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[28903] 紙芝居師のいるところ【青春 ラブコメ?】
Name: メガネ◆ea6127af ID:4563b562
Date: 2011/07/19 18:46
 子供の頃、俺は一週間だけ母の実家で過ごした。
 祖父ちゃんはもうかなり歳を喰っていたはずなのに、それを感じさせないくらい元気だった。
 それもそのはずだ。祖父ちゃんは日がな一日中家でのんびりと過ごす老人ではなかった。

 あの日は確か夏で茹だるように暑い日だったことを覚えている。家の中でダラダラとテレビを見ていた俺に祖父ちゃんは「お前、暇だったらついてくるか?」なんで尋ねてきた。
 「面倒くさい」と言って断ったが、祖父ちゃんは半ば強引に俺のことを外へ連れ出した。
 母さんの実家は海の近くにあった。祖父ちゃんが俺のことを連れ出したのはもう夕方で、空はオレンジ色に光って暮れていた。オレンジ色の光は海をも照らしてきらきらと輝いていた。

「なあ、こんな時間にどこ行くんだよ」

 俺はアニメの再放送が見たくてテレビの前に居座っていた。それと祖父ちゃんが俺に見せようとしている物が釣り合うなんて到底思えなかった。

「まあそう言うな、面白いものを見せてやる」

 こんな歳でバイクを乗りこなす祖父ちゃんの技術には心底感銘を受けた。祖父ちゃんのスーパーカブ90は唸りを上げて海沿いの道を走る。
 だがしかし、俺は祖父ちゃんの後ろではなく、横につけられた段ボールのような荷台に詰め込まれていた。不安定で風が凄くて、酷く心配だった。
 俺の代わりに後部座席に腰を下ろしていたのは訳の分からない荷物の山だった。

「祖父ちゃん、それなんなのさ」
「これか、これはな、商売道具だ」
「商売道具? これから何か売りに行くの?」
「売りに行く、ってわけでもないけどな。ただの自己満足だ」
「自己満足なのに商売なの?」
「そうだ」

 結局よく分からなかった。
 祖父ちゃんのスーパーカブ90が辿り付いたのは無人の公園だった。俺だってあまり公園では遊ばない。昔も今も公園で遊ぶような子供は少なかった。塾とか、お稽古とか、そういうガリ勉思考の親が増えてきたからだろう。
 俺は公園の目新しさに一瞬目を輝かせた。が、それ以上に祖父ちゃんがここへ来た意図が分からなかった。

「祖父ちゃん、こんなところで何すんのさ」

 ブランコに立ち乗りしながら俺は祖父ちゃんに尋ねた。

「まあ焦るな、今に分かる」

 荷物の紐を解きながら祖父ちゃんはそう言った。
 程なくして、

「あ、今日も来てたんだ叔父ちゃん」

 無人だったはずの公園に子供が集まってくる。
 え? と、俺はブランコを漕いでいた体を止めた。驚きが二つほどあったからだ。一つは公園で遊ぶようなやつがまだこれだけ沢山いたということ。もう一つは――みんな祖父ちゃんを目的に集まってきていることだった。

「おうおう、よく来たな、ガキども」
「今日もやってくれるの? あれ」
「ああ、だがその前に駄菓子を買っていくんだぞ」
「うん、分かってるよ」

 そうしてみんな、ポケットから小銭を取り出して祖父ちゃんから駄菓子を買っていく。俺は祖父ちゃんがこれから何をしようとしているのか全く分からなかった。

「おい、誠」

 俺の名前を、祖父ちゃんが呼ぶ。その声に俺はようやくハッとした。

「え、な、何だよ」
「ほれ、今日はサービスだ」

 そう言って、祖父ちゃんは俺にうまい棒を投げつけてきた。慌ててそれを掴むが、掴んだ衝撃で粉々になってしまった。

「いや、これって……」
「それ食って、座って見てろ」
「えー? 叔父さんずるいよ、ぼくにもサービスしてよ」
「あれは孫なんだ。今日は勘弁してくれや」

 まさか公園まで来て駄菓子を売りに来たのだろうか。俺はそんなことを、思っていた。

「さあ、始めるぞ」

 駄菓子を売り終わったのか、祖父ちゃんがそう言うと子供たちは我先にと祖父ちゃんの前に座り始めた。
 荷台の紐が完全に解かれて中身がその姿を現す。

「紙芝居『桃太郎』、始まり始まりー」

 何のことはない。
 祖父ちゃんはただのボケ老人ではなく、一人の紙芝居師だった。



[28903]
Name: メガネ◆ea6127af ID:4563b562
Date: 2011/07/19 02:07
 一章

 この瞬間が最高だ。
 いつだって、それは変わらない。

「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。さて問題です。おじいさんは山へ何をしに行ったでしょうか」
「山へシバ刈り!」

 目の前にいる子供が一斉にそう答える。確かに正解だ。だがここはもう少し突っ込んでみよう。

「ではさらに問題。シバ刈りの「シバ」とは一体なんでしょう」
「あれでしょ? サッカー場とかに生えてるやつ」
「残念だったな、ここでいうシバっていうのは小枝のことだ」

 得意げな顔で答えた子供にそう言ってやる。都会の子は「シバ刈り」のシバが小枝だと知らないのだ。十人中九人までが芝生の芝だと思い込んでいる。芝刈り機なんてものが売っている時代なのだ。

「へー、そうなんだ」
「っていうか、何でわざわざ山へ芝刈りに行くんだよ。おかしいだろ?」
「もう、お兄ちゃんはいちいち細かいんだよ」
「細かくなんてねえぞ。ここはかなり重要な箇所だ」

 そう言って俺は紙芝居の絵をめくる。現れたのはお婆さんが川で洗濯をしてる場面の絵だ。

「おばあさんは家に洗濯機がないので、川へ洗濯をしに行きました。すると、川の上流から、ドンブラコ、ドンブラコ……さて、何が流れてきたでしょうか」
「ももーっ」

 子供たちの声がシンクロする。

「まだ次の絵も見せてないのにみんなよく知ってるな。知ってる話だったらもう止めるか?」

 わざと挑発すると「見る見る!」の大合唱。

「けど、みんなが知ってる話をしても、おもしろくないしなあ」

 子供に聞こえるようにブツクサ独り言を言うのもこっちの作戦。

「おばあさんは大きな桃を岸に寄せ、「よっこらしょ」と持ち上げてぎっくり腰になりましたとさ」
「そんな話じゃない!」
「幸いなことに、おばあさんのぎっくり腰はたいしたことはありませんでした。夕方おじいさんが帰ってきて、大きな包丁で桃をまっぷたつに切ると、桃の中にいた赤ちゃんもまっぷたつになって死んでしまいましたとさ」
「自分で話を作るな!」
「そんなの聞いたことない!」
「さてみなさん。赤ちゃんが本当に死んでしまったのかどうか、それは明日のお楽しみー」

 子供たちのブーイングが一斉に木霊する。それもそのはず、これは桃太郎の昔話に見せかけて進めるおもしろ話の『ペチョ子ちゃん』だからだ。
 桃から生まれた桃太郎の妹のペチョ子ちゃんは、金太郎のように力が強く、こぶとりじいさんのように鬼の酒盛りを見てしまい、舌切り雀のように大きいつづらをもらい、花咲かじいさんのように枯れ木に花を咲かせる。
 これだけしても満足できず、有り余ったエネルギーを世のため人のために役立てんと、悪者退治の諸国漫遊の旅に出る。このストーリーの節操の無さがまた味わいなのだ。
 紙芝居の講演が終わると子供たちが親に連れられて一斉に帰り出す。きっと昔は親同伴なんてことも少なかったはずだ。今の親は過保護すぎる。紙芝居が俗悪への入り口だとか、そういう考えを持った親の存在が紙芝居を衰退させた原因の一つだとも祖父ちゃんは言っていた。

 ふと、後ろで俺の紙芝居を見ていた親御さんが俺に近づいてきた。

「ありがとうね、誠くん」

 笑顔が素敵で人の良さそうなお母さんだった。確かこの人の子供さんは俺の紙芝居を毎日見に来てくれていた。

「いえ、たいした事じゃないです」
「うちの子ね、毎日あなたの紙芝居を楽しみにしてるのよ? 家でゲームばっかりしてるよりよっぽどいいわ」
「そうですか」

 祖父ちゃんと同じスーパーカブ90。その後ろに取り付けてあった紙芝居を紐でくくりながら俺は答えた。
 子供に楽しんでもらえて、親御さんにこんなことを言ってもらえたならこれほど嬉しいことはない。最高だ。紙芝居をしている時と、この瞬間が最高なのだ。

「学校では何か部活に入ってるの?」
「いえ、紙芝居をしたいので帰宅部ですね」
「紙芝居が好きなのね」
「ええ、祖父が紙芝居師だったものですから」
「あらそうなの。何かお礼をしたいところなんだけどね……」
「そんな、別に構いませんよ。こんなの、ただの自己満足ですから」

 そう、ただの自己満足なのだ。
 紙芝居師は始まる前に駄菓子を売って、それを利益とする職業だ。が、そんなものは雀の涙程度にもならない。紙芝居師がまだ沢山いた昭和の時代でも、その殆どは職を失って小遣い稼ぎをする無職の叔父さんだった。子供たちにとってはそれが反面教師のような存在だったのかもしれない。
 自分がしたいことだから、今もこうして頑張れるのだ。誰かのためではなく、自分のために。

「自己満足なんかじゃ、ないわよ?」
「え?」
「あなたの紙芝居は、少なくとも私と息子の心を動かしたんだから」
「……そうですか」

 彼女の言葉から来る喜びを抑えられず、紐を掴む手に力が籠もる。子供の頃から、憧れてきたのだ。祖父ちゃんみたいな紙芝居師になれたらと。俺は少しでもそれに近づけたのだろうか。

「それじゃあね。また期待してるわ」
「はい」

 言い残して彼女は公園を去っていった。ここは公園と言うよりは空き地のようだ。遊具はブランコしかなくて、あとは俺の後ろにある土管が数個。紙芝居をするにはこれで必要十分だった。

「さてと……」

 荷物を纏め終わって、一息つく。何とか今日も上手くやれた。
 紙芝居は以外と簡単なものではない。一般には誰でもできるもの、というふうに見られているが、実はそうではない。例えば親が子供に対して一対一で演じているのならそれは難くないこと。だが、一対多数になると話は大きく変わってくる。
 紙芝居の題材として使われる話は基本的にはファンタジーだ。動物が人の言葉を話したりもする。敏感な子供はすかさず突っ込みを入れてくる。それに明確な答えを返せないようでは二流三流だ。
 紙芝居はアニメや映画のような一方が他者に視聴を強制するものではない。要は対話だ。語り手である俺と聞き手である子供とのいわばキャッチボール。それを理解していなければ子供たちを楽しませることはできない。俺も不安を抱えながらいつもやっているわけだ。

「見つけたわよ、小瀬川誠(こせがわまこと)!」

 ふと、聞き慣れない声が公園の入り口から聞こえてきた。もう子供たちはみんな帰って誰もいないはずなのにどういうことだ。

「あ?」
「とうとう現場を突き止めたわ」

 と、小さな輪郭に不釣り合いなくりっとした目を細め、そいつは笑っていた。
 ふっふっふっ、と。
 両手を腰にあて、意味もなく偉そうに立っている。

「誰だお前」
「なっ、誰だって、私はあんたのクラスメイトでしょうがッ!」
「クラスメイト? ふむ……」

 顎に手をあて、しばらく考えてみる。「面倒なんでくくりました」という感じのポニーテールにはあまり色気を感じられない。何故だかは分からないが、いつも右目だけを閉じている。

「……あ」
「ようやく思い出したようね」
「悪い、すっかり忘れてた」
「そうよ、私はねえ……」
「俺、人の名前覚えるの苦手なんだ」
「なんでよッ! 文月紅璃(ふみづきあかり)よ!」
「文月、か……」

 そういえば見たことがあるような気がする。同じクラスで、あれは、確か斜め前の三列先の、女子だっただろうか。
 人の名前を覚えるのが苦手な俺がここまで鮮明にこいつのことを覚えていたのは、きっと文月が目立つやつだったからだ。成績は一桁くらい、容姿端麗、部活動でも活躍中……何の部活だったかは覚えていないが。

「ていうかなんだ、その「私のこと覚えてて当然ですわっ」みたいなお姫様特性は。時代錯誤もいいところ……」
「お姫様特性とか関係ないっ。なんで私のことを覚えてないのよっ」
「だから言っただろうが。俺は人の名前を覚えるのが苦手なんだ」

 言って、祖父ちゃんと同じバイクに俺は跨がった。こんなお姫様と話し込んでいる暇があるのなら明日の用意をしておきたかった。時間は無限にあるようにみえて実は有限なのだから。

「じゃあな、文月紅璃」
「ちょ、ちょっと待ちなさいっ」

 アクセルを握る直前になって俺はあることが気がかりになった。

「そういやお前、俺に何の用だったんだ?」
「だ、か、ら、それを話そうとしてたんでしょうがっ」

 面倒なことこの上ない。だが文月は俺がもしここで逃げ帰ったりしたのなら地の果てまで追いかけてきそうな形相をしていた。話を聞いておくのが正解だろう。

「分かった。だが、俺がこの場所に留まれる限界はあと三分だ。手短に頼む」
「なんでそんなに偉そうなのよ」
「偉そうなのはお前だ」
「まあいいわ。数分後、あんたは私に跪くことになるんだから」

 よく分からない未来予知が文月の中で行われたらしい。

「数分後には俺は帰ってるわけだが」
「あんた、私のお父さんがこの辺りの町内会長だって知ってる?」

 知るわけがない。

「そしてね、お父さんが言ってたの。「この辺りの公園に無許可で紙芝居をする男子高校生がいる」ってね」
「だから?」
「そんなこと許されるはずないでしょうがッ!」

 学生生活を経験した人間なら誰でも共感できるだろうが、ふとした拍子にみんなが一斉に静かになって、何でもない発言がタイミング悪く響いてしまう。それによって変に恥ずかしくなってしまうことがある。
 俺と文月の間に生じた沈黙はそれに似ていた。

「……な、なんとか言いなさいよ」

 気まずそうに文月が言った。

「……いけないことなのか? それ」
「え?」
「無許可だけど、公園で紙芝居をするってことが、法にでも触れたりするのか?」
「法には触れないかもしれないけど、えっと……あ、あんた、勝手に駄菓子売ってるじゃないっ。純真無垢な子供に」
「その金を出してる親御さんは常に同伴なわけだが?」
「ぐっ……紙芝居の著作権とか」
「これは俺の自作だ」

 昔は図書館から借りた物を使っていたりしたが、今はもっぱら自作だ。

「そ、そんな……」

 アニメキャラのように文月はがっくりと項垂れていた。全く訳が分からない。

「お前、親父さんに言われてここに来たわけじゃないだろ」
「え?」
「親父さんからそんな話を聞いて興味本位で来たってところか?」
「そ、それは……」

 どうやら図星だったらしい。

「とりあえず俺の邪魔はするな、文月紅璃」
「じゃ、邪魔って……」
「俺は紙芝居に命を懸けてる。お前が部活に一生懸命になるみたいにな。だからもう俺に関わるんじゃねえぞ」

 そう言って、アクセルに今一度手をかけようとした俺に文月が口を開いた。

「……ふ、ふんっ、何よ紙芝居なんて」

 ピクッと手が止まる。

「もうそんなの時代遅れじゃない。今の時代はアニメよアニメ。映像技術だって格段に進化してるし」
「……はあ……」

 落ち着け、そう自分に言い聞かせる。こんなやつに怒りをぶつけたって仕方がない。それに今の発言で一つ思い出したことがあった。文月は確かアニメ研究部に所属していたんだった。うちの学校のアニ研はそれなりに凄いらしく、総文祭、つまり全国高等学校総合文化祭でもいい賞をもらっていたはずだ。
 そこの部員ならば紙芝居を馬鹿にする心理も分からなくはない。分からなくはないが――とても許せるものでもない。

「……お前、よくウザイとか言われるだろ」
「ウザ……そうよ、私はウザイわ。それがどうかした?」

 我ながら酷いことを言ったと思ったが、文月はそれを自覚していたらしい。自覚していながらそれを変えようとしないほどバカにも見えない。ということは何か理由があるのだろうか。
 今は全く関係ないが。

「大体今のアニメなんてのは子供たちを楽しませることを忘れてオタクどもに媚びを売ってるだけじゃねえか」
「違うッ、それは一部での話よッ」
「商業作品の大半がそうしなきゃ元を取れないようじゃアニメこそ廃れるべきなんじゃねえのか?」
「子供たちを楽しませるためにアニメを作ってるところのほうが多いわっ」
「俺にはそうは見えないけどな」

 ぐぬぬ、と俺と文月は睨み合った。俺も頭に血が上っていたせいか引くに引けない。水掛け論であることは分かっていた。いいアニメだって沢山存在していることも。
 だが、俺の愛する紙芝居を侮辱したこいつのことを許すわけにはいかなかった。

「いいわ、ならば決闘よ、小瀬川誠ッ!」

 俺のことを指さして文月はそう高らかに言った。決闘って、一体何のことだ。

「人のことを指さすんじゃねえ」
「アニメとあんたの紙芝居、どっちが子供にとってエンターテインメントとして優れているか勝負よ」
「何……?」

 ようやく文月の言いたいことが見えてきた。だがしかし、その決断は英断とは言えない。
 何故ならば――子供を楽しませることにおいて俺が負けるわけがないからだ。
 この勝負を挑んできた時点で文月は負け終わっているのだ。

「いいぜ。お前がやるって言うんならやってやるよ。負けて吠え面かくんじゃねえぞ」
「上等よ。場所、方法はこっちから連絡するから首を洗って待ってなさい、紙芝居バカ」

 そうして文月は俺に右手を差し出した。正々堂々勝負しようと言うことなのだろうか。掌に力を込めると、同じ分だけ文月からも力が返ってくる。
 俺は不適に笑い、文月もそれに続いていた。
 自分が負けるはずがない。そう思い込んでいる文月のことを俺は倒すのだ。




[28903]
Name: メガネ◆ea6127af ID:4563b562
Date: 2011/07/19 02:11

 闇の中の坂を、俺のスーパーガブ90が駆け抜けていた。真っ白なそれは少しだけオヤジ臭い感じもする。が、そこがまたいいのだ。とても高校生が好きこのんで乗ろうとするバイクではない。でも、俺が好きだからそれでいいのだ。
 ごく平凡な住宅地の中に我が家(4LDK、二階建て)はあった。バイクを車庫にしまい、玄関を目指す。今俺の中にはやってやろうという気持ちしかなかった。

「ただいまー」
「おかえり」

 靴を放りだしたまま自室がある二階へと向かう。母さんは特別何も言ってこない。俺が勉強もろくにせずに紙芝居をしていることとか、高校生の分際でバイクを買ってもらったこととか、色々ある。

 全部、許してくれているのだ。

 それだけでも感謝しなければならないだろう。
 玄関の状況を見る限り、父さんはまだ帰ってきていないようだった。俺の家族は、今は俺と母さんと父さんの三人。それも、関係しているんだと強く思う。
 自室のドアを開ける。マンガ本が散らかった六畳間という、ごく平均的な男子高校生の部屋。ただ一つ違うところと言えば、紙芝居を作る時に使う絵の具やら画用紙。参考文献になる絵本が何個か置いてあることか。
 絵本はとても参考になる。子供向けという点、幻想的な絵。紙芝居と近しい物があると俺は思っている。
 描きかけだった原画を手にとって、俺はその前にまずやらなくてはいけないことを思い出した。
 そうだったな、なんて。忘れていいはずないのだ。けど、今日は文月のせいで気持ちが高ぶっていたからかもしれない。
 思い立って一階にある和室へと足を運ぶ。襖を開くと、お目当てのものはそこにあった。

「……ただいま、ゆかり」

 まだ真新しい茶色の仏壇。母さんの手入れが行き届いているお陰か埃なんて一切かぶっていない。慣れてしまった動作で線香に火をつける。軽く振って火を消すと甘く落ち着いた香りが漂ってくる。鈴を一度鳴らして両手を合わせた。
 そうして、今はもういない妹へと思いを馳せるのだ。



 *


 夜の病院は意外と怖くない。そう初めて思ったのは中学生の頃だった。
 眼が覚めるたびに、ゆかりの呼吸が止まっていないことを確認して、また寝た。病院の床は案外ほこりっぽくて、いつも同じところにあるほこりのかたまりを眺めていた。あまり深く眠れず、ふっと意識が戻ると、いつでも廊下を歩いているナースの足音がした。そして「ここは死にそうな人が沢山いるから、病院の外よりもかえって安心だ」なんて思っていたりもした。今考えてみればなんて不謹慎な子供だったんだろうと思うが、ゆかりが生きていさえくれればそれでよかった。
 底の底にいるときは独特の甘みがあるものだ。
 ゆかりの夢を、ゆかりが死んでから初めて見た。
 浅い夢の中に断片的に出てくることがあっても、こんなにはっきりと長く夢に出てきたのは初めてで、なんだか久しぶりにゆかりにちゃんとあった気がした。
 死んでいる人に対して変な言い方だけれど、そんなふうに思えたのだ。
 ゆかりは繊細で、そよ風が吹いても散りそうに大きくふわふわと揺れる花のようだった。


 ■■


「私、頑張るから」

 頑張るから、とゆかりは繰り返した。いつもそんなことを言っていた。
 ゆかりが生まれたのは俺が母さんの実家に行った後だった。先天的に心臓が悪かったゆかりは永遠病院と家とを往復するような生活だった。段々と病院で過ごす時間が多くなって、ついには寝たきりになった。
 真っ白なシーツが敷かれたベッドの上でゆかりはいつも、笑っていた。

「頑張ろうな」

 本当はもっと上手い言葉があったのだろう。
 でもしょうがない。
 俺は頭の悪いガキだったから。

「頑張ろうな、二人で」
「うん」

 ゆかりの体は小さかった。ベッドに横たわっているせいかいっそう小さく見える。その肩でふわふわの髪が揺れていた。俺はゆかりを守りたいと思っていた。いや、もしかするとそれは逆だったのかもしれない。
 俺がゆかりに守ってもらっているのかもしれない。
 ゆかりの目は人とは少しだけ違って、綺麗だった。生まれつき左右の目の色が違って、左目が青いサファイアのように光っていた。オッドアイ、と一般的には言うらしい。
 少しの間だけゆかりも幼稚園に通っていた時期があった。心臓の容態が安定していた時期だ。紙芝居をやっている俺にはよく分かることだが、時として子供の純粋な言葉は残酷なものになる。感情のセーブができずに思ったことがそのまま口から出てきてしまうのだ。
 ゆかりの青い目は案の定気味悪がられた。子供たちに悪意はないのだ。だからこそタチが悪い。

 ――病気だよ、病気。
 ――触ったらうつるぞ。

 なんて、
 そんなはずはないのに子供たちにはそれが分からないのだ。
 医者は全く関係ないと言っていたが、俺にはその一件のストレスが、ゆかりの病気の進行を早めたとしか思えなかった。今となっては恨む理由もない。けど、当時の俺はそんな世の中の不条理にどうしたらいいのか分からなかった。

「なあ、ゆかり。何か欲しい物とかない?」
「ううん、何もいらないよ」

 ゆかりは俺が何を言っても、何も求めようとはしなかった。元々物欲がない子だった。時々欲しがる物といえば小難しい文庫本くらい。ゆかりが読みたいと言った本は図書館まで走ってすぐさま借りてきた。が、それでも俺の気持ちは満たされなかった。
 何か、ゆかりに対して何かしてやりたかった。
 そんな時、ふと思いついたことがあった。

「ゆ、ゆかりっ」
「何? お兄ちゃん」

 首を傾げるゆかりに対して俺は意を決し、言った。

「紙芝居とか、好きか?」
「紙、芝居?」
「そう、紙芝居」

 全くの思いつきだった。
 当然この頃の俺は紙芝居なんてやったことはない。祖父ちゃんが紙芝居師だったことを思い出して言ってみたのだ。できる自信も、成功する保証も、何もかもないに等しい。けど、ゆかりのために何かしたかった。

「どう?」
「うーん、見てみたいなあ、お兄ちゃんの紙芝居」
「そ、そっか」

 恐らく、ゆかりは紙芝居なんて実際には見たことはない。幼稚園にいたことはあったが、それも短い間の話だ。ということは俺が見せる紙芝居がゆかりにとって初めてのものとなる。責任重大だった。

「でも、できるの? お兄ちゃん」
「え?」
「紙芝居なんて」
「あ、ああ、できるって。俺に不可能はないからな」
「そっか」

 ゆかりの、いつもの笑顔に変に緊張した。失敗は許されない。一世一代の大勝負だった。

「じゃあ、ちょっと待ってて」

 そう言って俺は図書館へと走り出した。


 ■■



 選択肢は色々とあった。紙芝居の種類のことである。俺すら見たことのないオリジナルのものから、誰もが聞いたことのある昔話まで様々なものが置いてあった。
 どれを選ぼうかと悩んだ結果、俺は赤ずきんちゃんの紙芝居を選択した。理由はまあ、正直紙芝居なんてやったことがなくて不安だったため、知っている話のほうが安心できるとそれだけだったのだが。
 もう顔見知りになった司書さんにそれを手渡すと彼女は怪訝な顔を俺に見せた。

「あら誠くん、紙芝居なんてどうするの?」

 当然の疑問である。

「えっと、その、妹にやってみせようかと、思って……」
「へえ、妹思いのいいお兄ちゃんね」
「はあ、まあ……」

 何となく気恥ずかしかった。
 逃げるように図書館を飛び出して病院へと走った。階段を駆け上りながら不安を握りつぶす。
 大丈夫、そう自分に言い聞かせた。

「お待たせっ」

 病室の扉を開けてそう言った。

「お兄ちゃん。別にそんなに急がなくてもいいんだよ?」

 汗だくになった俺を見て、ゆかりは呆れるようにそう言った。
 早くゆかりのことを喜ばせてやりたい、そんな気持ちで胸がいっぱいだった。

「大丈夫大丈夫、今見せてやるからな」

 紙芝居を入れ物から出すが、慌てていたせいか出した拍子に全部バラバラになってしまった。

「大丈夫? お兄ちゃん」
「平気平気、あはは……」

 言いながら内心ではけっこう焦っていた。もっとこう祖父ちゃんみたいに格好良くやるつもりだったのにいきなり躓いてしまった。
 いや、これから気をつければいいだけの話だ。

「赤ずきんちゃん?」
「ああ、うんまあ」

 見せる前から内容を知られてしまった。いや、ここは切り替えていくべきだ。そう思いながら紙芝居の絵を纏める。
 祖父ちゃんは確か絵を入れる木の枠みたいなのを使っていたけど今はない。付け焼き刃だけど何とかなるだろう。

「えっと、じゃあ、紙芝居『赤ずきんちゃん』始まり始まりー」

 ゆかりが嬉しそうに拍手をしてくれる。

「昔々、あるところに…………

 祖父ちゃんの見よう見まねで語るが、あまり上手くはいかなかった。ナレーションの部分は何とかなったとしても赤ずきんちゃんとオオカミの声の違いとか、細かいところでミスが目立った。
 個人的には全く納得のできない出来だった。

「……おしまい」

 言ってため息をつく。何がゆかりを楽しませるだ。自分でも満足できないのに、そんなことできるはずもなかった。
 はずだった。

「面白かったよ、お兄ちゃん」

 拍手が聞こえて、俯いていた顔を上げた。
 ゆかりはいつもより二割くらい楽しそうに笑ってくれていた。

「え? そ、そうか?」
「うん、お兄ちゃんの紙芝居、好きだよ」
「でも、あんまり上手くなかったろ?」
「ううん。そんなの、これから上手くなればいいんだよ。また見せてね」
「……ああ、分かった」

 独り言のように俺はそう呟いた。
 まだ手の中にある宝物に俺は何をしてやれるだろうか。その答えが少しだけ分かった。




 *



 今日もうまくやれたよ。相変わらず面倒な突っ込みを入れてくる子供はいあるけどさ、何とか流せた。でもな、うざいやつがいたんだよ。文月紅璃っていうやつ。ちょっと成績がいいからってそれを鼻にかけてやがんだよ。でな、俺と勝負しようだなんて言って来たんだぜ? 俺に勝てるはずないのにな。けどなー、油断はできないよな。だってあいつのアニメ部結構いい感じらしいし。ま、結局俺が勝つんだけどな。お前が褒めてくれた俺の紙芝居が負けるはずないってな。

 なんて、心の中で言い終わり、目を開けた。
 目の前に見えたのはゆかりの写真。外に出歩くことも出来なくて、写真が撮られた場所は病院の中になってしまった。真っ白な背景の中にゆかりの笑顔がある。
 ゆかりは、妹は俺がまだ中学生の時に死んだ。苦しい様子もみせず、ありふれた表現だけれども、本当に眠るように。

 ――お兄ちゃんの紙芝居、私好きだよ。

 そんな言葉があったから、俺は今もこうして紙芝居を続けている。きっとそれはゆかりのためではない。自分のためなのだ。
 そう何度も、思い込んだ。



 ■■




「ほんと最悪っ」

 自分で作ったカレーを口に掻き込みながら文月紅璃は言った。
 気にくわないこと、イライラすること、悲しいこと、そんなものはこれまでの人生で数多あったというのに今日は分かりやすく怒ってしまった。しかも、両親の前でだ。

「何かあったのか? 紅璃」

 対面に座る父親が紅璃に声をかけてくる。我ながら冴えない父親だと紅璃は思っていた。メガネをかけて煙草を吸って、格好良く見えそうなアイテムは揃っているというのに何となく覇気がない。完璧に尻に敷かれるタイプだ。実際そうでもあるのだが。
 この辺りの町内会長を任されたのも、実は断り切れなかったからなんて理由だったりする。

「何でもないっ」

 カレーを一口。
 自分で作ったものだから、もう食べ慣れてしまっている。本当ならば父か母に作ってほしいものだが、それは無理だ。冴えない父親は看護師だし、家の中にいるにもかかわらず白衣を身に纏う母親は医者だからだ。
 こうして家族三人で食卓を囲むことすらけっこう珍しい。

「何でもなくないだろ。話してみなさい」
「だからね、今日お父さんの言ってた紙芝居をしてるやつに会ってきたのよ」

 さらにカレーを口へ。

「そういつがね、ムカつくやつだったの」
「知り合いだったのか?」
「クラスメイトだった」
「はあ、世の中って狭い物だな。ねえ、母さん」

 父が母に話を振る。

「そうねえ、ふふ」

 もう四十近いというのに母は若い。肌は一体どんな手入れをしているのか皆目見当もつかないが、ツヤがありシミ一つない。そして何より無駄な胸の脂肪が目に付く。
 つられて紅璃も自分のそれを見直してみようかと思ったが止めた。ずっと昔、下を向かずに生きていこうと決めたから。
 今は関係ないのかもしれないが。

「でも紅璃がそこまで一人について熱く語るのも珍しいな」
「別に。てかお母さん」

 カレーを口に運びながら母は首を傾げた。

「家では白衣着なくたっていいんじゃないの? なんていうか、その……」

 エロい、なんて単語は女子高生の自分が口にすべきではないだろう。そう思って呑み込んだ。

「あら? 白衣はね、研究者や医学に携わる者にとって欠かすことのできないアイテムなのよ? たとえ家の中だってこれが居心地いいんだからいいじゃない」
「だからって……」
「それよりも紅璃。その紙芝居をしてる子って、男よね」
「まあ、そうだけど」
「恋ね」
「はあッ!?」

 テーブルを叩きつけて思わず立ち上がる。その拍子でスプーンが皿から零れてしまった。

「恋よ。そんな一人の男のことでムキになるなんて」
「か、母さん……」
「そんなんじゃないってッ」
「私もね、お父さんと出会ったときはそりゃあ……いや、その時点では特になんでもなかったか」
「そうだったの? 母さん……」
「とにかくッ」

 項垂れる父を無視して紅璃は言った。

「あいつはただムカつくだけだって」
「はいはい、ごめんごめん。ちょっとからかい過ぎたわ」
「たくっ」

 言って椅子に座り直す。母は時々こんな突拍子もないことを言ってくるから苦手なのだ。

「で、紅璃」

 胸の脂肪を揺らして、母が紅璃に何かを尋ねてくる。

「何?」
「その子の紙芝居、上手なの?」
「え? うーんまあ、子供には受けてたんじゃないの? 認めたくないけど」
「そっかあ……」

 母はそしてニヤリと高慢そうに笑み浮かべた。こういう時の母は十中八九何か良からぬことを考えている。

「母さんまさか……」
「物は試しよ。ねえ紅璃。その男の子に一つお願いがあるんだけど、いいかしら」
「……は?」




[28903] 3(修正)
Name: メガネ◆ea6127af ID:4563b562
Date: 2011/07/29 07:44

 二章

 俺は友達が少ない。
 こう断定的に書くと違う意味で捕らえられてしまいそうだが、事実だ。

「おい、待てってっ」
「うおっ」

 学校の廊下を歩いていたら肩がぶつかった。背後から走ってきたやつは俺の姿を見ると怯えるように体を震わせていた。

「げっ……」
「こ、小瀬川君……」
「あ?」
「お前何やってんだよっ」
「いやだって……」
「おい、ちょ……」

 俺の言葉もまともに聞かず、二人は勝手に盛り上がって。
 勝手に財布を俺に差し出していた。

「「これで勘弁して下さいッ!」」
「は?」
「いやホント、今これしかなくてっ」
「マジですから、ホントマジですからっ」
「いや……」
「「すいませーんッ!」」

 そう言い残し二人は去っていった。

「……うわー、やっぱり小瀬川君ってそういう人だったんだ」
「危ないから近寄らないほうがいいって」

 周りの女子のヒソヒソ話が聞こえてくる。はあ、と自然にため息が零れる。
 別に俺はか弱そうないじめられっ子から金を巻き上げるような不良ではない。どちらかと言えば成績はいいほうで優等生に近い。なのに、こんなことになってしまうのは……この百八十五くらいあるガタイの良さと、微妙な人相の悪さが原因なのだろう。
 この二つの理由のせいで俺は友達が少ない、というわけだ。だがそれは俺にとってプラスに働いたりもする。あまりクラスメイトと関わらないから面倒な役職を押しつけられることがない。
 これはかなり重要だ。放課後の時間は全て紙芝居にあてたい俺にとっては嬉しい限り。その代償として誤解を招いてしまうというなら、それも仕方ない。今更どうにかしようにも大変そうだ。

 とりあえず、さっき強引に手渡された財布二つは落とし物置き場に預けることに決めて、教室のドアを開け放った。
 ドアを開けると朝の喧噪が嘘のように静まりかえる。だが、それも一瞬で教室内のみんなが先ほどの女子と同じようにヒソヒソ話を始めるのだ。話題はもちろん、俺のことだろう。耳を傾けるのも面倒だった。
 その中で唯一俺のことを睨みつけている人間の姿を目の端で捕らえる。

 文月だ。

 閉じていないほうの目は敵意剥き出しといったように見える。昨日の今日の話であるわけだし、分からなくもないが、余計居心地が悪くなった。
 ため息をついて窓際にある自分の席へと歩を進める。

「おはよ、誠」
「おう」

 唯一の友人である司に声をかけて席に座り込む。

「相変わらずって感じだね」
「別にいいけどな、案外気が楽だし」
「そう? 僕だったら居心地が悪くて不登校になるかもよ?」
「お前が不登校になんかなるかよ」
「まあ、可能性はゼロじゃないよ」
「ふうん」

 黒縁メガネに真っ黒な髪。ワックスも全くつけず、司はおよそ今時の男子高校生という感じがしない。誰だって初対面ならば司のことをただ大人しい優等生だと思うだろう。
 だが、そうではないことを俺は知っている。

「僕も誠みたいだったら生徒会に推薦されることもなかったのかな」
「嫌なのか?」
「嫌だよ。面倒なことばっかりだし」
「だったら断ればよかっただろ? 俺はお前なら断るって思ってた」
「消去法だって。僕以外に誰も立候補する気配なかったし、時間の無駄でしょ?」
「まあな」
「それに、面倒だけどいいこともそれなりにあるからね」

 目を細め、惜しげもなく八重歯を見せて司は笑う。
 司と俺は同じ中学だった。一度も同じクラスになったことはなかったけれど、それでも俺は司のことを親友だと思ってた。恐らく、司も同じはずだ。
 

 *


 俺と司の中学は高校までエスカレーター式の進学校だった。俺の学力がまだそこそこいいのは昔取った杵柄と言って差し支えない。県内一の大学進学率、とまで言われた俺たちの学校に陰りが見えたのは中学三年の夏だった。
 昼休み、突如校内放送で中等部の修学旅行中止が発表された。理由はとても、とても下らないもの。どうやら去年の進学率が県内の他の高校にとうとう抜かれてしまったらしい。
 勉強に集中するために修学旅行を中止する。そしてこれからは高等部のみ修学旅行を行い、中等部は永遠に廃止。
 合っているようで合っていない。そんな詭弁はきっと教師と父兄の気休めでしかない。どうしてもその発表に納得できなかった俺たちはクラスの有志を募り、担任に直談判することにした。
 中学の時はそれほどみんなに怖がられてもいなかった俺も有志に加わっていた。

「先生! 俺たち納得できません!」

 机を叩きつけて、俺は担任である女教師を怒鳴りつけた。スポーツのジャッジに抗議するように、決定が覆らないのは俺にも何となく分かっていた。それでも、納得できなかったのだ。

 不合理なことが世の中には沢山ある。ゆかりの死はもう既に受け入れた。だが、これは許せる類の物ではない。これまで容認してしまったら俺が俺でなくなってしまうような気がしたのだ。

「そんなこと言われてもねえ……」

 うーん、と担任は一人唸った。どうにかしてこの場を凌ごうと算段を立てているに違いない。元々、生徒の意見なんか眼中になかったのだ。俺にはそれが許せなかった。

「この――ッ!」
「おい小瀬川ッ!」
「やめろってッ!」

 知らず知らずのうちに手が出ていた。こんなことするつもりじゃなかった、そう思った時ににはもう遅い。両手を友人たちに押さえつけられてようやく我に返った。

「…………」
「なんの騒ぎだ」
 騒ぎを聞きつけた体育教師が俺たちの元へやってきた。筋骨隆々で見るからに体育教師というその男は俺たちの様子を見ると大体の事情を察したようだった。
「はあ……またか」

 また、とは一体どういうことなのだろうか。

「……またって、どういうことですか?」
「お前みたいなバカな生徒がもう一人いたってことだよ」
「え?」

 それは驚きだった。こんないいところの進学校で、俺みたいに暴力事件紛いのことを起こすやつなんて心当たりがなかった。一体誰が、そんなことを……。

「小瀬川、放課後視聴覚室に来い。反省文を書かせる」


 ■■



 教師に言われた通り、俺は放課後になると視聴覚室に足を運んでいた。
 鱗雲から覗く光に照らされて室内は鮮やかな赤色に染め上げられていた。しかしながら、教師も、俺の他に手を上げた生徒の姿さえ、見当たらなかった。
 さらに奥深く進んでみると黒板にはこう書かれてあった。

『反省文を紙一枚以上書き、職員室に持ってくること』

 文字通り、黒板の前にある教卓の上にはA4のプリントが何枚か置かれてあった。

「クソ食らえ」

 感情に逆らわずプリントに思いを書き殴って、俺は近くにあった椅子に座り込んだ。このまま怒りに任せて帰りたい気分だったが、どうしても見ておきたかったのだ。俺と同じように勇気を持って行動したやつがどんな顔をしているのかを。
 数十分後になってようやくそいつは姿を現した。
 扉を開けて中の状況を確認するとそいつはキョロキョロと辺りを見渡していた。

「先生は?」
「ん」

 顎で黒板を指し示すと、そいつは小さくため息を零した。

「やっぱりか。こんなことだろうと思ったよ」

 呆れるように首を振ったそいつは、とても勇気のある人間には見えなかった。メガネをかけて目立たない髪型で、大人しそうな優等生にしか見えない。こんなやつが、本当に俺と同じようなことをしたのだろうか。

「なあ、お前」
「何?」
「本当に先生に手を上げたりしたのか?」
「やっちゃった、かな。未遂だけどね。それがどうかした?」
「いや、俺にはとてもそうには……」
「君はバッチリそう見えるけどね」
「…………」
「よく言われるんだよ、そういうこと。でも、そこがギャップってやつじゃない?」

 メガネをくい、と上げてそいつは言った。

「こんな虫も殺せなさそうなメガネが、実は勇気のある好青年だった、なんて」
「好青年ではないと思うがな」

 勇気があるかどうかはともかく、変なやつだと言うことは分かった。

「君だって、自分の信念を曲げたくないから僕と同じようなことをしちゃったんでしょ?」
「まあな」
「それが普通だよ。おかしいのはきっと内申やら教師の目を気にするその他大勢さ」
「…………」

 見た目に合わず、お喋りなやつだった。

「ねえ、君の名前は?」
「は?」
「僕ね、君とならいい友達になれると思うんだ。だから名前」

 目を細め、惜しげもなく八重歯を見せてそいつは笑った。
 奇しくも、俺も同じ事を思っていた。

「小瀬川誠だ。お前の名前は?」
「椎名司だよ。よろしくね、小瀬川君」
「椎名って、お前……」

 好意的に司は手を差し出してくる。だがしかし、俺はそれ以上に驚きを隠せなかった。
 椎名司という名前に見覚えがあったからだ。

「一年からずっと学年主席の、椎名司なのか?」
「ああ、知ってたんだ。そうだよ、一応一位以外は獲ったことない」
「お前、大丈夫なのかよ。その、内申とか」
「今更何言ってるのさ、小瀬川君」
「他のやつらは大丈夫でもお前は別だろ。お前なら受験しなくたってどこの大学でも……」
「いいんだって、そんなのは。僕は元々頭いいしね」
「そうなのか?」

 頭がいいやつは基本的に楽観思考なのかもしれなかった。内申やらで稼がなくても自分の力で道は切り開ける、と。そういうことだろうか。
 俺はますます司に好印象を抱いたが、友達になるのは難しいことだった。

「でもまあ、あれだな」
「ん?」
「お前とはいい友達になれそうだけど、俺は高校から別のところに行くからよ」

 そう、この時の俺はもう他の高校に行くことを心に決めていた。勉強も部活も、生徒会活動もそこそこのところへ。
 それはひとえに紙芝居をしたいという理由だけだったのだが。

「残念だけど、な」
「ああ、なら都合がいいや」
「は?」
「僕も高校から別のことろへ行こうって思ってたから。君と同じところへ行こうかな」
「え? な、何でだよ。お前なら、このまま行けば東大だって」
「ちっちっちっ」

 司は俺の言葉を掻き消すように指を振って、こう言った。

「分かってないなあ、小瀬川君は」
「な、何がだよ」
「そんなこと、僕にはどうだっていいんだよ」

 そして司は近くの窓枠に腰を下ろし、言葉を続ける。

「僕はね、平凡な青春を送ってみたいんだ」
「平凡な、青春?」
「そう、平凡な青春。ずっと塾とか、家庭教師とか、そういうのに縛られ続ける人生はもうまっぴらだよ」
「ここじゃ、無理なのか?」
「最悪だよ。ここは宗教じみてる。寝ても覚めても勉強勉強ってね。今回の一件がそれの何よりの証明さ」
「…………」
「例えば、そう、どこにでもある日々を繰り返して、その中から輝ける思い出を作り出していく。それが普通の青春で、そういう「普通」の中にこそかけがえのないものがある――そうは思わない?」
「まあ、多少は、な」

 そして司は、今一度俺に手を差し伸べてきた。

「君となら、かけがえのない青春を過ごせそうな気がする」
「……頭のいいやつの考えることはよくわかんねえな」

 司の手を取ってギュッと握りしめる。
 それが、俺と司の出会いだった。


 *




「で、何だよ、生徒会に入っていいことって」
「普通の青春を謳歌できてる」
「まあ、確かにそうかもな」

 中学のころは何もかもが勉強優先の世界だった。部活も、学校行事も、何もかも。今となってはそれが正しかったのか、正しくなかったのかは分からない。人間は歳をとると価値観が変わるものだから。
 でもきっと、正しくなかったのだと思いたい。

「みんなで話し合って何かをやり遂げる、なんて楽しいじゃん」
「そっか」

 司が楽しいのならそれでいい、俺はそう思った。

「で、そっちは順調?」

 順調というのは俺の紙芝居のことだろう。司は俺が紙芝居をしていることを知っている数少ない人間だった。

「ああ、まあ……順調、だな」

 思わず言葉を濁してしまった。
 順調、ではないだろう。昨日あんなことがあったわけだし。けれど、司に文月のことを話すのは何となく危ない感じがした。まず確実にからかわれるだろうから。

「え? なになに、何かあったの?」
「何でもねえって」
「ほんとに?」
「ほんとだよ……」

 俺は嘘が下手だった。何かあったことは司に間違いなく感づかれただろう。
 でも、その何かに気づかれなければいいだけの話だ。司は訝しげな目で俺のことを凝視していたが、ふっ、と気が抜けたように窓の外へそれを移した。

「まあ、誠が話たくないってんならいいや」
「だから、何でもないって……」

 司は何でもお見通しなのだ。
 ふと、机の上に置いてあった司の携帯がレインボーの光を放った。

「あ、メールだ」
「なんだ、誰からだよ」
「彼女」
「え?」

 司とは一生縁遠そうな……いや、そうでもないのかもしれないが、司に彼女なんて俺には考えづらかった。

「お前、彼女なんていたのか?」
「あれ? 言ってなかったっけ」
「全然」
「ああ、そうだっけ。先週から付き合ってるんだ」
「そう、なのか……」

 司に彼女ができたという話を聞いて、俺は言いようのない理不尽さを覚えていた。
 別に、司の存在を彼女にとられて、とか、そういった類のことではない。女はきっと男の表面しか見ていない。司の良さが女なんかに分かるとは思えなかったのだ。

「どうしたの、誠。まさか、僕に彼女ができて寂しい、とか?」
「違うっつうの。ただ……」
「ただ?」
「いや、何でもない」
「何だよ。はっきり言ってよ」
「いいって、別に」

 まさか親友である俺が司の彼女を批判するわけにもいかなかったのだ。

「で、なんだって」
「ああ、うん。今日、一緒に帰らないかって」
「無理じゃね?」
「なんで」
「だってお前、生徒会副会長だろ? 色々と忙しいんじゃ」
「そんなの、サボればいいんだよ。風邪とかなんかでね」
「それでいいのかよ……」
「会長が優秀だからね。僕がいなくたって大丈夫。それに、ちょっとサボるくらいのほうが青春を謳歌できてるでしょ?」

 司の青春理論は俺には一生理解できそうになかった。

「あとは……誠にお願いなんだけど、今日の掃除当番変わってくれないかな」
「教室のか?」
「うん、そう」

 うちのクラスは一ヶ月のサイクルの中で掃除当番が毎日入れ替わる。基本的には二人一組で、担任によりランダムに選ばれる。それをサボったりしたら色々と言われるわけで、司が俺にお願いしようとするのも分からない話ではない。

「あとで屋台のラーメン奢るからさ」
「……分かった。やってやるよ」
「いやー、よかったよ。持つべきものは何とやらだね」

 今日の講演は少しだけ遅れることになりそうだった。まあ、速攻で片付けてバイクを走らせれば間に合わないわけではない。
 掃除を手早く終わらせるには真面目にやってくれる相棒の存在が必須だった。

「で、お前とペアのやつは誰なんだ?」
「ああ、うん。文月さん」
「…………え?」
「あれ、聞こえなかった? 文月紅璃さんだよ。ほら、あそこにいる」
「はあ……」

 とりあえず、最悪だった。




[28903]
Name: メガネ◆ea6127af ID:8d3b5b64
Date: 2011/07/28 12:18


「実はね、聡子。一生のお願いがあるの」

 昼休み。
 アニ研の部室で文月紅璃は手を摺り合わせていた。
 部室には今はもう使わない音響器具やら撮影機が山積している。昔はセル画を一枚一枚撮って、それを編集し、なんて面倒な作業を行う必要があった。この器具の山は昔の名残だ。部室は八畳くらいだが、やたらごった返していて狭く感じるのは整理整頓があまりなされていないからだ。
 最近まで殆ど活動していなかったアニ研だが、紅璃がこの学校に入学する以前にまた活動が活発になったらしい。部長曰く、このいらない撮影器具を残しているのは「雰囲気が大事」だかららしい。
 高校生の部活ならば、アニメ制作なんてパソコンがあればほとんど事足りてしまう。まず、手書きの原画をスキャナーでパソコンに取り込み、それを色づけ、編集すれば一本のアニメができる。プロ並みの環境、とまではいかないが、これで十分すぎる。

「言ってみなさいよ」

 机に向かい、原画を描いていた聡子が言った。
 あと一ヶ月ほどで文化祭だ。聡子としても余裕がないのだろう。

「実はね……ちょっと個人的にアニメを一本作りたいなあ……なんてね」
「んで?」
「ちょっと手伝ってほしいかなあ……なんてね」
「何で?」
「え?」

 ペンを動かす手を止め、聡子は椅子を四十五度回転させ、こちらを向いてくる。

「何で急に、そんなこと思ったの?」

 手に顎を乗せて聡子は言った。

「なんか変じゃない?」

 聡子は道を歩いているだけで十中八九、男に振り向かれそうな黒髪ロングストレートの美人だった。少し三白眼気味の凄みのある目をしているが、それもまた魅力の一つ。……のはずだったのだが、今はその顔も怪訝の念に支配されてしまっている。

「別に変じゃないって、はは……」

 適当に誤魔化すが、感のいい聡子には恐らく通じない。そんなことは分かっていた。

「なんかあったんでしょ?」
「だから別に……」
「まああんたが話したくないならいいんだけどさ。私はあんたが本当のこと話すまで協力しないから」
「ええっ!? ちょ……」

 紅璃の制止も聞かず、聡子は原画の作業に戻ってしまう。これはもう、話すしかないだろう。紅璃はそう思った。

「……分かった。話すってば」
「よろしい」

 項垂れながら紅璃はこれまでの経緯を簡単に話した。誠に勝負を挑んで、アニメを作らなければならないことを。

「へえ、ちょっと意外」

 紅璃の話を聞くと、聡子は手に顎を乗せたまま少し驚いたようだった。

「私、小瀬川君ってずっと不良だと思ってた」
「不良よ不良。無許可で紙芝居なんかしてさ」
「でも、けっこう噂になってたよ? 街で紙芝居をしてる高校生。まさか小瀬川君だったとはね」
「そうなの?」
「うん。評判いいらしいよ。お母さんが言ってた」
「へえ……」

 紅璃は誠のいい評価を聞き、複雑な気持ちになった。自分のやっていることの正しさへの信憑性が人を動かす原動力となる。それが揺らいだ時、人は不安になるのだ。

「別に私は、あんたが勝負挑もうがかまいはしないんだけどさ」
「かまってよっ」
「だって文化祭近いんだよ? 自分の担当の分だって終わってないのに、その上あんたの手伝いなんて正直きついって」
「そこをなんとか」

 手を合わせ懇願するが、聡子はうーん、と唸るばかりだった。

「ていうかさ、なんだっけ、子供にとってどちらがエンターテインメントとして優れているか、だっけ」
「そうそう」
「ってことは、あんたはこれから子供向けのアニメを作ろうってわけか」
「そうなるかな」
「それってさ、案外難しくない?」
「難しいって?」
「じゃあ逆に聞くけど、子供向けのアニメって何?」
「え? うーん、それは……」

 腕を組んで少し考えてみる。
 子供向けのアニメ。そう聞かれて初めに頭の中に思い浮かぶのは、

「……アンパンマン、とか?」
「まあ、それが典型だろうね。子供向けのアニメっていうのは言ってしまえば分かりやすいアニメ。誰の目にも見える簡単な勧善懲悪。でもさ、あんたそれでいいの?」
「……ダメ」
「だろうと思った。となると、分かりやすくて、なおかつちょっと深いものがいいってことでしょ?」
「そうです。そうなんです」

 アンパンマンみたいな、簡単な子供向けアニメにしてしまえば簡単だ。だけれども、紅璃はそれでは満足できなかった。誠のことを完膚無きまでに倒すためにはきっとそれだけでは足りないだろうから。

「うーん、あれだよ、雰囲気はジブリ、みたいな」
「ジブリねえ……でも私、ジブリって基本的に子供向けじゃないと思うんだよなあ」
「え? そう?」
「じゃあ、適当に言ってみてよ」
「もののけは?」
「グロすぎるでしょ。あんな触手ダメだって」
「ナウシカ」
「終末感がきついでしょ。正直私、王蟲襲来シーンとかトラウマだよ」
「火垂るの墓」
「論外」
「耳すまは?」
「年齢対象外でしょうが。あんなの子供には理解できないって」
「じゃあ、何ならいいのよ」
「強いて言うなら魔女宅と紅の豚かなあ……あとは猫の恩返しくらい?」
「それでいいじゃん」
「無理だって」
「何でよ」
「どんな大作作る気でいんのよ、あんたは」
「うっ……」

 聡子の言葉に思わず後ずさる。

「もしもあんたが、ジブリ並みのすごいシナリオを考えたとして、それを絵にすんのにどれだけ時間かかると思ってんのよ」
「でも二人で力を合わせればさあ」
「無理だって。ただでさえギリギリなのに、あんたの手伝いまでやったらパンクする」
「お願いって、三百円あげるから」
「どんだけ安い女なのよ、私は。いいじゃんもう、なんか安っぽいロボの敵が出てきて、それをヒーローがドカーンって倒す感じでさ。それならあんた一人でもなんとかなるでしょ?」
「ダメなの、どうしても勝ちたいの」

 紅璃の言葉を聞くと聡子は「何だかなあ」と言ってため息をついた。

「大丈夫だって、子供なんて単純なんだからさ」
「保証はないでしょ」
「はあ……てか、なんでそこまで勝ちにこだわるのよ」
「え?」

 聡子の問いに思わずそんな声が漏れた。

「そりゃあ、だって勝負だったら勝ちたいじゃん、やっぱ。こっちからふっかけたんだし」
「……あれか、もしかして紅璃、小瀬川君のこと……」
「何でそうなるのよ……」

 自分の周りの女はどうしてこういうのばかりなのだ。そう思って項垂れる。
 自分のことを見透かしたかのような態度、発言。勘がいいのか、それとも自分が分かりやすい人間だからなのか、恐らく後者だろうと紅璃は思った。
 もちろん母や、聡子が言うようなことは一切無いが。

「よく言うじゃん。昨日の敵は今日の恋人って」
「言わないよ」
「でもよくあるじゃん。敵同士だったのが、なんかよく分からないけど好きになっちゃったって。好きと嫌いは表裏一体だしね」

 聡子の言葉に机をダンッ、と叩きつける。それほど広くない部室の中に音が鳴り響いた。

「だ、か、ら、違うって」
「ははは、ごめんごめん。ちょっとからかいすぎた。……でも、実際それが現実的だよ? 悪いけど、私は本気でそんなに手伝えそうにないし」
「そっかあ……」

 どうしようもなく、また項垂れる。
 確かに聡子の言葉は事実だった。今はもう文化祭の準備でどこの文化系の部活も大忙しだ。このアニ研だって例外じゃない。紅璃は原画を描くのが早く余裕があったが、自分でもそんな大作が作れるとは思っていなかった。誰かの協力を得なければ安っぽい勧善懲悪モノを作らざるをえない。
 それだけは、何となく嫌だった。

「何の話だ?」

 ふと、背後から聞き慣れた声がして振り返る。

「あ、部長」

 流れるような黒髪と彫りの深い顔立ち。中性的ながら整った顔立ちは男女ともに人気が高い、と紅璃は思っていた。本当のところはよく分からない。
 本名は池田五郎(いけだごろう)。このアニ研を立ち上げたのは部長と、部長の先輩だったらしい。二人きりだったというのに、高文祭で賞をもらえるまで実績を積み上げたのは素直に凄いと思う。
 何でも、部長と一緒だった先輩は女子だったらしくて……その話はまた今度。

「いや、実はこの子が……」
「何よ、その問題児を抱えた親みたいな発言は」
「実際問題児でしょうが」
「まあまあ落ち着け。どういう経緯なのか話してみろ。文月、水上」

 仕方なく、紅璃はこれまでの経緯をなだめる部長に話した。
 部長は話を聞き終わると、聡子と同じように少し驚いていた。

「へえ、あの有名な小瀬川がそんなことをなあ」

 どうやら三年生の間でも誠の評判は不良、ということで間違いなさそうだった。
 確かにあの容姿からすれば、不良に見えなくもない。紅璃はそう思った。

「それで、文月は文化祭のとは別にアニメを作りたい、とそういうことか?」
「そうなんです」
「ふむ……」

 部長はこめかみに人差し指をあて、ものおもいにふけり始めた。何かを考えるとき部長はいつもこうする。頭を刺激したほうがいい考えが浮かぶらしい。

「……うん。よし、僕が手伝おう」
「え? いいんですか?」

 まるで子供のような笑みを浮かべて部長は言った。楽しいとき、例えば新しいアニメのシナリオを考えているとき部長はこういう顔をする。
 希望が見えてきた。

「いや部長。いいんですよ別に。紅璃のことを甘やかしてやることは……」
「ちょっと、余計なこと言わないでよっ」
「はは、いいんだ。僕の担当の分はもう色を塗るだけで終わりだし……それに、ちょっと作ってみたい話があるからな」
「そうなんですか?」
「ああ。それが、お前に協力する条件だな。僕の作りたい話でアニメを作る、と」
「うーん……」

 少しだけ悩む。
 部長が作りたい話とは一体どんなものなのか皆目見当もつかない。
 それが分からないことには、首を縦にふることはできなかった。

「それ、どんな話なんですか?」
「そうだな。たしかにそれを話さないことには了承できないよな」

 言って、部長は部室にある本棚に足を伸ばした。アニメ制作に関する資料や、昔使っていたセル画などが納められている中から一冊の青い本を取り出す。

「まあ、子供向けということでは間違いないと思う」

 部長が私に見せたのは、青い表紙の絵本だった。

「絵本……ですか?」
「ああ、そうだ。イーヴォ・ロザーティ、そんなに有名じゃない人なんだけどな。日本で売られているこの人の絵本はこれだけだろう」

 絵本のタイトルは「水おとこのいるところ」。青い表紙は青空を描いているのではなく、水を描いているようだった。

「僕はこの本が好きでな。これをアニメにしてみたいってずっと思ったんだ」

 また部長は、子供のように笑う。
 きっとこんな部長が推す作品なら大丈夫だろう。紅璃は、そう思った。

「分かりました。それでいきましょう」
「そうか。そりゃあ楽しみだ……ん?」

 不意に部長の視線が扉のほうに移った。

「どうしたんですか?」

 その視線を追ってみると、一人の男子生徒が部室の中をのぞき込んでいた。髪はボサボサの天然パーマで何となく気持ち悪い。

「……ッ!」

 紅璃たちの視線に気がつくと男子生徒は一目散にその場を後にする。一体誰なのか、紅璃には大体の見当はついていた。

「あー、またあの人ですか」
「確か映研の部長だっけか。部長知ってます?」
「うーん、体育は一緒だな。クラスは別だし名前も分からん。映研ってことは知ってるが」
「何だったんでしょうね」
「……よく分からん」



 ■■



 迎えた放課後。
 俺は今日の相棒である文月とどう接しようかと思案しながら自分の席に座り込んでいた。

 たった一人の世界。鱗雲から覗く光に照らされて室内は鮮やかな赤色に染め上げられていた。こんな景色をいつか見たときがあったような気がした。それはきっと司と出会ったときだ。
 あのときは教室ではなく美術室だったが、景色の色合いは酷似していた。ただ一点、違うところがあるとすれば、窓から心地のよい音が聞こえてくるというところだろう。
 野球部のかけ声、吹奏楽部の演奏する音、サッカー部がボールを蹴る音……どれも司に言わせれば高校生にとって欠かせない青春のスパイスなのだろう。偶然にも俺は司と同じことを考えていた。あの頃とは何もかもが違うのだと実感する。

 そして、――ガラリ。

 扉を開けて、文月が教室の中に入ってきた。

「椎名君、遅れてごめ……ってなんであんたがいんのよっ!」

 文月は俺の姿を見つけるとかなり驚いたようだった。いつも閉じている右目が震えて開きそうだった。

「今日は司と変わったんだ。まあよろしくな」
「椎名君と? ……そういえばあんた、椎名君と仲良かったような……」
「中学からの仲だからな。当然だろ」
「ふうん……」

 椅子から立ち上がり、掃除用具が入っているロッカーへと向う。ロッカーの中から箒を取りだし、文月へと向き直る。

「俺は床掃くから、お前は黒板でも綺麗にしてくれ」
「わ、分かった」

 意外と素直な文月に正直驚いた。俺の指示なんか聞く耳持たないかと思ったがそうでもないらしい。

「意外と素直だな」
「…………別に」
「? まあ、お前もこれから部活なんだろ? 俺も早く帰りたいから手早くやれよ」

 床を掃くために教室の隅へ移動しようとした俺を文月の声が制する。

「ちょっと」
「何だよ」
「私にはね、文月紅璃って名前があんの。お前なんて呼ぶな」
「……分かった分かった、文月。どうでもいいから早くやれ」
「…………」

 それから永遠にも思える数十秒が過ぎた。
 窓から差し込む光は、真四角の床に濃い二人分の影を落としている。
 文月との間に会話はなかった。窓が開いていただけ幸いだっただろう。もし密室だったりしたら絶望的な沈黙と壊滅的な気まずさが教室内に満ちていたはずだ。

「……ねえ、あんたさあ」

 背中を文月のか弱い声が叩く。まさかこの沈黙を文月から破ってくるとは思わなかった。

「俺はあんたじゃねえぞ」
「むう……小瀬川さあ」
「なんだよ」

 振り返らず、俺は答えた。

「さっき、椎名君と同じ中学って言ってたけど、小瀬川と椎名君の中学って中高一貫だよね。なんで、わざわざこんな高校に来たの?」

 少し考えたあと、文月は言った。

「まあ、あんたの理由は何となく分かるけどさ」
「司は、ちょっと変なやつだからな」
「変なやつ?」
「そう、変なやつなんだよ、あいつは」

 司のイメージを壊さず、事実を述べるためにはこの表現しかなかった。成績優秀な生徒会副会長がまさか……なんて事態にはしたくない。

「私にはそうは見えないけど」
「親友だからな」
「ふうん……」

 そうしてまた沈黙が訪れる。
 数分が経ち、あらかた床を掃き終わっていた。
 背を向け合って作業をしていた俺たちは互いの作業状況を確認することができなかった。振り返って文月の様子を見てみると、文月は黒板の上の汚れを落とすことができず苦戦しているようだった。
 背が小さいとこういうところで苦労するんだな、としみじみ思った。
 ため息を一つついて歩き出す。つま先立ちをしてなんとか頑張ろうとしている文月の背後に立った。

「なにやってんだ」
「えっ?」

 置いてあったもう一個の黒板消しを手にとって、上に書かれている文字を拭き取った。

「届かないなら届かないって言え」
「ちょ、私の後ろに勝手に立たないでよ」

 陶磁器のようだった白い頬はほんのり紅く染まっている。きっと、自分の背が小さいことをバカにされたような気分になって嫌だったのだろう。

「仕方ないだろ、女だったら別に届かなくったって不思議じゃない」
「うるさいっ、バカッ!」

 シュ、という風の靡く音がして文月の拳が顔面に飛んでくる。軽くよけることができたが、やはりこいつはうるさい女らしい。

「暴れんな。それよりも大体終わったのか?」
「くう……まだ終わってないわ」
「どこがだよ。黒板は綺麗になったじゃねえか」
「あそこよ、あそこ」

 そして文月は黒板の上にある時計を指さした。よく見ると上のほうに埃が溜まっているようにも見えるが、

「別にいいだろうが、あんなところ」
「よくないって。私、綺麗好きなの。ああいうの許せないの」
「……なら勝手にしろ」

 言って教室を立ち去ろうとする。こいつのわがままに付き合ってやる余裕はなかった。

「待ちなさいよっ」
「なんだよ」
「届かないから、台になって」
「はあ?」

 文月はまた訳の分からないことを言い出した。

「なんで俺がそんなことまでやんなくちゃならねえんだよ」
「椎名君と掃除当番変わったんでしょ? ならやりなさいよ」
「……はあ」

 ため息をついて、考えてみる。
 まあ、ここが終われば帰れるんだ。多分文月は俺が首を縦に振るまで納得しないだろうし、時間の無駄だ。だったら、さっさと終わらせてしまったほうが建設的な選択というものだろう。

「分かった。でも、俺が乗ったほうが届きやすいだろ」
「あんたバカ? か弱い女の子を台にするなんてどういう神経してんのよ」
「……はいはい」
「そこに手ついて、背中まっすぐに伸ばして。乗るから」

 言われるがままに壁に手をつき、上体を屈めて次の指示を待つ。すると文月は上履きを脱いで、

「くっ……重……」

 背中が軋むようだった。

「う、うるさいわね!」

 同級生の女が背中に乗っかっているのだ。さすがにきつい。

「上見たら、殺すから」
「そんな余裕ねえよ……」

 背中に感じるのは二つの足の裏。女というだけあって文月のそれは暖かくて、小さくて、

「おま、そこ、やばい……」
「動かないでよッ!」

 そして重い。全体重を乗せたそれは俺の急所を的確に突いてくる。早く下りて欲しいにも関わらず、

「……ねえ、小瀬川。あんたってさ……」

 何故今、何かを語り出そうというのか。さっきの沈黙のときに何故喋ってくれなかったのか。

「ぐ……」

 答えは声にならず、脂汗が滲んだ。文月の微妙な体重移動が確実にダメージを与えている。

「結構評判いいんだってね、あんたの紙芝居。友達とかから聞いた」

 うッ――!

 文月のかかとが背中の重要な筋肉を踏みつぶす。俺の悲鳴は喉の奥で潰れた。

「よく考えたんだけどさ。やっぱりエンターテインメントにおいて優劣をつけるのって、難しいんじゃないかな。審査員は子供だし、主観的なことでしか判断できないでしょ?」

 何を意味の分からないことをいっているのかこのバカは、いいから早く済ませろ。そもそも勝負を挑んできたのはお前だろうが。
 そう言いたいのだが、痛みのせいでまともに声が出せない。

「あ」

 文月の短い声。

「……ぐふ……ぐっ……ゲホゲホ!」

 頭上から、雪のように埃の大群が襲ってきた。それは動けない俺の目を、鼻を刺激して、そして仕舞いには、

「きゃあ!」
「うおっ!」

 咳をしてしまったせいで背中に乗っていた文月がバランスを崩す。体が勝手に反応して、俺は落ちてくる文月の下敷きになる。
 激しい衝突音と共に文月の体は俺の下半身を覆い隠すように落っこちてきた。
 膝の辺りに痛みが走るが、別に怪我はしていないだろう。それよりも俺は文月のことが心配だった。

「おい、大丈夫か?」

 落ちてきた衝撃で文月のスカートははだけ、白い下着が俺の視界に映り込んでいる。もっと派手なものを履いているかと思ったが、そんなことはないらしい。
 下着などという下らないことはどうでもよくて、文月は本当に大丈夫なのだろうか。

「……んん……」

 静かに、文月の目が開かれる。

「……うん、大丈夫」

 その光景に俺は酷い既視感を抱いた。忘れるはずもない景色が、そこに広がっていた。

「お前……それ……」
「……何?」

 文月の目は人とは少しだけ違って、綺麗だった。右目が青いサファイアのように光っていた。

 ――ゆかりと、同じ。

「お前、その目……」
「え? ……あっ」

 まるで裸でも見られたかのように文月は右目を手で押さえつけた。
 やはり嫌なのだ。たとえ美しかったとしても他人と違ってしまう物は、持つ人間にとってコンプレックスにしかなり得ない。そんなことは俺が一番よく知っていた。

「……何? 何が言いたいの? 変でしょ? こんな青い目なんて……あんたもどうせ……」
「綺麗だな」
「!?」

 これは俺の心からの本心。別に文月の気持ちを考えてだとか、そんなんじゃない。ゆかりの目も、こいつのそれも、俺はただ純粋に綺麗だと思っていた。だから、

「お前のその目、綺麗だ。宝石みたいで、吸い込まれそうだ」
「……本当に? 変だって、思わない?」
「俺はな、人の気持ちを考えてとか、そういうの得意じゃねえんだ。だから、嘘は苦手だ」
「……そっか」

 文月は俺の言葉を聞くと、安心したような、ほっとしたような笑顔を浮かべていた。きっと文月も、ゆかりと同じように苦労してきたのだろう。その美しい物を持っているが故に。
 俺も少しくらいならその気持ちを共有できるかもしれない。そう思った。

「それはいいとしてな、いいのか? これ」
「え?」
「いや、ほら、これ」

 恐る恐る、文月のスカートのほうを指さす。一瞬で状況を理解したのか、文月の拳が俺のこめかみに向かって飛んでくる。

「ぐあっ」
「バカッ!」

 こいつの目を褒めたというのに何故殴られなければならないのか。
 世の中とはやはり理不尽なものである。



[28903]
Name: メガネ◆ea6127af ID:8d3b5b64
Date: 2011/07/28 12:23


 文月青子が地域の基幹病院を勤務先に希望したのは理由があった。とにかく手術数が多い。特に胸部外科が優れていて、それは青子の専門だった。どんなことでも数をこなせば上手くなる。経験を積み重ねられるし、様々なアクシデントへの対処法も覚えられる。そして幸いなことにものすごく腕の立つ先輩がいた。研修生活をアメリカで送った先輩。研究も、術技もどちらも一級品である。本当なら大学病院でエリートの階段を上っていく人だった。けれど、一度外国へ出た人間はなかなか元の場所には戻れない。どれだけ力をつけ、どれだけ腕を上げようと、大学の医局ではそういうことは大きな意味を持たないからだ。むしろ一度離れてしまうことにより、戻るべきポジションを失ってしまう。従って、多くの場合、その後の留学経験者は地方の有力病院へと移っていく。どの地域にも一つや二つはやる気のある病院が存在し、先進的な医療を提供していたりするのだ。

 青子が転出した病院はまさしくそういう場所だった。皮肉なことにその病院で青子はどんどん腕を上げていった。沢山の手術を任され、先輩から技術を吸収していった。大学での未来は閉ざされてしまったけれど、違う未来がそこに広がっていた。
 それが理由の一つ目。もう一つの理由は――そういう地方の病院が末期になった患者を追い出したりしないという点だろう。

 不意にそんな昔の感情を思い出しながら、屋上で煙草をふかす。この病院には喫煙所なんて有りはしない。病院だから当然と言えば当然だろうが、いちいち屋上まで来るのは面倒なことこの上なかった。
 屋上は全面に人工の芝が貼られ、沢山のベンチが置かれている。いつもなら老人と、その家族と思われる何組かが、静かに言葉を交わしているものだが今はいない。
 青く澄んだ空に鱗雲が浮かんでいた。雲は南に渡る鳥の群のように、地平線の彼方を目指していた。ひんやりとした風が青子の髪を揺らす。

「あの、文月先生」

 一人いい気分になっていた青子に三日前に入ってきたばかりの新人看護婦が暗い顔で、声をかけてきた。

「三一二号室の患者なんですけど」

 またか、と青子は思った。
 その病室には山口梨沙という女の子が入っていた。歳は十二で、まだ小学生だ。自分の娘である紅璃よりも幼い。この病院に赴任し、受け取った患者の中で一番おもしろいのが梨沙であった。
 要は子供なのだが、彼女には妙な強さがあった。やたらと可愛い顔をしているせいなのかもしれないが、彼女が我が儘を言い出すと誰もそれを叱れなくなってしまう。
 青子の夫がその典型だった。

「梨沙がどうかしたの?」
「点滴、打たせてくれないんです」

 新人看護婦は泣きそうだった。可愛さから思わず頭を撫でてしまう。

「腕を出してくれなくて……」
「うんうん、よしよし。そうだよねえ、初めてじゃあちょっとあの子はきつかったよね」

 言って煙草に口をつける。

「これ吸い終わったら私が行くからさ」
「先生……」
「何?」
「病院で煙草はちょっと……」
「ふうん」

 ニヤニヤしながら、青子は彼女を見つめる。涙を目に浮かべているが、多分これは嘘泣きだ。病院の中でもこの子はマドンナ的存在だ。煙草とかそういうのには無縁に見える。だが、青子は知っていた。

「あなたは吸わないの? 煙草」
「え?」
「赤マル、とか?」
「いや、私は……」
「見たわよ。あなたが裏口で煙草吸ってるとこ」
「……し、失礼します」

 バツが悪そうに彼女はその場を後にする。知られたくない事実を知られて気まずかったのだろう。

「ふう……」

 煙を口から吐き出すとそれは一瞬で消えてなくなる。

「やっぱり、いい女には煙草が必須よね」

 それもマイナーなもの、誰も吸っていないようなものが好ましい。

「ブラックデビルとか最高なのになあ」

 煙草を携帯灰皿に仕舞い込んで青子は三一二号室に向かう。まったく、彼女は自分の娘に似て我が儘だった。どうしたら説得できるのか未だに分からない。とにかくやたらと頑固で、一度ヘソを曲げたらこちらの言うことなんて聞きやしない。

 ため息をつきながら廊下歩いていると、後ろから声がした。

「あ、文月先生」

 夫だった。彼と青子は同じ病院に勤務しているため、社内結婚という形になる。彼と乾坤に至るまで色々なことがあったが、青子は何一つとして後悔はしていなかった。

「あら、あなた。いいのよ、別に呼び捨てで」
「いや、病院だとほら、何かとまずいだろ?」

 頭をボリボリとかきながら彼は言った。

「そう。で、どうしたの?」
「ああ、そうそう。さっき新人の子から文月先生が梨沙ちゃんの説得に行くって聞いたから」

 心配になって来てみたんだ、と彼は言った。

「そっか。まあ、何とかなるわよ」
「面目ない。こういうのは看護師の仕事だっていうのに……」
「いいのよ。私の担当の子なんだし、それに一児の母でしょ? 私」
「まあ、そうなんだろうけど……僕も一緒に行くよ。先生にばかり苦労をかけるわけにもいかないし」
「そう? じゃあ行きましょうか」

 そう言って、二人で廊下を歩き出す。
 問題の三一二号室につくと、ベッドの上で山口梨沙が怖い顔をして本を読んでいた。たかが十二のくせに結構な迫力である。
 ノックを二回して青子は病室に入った。

「点滴、嫌?」

 ちら、と彼女がこちらを見てくる。
 でもすぐに視線を戻した。
 いつもこうやって彼女は無視をする。看護婦然り、青子然り。

「痛いの、怖いの?」

 そうでないことは青子だって知っていた。
 彼女は何も答えない。

「じゃあほら、この文月さんが針入れるから」
「ええっ? 僕がっ?」

 急に話を振られて夫は酷く驚いていた。

「彼、針入れるのすごい上手いわよ? 殆ど痛みなんてないんだから」
「いやちょっと、青子……」
「先生じゃなかったの?」
「それは……」
「いい、別に」

 青子たちの言葉を掻き消すように、彼女は言った。

「いいって、どういうこと?」
「本読んでるの。うるさい」

 医者に対してうるさい、などとほざく小学生は彼女を除いて他にはいないだろう。青子は思った。
 それでも、青子のこめかみが引きつったりすることはない。

「り、梨沙ちゃん。先生に対してそれは」
「だから、うるさい」

 夫の顔がにやけてきた。これは多分怒りの針が行き過ぎて笑ってしまうという現象だろう。そんな彼を青子は制する。

「まあまあ、落ち着いて」
「で、でも……」
「いいのよ」

 言って、ベッドの脇に置いてある椅子に座り込む。こんな患者を青子は以前にも診たことがあった。研修医の時代に。

「ねえ、梨沙ちゃん。何で点滴、したくないの?」

 彼女は何も答えない。

「――自分はもう助からないからいつ死んでも同じだって?」
「ちょ、青子! それは」
「別に」
「違うって?」
「…………」

 相変わらず彼女は黙り込んだままだった。

「……ふう。じゃあ、こうしましょう。明日か明後日、あなたを楽しませるものを私が用意する」
「何それ」

 あてはあった。娘の愚痴を聞いている間に青子はそれを思いついていた。娘が恐らく恋をしている相手にはきっとそれができると。

「青子、それって……」
「だから、今日は点滴を受けてちょうだい。もし面白くなかったら、これからはもう何も言わないからさ」

 彼女は青子の顔を見てくる。
 異様な迫力があった。

「点滴」
「え?」

 夫が驚くような声を上げる。

「点滴、するんでしょ」
「あ、うん、分かった。じゃあ準備するからちょっと待っててね」

 彼は慌てまくりながら点滴のパックを探し始める。それを見て、青子は椅子から立ち上がり屋上へと戻って行った。途中で彼が転んだような音がしたが多分大丈夫だろう。
 大丈夫、何とかなるのだ。女の感がそう言っていた。



 ■■



「おい、青子」

 屋上で再び煙草をふかしていた青子に声をかけてきたのは夫である潤だった。その表情は怒りに満ちていて少し怖い。

「あら? 病院では先生じゃなかったの?」

 彼の言いたいことは青子にだって分かっていた。それでも青子はこういった態度を取らざるを得ない。それが、青子の人間性だった。

「それはどうでもいいだろ。なんであんなこと」
「いいじゃない。結果的に点滴はできたんだし」
「よくないよ! いくら我が儘な子だからってあんな酷いこと――」
「酷くなんてないよ」

 彼の声を遮って青子は言った。

「酷くなんてない」
「何を……」

 煙を吐き出して、また言葉を紡ぐ。

「あの子は自らの死を受け入れている。それは別に悪いとは言わない。むしろいいことよ。人はいつか必ず死ぬ。それが早いか遅いかの違い。でも、私が許せないのは死を受け入れて、なおかつ残った自分の生を諦めていることよ」
「青子……」
「死を受け入れることと生を捨てることは同義じゃない。あの子は、それが分かっていない。それが、許せないってだけ」

 彼は黙り込んだままだった。

「まあきっと、そんなあの子なら私の言葉にもダメージなんて受けていないだろうから大丈夫よ」
「でも、あれだろ? 青子が言ってた梨沙ちゃんを楽しませることって……やっぱり……」
「そうよ? 大丈夫。紅璃があれだけ言うんだからきっと、大丈夫」
「…………」
「心配しないで、あなた。恐れはね、形のない怪物なの。人の心を惑わして悪い結果を呼び込むんだから」

 そう言って、青子は笑った。



 ■■





 教室の掃除が終わったあと、俺は司から労働の報酬を受け取っていた。結局、あの後は時間が無くて紙芝居をする時間がなかった。全部文月のせいなのだ。あれも、これも。

「……ってわけで、お前の仕事をボランティアで請け負ったお陰で散々だった」
「そっか。だから大盛りを奢らせたんだね。……言っておくけど、報酬貰ってる時点でボランティアじゃないから」
「ふん、チャーシューメンを頼まないだけいいと思え」
「まあいいけどね」

 麺をずるずるとすする。
 川のほとりにある屋台には俺たちの他に客はいなかった。案外儲かっていないのかもしれない。ここは俺と司が見つけた行きつけの店だ。

「でもそんなことがあったなんてねえ。やっぱり誠の態度おかしかったし」
「まあな……」

 ここまでの経緯はすでに司に話してあった。文月と勝負することになったこと。その他、色々。文月がオッドアイであるということは伏せて置いた。あいつにとってはあまり知られたくない事実だろうし、これが賢明だ。

「思ったんだけどさ」

 箸を器の上に置いて司が言った。

「なんだよ」
「文月さんって、僕とはまるで正反対だよね」
「はあ?」
「裏表がなくて、さっぱりとしてて、まあ頭がいいって点では似てるかな」
「だから?」
「誠もそういうタイプの人間のほうが付き合いやすいのかなって思った」
「なんだよそれ」

 聞いてみたが結局下らない話だった。
 再び麺をすする。

「案外仲よさそうじゃん、文月さんと」
「そんなわけあるか。敵だぞ敵。それにあいつのせいで今日の紙芝居も潰れたし」
「そうなの?」
「色々あってな……」

 深くは話すまい。

「でも、嫌いじゃないでしょ?」
「はあ? そりゃあお前……」

 嫌いかどうかと聞かれて少し迷った。
 先ほどのことがあるまでは嫌い、だったのかもしれない。だが、今は違う。ゆかりと同じ悩みを抱えている文月のことを心底嫌いになれるわけがなかった。
 あいつもきっと、今まで悩んできたはずなのだ。

「……まあ、嫌いじゃないけどさ」

 誤魔化すように言って、多めに麺をすすった。

「やっぱりね。誠ってさ、人の好き嫌いがはっきりしてるじゃん?」
「そうか?」
「そうだよ。だから友達できないんだよ? その人相の前にね」
「……そこまで酷くないだろ、人相は」

 ちょっと心外である。

「そんな誠がさ、一人に対してここまで言うなんてないことじゃん?」
「うーん……」

 自分のことほど自分が思っている以上に分からないもの。だから、親友である司の言葉は俺には絶対のものであるように感じられた。
 本当にそうなのだろうか。

「いいんじゃない? 文月さんと付き合っちゃえば」
「ぶっ!」

 すすっていた麺を思い切りはき出した。
 気管に汁が入り込んで思わず咳き込む。

「ちょっと兄ちゃん、あんまり汚さないでくれよ」
「は、はい……すいません……」

 鼻水を垂らしながらラーメン屋の店主に謝った。元はと言えばこいつが変なことを言い出すのが悪いのだ。

「文月さんはねー、僕も付き合ってもいいんだけど、あれだよね。見てくれは悪くないんだけど僕ってああいう強気なタイプだめでさ」

 腕を組みながら司は言った。

「恋愛では常に優位に立ちたいからさ、僕。尻に敷かれるなんて以ての外だよ」

 司の恋愛哲学など激しくどうでもよかった。

「その点誠は間違いなく尻に敷かれるタイプだね。僕が保証するよ」
「……どうでもいいが、それはないだろ」
「なんで?」

 首を傾げて司は尋ねてくる。なんで、と聞かれても俺は明確な答えなんて持っていなかった。

「そりゃあお前、何となくだよ、何となく。男の感だ」
「ふうん……ま、いいか。ちょっと僕も調子に乗りすぎたよ」

 言って司は残っていたスープを飲み干した。俺のほうはと言うと、もらった報酬の二割を先ほどはき出してしまっていた。

「でも勝負かあ。勝てるの? 誠」
「勝てる。これは間違いない」

 恋愛沙汰の話は全く自信がない。しかしながらこれだけは確信を持って言える。俺が負けるはずがない。

「誠に自信があるんならいいんだけどさ。でもアニ研って結構すごいんだよ」

 それは俺だって少しは知っていた。全国大会でいい賞をもらっているとか、その程度だが。

「文化部の中じゃダントツで予算掻っ払ってるし、何に使っているのかは分からないけど。もうそこらの運動部に迫る勢いだよ」

 運動部は文化部に比べて予算が多くもらえる、というのがうちの学校の常識であった。

「部員は三人だってのにね」
「そうなのか?」

 それは驚きだった。たった三人の部活、しかも文化部で運動部並みの予算とは。確か同好会から部活に昇格するには実績と人数がいるという話だったが、多分三人というのがギリギリのラインなのだろう。
 素直にすごいと思った。

「それでさー、結構反感も多いんだよね、予算について。特に映研から」
「ふうん……」

 あまり記憶が定かではないが、入学式後のオリエンテーションで映研も部活紹介をやっていた。無駄に人数が多くいたことだけは覚えている。自分たちより人数の少ない文化部に予算が多くいくとは納得でないものもあるのだろう。

「ま、今は関係ないか。それに、そういう面倒くさい対応は全部他の人に任せちゃってるしね」
「いいのかよ、それで……仮にも副会長だろお前」
「いいんだよ、別にね。僕が言いたかったのは油断しないほうがいいよってこと」

 言って司はラーメン代の八百円を店主に手渡した。

「毎度あり」
「さあ、行こう、誠」
「ああ」

 箸を器の上に置いてのれんを潜った。
 辺りはすっかり闇に満ちていた。夏が終わり、これから秋が来ることを伝えるように風は冷たく吹いていた。星がゆっくり西から東へ傾いていく。もうすぐ高校生になって二度目の冬が来る。そう思うと寂しくなった。

「なあ、司」

 ポケットに手を突っ込みながら司に声をかけた。
 夜の街は酷く暗い。田舎ということに加えてここにはあまり建物の類がないからだろう。バイクは家に置いてきた。何だか今日は歩きたい気分だったのだ。

「なにさ」
「お前、今楽しいか?」

 我ながら変なことを聞いてしまった。

「どうしたの? 急に」
「いや、ほら……お前って俺に誘われたみたいな感じでうちの高校来ただろ?」
「うん」
「だから、後悔とか、してないかなって」
「いいんだって別に。僕は望んで来たんだし」
「人は変わる。考え方だって数年でガラッと変わる。その時は間違いないと思った選択肢だって後になって思い返せば……ってこともあるだろ?」
「ははっ」

 司は俺が真面目な話をしているというのに何故か笑い出した。

「んだよ、真面目な話だぞ?」
「いや、そんなこと言われると思ってなかったからさ。……やっぱり誠は友達思いだね」
「なんだよ」
「そういうとこ、嫌いじゃないよ」
「別にそういうつもりで言ったんじゃないんだけどな」
「そっか」

 司は石ころを蹴り出した。それは思いの外遠くまで飛んで行ってしまった。

「やっぱ、さっき塩ラーメンにしとけばよかったかも」



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