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[27163] 豊穣の未来に捧ぐ
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:20f6a1af
Date: 2011/06/09 04:31
もし、自分の言うことを何でも聞くロボットが居たら、君はどうする?
明日の仕事を代わってもらう?買い物や家事を代わりにやってもらう?
ノーノー、その命令はちょっと繊細すぎる。今の君じゃあそんな高度なロボットは作れないよ。
え、じゃあどうすれば作れるようになるかって?
ふーむ、君の隣人が君よりも高度な技術を持っているから、彼に教えてもらったら?
え?教えてくれない?
そうかい、それじゃ奪っちゃいなよ。君のほうがロボットの数が多いから、戦えば勝てるよ。
いやぁ便利な世の中になったもんだね。先人達は核兵器なんていう破壊しか能がない武器に縋っていたらしいけど、やっぱり戦争は略奪がなきゃだめだよね。
だから戦争が起きなかったんだね。略奪がなきゃ、やる意味ないもの。
え、なんだい大きな声だして。とんでもない?自分にはそんなことできないって?ふーん、そうなの。
ところで君にはもうひとり隣人が居て、彼は君よりたくさんロボットを持ってるんだ。で、君に戦争を仕掛けようとしてるみたいだけど、さぁ、君はどうする?

―――――――地球連邦盟主・ジョナサン・ホワイトの著書「ロボット世界大戦」冒頭から抜粋。




昼下がりである。
20世紀のイタリアを思わせる街並みが、晴天の下に広がっている。
平時なら人通りのある街路も、活気のある広場も、今日に限っては無人のまま静まり返っている。
住人達はみな、街の外へ避難していた。街の下に爆弾が埋まっていることを知ったので。

そうして無人だった街に、1人の難民が入ってきた。
本来ならば許されないことである。市民権のない人間が連邦本土に入ろうとすれば、たちまちロボット達につまみ出されるだろう。
だが彼は今、この街の領主に雇われている。爆弾処理のためにやってきた彼を咎める者はいない。
走具と呼ばれる黒いパワードスーツの上から泥色のコートを纏い、夏の日差しを浴びる石版路を足音も立てずに歩く。
フードに隠されたフルフェイスのメットが、周囲を伺うように時折左右に揺れる。
やがて彼は広場で立ちどまると、通信回線を開いた。

「ここだ」
『その噴水の下?』
「そうだ。この真下に入り口がある」

噴水の淵を蹴りながら彼はそう言った。
大きさは小ぶりな池ほどもあり、中心には石像が立っている。半裸の女性をかたどったそれの足元から周囲に水が注いでいる。

『待って、それはクライブのお気に入りなの。今どかすから』
「……あんたが領主の奥さん?旦那はどうした?」
『ええ、妻のリザよ。夫の代わりに案内するわ。よろしく、雄一郎」

クライブと呼ばれた男が街の領主である。
契約の話は既に終わっているので、案内は誰でも差し支えない。ああ、と返事をして雄一郎は空を見上げた。
上空を旋回している空母から、黒い霧のような、イナゴの群れのようなものが降ってくる。
連邦の力を象徴する存在、ナノマシン「ジパーツ」である。
付近にエネルギー供給源が必要という弱点はあるが、それでも彼らが持つ圧倒的な労働力は人間の地位を大きく低下させた。

「この街並みも彼の趣味かい。北米なのにヨーロッパ建築とはね。作るのに何日くらいかかった?」
『エネルギーが潤沢にあるなら1日でしょうね』
「そうだろうな。で、どれくらい?」
『あなた、私をナメてない?街がどれくらいの力を持っているか。漏らすほどバカそうな声してる?』
「これは失礼、滅相もございません」

 吹き付ける砂嵐のような音を立てながら、ジパーツは周囲の地面ごとくりぬいて噴水を動かしていく。
やがて彼らが上空に引き上げていくと、噴水があった場所にはくぼ地ができていた。底には土の地面が見える。
雄一郎はそこに降り立って、外套の中から小型ロボットを取り出した。頭にドリルを備えたイモリのようなそれが地中へと潜っていく。

『雄一郎』
「なんだ」
『……ええと』
「おい、どうした」
『気をつけて。なるべく急いで帰ってきてね』
「は?」

雄一郎は言葉に込められた意味を探った。それこそ裏の裏まで考えたが、何も思いつかなかった。自分の身を案じているようにさえ聞こえる。傭兵として仕事を請けることはあるが、本来自分は連邦人にとってお尋ね者だ。仕事をこなしたらすぐ死ね、と言われるなら解るが、個人的に心配されるような謂れはないはずだった。

「旦那と間違えたか?」
『違うわよ。待ってる間不安だから。待つのは嫌いなの』
「さいですか」

もう一度慎重に言葉の意味するところを考えたが、警戒を呼び起こすようなものは見つからなかった。
そうしているうちにイモリが地中から帰還した。彼と情報のやり取りをする。

「掘り返してもいいそうだ。円筒状の穴を掘ってそこに螺旋階段を下ろしてくれ」
『ええ、解ったわ』

リザはそういって、ジパーツに注文通りの作業を命じた。



[27163] プロローグ
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:20f6a1af
Date: 2011/05/25 16:18
 人類は地下に自ら造った、広大な、誰もその全容を知らない通路や施設群を抱えている。
宇宙開発競争に勝利し、地球全土の制空権を得た連邦に対抗し、かつて彼らと敵対した勢力が設けたものだ。これらを総括して地下迷宮という。
衛星やロボットの監視をかわす狙いで作られた迷宮は秘匿性が高く、作った勢力が滅んだ後も発掘は進んでいない。
数千個とあると推測されるうちの一つに、雄一郎は足を踏み入れている。

場所も不明、構造や危険度も不明な地下迷宮は今も連邦の首脳陣を悩ませ続けており、また迷宮の攻略でデリーに遅れていることが厄介さに拍車をかけている。
デリーは敗走した勢力が集まって興った国だ。かつて自分達が設けた迷宮の位置を知っているぶん連邦に先んじるのは当然で、その上彼らはテロリズムを掲げている。
彼らのために滅んだ街は1つや2つではない。

雄一郎はデリー人でも連邦市民でもない。難民である。
しかし彼にとってここは迷宮ではない。作った人物も構造も知っている。

「……」

長い下降の後、目の前で口を開けている金属の通路を進む。
天井を一直線に走るブルーの照明が、石の壁にぶつかって途切れる。
雄一郎は壁を叩きながら叫んだ。

「ニッキィ、俺だ。吉井雄一郎だ。ここを破るから下がってろ」

1分経っても返答がないので、助走をつけて壁に体当たりした。轟音が反響する。
何度かそれを繰り返すと、壁が崩れた。

「……」

一組の白人家族が、部屋の隅から異物を見る視線を送ってくる。
昼光色の照明と、暖色の壁、フローリングに観葉植物、食卓。
そして自律式と思われるロボットが家族の隣に一体座っている。
窓がないことを除けばまっとうなリビングだと雄一郎は思った。
階下には小さいながらラボや工場もあり、付近の火山から僅かながらエネルギーも拝借できる。
その気になれば何年でもここに篭城できるだろう。

(他には、地盤を沈下させるための爆弾、か)

ここの事はすべて知っている。そのつもりだったが、一つだけ想定外なことがあった。
ここに居るのは夫婦が一組だけのはずだったが、それに加えて小さな男の子が増えている。
雄一郎はいたたまれない気持ちになった。

「あれから10年以上経つか。……ずいぶん老けたな、ニッキィ。こんな穴倉に引きこもってるからだ」
「何をしにきたんだい」
「君達を助けに来た」

雄一郎が壁にかかっているスクリーンに中継装置を繋ぐと、すぐに妙齢の女性が映った。
ブルネットのショートヘアーに鋭く整えられた眉と切れ長の目がいかにも怜悧そうで、厚ぼったい唇のセクシーさといい意味でギャップがある。さすが連邦領主の妻の座にいるだけのことはあって、美人だと雄一郎は思った。

『ニコラス・コールマンさん?』

とリザが呼びかけると、ニコラスはそうだと言った。

『リザ・オーウェンです。あなたが爆弾を突きつけている街に住んでいます』
「……」
『単刀直入に言います。今すぐ地上へ出てきなさい。さもなくば実力を行使すると、街の領主が言ってるわ』
「……」
『素直に出てくれば命までは取らないそうよ。家族のためにも賢明な判断をすることね』

ニコラスは黙っていた。その腕を妻が抱き、気遣わしげに何か囁きかけると、彼は泣き出した。
しばらくそうした後、ニコラスは雄一郎を睨みつけた。

「裏切ったな、雄一郎」
「何がどう裏切りなのか解らんが、少なくとも告発したのは俺じゃない」
「……」
「かといって、領主が自力でここを見つけたわけでもない。いや、実際見事な偽装だからな。計器上は君もただの土さ」
「……」
「告発者は、君達の中に居る」

ニコラスは弾かれたように息子を見た。息子もまっすぐに父を見返す。

「マック、まさかお前」
「もういやだ」
「お前が知らせたのか、地上の連邦人に!」
「もうこんなとこで生きてくのはいやなんだ!俺も地上に出たい!知りたいことが沢山あるんだ!」

雄一郎はゆっくりと壁際に引いて、取っ組み合う父と息子を見守った。
と言っても息子はまだ小さい子供なので、すぐに一方的な展開となる。母親が泣き叫びながら息子を庇っている。こういうとき女は二役で大変だ、と思った。
リザは無表情のままスクリーンに映っている。

「……」

そんな状況が数分続いた後、ニコラスが酸欠に喘ぎながら雄一郎を見た。

「断ると言ったら?」
「さっき聞いただろう」
「爆発させるぞ」
「そんなことは俺がさせない」
「ロビン」

呼びかけに応じて、座っていたロボットが動いた。
立ち上がっても全高は1.5mほどで、樽に手足が生えたような姿をしている。不器用そうな3本指から時代を感じる事が出来る。だが新型だろうが旧式だろうが、同じことだと雄一郎は思った。
彼とロビンが部屋の中央へと踏み出す。

「侵入者を排除しろ」

つぶやくようにニコラスが言うと、ロビンが走った。
だが雄一郎に指差されるとすぐに転んだ。時折痙攣めいた動きが全身を走るだけで、ロビンはそれ以上動かなくなった。

「無駄だ、ニッキィ。知ってるはずだぜ」
『アンチ・ロボット・フィールド!今使ったのね!』

驚きと感心がリザの声色にはこもっている。無視して雄一郎はニコラスに向き直った。

「もう終わりにしろ。さあ、一緒に地上へ行こうぜ」
「終わりにしろ、だと?そんなことは……そんなことは連邦人どもに言えよ!あいつらが俺達を難民だとか言って弾圧するから、俺達が地下にもぐるハメになったんだ!市民になろうとしても、デリー公国の連中がテロなんかしてるせいで、難民ってだけで疑われる!苦労して何年も我慢して、運良く市民になれても、その街が戦争に負けたらまた難民に逆戻りだ!おい、雄一郎、連邦は今いくつの自治領に分かれてるんだ!ええ!?飽きもせず戦争してる領主は何人居るんだよ!」
「……4000ぐらいだな」
「バカじゃねぇのか!」

腕を振り回しながら、ニコラスは絶叫した。

「望みどおり最後の1人になるまでやったらいい!終わったらまた呼びに来い!解ったか戦争屋ァ!」
「どうして教えた」
「なぁにぃ?」
「どうしてそこの坊やに科学を教えた。ずっとここで暮らすつもりなら、そんなことしなくていいはずだ」
「……」
「今日、この日のためじゃないのか」

ニコラスは黙り込んだ。

「なぁ坊や。君が作ったんだろ、あのモグラみたいなロボット」

鼻血を流しながら泣いていた子供が、泣き顔を隠そうと母親へ抱きついた。

「この部屋の存在と、爆弾が埋まってること。街の領主にちゃんと伝えてくれたぜ。まさかこんなに若い科学者が作ったとは思わなかった。俺もびっくりしたよ。どうやって親父の目を盗んであれを地上に送ったのか……ちょっとした冒険があったんじゃないか?今度詳しく聞かせてくれよ」
 
雄一郎は笑った。

『雄一郎に感謝することね、ニコラスさん。命が助かるのは彼のおかげよ』
「……どういう意味だ」
『迷宮があると解っても、爆弾のおかげでうかつには手を出せない。
 私達が情報を集めているときに、雄一郎が攻略に名乗りを上げたの。
 その代わり、彼はあなた達の助命を要求した』
「……」
『長いこと連絡すら取っていないのに、いざと言うとき助けてくれる。
 いい友人ね。雄一郎とは仕事が終われば敵同士だけど、あなたが羨ましいわ』
「……」

膝から床にへたりこんだニコラスの肩を、雄一郎が支えた。そして一家を地上へと誘った。
10年以上に渡る彼らの地下生活が終わった。



[27163] プロローグ2
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:20f6a1af
Date: 2011/04/13 12:49
それから地上に出るまでの間に、事態は急変していた。
メットの通信回線を開いた雄一郎の耳に、領主クライブとリザの争う声が届く。不穏な空気を感じる。
コールマン一家は初めての、あるいは久しぶりの地上に興奮と不安を露わにしている。
雄一郎は彼らに鋭く言葉を浴びせた。

「逃げろ」
「え?」
「今すぐに街の外へ。走って逃げろ」
「……」
「走れェ!全力でだ!」

家族が顔を見合わせ、連れ立って、時折振り返って何か言いながら走っていく。
そのすべての動作が遅いことに雄一郎は苛立った。

『やぁ、雄一郎』

クライブの声が聞こえる。
交渉の際、彼とは1度会っている。豊かな白髪をオールバックにまとめた初老の紳士だった。彼の上品そうな笑顔が頭に浮かんだ。

『安心していいよ。あの家族は殺さない。
 もちろんそれでも契約違反には違いないが……
 だからこそ殺さないことに一片の誠意を感じてほしい。
 未来のライバルを見逃すのだから』
「ライバル?」
『聞こえてなかったか?あの少年は君に向かって
 「自分は領主になる」と叫んでいたよ。
 だとしたら、将来は僕の敵だろう?」
「ふーん。そうかい。で、どの契約を破るんだ?」
『まだ契約期間中だが、君を捕まえる事にした』

上空の空母から、また街の至る所からジパーツが出現した。
群がってくる彼らに向けて雄一郎が腕を振るうと、風に吹かれたようにジパーツは霧散した。

「最後に忠告しておくぞ。俺と契約する時、デリー公国のチャンドラ姫が証人に立ったな。デリーは信義と掟の国だ。彼女に裏切りの代償を支払う覚悟があるか?」
『雄一郎、これは僕や君だけの問題ではない』
「……」
『アンチロボットフィールド』

吉井雄一郎が扱う対電子技術の分類名である。彼はこの分野の世界最高峰にある。
現在、彼の技術を前にして機能不全を起こさないロボットは居ない。
ジパーツも例外ではない。

『その技術を外へ漏らさなかった事は評価したい。それが難民達に広まれば、また泥沼の戦争になるからね。だがデリーはそれを望んで、君の技術を狙っている』
「……」
『そして連邦市民は誰一人として、そんなことは望んでいない。もう言葉は必要ないだろう。命は保証する。連邦に降りなさい。これ以上、君という火種を野放しにはしておけない』
「断る」
『そうか、では君は死ぬべきだ。僕が執行役になろう』

それが2人の交わした最後の言葉となった。
雄一郎が走り出し、ジパーツは幾何学模様を描きながら上空に拡散すると、雨のように街へ降り注いだり、逆流する滝のように空へ戻ったりした。その動きは稲光のようにすばやい時もあった。
ジパーツは街から遠く離れることはできない。そこまで逃げ切れば雄一郎の勝ち、逆ならクライブの勝ちである。しかしこの逃走劇はそれ以外の形で決着を迎えることになる。



顔を殴られたことによる昏倒から目覚めたリザは、ブリッジの冷たい床からのろのろと顔を引き剥がした。呆然としながら目の前にある革靴を見る。そしてそれを履いているクライブに視線を移したところで、リザは状況を思い出した。
最悪の状況だ。予感はあったが、杞憂だと思い込むようにしていた。
涙をこらえながらリザは言った。

「テロリストが来るわよ」
「……」
「あなた、納得してくれたじゃない。昨日話したとき、今回の件は私に任せてくれるって。
 チャンドラは必ず報復するから、雄一郎の技術は諦めるって!」
「テロリストとは、いずれ対決することになる」
「……」
「そのとき彼らが、今の吉井雄一郎のような難敵になっていたらどうする。その方が恐ろしい。私にとって重要なのは家族の安全と、科学の発展だ」
「やめてはくれないの?」
「ああ、もう迷ってはいない。リザ、もっとそばに来てくれ」

リザは立ち上がった。
クライブはコンソールに手を当てたまま身動きが取れない。
モニターにはジパーツがのた打ち回る街が映っている。

「抱いてくれ、リザ」

言われるままに、彼女は夫を抱きしめた。

「殴ったりして悪かった」
「いいのよ、もう」
「僕の家族は、僕が必ず守るから。君は何も心配しなくていい」
「いつか、こんな日が来ると思ってた」
「なんだって?」
「来ないほうが良かった」

リザは隠し持っていた毒針で、クライブを刺した。
彼女の頬を涙が伝い、クライブの体が大きく痙攣した。

「こんなことをした後に言っても、信じてもらえないでしょうけど」
「……」
「あなたを愛してたわ、クライブ。心から」

その言葉をクライブが聞くことはなかった。既に彼は絶命していたので。



[27163] プロローグ3
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:20f6a1af
Date: 2011/05/25 16:22
先ほどまでとは打って変わって静まり返った街を、外壁の外にある簡素なキャンプから不安そうに市民達が見守っている。そんな彼らの頭上を、空母から飛び立った一機のヘリが通り過ぎていった。
市民の何割かがそのヘリを目で追う。目で追った後、実際に歩いて追いかける者が1人だけ居た。彼は自分を守ろうと追いかけてくるロボットを押しとどめ、広大な荒地へと歩いていった。



ヘリの傍に立ったまま、リザは歩いてきた男を睨み付けた。2人はデリー公国のテロリストである。
かつてリザはこの男が好きだった。クライブに近づいたのも彼の命令だったからで、望まない結婚生活を続ける中でも、男は彼女の精神的支柱でありつづけた。
しかしその状況は夫婦に娘が生まれた頃から変わりはじめる。この街におけるたった1人の同志。いつしかそれはたった1人の邪魔者になっていた。今では憎しみしか残っていない。

睨まれた男は無表情のまま、始末したかと聞いた。街の状況を見れば、領主の裏切りは明白だ。リザはかすれた声で肯定した。彼女の胸で幼い娘が眠っている。

「見逃してくれるんでしょうね、私達を」
「これからどうするつもりだ」
「デリーには帰らない」
「……」
「もう、たくさん。こんなことは」

悄然としたリザを見ながら、わからんな、と男は言った。

「お前は勇敢で、優秀な戦士だったのに。情にほだされたのか?」
「ずっとこんな生活が続けばいいと思っていたわ」
「連邦の便利な暮らしが恋しいか」

リザは答えない。もはや何を言っても無意味だ。クライブは自分が殺した。もう帰ってはこない。

「一番解せないのは、お前が娘を作ったことだ」
「……」
「その娘はお前にとって最大の弱点となり、我々からの離反を妨げる枷となった。娘が居なければクライブに付いて、我々と戦うだけの勇気を持てたのではないか?」
「……」
「娘を襲う危険よりも、夫の確実な死を取って、泣いている。何がしたいのだお前は」
「何がって」

亀裂が生じたようにリザは笑った。

「仕方ないじゃない。夫婦だったんだもの」

所詮女か、と男は思った。そして上空を旋回している空母を見た。
領主以外にエネルギーの補充はできない。彼が死んだのであれば、そう長くは飛んでいられまい。

「あれが堕ちるまではここに居てもらう」
「ええ。解ってるわ」
「クライブの死はすぐに他の自治領に知れ渡るだろう。ここは付近の領主達に占領され、植民地となる。お前も難民だな」
「……」
「もう一度聞くが、デリーに帰るつもりはないんだな」

リザは無視した。だが先の生活を考えて不安になった。
娘をテロリストの国で育てたくない。かといって誰の庇護も受けられない難民として、飢えと暴力に怯えながら母娘2人で生きていく自信もない。もう一度連邦市民になりたかった。そのためには、何か連邦への貢献が必要だ。例えば、目の前の男のように、連邦に潜んでいるテロリストの告発であるとか。
リザと男の目が合った。男はリザを凝視したまま、呪いをかけるように言った。

「我々は、デリーの戦士はどこにでも居る。思わぬところに潜んでいる。お前がそうだったように」
「……」
「気をつけろ。その娘が大事なら」

男が去った後、リザは眠る娘に縋り付いて泣いた。



[27163] 宇宙進出計画1
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:20f6a1af
Date: 2011/05/25 16:27
アレクシス・ホワイトが今一番ほしいものは、デリー公国のチャンドラ姫である。
宇宙開発を牛耳り、連邦盟主として地球を支配するホワイト家に生まれながら、いち領主として危険な地表にとどまっているのも、チャンドラに会いたいがためである。
いずれ地表を平定し、彼女を手元に置く。その障害は敵であるデリー公国という枠組みだけだったが、このたび新たな問題が生じた。
すべての連邦市民を宇宙で生活させるため、父のジョナサン・ホワイトが動き始めた。
かねてから領主達に打診していた宇宙移民計画を実行段階に移したのだ。
宇宙へ行くアレクシスと、地上にとどまるチャンドラ。計画通りとなれば離別は必至だった。

「……」

金色の豊かな睫を伏せて、アレクシスは思考の海に沈んでいる。
月光だけが照らす暗い寝室の中で、彼女の白い肌ほど明瞭なものはない。肘掛で頬杖をつく顔から、絨毯に沈む爪先までが一つの陶器のようでもある。
黒いネグリジェがロココ調の長椅子と同化して、彼女の胴体を闇でくりぬいている。

いっそチャンドラを攫ってしまおうかとも考えたが、地上に残ろうという彼女の意思は固い。無理強いして機嫌を損ねてもつまらないので、アレクシスは宇宙移民計画をいかにして潰すかを考えていた。
計画の真意は宇宙進出と言うより、地表からの離脱にある。宇宙へ生活基盤を移すことで、地下迷宮というリスクから領主達の生命を守ろうと言うのだ。そうしてリスクを一つ減らした連邦は、今よりも苛烈な統治を地表に敷けるようになる。難民達の受難は極まるばかりだろう。
自分にとってはどうでもいいことだが、チャンドラにとっては違う。なので彼女は地表だけでなく、地中をも制するよう自分に求めてきた。迷宮を攻略することで地表のリスクを取り除き、宇宙移民計画を潰せと言うのだ。アレクシスに断る理由はない。チャンドラと別れずにすむ上、父が諦めた迷宮攻略を自分が成し遂げる、と考えれば意欲も湧いてくる。

問題はその方法論だった。迷宮は規模不明の地雷のようなもので、ロボットを使って地中を総ざらいするというわけにはいかない。
攻略には情報が必要だ。そしてその情報は人から人に伝わっていく性格のものだ。
ロボットの便利さと引き換えに、人同士のネットワークを乏しくした連邦が、迷宮攻略でデリーに遅れるのは当然と言える。
いかにして両者の立場を逆転させるか?チャンドラが提案してきた作戦は、アレクシスにとって到底認められるものではなかった。

「グレッグ、応接間の2人をそこに映せ」

命じる声は小柄な体格のわりに低く、艶やかだった。そばに控えていたロボットが動く。
人工筋肉をグレーの樹脂でコーティングし、人にごく近いフォルムをしている。が、大小のレンズを2つずつ備える頭部と、間接部を谷のように割っている漆黒の闇が、自身はロボットであると雄弁に語っている。
ロボットの細部まで人に似せるようなことをアレクシスはしない。館に居るロボットはすべてゴーレム型だった。
アレクシスが長椅子の空きスペースを顎で指し示すと、グレッグはその上にホログラムを映す。

ティーテーブルを囲うチャンドラと吉井雄一郎が、8分の1スケールで目の前に出現した。
決して余人に漏れてはならない話なので、アレクシスは自分の館で会談するようチャンドラに勧めたのだ。

褐色の肌にトルコ石色のサリーを纏い、アレクシスが贈った黄金のイヤリングを着けているチャンドラに対し、雄一郎は泥色の外套を脱ぐどころか、フードまで被っている。自衛のために走具を外さないのだろう。

『地下迷宮攻略のためには、あなたの知識と技術が必要なのです。どうかご協力ください、雄一郎様』

チャンドラは吉井雄一郎を味方に引き込もうと考えている。話は本題に入っているらしい。
日本国が解体されてから傭兵として各地を転戦し、様々な勢力と交流のあった吉井雄一郎は、デリーや連邦が把握していない地下迷宮の情報を持っている。
現に彼は迷宮をいくつも攻略しているため、その考え方にはアレクシスも賛同する。

『宇宙進出のことだが、どれくらい迷宮の情報が集まれば中止にできるんだ』
『まず6割、とアレクシス様はおっしゃっています。彼女の領土がもっと広がれば、さらに少なくてすむかもしれません』
『遠いな。連邦は1割も迷宮の情報を握ってないんじゃないか?5割も上積みしてる間にみんな宇宙へ行っちまう』
『私がデリー公国の持っている情報を集め、アレクシス様に提供します。それで2割くらいは水増しできるはずです』
『無償で?デリーに断りもなく?』
『はい』
『馬鹿な』

雄一郎は吐き捨てるように言った。それはクライブと雄一郎の間を仲介するのとはわけが違う。
先日の迷宮攻略では依頼者側の裏切りにあったが、本来ならチャンドラも仲介の報酬をもらうはずだった。連邦の内部情報と、資源。こうした報酬のためにチャンドラの仲介はデリーに容認されている。
だが報酬を持ち帰らないどころか、自国が掌握している迷宮の情報まで連邦に流せばどうなるか。

『それはデリーに対する明確な背信だろう。君が粛清されることになる。そうなれば俺も後ろ盾を失うことになるな。もっと別の手を考えてくれ』
『それなら問題ありませんわ』

チャンドラがティーテーブルに指輪のケースを乗せた。

『これは?』
『保険です。人々のための。仮に私が死んだとしても、あなたに後ろ盾を残すための』
『……指輪?』

ケースの中身を取り出した雄一郎に向かって、微笑みながらチャンドラは言った。

『雄一郎様、私と結婚しましょう』

アレクシスは舌打ちして、絨毯の上にかかとを叩き付けた。

『……』
『そうすればあなたは大公の義息となって、公国と強く結びつくことになります。あなたの身になにかあれば、私達は血と名誉にかけてただでは済ませません。そのことは連邦の方々も骨身に染みてわかっているはずですわ』

雄一郎は固まっている。
デリーは信義と掟の国。たとえ義理でも大公の息子が殺されれば、報復に出る理由にはなる。だがそんな理屈を彼が思い出したのは、チャンドラのプロポーズから随分間をおいてのことだった。目の前の美しい女性が口にしたことが信じられなかった。そんな事を誰かから提案されるとは、この数十年の間、夢にも思っていなかった。

チャンドラは黙って、微笑みながら自分を見ている。長引く沈黙のためか彼女が小首を傾げると、短い黒髪が、長身の割りに薄く狭い肩に触れた。切り揃えられた前髪の奥に剣のような鋭い眉と、目尻の下がった優しげな瞳がある。走具に隠れた自分の表情を見透かしているように思われた。
1つ大きな咳払いして、呆けていた思考回路に渇を入れる。頭を再び回転させながら雄一郎が言った。

『デリーを裏切るというわけだな』
『否定はできませんね』
『じゃ、裏切り者の夫をデリーはどうすると思う?』
『……』
『後ろ盾になんかなりゃしない、無駄だよ』

指輪を置いて席を立った雄一郎を、チャンドラも立ち上がって呼び止める。

『お待ちください』
『連邦の迷宮攻略には協力しよう。ただしあくまで、デリー公国の姫君が仲介すればの話だ』
『私がいなくなったら、迷宮攻略をやめてしまうのですか』

雄一郎は答えない。彼は連邦の依頼を受ける際、必ずチャンドラを仲介に指名している。
これまでに例外はない。

『私だって死ぬのは嫌ですから、そうならない様に立ち回ってみます。でも必ず生き残るとは言えません。だからこそ希望がほしいのです。あなたの行動次第で多くの人の運命が変わるかもしれないのに、その時あなたには頼る人が居ないなんて。それは人々にとって、とても危機的な状況だと思います』
『……』
『デリーには私と同じように、連邦に迷宮を譲ろうと考える人が居ます。大公もその一人ですわ。もちろん、反対する人も大勢居ます。彼らを無視して勝手に情報を流す以上、私は粛清の対象となるでしょう。デリーは信義と掟の国ですから』
『……』
『でもそんなデリーだからこそ、あなたを守る理由を作れるのです。大公が……父がきっと力になります』
『……』

雄一郎は指輪を受け取った上で、日取りは先送りにした。
あくまでチャンドラの仲介を至上策とすることを念押しした。



[27163] 宇宙進出計画2
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:20f6a1af
Date: 2011/05/15 14:55
アレクシスはチャンドラを寝室に招き入れ、照明をつけた。色は白熱灯のものにした。
長椅子に今度は2人で座り、スモークチーズを肴にワインを飲んでいる。
チャンドラはずっと上機嫌で、時折鼻歌などを歌う。酔いが回っているようだった。

「吉井にはぐらかされたのに、嬉しそうだね、チャム」
「大丈夫よ、アリス。彼は受けるわ」
「根拠は?」
「勘よ。何年交渉人やってるとおもってんのよ」

チャンドラが満面の笑みを向けてくる。酔ったチャンドラがアレクシスはあまり好きではなかった。

「それに……彼の顔、見た?」
「ああ」

館を出る前、雄一郎はチャンドラの求めに応じてメットを外し、素顔を晒していた。
東洋人にしては彫りの深い顔立ちに大きな目が印象的で、薄く滑らかな唇が女性めいていた。
黒々とした短髪は満ち足りた芝のように彼の頭を覆い、色白の肌は瑞々しく40歳という年齢を感じさせない。
チャンドラは23歳だが、兄くらいの年頃に思える。

「私の好み」
「はぁあ?ごっこ遊びの結婚だろう?夫婦を演じるのに相手の顔など関係あるか?」
「えぇ?夫婦を演じるなんて。どうして進んで不幸にならないといけないの。生まれてくる子供にも良くないわ」
「こ……」
「それにしても、私の仲介が最優先って。なんだか私の安全が最優先って言われてるみたいで嫌。自分のほうがもっと過酷な状況に居るくせに。お姫様だと思って下に見てるんだわ」
「……君が居ないと何もできない、哀れな男なんだよ」

アレクシスはため息をついた。

「相手を選んだほうがいいと思う」
「何よ、引っ張るわね」
「強姦魔だぞ」
「噂よ」

チャンドラは表情も変えず、ぶどう酒を呷った。

「いいえ、噂かどうかすら関係ない。相手を選ぶなんて、さして重要なことじゃないわ。人生に必要なのは覚悟だけ。相手を白馬の王子様に変えてしまえばいいの。いい男なんて、空からふってきやしないんだから」
「なるほどな、勉強になるよ。私も夫選びの参考にしよう」

酔っ払いのご高説か、と思いながらアレクシスは一つ大きなあくびをした。
そしてこう言った。

「ねぇ、きみ。私と吉井と、どちらが大切だい?」
「急にどうしたのよ。……さぁ、どっちかしら?」

いやな予感がしたチャンドラは曖昧にごまかそうとしたが、無駄だった。

「そうか、では質問を変えよう。吉井雄一郎を罠にはめて捕らえようと思う。彼、君だけは信用しているようだから、協力してくれるか?」
「冗談よね?」
「彼の知識はすべて貰いうけ、彼の技術は抹消する。そのためにはどんなこともする。脳髄だけに引き剥いて尋問してやってもいい」
「アリス」

チャンドラから酔いの気配が消えた。代わりに不機嫌と不満が顔を出す。

「もう少し質問を変えよう。私が彼を捕えたら、君は私に報復するか?」
「……」
「出来まいね。しても状況を悪化させるだけだ。私と吉井の両方を失えば、君の作戦は失敗する」

室温の急激な低下をアレクシスは感じている。
一方でそれが錯覚であることも知っている。殺気、などというオカルトでもない。単なる条件反射である。
振り上げられた父親の拳に怯える幼子と同じで、彼女の声色に、視線に、表情に、仕草に躾けられている。
それら全てが彼女の怒りを熱烈に伝えてくる。そして自分はそれを無視できない。とうの昔に彼女の影響下に入ってしまっているからだ。
まったく父はどういうつもりで、この意思疎通の怪物と自分を引き合わせたのか。
小さな子供に過ぎなかった自分は、彼女を好きになってしまうしかなかった。そのことを思うたび、いつも感謝と憎しみが半分ずつ湧いてくる。

「迷宮は私のロボットが攻略する。デリーも私が滅ぼす。それまでに君はゆっくりと私のところへ逃げてくればいい。何度も言うが、これがベストな選択なんだ。結婚などする必要はない」
「懲りていないのね」

チャンドラが視線をそらしたので、アレクシスの胃が重くなるような緊張も少し和らいだ。

「何年か前に、あなたは雄一郎を捕えようとして失敗してるわね。あれが彼の仕事中に起きなくてよかった。あなたを殺さなきゃならないもの」
「……」
「逆に攫われた挙句に街の外を引きずり回されて。どれだけ怖かったか、もう忘れちゃった?あの時私がどれだけ心配したか。あなたにわかる?」
「古い話だ。今度は油断しないさ」

アレクシスがはにかむように笑った。彼女のわき腹に、チャンドラの手が静かに、だがすばやく伸びた。

「!?――あぁっ!」
「ちょうど、このあたりね。よく覚えてるわ。あなたはすっかり怯えてしくしくと泣くばかりだったから、私がお風呂に入れてあげたのよね。ここにくっきりと手の形の痣があったわ。――どう?思い出す?」
「ぐあ、お……」

チャンドラがアレクシスのわき腹を、指を立てて握っている。
目の前が暗くなるほどの痛み。自分とさして変わらない、この細い腕のどこにこんな力があるのか。

「――よ、よせグレッグ!」

主の危機に気づいて”攻撃準備”に入っていたグレッグが、待機モードに戻る。
チャンドラはそんなことにはお構いなしに鉤爪を立てている。

「彼につかまれた時と、どっちが痛い?ああ、そんなの決まってるわよね」
「チャム、痛い、痛いよ」
「彼も2度目は”お灸を据えられる”だけじゃすませないかもしれない。私はあなたと雄一郎、どちらも失うわけにはいかないの」
「……チャム」
「あなたがそんな風だから、私は彼と結婚するのよ。私達3人が知り合って、もう何年も経つわね。あなたが彼の信頼を得ていれば、結婚する必要もなかった。和を成すことを覚えなさい、アリス。あなたがそれを覚えれば、向かうところ敵なしだわ」

チャンドラが手を離す。

「もし雄一郎にひどいことをしたら、私はあなたを許さない。覚えておきなさい」

彼女が退室した後も、アレクシスは暫く痛みと抱き合ったまま、呼吸を整えていた。
ネグリジェの襟元からわき腹を覗くと、真っ赤な手形が付いているのが見えた。
それは”あの時”よりも随分小さく、色も薄かった。
アレクシスはか細く長い息を吐いて、目尻の涙を指で払った。



[27163] ニキータ編:少女と青年
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:20f6a1af
Date: 2011/05/25 16:35
連邦領土には大別して本土と植民地の2種類があり、夜の空から地表を見下ろせばその2つを見分けることができる。
シャーレで培養された細菌のコロニーのように、円形の光がいくつも地表に散らばっている。
明るいのが本土で、その一つ一つを領主が治めている。
本土以外は植民地と呼ばれ、付近の領主が多種多様な実効支配を敷いている。
共通するルールは1つ。エネルギーと資源は必ず領主が掌握する。
夜に植民地が暗いのも当然だった。

しかしこれには例外もある。
”植民地にあってこそ有益な街”は本土でなくとも明るい。
この「ヴァロフの街」もその一つだ。



「値上げ?エネルギー料金が?」

そう問い返すラリーは、ニキータが予想した通りの顔をしている。明日の天気でも聞いたような顔だ。聞けば誰もが顔をしかめる話題で、瞬く間にこの報せは街全体の雰囲気を暗くしたが、彼女はほとんど動揺を見せない。畑にジャガイモを植える手は今も休まず動いている。

「親父も気が進まないらしいんだけど、領主が一方的に供給エネルギーを減らすと通達してきたんだ。 今度ばかりは仕方ない」
「いつから値上げ?」
「明日からだ。街が使うエネルギー全部がそうだから、工場なんかも対象になる。
 食い物以外の値段は全部上がると思っていい」
「食べ物は大丈夫なんだ?」
「……まぁな」
「よかった」

よかぁないだろう、とニキータは思う。
この街は内側から中央区、内周、外周と分かれていて、外周にはライフラインが通っていない。
今回の値上げで外周に身を落とす人は大勢居る。そうなることで内周以内のエネルギー不足が解消されるのだが、そうしたこの街の生存競争などは、遠く離れた本土に住む連邦市民達には対岸の火事に過ぎない。
中央区はこれまで通り運営される。あそこは観光に来る市民達のための歓楽街だ。そこが無事なら、本土だって無事に決まっている。結局のところ自分達は”難民”に過ぎず、何かあれば真っ先に切り捨てられる存在なのだ。

そういう環境に居るからこそ、街の人々は自分も連邦市民になりたいと思ったり、一方で体制への不平不満を募らせたりする。だがラリーは違う。状況の変化に疑問さえ抱かず、家畜のようにただ適応しようとする。

「ラリー」
「なに?」
「ほら、これで今月は凌げ。お前の家族も、どうせこのままじゃ外周落ちなんだろ」

ニキータはラリーの手をとって、金の入った封筒を押し付けた。
彼女は父と祖母の3人暮らしで、母は何年も前にテロの犠牲になっている。内周に住みながら働き手は2人、食わせる口は3つのこの家族にロクな蓄えがないことをニキータは知っている。
ニキータの顔と封筒を見比べながら、ラリーはその中身を確認して、喜びに顔を綻ばせた。

「ありがとう、ニキータ」
「……喜ぶんだよなぁ」
「え?」

ラリーの感情表現は控えめだ。だがこの街で幼馴染として生きてきたのだから、今彼女がどれほど深く安堵し、喜んでいるかは解る。値上げという状況を理解していないわけではないのに、どうしてそんなに冷静で居られるのか。子供の頃は鈍い女としか思っていなかったが、年を重ねるごとにそれはある種の強靭さだと感じるようになってきた。

「とっとと終わらせちまおう。モタモタしてると日が暮れる」

二キータは少し照れながら、じっと自分を見つめているラリーを促すように種芋袋からジャガイモを取り出し、畑に植えた。周囲にはアスファルトの通路に区切られた畑と、それを足元に1つずつ抱える集合住宅が整然と並び、白く四角い建物が西日を照り返している。時刻は午後7時をとうに回っているはずだが、北欧の夏は日が長く、作業に差し支える時間帯はまだ遠い。

「でも、ニキータ」

振り返ると、ラリーが今度は神妙な顔つきでジャガイモを植えている。

「ニキータは大丈夫なの?仕事、してないんでしょ?」
「あぁ?」
「お金、大丈夫なの?」
「そんなもん――俺の親父は街の首領だぜ。どうにかなるよ」

ニキータの資金援助には、ラリーに中央区で水商売をさせたくないと言う動機がある。市民になるツテがあったのに、それを蹴って家族の面倒を見ることを選んだラリーだ。冬を前にして年老いた祖母に外周暮らしをさせるくらいなら、躊躇なく夜の街で働くだろう。
そして彼女は美しかった。軽くウェーブのかかった栗毛を、頭の後ろでブルーのリボンがまとめていて、とび色の大きな瞳を乗せた小顔の輪郭が、白く涼しげな首のラインと広い肩幅につながっている。そこだけ見れば痩身のように見えるが、胸や尻は簡素なエプロンドレスを高々と押し上げている。で、ありながら無駄がなく、細い足首や腰周りが豊満さと同居を果たしている。

「仕事だって祭りの後には見つける。お前は何も心配しなくていい」

彼女が夜の街に飲まれれば二度と戻って来ない。ラリーを自分のものにしようと考えているニキータにとって、それは認めがたいことだった。
しかしラリーはニキータの言葉にいっそう表情を曇らせた。

「また”お祭りの後”だね」
「……」
「ニキータは学校でも何もしてない。剣道をやめてから3年も経つのに。このままじゃどの先生も見てくれなくなっちゃうよ、ってこの前言ったら、その時も祭りの後に何とかするって言ってた」
「……」
「あれほど市民になりたがってたのに、3年も学校で何もしてないなんて変。私、ずっと気になってたの。ねぇ、お祭りの後に何かあるの?」

ニキータは表情が強張りそうになるのごまかすため、ため息をついて空を見上げた。
いかにも祭りの後に何かがある。その計画は自分と仲間が市民になるために実行される。そしてそのことを周囲に知られてはならない。それはいわゆる抜け駆けで、ある意味では街の人々を騙しているからだ。今この時も。
別にボロを出したわけではないから緊張する必要はない。だが値上げの理由は気にもかけないくせに、こんなことには妙な勘のよさを発揮するラリーが少し腹立たしくさえあった。
まったく、女というやつは自分が関わる世間のことしか視界に入らないのだ。その分だけ、狭い世界の事には異様に気が回るのだろう。

「何もねえよ。ほら、手が止まってるぞ」

背中にラリーの視線を感じながら作業を続けていると、路肩に停まった自転車から乗り手が声をかけてきた。仕切りなおすにはちょうどいい、そう思って二キータは足早に路肩へ駆けた。



 ラリーの手がまたしても止まっている。強い緊張のためである。ニキータは彼と同じ自警団員と小声でやりとりしていて、2人とも険しい顔をしている。その光景はラリーの心臓を不安で高鳴らせた。
やがてニキータが戻ってくる。
そんな真剣な顔をしないで。先ほど仕事や学校の話をしている時には、面倒くさそうな顔をされて悲しかったが、そのほうがずっとましだった。時間をそこまで巻き戻してほしい、そしてあの自警団員がニキータを呼びに来なければいい、とラリーは思った。

「どうしたの?」
「わからん、急な呼び出しだ」
「……」

何も言えなくなり、ニキータの腕に縋りつく。すると彼は優しく笑った。

「心配するな。朝になったら仕事場に行ってろ。迎えに行くから明日は学校行こうぜ」

そう言うと彼は自分を振り切って、スケートボードに乗って商店街の方へ向かっていった。

「……」

自警団は外周を含めた街の治安維持を行っていて、外からの略奪に対応する場合もある。
ニキータはいつも必ず無事に戻ってきてくれたが、たまに喪服を着ていることがあった。特に急な呼び出しに応じたとき、そういうことが多かった。ラリーは自分の気持ちが沈みこんでいくのを感じる。

どうして中央区のロボットたちは、私たちを守ってくれないのだろう。
どうしてニキータはヴァロフおじさんの子供なのに、危険な自警団に入っているんだろう。
そもそも、どうしてこの街はこんなに危険なことが多いんだろう……。

ラリーは首を振って、思考を中断した。すべての不幸は疑問から生まれる、という祖母の教えを思い出す。何もできない自分が進んで不幸になっても仕方なかった。
ただ、ニキータの無事を祈った。

「アンナ」

肩をつかまれ、ラリーは反射的に振り返った。目の前に父が立っている。彼が口にしたアンナという言葉は、母の名前である。
そこまで考えて、ラリーは父が自分に話しかけているのだと理解した。
父は母が亡くなってから、自分のことを度々母の名前で呼ぶ。
家庭内である習慣が行われる日に、自分はアンナと呼ばれる。
こうした習慣はラリーの初経と共に始まった。

「そろそろ夜になる。もう家に入りなさい」
「はい。でも」

ラリーは畑を振り返った。ニキータが手伝ってくれたとはいえ、まだ畑仕事は終わっていない。時間を無駄にしたことを悔いながら事情を父に説明した。父は牛のように押し黙って聞いていたが

「家に入りなさい」

と繰り返した。そのまま集合住宅のほうに歩いていく。
しばらくして彼は振り返り、ラリーが呆然と立っているのを見ると。

「アンナ!」

と今度は怒鳴った。ラリーはあわてて周囲を見回して、誰にも聞かれていませんように、と願った。


「はい、今行くから」



[27163] ニキータ編:暗殺1
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:20f6a1af
Date: 2011/05/25 16:37
「テロリストが見つかった。住んでる場所は外周、告発者は”アザミの手紙”だからほぼ間違いない情報だ。明日未明、自警団がこいつらのねぐらに踏み込む。俺も現場に行くことになってる」

自警団の本部で得た情報を、ニキータは仲間2人に伝えた。
洩らした、とも言える。テロリストを襲撃する際は敵に情報が洩れないよう、現場に向かう団員にだけ命令が通達される。そして2人の仲間、ジュリアンとホリンは自警団員ですらない。3人が居るのは内周にあるニキータの部屋で、ここなら他人に会話を聞かれることはない。

「自警団の方針はどんなもんだ、ボス」

備え付けのベッドに座り、街の地図を広げ見ながらジュリアンが言った。

「テロの防止が最優先、次に俺達団員の命だ。銃も貸し出される。
 そして状況が許すなら、テロリストを捕らえて尋問する」
「ふーん、どっちみちテロリストは助からねぇな?連中は見つかるとすぐ自爆しやがるからなぁ」

テロリストは男が3人、1年ほど前からこの街に住んでいる。襲撃を前にして現場に行く団員たちは全員遺書を書いた。過去のケースを鑑みれば自爆を防げるかどうかが作戦のキーポイントになる。
団員たちは発砲を躊躇しないだろう。

「だめだって、甘く考えるなよ!」

椅子の背もたれを抱きながらホリンが声を張り上げた。
だがのっそりと顔を向けてくるジュリアンと目が合うと、ホリンはあわてて目をそらし、自身のクセのある赤毛をいじりだす。こうした彼の臆病を何かにつけてジュリアンはからかい、時には小突くので、出会って5年経つ今でも2人の関係には変化がない。いや、ホリンに黒人への畏怖があった頃はもっとひどかった、とニキータは思う。

「万が一迷宮の情報が洩れれば、僕たちの計画もご破算なんだぞ」
「ほォー。じゃ、先生ならどうしますかい?」
「殺すべきだ。確実に」

そういってホリンはテーブルに寄りかかるニキータを見た。ジュリアンが驚いた顔で口笛を吹く。

「おめぇの口からそんな血生臭い台詞がでるとはね」
「あたりまえだろ、祭りまでもう少しって時にこんな……邪魔されてたまるか。そうだろニキータ」
「ああ、そう思う」
「じゃあテロリスト共を確実に仕留めてくれ。頼んだよ」
「いや、お前たちにも手伝ってもらうぜ」
「……」

ホリンは呆けた顔をした。

「じ、自警団が襲撃するんじゃ……」
「俺だけスタンドプレーっていうのは無理だ。確実に仕留めるなら全員の意思統一が必要だ
 襲撃は俺たちだけで行う。手筈はもう考えてある、すぐに始めるぞ」
「おいおいホリィン?お前まさかボスをけしかけて自分は高みの見物決め込もうってのかぁ?」
「そ、そ、そんなんじゃないよ!」

ホリンの父はデリー公国のテロリストだったが、ホリンはそれを知らずにこの街で生まれ育った。
父親は病死する直前、かつて自分が勢力を興すためこの地に地下迷宮を築いたこと、それが叶わなかったためにテロリストになったことをホリンに告白し、迷宮の鍵を息子に託した。
それもちょうど1年前のことになる。
そして今回見つかったのがデリー公国のテロリストだった場合、この街に地下迷宮があることを知っている。それを誰が作ったのかも。だとしたら、彼らが自警団の尋問を受けることは避けねばならない。

「いいさ、やってやる。やればいいんだろ」

ホリンは連邦の市民権を得るため、街の迷宮を告発することにした。
だが自警団や首領に告発したところで、それがニキータ達の手柄になるわけがない。
交渉は連邦と直接行わなければならない。それも出来れば盟主であるジョナサン・ホワイト本人と。
事実、この方法で市民になった人が過去に居る。

そのために連邦報道機関を利用する。これはヒルダ・ホワイトが運営する名前通りの機関で、自治領の境目に関係なく活動することが許されている。毎年行われるヴァロフの街の祭りを彼らも報道しに来るため、彼らを通して連邦の上層部に掛け合うつもりだった。
祭りは一週間後に迫っていた。

「で、手筈ってのはどんなんだい、ボス」
「ああ――」

ニキータは地図を指差しながら、説明を始めた。



[27163] ニキータ編:暗殺2
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:20f6a1af
Date: 2011/05/25 16:44
 デリー公国の戦士・カシムは苦しんでいた。
滅ぼすために潜入したヴァロフの街の実態が、自分のイメージとかけ離れていたからである。

「カシム、今日こそは飲みに行こうぜ。な?」
「はい、では少しだけ」

声をかけてきたのは工場の同僚で、カシムと同じく外周に住んでいる。
カシムはこの街で「金を出せば酒が飲める」などとは思っても見なかった。
連邦はその気になれば力ずくで植民地のすべてを奪うことが出来るのだから、そこに街が出来たとしても”連邦にとって都合のいい街”に過ぎないはずで、住民達に生かさず殺さずの荒んだ生活をさせているものと思っていた。
実際には通貨が流通するほど、街の統治は住民から信用されている。植民地では物々交換すらままならずに略奪が横行している、という伝聞からは程遠く、外周の生活ですらデリーの貧困層と比べればとても文明的だった。定期的に薪や穀物の配給もあって、寒冷な気候にも関わらず餓死や凍死も少ない。
特に子供の笑顔がカシムを戸惑わせた。国家の解体以前からこの街に根を下ろしている人々がいて、彼らは奉仕する領主の敗北を2度も経験しているが、別の勢力に支配されるようになっても変わらずにこの街を維持しているという。

無論、カシムは連邦が憎い。特にロボットを使って人々を支配する領主など唾棄すべき存在だ。
この街にだってそうした連邦に加担する部分はある。中央区では少年少女たちが市民の欲望を満たし、市民権を餌にした学校に人を集め、連邦に新しい人材を供給している。
こうして住んでみるまで、それを悪と断じることに何の疑いもなかった。だが別の視点から見てみれば、この街には無視できない美徳があるように思える。
ほとんど思うが侭に振舞うことが出来る連邦はもちろん、争いに敗れた人々が寄り集まって出来たデリー公国にもない、どんな環境にも適応して動じない強さ。不平を唱え、道徳を掲げる自分達にそれが備わっているだろうか?もし備わっていなければ、不平などというものは次から次へ沸いてきてしまうのではないか。……。

「あんま楽しくねぇか?」
「! いえ、ちょっと考え事をしていただけです」

工場の中にある食堂は、種類は少ないが酒を飲ませる。
同僚のほとんどが夕食を兼ねてここで一杯やる習慣を持っていた。
むっつりと黙って飲んでいたカシムにも彼らは明るく接してくる。それがまたカシムを戸惑わせた。



 外周は内周と違って、ロボットによる再建築を受けていない。
国家が治めていた時代は都会だったらしく、カシムが住む外周北側には廃墟となったビル街が広がっている。割れたガラス、瓦礫、色あせてしまってもう読めない看板。街は人で溢れているが、コンクリートが多く冷えやすいビル街は比較的人が少なく、高層ビルの上の階に住んでいれば、ねぐらに人が訪ねてくることもない。カシムは急いで階段を駆け上がった。帰りが遅いので2人の同志達が心配しているかもしれなかった。

「……」

居室へ続く通路に入った瞬間、カシムはぎょっとした。
覆面で顔を隠した、黒尽くめの大柄な男がこちらを向いて立っている。首から覗く肌を見て黒人とわかった。彼が居室の前に立っている、と気づいてカシムは走り出した。黒人も同時に踵を返して、歩き出す。

「おい!」

黒人は止まることなく歩いていく。カシムは居室の入り口に取りすがって中を見た。
同志2人は死んでいた。部屋は荒らされていたが、衣服や日用品は残らず血糊の上に散らばっている。中には切り落とされた人の腕もある。物取りか、と思った瞬間、カシムは反射的に靴箱を見た。2重底に隠しておいた自決用の爆弾が持ち去られている。

全身の血が沸騰した。
逃がせない、と思った。様々な意味で逃がせないし、生かしておくことも出来ない。カシムが床を蹴ると、悠然と歩いていた黒人も走り出した。そのまま彼は窓の外へ身を躍らせた。

「な」

窓から外を覗くと、黒人は隣のビルを壁伝いに上へ登っている。
なるほど、彼も「走れる」らしかった。しかし彼は追っ手がデリーの戦士であることを知るまい。そもそもデリーの男がどのようにして育つかも知らないだろう。追いかけっこなら望むところだ。カシムも窓から身を乗り出した。



太陽はもはや地平線に触れる直前のところにあり、街の上にはグレーの空が広がっている。
ビルの屋上でも闇が濃くなっていて、段差のために出来る影が漆黒の落とし穴のようにも見える。走り慣れたカシムでさえ危険を感じる足場を、黒人は飛ぶような軽やかさで走り抜けていく。ビルの屋上から屋上へ、あるいは非常階段から割れた窓の中へ。時折後ろを振り返る動きからは余裕さえ感じられる。

まったく世の中は広いものだ。カシムは慢心を悔いていた。黒人は自分よりはるかに速かった。
息をせき切らしながら必死に追うカシムの、酸欠に淀んだ思考回路に、断片的な疑問が浮かんでは消えていく。

床に落ちていた同志の腕。皮膚も骨も区別なくまっすぐに断ち切られていた。実現するためにはどういう刃物が必要だろうか?逃げる黒人はもっと速く走れるように見えるが、そうしないのはなぜだろう?背中に背負った大きな荷物のために大事を取っているのか。あの中には何が入っているのだろう?爆弾?盗品?

何かがおかしいような気がする。だが自分に追う以外の選択肢は残っていない。
身の丈以上の段差を軽やかに黒人が超えた。折れそうになる心を何とか奮い立たせながら、彼が踏みしめている平屋根に手を掛けてそこに登ろうとした。飛びつく際に勢いあまって太腿を強かに打ったと感じた。かまわずに足を上げると、段差の角に何かが引っかかった。そこで初めて激痛を感じた。

「……」

右太腿に矢が刺さっている。数瞬の間、呼吸も忘れてカシムはそれに見入った。
なるほど、これが引っかかったのか。次に前を見ると、黒人は立ち止まってこちらを見ていた。段差に乗せた自分の腕と、黒人のつま先とが同じ高さにあった。その光景が、追いつけなかった、という事実を象徴しているように思えた。

右足を庇いながら元居た場所に降り立つと、即座に足を払われた。胴と首に何者かの手足が巻きついてくる。腰に提げていたナイフを抜こうとしたが、いくら探っても柄を握ることはできなかった。色彩を失っていく視界の隅で、自分のナイフが手の届かない距離に転がっているのをカシムは見た。



[27163] ニキータ編:暗殺3
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:20f6a1af
Date: 2011/05/27 00:31
倒壊寸前とされ誰も近寄らないビルの屋上。そこでカシムは3人の男に囲まれていた。手足を拘束され、ろくに動くことは出来ない。先ほど追いかけっこをしていた黒人が自分を見て「まだガキじゃねぇか」と言った。見掛けに反して高い声だった。

「いろいろ事情があってな。こんな場所までご足労願ったってわけだ」
「お前はニキータ・ヴァロフだな」
「そうだ。よく知ってるな、外周住まいなのに」

3人の中で唯一素顔を晒している男は、街の首領であるセルゲイ・ヴァロフの実子だ。
色の明るい金髪と、腰から飛び出しているナイフの柄が夕日を照り返している。
着ているシャツとチョッキは皺だらけで、タイトなスラックスも土で汚れている。上品な服装もそうした有様になれば滑稽に見えた。カシムはニキータをにらみ付けながら、低い声で笑った。

「これで終わりじゃない」
「……」
「デリーの戦士はどこにでもいる。思わぬところに潜んでいる。彼らによっていずれはこの街も滅ぶ。せいぜいおびえて過ごすんだな」

虚勢である。この街に潜んでいる同志をカシムはもう知らない。だが嘘を言っているつもりもない。
敗北した自分が最後にすべきことは、疑念と恐怖を敵に植え付けておくことだと思った。
ニキータはクロスボウを携えている背の低い男に近づき、彼の覆面を取った。クロスボウの男は驚いた顔でニキータとカシムを交互に見やる。

「その”彼ら”ってのには、こいつも含まれてたりするか?」
「……」

カシムは視線を彷徨わせているホリンに語りかけた。

「お父さんが可哀想だ」
「な、なんだと?」
「お父さんは君を戦士にしたくなかった。
 デリーと関わらせないことを条件に、君は今まで見逃されていたのに」
「……」

カシムはまた笑って見せた。

「それを事もあろうに、この街のモグラに与するとは。奴等に迷宮を抑えられたせいで、お父さんは勢力を興すことが出来なかったのに」
「……」
「加えてこれで君は裏切りものだ。どこへ行っても我々から追われる身だ。だが我々も鬼ではないから、君が誠意を見せれば身の振り方に選択肢が生まれるかも――」
「もういい」

と、ニキータが言った。相変わらず彼は感情の読めない顔をしているが、ホリンには脅しの効果は覿面だった。うまく行けば、一向に姿の見えない街の守り手 ――モグラどもの尻尾がつかめるかもしれない。警戒すべきは街の自警団などではなく、この3人のような連中だ、とカシムは思った。

「ホリン、ちょっとベルト貸して」

さて、いよいよ死ぬときが来たようだ。
表情を崩さずには居られたが、いざその時を迎えると心臓が高鳴る。意味のないことではあるが、動揺を悟られまいと執行役であろうニキータを見据えた。彼はカシムから10メートルほど離れた場所に座った。

「……?」

ベルトを手にしたニキータは、まず自分の右足首にそれをまきつけた。
そしてそのまま右足のかかとを尻につけ、足のベルトを腰に巻いている自分のベルトの輪に通して留めた。これでニキータの右足は、曲がったまま地面に着かなくなった。意図を察したらしい黒人が「おい、止せよボス」と呆れたような声で言った。

「ジュリアン、奴の紐を斬ってやってくれ」
「……」

これを聞いてカシムもニキータの意図に気づいた。
彼は自分に戦う機会を与えようというのだ。しかも条件を平等に近づけた上で。
ジュリアンと呼ばれた黒人が自分を拘束する紐を切りながら言った。

「いつも困ってんだよ、妙なところで意地っ張りだからよ、オレのボス」

ジュリアンは薄く笑った。
何を莫迦な。狂人か?自分を弄ぼうというのか?
先ほどまで感じていた恐怖を、羞恥に近い怒りが塗りつぶしていく。
自分は負けたのだ。妙な余興などせず、まっすぐに殺せばいい!

「……」

だがニキータは少しも笑っていなかった。
彼が潜る無用の死線と、それを前にしてみせる静かな表情とがカシムの中で意味も解らないまま合致し、そのせいで怒りが萎えていくのをカシムは不満に思った。

「哀れみをかけているつもりか?それともお遊びが好きか?」
「……」
「まさかこれが矜持とでも言うか。くだらん道徳観だな」
「ボケてんじゃねえよ」

ただ静かに、ニキータは語った。

「俺はやりたいようにやる。ただそれだけだ。道徳だと?くだらない物差しを当てるな。不満なら頭を抱えて震えてるんだな。すぐ楽にしてやるよ」

カシムは笑った。ともかく、一矢報いるチャンスが転がり込んだのだ。活かさない手はないだろう。バカな奴だ、と胸の内でつぶやいたが、その言葉に気持ちはこもらない。もはや彼の服装を見ても、滑稽に思う気持ちは沸いてこなかった。

「拾えよ」

ニキータが顎で指し示した方向に自分のナイフが転がっている。言われるがまま右足を庇いながら拾いに行こうとしたそのとき、傷口に止血が施されていることに初めて気づいた。敵と向き合うと、残る2人が戦いの場から後ずさっていく。ニキータが腰から柄を引き抜くと、刃渡り30cm弱の分厚いナイフが現れた。

「別に俺達は、いざとなればこの街なんてどうでもいいんだ。お前の言うモグラじゃない」
「……」
「それどころか、お前がモグラ達の顔と名前を知ってれば、手を組んでも良かったんだけどな」
「……」
「この街の迷宮を売って市民になるつもりだ。モグラにとっちゃ俺達も敵なのさ
 次にアザミの手紙が告発するのは、俺達かもな」

無駄口だ、とカシムは思った。今はもうそんなことはどうでもいい。君のおかげで、勝負に関係ないことはすべて頭の中から消えた。殺す―――いや、勝つ。ニキータ・ヴァロフを倒す。

速く走れない代わりに、緩急をつけながらカシムは右へ左へ相手を幻惑し、その最中に右足の踏ん張りが意外に利くことを確かめた。だが表面上は右足を庇いながら、遠間からナイフを突き出した。それはフェイントで、片足しか使えない相手のバランスを崩すためのものだった。突き出した右手足をすばやく引いたとき、カシムの痛覚を灼熱が襲った。

「――――」

喚きながら屋上を転げ回って距離を取る。右手を見ると、親指だけを残して指が消えていた。
ニキータが足元に落ちたカシムのナイフの上で跳び、着地した。そのつま先がカシムの前にナイフを送ってきた。

「……」

指と腕を比べるのもバカらしい。
だが同志の腕がどうやって切り落とされたのか解った気がした。
あの短いナイフでどうやって、と理屈では思うが、ともかく踏み込めば死ぬことを直感で理解した。
ホリンがニキータ越しに自分を見ている。
自分の言葉におびえていた彼が、今はただ静かに、死者を見送る死線を向けてくる。

今度は右足を目一杯使って、ニキータの背後に回りこんだ。彼はゆっくりと膝を着いて座り、その場で回転する。彼が突き出しているナイフが大きく見える。
敵が座っていることが自分に有利に働く。カシムはその思いつきに殉じた。
左肘をわき腹につけ、右手で(指はないけれども)左手首をしっかりと押さえて体ごとニキータにぶつかっていく。相打ちでいい、と思った。ぶつかる瞬間、ニキータは礼するように上体を下げた。追いすがってカシムはナイフを下に向けた。そのままナイフは左手と共に地面に落ちた。

「……」

ニキータが自分の左側を通り抜けたことを、カシムは風の流れで感じた。
振り向こうとしたが、無理だった。わき腹が断ち切られていることを皮膚がずれていくような感覚から悟ることが出来た。今度こそ完全に闇へ閉ざされていく視界の中に左腕をかざすと、断面はやはり骨と皮膚の区別もなく真平らで、しかも斜め輪切りだった。



[27163] ニキータ編:街
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:cca591d8
Date: 2011/05/25 16:55
ラリーは上機嫌だった。
夜中まで父の相手をし、夜明けと共に起きて畑仕事の続きをこなした。今は勤めている服飾店で、婦人用の帽子に装飾をつける作業をしている。わずかな睡眠時間もニキータを心配するために眠りが浅かったので体調はよくないが、店主のカルロフからニキータの無事を聞かされてからは、鼻歌に興じるほど気力が回復している。迅速丁寧と誉められる裁縫の手つきも軽やかだ。
ただし効率はさほどよくない。事あるごとにラリーは外へ視線をやり、その度に手が止まっている。通り側の壁は1階の売り場からラリーの居る2階の作業部屋まで一面のショーウィンドウで、向かいにもこの服飾店と同じような貸し店舗が並んでいる。その無個性な外観から脱しようと、店主たちは独自の装飾や建物同士をつなぐ横断幕にこだわり、客を呼び込もうとしている。
視界をさえぎるそれらが、ラリーにとってこの時だけは不満だった。

ニキータは無事だが、まだ帰ってきていない。それというのも昨晩外周で妙な事件が起きたらしく、その事件の調査に回っているのだ。その事件が起きたとき、街は一時騒然となった。テロリストが自爆したらしい。ラリーも夕食中、その爆発音を遠くに聞いた。以降は食事が喉を通らなかった。
だがカルロフが言うには、爆発が起きたのは周囲に人気のないビルの屋上で、自爆した男の仲間は住んでいる部屋で惨殺されていた。自警団は事の経緯を調べたが、事情不明の仲間割れと結論づけた。それ以外の要素を見出せなかったのである。
爆発の後には肉片と、ナイフが残っているだけだった。

しかし。ラリーはそんな血生臭い話はすぐに忘れた。今、彼女はただニキータが迎えに来るのを待っている。
人通りの多い早朝の商店街から、ニキータを見つけることに集中している。

「!」

出店で果実を手に取っていた中年の女性が、振り返って何か言った。
その唇が「ニキータ」と動いたのをラリーの慧眼は見逃さなかった。彼女は窓に貼り付いて外を伺った。

ニキータ。ニキータ。ニキータ。言葉が無音のまま通り中にはじけるのをラリーは見た。騒々しく階段を駆け下りる彼女に、店主のカルロフが珍しいものを見る視線を送った。ラリーは出入り口の影に立てかけたスケートボードを引っつかむと

「いってきます!おじさん!」

と言って外へ駆け出していった。



外周のとある一軒家に、国家の時代から住んでいる老人がいる。
スカイブルーの外壁が自慢の家だったが、大戦以降、老人は家の周りを塀で囲ってしまった。
背の低い、夏でも変わらずジャンパーを着用している彼が、敷地の中にある井戸の前に立ってこう言った。

「何年ぶりになるかな。今回もエネルギーかね」

応える声は文字通り、地の底から響いてきた。

「ああ、だから迷宮の炉を借りるぜ。ちなみに5年ぶりだな。――それと、新しい領主に会いにきた」
「ほー。まぁ、そんなとこに居ないで上がってきなさい」

真っ白な無精髭を撫でながら老人が言うと、井戸から石を打つような音が何度か聞こえた後、淵に黒い腕が掛かった。
軽やかに地面に降り立ったのは、吉井雄一郎である。泥色の外套がふわりと膨らんで、ゆっくりと戻っていった。老人は苦笑いしながら彼を見た。

「情報が早いね。まだ交代して1ヶ月も経っていないのに」
「早いんじゃない。領主の脇が甘いのさ。――前の領主は病死だそうだな」
「それよ。前の領主は名前と顔を明かさないスタイルをうまく使ったが、今度の領主にそれは無理なようだ。哀れなことだ。たった1人からたった1人に、領主の権限は引き継がれなければならん。それに失敗すれば、結果的に多くの人が苦しむことになる。領主も含めてな」

老人はゆっくりと時間をかけて話した。
雄一郎の口調も相手のペースにあわせるように、普段よりもゆっくりとなる。

「で、あんたらはこれからどうするつもりだ」
「どうする、というと?」
「この街をだよ」
「決まっておる。同じように街を守っていく。ここでテロだけは起こさせん」

雄一郎はしばらく老人の横顔を見つめていたが、やがて井戸へ向けて引き返した。
振り向かないまま老人が言った。

「これで最後にしてくれ、雄一郎。もう私も歳だ」
「……」
「私だけじゃない。私の友人達も皆、歳だ。そしてほとんどが、役目を子供達に引き継いでおらん。
 ……地中を這いずり回って人の足を嗅ぐような事を、誰も自分の子供にさせたくはないからの」
「それなら、この街もあんたらの代までだろうな。この街を見るデリーの目は厳しいぜ」
「かもしれん」

老人は笑った。

「だが、そうではないかもしれん。どちらにしろ街が岐路に立っている事は間違いない。ジョナサン・ホワイトは領主達を宇宙に上げる決心をしたようだし。……そのための準備だろうが、街のエネルギー料金があがったもんで、内周は大騒ぎらしい」
「それを知ってても、この街を守るかい。連邦が宇宙に上がればこの街にエネルギーは来なくなる。若い奴らが街の空席を狙うこともなくなる。人も居なくなるだろうな」
「ああ、それでもだ。だから雄一郎、これまでの協力を少しでも恩に感じているならば、この街を助けてやってほしい。細かいことは、君の裁量で決めてかまわない」
「一つ聞いていいか」
「なにかな」

しばしの沈黙がおりる。

「俺が日本を見る目と、あんたがこの街を見る目は違うかもしれない。だからあんたとは街とか、国とか、そういう集合体に対する見方が違うかもしれない。率直に言って、あんたにとってこの街はなんだ。土地か、それとも住んでいる人たちか」
「決まっておる」
「……」
「この街で生まれた子供達だ。もし日本というものが生きていたら、そう答えるんじゃないかね」

雄一郎は否定も肯定もしなかった。それきり、肩越しの会話は終わった。



[27163] ニキータ編:学校1
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/06/22 16:25
この街は濾過器のようなものだ、とニキータは思う。
外から来た人間が外周、内周と抜けて中央区に辿り着くまでには、少なく見積もっても10年かかる。
加えてアザミの手紙という強力な告発者がいることから、中央区にまでテロの被害が及んだことはこの30年間で1度もない。
市民達は安心して、自らの奴隷達に会いにくることが出来るのだ。

だが街の難民達が搾取されるだけかというと、そうでもない。
エネルギーのことはもちろんだが、なにより学校がある。ノーマ・ホワイトが文化の保全と伝達のために作ったこの教育制度は、すべての難民達にとって安全の確保と立身出世につながるものだ。
テニスやサッカーといったスポーツ、将棋や囲碁といった知的活動、もちろん学問についても、優秀な人は教師になることが出来る。文字通り文化の伝達に努めることになるため自由はないが、たとえばこの街が滅びた場合、街の教師達はノーマに保護を求めることが出来る。
この時代、安全の値段はきわめて高い。自由を代価とすることを、多くの人がためらわない。
その上よく勤めれば市民にもなれる。
かつてのニキータにとっても、学校は立身出世のためにあった。

「……」

その学校で、ニキータは寝ていた。
朝まで自警団の調査に付き合っていたため、寝不足である。そうでなくても学校でやるべき事などない。四六時中図書室に篭り本を読むか、眠るだけの学校生活を送る彼の評判は極めて悪い。特に同年代の生徒は彼を無視するか、人によっては強い蔑視を向けている。それはラリーがニキータの自堕落を苦々しく思うのとは、かなり違う。

「おう、ニキータ」
「……あ?」

名前を呼ばれて反射的にソファから身を起こすと、顔から歴史小説がずり落ちた。
開けた視界の中に、剣の先生が立っている。

「そ、園山先生。いつ街にいらしたんですか?」
「昨日だ。またしばらく世話んなるぜ。ところでお前、腐れマラでラリーちゃんに病気うつしてねぇだろうな。俺ぁここを思い出すとき、それだけが気がかりなンだよ」
「……」

園山登はニキータの背中を叩きながら笑った。禿頭に恵比須顔というコミカルな風貌に似合わない下種な口を利くが、良い教師だとニキータは思っている。少なくとも、技や権威を餌にして生徒らを釣り上げたりしない。市民権を持っているにも関わらず教師を続けている変わり者で、ニキータが剣道を辞めると同時にこの街を去った。それでも年に1度はこうして街にやってくる。

「じゃ、やるかい。剣道場で待ってるぜ」
「……はい」

園山の小太りな体はすでに道着袴を纏っている。わずかに汗の臭いがするのは既に道場で一汗かいたからだろう。やる気満々だ。剣道に少しも未練はないつもりだが、技を授けてくれた園山を無下に扱うのはどうしても気が引けるので、彼に会うたびニキータは竹刀を交えていた。



バロック建築の仰々しい内装に囲まれながら、園山の後ろに付いて歩く。
子供の頃、初めてこの廊下を通ったときはその絢爛さに感動も覚えたが、同時に呆れてもいた。
ほんの数キロ離れた場所に外周の廃墟が広がっていることを知っていたからだ。
連邦の力が及ぶだけで、人の住む環境は別世界のように様変わりする。
今でも学校に来ればその理不尽さをバカらしく思う。

「お前、俺が戻ってくるまでに1回でも道場へ行ったか?」
「いいえ」
「そうか」

会話はそれだけで終わったが、小石を飲み込んだような圧迫感がニキータを苛み続けた。
園山が何を望んでここに来るのかはわかっている。その期待を裏切り続けるのは辛いが、自分はもう竹刀に飽いている。竹刀から何かを学び取る時期はもう終わっている、と思う。

「……」

体育棟に入ると内装が一変する。通路の両脇に聳える粘土のようにのっぺりとした壁に窓が付いていて、その向こうでは様々な室内競技に打ち込む生徒らが見える。五輪の競技数もだいぶ減ったとニキータは聞いているが、部屋に居る生徒の多寡で、おおよそどの競技が生き残っているか解る。
入り口の上端から飛び出ている標識に、やがて剣道場と書いてあるものが見えてきた。
園山が引き戸を開けて中に入っていくと、掛け声の合間をぬって生徒らの挨拶が響いた。
だがニキータが入るとそれらは一斉に止み、場を静寂が支配した。

「……」

ニキータもまた無言のまま、靴と靴下を脱いだ。神棚に礼をして板張りに上がろうとしたとき、生徒の1人が大声を上げた。

「ようドーピング野郎!そこ踏まねーでくれや!血液全部入れ替えて綺麗な体になってからこいよ!」

ニキータはゆっくりと顔を上げて声の主を見た。昔よく教えてやった年下の少年だった。ずいぶん背が伸びたな、と思った。靴下を二つ合わせて丸め、彼に向けて投擲のフォームを見せた。このフェイントは成功した。上体を大きく下げて避けようとする少年の姿を見送ってから、改めてニキータは靴下を投げた。後方を確認する少年の即頭部に、丸めた靴下が当たって落ちた。

「――――」

稽古相手を押しのけ、竹刀を掲げて迫ってくる少年の向こうから、園山の喝が飛んできた。
相変わらずでかい声だ、とニキータは思った。

「着替えて来い、ニキータ」
「はい」

固まっている少年に一瞥を送ってから、ニキータは控え室に向かった。



剣道は五輪競技ではないが、剣道場に通う生徒は相変わらず多いようだった。
それはきっと生きるために必要だからだ、とニキータは思う。

ある写真家がロボットに撮らせたという、有名な写真がある。それは学校に通える身分なら誰でも見ることが出来る。森を切り拓いて作ったであろう畑の上で、弓や刀剣を使って戦う難民達の姿を、数体のロボットが見守っている。今の人類を象徴するような写真だ。
たとえば明日、街は滅びるかもしれない。その時街の人々に要求されるのは、石器時代を生き抜く力なのだ。誰もがその事を不平と不満をかみ締めた上で理解している。

誰かが悪いわけではない。悪いとするなら誰もが悪い。使うのが弓と棍棒か、あるいはロボットかの違いはあっても戦争は戦争だ。そしてロボットは治安を守らないので、植民地では略奪が絶えない。
人類の8割に石器時代のような生活を強いる力を持ちながら、その力を自分達に分配しない連邦を悪し様に言う難民達は居るが、連邦が創立した経緯を考えれば2割に分配できているだけでも賞賛に値する、とニキータは思う。世界大戦で解体された国家らは消えてなくなったわけではない。分割につぐ分割で、一時は十数万の勢力が地上にあふれたのだ。仮にエネルギーさえ掌握できるなら、たった一人でも人類を支配することは可能である。ロボットの出現で、社会はそのように性質を変えた。
たった1つしかない椅子を人類すべてで奪い合う椅子取りゲーム。それを悪いとするならば、やはり誰もが悪いのだ。

だが連邦は5億近い椅子を用意している。これを成し遂げた連邦を賞賛した上で、椅子取りゲームに参加する意思をニキータは固めている。
そしてそれは剣道での成功をもって成し遂げられるはずだった。

「……」

袴の紐を締め、剣道場に戻り、手になじむ竹刀を適当に見繕う。
生徒達は板の間に正座して、試合を観戦する態になっている。白い壁と、白い道着。それに囲まれて対峙するニキータと園山だけが、黒い道着を着ている。懐かしいにおいがする、とニキータは思った。足裏を板張りにこすり付け、そういえば魚の目が消えてからどれくらい経つだろう、と剣道と言う習慣が抜け落ちた日々を思い返した。

「防具は?」
「いりません」
「そうかい、その白い肌に痣は目立つだろうなぁ」

ニキータのグレーの瞳をにらみ付けながら、園山は笑った。
試合が始まった。



[27163] ニキータ編:学校2
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/06/22 16:33
園山は無造作に距離を詰めた。かに見えたが、篭手打ちが放たれたのは竹刀が届くぎりぎりの距離だった。そのフェイントにニキータは目もくれず、ただ竹刀を掲げて、間髪入れずに伸びてきた本命の面打ちを防いだ。
短い鍔迫り合いの後、ニキータはすれ違いざまに園山の喉を突いた。やさしく、ただ触れるだけの突きだが、防具をつけていない園山の硬直を引き出すには十分だった。その硬直は園山から、ニキータの引き篭手を防ぐ猶予を奪った。

園山は一瞬だけ竹刀を方手持ちにし、両手を広げることで篭手打ちをかわした。
もらった!と園山は思った。
がら空きの金髪を打ち据えるべく竹刀を振りかぶると、禿頭の上で両手が空を掴んだ。
園山の竹刀はニキータの手にあった。
方手持ちになった瞬間を逃さず、ニキータは竹刀を巻き取っていた。

「……」
「……」

道場は静まり返っている。
無言で差し出される竹刀を、園山は凄絶な笑みを浮かべながら受け取った。

2人が再び向き合う。直後、ニキータは猛然と鍔迫り合いを挑んでいった。
巨漢の園山に対し、ニキータの背丈はごく普通だ。生徒らの目にこの攻めは無謀と映った。
だが園山は落ち着いて相手の変化を見ていた。何度も押す素振りを見せてもニキータは乗ってこない。
ひょっとして本当に無策のまま突っ込んできているのか?そう思った園山が意を決して柄を押し込んだまさにその時、ニキータの姿が眼前から消えた。
予想していたことではあるが、無防備に傾いた園山の背は総毛立った。即座に右を向き、勘だけに頼って胴を守った。するとその勘は的中した。
無理な回り込みをしたせいもあるだろう、胴打ちを防がれて大きくバランスを崩すニキータに、置くような面打ちを据えた。直後に園山が見たのは自分の技が決まる瞬間ではなく、雷火が迸るようなニキータの竹刀捌きだった。

「……」
「……」

手首と胴の痺れから、ニキータの攻撃が2連撃だったことを園山は知った。
床に転がった自分の竹刀を拾うと

「ちょい待て」

と言って壁際に座り、防具をつけ始める。その様子をニキータは竹刀を提げ、ただ見つめている。
道場は僅かにざわめき始めていた。

「おし、行くぞ」

防具をつけた園山と、道着だけのニキータが再び竹刀を合わせた。
ニキータは園山を寄せ付けなかった。竹刀を受け止めたり、避けたりする動作が単に防御のためだけでなく、攻撃の初動としての意味も持っている。また逆に攻撃から防御に移る動作にも無駄がなかった。攻防一体の、しかも素早い動きに対応するため、園山が支払うスタミナは嵩む一方だった。徐々に呼吸は乱れ、無様に床をすべる場面も増えた。
ニキータは感謝と微量の寂しさを込め、面、胴、篭手といった競技において得点につながる場所だけを狙っていく。園山は今がどういう時代か知っている。だから生徒らに競技剣道だけを教えているわけではない。しかし自分にとって、剣道とはやはり競技にすぎないのだ、という認識を竹刀に込めた。

「本当に、道場に、通ってねぇんだろうな」
「はい。甲斐がないですから」

荒い呼吸の合間をぬって言う園山に、ニキータは少し冷然と答えた。
園山に迫る技量の持ち主は道場にいない。ならここに通う意味などない。
立ち上がった園山の構えを見て、おや、とニキータは思った。切っ先を正眼から僅かに右へ傾けた構えは、彼が見せたことのないものだった。

ニキータは拘らずに距離を詰める。一瞬、園山の切っ先の動きに目を取られた。切っ先自体が動いているのか、足運びによる錯覚か解らなかった。熟練した幻惑の動きだった。ニキータは全神経を針にして園山を観察した。
ニキータの最大の武器は洞察力である。
それが素早く技巧的な竹刀捌きを支えていることを園山は良く知っていた。
不意に、ニキータの視界から園山の竹刀が消えた。

「な」

園山から伝わってくる情報が、限りなく無に近づいた。彼はニキータに背を向けていた。
竹刀の握りが見えない。つま先の向きすら判らない。
そういえば袴に彼の足が隠れたのはいつだったか?
迷いを寸断し、とっさにニキータは持てる内で最速の剣を振るっていた。
同時に自分の内臓が踊る音を聞いた。

「……」
「……」

園山が振るう二の太刀は、ニキータの肩へ優しく振り下ろされた。
その前に鳩尾を深々と抉られているニキータは、ゆっくりと床に倒れ臥すと、芋虫のように這い回りながら苦悶の声を上げた。
一拍遅れて、歓声が上がった。ニキータも出来れば同じように歓声を上げたかった。
意表を突かれるとか、フェイントに引っかかるという体験は何年ぶりのことだろう。背中に靴下が投げ返されたのを感じながら、ニキータは園山の見事な技を反芻していた。



着替えを終えて道場を出ると、園山が後を付いてきた。
園山は良くしゃべった。行きとは何もかもが真逆の構図である。

「あの女子は真面目な気持ちで聞いてんだろうよ」
「……動機は関係ありませんよ」

あの女子とは回り稽古の際、ニキータに話しかけた生徒のことである。
3年前、教育委員会が主催する選抜試合に出場したニキータは、ドーピングの反則を取られて以後の試合に出場できなくなった。ニキータが服用した薬物には微弱な覚醒作用と、量が過ぎると意識混濁を引き起こす副作用があった。決勝の試合中に副作用に見舞われ、水筒と血液から薬物が検出されて言い逃れの出来ない状況にありながら、それでも罪を認めないニキータは多くの嘲笑と侮蔑にさらされた。

だが中には女子のように別の真相があるのではないか、と考える者も居た。そもそもドーピングが発覚したのは、ニキータが水筒の中身に異常があると申し出たからである。これについてニキータに事の仔細を尋ねる者は少なからず居たが、ニキータが潔白を主張したのは事件後ごく短い間だけで、あとは貝のように口を閉ざしていた。それから3年の月日が流れている。

「そもそも俺は、完全に潔白ってわけじゃありませんから」

ニキータは水筒に薬物を入れていない。ドーピングをしようと思ったこともない。
単に水筒に薬物が入っていることを知らなかったのである。
そして誰が薬物を入れたのかもわからない。なぜなら彼にはそれを防ぐという発想もなかった。
だがニキータは当時を振り返るたび、自分は水筒の中身に異常があると気づけたはずだ、と思う。
中身を飲むと疲れが消えていく気がした。始めは水分補給や試合による緊張感のおかげだと思った。
しかし飲み続けると意識が混濁して、そこで初めて毒物の存在を疑った。
それは、気づかなかったというには都合が良すぎはしないか?

「なら罪を認めろや。簡単じゃねぇか。一言謝っちまえばそれで済む。試合にも出られる」
「お断りします」

自分は潔白ではないだろう。だがドーピングをしたわけではない。
それがニキータにとっての真実だが、周囲や教育委員会はそれを認めない。
ニキータにはそれを認めさせる手立てがない。

「じゃ、ああして話を聞いてくれる子に説明しろ。
 社会じゃな、地道に味方を増やしていく事が重要なんだって」
「いえ、その気もありません」

もはやニキータは、周囲に真実を示そうという気を失っていた。それどころか潔白を主張したこと自体を恥じていた。水筒の中身に異常があることに気付かず、しかも薬物を入れたのが誰なのかすらわからない自分に、果たして潔白を主張する資格があるのか。
否、潔白かどうかなど関係あるまい。結局のところ、自分は必要のない人間だったのだ。”必要なら潔白じゃなくてもいいのだから”。ロボットが成熟した今の時代に、必要な人間なんてそうはいない。必要のない人間同士であなたは潔白ねとか、あなたは悪くないとか言い合ったところで、それが一体何になるのか。
そして何よりニキータは、剣名高かった自分の不正を嘆いたノーマ・ホワイトが直々にかけて来た言葉が気に入らなかった。彼女曰く、反則だけならまだしも、それを恥じて謝らないのは道徳に悖ると。

(道徳?)

道徳?道徳とは一体何事か?かつて世に蔓延していたそれが嘘であると証明してくれたのは、あなたがたではないか?自分が必要ならこのケツの穴だって舐めるのが、あのロボット世界大戦を勝ち抜いた連邦のやり方だろう?
道徳なんてガラクタだ。自分達と同じガラクタ。だが自分はいつまでもガラクタで居る気はない。道徳なんてもののために、頭を下げてやる気はこれっぽっちもない。
自分はただ、胸を張って生きたいだけだ。
恥じるとしたら、訳も解らず潔白を主張してしまったことだけ。
かつて道徳に縋ったまま、訳もわからずに殺されていった人々のように。

「お前はまだ若い。いずれ気が変わるときが必ず来る。それまで何度だって来るぜ、俺は」
「……」

園山が次に来るときには、自分はこの街にはいない。
それを思ってニキータは、少し寂しくなった。

「ありがとうございます」
「あ?何だって?」
「いえ、何でもありません」

申し訳ありません、どうか末永くお元気で。
そういう伝言を何とか残してみようとニキータは思った。



[27163] ニキータ編:ラリー
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/06/22 16:43
祭りの際、ラリーは市民の前で歌と踊りを披露することになっている。
踊りはチームで行うが、歌は選ばれたものだけのソロとなる。
歌の衣装は自作となるため、生活に追われているラリーは衣装作りが間に合うか不安だった。だが歌う者は電動ミシンを優先的に使っても良いことになったので、作業は快調に進んだ。あとは細かい刺繍を手縫いで施すだけとなっており、それは今日中にも終わりそうだった。

作業部屋の内装はごくシンプルで、直線的な造りである。これはボリスという教師の意向で、彼が取り仕切る芸能科はバロック様式の豪奢さと決別することになった。これはラリーにとっても好ましい変化で、以前の装飾が施された作業台は使いにくいと感じていた。

祭りまで一週間、作業部屋は混雑している。満席の作業台が空くのを待つ生徒が部屋の隅にちらほら見える中、歌手のミシン独占を疎んじる空気が出来ている。中でもラリーの立場は苦しかった。
歌を歌う者には2種類いる。歌が上手い者と、見目麗しい者だ。ラリーは歌が好きだったが練習する暇はなく、披露する3曲とも似たような曲調である。声だけでなく技巧にも優れた者達がラリーのような人種をどう見るかはともかくとして、ラリーが特別疎まれている理由はその容姿を生かそうとしないからだ。

容姿は女の武器である。だからこそ誰もがそれを磨こうとする。
問題なのは使えるチャンスが有限なこと、中でも市民の前にソロで立つ事が、街に住む女にとって最大級のチャンスな上に、選ばれたものに拒否権が無いことだ。
ラリーは街を出る気がないが、ソロ舞台を拒否もできない。だとすれば周囲にとって、彼女は居座り続ける目の上のタンコブである。それを察せないほどラリーは愚鈍ではないので、衣装の生地を選ぶ際に出来るだけ地味な色を選んだ。
だがグレーの生地に手を加えていくうち、彼女はこれがニキータの瞳の色であることに気づいてしまった。すると懸命とは言い難かった衣装作りに自然と熱がこもっていった。肩から首元、胸元にかけて水流と若葉を思わせる小さな刺繍が入っていて、これはニキータの瞳が環境によって青や緑に色を変える事を意識している。こうした思い入れは秘密だからいい。口に出してしまっては、ニキータが気づくかどうか試す楽しみがなくなる。既にラリーの頭には衣装作りの楽しさと、歌う事に対する期待しか残っていなかった。

「ラリー君」
「……」
「ラリー君?」
「! はい!」

夢中になっていたラリーは呼びかけに気づくのが遅れた。
呼びかけたのは2度ともボリスだった。温和な顔に苦笑いを浮かべ、準備室から手招きをしている。



「領主様が、ですか?」
「そう。祭りの際に君を見に来るそうだ。
 ホログラムを見て気に入ったらしくてね。ぜひ愛人にと考えているらしい」
「……」

ラリーは久しぶりに領主様、という言葉を発した。
それは彼我の縁遠さを象徴しているように思われた。
ラリーは自分達を支配する領主がどこで何をしている、といった話を聞いたことがない。

「もちろん、君の要求も呑むそうだ。家族が心配なんだったね。君を含めて、家族も市民待遇で迎えると言っていた。相当惚れ込んでるねぇ」

要求と言われてラリーは驚いた。
市民になる機会を遠慮する理由にしてはいたが、要求した覚えは無かったし、学校に通っていない父や祖母は思想が不明瞭という理由で本土に招けないと明言されていたはずだ。
事情が変わったのだろうか?

「あの……家族が心配なのはそうですけど、私、愛人になるかどうかは……」
「え?なんだい、嫌なのかい?好きな人でもいるとか?」

ラリーは考え込んだ。家族だけでなくニキータのことも気がかりなのは確かだった。まだ市民になりたいと考えているのだろうか?ずいぶん前に「俺が市民になれたら結婚してくれ」といわれたが、やはり家族を理由に断ってしまった。今も考えを変えずに居てくれるだろうか?それにしては”周囲から見ても”そういう年齢になったにも関わらず、彼は自分を抱こうとはしない。
そういうこともあるのだろうか?
ともかく重要なのは、彼も本土に連れて行けるか否かだろう。

「あの」
「なんだい?」
「家族には、夫も含まれますか?」

少し間をおいて、ボリスは大笑いした。

「君は面白いねー。まぁ、その、領主が君に飽きてからにしたら?この自治領も身元さえ確かなら、難民と婚姻関係を結んで市民にすることは出来るからね。知ってるだろうけど。君はたしかにとびきりの美人だけど”あっちのほう”を頑張らなければ、まぁ1年の辛抱ってところじゃない?頑張らないにも限度はあるし、出世にはつながらないだろうけど」

ひどい時代だよねー、と言ってボリスは笑った。
ラリーは考えさせてくださいと答えて準備室を辞そうとした。

「あ、解ってると思うけど」
「はい?」
「この件は内緒ね。特に領主が来るって部分。保安上の問題とかあるからさ」
「はい」

内緒にするのはいいが、そもそも自分ごときが領主の動向を知ってよかったのか。
急な進展に不安を感じないでもなかったが、ともかく家族とニキータを両方本土に連れて行けるようなチャンスが今後また来るかどうかは解らない。
ラリーは覚悟を決めるため、彼らと話をする事にした。



「ねぇニキータ、今でも市民になりたい?」
「……」

帰り道、集合住宅街の人気が失せるタイミングを見計らって、ラリーはこう尋ねた。
ニキータが立ち止まって自分を見たので、ラリーもそれに倣った。彼の手には大きな鞄があって、中には自分の仕上げた衣装が入っている。

「なぜ今そんな事を聞く?」
「なんとなく、気になったから」

これ以上のことを言う気はなかった。ただニキータが市民になりたいといえば、それがラリーの中で領主の元へ行く大きな理由になるだけである。
剣道をやめてからのニキータは先のことについて語ろうとしない。ただ自分に「生活のために体を売るような真似をするな」と命じるだけである。だから彼は金をくれるが、金で解決できないこともあるから、すべてが彼の思い通りに運ぶわけではない。
もとより自分は彼の求婚を断っている。彼のためだけに生きることを、現実は許してくれない。

「なりたいさ」
「そう」
「だがそれも祭りの後だな。今すぐじゃない。祭りのときにやることがある。
 なぁラリー、祭りの終わりに特別区でメシを食おう。普段食えないようなものをご馳走してやる」
「ほんとう?」
「ああ、ゆっくり話もしたいしな」

ラリーは心から微笑んだ。きっとその食事は大切な思い出になる。それを胸に刻める時が楽しみだった。2人は歩き出した。



家に帰ったのは午後8時過ぎだが、祖母が家にいなかった。
ソファに座って映画を見ている父に行方を尋ねたが、ぶっきらぼうに知らないと答えるだけだった。
もっと仲良くしてほしい、とラリーは思う。2人の軋轢は喧嘩というより、父から祖母への一方的ないじめなのだが、父は祖母と血がつながっていない事を理由にするのでラリーには打つ手がない。

とりあえず家計が苦しいから映画を借りるペースを落としてくれと言うと、父は生返事をよこした。
そのままラリーは祖母を探しに街へ出た。



祖母はいつも足を運んでいる、老人ばかりが集まるカフェに居た。
夜も近いのに客が大勢居る事に驚いた。理由を祖母に尋ねると

「値上げの事を話しているの。これから街がどうなるか、皆不安なのだわ」

と祖母が言った。
ラリーは祖母に憧れを抱いている。背筋の伸びた立ち居振る舞いに上品な言葉遣いが、花柄のエプロンドレスを安物から高級品に変えてしまう気さえする。ラリーも人並みに自分の容姿が気になるが、年齢と関係ない美しさの存在が、歳を取ることへの恐怖をやわらげてくれる気がする。

さて、家族が3人そろった食卓でも、ラリーはニキータの時と同じようにこう切り出した。

「ねぇ、市民になりたいと思う?」
「思うさ。当たり前だろう」

ボルシチに突っ込んだパンを口に運びながら、父が即答した。
陽光は弱いながらも窓から差し込んでくるが、食卓には煌々と照明が点いている

「おばあちゃんは?」

祖母はちぎったパンを口に運ぶ手を止め、しばし考えてから言った。

「あなたはどうかしら?」
「私?私は……なりたいかもしれない」

そうすれば父への小言も必要なくなるし、好きな音楽だって今より出来るようになるかも。祖母にだっていい暮らしをさせてあげられる。ただニキータと離ればなれになってしまうのが辛かった。領主がなるべく早く自分に飽きてくれればいいと思った。

「そう。それじゃあ、私もなりたいわ」
「……」
「あなたの思うようになさい、ラリー」

そういって祖母は上品な手つきで、パンの切れ端を口に運んだ。



日が完全に暮れた後も、ラリーは起きていた。父が自分をアンナと呼んだからである。
じっとしていると寝てしまいそうなので、自室で音を立てないように踊りの練習をしている。姿見に映る自分の姿は濃い闇のためにおぼろげだ。せめて月明かりがほしかったが、それは雨戸にさえぎられている。父はこの部屋で起こる出来事を完全に秘匿しておきたいようだ。もっともそれは当たり前で、露になれば街における彼の立場にもよくない変化があるだろう。父の面目を保つため、雨戸を閉める事には同意する。

「……!」

廊下の床がきしむ音がかすかに聞こえた。
ラリーはベッドに腰掛けて待った。やがてドアノブが回ると、墨色の影が部屋に滑り込んできた。
ドアが閉まると同時に照明が点され、ラリーはまぶしさに目を細めた。
電気を点ける事には反対しているが、父はそれを聞き入れない。

「とりあえず、服を脱ぎなさい」
「はい」

ラリーが言われたとおりにしている間に、父はラリーが持ち帰った大きな鞄に手をかけた。
中から衣装が引っ張り出されるさまを、ラリーは平静を装って見守った。
衣装に施した、青と緑の刺繍が見えた時、ニキータと目が合ったような気がした。

「いいドレスだなぁ」
「……」
「さぁ、今日はこれを着ようか」

にこやかに父は言った。ラリーは衣装を受け取って、それをベッドの下に放り込んだ。
そして父に向き直って「嫌」と言った。衣装を傷つけずに取り戻す彼女の作戦は成功した。

「……」
「……」

間の抜けた沈黙の中、父はあからさまに不機嫌な顔をした。
それが祖母へのいじめをエスカレートさせるぞ、という意思表示である事をラリーは知っている。だが今回は折れようという気がまったく起きなかった。
衣装を傷つけないのは連邦領主に気に入られるため、つまり父のためでもあるとか、彼の暴力から祖母を守る生活も残り僅かだという理屈の介添えもあるが、もっと決定的な感情が決意を支えていることにラリーは気づいた。
それはニキータへの感情だった。気づいたとたん、そんな感情を抱く事を恥ずかしく思った。
あまりにも今更過ぎるような気がした。

「……」
「……」

結局、父は欲望に負けて妥協した。彼の太った腕がラリーの肩を掴んだ。
その後の事はいつもどおりだった。



衣装についた床の汚れは最小限で済み、普段から掃除をしておいてよかったとラリーは思った。
体を拭いて寝巻きに着替えなおし、ベッドに入ろうとして思い留まる。音楽を聴くことにした。普段はしない贅沢だが、今日の彼女は特別疲れている。

棒状のプレイヤーを襟に挟み、イヤホンを付ける。エネルギーは小さな電池から取らねばならない。街が支給するエネルギーは使い道が管理されていて、炊事や照明などに使う分は金さえ払えば融通が利くが、自由に使えるエネルギーは極めて少ない。これは反乱を防ぐための処置だとラリーは聞いている。
この家の自由枠はほとんどがスクリーンに使われるので、ニキータが贈ってくれたプレイヤーと電池をラリーは大事に使ってきたが、そろそろ限界が近かった。あと1曲再生できるかどうか。

「……」

ラリーはニキータの歌を選んだ。人前でめったに歌わない彼が、何かの罰ゲームだと言って商店街の大通りで歌わされた事がある。ジュリアンやホリンにギターで伴奏されながら、彼がヤケになって披露したお世辞にも上手いとは言えない歌声を、ラリーはプレイヤーに保存していた。
野次や喧騒も入っているし、ニキータの声も遠かったが、今ラリーが聞きたいのはこれだった。

「……」

眠りに落ちる直前、ラリーはプレイヤーが機能を停止する音を聞いた。
その晩彼女はいい夢を見た。



[27163] ニキータ編:前夜1
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/06/22 16:51
祭りの前日、ニキータは父・セルゲイからの呼び出しを受けた。翼下のホリンとジュリアンも同行するように、とのことだったので、この命令は3人を大いに緊張させた。

「まさか、バレた?」
「さぁな。……特別区に入ったら余計な事を言うなよ。誰が聞いてるかわからない」

内周と特別区の間には検問区間がある。黒い水晶のようなパネルが幅5~6メートルほど敷かれていて、上を歩く者の全身をスキャンする。
このパネルが特別区をぐるりと取り囲んでいて、資格のあるものだけが上を通れる仕組みだ。ジュリアンとホリンは無資格だが、有資格者であるニキータが発行したカードを持ち、さらに彼の同行があれば通行できる。

「……」

セキュリティらしいものはこれだけだ。
これだけで、街は特別区をテロの脅威が及ばない聖域として保ってきた。
保ってきたのはセキュリティではなくて街の「アザミ」達なのだろう。
そのアザミたちからすれば、自分達の計画を見通すことなどたやすいのかもしれない。

ニキータはずっと彼らの沈黙に言い知れない不気味さを感じていた。そもそもホリンの父が迷宮の鍵を持っていたことをアザミ達が知らないはずは無いので、当然父の死後にはその息子を訪ねて来るだろうと考えていた。
だが、彼らは来なかった。
待てども待てども、アザミの陰すらホリンの周囲には見えてこない。
その沈黙を、都合よく解釈しすぎたかもしれなかった。
監視ぐらいはつけているだろう。だが迷宮の鍵がホリンの手にある以上、能動的に状況を動かせるのはこちらだ。鍵を持って報道に接触できれば、その時点で迷宮の告発は成立する。その意図さえ察されずに祭りまでこぎつければ、こちらの勝ちだ。
甘いと言えば甘すぎるくらい甘い。もしすべてがバレていたとしたら、気になるのはジュリアンとホリンの処遇だ。父は2人をどうするつもりだろうか?

「……」

ニキータが薄く笑ったことに、後ろからついてくる2人は気づいていない。
殺さば殺す。2人に何かあれば、その分だけセルゲイにも累が及ぶ事になるだろう。
父は母・メラーニエを溺愛している。そしてニキータは母に手をかける事に抵抗を持っていなかった。

眼前に広がる後期バロック様式の街並みへ向け、ニキータ達は歩いていく。
目指す庁舎は街のど真ん中にある。



セルゲイがニキータ達を呼びつけたのは、迷宮の告発を防ぐためではなかった。
祭りの期間中、中央区を警備せよとの事である。報道に接触する機会こそ限られるが、計画が頓挫したとまでは言わなくてすむ。ニキータは胸をなでおろしたが、次の言葉を聞くと安堵は驚きに変わった。

「明日、街に領主が来る」
「……そんな話を俺達にしていいのか?」

領主の動向が筒抜けになるような自治領に先はない。
かつてセルゲイ自身が、ニキータにそう教えている。

「教えなければ、明日の警備の趣旨を理解できない。だが当然、外に洩れても困る。念のため、3人ともここに泊まってもらうぞ」
「命令なんだよな」
「そうだ」
「解った」

街の首領とその息子の会話を、ジュリアンとホリンは彫像のように押し黙ったまま聞いている。
首領一家が描かれた大きな肖像画が壁に掛かり、その下でスーツを着たセルゲイがデスクに着いている。陽光が広い書斎の絨毯と彼の横顔を照らしている。踝に触れる絨毯の毛が温かく、ニキータは今更ながら今日は日差しが強いな、と思った。
窓から望む街の景観は、母の趣味である。それがセルゲイの自室(特に肖像画だ。せめて自分を描くなと言いたい)、果ては彼の身だしなみにまで及んでいる事に、ニキータは羞恥にも似た悲しみを感じずには居られない。普段は無造作に伸ばされている髪と髭が几帳面に切りそろえられているのを見ると、母が街に帰ってくる時が間近に迫っているのだと解る。難民の身分にありながら世界でも有数の街を築き、時には領主とさえ交渉してみせる男が、女1人の趣味に着るものまで支配されているのがニキータにはもの悲しく思えた。

「で、警備の趣旨っていうのは?」
「もちろん領主の守護だが、役割はロボットのバックアップだ。お前達が着る走具はアナログ式になる。ま、現代でデジタル式の走具なんぞ、そもそも出番があるのかは知らないが」

ははは、とホリンが快活に笑った。今のを笑う所だと考えたらしい。学校に通っていた頃は工学の専攻を許されるほど成績がよかったので、現代のロボット戦についても知識が深い彼の笑いからは、それを誇示しようとする色が伺える。
デジタル制御のほうがマッピングなど付加機能も充実していて、人工筋肉の力を引き出すのに慣れも要らない。だが現代戦の主役はあくまでロボットだ。走具を纏った人間が彼らの代わりをする状況など、よほど特殊な例を除けば一つしかない。
ロボットが人間に劣る唯一の点といえば。

「……対電子能力。電子戦になる恐れがあるのか?地の利はこっちにあるのに?」

デジタル式の走具はジャミングの影響を少なからず受ける。だから今では競技用や娯楽用、あるいはロボットの居ないデリー公国での治安維持に使われるのみだ。今回自分達が着るアナログ式も、運用される機会はロボットを害するほど強力なジャミングが想定される場合くらいだが、これを行うには大掛かりな設備が必要だ。外敵がいたとして、そんな設備を持ち込むのは骨ではないか?

「不確定な情報だが、祭りの期間中に吉井雄一郎が現れるかもしれない」

一瞬の静寂の後、今度はジュリアンが「はぁ!?」という素っ頓狂な声を出した。
直後に彼はそれを恥じるように咳払いをした。
なるほど、そう来たか、とニキータは思った。
全てのロボットを退ける戦士、などと御伽噺のような逸話ばかり聞かされているので、どうも実在する人間だという意識が薄かったようだ。
ニキータは強い緊張をあえて隠さず、セルゲイに上申する口調で言った。

「一つだけ聞き入れてほしいことがある」
「なんだ」
「ラリーが祭りの時、この官庁前の広場で歌うことになってる。それをやめさせたい」
「だめだ」
「事情は伝えない、問答無用でやめさせる。やめさせるのもあいつだけでいい。なぁ、頼むよ。戦場になるかも知れない場所に、あいつを立たせるなんて……」
「だめだ。スケジュール通り事は運ぶ」
「く……吉井の狙いは領主なんだろ?領主にこの事を伝えればいいんじゃないのか。そうすれば、吉井もここへ来る必要が無くなる。」
「吉井の狙いもわからないんだ、ニキータ。それに吉井が来るからといって街の予定を変えるような真似をすれば、この街の信用に関わる。それに来たら来たで、彼を捕えればホワイト家と交渉する強力な材料になる。ついこの間、アレクシス・ホワイトがこう宣誓した事を知っているだろう。吉井雄一郎を生かしたまま捕えたものには、可能な限りの褒賞を約束すると。……自治領を興せるかもしれないぞ?」
「……」

この提案にもまったく心が動かなかった。ラリーが直面するリスクを思うと、動かなかった。
それが仲間への背信のようにも思えて、ニキータは少し落ち着かない気持ちになった。市民権を得る事を最終目標にしている後ろの2人は、思わぬ幸運が舞い込んだと思っているに違いないのだ。
ホリンが少しよろしいでしょうか、と言った。

「吉井雄一郎はロボットに対して無敵に近いが、人同士の戦いならそうではない。だから彼に対する備えとして我々が現場に行くのですね?」
「そういうことだ」
「しかし、いくら無敵でないとはいえ、相手はその、いわば、歴戦の兵士でしょう?我々だけでは、あの……」
「不安かい?まぁ当然だな。応援を用意してある。全部で15人。彼らのバックアップがお前達の役割だ。バックアップのバックアップ、という事だな」
「その15人ていうのは何者だ?今どこにいる?会ってみたい」

ニキータの要求にセルゲイは首を振った。

「それは出来ない」
「……」

今度の沈黙は重苦しく、長く場に横たわった。

「アザミか」
「……」

セルゲイは否定も肯定もしなかった。ニキータも追求しなかった。そういうことなら面通しなど出来るはずもない。彼らが最大の武器である「謎」を手放すわけにはいかないはずだった。

「走具の試運転をやってもいいか」
「地下の多目的ホールを使え。今回、ブリーフィングは行わない。現場で指示があれば拡声器を逐一使う。明日の朝までには1階の会議室に来い」
「……」

ニキータ達はセルゲイの書斎を辞した。



「ワイヤーに気をつけろって事だよな」
「……ワイヤーに気をつけるのは吉井のほうだよ」

夕暮れの街並みを望む窓際で、ホリンの得意げな講釈をジュリアンが真面目な態度で聞いている。
珍しい光景だがニキータはそれをからかう気にもなれず、祭りの期間中、自分のベッドもかねるソファに腰掛けて物思いに耽っていた。似たようなソファ2つの背もたれにも、それぞれ同じように毛布が引っ掛けられている。寝床として宛がわれた休憩室は3人で寝るには広すぎるくらいだった。

「ほら、広場にゴリラみたいなフォルムのロボットが並んでるだろ。あれが母機さ。多くて200位の子機を積んでる。最近は昆虫みたいなフォルムが子機の流行りらしいけど、ともかく母子連携して対人鎮圧を行うよう作られてるはずだ。街中に電子制御のワイヤーをクモの巣みたいに張り巡らせるのに、あれだけいれば1分かからないと思う。……鳥の群れだって逃げられやしない」
「ほー。でもよぉ、そういうのひっくるめて吉井雄一郎には通用しないんだろ?」
「そうだね、まずは彼の走具のエネルギーを奪わないと。RA(rejectarmor)……ま、バリアみたいなものだけど、これさえ引き剥がせばアンチロボットフィールドどころじゃなくなるはずだ。ビーム攻撃をRAで防げなければ、ロボットの射程内に入った時点で終わりだからね。ほら、地下でチェインボムを試しに使ってみたろ?」
「あー、あの手榴弾みてぇなの」
「そう。あれは化学反応を利用して走具に絡みつくから、雄一郎でも防げない。ま、電子制御をうけてないってことは、僕らも近くにいると危ないんだけど。あれはRAを過剰反応させて走具のエネルギーを奪うためのものなんだ。生け捕りにするって事だから、似たような武装を例の15人も使うんだろう。いや、アザミ、だっけか?」
「……ああ」

ニキータの視界の隅で、窓際に立つホリンの顔がこちらを向いた。

「ま、吉井の事はアザミに任せてさ。僕らはラリーを守ればいいんだ。お父さんだってきっとそうさせるつもりで僕らを集めたんだよ。首領の立場からすればひいきは出来ないんだろうし、表向きはバックアップなんていうけどさ。いや、呼び出されたときはどうなるかと思ったけどね。ぼかぁてっきり――」

そこまで言ったホリンの笑顔が不自然にゆがんだ。彼の頭をジュリアンが無言でつかんでいる。
特別区に入ればどこに耳があるかわからない、とニキータは言った。
だから「てっきりバレたのかと」などと言わせるわけにはいかないのである。

「いや、ラリーの事はもう腹をくくるほかないから、最善を尽くすだけさ。ただな……」
「何?」
「……」

ニキータが何も言わないので、ホリンはまたロボットの解説に戻った。
その表情は活き活きしている。

ニキータの懸念は母に向けられている。メラーニエはセルゲイの妻として連邦に傅くこの街に君臨していながら、完全な反連邦主義者でもある。表向きはそうした面を見せないが、ニキータの前では連邦など滅ぶべきとはっきり言う。しかし街が彼女の意思通りに動いたことはなく、実権はセルゲイが握り続けてきた。そのセルゲイの、メラーニエに対する溺愛振りがニキータを常に不安にさせている。いずれはメラーニエの言うがまま、連邦に牙を向こうとするのではないか。その懸念はこうして街が政治的な岐路を迎えるたびに強くニキータを緊張させている。

(ちっ)

父の動向を警戒する分にはいい。彼は自分の敵たりえる傑物である。
だが母についてあれこれ考えなければならないのが、ニキータは不快だった。
あの虎の威を借る狐が、自分の(ニキータからすればセルゲイの、だが)テリトリーに領主が来るという状況を前にして、何かを企んだとしてもおかしくは――

――ゴンゴン

ノックの音が思考を寸断した。返事をする間もなくドアが開く。

「ハイ、ニキータ。久しぶりね」
「……」

入ってきたのはメラーニエだった。



[27163] ニキータ編;前夜2
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/06/22 16:54
「街の警備を命じられたそうね」
「ああ」
「辞退なさい」
「……」
「まったく、セルゲイも何を考えているのかしら。あなたが戦場に出て何になるというの?」

ニキータの隣に腰掛け、男物のパンツに通した足を横柄に組みながら、通達する口調でメラーニエは言った。また痩せたな、とニキータは頬骨の浮き出た母の横顔を見ながら思った。別に幼いころの母が太っていたというわけではなく、ダンサーとしてごく普通の体型、つまり世間から見てもスレンダーと言えた体からさらに肉をそぎ落としているのである。息子の自分よりも髪を短く切り詰め、見た目だけでなく表層的な性格まで男のように装う事が、彼女なりの老いへの抵抗である事をニキータは知っている。

「そういうわけにも行かないさ。何せこれは命令だから、なぁ?」

メラーニエが入室してからずっとジュリアンたちを無視している事が不服なニキータは、あえて彼らに水を向けた。だが2人が発言する暇はなかった。

「命令?……情けない。あなたはもう大人なのだから、自分の事くらい自分で決めなさい」
「……」

メラーニエとはこういう人物だ、とニキータは改めて思った。
辞退しろと言っておきながら、自分で決めろという。しかし自分の意見が聞き入れられないとしつこく理由を問い詰めたり、不機嫌になったりする。そして、権力者である。

「しかしですねヴァロフ先生、祭りではラリー……ええと、ニキータの大事な人が歌を披露する事になっています。我々は彼女を守るために戦場へ出るのです」

低姿勢で説明するホリンをメラーニエはしばらく見据えていたが、ゆっくりとニキータに視線を戻し、ああ、あの子。と言った。

「彼女にエイズをうつした?」
「……いいや」
「そう、まぁ当然のことね。あなたはヒーローになりたいんだものね。そんなあなたが無意味に人を不幸にしていいわけがないわ」
「……」

メラーニエの向こうで、ホリンとジュリアンが顔を見合わせたのが見えた。ニキータは冷たい怒りが胸に満ちていくのを感じている。
ニキータはエイズに感染している。それは母子感染という形で彼にもたらされた事になっており、セルゲイもメラーニエも彼と同じく症状を抑える薬を飲んでいる。
街にはエイズを根治させる設備がなく、この事はニキータが市民権にこだわる理由の一つとなっていたが、これまでニキータはそういう話を誰にもしてこなかった。
その秘密を友人達がいる前で平然と晒す母に怒りを覚えた。だがその怒りは風化した灰の中にくすぶる残り火のようなものだった。ニキータはエイズが宿主にもたらす運命について、分別がつく年頃になった時にメラーニエから直接聞かされたことがある。ニキータの恨み言に対し、メラーニエは優しく笑ってこう言った。

「大丈夫、私もエイズよ。あなたは1人じゃないわ、ニキータ」

これを契機に母親を見る目が変わったことをニキータは覚えている。
自分の息子を体の一部のように扱う母に、ニキータは怒りよりも不気味さを覚えて育ってきた。

「仕方ないわ。ただし、当日は私の言う事をよく聞いて動くのよ。危険は冒さない事」
「……」

そう言ってメラーニエは席を立った。沈黙を都合よく捉えたらしかった。
ドアを開けて彼女が部屋から出て行く。その際

「終わったわ。さぁ、いらっしゃい」

と言って部屋の外に居る誰かを呼び寄せた。呼ばれた人物のシルエットが、ドアの隙間から見えた。その人物を隣に立たせたままこちらを振り返り、軽く手を振ってメラーニエはドアを閉じた。

(妊婦?)

黒いヴェールで顔を隠す様が喪に服しているようにも見えた。メラーニエは明らかにこの人物を自分に見せようとしていた。しかし追いかけて確認する気にもなれなかった。思わせぶりな態度を取る母から、実のある話を聞き出せたためしがない。結局いつも彼女から話し出すのを待つしかないのだ。
彼女にとっての、最高のタイミングで。

「……」

ニキータの不安は結局募るばかりだった。



[27163] ニキータ編:聖域の崩壊
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/06/22 17:14
「どうだ、雄一郎」
「狭い」
「そうか。ま、辛抱だの」

スカイブルーの外壁が美しい家から、荷車を引くロバと老人が出てくる。
荷台には大きな鍋と色のいい夏野菜が乗っている。彼らは中央区へ向かって歩いていった。



官庁前の広場は野球場ほどの広さがあり、その中心に円形ステージが設けられている。
ステージを貫くように真一文字のレッドカーペットが伸びていて、それは舞台に上がる者達の控え室となる建物につながっていた。

時刻は午後9時で、空を覆う薄闇を街の灯が焦がし、人も建物もまるで昼間のように明るく色彩鮮やかに照らされている。広場では設けられた座席に座る市民達と、見物や物売りをする難民達がごく自然に同居していた。広場以外でもそれは同じで、一本路地に入れば飲食店から調理の音が、また別の路地に入ればそれらしい建物から女の嬌声が聞こえてくることもある。

緑色のバッジを目印にした市民と、彼らに傅く街の人々。
少なくともこの街では、彼らの間を信用が結んでいた。

「……」

ラリーは控え室の窓から、広場を見渡す。視界に入る人の数は数千にもなるが、そこにニキータがいれば見つける事が出来る。しかし彼女の表情は優れない。ニキータがいないからである。祭りが始まってからは彼に会えていない。

艶やかな栗毛を束ねるのは青を黒縁で囲んだリボンで、大きな蝶が髪から蜜を吸っているようにも見える。件のドレスを纏い、窓から物憂げに外を眺める彼女を前にボリスは陶然としていた。そろそろ時間だよ、と彼はつぶやいた。彼は領主を羨んでいた。

(きっと見てるわ。どこかで)

返事をしながら、ラリーはそう思った。



セルゲイは自らのオフィスから街を見下ろしていた。隣には妻が立ち、背後には中年の男が数人いてそれぞれ計器を弄っている。床と壁に合計4枚のスクリーンがあり、それぞれ街や走具の現状をモニターしている。モニターされている走具の数は18である。
準備が出来たそうだ、と男の1人が言った。

「いよいよね」
「ああ」
「上手くいくかしら」
「いくとも」

言葉とは裏腹に、メラーニエは期待だけを胸に抱いていた。
それに対してセルゲイは無表情で、感情をうかがい知る事は出来ない。

「連邦崩壊の第一歩ね」

誇らしげにメラーニエは言った。



「なぁボス」
「ん?」
「そのー」

ジュリアンの感情を読み取ることはそう難しくない。ブルージュエルの走具に遮られて顔が見えなくても、声色やジェスチャーが表情豊かなので、彼の迷いがニキータには透けて見えた。

「ヒーローって何のこと?」
「ああ」

エイズの事を聞きたいのだろう、とすぐにわかった。生まれる前から街の特権階級にあった自分が、一体どういう経路でエイズに感染するものかと不思議に思っているのだろう。
ニキータは窓の外を見た。時計台の展望所からは遠く離れた広場を望む事ができ、歌手の歌声も小さく聞こえてくる。幼いころ、ここから広場とは逆方向にある図書館で、ある漫画に熱中していた事をニキータは語りだした。

「憧れてたんだよ」
「漫画のヒーローに?今も?」
「まさか」

ニキータは笑いながら、そのストーリーをかいつまんで説明し始めた。

超人的な能力を持つヒーローが、助けを求めてくる市民を守り、悪党を退治する。大人になってみると、このありふれたストーリー以上の深みがあの漫画にはあったと思う。
ニキータが一番嫌いだったのは悪党ではなく、助けを求める市民だった。市民の振る舞いは子供心にも身勝手に映った。
気の弱い子供を入院させるほど苛め抜いていたガキ大将、夫を捨てて若い男に乗り換え、まんまと慰謝料までせしめた女、自らは手を汚さず手下に政敵を殺させ、それを命じる言葉まで湾曲的であったために「殺せと命じていない」と本心から言える政治家……。
悪党は彼ら市民に敵対する個人で、家族に、友人に、法に背き、目的に対して全身全霊を傾けるが、ヒーローは必ずその一歩上を行く。

「じゃ、俺達はどっちだと思う?」
「ふん。ヒーローかな?」
「ははは」

悪党に決まっているが、ヒーローなんていない、とニキータは思った。談笑する2人をホリンがちらちらと見遣りながら、落ち着かない様子で望遠鏡を覗いている。吉井雄一郎が見えるところから来るかよ、とジュリアンがからかうように言った。

「……」

黙るニキータに続きを語る気はないと見たか、ジュリアンはそれ以上聞かなかった。
ニキータ自身、感染の経路についてはっきりとした確信があるわけではない。その記憶は夢とも現とも知れないほどおぼろげで、母への嫌悪が見せた後付の幻であるようにも思える。
幼いころに住んでいた家、さらに幼いころに寝ていた小さなベッド。好きだった若く美しい母の言うなりに、自分はそこで寝ている。見上げる先には、今ならそれが何かわかる。輸血用のパックがある。母がそれを「私の血よ」と言って笑う。

「……」

この件についてメラーニエに訊ねても、例によって烈火のごとく怒りながら否定するばかりだ。
だが母子感染の可能性などニキータは一顧だにしていない。というより、事の真相はもうどうでもよかった。ニキータは、メラーニエを認めない。認めるか、認めないか。重要なのはそれだけである。

かつてヒーローに憧れていたのは、彼が必ず勝利するからだった。
だが今なら、彼が強さ以外にも大きな特徴を持っていることがわかる。
彼は見捨てない。助けを求めるのがどんな人間でも、助けを求めている限り見捨てない。
メラーニエが未だにあのヒーローについて拘るのは、自分を見捨てるなという要求の現われであるようにも見える。そんな事は不可能だから、ニキータはもう、あのヒーローに憧れていない。

「ニキータ」

ホリンの呼びかけがニキータを物思いから引き戻した。目の前に望遠鏡が差し出される。

「ラリーの番だよ」

ニキータはメットの覆いを上げ、望遠鏡を覗き込んだ。
舞台の上を見て感嘆のため息が漏れそうになった。後数日もすれば、やっと彼女を自分のものにできると思うと胸が高鳴る。市民権を得たら、エイズを治す前に抱いちまってもいい、と思った。
ラリーが歌いだす。

「……」

旅の道中に居る女の気持ちを表した歌だ。
恋人を故郷に残しての長い旅路だが、あなたを思えば苦難も苦難でなくなる。
そのサビの部分に差し掛かる時、街の灯りが部分的に消えた。

「!? なんだぁ!?」
「ちょっと、ねぇ、これって!」
「通信を――B分隊から本部へ。何が起きた?……、……おい?」

ノイズの音だけが聞こえる。通じない。

(まさか)

来たのか、本当に。ニキータはまた望遠鏡を覗き込んだ。広場の灯りは落ちていないせいか観客の動揺もごく僅かで、ラリーも歌い続けている。彼女の傍へと、官庁の方から誰かが歩いてくる。妊婦が歩いてくる。浅黒い肌の色と背格好がメラーニエの横にいた妊婦と一致する。
メラーニエが連れていた妊婦。それは吉井雄一郎以上にニキータの危機感を煽った。

「――――」
「って、お、ちょ、まっ」

窓から飛び降りたニキータを止める暇がジュリアンにはなかった。ニキータの着地でモザイクの街路が罅割れ、近くで暗くなった街を見上げていた女が悲鳴を上げた。

「ボス、持ち場――あぁ!もう!しらねぇぞ!」

ジュリアンがその後を追う。ホリンはそれを呆然と見送った後、ニキータが投げ出した望遠鏡を拾おうとして思い留まり、しばらくおろおろしてから、仲間の後を追う事にした。敵前逃亡か命令違反か。言い訳が出来そうなほうを選んだのである。



荷車の上に乗った鍋から雄一郎が這い出て広場の片隅立ったとき、その事に気づいているのはセルゲイのオフィスに居る面々だけだった。彼らは鍋の中身を知っていた。
雄一郎が歩き出す。歌に聞き入る観衆の大部分はそれに気づかない。気づいたとしても、泥色の外套が持つ逸話と、観客席を割る通路をゆっくりと歩くその姿が結びつかない。
中にはロボットを呼ぶ者も居たが、雄一郎が軽く両手を広げると、付近の電子機器やロボットは即座に機能を停止した。
ようやく動揺の波が観客席に広がりはじめる。
だがそれは雄一郎の歩みに比べても遅すぎた。

そして波の発生源はもう一つあった。こちらは戸惑いに近い感情が、やはり通路を歩く妊婦を中心に広がっていく。原因は妊婦の着ているドレスにある。サンフラワーのマーメイドラインに左胸と右腰に端を発するワインレッドのクロスライン。連邦における禁忌の色配置である。なぜならそれはデリー公国の国旗と同じだから。

泥色の外套と、デリーの国旗にそれぞれ抱かれた2人が、ラリーの歌声が降り注ぐ中を歩いていく。
やがて雄一郎が立ち止まる。ステージ上に見入っていた黒髪の少年が、気配を感じてそちらを振り返った。
少年へと伸ばしかけた手を止め、雄一郎は凝然と妊婦を見た。
妊婦の出現が予想外だった事もあるが、なにより彼女の着るドレスに視線を釘付けにされている。
デリーにおいて国旗に抱かれる資格を持つのは”死んだ戦士だけ”である事を雄一郎は知っていた。
ステージを守るロボットの間をすり抜け、妊婦はラリーと同じ高さへ上がった。
妊婦を振り返ったラリーの上を、雄一郎は跳んでいた。彼の両腕からワイヤーが発射され、一つは建物の外壁に、もう1つは妊婦へと伸びた。それぞれ対象を捕らえたワイヤーは急速に巻き取られ、雄一郎と妊婦を宙吊りにして外壁へと引きつける。広場に設置されたスピーカーから

「思い知れ、連邦人」

というメラーニエの声が聞こえた。妊婦が爆発した。

――――――。

悲鳴の大合唱が、音楽を掻き消した。
爆心地が広場の中心から逸れたものの、火炎は広場の端から端まで飛び散った。それは地面に落ちてもなおしつこく燃えつづけ、可燃物に取り付こうものなら一気にその勢いを増した。巻き込まれた人がのた打ち回ると、周囲の人にも飛び火した。
雄一郎はワイヤーを一度切り離し、今度は地面に射出してそれを引き寄せた。黒髪の少年の近くに着地して彼を抱え、降り注ぐ火炎から守る。
そのとき、ニキータが広場に駆け込んできた。

「ラリー!」

渾身の絶叫も彼女には届かない。
疾走に揺れる視界の中で、天を仰ぐラリーに火炎が降り注ぐでいく。……。



[27163] ニキータ編:3度目の敗北
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/06/23 05:37
ワインレッドの走具を纏った男達が15人、広場に入った。デリーの戦士達である。
雄一郎の出現によりロボットが動けず、領主も手の届く場所にいる。彼らにとってこれ以上望めないほどの状況だ。手筈どおりロボットの破壊に9人、領主の捕獲に6人を配し、それぞれ行動を開始した。
この布陣にはあわよくば雄一郎をも捕らえようという意図がある。
領主を抱えて街並みを駆け抜ける彼に素早く殺到した。この人数が多すぎれば彼は領主を放棄して逃げに徹するだろうし、少なすぎても彼を倒せるか怪しい。

約1週間前にデリーへ舞い込んだ、雄一郎と領主を同時に捕らえるチャンス。
作戦に参加した戦士達も一線級だ。6対1という采配は、英雄に対する畏敬の表れでもあった。
手段は白兵戦となる。

正面から当たってはならない。2人組が2組、左右から挟撃して残りは次の状況に備えた。
動きを制限するためのミドルキックやローキックを雄一郎はステップでかわしたが、そこを狙い済ました両足タックルには組み付かれてしまう。
雄一郎がそれを捌こうとする動きに男は素早く反応して下にもぐり込み、得意のヒールホールド(相手の膝関節を壊す技)を仕掛けた。
バキバキという関節が壊れる音が聞こえる。ただし、雄一郎のではなく自分の膝と足首から。
男は思わず雄一郎の手足を数えた。足首を掴んでくる5本目の手足があるように思えたのだ。
だがそんなものはなく、ただ彼の外套の裾が自分の踵に引っかかっているだけだった。

(なるほど、化物だ)

と、男は思った。どんな関節技だったのか戦士として興味があったが、それは生き残ってから考える事にした。
ともかく機動力を失った彼はチェインボムを起動しながら、上半身だけで雄一郎に縋り付こうとしたが、一本背負いで投げられた相棒の背中に打ち据えられてそれは叶わなかった。
チェインボムから文字通りの鎖が生えて男達に絡みつき、彼らの走具からエネルギーを奪い去った。

「……」

技の勢い余って宙に浮いた雄一郎は鎖に捕まらずに済んだものの、残った4人の敵に大きな隙を晒す事になった。1人が着地点をカバーし、2人がワイヤーの射出に備え、1人が銃を抜いた。大きな銃口から捕獲用のネットが射出され、狙い過たず雄一郎を包んだ。
瞬間、彼の外套が眩い光を放った。

ネットを熱で焼き払いながら、雄一郎は外套を翻しつつ着地点の男に組み掛かったが、その動きを予測していた男は、閃光に視界を奪われながらもドロップキックを繰り出して迎撃した。
男と雄一郎がそれぞれ逆方向に弾け飛ぶ。
泥色の外套から領主が転げ落ちた。一見して大きな怪我はなさそうだった。

「……」

建物の外壁にぶつかった雄一郎が着地する頃には、既に彼の包囲が完了していた。
動けないロボットが破壊されているのだろう、爆音が近くに遠くに聞こえる中、悠然と外套の前を締める雄一郎に、男の1人が言った。

「アンラ・マンユ殿」
「……」
「投降されたい」

彼に向けて男達が踏み出す。包囲が狭まる。
場の全員が聞き覚えのある、嫌な音がした。散開したロボットの子機が着地するときの、針金とゴムが同時に地面に落ちたような音。それが雨音のように聞こえてくるが、余所見をする者は居なかった。
ロボットが動いているのだから、雄一郎はARFを解除したのだろう。そういえば爆音も止んでいる。半ばデリーの手に落ちかけていた特別区は、再びロボットの支配下に入った。

やがて場に居る全員のRA(リジェクトアーマー)がバチバチと悲鳴を上げ始めた。
5人を包む球形の力場を見る事ができる。ビーム兵器とRAのせめぎ合いだ。
この兵器は異なる性質を持つ粒子の流れを目標地点で交差させ、その座標のみに効果を発揮する。
人から見れば中空に突然鬼火が発生するようなもので、避けられるものではない。

「……」
「……」

ビーム兵器にエネルギーを削り取られながらも、5人は動かない。
30秒で戦闘不能、40秒もすれば脳が溶けているだろう。1秒がゆっくりと積み重なっていく。

「……」
「……」

男の1人が、領主を起こすために踵を返した。4人から3人に、包囲する者の数が減った。
雄一郎の体が踊った。

一瞬の隙を突いて包囲を脱した雄一郎に、3人の男が追い縋る。
と、直前まで彼らが居たところに、建物の外壁をぶち破ってロボットの母機が滑り込んできた。
白く滑らかなボディに瓦礫が降り注ぐよりも早く、胸に備わった砲口から轟音が2度鳴り響いた。
運の悪かった2人が無数の散弾を受け、手品のようにこの世から消えた。
慌てて雄一郎がARFを展開すると、後ろ足で立ち上がろうとしていた母機が横転した。
関節をコーティングしていた樹脂が僅かに波打った。

「……」
「……」

気を取り直して追いかけっこ、とはならなかった。形勢の逆転は明らかで、ワインレッドの男達の目的は領主の確保のみに絞られた。
1人が領主を抱えて広場に向かい、彼と雄一郎の間にもう1人が立ちはだかった。残った男は短く小さく、祈りの言葉を呟いた。

「……」
「……」

雄一郎が男に背を向ける。それが男の目には致命的な隙に映った。
まっすぐに突進する彼のすぐ脇を、見覚えのあるチェインボムが通り過ぎていった。
後ろ手にそれを投げる雄一郎の姿が、肩越しに手を振っているようにも見えた。
背後から伸びてくる鎖に絡め取られながら、一体いつ、誰からチェインボムをスリ取ったのだろう、と男は思った。



「ここで何をしている」
「……」

セルゲイの詰問に、ニキータは即答出来なかった。
庁舎の医務室でラリーの治療をしているのだが、専門知識のない3人にはその順序道筋すら立てられない。とにかく全身の患部、特にひどく焼け爛れた顔や左肩を冷やしてはいるが、このままでは命がないことはわかる。

「火傷が酷くて……燃えてる燃料みたいなのを引き剥がす時に、皮膚も一緒にはがれちまった」
「……」
「親父、処置が出来る施設と医者を頼む」
「ここで、何をしている」
「……は?」
「追わんか!」

誰を?とニキータは思った。吉井雄一郎の事だと理解するのに数秒を要した。

「道理の解らないガキめ。追わない限りその子の治療はしない」
「……」

ラリーを見つめるニキータの逡巡をセルゲイは許さなかった。つかつかとラリーの寝台に歩み寄って彼女の命を繋いでいる点滴を外した。激昂して掴みかかってくるニキータを蹴り飛ばし、追え、ともう一度言った。生身のセルゲイが、走具を着ているニキータを見下ろしている。

「ボス、行こう。行くしかねぇよ」
「……」

ジュリアンに助け起こされながら、ニキータは部屋を出た。
ホリンは出て行く際にセルゲイに敬礼した。

「……」

セルゲイは点滴を元に戻し、ラリーの治療を手配した。



「スネ毛も生えていないのね、あなた」

丸椅子に座らされた領主をメラーニエが検分しながら言った。領主は子供だった。
落ち着かない様子でオフィスを見回し、自分をここへ連れてきたワインレッドの男に怯えた視線を送ったり、そうかと思えばメラーニエに媚びるような笑みを向けたりしている。


「状況が解っていないようね。あなたの様なもの知らずが人を支配していいと思ってる?
 ロボットの上に胡坐をかいて。当人には何の芸もないくせに?」
「……わかりません」

メラーニエの平手が飛んだ。
その後もわかりません、ごめんなさい、平手打ち、など予定調和的なやり取りがメラーニエの主導で行われるのを尻目に、中年の男達はひとまずの作戦成功に息をついていた。
既に特別区はARFの範囲から外れているが、領主が屈服したのでロボットは動いていない。
オフィスにセルゲイが戻ってきたので、メラーニエは彼に食ってかかった。

「ニキータは?」
「吉井雄一郎を追っていった」

呆けるメラーニエの傍を通り抜け、中年の男達に話しかける。

「位置は掴めるか」
「ARFの範囲内に居るんだろう。息子さんのマーカーは応答がないままだ。
 ただアンラ・マンユもほとんどエネルギー切れ状態のはずだ。……千載一遇のチャンスに違いない」
「どうして黙って行かせたの!」

割り込んでくるメラーニエを宥めながら、セルゲイは優しく言った。

「自分が捕らえると言って聞かなかったんだ。あの子は今走具を着てるから、力じゃ勝てないし」
「……」

メラーニエは椅子に座って頭を抱えた。もう領主には構わなかった。




[27163] ニキータ編:剣戟
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/06/23 05:40
『吉井は南西の森に向かっている。森に入られると厄介だ。その前に接触されたい』
「お前はデリー人だな」
『そうだ』
「……よくもやってくれたな」

走りながらニキータは通信相手に毒づいた。ラリーの絹を引き裂くような悲鳴と、痛ましい姿を思い出してまた思考が濁りかけたが、仲間の命も掛かっているのだからいつまでも呆けては居られない。
それ以上の恨み言を何とか抑え、必要な情報を聞き出す事にした。

「あんたら、吉井と戦ったんだろ?まさか向こうも無傷じゃあるまい」
『吉井の走具にはほとんどエネルギーが残っていないはずだ。それと、彼は武器を持っていない』
「丸腰?」
『そうだ。吉井雄一郎はそういう戦士だ』

つまり、移動力にリソースのすべてを割いているということか。
アナログ走具の利用目的としては一番理にかなっているようでもあるが、戦いを想定せずにこれまで生き延びてきたというのか?

「生き残りはいるのか?話を聞きたい。奴の得意技はなんだ。どういう動きが一番厄介だった?」
『そういう意識で戦うな。数と、走具の力で単純に押せ』
「偉そうに……いいから生き残りを通信に出せ」
『忠告があるとしたら1つだ』

中年の男と思しき声は冷静で、反論の余地を窺わせなかった。

『彼に殺意を向けるな。極力武器を向けるな。そうすれば彼も君達を、少なくとも殺しはしない』
「……なんだと?」

なぜそんな事が言い切れる?
吉井にとってみれば極限と言えるこの状況で、そんな余裕を彼が見せると?
が、この話を聞いて、ニキータは自分がいま何をすべきなのかようやく気づいた。
そうとも。この最悪の状況を覆すためには、彼を殺すわけにはいかない。

『ボス!あれだ!こげ茶のローブ!』

前方を走るジュリアンが指差す方向、自分達と同じように、地上の人込みを避けて建物の上を渡る泥色の外套が見える。やはり速度はなく、先頭を駆けるジュリアンはあっさりと彼を追い抜いた。

「よせジュリアン、まだ―――クソッ!」

通信できなくなった。ARFか。行く手を塞ぐジュリアンに雄一郎はまっすぐ突っ込んでいく。ジュリアンはこれ幸いと彼に組み付いたが、その瞬間に投げ飛ばされた。
ジュリアンが建物の下に落ちていくのを尻目に、雄一郎はほとんど減速もしないまま走り抜けていく。

(――柔道?アイキ?)

実際には首相撲で転がされただけだが、ともかくその技の精度がニキータの目に魔法じみて映った。
1対1は危ない。どうにか足止めして、ジュリアンの復帰や遅れているホリンの到着を待たなければ―――。
幅が狭い建物に移ったところで、一気に雄一郎を追い抜いて正対する。
バックステップを繰り返しながら少しずつ速度を落とす。
足止めを意識して圧力をかけ、あわよくば足でも払ってやろうとニキータは考えていた。

(ぐっ……!)

そのニキータが意図も忘れて道を譲った。雄一郎の走り方が変わった。上下左右に一切ブレず、足運びも外套の裾に隠れて見えない。
薄暗い空の下、まるで幽霊がこちらへ滑ってくるように見えた。しかも速度がほとんど落ちていない。

(ちっ……夢に出そうだ)

さぁどうしよう?考えも纏まらないまま追っていくうち、雄一郎の速度がさらに落ち始めた。
内周、外周と抜けて森に入る頃には既に犬猫にも追い抜かれそうな体たらくになっていて、追跡するニキータ達は楽に合流できた。仕掛けるチャンスはいくらでもあったが、あえて森に入るまで待った。
この付近には、ホリンが鍵を持つ迷宮への入り口がある。

「……」

夜になりつつある森の中、生い茂る木々が視界を遮り、地面に染みた闇が足元を危うく感じさせる。
拙くなったニキータ達の追跡すら振り切れない事に覚悟を決めたか、雄一郎はついに立ち止まった。
木々が途切れ視界の開けた草地に立ち、肩で大きく息をしながらこちらを振り返り、腰に手を当てて横柄に足を開く。彼の消耗よりも、その人間的な仕草の方がニキータをより強く勇気付けた。

「囲め」

ホリンは腰が引けているが、ジュリアンの戦意は失われていない。大きなフックを振り回しながら猛然と雄一郎に組みかかっていく。
ニキータもまた間合いを詰めながら、雄一郎の隙を見逃すまいと目を細めた。
その目が雄一郎の意図、初動よりもさらに前にある悪意を捉えた。彼はジュリアンの背負う剣を鞘ごと奪い取ろうとしている。
留め金できっちりと背中に固定されていた剣がいとも簡単に外れて彼の手に収まった。
しかもその動作は、ジュリアンを投げる動作の中にすっかり埋没してしまっていた。

(こいつ、兵士になる前は―――)

スリの名人だったに違いない。そう思いながらニキータは笑みを浮かべた。
自分と彼、合わせて4本の手が、ジュリアンの剣にかかっている。

(どうだ、見抜いたぞ!)

相手は消耗しているから、このまま引っ張り合いになれば自分が勝つ。
はたしてニキータの思惑通りになった。そしてワイヤーが飛んできた。

「あ」

しまった、と思ったときにはもう遅い。剣を離すまいとしていたせいで、剣に巻きついたワイヤーに引かれるまま大きくバランスを崩してしまう。急速にワイヤーが巻き取られていく。
黒い閃光のような雄一郎のとび蹴りが、視界を薙ぎ払った。



首を寝違えたらしい。
近年稀に見るほどの心地よいまどろみの中、それだけが不快で眠りの邪魔をする。
目を閉じたまま姿勢を変えて、何とか痛みをやり過ごそうとするが、金縛りにあったように体が動かない。

(あー……もう)

目覚めるか、目覚めないか。こんな眠りには2度と出会えないかもしれないのに。
試しにラリーの裸体を思い浮かべると、驚くほど鮮明に草地に寝転ぶ彼女が出現した。草の匂いに混じって、彼女の甘い肌の香りまで漂うような気がする。

「―――ボス!ボスゥ!た、たすけてくれ!頼むよ、オイ!」

(……ああぁぁ?)

不快な要素が2つに増えた。ニキータはこめかみに青筋を立てながら内心で思いつく限りの罵倒を声の主にあびせた。もう意地でもこのまま寝てやると思ったところに、体を激しく揺さぶられる。
ニキータは怒りに我を忘れて上体を起こした。

「二、ニキータ、ジュリ、ジュジュリアンが」
「……お前なんで走具なんか着てんの?―――ああ」
「た、助けてやってくれよ ――え?」

思い出した。そういえば戦ってるんだっけ。ホリンの弱弱しい懇願が、弱弱しい抗議に変わる。
いわく、何寝ぼけてるんだ、そんな場合じゃないだろう。
そりゃごもっともだが、それを言うならまずお前が助けにいけよ。
あ、無理か。お前があんな化物にかかっていっても、返り討ちが関の山だな。うん、お前は正しい。

「ったく……」

殺すわけにはいかない、などといいながら、のん気に武器を提げて間合いに入ってしまうとは。
まったく俺は救えない阿呆だ、とニキータは思った。痛む首を庇いながら、起き上がって背中から剣を抜き放つ。脳の中でガチリ、とスイッチが切り替わる音がする。
剣と剣術がもたらす運命など一つしかない。死だ。それ以外のことはすべて偶然で、計算や意思の介在する余地などない。抜いてしまった以上は、もう引き返せない。
20歳にもなってそんな剣術しか取り得がないなんて、俺はきっと長生きできないだろう。

「殺す」

ただ死の天秤を少しでも向こうへ傾けようと、決意を口に出した。
それが聞こえたか、ジュリアンの走具を剥いでいた雄一郎がこちらを向く。
奪い取ったエネルギーパックを放り投げ、彼もまた剣を抜いた。
薄闇の中に、2つの刀身を縁取るプラズマが浮かび上がる。
2人は一気に3間まで距離を詰めた。走具同士の斬り合いとしては過ぎるほど近い。
お互いワイヤーを警戒し、柄を晒さない正眼の構えを取る。

「……」
「……」

使いやがる、とニキータは思った。対峙の中で有利な体勢を獲得しようとすると、必ず雄一郎は対応してくる。爪半分程度の僅かな足の運び、切っ先の上下、膝の向きの角度……幾度も仮想の剣戟を交わす静かなせめぎ合いは、先の先まで読んだ盤上のやり取りのようでもある。
ニキータは走具の有利があるにもかかわらず、圧されていた。
むしろ走具を着ているからこそ、生身に慣れている彼は精密な動きに不安を感じねばならなかった。
張り巡らす洞察の糸がいつもより頼りない。もちろんそれは相手の技量のせいもある。
このまま踏み込めば後の先を取られるな、と思ったとき

(―――は)

彼我の距離が縮まっている事に気づいた。
ニキータには覚えがないから、雄一郎が縮めたことになる。

(う、また)

縮まっている。つい先ほどよりもさらに。足を注視したくなる衝動を何とかこらえ、全体を見て攻撃に備えながら雄一郎を懸命に観察した。今縮めたような気がするが、縮まっていない。あ、今下がったような気がしたのに、逆に距離が縮まっている。―――くそ、草が邪魔でつま先が見えない。

(死ぬな、これ)

ついにニキータの間合いへ、雄一郎が入ってきた。
だがニキータは手を出せない。走具で劣る雄一郎の間合いは狭いが、それが自分に届くのも時間の問題だ。
必殺の距離から放たれるであろう彼の先手を、自分は防ぐ事ができるだろうか。
思わず引きたくなる。
だが引いても解決にならないばかりか、ホリンやジュリアンが斬られるかもしれないし、長引けばデリーの追っ手がここに来るかもしれない。
逆流してくる胃液を押し留めるので精一杯になってくる。破れかぶれで突っ込もうとしかけた時、一条の光明が差し込んできた。

(あー、そういえば)

つい最近こんな状況から、技量で劣るほうが逆転勝ちする勝負があったな。
そのときとは立場が逆だけど、他にいい手も思いつかないし、やってみよう。

ニキータは大上段に構えを変えた。霧が拡散するように雄一郎が距離を詰めてくる。
だが相手がどんな魔法を使おうと関係なかった。渾身の幻惑を足運びに込め、ニキータは生死を分かつ境界線に身を置きながら僅かに下がる。雄一郎が追う。

(いずれにせよ、結果が俺の運命だ)

ニキータは雄一郎に背を向けた。その時に踏みしめた一歩が、次の攻撃に向けた一歩でもある。
背中に感じる圧倒的な死の気配。死神の鎌に研ぎ澄まされた集中力が、一刹那を無限に引き伸ばす。
草のはじける音と、蹴られた地面のかすかな揺らぎを五感が捉えるより先に、ニキータの体は沈みこんでいた。彼の脳裏に、自分を飛び越えていく雄一郎の姿が歴々と映った。
地面を舐めるような姿勢から剣を振るったニキータが、ゆっくりと立ち上がる。
首筋に手を当てると、その部分の外殻が焼ききれていて、かすかに血も滲んでいた。
紙一重、というわけである。

「……」

膝下から斬り飛ばされた雄一郎の左足が、今ようやく地面に落ちた。
その一部始終を、ジュリアンとホリンが息を飲んで見守っていた。



「これからどうするの、ニキータ」
「変わらない。連邦と交渉する。……手土産も増えた。きっと上手くいくさ」

止血を施したり、走具のエネルギーパックをはずしたりする間、雄一郎は大人しく身を任せていた。
ニキータが話しかけると、拍子抜けするほどフランクに彼は応じた。
これからあんたを地下迷宮に監禁する、とニキータは言った。

「でも、ここはもうデリー領なんじゃねえか?
 条約とかなんとか難しい話はしらんけど、領主を捕らえりゃ領土権も入ってくるんだろ?」
「その代わり、連邦の教師や記者は保護しなきゃいけない。まだ奴らと会うチャンスはある」
「……」
「自治領を興すぞ」
「……マジで?」
「ああ」

あの死地を潜り抜けた後に、雄一郎が生きて手元に居るのだから、迷わずそうすべきだ。
アレクシス・ホワイトとはどういう人物だろう、と、これから交渉する事になる相手を思った。



[27163] ニキータ編:アザミ
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/06/27 06:38
街の内周に、老人ばかりが集まるカフェがある。
時刻は深夜で、一階の客を迎えるフロアに人影はない。2階の遊戯室は使われなくなって久しく、雨戸の閉め切られた室内で、ビリヤードテーブルやソファが埃を被っている。
それらが2台ずつ並ぶだけで手狭に感じられる遊戯室の中に、3人の老人が居る。
古びたランプの鈍い光が照らす中、1人は壁に寄りかかり、2人は埃が舞うのもかまわずビリヤードを始めた。

「雄一郎が捕まったそうだなぁ」
「メアリが来てからにしろ」

―――いいわ、聞こえているから。ドアを開けてちょうだい。
鈴を転がすような女性の声である。
壁際の老人が求めに応じると、花柄のエプロンドレスを着た老婆が部屋に入ってきた。
盆の上に紅茶と手作りの茶請けを乗せ、ごきげんよう、と挨拶をしてからそれをカードテーブルに置く。

「……」

微笑む老婆の顔は鼻の辺りが少しはれていて、目を凝らすとエプロンドレスに血の染みを見つける事が出来た。
だがそのことに触れる者はいない。この会議には関係のないことである。

「伝説を終わらせたのはセルゲイの倅か。連中はいまどこに居る?」
「仲間と迷宮に篭っている。雄一郎を連れてセルゲイの下へ戻る気はないらしい」
「なるほど。謀反と言うわけかの」
「子供ら同士の諍いだ。ほっとけばいい。それよりアザミの会員達が心配だ。
 迷宮の鍵を管理するのはメアリとロレンス(病死したホリンの父)だけ、と本来すべきところを、ホリンと言う例外が居ることにいい顔をしない者は多かった。
 会員らにもそれぞれ子供が居るわけだしな」
「ホリンが迷宮を使っている事に対して、不公平感が生まれている、ということかしら?」
「つのればアザミの機能に支障を来たす」
「仕方ない事だわ」

メアリは笑った。アザミの目的は街に公平をもたらすことではない。

「ホリンは幸運だった。それだけのことではなくて?」
「うむ。それに俺達も歳だ。事ここに及べば、どのみちアザミの役割もおわりかもしれんの」
「今回のテロを見逃すってことかい?」
「……」

既に領主は屈服し、街の人々はデリーの統治を前にして戦々恐々としている。
デリーにとって領土的に飛び地となるため、国土の中でも指折りの僻地になるこの街の文明水準が、以前のまま保たれるとは誰も思っていない。
見渡す限り畑の土地に、農民と警官だけが居る。もちろん夜は灯りなどない生活になるだろう。
そして幸か不幸か、街の人々は文明的な暮らしに慣れ過ぎていた。

だが街をこういう状況にしたのは、他ならぬ街の長である。

「見逃すも何も、街から排除すべき存在など居るか?
 自警団も解体されて、テロリストの告発先も既にないぞ」
「首謀者は誰でしょうね?今回の件の首謀者は」
「セルゲイであろ。奴以外にこんな真似はできん」
「問題は誰の意思だったか、という事よ。
 デリーの招致が子供達以外の意思で行われたとしたら、見過ごせるものではないわ」

街で生まれた子供達のために。それがアザミの行動理念である。
だから彼らはテロリストだけは許さない。というよりも、国家解体が相次いだ時代、様々な人種が複雑な立場を抱えて身を寄せ合ったこの街で、1つだけ統一できた意見がそれだったのだ。
だが今回、街でテロが起きてしまった。起こしたのはいったい誰か。
もしそれが街の子供でないなら、アザミはそれを許さない。
メアリは立ち上がり、老人達の顔を見回しながら宣言する。

「メラーニエを除きます」

彼女の孫・ラリーが生死不明である事を、この場の誰もが知っている。
だがこの決定に彼女の復讐心を見出すものはこの場に居なかった。
アザミの母はどんな時でも無私であると理解しているからだ。



デリーによるヴァロフの街制圧は2工程に分けて行われる。
まずごく少数の先遣隊がセルゲイの手引きで街に侵入し、領主を殺害または捕獲する。
これが第1工程で、既に成功した。
次にデリー本国から制圧部隊の本隊が派遣されるのだが、飛び地となるこの新領土には連邦領土を通らねば来る事が出来ない。
この問題は連邦とデリーがお互いに条約を守る事で解決できる。
連邦は全ての条約が守られる限り、デリーの領土を侵犯しない。
今回の場合、デリーは教師や記者といったホワイト家直轄機関に属する人々の安全を確保するればいい。
領主の屈服により、ここは対外的にもデリー領となっている。お互いの領土が恙無く統治されるため、本隊の連邦領土通過はホワイト家の主導で容認される見通しだ。
現在、その調整が行われている。

「……」

セルゲイは自分のオフィスから街を眺めている。午後の強い日差しの下、ロボットによる建物の取り壊しが始まっている。本隊が来てからは居住区である内周にもそれは及ぶ事になっていて、以後の街はデリー公国の食料生産拠点になる。
多くの住人がそれを嘆いているが、セルゲイの表情からは特に感慨を伺い知る事ができない。

「息子さんが心配かね」

モニターの前に座る中年の男が、窓際に立つセルゲイに声をかけた。
先遣隊の指揮を執った村瀬という男で、街の管理は彼が行っている。
非ロボット主義を打ち出しているデリーが、本隊が来るまでの間とはいえ領主のロボットを拝借してしまっていいのか、とセルゲイが聞くと、それは指揮官次第、私は現実路線なのさ、と笑っていた。

「マーカーの反応もないとなると、負けて走具を剥がれたかな。それにしたって帰りが遅すぎる」
「……」
「まぁ武器を向けていなければ、殺される事は無いはずだ。私の忠告を聴いていればいいんだが」
「可能性としてはもう一つある」
「そうだね、確かにそうだが」

セルゲイの言葉に村瀬は意外そうな顔をした。
呼び出し音に応じて村瀬はモニター越しの会話に移る。数分ほどそうしていた彼が、特に驚いた様子もなくこう言った。

「噂をすれば影。ニキータ君のご帰還だ。君との面会を要求している」
「……」
「吉井雄一郎を捕えて監禁しているそうだ。それも、この地にある地下迷宮に。
 そして自分が帰らなければ、迷宮は破壊されて地表に甚大な被害がでると言っている。
 ……裏切りだな。君の言うもう一つの可能性が具現化したわけだ」
「そのようだが……迷宮云々は荒唐無稽すぎる。思い直させるから、見逃してやってくれ」

窓際から離れてオフィスを出て行こうとするセルゲイを、村瀬が呼び止める。

「妻に振り回され過ぎるところが、君の悪徳だと思っていた。実際、今回はそれを利用させてもらったからね」
「俺としては支配者なぞどちらでもいいのだ。デリーでも、連邦でも。今回の件にしたって、脅されて協力したつもりはないから、気に病む事はないよ」
「そうか。だがそれよりも私が心配なのは、君がいい父親であろうとするかどうか、だ」
「……」
「この地に地下迷宮があることは知っていた?」
「かつて存在していたが、今はないと聞いている」
「同じような報告を、ロレンスという男から受けている。彼はデリー人で、この街で寿命を終えた」
「では迷宮というのは、やはりニキータのブラフだね」
「彼と一緒に後詰に回ったホリンという男は、ロレンスの息子だ。迷宮はロレンスが作った」
「へぇ、あの子がね」

セルゲイもまた、驚いた様子なくそう言った。村瀬には彼の真意がわからない。
もしロレンスが嘘の報告をしていたとしても、迷宮は”アザミの手紙”とやらの送り主が管理している可能性が高い。迷宮は子供1人が管理できるものではない。
その送り主についてもセルゲイはよく知らないという。ただテロリスト告発の手紙を受け取った事があるだけで、ちょうど今回は吉井雄一郎出現の予告を受けたのだ、と。

「実のところ、君はすべて知っていたんじゃないのか?」
「どうしてそう思う」
「全てが君の思惑通り、という気がしてならないんだよ。私はね」
「まぁ、コーヒーでも飲めよ、村瀬」

セルゲイは暢気に笑った。

「君たちが吉井を捕まえる可能性もあっただろう?俺は神じゃない、そんな事まで見通せないよ」
「優秀なハンターは偶然の待ち方を知っているものだ。
 私の祖国にまちぼうけ、という童謡があってね。その事をよく表している」

罠は偶然の力を借りて成り立つ、という認識が自分には足りなかったと村瀬は思う。
”アザミの手紙”とやらを警戒したために、この街に入るのが作戦の直前だったこと、潜入できた隊員の数が少なかったために、セルゲイの用意した後詰がとても魅力的に見えたこと、後詰であるがために、吉井雄一郎捕獲の主導権は自分達にある、という甘い考えが生まれたこと。
そして作戦の指揮権がすべて村瀬自身にある事から来る油断。
吉井雄一郎という大魚を前にして焦りを抱えた自分と、冷静に状況を見ていたセルゲイ。
踊らされていたのではないか?と思う。

「言いがかりが怖いからここで確認しておこう。
 君達の作戦に全面的に協力するが、結果が伴うかどうかは君達次第。
 それがデリーと俺の”契約”だったな?」

吉井雄一郎がニキータの手へ渡るのが必然だったとは、やはりいえない。
だが村瀬の中でセルゲイへの疑いはほぼ固まっていた。

「やはり君は優秀なハンターだ」
「よせよ、村瀬。パラノイアだぜ」
「この地がデリー領になること、吉井雄一郎がデリーの捕虜になること。
 両方が達成されない場合、メラーニエを殺す」

長い沈黙が場に下りる。

「それがデリーのやり方か」
「いったろう?私は現実路線なんだ」
「……」
「……」

セルゲイがオフィスを出て行った後、村瀬は背筋の冷や汗に身震いしながらため息をついた。



[27163] ニキータ編:セルゲイ1
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/07/01 02:05
「ニキータ、あなたは何になりたいんだっけ?」

ニキータは庁舎の会議室で待たされている。
長卓についたまま押し黙っている彼の後ろで、メラーニエが右へ左へゆっくりと行き来しながら彼に話しかけている。時折走具越しに肩へ手を乗せて、言い聞かせるように耳元で囁く。

「あなたの望みは可能な限りかなえてあげたいわ。でも世の中には不可能なこともあるの。
 あなたがそれをわかってくれないなら、母さん達はあなたを止めなければいけない」
「……」
「ここはデリーの領土になります。母さんはデリー人になって、今まで通り人に歌や踊りを教えるわ。
 セルゲイも一緒にデリーの首都へくるでしょうね。彼は政治家になるみたいだから」
「……」
「あなたはセルゲイを尊敬してるんじゃなかった?彼と一緒にデリーで活動してみたらどう?
 もしそうしたいなら、私から彼やデリーの人たちに頼んであげるわよ?」

母は俺の望みを叶えたいのではない。
”デリーの政治家になるという俺の望み”を叶えたいのだ。
そう考えるニキータは母の言葉に応じようとしない。
というよりも、母自身には望みを叶える力などないと見なしている。

「領主の顔を見たかしら?12歳だそうよ。あなたのラリーを愛人にするつもりだったんですって」
「……」
「誰でもいいからたった1人の人間にロボットを与えて、その他の人々を支配させる。
 そういう国を4000も抱えているのが連邦よ。あなたはそんな事が許されると思う?」

許してもらう必要などない。
ニキータは目を閉じた。これから始まる話し合いに備え、彼は気持ちを落ち着かせて強い記帳を少しでもほぐそうとしている。
母はそれを邪魔する蝿のように思われた。

「ちょっと!」

メラーニエが叫んだ。ニキータにではなく、音もなくドアを開け部屋に入ってきたセルゲイに向かって。
猫なで声が突然叫びに変わったことにニキータは驚き、心の中で舌打ちをした。

「ノックもしないで入ってきて!まだ私たちの話は終わってないの!出て行ってちょうだい!」

相手が一言も喋っていないのに、私たちの話と言えるあたりが母らしい。
いつもはメラーニエの言いなりになるセルゲイだが、甲高い罵詈雑言にも怯むことなく長卓まで辿り着き、ニキータの対面に座った。ニキータはそれに強い満足感を覚えた。

「親父」

今もそう呼べる間柄かどうか疑わしかったが、ニキータは努めて明るく語りかけた。

「2人きりで話がしたい。人払いを頼む」
「どうしてわざわざ母さんを傷つけるようなことを言う」
「……」

走具越しにもメラーニエの怒気を背中に感じる事が出来る。
たしかに。自分の物言いからは母への侮蔑がいかにも露骨に感じられる。
それではいけない。これから王になろうという人間が、個人的感情を相手に悟られるようではいけないし、母にはそういう感情をぶつける価値もない。

「母さん。母さんとの話は後でしたい。今は親父と2人にしてくれないか」
「……」

メラーニエなりに今のニキータを刺激してはいけないと思っているのか、彼女は出て行った。
ただしその途中でセルゲイの頬をこぶしで殴りつけた。セルゲイは避けなかった。

「……」
「……」

ニキータは失笑して肩をすくめた。

「道理が通じない人ってのは怖いな。今のは俺とあんた、殴りやすいほうを殴ったんだぜ」
「そんな話をしにきたのか?」
「……いいや」

そのまま場に沈黙が降りる。
ではどんな話を?と促すような事をセルゲイは言わず、ただ黙ってニキータを見つめている。ニキータは沈黙と視線に気圧されながら、侮りから出た自分の軽口を悔いた。

(なるほど、勉強になるな)

この男の庇護下でぬくぬくと暮らしてきた点では自分も母と変わらない。
実際セルゲイから見れば両者に差などないかもしれなかった。沈黙に圧迫感を覚えたことは今までにもあるが、そういう沈黙を意図的に生み出そうと考えた事はない。
話し方の幅一つとっても、自分には足りないものが山ほどある。

「今日は、あんたを説得しに来た」
「ほう」

セルゲイが笑った事に安堵しそうになった気持ちを、ニキータは引き締める。

「俺たちの目的は連邦に自治領を興すこと。ちなみに、吉井雄一郎を捕らえたのは本当だ」

ニキータは持参した手提げの中から、布で幾重にも包んだ雄一郎の足を取り出し、長卓の上に乗せた。
「迷宮について、あとホリンの身の上についてあんたが知らなくてよかったよ
 知ってたらそもそも俺達を街に配置しなかったろうな」
「……」
「迷宮を記者に告発して、市民権を得るつもりだったんだ。
 昨日呼び出されたときは、てっきり計画がばれたかと思った」
「……」
「迷宮には炉があってね。備蓄してある燃料からエネルギーを取り出すことができる。
 自爆装置はないが、炉を暴走させればその代わりになるようだ。
 あと吉井雄一郎の技術はもう盗ませてもらったよ。
 彼と彼の技術にはいつ消えてもらってもかまわない。
 そうだな、5日待とう。俺の要求が通らないなら、それが彼の寿命になる」
「要求とは?」
「アレクシス・ホワイトとの対話」

自分たちが雄一郎の生存と迷宮、2つの取引材料を持っている事、そして今後の展開が3つ考えられる事をニキータは示した。
1つは交渉決裂、雄一郎の技術が消え、地表もダメージを受ける。2つ目はニキータの勝ち、雄一郎を生きたままアレクシスに引き渡し、ニキータ達が自治領を得る。3つ目はセルゲイの勝ち、ニキータ達が雄一郎の引き渡しに失敗し、彼がデリーの手に落ちる。

2つ目か3つ目に未来を絞り込みたければ、アレクシスとコンタクトさせろ。
取引の概要はセルゲイに伝わった。思案顔で宙を見つめていたセルゲイがニキータに視線を戻す。

「お前達が雄一郎を殺し、迷宮も壊したとしよう。
 その後盗んだ技術をどこかに売り込めば、少なくとも市民にはなれると考えているのか?」
「そんな話をしにきたんじゃない。けど俺の言いたい事は伝わったようだな」

達成感のために高揚しながらニキータは席を立った。

「別にここがデリー領になっても、俺はかまわない。
 だが俺の要求が通らないなら話は別だな。
 1日1回、この時間にここへ来る。いい返事を期待しているよ」

部屋を出て行こうとする背中に向け、セルゲイがデリーと契約しろ、と言った。

「なに?」
「飲み物に薬物を混ぜさせたのは俺だ、ニキータ」
「……」

即座にセルゲイの言わんとしている事は理解できた。
ようは剣道の試合でお前にドーピングをさせたのは俺だ、とセルゲイは言っているのだ。

「何で今そんな話を……。第一あんたは、母さんのいいなりになっただけだろ?」
「違う。俺の判断だ。母さんが喜ぶだろうと思ってな。
 忘れるなニキータ、回り道をすることがあっても、俺の行動理念はそれにつきる
 そのためには手段も選ばない」

強い虚無感が高揚を鎮め、代わりに脱力をもたらしてくる。
母さんの為だけにそこまでするのかと思うと、ニキータの胸に悲しみだけが満ちていった。

「……デリーと契約しろってのは?」
「それだ。雄一郎の技術は手に入れたんだろ?それと交換で市民権を得ようとしても、領主の略奪に遭うのがオチだ。どの領主と交渉するのかしらんが、デリーに仲介してもらえ。
 雄一郎の身柄を引き換えにすれば、デリーも断わらない」
「で、あんたと母さんもついてくるわけか」
「ああ、俺には自信がある。お前がどこへ逃げようと、必ず母さんと一緒にお前のところへ行ってみせる。そうだな。3日も”まともな”植民地で暮らせば、母さんも喜んで連邦人になるんじゃないか?」
「……」
「お前はさ。母さんが本気で連邦を憎み、デリーを愛してると思うか?
 母さんが愛してるのはお前だけだ。他の事は全て暇つぶしに過ぎないよ」

ニキータは心の中で呻いた。
セルゲイは先ほどニキータが示した3つの選択肢のうち、選ぶのは1つ目でもかまわないと言っている。この地が滅び、雄一郎が死んでも、その後家族3人仲良く暮らせればかまわない、と。
自分を追いかけてくるセルゲイと、今まで通り彼に縋って生きる母の姿が目に浮かぶ。
ドーピングの事など、もうどうでもいい。
ただ両親の行動すら見通せない自分の不明をニキータは悔いた。

「デリーと契約はしない」
「なぜそこまでして、領主になろうとする?」
「その質問に答える前に、あんたに聞いておきたい。なぜデリーを選んだ?知ってるはずだ、連邦は宇宙に進出するつもりで、そうなったらいよいよデリーの勝ち目は薄くなる。
 母さんを死なせたくないんだろ?目先の生存を考えるなら、連邦に付いたほうが有利じゃないか」

宇宙進出についての話は雄一郎がしてくれた。
街のエネルギー料金値上げも、この計画に備えるためだったと推察できる。
セルゲイが計画を知らないはずはない。

「それはどうかな、ニキータ。今のまま連邦が宇宙に上がったらどうなる。
 領主が敗北するたび市民が宇宙の塵になるとしたら、リスクは連邦のほうが高いとも言える。
 それならデリーに付いて、連邦の宇宙進出を阻止したほうがいい。
 阻止したあとはどうとでもなる。両国どっちに付いても上手くやるだろう。俺も、人類も」
「……」
「さ、お前の番だ。なぜ領主の座に固執する?」
「独自のものになりたい」

いずれは世に示す事である。損得抜きでニキータは本音を語った。

「行動も、道徳も、命日も。すべて自分で決める。そのためには領主の座を手に入れることが近道だ
 いずれはホワイト家とも対等以上の口を利いてやるさ」
「……」

セルゲイは席を立って、デリーと相談してみようと言った。
この日の話し合いが終わった。





[27163] ニキータ編:セルゲイ2
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/07/20 10:06
母との会話を適当に切り上げ、ニキータはラリーを見舞った。
先日まで校医を勤めていた女が命に別状はないというので、ニキータは心から安堵した。
ラリーの意識は戻っていない。焼け爛れた皮膚は剥がされ、代わりにくすんだパテのようなジェル状のものが患部を覆い、その上から包帯が巻かれている。
ジェルは2、3日で定着し、3ヶ月ほどかけて代換皮膚になるらしいが、整形する設備がないので醜いやけどのあとが残るだろう、と女医は言った。哀れみに満ちた表情だった。

「ニキータ君よね。あなたそんなもの着て何してるの?
 この街がこれからどうなるか、知ってたら教えてくれない?」
「おい」

ワインレッドの走具を着た男が、横から女医の質問を制した。

「よけいな口をきくな」
「……」

ニキータは女医に礼を言ってラリーの病室から引き上げた。
男が女医の質問を遮ったのは、雄一郎が深手を負って監禁されている事を連邦がまだ知らないはずだからである。
知れば条約など守らずに彼の技術を強奪しにくる可能性もあるばかりか、デリーに技術が渡る事を恐れ、この地ごと彼を消しかねない。

「貴様等のことは四六時中監視させてもらう。そのつもりでいろ」
「好きにしろ。ついでに俺達が迷宮を掌握していることを確認したらいい。ただし、無理に踏み込んで来たら、どうなるかわかってるよな」
「貴様こそ。……吉井がこの地に留まっている事が外部に漏れれば、あの女の命はないぞ」
「……」
「……」

連邦に、ではなく、外部に、という男の物言いに違和感を覚えつつ、ニキータは中央区を後にした。



セルゲイはメラーニエのために生きている。
彼は身の振り方について4つの選択肢を持ち、それらは優先度により1位から4位までの順位付けがされている。

1位はデリーの政治家になり、連邦との調和を目指すこと。
メラーニエの生活を安堵するためには、これが一番の近道だと彼は考えている。
今回の功績を持ち帰れば、デリーにもそれなりの地位で迎えられる事がきまっていた。

2位は連邦の領主となり、他の領主を倒して力をつけていくこと。
ホワイト家の面々を除けば、領主が社会の中で一番力のある存在なのは間違いない。
領主になるのはニキータでもかまわない。彼を補佐すればいいだけの話だ。

3位はこの街に留まり続けること。
デリーとは敵対することになるが、領主が代わっても街を維持し続ける自信が彼にはあった。
なので連邦市民になる、という選択肢は4位になる。
市民は自由で文明的な生活を送っているが、上に立つ領主が敗北すればすべてを失う。
かつてセルゲイがニキータを陥れたのは、彼の後を追って連邦市民になりたがるであろうメラーニエを、砂上の楼閣に住まわせたくないからだった。
というのが、理由の一つになる

『ご苦労様でした、村瀬。今回の働きは本当にお見事です』
「過分なお言葉です、チャンドラ姫」

オフィスのスクリーンにデリー公国のチャンドラ姫が映っている。
スクリーンの前に立つ村瀬が、微笑むチャンドラに機嫌よく応対している。

『ところで、やはり戦場に吉井雄一郎が現れたそうですね?』
「は、彼も領主を攫いに来たものと思われますが、取り逃がしました
 駒が15人から4人にまで減りましてね。とても後を追える状況ではなかった。
 今は私以外の司令部まで走具を着ている状況です」
『そうですか。本隊の派遣を急がせます。それまで状況を維持してください』
「は」

チャンドラは村瀬の斜め後ろに立つセルゲイに顔を向ける。

『あなたがヴァロフさん?デリーに参じてくれてありがとう。よく決心してくれました』
「はい」
『夫人と子息がいるとの事ですが、会えますか?』
「それはご容赦ください」
『なぜ?』
「申し上げにくいのですが、息子は連邦市民になるのが夢だったようで。こういう状況になって塞ぎこんでいます。妻もそれに付き添っていまして、とてもお目にかかれる状態ではありません」
『そうですか、残念です。
 では村瀬、あとをお願いします』
「はっ」

挨拶もそこそこに通信を終えると、村瀬は深く息をついた。

「メドゥサのような人でね。何か勘付いたかもしれない」
「オカルトかよ。君は現実主義者じゃなかったか?」
「それもそうだ。だが彼女も吉井に執着している。
 足跡でも見つかれば幸いと思って、ここにも目や耳を向けてくるだろう」
「……」
「もっとも、我々とは執着の仕方が違うがね」

雄一郎の技術をどうするか、ということについては、デリーの上層部でも意見が割れている。
入手すれば連邦との大きな戦争が蒸し返されると考えるハト派と、むしろそれが目的だと考え是が非でも獲得しようとするタカ派がおり、日和見はほとんど居ない。
数の上ではタカ派が8割を占めるものの、強い権限を持つ公王がハト派なことから両陣営は拮抗している。

チャンドラはハト派だが、一方で雄一郎に最も近い人物でもある。
彼を利用してチャンドラがデリーを潤してきたのも確かだが、タカ派からすれば彼女のやり口はもどかしい。
今回のように居場所さえ事前に掴めれば、雄一郎を追い詰める事はそう難しくないので、彼の信頼を得ているチャンドラが”その気”になってくれればとタカ派は働きかけているが、彼女は肯んじない。

「私がしている事を知れば、姫様は横槍を入れてくるだろうなぁ」
「……」
「そうなるまで、もうあまり時間もないだろうなぁ?
 どうだ、セルゲイ。何か妙案を思いついたかね?」
「ニキータを説得するしかない」
「ずいぶん悠長だねえ。メラーニエの命が惜しくないのかい?」
「君こそ。国の威信を借りた契約に背けば命がないはずだ。それでもメラーニエを殺せるのか?」
「メラーニエは”事故死”するんだよ。それで損をする人が君以外にいるかい?
 それにARFさえ手に入れば、デリーが血と掟の国である必要もない」
「……」

セルゲイはソファに深く腰掛けて、ため息をついた。
いくら緻密な策を巡らせてみても、それが私欲のためであれば須く脆い。
鉛弾一発で全てが瓦解するからだ。
対する村瀬は、自分が死んでもデリーは死なないと考えている。
だから彼は無策であっても強靭なのだ。かけがえのない人を抱えている自分とは違う、とセルゲイは思った。
彼はこの時、既に優先度第4位の未来を選択する覚悟を決めていた。
独自のものになりたい、と言っていたニキータが少なくともデリー人にはならないと、私欲から離れられない自分を顧みれば察する事が出来たからである。



学校が所有していた建物の中で最も大きな部屋は、芸能科が使うダンスホールである。
それを理由に街にいた教師と記者は、ダンスホールにまとめて軟禁されている。
そうしたほうが監視するのに都合がいい。十分な数のロボットが配置されているものの、結局のところ監視を総括するのは人間である。デリー側は人手が乏しかった。

「……」

ダンスホールには園山もいる。園山はラリーの治療をした校医と、彼女を囲む記者達のすぐ傍に座り、彼らの話に聞き耳を立てている。

ニキータが青い走具を着てラリーの病室に現れた。
一緒にいた赤い走具のデリー人とは険悪なムードだった。
ニキータはラリーを連れて帰らなかった。……。

記者たちの抗議も実らず、園山たち連邦人の通信手段は奪われている。
その上で吉井雄一郎がこの街に現れ、彼を青い走具の3人組が追いかけていったのが目撃されていることを踏まえれば、街が今どういう状況にあるのか想像を膨らます事はできた。

「園山センセ」

記者の1人が話しかけてくる。目の細いアジア系の男手、剣道の大会などで取材の腕章をつけているのを見たことがある。

「お弟子さんですよね、ニキータ君」
「……」
「彼は何をしてるんでしょうねぇ?園山センセはどう思われます?」
「吉井と戦ったのかもな?」
「へー。戦ってどうするんです?」
「捕まえようとするだろ」

園山は必死に、どう答えれば弟子のためになるのかを考えた。

「ニキータは市民になりたがってたからなぁ。吉井を餌に連邦と交渉するつもりなのかも」
「でも、デリーがそうさせるでしょうか」
「そこまではしらねえよ。ただ万一、吉井がニキータに捕まってるとしても、生きてんだろ。
 殺しはしないはずだ。そのほうが交渉に有利だからな」

記者との会話を終えたあとも、園山は自分の発言に落ち度がなかったか十分に点検した。

「……」

吉井雄一郎の行動にはルールがある。
もっともそれは彼が喧伝したわけではなく、行動の規則性から見る側が勝手に推測したものにすぎない。
取引には取引を。敵意には敵意を。そして、殺意には殺意を。
雄一郎がこうした評判をどう考えているか、そして実際に彼とニキータが戦ったのかもわからない。
しかし園山は、弟子が殺される可能性を少しでも減らそうとしていた。



[27163] ニキータ編:敵
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/07/07 20:20
初めて迷宮の中に入ったとき、ニキータはその機能の少なさに驚いた。
通路こそ長く伸びているものの、それも炉のある部屋を中心にして二本、街の下を一直線に通っているだけで、一本は行き止まりが終点、もう一本が森に隠された入り口に通じている。
通路へ続くものの他にもいくつかドアはあったらしいが、それらは淵を硬化樹脂で覆われハメ殺しになっており、確認できる部屋は1室のみとなっている。
部屋の形状は炉を中心においた楕円だが、曲がりくねった壁や不規則に配置された柱はジパーツによる省エネルギー建築の産物だと解る。しかしドアを覆う樹脂には人の手を伺わせるいびつさがあり、アザミの仕事だろうとニキータは考えている。

ホリンによると炉は相当量の固形燃料を抱えていて、ジパーツさえ制御できれば街の奪還も不可能ではないという。
制御方法は樹脂に閉ざされたドアの奥にあるかもしれない。かねてからそう考えていたホリンは樹脂を取り除こうとしていたが、今日まで成し遂げられていない。
ニキータ達はジパーツの運用を絶望視していた。

「交渉、どうだった?」
「長引きそうだ」

迷宮の入り口まで迎えに来ていたホリンに、中央区での出来事をかいつまんで伝えると、彼はため息をついた。
これ見よがしに、である。そんなホリンの嘆きも致し方ないとニキータは思う。
まず自分たちはジパーツどころか、炉の運用すら出来ていない。
炉は迷宮の照明やシステムが使うエネルギーを供給しているので常に稼働しているが、エネルギー供給量を増減させるためにはパスコードが必要だ。このパスコードをニキータ達は知らない。
つまり炉を暴走させる、というのはブラフである。出来る事といえば、せいぜい照明などに分配されるエネルギーの一部を拝借するくらいだ。
ブラフといえば吉井雄一郎の技術を手に入れた、というのもそうだ。
雄一郎から走具を剥いだ後、それを喜び勇んでホリンが調べようとした。
すると雄一郎はどこに隠し持っていたのか、自決用の爆弾を示した。それを見てもなお調べ続けようとするホリンを走具から引きはがすのに、ニキータ達は大変な苦労をした。

雄一郎の走具はいま、彼が手錠でつながれている柱から、炉を挟んで反対側にある柱の影に置いてある。
そして彼を最少でも1人が見張ることで、双方の妥協が成立している。

「状況を考えれば悲観的になるのもわかる。
 デリーに降ってみるか?吉井が大きな手土産になるのはデリーも同じだ」
「嫌だ」

きっぱりとホリンは言う。そうだろう、とニキータは思う。
ホリンの志はロボット工学の研究である。それは学生時代に論文を教師に盗まれてから、より強い執着となっているようだった。
ロボットに対する規制が強いデリー公国は、ホリンにとって植民地よりもある意味で地獄に近いかもしれない。

暗い表情のホリンと共に長い通路を進んで行くと、炉の方からジュリアンの高い笑い声が聞こえてくる。

「……?」

危機感はなかったが、なぜ笑っているのか事情がつかめない。極限状態にいるニキータはそうした事さえ事態打開の糸口に見える。たとえばどこかに隠れていたパスコードをジュリアンが見つけたのではないか、という期待。それがニキータの足を速めた。

「五輪で勝つとそんなにモテんのかよ!あー早く市民になりてぇ!出れさえすれば金メダルの1つや2つ……」
「でも俺が学生の頃の話だからな。今じゃもっと合理化が進んでるかも。ストレートに「精液だけください」って言われたりしてな」
「……なんだよそれ。モテんのは遺伝子だけかよ。夢も希望もねえな」

雄一郎とジュリアンが談笑している。
ニキータはジュリアンを通路に引っ張り込んで「何考えてやがる」と食って掛かった。
つい叱責するような口調になった。

「見張ってんだよ」
「……」
「なんか問題あんのか?」

ジュリアンの表情にはニキータに対する不服が浮かんでいる。
年上の彼からボスと呼ばれ慕われることにかねてから違和感があったので、それ自体は少しも気にならない。だがそれは雄一郎と彼の親密さを表しているようで、危うさも感じた。

「話すくらいがちょうどいいだろ。相手に集中できるぜ」
「……」
「ボスも少し肩の力ぬけよ。いきりたってんのはホリンのアホだけで十分だわ」



ニキータは見張りを引き受けて、ホリンとジュリアンを休ませた。
後ろ手に柱を抱え、両手首を手錠で繋がれている雄一郎の前に座る。
彼の全身を覆う濃い紫色のアンダースーツは左足膝下で途切れ、代わりに真っ赤に染まった包帯が断面に蓋をしている。
満足な治療はできていない。彼の額には汗がにじみ、5メートルほど離れていても彼の短い黒髪がじっとりと濡れているのが解った。

「水を飲むか」
「ああ、頼む」

ニキータは細心の注意を払いながら要求に応じた。その途中、彼の身じろきに驚いてコップを大きく震わせてしまった。
咽せた雄一郎が顎から水を滴らせながら疑問半分、抗議半分といった視線を送ってくる。ニキータはそれを黙殺した。水を飲ませて距離を取った後も黙っていた。

(落ち着け……俺はこいつに勝ったんだ)

恐れる事はない。足を斬りおとし、腕は鎖でつなぎ、走具も奪った。
あとは油断さえしなければいい。
ニキータは最後に眠ってから何時間経っているかを数えた。
丸一日を大幅に超えているが、疲れや眠気を感じないのは緊張のためだろう。じっとしていれば糸が切れるかもしれないと思い、雄一郎の周囲をゆっくり歩き始めた。
ジュリアンの言うように話すという手もあったが、そのことで彼に文句を言っているのでやりにくい。何より斬り合った上に取引の材料として使っている相手と話す事など無いように思われた。
しかし雄一郎の言葉が、そうした思考をすべて吹き飛ばした。

「なかなかいい剣捌きだった。最後のあれは園山から教わったのか?」
「!?  はぁぁ!?あんた園山を知ってるのか?!というより――」
「お前と師弟関係なのも知ってる。前に会った時にずいぶん自慢話を聞かされたからな。
 お前の試合も見たことあるぜ。平面映像だけど」
「…………」
「とはいえずいぶん久しぶりだ。
 園山は元気か?最近はいろんな学校をめぐってるって聞いたが
 ああ、奴とはまだ日本が滅びる前、学生の頃に知り合ってね。、一緒に練習したこともある」
「……」

園山が懐かしい?俺の試合を見た?学生の頃?
得体の知れない怪物が突然人間味を帯びたように思えて、ニキータは戸惑った。

「意外だな」
「何が?」
「あんたにそんな暇があるなんてな。正気じゃ生きていられない世界にいると思ってた。
 何年も人と口を効いてなくて、言葉を忘れちまった、っていう方が説得力あるぜ」
「バカ」

そう言われても腹が立たないのは、優しげな口調のせいだろう。
落ち着いた、わずかにかすれた声が耳に心地よくさえある。

「悪人ほど人付き合いには気を使うもんさ。
 敵が相手だからこそ、そういう事を疎かにはできないんだ」
「あんた、自分が悪人だって認めるのかい」
「うん?あー」

すぐに雄一郎は、自分の来歴の事を言われているのだと理解した。
彼は日本軍の兵士として祖国が解体されるまで戦っていたが、キャリアの殆どを懲罰部隊で過ごしている。
作戦中に敵前逃亡して脱走兵となり、自国民に対する略奪を繰り返したために、捕まった後は懲罰として危険な任務にあたることになった。
と、連邦やデリーの資料には書いてある。

「別にそういう意味じゃない。
 人が俺のことを好きだろうが潔白と思ってようが、お互い敵同士に変わりない。
 なら俺は悪人さ。で、お前も気になるのかい。事の真相が」
「いいや」

ニキータは大きく首をふった。気にしてどうするのか。断罪するのか、敬遠するのか?
それがいかに無意味であるかを自分は身をもって知っている。
真相に興味はないが、ニキータは目の前の男に強いシンパシーを感じていた。

「さっきジュリアンを叱り飛ばしてたみたいだが、なぜだ?」
「あんたが気にすることじゃない」
「そりゃそうだ」

はははと笑って、雄一郎はそれきり喋らなくなった。
ニキータはジュリアンを一瞥し、今度は自分から口を開いた。
一転してすっかり話し込む気になっていた。

「あんた、なんでこんなことしてんだい」
「こんなこと、とは?」
「戦いの事だ。ただ生きて行くだけなら、もっとうまいやり方がありそうなもんだが」
「社会と渡り合うためだ」
「……どういう意味だ?」
「お前は領主になって何をする。
 宇宙に出たあとも宇宙船に引きこもって、ただ誰もいない方へ向かって行くか?
 戦いを避けて、生きるためだけに」
「……」
「俺はデリーとも、連邦ともあいにく折り合いが付かなかったけど、それでも彼らの側に居たい。
 無人の野に居ても得るものはないからね」
「……」
「母親と仲直りした?」
「そ――」

何なんだこいつは。どこまで知っている?

「いがみ合うのは隣人同士だからだ。共有するものがなければ、いがみ合うこともできない
 誰が嫌いとか悪いとか、俺から見れば豊かな話だよ」
「……」
「今更引き返せとは言わないが、本当にこれでよかったか?お前には選択の余地があったはずだ」
「あんたと同じだよ」
「うん?」
「どうしても譲れないんだ。だからあんたも戦っているんだろう?」

雄一郎はあの漫画に出てきた悪党そのものだ、とニキータは思った。
友人も仇もひとくくりにして、向こうに回さなければならない事情を抱えている。
そうでもしなければ、ガラクタとして腐っていくしかないのだ。
独自でなければ、人は屑なのだから。

「あんたとは仲良くやれそうだ。
 もっともホワイト家やデリーに従ってるようじゃそうも行かないんだろうが」
「……」
「あんたの言う悪人に俺もなる。そうすれば、お互いの関係を自分で決められる。そうだろ?」

薄く笑うニキータに対し、雄一郎は表情を曇らせた。

「悪人なんて、なりたくてなるものじゃないよ、ニキータ」



[27163] ニキータ編:敵2
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/07/12 21:44
ニキータが眠った後、ホリンは見張りをジュリアンに任せて食料を調達することにした。
睡眠をとったものの疲れは抜けておらず、体がだるくて動きたくない。だが吉井雄一郎と同じ部屋で顔を突き合わせているのはもっと嫌だった。
森を抜けて市街地に入ると、通りを闊歩するロボットがこちらを凝視してくる。
だがニキータの恫喝が効いているため危害は加えてこない。
始めはロボットが視界に入るたび緊張したが、そのうち外観からその固体が持っている機能を推察する余裕も出てきた。この楽しみのためにホリンは時折足を止めた。

出会うのはロボットばかりで人通りはほぼ皆無と言えたが、商店街に差し掛かると風景が一変する。
壊されると決まった街は賑わいと機能を失っているが、それでも暮らしは待ってくれない。日用品や食料品を求める人々が、僅かに開いている店舗に群がっている。
通貨の価値は既になく、店主が管理しきれない売り物をただ住人達に配っているようだった。受け取る人々の顔は一様に強い緊張で強張っていて、口数も少ない。
あまり外出を好まなかったホリンにも、街の落日が住人達の心に濃い影を落としているのが解る。
彼は初めてこの生まれ故郷を惜しんだ。

「……」

やがて人々はブルージュエルの走具を纏ったホリンの姿に気付く。
彼らの刮目と沈黙にホリンは圧された。何か言わねばならぬと思い、メットを外す。

「あの、大丈夫だから!」
「……」

彼の叫びに人々が顔を見合わす。
誰かがロレンスの所のホリンだ、と言うと、商店街にざわめきが広がって行く。
それがホリンを勇気づけた。

「僕たち、街を取り戻そうと思ってるんだ!今、ニキータがデリーと交渉してる!
 きっとうまく行くよ!元の暮らしにきっと戻れるから!」

心にもない、というのが正直な所である。
ニキータの話を聞く限り交渉の手詰まり感は否めない。
だが人々の顔に僅かながら笑みが咲くのをホリンは満足げに見回した。
遠巻きだった人垣がホリンに迫ってきた。

「あなたたち、今どこに居るの?」
「そ、それは、ちょっと言えない」
「いえない?なぜ?」

中年の女は訝しげな表情になった。彼女から視線をそらしたホリンの肩を若い男が掴んだ。

「交渉ってどういうこと?デリーとの取引材料を君等が持ってるってこと?
 詳しく教えてくれよ、皆で知恵を出し合えばいい案が浮かぶかもしれない」
「……」
「お、おいおい。もしかしてこれも言えないのか?」

しまった、何一つ詳細は話せないのだ。
今の状況が連邦全体に知れれば、再びこの町が戦場になるかもしれない。それに、ラリーの命もない。
必死に言い訳を考える。どうしていつも僕はこうなるんだろう、とホリンは思った。

「デリーの意向でさ。詳しい事は何も話せないんだ。
 で、でも交渉してるのは本当だよ!ほら、こうして走具を着てるのがその証拠さ。
 デリーが僕たちを慮る必要がなければ、こんなもの着てロボットの前に立てるワケがないだろ?」

人々が反応する隙も与えず、ホリンは通りを滑っているロボットの前に立ち、肩をすくめてみせた。
彼が期待したほど商店街の雰囲気は明るくならなかったが、食料を優先的に分けてもらう事はできた。迷宮に戻って成果を整理していると、食料に紛れ込んでいた一枚の紙切れを見つけた。
箱の中からそれを取り出し、何気なく広げてみると

吉井雄一郎の身柄の貸与を求む。
こちらには上空のジャミングを突破できる通信手段がある。
取引を受け入れるなら、ニキータが交渉に行っている間、商店街5番通りの食料品店の前で10秒立ち止まること。

という文字が綴られていて、隅に小さくアザミの絵が描いてある。
ホリンはしばらく惚けていた。文字の羅列を漫然と頭の中で噛み砕く。
背後ではジュリアンが雄一郎と話している。ニキータは部屋の隅でタオルを目元にかけ、大の字になっている。ゆっくりと彼の胸が上下しているのが見えた。

「……」

突如、ホリンは理解に襲われる。
ニキータを呼ぼうと肺一杯に空気を吸い込んだ所で、思いとどまった。

「……」

ホリンは紙を丸めて走具の隠しに入れた。
後でこの紙は燃やさなきゃいけないと思った。



「記者の通信手段を奪ったそうですね。なぜですか?」
「……」

前回の報告から1日と経たないうちに、チャンドラが村瀬を呼び出していた。
スクリーンに映る彼女の表情は変わらないが、現場に何らかの疑いを持っている事は確かである。

「良からぬ事を喧伝されては困りますからな。私たちが吉井を追いつめる所を、彼らが見ていても不思議ではない。消耗した吉井はまだ近くにいるかも。……などと報じられては困る」
「なるほど。では記者を何人かここに呼びなさい。話をします」
「それはできません」
「なぜですか?」
「ならぬものはならぬのです」
「そうですか。以後の報告は必要ありません。現状を維持しなさい」
「はっ」

通信が切れた。村瀬は眉間を指で揉みほぐしながら言った。

「来るな。本隊に帯同して」
「チャンドラ姫がかい」
「セルゲイ。今すぐ出来る事を何でもいいから進言しろ」
「アザミの長はメアリという老婆だ。迷宮の鍵を持っている。
 ラリーの祖母だが孫を人質に取る方法は彼女に通用しないだろう
 彼らが特定の人物に加担した事はない」
「希望的観測はともかくとして、いい情報じゃないか。おい、その老婆の居場所を洗え」

モニター越しに命令を受けた部下が通信を切ろうとする。
それを引き止めて村瀬はこう付け加えた。

「先ほど商店街で敵側の問題行動があった。
 邪推すれば吉井雄一郎がここへ留まっていると取れなくもない演説をした。
 ラリーを痛めつけろ。その模様を使い捨てのホロに保存しておけ
 あー、それと」

村瀬は少し考え込む素振りを見せた。

「メラーニエを拘束しろ。あと、彼女の腕を一本もらえ」
「……貴様ァ!」

突如怒号を響かせるセルゲイを村瀬は敢然と見返した。

「この期に及んで情報を小出しとは余裕あるね君。分けてもらいたいよ」
「貴様等がしくじれば俺はこの街で生きていかにゃならん。
 そうなれば俺達はまた敵同士だ。アザミの秘密をやすやすと明かしてたまるか」
「女にべったりで息子も御せない能無しが策なんか打ってるんじゃないんだよ
 他に隠し事はないんだろうなぁ?次は牛とファックさせてやるぞ?」
「ない」
「結構だ」

すぐに村瀬の手が回ったが、ラリーの家に居たのは彼女の父親だけだった。
彼はメアリのことは丸一日以上見ていないと言う。ラリーに会いたがるので、彼女の病室に父親もろとも監禁する。
その後村瀬はロボットを使い、数時間に渡って街を探しまわった。
するとアザミを自称する者が何人か名乗り出てきたが、彼らは肝心な事を何も知らなかった。

「これだけ探して見つからないと、地下迷宮に居るとしか思えないが」
「迷宮に?……」

セルゲイは考え込んだ。
アザミについてセルゲイもすべて知っているわけではない。彼らの秘密と言っても、先ほど村瀬に話した事が知りうる全てだ。
ただテロリストを告発し続ける謎めいた集団。
では告発が意味を成さなくなった時、彼らはどうするだろうか。

「既に迷宮に、か。あり得ない話でもないな。
 自らの手でテロリストを粛清しようと考えているのかも。そうなれば標的がここに居る誰かになるのは間違いないから、ここへ踏み込むために必要なものを調達しようとするだろう」
「アンチロボットフィールドか。既にアザミとニキータ達は結託していると?」
「わからない、状況が不透明すぎる。明日、ニキータに揺さぶりをかけてみよう」

ところがその明日になる前に、状況がまた変わってしまった。
チャンドラが中央区に降り立ったのである。

「……」

垂直に降下してくる連邦の航空機を、ロボット達はなす術もなく受け入れる。
ヘルメットを外し、風に黒髪を靡かせるチャンドラに村瀬は歩み寄って行く。

「どうやって来られましたか」
「宇宙を通ってきました」
「……」

宇宙ならばホワイト家の承認を得るだけで通過できる。

「アレクシスの協力を得て?彼奴にここの状況を教えましたか?」
「ここに行きたいというだけで、彼女はあれにのせてくれました」

チャンドラをここまで送り届けた航空機が飛び去っていく。

「ですがもし私からの連絡が途絶えれば、それは吉井がここに留まっている証拠だと伝えてあります」
「……」

村瀬は肩を落として呻いた。この時から現場の指揮権はチャンドラに移った。




[27163] ニキータ編:唆す1
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/07/18 23:07
自分の悲鳴がまだ耳にこびりついている気がする。
痛みと痒み、さらに血の染みた包帯がもたらす不快感のせいで、消耗しきっているはずなのに眠りは浅く、断続的だった。
火傷の上から鞭打たれたところが特に酷く、身じろきするたびに患部から水音が聞こえる。
負傷の程度は経験したことのある領域を大きく超えていて、意識が戻る度にラリーはこれが最後かもしれないと思った。

重いまぶたを開けると、赤ら顔をさらに赤くした父と目が合う。

「大丈夫か」
「うん」
「包帯を替えよう」

包帯も残り少ないので、胴体部分の代替皮膚だけを新しい包帯で覆う。拙い手つきでそうする父の顔をラリーは見つめた。
次に何を言い出すか解らない。家庭内ではそういう危うさを常に纏っていたのに、今ではそれがすっかり失せている。体を触ってくる手からも欲望を感じない。
と、彼の手に視線を移したところで、甲の部分にあざがある事に気づいた。
それが物を殴ったときに出来るものだとラリーは知っている。

「お父さん、おばあちゃんは?」

こちらを見ないまま、父は手を止めた。

「はぐれたままだ。デリー人が街をのっとってからこっち、あの人の姿は見てない
 よくわからないが……デリー人があの人を探してた。きっと碌でもない事情だろうが」
「え……」

デリー人が街を乗っ取った、というのがラリーにとっては初耳である。
街がどういう状況かわからない上に祖母の行方が知れない。不安がラリーの胸を締め付けた。

「きっと大丈夫さ」
「……うん」
「父さんな、やり直そうと思ってる」
「なにを?」

かすれた声で緩慢に話すラリーよりも、さらに歯切れ悪く父は言う。

「お前のこんな姿を見て、目が覚めたような気がする。
 これからは家の中の事とか、そういうのをもっと……上手くやりたい」
「……」

ラリーは微笑んだ。
家庭内の不和はすべて彼の欲望から始まっていたため、父の言う事はきっと実現できるはずだ。
火傷の痛みは辛かったが、悪い事ばかりじゃなかったな、とラリーは思った。

目を閉じると、降り注ぐ火炎が目蓋に映る。
それを振り払いながら、青い鎧を着た人が自分を抱えて走る。走る――
そこまで思い出して、ラリーは弾かれたように首を上げた。
彼の悲痛な叫び、自分を呼ぶ声がまだ耳に残っている。
それは聞き間違えようもなく、ニキータの声だった。

「ニキータは?」
「なに?」
「ニキータはどうなったの?」
「ああ……」

父は噂だが、と付け加えながらこう言った。

「なんでもどこかに立て篭もって、デリーに反抗しているらしい。
 若い奴は思い切ったことをするな。むざむざ命を捨てるようなものだ」
「そ、そんな」

赤い鎧を着た人が、鞭を振りかざしながら言ったことを思い出す。
泣きながら理由を尋ねる自分に、恨むならニキータを恨めと言っていた。
そのことが父の言葉に信憑性を持たせている。
身を起こそうとするラリーを父が押しとどめた。

「今は養生しろ。どのみちそれしか出来る事はないんだ」
「……」

ラリーが唇をかみ締めたとき、部屋にノックの音が響いた。
病室に人の出入りは何度もあったが、ノックという儀礼的動作を伴ったのはこれが初めてだった。
父娘が反応に困っていると、たっぷり間をおいてドアが開いた。

「失礼します」

入室してきたのはチャンドラだった。
彼女はパイロットスーツを着たまま、ラリーの治療に当たっていた女医と医療品を伴ってきた。
父親の誰何に応え、チャンドラは自己紹介をする。

「デリー公国のチャンドラです。ラリーさんにお話があります」

公国の姫君の名前は、連邦においても一般教養のレベルである。ラリーの視線は彼女に釘付けとなった。チャンドラはすぐに話さず、まずは女医に治療を命じた。
治療は前回よりも充実していた。特に痛み止めが十分に処方されたので、ラリーは安息に表情を綻ばせた。青ざめていた顔色にも血色が戻る。

「……」
「……」

治療を受け終えたラリーのそばにチャンドラが椅子を引き寄せて座る。少し硬い表情でラリーはそれを迎えた。
しばし見つめ合った後、チャンドラが相好を崩した。

「堅苦しいのはあまり好きじゃないの。お互いタメ口でいきましょ」

この言葉にラリーは少なからず驚いた。はい、と返事をした後、うん、と言い直した。

「ニキータ君がいま何をしているか知ってる?」
「はっきりとは解らないわ」
「彼はある場所に立て篭ってるの。その状況がちょっと厄介でね、私たちもすぐには手が出せないわ」
「……」
「彼の事を教えてくれるかしら」
「あなたは、彼を殺す?」
「ええ、このまま行けばそうなるわ。もっとも、彼だってそのくらい解ってるでしょうけど」
「……」

ラリーは顔ごと視線をそらし、沈黙した。
この拒絶にチャンドラは感心した。デリーにとって何が重要かを理解しているのだろう、目線を同じ高さにあわせてきた支配者に彼女は懇願しなかった。
そんな見込みのない事より、自分の言葉が恋人を死に追いやる危険性を注視したのだろう。
恵まれた環境で育ったこの年頃の少女にしては、甘い考えに流されない。
だがそのシビアさは、つい先ほど自分の身を襲った手酷い鞭打ちをも想起させるはずなのだ。
強く、しかも賢い子なのだとチャンドラは思った。

「ニキータ君は連邦市民になることが望みだったらしいわね。
 そのくらいなら、私は叶えてもいいと思ってるわ。ツテもあるしね。
 でも彼はそれ以上の事を望んでいるの」
「……」
「何事にも限度はあるわね、ラリーさん。
 あなたはニキータ君に妥協を選ばせる事ができる?」
「まず、彼に会わせて。話をさせて」
「まだダメよ」
「……」
「今はまだ言えないこともあるけど、私達の目的は同じじゃないかしら、ラリーさん
 あなたはニキータ君に生きていてほしい?」
「うん」
「もしあなたがニキータ君に愛されてるなら、彼に今生の別れ際、一目でも会いたいと思わせるくらい愛されてるなら、彼を救う機会を作ってあげるわ」
「……」

チャンドラは席を立った。

「もうすぐ彼が来るわ。その後で、詳しい話をしてあげる」



[27163] ニキータ編:唆す2
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/07/23 11:52
交渉の相手がセルゲイからチャンドラに変わった事で、ニキータはあらためて自分のしでかした事の重大さを知った。だが怯みはしなかった。

場所は先日と同じく豪奢な会議室だが、今日はうるさいメラーニエも居ない。
走具を着た自分の前に、彼女はたった一人で座っている。その光景にはおよそ現実感というものが欠けていた。姫を進んで敵の前に晒す国など、虚構の中にしか見た事がない。

「……」

そして何より現実離れしているのは、彼女の美しさだとニキータは思った。
それが彼女の正装なのか、トルコ石色のサリーと黄金の装飾を身につけた姿はなるほど御伽噺の姫のようで、瑞々しい褐色の肌は翳り一つなく滑らかである。
思わずニキータはラリーと比較しそうになって、それを恥じた。
チャンドラは薄く微笑みながら、彼の注視に対してこうやり返した。

「影武者ではありませんよ?」
「疑ってない。ずいぶん勇気があるなと思っただけだ」
「勇気があるから、一人なのではありません」
「じゃ、なんだい」
「強いからです」
「……」
「この世の中で最も強い人は、どういう人だと思いますか」
「禅問答かよ。そんな話なら後回しでいい。本題に入ろうじゃないか」
「代わりがいる人です。その人が死んでも代わりがいる、それに勝る強さはありません。
 私がこの場で死んでも、本国にはその代わりがいます」
「……」
「でも」

チャンドラの微笑みにニキータは目を奪われた。

「正直に言えば死ぬのは嫌です。変な気は起こさないでくださいね」
「……本題に入ろう」

チャンドラは嘘をついている。
本国には彼女に代わる人材など居ないし、彼女が死ねばデリーにとっては大打撃である。
しかしニキータは彼女の嘘を信じ、姫君まで弾薬と変わらない扱いをするデリー公国に改めて畏怖を抱いた。

「ええ、そうしましょう。その前にもう一つだけ」
「なんだ」
「メットを外してください」
「……」

突っぱねる事も出来たが、ニキータはさして迷う事も無くメットを外した。彼の気性がそうさせた。
チャンドラは頷いて礼を述べたあと、こう切り出した。

「まずは提案への回答から。
 アレクシス・ホワイトにあなたを紹介するわけには参りません。
 ただ、事態の収束に力を貸して頂けるなら、連邦市民権を用意しようと考えています
 ラリーさんの分も含めて」

ラリーに話が及んでも、ニキータは動揺を表に出さなかった。
セルゲイや村瀬という男はラリーをすぐには殺さなかったが、チャンドラはどうするか解らない。その事を頭の片隅に追いやった。

「俺が昨日ここで言った事はハッタリじゃあない。十分検討したんだろうな」
「はい。あなたはいくつか嘘をついていますね?」
「なに?」
「吉井雄一郎が生存しているなら、あなたは彼の技術を手に入れていない
 逆に彼の技術を本当に手に入れたなら、吉井雄一郎は既に死んでいます」
「・・・・・・」
「吉井は生きていて、あなたは技術を得ていませんね?
 彼を取引材料にしているのだから、おのずとこういう事になりますわ」
「何事も彼の思う通りに進むわけじゃない。爆弾なら取り上げたぜ?
 第一彼が自分の命を優先しておかしい事があるか?あんたなら迷い無く爆弾を使えるかい?」
「彼が爆弾を見せるのは、余裕がある時だけです。命拾いをしましたね」
「……」

今度は動揺よりも、不服を押さえ込むのに苦労した。
チャンドラは吉井しか見ておらず、ニキータの主張を無いものとして扱っている。
まるであなたでは吉井を阻めない、と言わんばかりに。
そんな彼女が真実を言い当てているのが不服だった。

「吉井雄一郎の足を斬りおとしたのは、彼を捕える前ですか?後ですか?」
「前だ。彼は俺が倒した。剣と剣でな」

このやりとりを外部に洩らさないために、チャンドラは護衛を連れてこなかった。
これはラリーの望みを先へつなぐために冒されたリスクである。

「この会話は記録されていません」
「だから?」
「彼の足を斬りおとしたのは、彼を捕えた後ということにしてください」
「なぜだ」
「そうしていただけるなら、今後のラリーさんの安全を保証しますわ
 重要なのは、あなたが吉井を剣で破ったという事実が外に漏れない事です」
「……」

ニキータは突きつけられた要求を点検した。
つまり以前、デリーの威光が吉井の剣によって翳ったことがあり、その彼を自分のような若造が凌いだことを世間に知られたくない、という意味か。
ニキータの表情が初めて動くのをチャンドラは見た。彼は薄い失望をデリーに向けていた。
もちろんその失望は見当違いのもので、彼はまさか自分の身を案じられているとは夢にも思っていない。

「解ったよ。吉井は俺達が捕まえたときにはもうヘロヘロで、無抵抗に近かった。
 それでいいんだろ?」
「結構です」
「ついでに、この地を吹き飛ばされても結構なのか?
 技術を奪われるくらいなら吉井は必ず自爆するとなぜわかる。
 なぜそう信じる事ができる?」
「独自の者にとって、信用は通貨よりも大切だからです。ニキータさん」
「……」
「交渉を有利に進めるためにあなたが嘘をついていると、吉井雄一郎の足跡を見れば信じる事ができます。
 彼はそういう足跡を残すことで生き残って来たのです。
 言葉ではなく、自らの行動で掟を示し、それを必ず守る事で」
「……」

掟は破られるためにある。道徳と同じだ。
それが守られる期間はいわば種まきに過ぎない。裏切りと言う収穫を豊かにするための。
そう笑い飛ばしてしまう事は簡単なはずだったが、ニキータには出来なかった。
裏切りで利益を得られるのは、そいつが社会の一員だからだ。
どんなクズでも内包しようとするのが社会だから。
だが世界の敵である雄一郎には、そもそも裏切る相手がいない。
彼の示す掟は、彼という存在そのものだ。所詮裏切りなど、善人の専売特許にすぎない。

「独自の者になりたい。ここでお父さんにそう告げたらしいわね、ニキータさん」
「……」
「雄一郎様とどんな話をしたの?」
「……」

全てを見透かされている気がする。ニキータはメットを外した事を後悔していた。

「あなた、雄一郎様になりたいんでしょう?」
「……」
「凄いのね。彼になりたいと思えるだけでも凄い事よ」

ニキータは目をそらした。チャンドラは彼を見据えたまま、真っ直ぐな青年だと思った。
彼は嘘もつけるし、動揺も隠すことができる。
だが失望と感銘を隠すことはできないのだ。

「もしあなたが本当に吉井雄一郎の技術を手に入れて、彼を殺し、この地を破壊するつもりならそれでもかまいません。
 以後は私を頼ってください。あなたに吉井雄一郎と同じ戦いを、私は提供する事ができます
 そのときはどうぞ、独自の道を歩んでください、ニキータ様」

この言葉はチャンドラが想定する「最悪の状況」に備えるために告げられた。
先の展開がどうあれ、チャンドラは謀略のために利用するラリーにだけは誠実であろうと心に決めている。
その矜持は傷つき汚れていたが、捨てようと思った事は一度もない。

「持ち帰って検討する。また明日来る」
「はい。決断は早いほうがよいでしょう」



[27163] ニキータ編:裏切り
Name: 荻原清志郎◆563e4d13 ID:9b46eef2
Date: 2011/07/29 06:32
ニキータが中央区でチャンドラと交渉している頃、ホリンはアザミの手紙に指定された果物屋の前に立っていた。
すぐ近くでロボットがこちらを見ている。それを意識しながら「10秒待つ」のは神経を削る作業だったが、終えても何も起こらない。
悩んだホリンは建物に入っていこうかとも考えたが、止めた。
もういい、何もせず帰ろう。
そう決めて迷宮への帰路につくと、先ほどまでの緊張が嘘のように解れていた。

(どうかしてた。いくらなんでもニキータに黙って、こんな大切な事を決めるなんて)

現状への不安から思わずアザミの誘いに乗ってしまったが、何も起きなかった事でホリンは冷静になっていた。
アレクシス・ホワイトとコンタクトすれば状況は進展するかもしれないが、ここがデリーの領土になってしまった以上、彼女でさえ何も出来ないかもしれない。
だがラリーが殺されてしまうのはほぼ間違いない。
自分としてはラリーの命にそれほどこだわりはないが、ニキータからすれば分の悪い賭けに違いない。
アザミに返答などすべきではなかった。少なくともニキータに相談はすべきなのだと、このときはそう思った。

迷宮に戻ると、雄一郎とジュリアンの他に、エプロンドレスを着た老婆が居た。

「……」

記憶が確かなら、いまジュリアンに銃を突きつけているこの老婆はメアリという名前である。
ステンレス製と思われる回転式の拳銃はいかにも重そうで、そのくせ威力は装具を貫けない程度のはずだ。さほど銃器には詳しくないが、その程度の知識はある。
だが膝立ちになっているジュリアンの足元には血溜りが出来ている。
物事が頭の中で、どうも上手く線と線でつながらない。

部屋の入り口に立つ自分に、2人は気づいていないように見えたが

「お帰りなさい、ホリン」

と老婆が言い、ジュリアンが驚きよりも落胆の表情を作ったので、そんな事はないと解った。

「いったい、どこから」
「はじめからいたわ」

メアリの返答を聞いてホリンは思わず部屋中を見渡した。
別段変わったところはなく、出入り口も自分が背にしているもの1つだけだ。と、足元に何かが滑ってきた。小さなメッセージカードだった。

「そこに書いてあるとおりに時計の針を合わせて、ベゼルを押し込みなさい
 開いた扉の先に通信室があります」
「ホリン……てめえ」

裏切った者よりも、裏切られた者の方が事態への理解が早かった。
撃たれた脚を庇いながら立ち上がろうとしたジュリアンを、2発目の銃弾が襲う。脚部を貫通した弾丸は、水色のプラズマを放射状にまき散らしながら地面にめり込んだ。

「ちくしょう……俺の、脚が」
「次は頭よ。お気をつけあそばせ」

甲高い声で泣き叫ぶジュリアンとは対照的に、メアリの声は可憐で落ち着いている。
彼女が投げたメッセージカードを拾って広げると、短針と長針を重ねて11時にそろえる、と書いてあった。
ホリンはロレンスが遺したゼンマイ式の懐中時計を取り出す。
これには迷宮の鍵としての機能もあり、森にある入り口の上でベゼルを押し込むと、偽装された地面が開いて迷宮の中に入れるという仕組みだ。
時刻は午前の11時を指している。これを両方11時に揃える事で、迷宮の隠された機能があらわになるということか。

「……」

父も知らなかった迷宮の秘密に通じ、セルゲイでさえ扱う許可を得ていないはずのプラズマ銃器を持つ老婆。
間違いない、このメアリこそがアザミなのだ。

「……」

理解が脳を侵すにつれて、彼の呼吸が浅く、速くなっていく。

「急ぎなさい。ニキータが帰ってくるわ」
「でも……何か、この状況を証明するデータがないと……映像、とか」
「要領の悪い子ねえ」

メアリは苦笑いした。

「通信室にホログラムのスキャナがあったと思うわ。
 私は使い方が解らないけれど、あなたはそういうことに詳しいでしょう?」
「う、うん」
「おい、いいのかぁ?」

痛みを堪えながらジュリアンは歯を剥いた。

「あんたの孫がいま、どこでどうなってっか知ってんのかよ?
 雄一郎の事を連邦にバラしたらあの子の命がねぇんだって!嘘じゃねえ!」

メアリは微笑むだけで何も言わない。
彼女の考えが読めないジュリアンは、自分の言葉を疑われていると解釈した。
いかにしてこの老婆に哀れな孫娘の危機を信じさせるか。思考がもたらす沈黙を切り裂いたのは、ホリンだった。

「死なないかもしれないじゃないか。単なる脅しだよ、きっと」
「……お前にゃ聞いてねえ」

ジュリアンの冷たい視線がホリンを射抜く。
が、ホリンははじめからジュリアンを見てさえいなかった。

「デリーが僕たちみたいな子供相手に引く訳ないじゃないか。
 いざとなったらこんな僻地、あっさりと捨てるに決まってる。面子が第一の国なんだぜ?
 よしんば取引を受けたとしても、それは雄一郎を捕まえる算段が整ったからさ。
 これしか無いんだよ、僕らが生き残る道は。
 ラリーがなんだっていうんだよ。そんなの、ニキータだけの都合じゃないか!」
「よし、もういい。お前は黙ってろ」
「ホリン、通信室への扉は部屋を出て右側よ。あなた達は行き止まりだと思っているようだけど、パスコードを使えば先へ進めるわ」
「……」

ホリンが部屋を出て行く。
それを見送るメアリをまじまじと見ながら、ジュリアンは同時に浮かんで来た根本的な疑問を口にした。

「なんで彼を勝手に連れださねぇ」
「……」
「アレクシスとの連絡も、雄一郎連れ出すのも、全部あんた一人で出来たことだろ
 一体、何を企んでいやがる。どうしてわざわざホリンを巻き込んだ?」
「それが私たちのルールだから」
「……」
「……」

ジュリアンはメアリとの相互理解をあきらめ、雄一郎を見た。
汗の量が昨日よりも増えていて、顔も白くなっている。いかにも体調が悪そうだ。
街から物資を調達するにも限界がある中、このまま彼を放置するとどうなるのか。治るのか死ぬのか、死ぬとしたらいつごろなのか。それすら自分達には解らない。ホリンが焦るのも解る。
だが彼の裏切りが五里霧中の状況を打破したかといえばそうではない。
唯一はっきりしているのは、ニキータからの期待に自分は応えられなかったという事だ。

「……」

5年前、旧市街で這い回っていた自分をニキータは引き上げてくれた。
彼が剣道をやめてからは危ない橋も渡らされたが、美味い飯と女にもありつけたし、何より自分の足を活かす機会を与えてくれたのがうれしかった。
子供の頃から足の速さには自信があったものの、それを必要としてくれる人など居らず、泥を啜るような生活を凌いでいく中で、いつしか自分の足に抱いた夢さえ忘れていた。
だが今日、それが手の届く距離にある。
そこまで自分を連れてきてくれたニキータの失敗になら、付き合う気でいたのに。

「……」

嬉々として撮影機材を持ちこむホリンに、ジュリアンは背を向けた。



空調を止め、窓を開け放った部屋で、アレクシスは汗ばみながらカキ氷を食べている。
ふわふわに削った氷と、すり潰した果肉を含むイチゴシロップで出来た山をスプーンで削り、頬張る。
口の中でそれが溶けきるまで彼女はじっとしている。
そしてまた卓上のカキ氷がスプーンで削られる。それを繰り返す。
と、傍に控えるグレッグが短いピアノの旋律をスピーカーから発する。吉報を思わせる明るいそれを聞いても、アレクシスは反応を示さない。

このピアノの旋律は、吉井雄一郎に関する情報提供を報せるものである。
約束した褒美の大きさからか、ガセネタの数も半端ではない。信憑性の高いものだけを選別させているものの、多い日は数十回も聴かされる旋律にアレクシスは少し飽いていた。
カキ氷も残り少なくなったところで、彼女はようやくグレッグを呼んだ。

「……」

背の低くなった卓上の氷山越しに、ホログラムが映る。すぐにアレクシスはスプーンを置いた。
尺は短く撮影者の腕もひどいものだが、映像自体は鮮明だった。
拘束された雄一郎のホログラムにほとんど重なるほどに接近し、顔や網膜、足の傷口などを拡大するようグレッグに命じる。気だるげだったその声が徐々に興奮を帯びていく。
立ち上がった彼女は真っ赤な舌で唇を一舐めすると

「出かける準備だ!」

そう命じてシャワー室に入った。カキ氷は無残に溶けていった。


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