える為に、まずは最初にやりたい事、服を見せびらかして、大学で後進の指導を済ませてしまおう。
新しく始まった『エンネア』の時間も有限で、それでも無駄遣いが利く程度には有り余っているのだから。
エンネア編・完
次のステージへ続く
―――――――――――――――――――
まぁ、記憶を引き継いだ人形が正解なんですけどね。コピーだし。
そんなこんなで嫌に時間が掛かった、主人公が手紙でいけしゃあしゃあと嘘を吐く第四十八話をお届けしました。
最近は二週間に一度のペースを守れていたのに、ここでリズムを狂わせてしまうとは。
それもこれもあれだ、ええと、ほら、武装神姫の新作の予習をしたり、スパロボ新作に胸をときめかせ過ぎてむせてみたり、無駄にGジェネでレベル上げしてたせいですね。
反省はしましたけど後悔はしてませんがね。
では、何時も通り自問自答コーナー
Q,主人公が明らかにこれ以降出てこなさそうな武器を渡したのは?
A,BCTOを振らせたかったダケー。因みに英語の意味は深く追求しないでください。アニメ版も平行世界論で説明が可能なんです。
Q,シリアスが途切れた……。
A,シリアスに耐えきれなかった……。正直、主人公達のシーンの裏の戦闘とか、描写しても格好よくならないんですよ。デモンベインでもそれなりに対抗できたのに、アイオーンなら空を逃げ回ってればどうにでもなっちゃいますし。
Q,胎児は?
A,
①胎児から一番遠い位置でへその緒を切断し、羊水ごと念動力で宙に浮かばせておく。
②頑張って取り込んだエンネアの情報を最適化して、即座に複製を作り、再接続する。
③切断面はネギ驚異の開発力で作り上げた回復魔法でちょちょいのぱっぱ。
④胎児状態なら意外と無力らしい。
証明完了!
Q,エンネアの仕事って?
A,ミスカトニック大学での教授達の補助みたいなの。研究員したり、課外授業で戦闘をサポートしたり。
闇の気配とかそんな事を言い出す人が確実に居そうですが、既にある程度信頼を獲得していた主人公が、『その子は長年ブラックロッジに自らの意に反する研究の手伝いをさせられ、あまつさえ実験動物扱いもされていた可哀想な娘です』的な手紙を渡していた。
Q,三人称と一人称がごっちゃの部分が。
A,そこは使用です。エンネアの一人称ってエンネアでいいんですよね。僕とか私とかあったらたぶん一人称だけに直せるかも。
見落としあるかもしれないんで、他の疑問点とかあったら感想板の方にどうぞ、という事で。
次回、最近ずっとデモベだったんで、少し変則的な裏ワザ使って別作品に寄り道日常編します。
一万字弱くらいで投稿すると思うので次は早いかと。
多分、気が変わらなければ。
ではではでは、今回はここまででおしまいです。
誤字脱字に関する指摘、文章の改善案、設定の矛盾、一文ごとの文字数に関するアドバイスなどを初めとするアドバイス全般、そして、長くても短くてもいいので、作品を読んでみての感想、心よりお待ちしております。