こんにちは。
関東地方は梅雨に逆戻りした感じの天候です。
日差しが隠れているので少しは涼しくなるかと思ったのですが、ものすごい湿気で動くだけで汗が滝の様に流れ出てきます。
こんなときは体調を崩しがちになってしまいますが、くれぐれも体調管理にはお気をつけ下さい。
さて本日は創価学会の折伏について少し考察をしてみたいと思います。
組織からは2013年の選挙へ向けて、組織強化をするという話も聞きもれてきます。
そしてその一環として、これから組織の活動として折伏に取り組む様です。
ところで折伏ってなんでしょうか?
僕も創価学会の幹部履歴として御本尊授与数は「5世帯」と記録されています。
ここでまずは創価学会の活動としての折伏から説明をしましょう。
1.折伏活動の進め方
ここで言う折伏とは「会員に創価学会から御本尊を授与し、入会させる事」として話を勧めます。また進め方として幹部目線からの説明をしてみたいと思います。
まず折伏を進める際、幹部としては組織の中に折伏活動に取り組む活動家数がどれだけいるのか?これががポイントとなります。
そのために座談会とか活動者会などで、担当幹部を入れながら活動家に友人に仏法対話をする事、そして折伏活動に取り組むことを促します。
そのためには体験談あり、様々なエピソードありで、それこそ折伏で人生が変わるという事を全面に出してアピールをしていきます。
その後。活動家はビデオや聖教新聞を片手に友人宅に行き、仏法対話をするのですが、この時には幹部が随行する事が推奨されます。
ここで何故幹部が随行する必要があるかと言えば、「友人に仏法対話をする際、仲がいいからこそ話を切り出せない事もある。先輩幹部が同行して仏法対話をするという事で、その幹部が切り出し仏法対話を進める事ができる」という事を言っています。
そして仏法対話を進める中で「入決(入信決意)」というハードルがあります。これは友人が「入会希望カード」の記入をするというもので、幹部が同行したりして友人と仏法対話を進める中、その友人が「創価学会を前向きに見ていいかな・・・」という事で記入してもらうカードです。
この折伏活動期間、男子部では各支部毎に、壮年婦人では各地区毎に毎週報告をとり、その報告内容は上位組織にあげていきます。
・活動家数:一週間の間に折伏活動に取り組んだ人数
・折伏現場数:一週間の間で、幹部の動向した対話の数
・入信決意数:入会希望カードの枚数
・御本尊授与数:御本尊を授与した数
(※:この内容は地域や組織により、若干の差分もあります)
そして上位組織ではそれぞれの組織がどれだけ活動家を増やし、現場数を増やすことが出来たかをチェックし、停滞気味や後退が見えるところには手を入れてきます。
また当然、この数字の「御本尊授与数」については、活動当初に幹部の間で「目標数」を定めていますので、その活動期間にいかに目標数字を達成できるか。
これが組織にとって大命題になります。
何と言っても「勝利」「敗北」の分かれ目ですからね。
壮年婦人部ではそれほど過激ではありませんが、僕が青年部の時には圏部長会や本部部長会で、この目標値に近づく事の出来ない男子部の部長は「死ね!!」の一歩手前の言葉で圏男子部長や圏書記長から怒鳴られました。
「お前は広宣流布の邪魔になっている!」
「池田先生からお預かりしている組織をお前が殺している!」
こんな罵詈雑言を会合中で立たされて浴びせられたりする事が当然の様にありました。またその影響で突然引越しをする部長とか、姿が見えなくなる部長などもたまに出る始末。
だから創価学会の表の規則では、「座談会に出席して、聖教新聞も購読して、本部長面接で本人が同意していなければ創価学会に入会できない」とありますが、この期間目標を達成するという大命題の前に無視され、かなり無理な方法をとる事もままあります。
対話、即日御本尊授与!
半ば強制に御本尊授与!
また友人が何かと様々な問題で入会をする事が出来ない状況が出たり、御本尊を安置できない問題が発生すると「魔が出来した!」とばかりに、幹部がなかば強引な方法を指示して(例えば友人の職場の前や自宅の前で待ち伏せかけたりして)、その友人を捕まえ、何とか御本尊を持たせようとしたりします。
この背景にあるのは、結局は期間闘争内で目標達成して「勝利」する。
この「勝利」への執念なんですね。
幹部は執念を持って取り組まなければならない。これはよく言われてきました。
その結果、創価学会が進める御本尊授与とは杜撰なことも多く、例えば入会して御本尊を授与されたが、結果としてお巻きしたままタンスの中に隠し持ち、その結果なくしてしまったり、また御本尊は安置したけど、その後に誰も訪問指導する事をしなかった為に、結果として「幽霊会員」になったり。ひどいのにあると、本人に入会した意識がないから、統監を持っている組織の幹部が訪問した時に返納される等・・・その状況も様々です。
まあ、まともに会員として五年後に存在している人数がどれだけいるか。
その事について追跡調査をすると面白いかもしれませんね。
以上が創価学会の折伏です。
2.本来の折伏について
日蓮大聖人の御書を見てみるに、仏法の修行法としては「摂受」「折伏」の二門があり、この二門の修行法は「時」によると随所に書かれています。
「今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りてまぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏とは申すなり、天台云く「法華折伏破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」(如説修行抄 503ページ)
「仏法は摂受折伏時によるべし譬えば世間の文武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子薩・王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、破戒無戒を毀り持戒正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教道教を以て釈教を制止せん日には道安法師慧遠法師法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし」(佐渡御書 957ページ)
では今の時代は如何なる「時」であるのか、少し段階を持って考えてみてみたいと思います。
1.日蓮大聖人の仏法と創価学会及び宗門が主張している教義の内容について、
実は不確定要素が多い事。これは日蓮大聖人在世の時代の「権実雑乱」
に匹敵する内容ではないかと思えます。
2.御書を読んでみるに、正法が隆盛しているときには摂受が主体となり、
仏法の高低浅深が混在し混乱している時代は折伏が中心となる事が随所
に書かれている。
以上、考えてみるとやはり「時」として折伏を取り組むのは、日蓮大聖人の観点から見てみても外れてはいないと思われます。
ただし本来の観点から考えてみるならば、日蓮大聖人の仏法の原点に立ち返り、その仏法から高低浅深を大いに語らい、との中で仏法思想を広げるという事が、本来の折伏に通じるものではないでしょうか。
3.創価学会の折伏における問題点
では先に上げた活動が果たして日蓮大聖人の折伏という考えに合致しているのか?そこについて考えてみると、実はいろいろな問題点が見えてきます。
・折伏で語る内容について
折伏をする際、多くの活動家は「創価学会の素晴らしさ」「池田先生の素晴らしさ」を語る事や、「この御本尊に祈って叶わない事は無い!」と願望成就の事を仕切りに訴えます。
しかしこれは本来あるところの「折伏」とは違っています。
本来の折伏であれば、先の御書にあるように「権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして」「儒教道教を以て釈教を制止せん日には道安法師慧遠法師法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし」とある様に、まずは法の浅深を論じるものであり、その途上で仏法を広めていくものであり、けして組織の素晴らしさを語るというもんを「折伏」とは言いません。
何故ならば、今の創価学会の組織を見てこれを宣揚する事が正法を語るという事になると思いますか?
・政権闘争をオブラートに包んだ政治闘争を信仰にする組織。
・職員や本部の都合で、読みもしない新聞を多くとる事を推奨する組織。
・そして組織で「師弟不二」をさせる師匠は生死の状況もわからない。
・そんな人間を師匠として信じきれないと、「信心がおかしい」と言われる組織。
これは常識人であれば違うと十分理解できると思います。
・御本尊授与について
「日興の弟子分に於ては在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり。」(富士一跡門徒存知の事)
これは日興上人の言葉ですが、日興上人は御本尊を無闇に授与する事については否定的であったようです。
ところが創価学会では組織活動として御本尊授与を推進し、そこに数字目標をたてさせ組織を煽ることで、多くの御本尊をご不敬させてしまったという事実があります。
また活動から離れると、簡単に会員から手を引き、面倒を見なくなってしまいます。
この「御本尊ばら撒き」というスタンスについては、今の時代に改めて見直す必要があるのではないかと思えてならないのですが、皆さんはどう思いますか?
4.本来あるべき組織の折伏
ここから話すのは、あくまで僕の今までの経験から話をします。
まず組織で折伏を進めるならば、せめて五大部の御書については、学習をした方が良いと思います。そしてその学習の中で、会員には様々な事を感じてもらい、自発的に友人と対話を出来るように進めるべきではないでしょうか。
「創価学会は素晴らしい団体だから一緒にやろう!」
「とにかくこの信心は食べなければわからない!」
などという、低いレベルの語りしか出来ないのでは、広宣流布とは呼べないと思うのです。
「我もいたし、人へも教化候へ」ではないでしょうか?
またお題目を唱えるという、いわば信仰の基本についても会員に徹底して指導すべきだと思います。
また日々の生活の中で、お題目を唱える事で感じる事は様々あると思います。組織幹部はそういった会員の「信仰した実感の生の声」を聞く役に徹し、そこでお互いの人生について触発する活動を主体におくべきだと思います。
そういう中で会員が友人と仏法について語りあったと言うことについては、最大限に賞賛をすべきです。よく組織であるのが、友人に語ったとなると「次は座談会につれて来い」とか「幹部と一緒に行って入会決意をさせろ!」という性急な動きをしがちで、やもすると会員のそういった純粋な小さな行動というのは見落としています。
これは日蓮大聖人の言葉とは違いますね。やはり仏法対話をしたならば、最大限に賞賛すべきなんです。
あとけして数字は追わない。御本尊授与も無理はしない。こういうところも大事に考えるべきではないかと思うのです。
もし御本尊を授与するのであれば、それなりに本人が自発的に希望をして始めて授与すべきだと思いますし、そうする事で御不敬もかなり減ると思います。
「そんなことしても拡大は進まない!何を甘っちょろい事を言っているんだ!」
そう感じる人もいるでしょう。おそらく幹部であればあるほど、そう思うはずです。
でも考えてみてください。
創価学会が今のような折伏をして、本当に組織として発展すると思いますか?
逆にそういった雑な活動、本来の意義からかけ離れた活動に専念した結果が今の組織であり、人材不足に拍車をかけたのではないでしょうか?
組織活動として折伏を進めるのであれば、またその主体者であれば、もっともっと真剣に考えるべきではありませんか?
だって信仰とは、本来は一人ひとりが主体者のはずです。
けして組織の幹部から責められるから行うものでもないはずです。
もし活動家幹部の方がいましたら、いま少し再考される事をお勧めします。

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COMMENT
やっぱりね
やっぱりあったんですね、このテの締め上げが…。本来権利のはずなのに、いつの間にか義務になっちゃってる、創価学会の不思議なところ…。しかも、幹部から酷い言われ方をされても、「自分の命を見せてもらってるんだ」と思わなければならないし、反対に下の立場から苦言を訂しても、幹部は絶対に「命を見せてもらってる」とは考えない。本来なら合わせ鏡で幹部もそう思うべきなのに…。嫌だ嫌だ。
こんな活動のいったいどこが幸福だというんでしょう?
こんにちは
昔は何にもなくて情報もなくて、でも将来には希望が持てた。
しかし、今は、情報はあるし、あらゆる方向に人の価値観が広がっている。
折伏が昔みたいなのりでできないように思います。
トニーさん
まあ地域によって差はあるみたいですが。
いい年したおとなが顔を真っ赤にしてマジギレしなから怒鳴る様、外部にはみせられたものではありません。
「池田先生は決意はいらないんだよ!」
「目標達成出来ないときは、どう責任とるんだ!」
こんな罵声が続く部長会は、本当に修羅場でした。
ネットがない時代
また情報は限られたものであったし、だから会員がブレる事も少なかったのではないかと。
ただその分、組織に疑問を持っても、さの受け皿的なものは無く、泣き寝入りしたり「反逆者」のように法華講へ行く事くらいしか無かったですからね。