牧太郎の大きな声では言えないが…

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牧太郎の大きな声では言えないが…:お葬式ライブを

 永遠のアウトロー・原田芳雄さんが亡くなった翌日の朝刊。「なでしこジャパンの凱旋(がいせん)」よりも「魁皇ついに引退」よりも、彼の急死(関連)記事をむさぼるように読んだ。僕が社会人になった67年にデビューした原田さんは超個性的で、時代のヒーローだった。

 でも……一般紙が報じた死亡記事は(必要最低限のデータは載っているが)正直、物足りなかった。行数も足りないし新事実もない。不満だった。

 近ごろ死亡記事が面白くない。誰が、いつ、どこで、何が原因で、何歳で死亡した。通夜、告別式は……と味気ない。

 なぜだろう? 初期の新聞は「有名人の死亡」でメシを食っていたじゃないか?

 毎日新聞の前身「東京日日新聞」では福地桜痴(本名・源一郎)が京都から伝えた「元勲・木戸孝允の葬儀」が話題になった。

 「当日早朝より伊藤(博文)参議をはじめ、山口より出られたる勅奏官は何(いず)れも堤町の旅館に集まりて葬事を幹し、その他、三条(実美)大久保(利通)大木(喬任)西郷(従道)佐々木(高行)の諸公より在西京の勅奏官は悉(ことごと)く総出にて来会せらる。旅館の門外は数十丁の間は巡査が警衛し、門内の右の方には幕を打廻して出入り町人並びに供待の所とし、玄関の右にも仮屋を立て、名刺を受け取る所とす」=1877(明治10)年6月5日付。人々の流れが手に取るようにわかる。

 板垣退助や後藤象二郎らを生んだ土佐のお殿様・山内容堂は維新後、政治に一切、口を出さず「鯨海酔侯」と号し、酒と風流の毎日だったが、その葬列は……誕生したばかりの陸海の兵士の後に「柳橋その他芸妓(げいぎ)、幇間(ほうかん)、猿若(歌舞伎の道化役)、芝居役者……」が並んだと当時の「新聞雑誌」が報じている=72(明治5)年6月。「騎兵隊の列」で維新政府の威光をアピールしたパフォーマンスを書き、芸者・役者の列は華やかな彼の人生を見事に表現した。

 言ってみれば、明治の死亡記事はお葬式ライブ。テレビのワイドショーがコレを継承しているが……いつも「お葬式と言えば……ご存じ××さん」が登場し、涙ながらに「早死にだった!」と嘆くだけ。テレビの限界かもしれない。人々の「最期」を新聞で読みたい!

 発表ジャーナリズムに堕落したとは言わないが、新聞記者が「お葬式の現場」に現れないとすれば……それこそ「新聞の最期」ではないか。(専門編集委員)

毎日新聞 2011年7月26日 東京夕刊

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