2)祈っていたこと
振り返りの2つ目として取り上げたいことは、当時祈っていたことです。
当時、初めての御本尊流布を決めるべく頑張ってもいました。
ハッキリと祈りの一念に入れていたのは、
●自分は犠牲になってでも、友人が幸福になりますように。
私はどんな目に遭ってもかまいません。
●友人が、私以上の広布の1級の指導者に、大人材になりますように。
という2点でした。
これらは完璧に叶うことになります。
信心の確信をつかむことができた大きな体験となりました。
念願の本流を決めたあと、病で1年間入院したりがあったのですが、この私の祈りに関して、あとで間違っていたことを指摘されました。
女子部時代にゾーン主任部長まで全うした妹に、
「この信心に犠牲はないよ。折伏した方もされた方も、どちらも幸福になるのが信心だよ」
と指摘されるまで、自分の誤りに気づかなかったのです。
何かが叶うということは、一方で何らかの犠牲を強いられることと誤解していたのです。
「妙の三義」の1つとして「具足の義」があるのと、法華経自体も円教であり欠ける部分が無い教えです。
何も犠牲を強いることは一切無い教えが、南無妙法蓮華経なのです。
そもそも何らかの犠牲を強いる思想・宗教というのは、その教えに力が無い証拠なのです。
創価の仏法は、少しの犠牲も払うこと無く、自分も友人も、社会・世界をも、根本から幸福に変えゆく物凄い力があるのです。
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