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日蓮大聖人御書講義 十大部講義1 立正安国論 1
第一段 災難由来の根本原因を明かす (0017-01~0017-14)
第一章 災難の由来を問う (0017-01~0017-09)
第二章 災難の根本原因を明かす (0017-10~0017-14)
第二段 災難由来の経証を引く (0017-15~0020-13)
第一章 災難由来の経証を問う (0017-15~0018-01)
第二章 経証の一 金光明経 (0018-02~0018-12)
第三章 経証の二 大集経 (0018-13~0019-03)
第四章 経証の三 仁王経 (0019-04~0019-08)
第五章 経証の四 薬師経 (0019-09~0019-10)
第六章 再び仁王経を挙ぐ (0019-11~0020-04)
第七章 再び大集経を挙ぐ (0020-05~0020-10)
第八章 四経の明文により災由を結す (0020-11~0020-13)
立正安国論 文応元年七月 三十九歳御作 与北条時頼書 於鎌倉
第一段 災難由来の根本原因を明かす (0017-01~0017-14)top
第一章 災難の由来を問う (0017-01~0017-09)top
そこで、仏法の中の浄土宗では阿弥陀の名号は煩悩を断ち切る利剣であるとの文を、ただひとすじに信じて念仏を唱え、天台宗ではすべての病がことごとくなおるという薬師経の文を信じて、薬師如来の経を口ずさみ、或は病がたちまちのうちに消滅して、不老不死の境涯を得るという詞を信じて、法華経の経文をあがめ、あるいは七難がたちまちのうちに滅して、七福を生ずるという仁王般若経の句を信じて、百人の法師が百か所において仁王経を講ずる百座百講の儀式を整え、またあるいは真言宗では、秘密真言の教えによって、五つの瓶に水を入れて祈祷を行い、禅宗では坐禅を組み、禅定の形式ばかりをととのえて、空観にふけり、またある者は、七鬼神の名を書いて千軒の門に貼ってみたり、ある者は国王・万民を守護するという仁王経の五大力菩薩の形を書いて万戸に掲げ、神道では、天の神・地の神を拝んで四角四堺のお祭りをし、政界の国主や国宰など、時の為政者が万民一切大衆を救済するために徳政を行っている。 しかしながら、そのようなことはしているけれど、ただ心を砕き、夢中になって努力するのみで、ますます飢饉や疫病にせめられ、乞食は目にあふれ、死人はいたるところに転がっている。そのありさまはあたかも、うず高く積まれた屍の物見台となしたように見え、道路に並んでいる死体は橋のように見えるのである。 観れば、太陽も月も星もなんの変化もなく、きちんと運行し、仏法僧の三宝も世の中に厳然とある。またかって平城天皇の御代に八幡大菩薩の託宣があって、必ず百代の王を守護すると誓ったというのに、いまだ百代になっていないが、この世は早く衰えてしまい、王法はどうして廃れてしまったのか。これはいかなる過失から生じたものであり、またいかなる誤りから、かかる状態になってしまったのであろうか。 |
講義
立正安国論は、日蓮大聖人の数多くある御書のなかでも、その最高峰にそびえる書である。それは、末法の全民衆救済の指南書であり、かつまた未来を映し出して曇りなき明鏡である。時代の変遷にかかわらず、未来永劫にわたる、国家の根本の書である。否、いかなる国家、民族にも通ずる、全世界、全人類に真実の幸福をもたらす偉大なる亀鏡である。
そしてまた、立正安国とは王仏冥合論の別名であり、そこに脈打つ民衆救済の大精神は、実に日蓮大聖人の御一生の総体であり、これをおいてほかに、末法の法華経即日蓮大聖人の大仏法を信ずる行動はないのである。
まことに、この一書こそ、苦悩に沈む民衆を救い、全人類の闇を照らす巨星といえよう。
過去、幾度か、歴史に名を残す哲学者、宗教家、思想家等は、自己の畢生の書を世に問うた。しかし、その書によって、幾人の人間の幸福が、また全人類にどれほどの平和がもたらされたであろうか。相次ぐ混乱と動乱にゆさぶられている世界の現状は、まさにおれらの書に対する厳しい審判といえるのではないだろうか。
しかし、ここに、ともすれば不安と絶望に流転されゆく人類の未来に、偉大なる光明を与え、希望と勇気をみなぎらせ、現実に、この地上から悲惨の二字を抹殺する力強き、生きた書こそ、この立正安国論なりと叫んでやまぬものである。
立正安国論は、日蓮大聖人が御年三十九歳(満三十八歳)の文応元年七月十六日、幕府の役人の宿屋左衛門入道光則を通じて、時の権力者・北条時頼にあてた、第一回の国家諫暁の書である。そして、その形式は「旅客来りて嘆いて曰く」の冒頭で始まり、旅客と主人の十問九答の問答からなっている。
ここに旅客とは、宗教の是非、曲直も知らず、誤れる宗教に執し、迷妄におおわれた一切衆生であり、別しては、時の国家権力たる北条時頼である。主人とは、一往、愚かな客に対して法華の正法を説き示す人であるが、再往は、実に日蓮大聖人が、日本国の、否、全世界の、一切衆生の主君であらせられることをあらわしているのである。すなわち撰時抄にいわく「日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」(0256-11)と。
国家諫暁は、たえず、時の最高権力者に対してなされるものだ。したがって、時には天皇に対してなされ、時には幕府に対してなされてきた。鎌倉幕府が滅び、京都に幕府が移った時に日目上人が天奏を行われたのも、その原理からである。されば、立正安国論の国家の対象たる客人の内容も、時とともに異なるのは当然である。
この民主主義の時代にあっては、民衆に主権がある。さらには、権力者といえども、民衆より送り出された指導者であることも明瞭である。
すなわちこの立正安国論は、現今においては、苦悩に沈み、絶望の淵に立たされた、日本の、全世界の人々に対してしたためられたものであり、別しては、日本の指導者、世界の指導者が、旅客にあたると拝すべきであろう。
されば現今の心ある指導者よ、この果てしなき不幸を絶滅せんと心をくだく指導者よ、静かに日蓮大聖人の言々句々を排せ。大聖人の燃ゆるがごとき、民衆救済の情熱よりほどばしり出る正義の言を聞け。されば、活路を切り開くことができることは絶対なりと、心より訴えるものである。
旅客の最初の質問は、現在の世の中にはありとあらゆる災難が競い起こって、万人が嘆きのどん底にあえいでいるが、これは、いったい何の禍によるのか、なんの誤りによるのであるかとうい質問である。大聖人が、災難の由ってくる根本原因について説かれるための質問である。
当時の三災七難
日蓮大聖人が、この立正安国論を著された当時の世相は、物情騒然たるものであった。大集経にいわく「我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固・次の五百年には然定堅固・次の五百年には読誦多聞堅固・次の五百年には多造塔寺堅固・次の五百年には我法の中に老いて闘諍言訟して白法隠没せん」等云々。
末法の初めは西暦1052とされている。釈尊滅後、年がたつにしたがって内容が失われ、ますます形式化した釈尊の仏法は、このころから不思議にも「闘諍言訟・白法隠没」の世相を出現するようになった。わが国では、当時摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつある時代で、仏教の退廃は目をおおわしめるものがあり、天台宗ですら、慈覚・智証のために謗法と化し、叡山の僧は僧兵と化して東大寺、興福寺の僧兵とともに争い合う醜状を呈した。「中右記」長治元年(1104)の条に「近日叡山の衆徒乱る、東西の塔僧合戦す、あるいは火を放って房舎を焼き、あるいは矢二にあたりて身命を亡う、修学の砌、かえって合戦の庭となる。仏法の破滅已にこの時なるべきか」と嘆いている。1059年、あまり放火が多いので、諸門を警護、1082年、動乱の世を象徴するかのように富士山が噴火、1156年、保元の乱、1159年、平治の乱。これは天皇家、摂家の間で同族が争い合う姿であった。武家においても、保元の乱後、源氏の棟梁源義朝が、父・為義をはじめ同族の多くを斬らねばならないといった悲劇も生じた。仏教の慈悲の精神が約340年の間(嵯峨天皇の時代から)廃止されていた死刑も、末法にはいって信西入道によって復活した。このような時代の民衆は、あきらめと頽廃的な気分にひたり、それに乗じて浄土宗が広まり、自殺者を大量に出している。
仏法の頽廃、政治の乱脈と、仏法も王法もともに尽き、人々の生命力は極度に弱まり始めてころから、旱魃、飢饉、大火、地震、疫病の流行等、人々はいまだかって見たこともない幾多の災厄に遭遇したのである。
1177年には、四月から延暦寺の衆徒の強訴が起こって半年以上も都を騒がし、四月二十八日には宵の口の午後八時ごろ、富小路の、ある病人の家から出火し、おりからの大風にあおられて、火は大内裏におよび、都の三分の一を失った。都はじまって以来の大火であった。
右大臣藤原兼実は、その感想を「玉葉」に次のように書いている。
「五条より南におこった火が八省司におよんだことは未曾有のことだ。このように延燃するのはただごとではあるまい。火災、盗賊、大衆の兵乱、上下の騒動、まことに乱世のいたりだ。人力のおよぶところではない」
鎌倉初期の代表的な文学作品の一つといわれる鴨長明の「方丈記」には、この1177年の大火をはじめ、1180年の旋風、1182.83年間の全国的な大飢饉、1285年の大地震等天変地夭がきわめてリアルに叙述されている。
「築地のつら、道のほとり、飢え死ぬるもののたぐひ、数も不知、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満て、変わりゆくありさまは、目もあてられぬること多かり…京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける、いはむや、その前後に死するもの多く、また河原、白河、西の京、もろもろの路地などを加へていはば、際限あるべからず。いかにいはやむ、七道諸国をや」
「また、同じころかよと、おびただしく大地震のふること侍りき。そのさま、よのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出て、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす。都のほとろには、在々所々、堂舎塔廟、一つとして全からず。或はくづれ或はたふれぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙の如し、地の動き、家のやぶるる音、雷にもことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く、羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲に乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか」
この方丈記等からも、時末法にはいり、人心乱れ、災厄が嵐のごとく、起きてきたことが伺われる。だがこれらの難も、これからの三災七難にすぎなかった。さらに、その後「悪世末法」の経文どおり、阿修羅のごとく、血みどろの葛藤が繰り広げられ、また災いは災いを呼び、三災七難は激烈をきわめ、大聖人が立正安国論を著される直前は、まさにその頂点に達したのである。
平安末期よりも、鎌倉時代にはいって、いかに人心が乱れてきたかは、放火の件数と内容も明らかである。延久三年(1071)から後白河天皇の保元元年の前年(1155)を平安末期とし、保元元年(1156)より分治元年の前年、(1184)までを過度期、文治元年(1185)より建長元年(1249)までを鎌倉前期とすると、鎌倉前期は平安末期よりも、放火事件は二倍にはね上がっているいる。また同じ放火であっても、平安末期には、怨恨に起因するものが多かったが、それ以降は、むしろ強盗略奪を目的とするものが多くなっている。また、平安末期、過度期においては、公卿や皇族の御所に対する放火が目立つが、鎌倉前期においては、寺院、一般庶民の家の放火が多い。承久三年(1221)の月次記にも「近日放火往々不絶」とある。その後寬喜年間(1229~31)のころになると、一般住宅への強盗放火は甚だしく、刀傷殺害をともなう悪質な犯罪が横行した。いかに民衆の生活が逼迫していたか、これらでも想像できよう。寺院においては、尊勝寺、延勝寺、最勝光院、蓮華蔵院、法成寺等、院政の花やかであったとき営まれた寺院が凋落し、盗人の暴行に任せるのみであった。これらの寺院の末路こそ釈迦仏法隠没を象徴したものであった。
目をおおう惨状
大聖人が文永五年にしたためられた立正安国論御勘由来には「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す.,同二年戊午八月一日大風.同三年己未大飢饉.正元元年己未大疫病同二年庚申 四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ」(0033)とある。
死ぬ人が大半以上におよんだことは、痛ましいかぎりではないか。死が影のごとく身に添い、あたりは屍臭がただよう。餓鬼・疫癘・殺剹のとりまく世界の人々の姿こそ、まさしく三悪道・四悪趣の姿ではないか。
特に飢饉の惨状は、目をおおうものがある。領主の過酷な搾取をうけて泥と草に埋まっていた農民や、流亡のはてに都市の片隅に食を拾う貧民は、弱い者からつぎつぎに餓死に追いやられた。
百練抄、歴代編年集成等によると、正元元年に、全国的な大飢饉と大疫病が襲ったときに、京都に死人を食う十四・五の小尼があらわれ、内野から朱雀大路を南に行きつつ、累々と横たわる、死人の上に乗ってその肉をむしり食い、目もあてられぬ様を出現したとのことである。いうまでもなく飢饉のために発狂したのであった。
疫病の暴威にたいしても、なんらなすすべを知らなかった。そのころの医学では、赤痢などはなおす方法が見あたらず、ましてやそれ以上のコレラ、疫痢、ほうそう等にたっては、その猛威の衰えを待つばかりである。牛馬まで巷に倒れたとあっては、どれほど生物の生命力が弱っていたかわかる。ゆえに、「天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ」とは短い言葉であるが、いかに民衆が困苦の極みにあったのかがよくわかるのである。医療の方法もなく、貧民救済の手だてもない。骸骨は道いっぱいに横たわり、死ぬ者も民衆の大半を越え、苦難と絶望にうちひしがれ、身近き者の死を悲しまないものはなかった。まことに悲惨の極地である。
時の指導者は、これに対して方法を講じないわけではない。全力をつくしたと思うが、いっこうに効果がないのである。念仏の輩は西方の阿弥陀仏にすがり、天台真言の徒輩は東方の薬師如来を信じたが東西の二仏共に効なく、また法華の妙文を唱えたり、仁王経を誦したりするも、釈尊の経力はまったくあらわれず、真言の者は、真言の儀式によって世を救わんとし、禅宗の連中は坐禅入定によっておのれを救わんとするも、教観ともに力なく、七鬼神および五大力の偶像を千戸万戸に貼るという遇像の権威まったく地に落ち、なんの救いにもならない。陰陽道は天神地祇を祀り、国主国宰は徳政を行うといえども、二階から目薬というほどの慰めも人々に与えることはできない。 このように指導者は肝胆を砕き、頭を痛めるけれども、いよいよ飢饉、疫病は増長し、死人と乞食がふえる一方である。重なり合った屍は物見台のようであり、並んでいる屍は橋のように見える。以下に悲惨なことであろうか。この時の民衆の心を察すれば、神も仏も人も頼みにならないといった、あたかも太平洋戦争後の日本人が味わった心境のごときものか、あるいはそれ以上のものであったのか、まことに察するにあまりある。
されば旅客は長嘆息していわく「天に日月あり、星道も乱れなし、世には三宝もいます。かつまた八幡大菩薩の百代の王を守護すとの託宣もいまだ八十九代より過ぎぬのに、なぜかくもこの世の中は衰え切ってしまったのか。なぜ王法もまた滅尽したのか。これはいかなる過失から生じたものであり、またいかなる誤りからこんな状態になったのであろうか」と。人々は、その誤りの根源を知らず、ただ嘆くのみであったろう。最高指導者たる北条時頼が、これをしらなかったということは、実に甚だしきものである。「前車の覆えるは後車の誡め」である。現代の指導者も深く心すべきであろう。
大法興廃の瑞相
しかして、一方では、当時の人々は、このような苛烈な三災七難をうけ、真実に民衆を幸福にしきる大思想、大宗教を求めたのも必然であった。一方では貴族化し、廃退した既成仏教への不信と疑惑をいだきつつ、他方では、真に民衆に根ざした力ある宗教を人々は心の底より欲していたのだ。だが、無智のゆえ、あえぎ、あせり、念仏のごとき低級なる宗教をはんらんさせてしまったことも事実である。
されば、この三災七難の姿こそ、大仏法興隆の前相であり、大善の前の大悪であった。顕仏未来記にいわく「仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり、其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之れ有るか、所謂仏生の時・転法輪の時・入涅槃の時吉瑞・凶瑞共に前後に絶えたる大瑞なり、仏は此れ聖人の本なり経経の文を見るに仏の御誕生の時は五色の光気・四方に遍くして夜も昼の如し仏御入滅の時には十二の白虹・南北に亘り大日輪光り無くして闇夜の如くなりし、其の後正像二千年の間・内外の聖人・生滅有れども此の大瑞には如かず、而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか、大虚に亘つて大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん、当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」(0508-11)と。
文中「聖人生れたまわんか」とは、末法の御本仏、日蓮大聖人の御誕生である。「大法興廃の大瑞」とは、興るは大聖人の仏法、廃は釈迦仏法を意味し、当時の三災七難は、釈迦仏法では、もはや民衆を救うことができないという実証であり、大聖人の仏法興隆を示す御文である。まことに、日蓮大聖人のご出現、大白法たる大御本尊の顕現は、時のしからしむるのみとしかいいようがない。
世界史上の三災七難
世界史のうえからは、また13世紀から15せいきにかけて、あらゆる面で大変動期であり、日蓮大聖人の大仏法出現と時を一にするのは、まことに不思議というべきである。なぜならば日蓮大聖人の大仏法こそ一閻浮提広宣流布、すなわち、全世界の民衆をすくうべき大宗教なるがゆえである。
そもそも仏法は、キリスト教、イスラム教とともに、世界の三大宗経といわれ、また世界的宗教ともいわれる。世界的宗教とは国境、民族を越え、全世界に流布し、信奉され、全人類を救済しうる私宗教である。
それに反して、ある民族、ある国家においてのみ信奉され、普遍性を持たない宗教が民族的宗教であり、その典型が、ユダヤ教、インド教、そして日本の神社神道でなどである。
しかして、東洋仏法の心髄、日蓮大聖人の仏法こそ、真実の仏教であり、全人類を救済すべき、最高唯一の世界的宗教なることは、すべての点からみて明白である。
観心本尊抄にいわく「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254-08)と。三大秘法抄にいわく「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してフミ給うべき戒壇なり」(1022-15)と。
聖人知三世事にいわく「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(0974-12)と。
一閻浮提とは、全世界という意味である。日蓮大聖人の大仏法は、正しく国境、民族を越えて全世界に広宣流布し、全人類を救済せんとの一大宣言であられる。
不思議にも、この世界的宗教の出現と時をおなじくして、世界は活発な文化交流時代に入り、しかも一大変動期を迎えたのである。すなわち、日蓮大聖人が立宗宣言された建長五年は西暦1253年、13世紀の半ばにあたり、大陸においては蒙古軍や十字軍の遠征等があり、海洋においても羅針盤の普及によって東西交流の一大発展期を迎えていた。
13世紀後半、1279年に本門戒壇の大御本尊が建立され、法体の広宣流布は成し遂げられた。この13世紀を通じて、日本において、東洋において、西欧において、世界的に三災七難が競い起こった。そして、化儀の広宣流布に立ち上がった現在においても、まさに三災七難は、世界的規模においてまきおこっている。「三世各別あるべからず」と。七百年前も、現今も、ともに、世界の三災七難が証明となって、日本の広宣流布を推進させ、日本の最為災七難が証明となって、全世界へ広宣流布を前進させるものといえよう。
歴史は人間を変え、しかして人間を進める。人間の意志は、必ず歴史を発展させずにはおかない。世界広布の大思想は、実にわれらの強き一念で決定しゆくとの大確信に立って更に勇ましく前進しようではないか、
西欧社会の黎明は、15世紀のルネサンスに始まるといえよう。しかしながら、日本の黎明、東洋の黎明は、それより2世紀も早い、13世紀に、すでに輝かしい第一歩を踏み出していた。これこそ、人間の自由・平等・尊敬をたたえた仏法民主主義、日蓮大聖人の大生命哲学の誕生である。
大聖人仏法の世界的意義
ここで、世界史上由り見た三災七難の様相をとらえ、かつ世界的大変動を論じ、日蓮大聖人の仏法の世界史的意義を明らかにしたい。
国際海洋学研究委員会の会長を務めたことのあるペターソンの研究によると、歴史時代に入ってから、北欧における苛烈な気候は、13世紀から15世紀にかけておこっているという。アイルランドの古記録によれば、14世紀冬、狼の群れがノルウェーからデンマークへ、海の氷の上を渡って移動したとあり、そのころバルト海は隅から隅まで氷が張りつめていたことが伺われる。南欧でも、寒波がしばしば襲って来て、作物がとれず、飢饉が起こったと記述されている。
また、前述のごとく13世紀という世紀は、欧亜世界の歴史のうえで、かってない恐るべきエネルギーが荒れ狂った時代であった。すなわち蒙古族の勃興、蒙古の欧州遠征、元の建国がそれである。13世紀の初頭、東北アジアの草原でモンゴルを統一したテムジンは、1206年、チンギス汗と称して、不敗の騎馬軍団をもって四方へ侵入、モンゴル兵の行くところ、都市も城も破懐つくされ、人々は殺戮しつくされた。
かくして、大空の中の一点の黒雲は、みるみるうちに欧亜全大陸をおおう暴風となり、チンギス汗からオゴダイ汗、グユグ汗、モンゲ汗、フビライ汗までのわずかの四・五代間に、アジア、ヨーロッパにまたがる空前絶後の大帝国が建設された。
すなわち、西遼に代わったナイマン部のクチュルクを滅ぼし、その西のトルコ系中央アジアの大国ボラズムを倒し、南ロシア方面を征し、西夏、金、南栄を滅ぼした。さらにアジアにおいては高麗を征服させ、雲南、安南、チャンパ、ビルマ、ジャワ、シャム、スマトラ、インド、チベット、カシミール等が次々と征服された。他方ヨーロッパ遠征軍は、アルメニヤ、ペルシャ、シリアを占領し、ロシアにいたってはモスクワ、キブチャク、キエフを征し、さらにポーランドを破り、モラヴィア、ボヘミヤを経てオーストラリアに攻め込んだ。オーストラリアの首都、音楽の都ウイーンには、現在も700年前の蒙古に備えて築いた城壁が残っているほどである。さらにハンガリーに侵入し、ドナウ左岸等を興廃せしめた。
かくして、シリア以東のイランイラク地方を平定して、イル汗国、シベリア、南ロシア方面にはキプチャン汗国、外モンゴル西部にはオゴタイ汗国、中央アジアにはチャガタイ汗国、という四汗国がつくられた。ヨーロッパ諸民族は、これを黄禍として、恐怖におののき、なすところを知らぬありさまであった。
フビライ干の時は高麗を屈服させ、さらに日本の攻略も試しみた。いわゆる文永の役および弘安の役である。この民族の大移動もまた、あの13世紀から始まる苛烈な気候を受けたからであるともいわれる。
大聖人の御一生と蒙古軍
日蓮大聖人が御誕生の1222年には、蒙古軍がインドに迫っていた、インドは大聖人御誕生の16年前、1206年にはすでにイスラム教によって武力制圧され、仏教は全く尽滅していたのである。さらに、大聖人が16歳で出家された1237年には、蒙古軍は長駆、ロシアのモスクワやキエフを攻略しており、大聖人が立正安国論を呈出された1260年は、欧亜にまたがる大帝国を築いたフビライが即位した年でもあった。しかし、当時、日本一国あげて、蒙古襲来等は、だれ一人としてて、夢にも思わなかったことであった。
日蓮大聖人は蒙古の世界侵略をもって、一応、一閻浮提の闘諍と申され撰時抄には、次のごとく仰せである。
「今末法に入つて二百余歳・大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起るべき時節なり、伝え聞く漢土は三百六十箇国・二百六十余州はすでに蒙古国に打ちやぶられぬ華洛すでにやぶられて徽宗・欽宗の両帝・北蕃にいけどりにせられて韃靼にして終にかくれさせ給いぬ、徽宗の孫高宗皇帝は長安をせめをとされて田舎の臨安行在府に落ちさせ給いて今に数年が間京を見ず、高麗六百余国も新羅百済等の諸国等も皆大蒙古国の皇帝にせめられぬ、今の日本国の壱岐・対馬並びに九国のごとし闘諍堅固の仏語地に堕ちず、あたかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし、是をもつて案ずるに大集経の白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(0264-14)
西欧の三災七難とキリスト教の堕落
また14世紀から15世紀にかけても、英仏百年戦争、チムール帝国の制覇、オスマントルコのヨ―ロツパ侵入とうがあり、気候の苛烈化と、それにともなう人類社会の変動は、まことに激しいものがあった。その社会の動乱はさらに、飢餓をもたらし、疫病を蔓延だせた。
特に14世紀のペストの蔓延は、言語に絶する悲惨なものであった。アジアにはっせいしたこの疫病は、東方通路を経て1346年南ロシアに侵入し、ヨーロッパ各地で暴威をふるい、1356年に終息した。死亡率はきわめて高く、ヨーロッパの総人口の三分の一は死亡したといわれる。
ここで見落としてはならないのは、キリスト教会の乱脈である。キリスト教では、すでに末法にはいった1054年には、ギリシャ、ローマの二教会がまったく分離し、同じ年の7月4日には、星の大爆発があって、恐るべき大異変に人々は不安のどん底に陥っていた。さらに1095年のフランスのクレムリン宗教会議以来、十字軍の遠征が、およそ200年にわたって行われた。日蓮大聖人御誕生の一年前、1221年に十字軍は第五次を終了し、1248年(聖齢27歳)に第六次が起こされ、ついに1270年(聖齢49歳)の第七回をもって終わるのである。このころから、法王権が急速に衰え、法王庁内部でも分裂などがあり、教会は、腐敗堕落し、その乱脈ぶりは、目にあまるものがあった。しかしイスラム文化との接触によって、世界交流の道がひらかれるという結果を招いたのである。
ペストが大流行した背後には、実にこのような教界の腐敗と、それにともなう社会の記風の乱れがあった。当時の教会がいかに堕落していたかは、オランダのエラスムスの「痴愚神礼賛」、イタリアのボッカチオの「デカメロン」、イギリスのチヨーサーが書いた「カンタベリー物語」等に、するどく指摘されているところである。
これ自体、キリスト教がいかに無力であるかの証明である。これ以後、キリスト教は、衰退する一方であり、「アビニョンの幽囚」等の事件とともに、その命脈は断ち切れてしまったといえよう。事実、その後、キリスト教がかってのような隆盛を示したことが一度もなかったではないか。
一方では、13世紀ごろから、新しきヒューマンニズムの胎動があった。やがてこれは文芸復興となり、中世の幕を閉じることになる。実に不思議なことである。真に、自由、平等、尊敬を、きびしき生命哲学をもって説き明かしたのは、仏法である。東洋に、そのなかでも日本に、今まさに真のヒューマンニズムに根ざした、日蓮大聖人の仏法が興隆するときに、西欧でもまたヒューマンニズムの胎動があったことは、偶然の一致か、さもなくば、時のしからしむるか。時とは不思議なものである。人間生命の奥底の流れが時をつくるのか。また国土のリズム、否、大宇宙のそれ自治が時を形成しているのか。
交通・通信の発達と仏法の伝播
世界広布にあたって、重要な要素は、交通、通信の発達である。現在化儀の広宣流布の時を迎えて、全世界の交通、通信の発達は目覚ましいものがあり、全世界は恰も庭先のごとくになり、通信衛星によって、世界の出来事が、テレビ中継されるまでになったのである。しかして、七百年前の法体の広宣流布の時、すでに世界広布の萌芽が芽ばえていたことも、また忘れてはならな。
すなわち東西両洋にわたる陸路の交通は、早くから活発であった。漢の時代以前に、すでに中国と西域諸国を結ぶ、天山北道、天山南道が開拓され、仏教東漸と共に、中国とインドや西域諸国との交流は、いよいよ頻繁になった。漢の時代には、ローマとの交流も行われ、いわゆるシルク・ロードも開かれていった。唐の時代は、法華経を根底とする思想が流布し、中国が世界の中心の観を呈するほど隆盛をきわめ、遠くヨーロッパからも、唐の文化を摂取する動きは活発をきわめた。
特に日蓮大聖人の御在世時代にはいると、蒙古軍のヨーロッパ遠征、さらには四汗国の建設等が、東西交流をいよいよ激しくした。蒙古族は欧亜にまたがる大国家をたてたが、全領土を元朝のもとに統一したのではなかった。フビライ汗のころは、中国本土、満州、モンゴルを直轄地、朝鮮、チベット、安南を直属地とし、キプチャク、イル、チャガタイ、オゴタイの四つの汗国は支配地固有の文化を重んずる統治方式をとった。たとえばキプチャク汗国は、南ロシアのトルコ、スラブ民族のうえにたてられたスラブ化、イスラム化し、ヨーロッパ諸国とも交流した。イラン、イラク方面のルイ汗国は東ローマ帝国やローマ教皇とも親しみ、のちにイスラム教に傾き、これらの四汗国はやがて元朝から離反する傾向を示した。
西洋ではかってマケドニアのアレキサンダー大王が、ペルシャ、エジプト、中央アジアから、インドのまで進出し、ヘレニズム文化を生み出した。その後、日蓮大聖人の御在世時代に行われた、十字軍の七次ににわたる遠征は、地中海を中心として、東洋と西洋との交流を生じ、優勢なイスラム文化を摂取したヨーロッパ民族は、やがてルネサンスの黎明を築くことになった。
特に特筆すべきは、日蓮大聖人の御在世時代から、海洋における交通がきわめて活発化したことである。インド、中国の海洋における活躍は、3世紀から10世紀にかけて、かなり名高かった。11・2世紀頃はアラブ人が活躍し、おそくとも1116年には、アラビア人によって磁石による羅針盤が発明されたともいわれる。また1137年に石に彫刻された地図が残っているし、1155年には地図は実際に印刷されていた。これらの発明は、海上交通に大威力を加え、12世紀後半から、中国はインド洋に他方、やがて東洋の航海学を学んだ西洋の海洋制覇がようやく始まるのである。
1275年すなわち建治元年マルコ・ポーロはローマ法王の書簡をもって、今の開平に到着し、1295年にマルコ・ポーロは中国から航路ヨーロッパに帰った。マルコ・ポーロの「東方見聞録」は初めて日本をヨーロッパに紹介したもので、コロンブスも黄金の国日本というイメージに奮起して、日本をめざして海洋に進出し、アメリカ大陸を発見したものであるという。その後、スペイン人、ポルトガル人等の世界的海洋出進が顕著になった。1405年に中国の鄭和六十ニ隻の船と二万七千人の乗組員の艦隊をもって、ジャワ、シャム、セイロン、インド、ホルムズ等を訪問したことも有名である。これらの海洋における世界交流は、日蓮大聖人の御在世中に始められたことは、誠に意義深いというべきである。
日本に全人類救済の大宗教誕生
次に宗教における闘諍について、キリスト教、イスラム教等については、すでに述べてごとくであるが、仏教はもはや日蓮大聖人の時代に、インド、中国において滅失していたのである。すなわち、インドにおいて、仏教はアソカ大王、カニシカ王、さらにハルシャ王等によって興隆し、平和文化国家を築く基盤となってきたのであるが、ついに8世紀には、イスラム教徒が「コーランか剣か」を合い言葉にインドに侵入し、12世紀には仏教興隆の中心地であったマカダ国も滅ぼされ、1206年、日蓮大聖人出現の16年前に、インドにイスラム帝国が築かれるにいたり、仏教はまったくインドから姿を消したのである。かくしてインドの地は、唯一神アラーを奉ずる低級なイスラム教と、カースト制度をしくインド教に蹂躙され、今日のごとき禍根をいまだに残しているのである。日蓮大聖人は顕仏未来記に「漢土に於て高宗皇帝の時北狄東京を領して今に一百五十余年仏法王法共に尽き了んぬ、漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く大乗経は多分之を失す、日本より寂照等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し、故に遵式の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」等云云、此等の釈の如くんば天竺漢土に於て仏法を失せること勿論なり」(0508-04)と仰せである。
釈尊の「白法隠没」の金言に違わず、いわゆる釈迦仏法は、末法において全く減尽し去ったのである。しかして、末法の救世主、御本仏、日蓮大聖哲の大仏法が、いよいよ出現するのである。同じく顕仏未来記にいわく「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508-02)と。そして、法華経の行者、すなわち末法の御本仏は、ただお一人、日本に出現されたのである。
ゆえに、顕仏未来記にまたいわく「五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何、答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや…仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり…而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか」(0508-01)と。
とまれ私は、この全世界の大変動、ならびに世界交流の姿こそ、大白法興隆の瑞相であり、日蓮大聖人の大仏法が、はじめから、一閻浮提に流布し、全人類を救済すべき生命をもって誕生した大宗教である証拠なりと確信するものである。「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」の未来記をよくよく思い合わすべきである。
安国とは一往は日本、再往は全世界
されば、立正安国といえども、ただ単に日本一国にとどまるものではない。立正安国を仏法と王法に配するならば、立正とは仏法であり、安国とは王法になる。さらに立正の正とは、三大秘法と訳し、安国とは、一往は日本国、再往は一閻浮提である。
日寬上人の安国論文段にいわく。「日我いわく『安国とは一閻浮提に通ずべし、しかも本門弘通の最初は日本国なるべし、本門日輪の行度これを思え』」と。
この御文によれば、立正安国とは、世界の広宣流布であり、そのためには、まず弘通の順序として、日本の、すなわち、世界の真実の平和達成のためには、まず、日本の広宣流布を達成せねばならないとの仰せである。
さらに立正安国論の最後に「三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」とある。
これについて日寬上人は、同じく安国論文段に「文はただ日本および現在にあり、意は閻浮および未来に通ずべし」と仰せである。
すなわち、大聖人のお心は、日本だけの立正安国ではなく、全世界の立正安国である。また、現在すなわち鎌倉時代の当時の立正安国ではなく、七百年後の今日、さらに未来永劫にわたって変わらざる立正安国の方程式なりと仰せである。
また、諸法実相抄に「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(1360-09)と。
これまた、大聖人御在世当時の活動、弘通の方程式が、そのまま未来永劫に伝えられていく、との意である。われわれの今日の実践活動が、大聖人の仰せそのままであるとともに、今日の姿が、そのまま未来に、全世界に行き渡っていくことは、いよいよ明瞭である。
これらの御文に照らすならば、まさしく創価学会の今日の活動は、大聖人の御精神にかない、大宇宙のリズムに合致した、新時代の潮流であり、現今の不幸を絶滅し、この地上に絶対の平和楽土を出現する無限の力である。世界的、否、宇宙大の生命をもった日蓮大聖人の仏法は、ここに21世紀を迎えようとしている今日において、われわれの手によって、その開花が見事に成就されようとしているのである。
当時の宗教界
当時の宗教事情は、平安末期から急速に深まりゆく世相の変化に、人々は生きる気力を失い、ただ法念の始めた阿弥陀仏の称名にはかない来世の浄土を期待していた。とりわけ、生きる希望を失った没落貴族たちは、ひとえにこの浄土宗に、巨万の富を与え、むなしい祈りをささげていた。また常の習いであるが、天変地夭の激しくなるにつれ、迷信が横行し、真言の加持祈祷が流行した。
また、当時の仏教界の中心であった天台宗の腐敗、堕落も甚だしかった。伝教大師の時、桓武天皇の前で、南都六宗を打ち破り、比叡山に迹門の戒壇を建立し、輝かしい業績を残したのである。だが、第三代、第四代の慈覚、智証が、本師伝教の精神に背き、真言を取り入れ、いたずらに謗法を重ねて以来、天台宗は国家権力と結びつき、堕落してしまった。もはや叡山は、本当の意味での仏教界の中心ではなくなった。まさに腐敗と混乱の世相の反映であり、泥沼のごとき政争の場であった。
院政期にはいると、座主の地位をめぐる門閥の争いは、激しさを増していった。そして座主の地位をめぐる争いは、直接、政治の動きと結びついた。たとえば、明雲は平氏の力を背景にして座主の地位を得たが、その後、政治の動揺にともなって座主を追われ、また復帰した。寿永二年(1183)には、彼は頼朝調伏のための法住寺に参籠中、義仲の軍にからめとられたうえ、首を斬られたことは、大聖人の御書に詳しい。典型的な真言亡国の還著於本人の現証である。
上層部がこのような状態である。いわんや、一般にいたっては、興学の記風などさらになく、堂衆や寺領の兵士とともにただ暴徒と化していたのである。
特に延暦寺の僧兵と法相宗の興福寺の僧兵との争いは激烈であった。彼らは、互いに寺院を放火しあい、また殺害しあった。時には、彼らの希望が叶えられないと、寺の鎮守神の神輿や神木を奉じて大挙入京し、朝廷や法皇に威嚇をもって直訴した。その度に、たえず血なまぐさい殺戮が繰り返された。
永久元年(1113)の永久の強訴の時に、衆徒の鎮圧を祈願した、石清水八幡宮の宣命には、当時の僧兵の実態がえがかれている。
「ここに頃年以来、神人は濫悪を先となし僧侶は貪婪を本となして、あるいは公私の田地を横領し、あるいは上下の財物を掠め取る。京畿を論ぜず、辺境をいとわず、党を結び群を成して、城をおおい郭に溢れる。ただ人民を滅亡するのみに非ず、兼ねて同侶同伴も鎮に合戦を成す。学をなげうって刀兵を横え、袈裟を脱ぎて甲冑を被る。梵宇を焼失し房舎を破壊す。弓矢を携えて左右の友とし、矢石を以て朝夕の玩びとす。勉学の室、これがために戦場と変じ、修行の場所、それによりて軍陣と成りたり」
まことに大集経の「闘諍言訟・白法隠没」そのままの様相ではないか。
僧侶の堕落
また、僧侶一般についても、あまりにも堕落していた。大宝律令の定めるところによると、僧侶は農民にとっていちばん苦しい課役を免除されていた。そのうえ僧侶になるには身分的制約もなかった。したがって、農民のなかには、僧侶になりたがる者が多かった。律令制がきびしいころは、一定の修行を積んで、国家の公認を得た者に限って出家が許され、国家の公認を得ない者は、私度僧といわれ、厳重にとりしまられた。だが、平安末期よりその体制はくずれ、俄坊主がふえてきた。その質の低下は、恐ろしいほどであった。914年、三善清行が天皇に奉った「意見封事十二箇条」には「諸寺の年分度者および臨時の度者は、年間、二、三百人もありますが、その半分以上は邪濫の輩です。また諸国の百姓は課役を逃れ、租・調をのがれるために、自分で髪を剃りおとし、法服をまとっている者がこのごろ多くて、天下の三分の二は皆禿首の者です」また「かれらはみな家に妻子をたくわえ、口には生臭いものを食らい、形は沙門に似て心は屠殺人のごとし」と当時の僧侶の実態が述べられている。
しかも寺院には貴族から寄進された多くの所領があり、貴族から絶えず祈祷の依頼があり、豊かな布施が集まった。寺院内での生活は楽であり、花やかであった。彼らは、生活のために僧侶となり、いきおい寺院に集まっていた。生活の利害関係にのみ鋭敏となり、やがて利害と利害の衝突は、激しい葛藤を生み、もはや僧侶は餓鬼界であり、修羅界であり、時には阿鼻叫喚で明け暮れた。
涅槃経に「持律に似像して少し経を読誦し飲食を貪嗜して、其の身を長養し袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐かに行くが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貧嫉を懐く唖法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」と末法の比丘の姿を予言したが、まさに寸分の狂いもなく符合していることに驚嘆せざるをえない。
僧侶と国家権力のいまわしい結びつきも、いよいよ盛んになってきた。それは災難を除くために為政者が、ただ僧侶の祈祷にたよるしかなかったために、とくに僧侶を重んじたことにも原因がある。また僧侶のほうも、民衆の無智につけこみ、外面では聖人のごとくふるまい、名声を得、また、巧みに権力者に取り入った。たとえば、禅宗の開祖として、禅宗の人々からもてはやされている栄西は、みずから大師の称号を得ようとして、賄賂まで使って運動し、結局は権僧正にしかなれなかったのである。慈円の「愚管抄」藤原定家の日記等にそのことが述べられている。
さらには、念仏者の念阿、禅宗の道隆、律宗の良観等が政治権力を動かしわが世の春を謳歌していた。この時、大聖人が、唯一最高の正法を唱え、邪宗教の根源を明かし、四箇の格言を宣言されるや、彼らは、権力者と結託し権力を動かし、日蓮大聖人を迫害したのである。特に極楽寺良観などは、その最たるものであった。松葉ヶ谷の草庵の焼き打ち、伊豆の流罪を行った極楽寺入道重時の背後にもやはり良観の讒言があり、また、大聖人を竜の口の刑場に行かしめたのも、良観が平左衛門尉を動かしたからであった。
念仏への徹底破折
日蓮大聖人は本抄において、念仏宗を特に折された。それは、当時、念仏者が最もひろまっていたからであり、しかもその害毒が最も人々の生命をむしばんでいたからである。昔から鎌倉武士は心身の鍛錬と実践を重んじたので、禅の気風とマッチし、禅宗が鎌倉武士におおいに支持されたかのように説かれているが、これは誤りである。たしかに建長寺道隆と北条時頼との結びつきもあって、時頼以来、武士のなかには参禅する者が、かなりあったことも事実である。だが、全体としては鎌倉武士もまた、ほとんど念仏を信じたのであり、鎌倉幕府滅亡のときも、たくさんの武士が、最後に念仏を唱えて死んでいったと伝えられている。
大聖人は、浄土宗破折に焦点をしぼられ、これにいっさいの邪宗破折を含められたのであった。安国論をうかつに通読すれば、法然という悪僧が選択集を作って世間の人々を迷わしめ、今や念仏の哀音が一国に流布して、まさに亡国の兆があらわれたという点から、念仏を徹定的に破折されていると拝されるが、第一段において明らかにされているごとく、あらゆる宗教、あらゆる神々、あらゆる政治や道徳などが、すべて邪法の基としているがゆえに、災難が起こるのであるとして、これらの邪法を禁止して、正法を立ててこそ初めて国家は安泰になるのであると説かれている。
時代要求の大白法
以上を結論すれば、当時の宗教界は、まさしく未曾有の混乱期にあったといえよう。人々の心は、次第に腐敗し形式化した既成の貴族仏教から離れ、民衆のなかに根ざした力ある宗教をもとめつつあった。だが、民衆の宗教に対する無智につけこみ、幾多の邪宗教、迷信が横行した。とりわけ、大聖人立正安国論に「此の一凶」と指摘されたところの念仏宗が、疫病のごとく蔓延した。この未曾有の宗教の混乱こそ、民衆の既成の権威に対する動執生疑であり、新しき偉大なる宗教を求める人々の心の反映なのである。
法華経には大正法樹立され、流布する時は、このような宗教界の混乱期であると予言している。法華経第七薬王品にいわく「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」と。すなわち白法隠没する末法において、大正法が広宣流布するのである。と。同安楽行品にいわく「後の末世の法滅せんと欲せん時」と。これらの類文は数多くあり、枚挙にいとまがない。これは経文ばかりでない。天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と述べ、妙楽大師も「末法の初め冥利無きにあらず」と断じ、伝教大師もまた「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり、何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末世法滅の時なり」と叫んでいる。
このように、釈尊、天台、妙楽、伝教の先哲が、ことごとく、絶対の確信をもって、第五の五百歳闘諍堅固の時代に、大白法が流布することを述べているのである。
されば、日蓮大聖人の出現は、偶然ではなく、民衆の渇仰であり、時代の要求であり、歴史の必然なのである。
しかして、それから七百年たった今日もまた、大聖人の時代よりもはるかに混乱せる宗教界の現状である。現在、日本における宗教法人の数は仏教のほかに、神道、キリスト教、その他の諸宗教を含めて約18万宗教人口は約160,000,000(平成19年文科省によれば220,000,000)といわれている。一人で二つ以上の宗教をもっている人がいかに多いかを物語っている。
また、念仏、禅、真言の既成宗教は、形骸化し、宗教としての残骸をとどめているに過ぎない。僧侶とは名ばかりで、信心もなければ、修行もない。一切衆生を救うべき慈悲とか、智慧などまったくない。ただ私利私欲にふけり、ただ葬式と法事と、墓場の番人をやりながら細々と生計を立てている状態である。まことに、七百年前の世相と符合しているではないか。
戦後、迷信やいかがわしい宗教が氾濫した。もともと人間の心のなかには、いしきするとしないにかかわらず、物質的、精神的悩みを解決したいという本然的な願い、欲求がある。これは人間の幸福を求める自然の心の発露である。これが、あるときは人間の弱点ともなり、また、あるときは人間のたゆまざる努力と研鑽となってあらわれるのである。人々が、迷信や邪教にとびつくのも、悩みを解決したい、幸福になりたいという素朴な感情からである。だが、いあんせん、宗教に対する無智は宗教の正邪、善悪も分かたず、邪宗教にとびつき、生命をむしばまれ、いぜんよりも不幸に落ち込んでいくのである。
かくして、既成宗教の廃退と新興宗教のぞく生という現象は、七百年前と今日と、不思議にも一致しているかくれなき事実である。七百年前には、混乱と濁世のなかから蓮華の汚泥より生ずるごとく、大聖人の大仏法の出現があった。今日もまた、混乱の極みに達した現代の宗教界を覚醒すべく、宗教界のんろしを、わが創価学会があげたのである。
是れ何なる禍に依り是れ何なる誤りに由るや
この旅客の質問こそ、当時の心ある指導者のいつわらざる心情であり、この解決こそ、立正安国論の骨髄をなすものである。そしてまた、今日においても多くの人が、否厳密にいえば、あらゆる人がなげかける疑問なのである。
病気を癒すのに、その原因、本体を解明し、そこから正しい処方に従って治療を施さねばならないことは誰でも知っているし、実践していることである。
しかるに、社会、国家をおかす災厄に対しては、往々に、避けることのできないのも、除去することのできないものとして、抜本的対策が立てられない場合が多い。むしろ、ほとんどの場合、災害に襲われたあとで、その場をつくろうのがせいいっぱいという姿ではないだろうか。
いやしくも、一つの社会、一つの国家の幸福と平和について責任を持った指導者であるならば、それを脅かし破壊する災害に対して根本的に究明すべきであろう。
いわんや、民衆の苦しみをわが苦悩とし、社会の全体をわが身と自覚することのできぬ、私利私欲、党利党略の徒は、指導者たる資格がないと知るべきである。
防災技術と災害
ある人は、当時の災害が、あれほど猛威をふるった原因として、科学技術の未発達をあげている。私もまったくそれには異論はない。たとえば旱魃の被害においては、かっての農業技術が、水量豊かなる大河川を灌漑に利用するにいたらず、耕地は大部分が谷川や溜池による劣弱な田畑でしかなかった。したがって、ひとたび早天が続けば稲はたちどころに枯れ、大飢饉となり、人々に甚大な被害を与えた。また、そのうえ、当時、交通が不便で輸送力がなく、豊作の地から飢饉の地に食量を円滑に運ぶことができなかった。これが人々に決定的な打撃を与えたのである。
飢饉の場合は、たしかに交通が発達し、灌漑設備もあり、貯蔵力もある今日、その被害を、きわめて小さくすることはできる。ただし、それすら、もし悪政で、戦争に予算の大部分が費やされ、災害対策に本腰をいれなければ、きわめて大きい被害をもたらすことを忘れるべきではない。
のちに述べるがごとく、20世紀の今日でも、インド、ソ連、中国においてすら相当数の飢饉による餓死者が出ているという惨事が起きている。今日のベトナムでも焦土作戦により飢饉が深まっている。あありにも悲惨な現実をみるにつけ、かっては太平洋戦争中、われわれはいかに飢餓に苦しんだかという事実を思い起こすにつけ、断じてその惨禍を遠くに考えてはならないと思うのである。さらに、現代における世界的な食料不足は、戦争や人口問題と関連して、きわめて深刻であり、飢餓は去ったというよりも、むしろますます広がりゆく感すらする。地震の場合は、むしろ今日のほうが危険である。大正12年9月の関東大震災では、全壊家屋12万8千戸あまり、半壊家屋12万6千戸あまりに達し、圧死や焼死した人、9万9千名あまり、傷者10万3千以上、行方不明4万8千名あまりに達するという、空前のものであった。
(ちなみに1995:1:17日阪神・淡路大震災の被害は死者:6,434名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名避難人数30万名以上、住家被害 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟、 火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯 )
ある気象台長のA博士は、次のように語っている。
「大正の関東大震災は、正午ごろ起こった大地震で、あれだけの大事件となったのである。もし、あの大地震が夜中に起こったとしたら、災害は当然倍加したであろう。大地震となると必ず停電と断水が起こる、真っ暗のなかで逃げ惑うのは、文化生活になれた現在のほうが一層危険である… こう考えてくると、震災に対する対策はできていないのである。徳川時代よりも、また近くは大正時代よりも、現在では一段と恐ろしいものになってきている」
また、飢饉に役立つダムもひとたびそれが決壊すれば、大洪水をもたらす危険がある。も昭和34年にはフランスのマルパッセ・ダムが、昭和37年にも韓国最大の灌漑用ダムの一つが決壊している。もし、大地震によって決壊すれば、まさに決定的な打撃を与えることであろう。また、東京のように密集し低地の多い地域に、再び関東大震災のような大地震が起き、それが津波となったら、その悲劇はいかばありであろうか。
風災害に対しても、いまだにその対策の見通しは、決して明るいものではない。特に、東京湾、伊勢湾、大阪湾、有明海および周防灘で頻発する高潮の被害は、絶大である。
昭和34年9月26日の夜、紀伊半島から上陸した伊勢湾台風は、中部日本に大風水害をもたらし、とりわけ、中京地区の海岸低地に驚くべき高潮が起こり、有史以来最大の水害となり、死者、行くえ不明を合わせて5098名の犠牲者を出した。
それでは、疫病についてはどうか。たしかに、今日、医学の発達により、伝染病による死亡率はぐんぐん減っている。これは大きな成果であり、賞讃すべきことである。だが、病気それ自体はいっこうに減っていないのである。それそころか、薬品に対する細菌の耐性ができ、また多くの薬品投与のために、からだ自体が薬負けしてしまうという新しい事実に直面した。また農薬による奇病、さらに工場の煤煙による病気も増えている。1952年ロンドンでは、12月4日から9日まで続いたスモックで4000名の死者を出し、1962年12月3日から7日までも750名の死者を出している。死因の大半は気管、心臓障害によるもので、工場の煙突や暖房用の家庭の石炭に含まれる亜硫酸ガスが冬の平均の10倍以上になって、この惨事を巻き起こしたのだった。また、工場から流される汚物によって、多くの原因不明の病気が起こっていることも事実である。サリドマイドの悲劇はいうに及ばす、今日でも、なお、薬品の中には、しばしばかえって有害もものすらあることも残念ながら事実である。
しかもこのような、薬品の検査等の医療機関の問題は、現在山積し、未解決のままになっている。なお、原水爆の出現による放射能障害は、文明病の最たるものであり、これにより人類は滅亡すらしかねない。さらに、ガン、また遺伝子病、神経系統の病気等にいたっては、現代医学ではいまだまったく無力に等しい。されば、現代の医学者をして、原因不明で治癒できぬ病気があまりにも多いことを嘆かしめ、また「医学は、今のところ、毛一本生えさせることもできず、にきびのあとをきれいにすることすらできない」とまでいわしめているのである。
さらに現代医学が、今や大きな壁にぶつかっていることは、見逃すことが出来ない事実のようだ。生命を、部分である器官の総合とし、生命全体を考えることなく、また病気を普遍化させるだけで、個人の特殊性を無視して治療にあたるといった態度が、むしろ医学を停滞させ、どうしようもない泥沼に堕ち込ませてしまうのではあいかということも心配される。所詮、生命に対する正しい認識なき医学は、偏狭なる、むしろ有害な術に堕すことは必然である。
科学技術の限界
以上のように、今日もなお災害亡くならず、否、むしろ新しき災害に直面しているともいえよう。ましてや、戦争等の劣悪な政治のために災害対策を軽視すれば、災害はその虚をついて暴威をふるうことであろう。しかも、その危機にいつもさらされているのが、地球上の現状である。
また、大宇宙の運行からみれば、これらの防災技術は、まことに微々たる力でしかない。今日、物理学等の科学の偉大なる進歩によって、幾多の発見がなされてきた。このままいけば、一切わかるように思う人がいるかもしれない。だが、科学者はそのような甘い考えは決してもっていない。科学の発達によって知ったことは、ますます宇宙の不思議がひろまるばかりであることだ。
されば、これからますます科学技術が発達し、人間の英知と努力で、災害を克服していくだろう。それは、われわれの悲願であり、願望である。だが、それによってわかることは、いつも新しい災害にぶつかるという厳粛な事実である。しかも、災害はいつも意表をついて起き、のちになってさまざまな対策が論じられ、しばらくして、忙しさにまぎれて、忘れ去られてしまう悪循環にある。
A博士は次のようにも述べている。「私たちは科学の進歩につれて、災害は克服できるかの如き錯覚を持つ。しかしこれは大きな間違いである。防災科学の進歩によって、ふるい型の災害は漸次軽減されていく。かって人間の住まなかった河海縁辺の低地にも、その土地の利用価値の故に、工場や家を建てたりするから、昔なかったような水害が発生する。新しい技術革新の風潮にのって、現れた構築物が、思いもうけぬ地震にあって、脆い実態をさらけ出す。…災害はいつの世になってもなくならず、繰り返しおこる。しかも人間は絶えず災害を克服しようと努力する。したがって、既存のかたの災害は軽減できるが、せちがらい社会にはまた新しい型の異常災害がおこる。そして、時としては、新しい型の災害が、最も猛威をふるうのである」
また、今日の科学技術は、必ずしも平和のために使われず、往々にして、いや、大部分が、戦争のために使われてきたし、また使用されつつあるかなしむべき現実ではないか。しかも、戦争それ自体が大いなる災害ではないか。されば、「是れ何なる禍により是れ何なる誤りに由るや」700年前の疑問は、時代移り、今日に至るも、依然としてあらゆる人々の疑問なのである。
結論からいえば、この解決は、真実に、正しき生命観、社会観、世界観、宇宙観を説ききった日蓮大聖人の大生命哲学による以外に絶対にないということだ。私は、ここでなにも科学技術の発達を軽視しているわけでは絶対にない。いや、人類に対する貢献は絶賛すべきである。だが、科学技術だけで災害を克服できるというのは、科学を知らない人の発言である。私は、この科学技術を真に生かすためにも、また科学技術を越えた問題については、さらにこれから、一念三千の生命哲学、依正不二の理論等で解明することにして、本章では、科学技術だけで災害はなくならないと述べるにとどめておく。
悪政と災害
次に、災害を防ぐためには、政治を正し、災害対策に万全を期すことが大事であることを述べる人がいる。これも、私のもっともとするところであり、否、それだからこそ、私は、政治は大衆福祉をめざすものでなければならぬと主張しているのでる。
災害と政治の関係をさらにみていくならば、次のことは、歴史のうえからはっきりいえることである。それは悪政の時に、最も災難が猛威をふるうということである。すなわち、指導者が民衆を忘れ、自己保身にやっきとなり、互いに政争に明け暮れ、修羅闘諍を事としているときに、災害が最も大きくあらわれるという厳然たる事実である。または、独裁的な指導者の気ままな感情や、人間生命を蔑視する偏狭な、そして冷酷なる思想が、悪政をもたらし、そのはてに大災害に見舞われるという冷厳なる実相である。
大聖人の時代
たとえば文永十年(1273)ごろから、諸国に飢饉が起こり、さらに建治三年(1277)の春以来、全国的に疫病が蔓延し、弘安元年(1278)に至るも猛威をふるっていた時代がある。
このころの悲惨なようすを、日蓮大聖人の御書には、次のように描写されている。
「日本国数年の間打ち続きけかちゆきて衣食たへ・畜るひをば食いつくし・結句人をくらう者出来して或は死人或は小児或は病人等の肉を裂取て魚鹿等に加へて売りしかば人是を買いくへり此の国存の外に大悪鬼となれり、又去年の春より今年の二月中旬まで疫病国に充満す、十家に五家・百家に五十家皆やみ死し或は身はやまねども心は大苦に値へりやむ者よりも怖し、たまたま生残たれども或は影の如くそいし子もなく眼の如く面をならべし夫婦もなく・天地の如く憑し父母もをはせず生きても何にかせん・心あらん人人争か世を厭はざらん、三界無安とは仏説き給て候へども法に過ぎて見え候」(「松野殿御返事」1389-04 建治四年1278)
「去今年は大えき此の国にをこりて人の死ぬ事大風に木のたうれ大雪に草のおるるがごとし・一人ものこるべしともみへず候いき、しかれども又今年の寒温時にしたがひて・五穀は田畠にみち草木はやさんにおひふさがりて尭舜の代のごとく成劫のはじめかとみへて候いしほどに・八月九月の大雨大風に日本一同に不熟ゆきてのこれる万民冬をすごしがたし、去ぬる寛喜・正嘉にもこえ来らん三災にも・おとらざるか、自界叛逆して盗賊国に充満し他界きそいて合戦に心をつひやす、民の心不孝にして父母を見る事他人のごとく・僧尼は邪見にして狗犬とエン猴とのあへるがごとし、慈悲なければ天も此の国をまほらず・邪見なれば三宝にも・すてられたり、又疫病もしばらくは・やみてみえしかども・鬼神かへり入るかのゆへに・北国も東国も西国も南国も一同にやみなげくよしきこへ候」(「上野殿御返事」1552-02弘安元年1278)
この文にあらわれたるがごとく、その時の三災七難は、まことに苛烈であった。だが、それとともに、当時の政情がいかに不安なものであったかを見落としてはならない。この二つの御文のうち、あとのほうに「自界叛逆して盗賊国に充満し他界きそいて合戦に心をつひやす」とあるが、このわずかな文のなかに、当時の政情が伺えるとともに、災害の根源があますところなく説かれている。「自界叛逆」とは、国のなかでの戦争であり、「他界きそひて」とは、他国との戦争である。
文永9年(1277)2月、執権時宗の異母兄の時輔が、自分の正妻の子でないゆえをもって、家督を時宗にとられたのをうらみ、ひそかに謀叛を企てたのが発覚し、合戦となったのである。時宗は、すぐさま、大蔵頼秀らを遣わし、名越時章らを倒し、ついでに北条義時にと合戦させ、これを滅ぼした。この事件は、人々の心に深刻な動揺を与えた。執権とその兄が争い合う醜い姿が、そのまま世相の鏡に映し出されたのである。この時の世情は、御書に次のように出ている。
「相州鎌倉より北国佐渡の国.其の中間・一千余里に及べり、山海はるかに.へだて山は峨峨.海は涛涛・風雨.時にしたがふ事なし、山賊.海賊・充満せり、宿宿とまり・とまり・民の心・虎のごとし.犬のごとし、現身に三悪道の苦をふるか、其の上当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏ならず」(1217-10) まことに「自界叛逆して盗賊国に充満し」の世情いかばかりであったろうか。今日においても、「自界叛逆」が民の心を疲弊させ、社会悪をもたらしていくことは、一貫して変わらぬ方程式である。
さらに「他界きそいて合戦に心をつひやす」とは、蒙古軍の攻撃に備えて、幕府が大わらわとなり、九州に大軍を派遣することでいっぱであり、内政に力を注ぐ余力すらなかったことを示すものである。今日もまた同様である。それは平和産業を犠牲にし、軍需産業に総力をあげた、あの日本の国の味わった苦い体験にせよ、またスターリン治下のソビエトにおける極端な軍需産業のための、数次にわたる五カ年計画にもせよ、如実にそのことを示しているではないか。
かくして悪政のために、災害が猛然と日本全国に覆い、民衆を塗炭の苦しみにおいやったことは、当時の明らかなる現象である。
だが、あぜこのような劣悪なる政治にならざるをえなかったか。それを解決すべき道はなかったか。所詮、貪・瞋・癡の三毒に染められた人々の醜い権力争い、自らの保身にやっきとなり、大勢の民衆を忘れる愚かな姿ではなかったか。われわれは、その政治腐敗の現象のみにとらわれてはならない。その底流こそ大事であり、その源こそ窮めねばならないではないか。
室町中期・後期
また、室町の中期、将軍足利義政の時代にはいって、悪政につぐ悪政、暴政つぐ暴政に呼応し、災害は続出し、いたるところで痛ましい惨事が繰り広げられた。
長禄三年(1459)は、年のはじめから天候が異様であり、三月の田植え準備期にはまったく雨が降らず、そのうえ太陽が二つ見えたり、妖星が月を侵すといった異変があり、人心は動揺した。九月には大暴風雨が襲来、賀茂川が大氾濫し、京中の溺死者はおびただしい数となった。そのため京都への米の輸送がとまり、米値が暴騰し餓死者が続出、一揆も盛んに起き始めた。長禄四年(1460)春から初夏にかけては日照りが続き、田植え時に水不足、五月末から一転してひどい長雨、異常低温、夏でも冬着を装う状態、近江では琵琶湖の氾濫のため水田が冠水、さらに悪疫が生じた。さらに秋となり大風、また天をも暗くする猛烈な蝗の群れに、稲が非常な痛手を受ける。
やがて寬正二年(1461)正月から食料不足が全国的となり、二月に入り頂点に達した。正月から二月の終わりまで、京都の餓死者は82000に達したという。また、一連の飢餓による死人の数は、庶民の三分のニにおよぶとすら記述されている。ために、賀茂川が死体で埋まり、水の流れはふさがれ、屍臭はあたりに満ちたという。そのうえ、悪疫が流行し、飢饉とあいまって、毎日、300から6・700と次々死んでいったという。
教中はもとより国中が飢餓にせめられ、苦悩のどん底にあえいでいる時、幕府では大黒柱の畠山家で義就・政長の争いがあり、将軍の義政は、今参の局という貪欲で嫉妬ぶかい側室にふりまわされ、そのなすがままになり、あるいは、土木工事等で民衆をいためつけ、また、公家・武家の貴人たちと、花やかな行列を連ねては、花を見、遊楽にふけったのである。もはや、これでは政治家として失格者であるのみならず、人間としての失格者ではないか。
すでに足利将軍の権威が地に落ちた天文9年(1540)にも大きな飢饉があった。天文年間といえば、義請が十二代将軍を継承したが、のちに権臣に逐われるといった時勢であり、世はまったく乱れ、この動乱のさなかの天文8年(1539)9年には、風水害のための飢饉がおこり、おびただしい死者が出ている。民衆の塗炭の苦しみは想像にあまりある。
江戸末期
さらに江戸末期にいても、幕末の三大飢饉といわれる、天明の飢饉(1782~87)、天保の飢饉(1833~39)慶応・明治初期の飢饉(1866~69)も、江戸幕府の体制が崩壊し、指導者の横暴が過酷をきわめたときに起きたのである。西村真琴、吉川一郎編の「日本凶荒史孝」には、天明の飢饉については「弘前・八戸・盛岡の諸領最も凄惨を極め、餓苦し耐へずして人相食むに至る。超えて四年、この歳七八部の作、ところにより豊作の聞ありしも麦収を待つに能わず餓死するもの多く、去年九月より六月まで、津軽一郡のみにて87000余と数えられ流亡の民また少からず」等とあり、天保の飢饉については「東北諸国は天保初年より頻りに餓死し、この後も猶やまず、ために餓莩流民極めて多く、四年より十年に至る七ヵ年、津軽一郡のみの死者35600余、他郷に流離するもの47000余人を数えたり」とあり、慶応・明治初期の飢饉についても「慶応二年、この夏陰涼・秋風水の災ありて諸国登らず、これより先、安政六年我が五国通商以降国内の需給円滑ならず。加ふるに維新の変革を前にして天下じょう乱、ために穀路は閉ぢ、商旅通ぜず、去秋より諸物の価謄貴す。幕府仍ち酒造の量を減じ、或は外米の輸入を許可し以てその調整を計りたるも高騰、この秋に至って殆んど底止するころを知らず。庶民大いに飢窮す」等と、いずれも、その苛烈なる災害状況を伝えている。
飢饉だけでなく、大地震も猛威をふるった。嘉永七年(1854)関東大震災に匹敵する大地震が、東海道、東山道、南海道に渡って起こり、倒壊流失家屋は83000戸、焼失家屋も300戸ほどあり、死者が10000名にも達した。その余震がさめやらぬ翌10月5日、再び関東大震災に比するほどの大地震が、伊勢湾から九州東部かけて起こり、特に土佐、阿波、紀伊の三国がひどかった。さらに安政二年10月2日にも大地震があり、江戸市中の死者は7000人に達したという。これを世に安政の三大地震という。弘化四年(1847)3月24日の夜、善光寺で阿弥陀如来の御開帳があり、諸国から信者が多数集まってにぎわっていたときに、突如として大地震が起こり、出火が各所にあり、死者が12000という惨状を呈した。
このほか、災害の例は数を知らず、コレラの大流行、火山の重なる大爆発、およそ明和、安永、天明、寛政以後、明治の初年に至るまで天下に起こった天変災厄は、わが国有史以来、恐らく絶無であろう。百数十か所にわたる百姓一揆、幕末の惨劇、黒船到来等による国内の騒乱、さらに戦乱、政変等もはや書き尽くすぬべもないほどである。
軍閥時代の中国とスターリン治下のソ連
さらに、世界的には、20世紀にはいった今日においても、想像もおよばないような大災害に見舞われている事実がある。
たとえば中国、清朝滅亡後、軍閥が専横をふるい、互いに争い合っていた。そのため天災に対する対策は、まったく立てることができず、天災の被害は連年、まことに目をおおうような惨状であった。
またスターリン治下のソ連においては、農業の集団化が強制的に行われ、それには多大の犠牲がともなった。1929年から32年に、少なくとも500万の農民がクラークという烙印を押され、財産は全部とられ、丸裸にされたうえ、食っていくすべも奪われた。この時に、約100万の農民が死んでいった。つづいて1933年の飢饉の犠牲者もまた実に多かった。どれくらい多くの農民がしんでいったか、300万から1000万まで、いろいろ計算されているが、いずれにせよ、おびただしい数である。されはもはや、人間として認められるのではない、あたかも虫けらのごとき扱いをうけたのである。
風水害でも、旱魃でも、震災でも、人間が住んでおれば起こることなのである。砂漠や大洋の真ん中の、人の住んでいないところで、ひどい暴風雨があったとしても、災害は決して起きない。すなわち、災害は人間社会があればこそ問題になるのである。さらに、今日においては、人がわざわざ作っているむきも多い。いずれにしても、人間社会のあり方が、いかに災害に大きく響くかは当然の事である。
天災も所詮、人災である。もし指導者が偉大であり、民衆が有智の団結をしていくならば、いかなる天災も、人間の叡智が解決することができるのである。
現代の最大の災害
しかして、戸田先生が「今日においては三災七難が逆次に出ている」といわれたごとく、七難のうちでは他国侵逼難、自界叛逆難、三災のうちでは兵革の災いが先んじ、そのなかに他の難が起こっている観がある。
すなわち、今世紀に経験した最大の戦争は、大二次世界大戦であった。この大戦で、もっともひどい被害を蒙ったのは、一般市民であった。第一次世界大戦では、一般市民の死者は、50万であったのに対し、第二次大戦では実に2000万人から3000万人と推定されている。空襲、集団虐殺、パルチザン戦、流浪などによる死者がその内容である。軍人の死者は、前大戦の1000万に対して、今回は1600万人である。しかもこのなかには、日中戦争における中国と日本の死者は含まれていない。
さらに終戦後の惨状も言語に絶するものであった。ソ連も、イギリスも、ドイツ、フランスでも、その他直接戦場となった国々は焦土と化し、幾多の悲惨な現実が展開された。
実にこの戦争で、日本国および日本国民がはらった儀牲は測り知れなかった。この戦争による死亡は軍民合わせて約300万、当時日本の全世帯のうち五世帯にほぼ一人の割り合いで、国民は肉親を失ったのである。これは空前のことであり、37年前の日露戦争の死亡者とは、ケタはずれの犠牲であった。
戦後の苦悩も言語に絶するものがあった。経済的な危機、食べる物も着る物も、住まいもなく、路頭をさまよう人々の群、思想の対立の激化、血で血を洗う闘争の激化等々、これらをただ単に過去の悪夢であるとかたずけておいてよいのだろうか。
太平洋戦争の無残な姿は、人々の心の奥底に、終生忘れがたい傷跡を残しているはずである。
しかるに今日、われわれは、なんと泰平な生活にあることであろうか。「もはや戦後ではない」という言葉が、いまや常識化し、われわれの周辺には戦争の恐怖を叫ぶあの当時の悲痛な願いは、うたたかのように消え去っている。しかし、表面の繁栄をよそに、冷静にみつめていくならば、そこには依然として戦争の惨禍が潜んでいるのである。昭和20年8月6・9日の二日にわたって投下された人類初の原爆の悲劇は、いまなお原爆症患者の姿にははっきりとでていることとを忘れてはならない。
「今ここでペンを走らせているこの机も、その横にならぶ本も、父のものであったのだ。『お父ちゃんどうして死んだの』と聞く弟、父はどうして死んだのだろう、僕達をのこして。 原爆“原爆”この爆弾こそ父の命を奪った悪魔なのだ。ノーモア広島、ノーモア広島、原爆で死なれた人達は私達の犠牲になったともいえるであろう。この犠牲者たちは遠い犠牲であり、私達はこの遠い犠牲者たちに身守られて平和の進路を歩むべきである。
これは、あの当時、九歳の小学生が、昭和22年に書いた手記である。この叫びを無にしてよいものか。
「もう戦争はいやだ。もう戦争はいやだ。これは原爆体験者の悲痛な、心のそこからの叫びである。筆舌には及び難い平和欲求への真の絶叫である。たとえいかなる場合でも、あんな残酷な体験は、もう決して世界のいずれの人にさせないようにして欲しい。これを世界に向かって訴えたい。No More
Hiroshimaという標語は、今日、国際情勢の上で、最も高く掲げられるべきものである。太田河畔平和塔の辺りに低く淋しくただよっているべきではない」
この原爆被害者たちの悲痛な訴えを、今日心の底から受け止め、絶対に戦争なき平和な世界を出現するために、一身をなげだしている人が何人いるであろうか。
しかもまた、目を世界に転ずれば、まだ戦火は続いているのである。泥沼のごときベトナム戦争の悲劇は、あまりにも悲惨であり、かつ残酷である。その他のアジア、中南米等は、絶えず、米ソ、米中の対立の場として、今後このような危機を迎えるかわからない。人類の身辺は、身に影のそおうがごとく戦争の危機がとりまいているのである。
世界的な飢饉
さらに人類の生活にとって、最も大事なのは、衣食住である。衣類や住宅の欠乏も著しいものがある。特に恐るべきは、世界的な食料不足である。戦後20年といわれる今日において、このような不祥事は、まことに遺憾のきわみではないか。
1960年11月、イギリスの生物学者で文明評論家のジュリアン・ハックスリー氏は、多くの研究者の署名を集めて声明書を発表し「世界人口の三分のニは栄養失調である」と警告した。また1961年5月、イギリス王立統計協会で行われたP.V.スカトメ氏の報告は、FPOのセン事務局長もほとんど誤差のない数字であると認めているが、それによれば、現在、32億の3分の1から2分の1、つまり10億から15億の人が、完全に飢餓と栄養不良に悩んでいると訴えた。1963年には、FPOは「世界30億の人口のうち、17億が飢餓線上にあえいでいる」とし、しかも「インドでは餓死する子供が問題だが、アメリカでは栄養過多による死亡がめだち、美容のための無栄養食に関心が集まる」と、食料不足と同時に、食料のアンバランスのひどさを追求している。
前述のスカトメ博士は、FAOの調査部長でもあるが、彼によれば「現在、世界人口の五億近くは飢餓状態にあり、他の十億人は動物性蛋白質の不足による栄養不良状態なり、とくに日本と中国本土を除く極東地域では、人口の約四分の一が飢餓状態といえる」という。かくして、FAOは1963年以来七年間にわたり、両世界に「飢餓撲滅運動」をすすめることになった。
1963年の夏、ワシントンにおける「世界食糧会議」の席上、今はなきケネディ元大統領が、世界人口の半数以上が飢餓線上でおののいてる事実を認め、次の30年を期して、世界から飢餓撲滅の戦いを起こすべきことを提案したが、ベトナム戦争の暴挙によって、まったく望みは薄くなっている。現在は恐らく世界32億の人口のうち、18億が飢餓線上にあえいでいると思われる。しかも、人口は35年後の2000年には倍の60億を超すであろうと予想され(ちなみに2000年には61億人2009年68億人となった。)したがって、世界の食糧生産を1980年までに約2倍に、2000年までに3倍にしなければならないという重大な課題に直面している。
ただし、これはまったく望みのないことではない。人類が戦争を起こさず、そして世界民族主義の立場に立って、地球の人類が同じ運命共同他の一員としての自覚において相互扶助の実をあげるならば、必ず食糧問題は解決されうるのである。ちなみに、アメリカのR.ブリテン博士は現在世界で耕作している農地の総面積は、可能耕作地のわずか五分の一であり、残り五分の四は未開発のまま放置されていると主張している。ゆえに世界各国が、いさぎよく人類の福祉のため、門戸を開放し、世界的食料不足を解決するような機運を盛り上げたいものである。戦争や病気の解決とともに、ともに、飢餓の救済こそ、まさに全人類の悲願と言うべきであろう。
政治をとるのも人である。戦争を起こすも起こさないも人である。人類を飢餓から救うのも人である。今こそ、その「人間」」それ自体を解明し、これを善導する大思想、大哲学が樹立されなければならない。
なぜかならば、いかに平和を愛する人といえども、善良なる指導者の心も、時としては鬼畜のごとき心に変ずる。されば、人間生命に内在するこのような悪心を解決すべき、力強き思想がなくてはならないのは、とうぜんであろう。
そしてこの政治をとるべき「人間」をつくり、一念三千の哲理により、国土も、否大宇宙をも、変えていくことを説ききっているのが仏法である。一人の人間に人間革命させるのも、社会の生命を浄化し、正しき社会観、人間観をもった人々が、協力しあい、励まし合う姿を築くのも、さらには、宇宙のリズムを正し、国土に、恵みと、うるおいをもたらすのも、日蓮大聖人の仏法以外になきことを、ここに断言するものである。されば、今日の指導者こそ、日蓮大聖人の仏法に理解を求めて「是れ何なる禍に依り是れ何なる誤りに由るや」と問うべきである。
第二章 災難の根本原因を明かす (0017-10~0017-14)top
私はこの事を愁いて、胸の中に思い悩んでいたところ、あなたが来てともに嘆くので、今これについて語り合おうと思う。 一体、出家して仏道の道に入るものは、正法によって成仏を期するのである。しかるに、今や神術もかなわず、仏の威徳にたよっても、そのしるしがない。 今つぶさに現在の世の状態をみると、一般大衆は愚かで、後輩としての疑いを起こしている。それゆえ、天を仰いでは恨みを呑み、地に俯しては深く憂慮に沈んでしまうのである。 今、怖れ多くも、わずかに眼を開いて、少しばかり経文を開いてみるのに、世の中は上下万民あげて正法に背き、人々は皆悪法に帰している。それゆえ、守護すべき善神はことごとく国を捨て去ってしまい、聖人は所を辞し他の所へ行ったまま帰って来ない。ために善神・聖人にかわって、魔神・鬼神が来、災いが起こり、難が起こるのである。実にこのことは、声を大にしていわなければならないことであり、恐れなくてはならないことである。 |
講義
この章は、人生の不幸三障七難の根源を示されたところであり、立正安国論の最も中核をなす部分である。なかんずく「世皆正に背き…」の一節は、最も重要であり、この真の意味を知るならば、宗教の正邪を分別し真実最高の宗教をもとめねばならないことが明瞭となるのである。ここで、正とは三大秘法を示すことは当然である。しかして、災難の来由は具に三意を含んでいる。すなわち、一には背正帰悪のゆえであり、二には神聖去り辞す故であり、三には魔鬼来たり来り乱る故である。
夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり
僧侶となる目的は、仏法を方程式どうりに修行して仏の境涯を悟ることである。との意である。仏の境涯とは永遠の生命を認識して、宇宙大の自己を見いだし、宇宙即我、我即宇宙の心境に立ち、永遠に破壊せられざる幸福境に住むことである。われわれが、日蓮大聖人の仏法を信ずるのも、その究極は成仏することにある。
ここに「夫れ出家して道に入る者」とあるが、一往は、髪を剃り、世俗の事を捨てた僧侶であるが、再往は、在家の信者であっても「死身弘法」の強盛なる信心の人は、この言葉に含まれると考えてよい。大聖人の仏法は、一部の特別の人のための仏法ではない。面民衆を救済しきる大仏法である。したがって、御書の中の夫れ出家して道に入るいたるところに「日蓮が弟子檀那等」と申されているのである。「檀那」とは在家の信者である。誰人夫れ出家して道に入るといえども大御本尊の前には平等であり、大切なのは強盛な信心の確立があるか否かである。出家の者であっても、信心が弱ければ大聖人のお心に叶う夫れ出家して道に入るこたはできない。逆に、在家であっても、信心が強ければ、大聖人のお心に叶い、成仏できる人といえるのである。
十一通御書の弟子檀那中への御状にいわく、
「大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候、定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず 是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え」(0177-01)云云と。
この御状は、文永5年10月、蒙古襲来が確実となった国じゅう驚愕の事態にあって、大聖人が幕府をはじめ諸寺に国諫あそばされた時の、御門下へのお手紙である。日本にとっても未曾有の国難であり、それを強諫することは、大聖人門下にとっても未曾有の迫害、弾圧を覚悟のうえで会ったのである。
ここで申されている妻子眷属を憶わず権威を恐れぬ覚悟は、すでに真の出家である。しかるに、姿は出家でありながら、妻子眷属を養い、生計のために汲々とし、権威に媚びへつらう僧侶のごときは、真の出家ではない。それこそ、姿ばかり仏の眷属に似せた、天魔波旬の輩ではなかろうか。
わが日蓮正宗門下における幾多の聖僧の不惜身命の戦い、また創価学会における初代牧口会長、二代戸田会長のあの毅然と戦い抜かれた姿、これこそ、大聖人の精神を、そのまま身に実践された尊き信心の鑑である。
さらに、今日、われら同志が、身は在俗であっても、日夜、法を求め、死身弘法の活躍をしている。これまた、外面は出家でなくとも、その根本精神は、真の「出家」ではないか。
もとより、大聖人の指導も、また私が創価学会員・同志に対して願うことも、一人一人が福運に満ちた一家和楽の生活を確立されることである。普段の信心、学会活動においても、和気あいあいと、喜びにあふれ、悠々たる戦いであってほしいと思っている。
だが、その奥底には、この御状にあるような、勇気と確信と、偉大な覚悟がなくては真の仏道修行を全うすることはできない。しかして、いざという時には不自惜身命で護法のために戦う人こそ、大聖人のお誉めを戴くことができるのである。すなわち、成仏という最高にして絶対の幸福境涯を会得することができるのだ。
実に、仏法を信じ、仏法を学んで、これを修行する究極の目的は、この「仏を期する」こと、絶対的幸福境涯を会得することにある。ある人は、あらゆる条件に恵まれ、幸福生活を楽しみながら、究極目標へ到達する場合もあろう。また、ある人は、あらゆる苦難を耐えながら、途中の中小目的はいっさい目もくれず、ただ成仏という究極目標へすすまねばならない人もある。しかし、いずれの場合も、その心の奥底には、真の出家としての強い強い信心と、いかなる困難をも乗り越えて進む大勇猛精進があって、初めて一生成仏を遂げることができるのである。
人生の目的と幸福論
およそ、人生の目的は何かとの疑問は、洋の東西を問わず、常に哲学者、または真剣に人生と取り組む人々の頭をなやませてきた問題である。哲学の根本問題であるといっても過言ではない。
古代インドのウパ二シャド哲学は、ブラフマンとアートマンとの合一を説いた。中国の儒教哲学は仁をもって理想とし、道教は人間性本来のあり方を無為となし、その自然の姿に徹することを説いた。
西洋において、古代ギリシャのソクラテスは知を愛することを哲学の本質とした。プラトン等は国家社会の中に融合し、その発展に貢献することを理想とした。キリスト教は、唯一絶対、全知全能の神を想定し、その忠実なる僕となって、死後、天国に迎えられることを教えた。このキリスト教的人生観を弱者の哲学なりと弾劾し「神は死んだ」と叫んで、ゾロアスター教的な超人哲学を唱えたのが、ドイツのニーチェである。
また、同じくキリスト教的人生観への反逆を試しみたマルクス・レーニンの思想は、人間生命の本質を物質の存在様式とみなし、プロレタリア独裁社会に貢献することと、物質的要求の充足を人生の目的とした。
これらの思想は、いずれも人間生命の本質を解明しない、脆弱な砂地に建てたビルディングのようなものである。たちまちに傾き崩れてしまう。なかには、最初から蜃気楼のような思想も少なくない。
これらの思想が、はたしてどれだけの人を救ったか。その人の主観にも生きる喜びと希望と勇気を与え、客観的に見ても幸福だといいきれるものを、一人の人間に対してすら、与えたであろうか。むしろ、誤れる思想、低級なる哲学は、これを信じて縋ってきた人々を、不幸におとしいれてきた。過去のあらゆる思想、宗教革命の途上、流された民衆の血が、これを厳然と証明しているではないか。
われわれは、この教訓により、最高の思想、最も深い哲学、誤りのない理念をもって、人類の幸福と平和と繁栄を築かねばならない。
今「人生の目的は何か」との問いに明確に答えられる人が、何人いるであろうか。否、現実の印性は何か、いかなるものかということさえ、明確でないのが現状である。ドイツの詩人ゲーテはいう「たとえ、どんなものであろうと、人生はよいものだ」と。しかるに、その大の親友であったシラーは「苦痛が人生である」と、まるで逆のことをいっているのである。
いわんや、人生の目的という問題になると、各人各様の目的、希望、理想はあっても、万人の納得し、終極の目標として取ることのできる解答は、いまだかって明かされていない。
「人生は絶え間ない前進でなければならぬ。既にあった事の単なる繰り返しであってはならぬ。最後の瞬間まで、毎日毎日が一つの創作であるべきだ」とドイツの哲人ヒルティはいった。
この言葉は、たしかに一面の真理をいいきったもおして、首肯させる哲理を含んでいる。だが、創作といい、前進とっても、それは、行きつく目的のない航海に等しい。限りある人間にとっては、尊い人生の日日を、いかに価値あらしめるかが問題である。そのためには、目的が明らかにされねばなるまい。
ある人は「金もちになりたい」というかもしれない。ある人は「科学者になりたい」と。また、ある人は「政治家になりたい」というであろう。またスポーツマン、音楽家、美術家、医師、教育者、ジャーナリスト、俳優、歌手等々、人によって、さまざまな目的観はあるであろう。あるいは「つつましい家庭を持ち、平凡であっても平穏に暮らせたらよい」という人もあろう。
しかしながら、これらの目的は、いずれも人生の究極の目的というわけにはいかない。議員になりたいという人が、その目的を達して議員になったとき、それでわが人生、満てりと断言できるであろうか。おそらく、当選したその日から、次の選挙に勝つための活動を開始するにちがいない。今度は大臣になりたいという欲望が出てくるかもしれない。
人間の欲望は限りなく発達する。一つの目的が達せられれば、必ずより大きい、新しい目的が生まれてくる。その欲望の充足に向かって、また新しい苦悩を繰り返していかなえればならないのである。もとより、それは悪いことではない。それは、その人にとって、人間形成の貴重な糧であり、また、それがあってこそ、人間の文化の限りなき前進が存するからだ。
しかし、人生の目的として論ずるには、これらの目的はいずれも中小目的であって、究極の目的ではありえないことが明らかである。かつ、人間一般に普遍できる哲学ともえない。
しからば、人間すべてに共通して論ずることのできる目的であり、しかも究極的な目的は何かと考えたときに、その答えを一言にして教えられているのが「成仏」すなわち、仏になることである。これを現代語に訳すと絶対的幸福ということである。
一般の幸福論
人生の目的は、幸福になること、幸福の確立である。しかして、人世の目的は、幸福であることを示した哲学は少なくない、ウバニシャッド哲学の梵我一如も、儒教哲学の仁、道教の無為、ソクラテスの愛知も、それによって、ゆるぎなき人生の幸福境涯が樹立されると考えたがゆえに、提唱されたものである。
ソクラテス、プラトンにおいては、国家をはなれて幸福は考えられなかった。したがって彼らが、国家との調和を保ち、国家に順応し、その発展に貢献することを理想としていたのは当然であった。ソクラテスが、逃げることを友人たちから勧められたにもかかわらず、国家の命であるといって悠々と毒杯を仰いで死んでいったのも、その意味からである。
やがてアレクサンダー大王の遠征等にともなって、ポリス的な色彩はなくなり、一方では個人主義的な風潮が、他方では世界主義的な風潮が生まれた。
個人主義的な哲学を代表するのは、エピキュロスの快楽主義である。彼は、快楽が、あらゆる生者の目的であると考え、さらに他人の生活に迷惑をかけないという社会的責任を考えるうえから、いわゆる、賢者の生活を示したのであった。
その主義は、個人の救済と、人生にける処世術にあった。他方、世界主義的な風潮としての思想は、ゼノンに代表されるストア哲学である。彼らは、禁欲を重んじ、そこに精神の自由があり、幸福があると考えたのであった。
また、近代に至り、資本主義の発達によって、経済学が発達し、経済的な観点から幸福内容を考えるようになった。“最大多数の最大幸福”との言葉に示されているごとく、ベンサムや、ジョン・スチュアート・ミル等は、個人の幸福と人類の幸福は一致するという思想を展開している。
またニーチェ等の思想では、人間の幸福とは、積極的には、人と生まれたことの楽しさ、生き甲斐であり、いいかえれば、あらゆる有限な人類が希求する、生命力の調和ある充実の状態であると考えたのである。ニーチェが、「超人とは超克されるべきなにものかである」と述べ、たえず自己脱皮し、人間形成することを目的としたのも、ここにあった。
これらの哲学は、いずれも観念的には理解できても、あらゆる人が、自己の人生に実現しうる具体性をもったものでない。所詮、人間としての理想を描くことはできても、あくまで倫理的、道徳的抽象論にとどまらざるをえなかったのである。したがって、その理想に向かって努力していくこと自体が、善であるとしたのにすぎなかった。
一方、マルクスを代表する唯物論の立場に立つ人々は、社会的条件下に束縛されている人間にとっては、“窮乏からの自由”こそ最大の幸福内容であるとした。彼らが人生の目的を物質的欲求の充足としたのも、その底流には、かかる幸福感があったからである。さらに、すべての不幸の原因は、社会的、階級的な矛盾から生じているのであり、この克服こそ幸福への最大要件であるとして、プロレタリア革命と共産主義社会の建設を唱えた、そして、人生の目的をプロレタリア独裁社会に貢献することであると説いた。
しかしながら、これも一方に片寄った物の見方であり、一切の社会的要件が仮に解決したからといって、必ずしも、すべての人が幸福生活を実現しうるとは、断定できない。また、その社会改革が達成されるまでは、人は不幸でいなければならないという矛盾もある。しかも、理想現実のためには、犠牲もやむをえないという理論が展開され、スターリン治下のソ連で、あの一千万以上もの、不幸なる犠牲者を生じたのであった。もちろん、われわれは、社会的発展の意義を無視するわけではないが、同じく理想の幻影を追っているにすぎぬのではないか。このように、今日までの幸福論は、幸福の実体なく、有名無実であり、根無し草のごとくはかない、ここに、仏法の色心不二の生命哲学によらねば、絶対に真実の幸福を実現なきことを強く叫んでやまない。
仏法で説く幸福論
一般に人々が求める幸福といっても、その意味するところは、実に千差万別である。卑近な例から考えてみよう。空腹の極にあった人が、おいしい食事によって満腹した場合、それを食べることと食事後の満腹感に幸福を感ずるであろう。しかし、この幸福は二時間・三時間たつと消えてしまい、五時間もたてば、再び空腹に陥ってしまう。
家が欲しいとか、宝石が欲しいとかの欲望も、それを満たされた当座の幸福感はいかに大きくとも、月日の経過とともに薄れてしまうのである。しかも、いったん火災にあって家が焼けてしまったとか、宝石が盗まれてしまったとなると、逆に大きい不幸を感じないでいられなくなる。
したがって、これらの幸福は、きわめて相対的である。相対的であるがゆえに、はかなく消えていくものである。そこに、絶対的の幸福を樹立しようとする宗教の根本目的がある。だが、真実の仏法が説くところと、仏教に名を借りて、勝手につくられた諸仏教、あるいはキリスト教等の諸宗教の説くところとは、本質的な相違がある。
すなわち、前者は人間生命の奥底の真理に立ち、そこに確立された絶対的幸福が、具体的生活のすべての場面を通じて実証されるという、哲学性、合理性、実証的科学性に立っている。これに対して、後者は、哲学的な合理性の裏づけを否定して、むしろ非合理性を主張する。そして、修行の結果として会得されるという彼らの悟りの境涯は、なんら現実世界における実証性をもたない。また、たとえあっても、きわめて生活とは関係のない一般性もない。特殊で非常識な、いわゆる奇跡と称するものにすぎない。 それでは、仏法の生命哲学とは、いかなるものか。また、孝・不幸をどのように説いているのか、また、絶対的幸福とは等々についてみてみよう。これらを最もわかりやすく説いているのが十界論である。十界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。
観心本尊抄にいわく、
「数ば他面を見るに但人界に限つて余界を見ず自面も亦復是くの如し如何が信心を立てんや、答う数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し」(0241-)云云と。
これ、地獄といい餓鬼といい、あるいは仏というも、われら人間生命の種々相にほかならぬとの、偉大な哲理を述べておられるのである。
地獄とは、詳しくは顕謗法抄に八大地獄が説かれているように、苦悩、煩悶する境涯である。「瞋は地獄」と申されているのは、瞋りは修羅闘諍にも通ずるが、その結果、生活を破壊して苦悩に陥るゆえである。日常の肉体的、精神的苦悩から、端的な例をいえば、ナチスの弾圧を受けたユダヤ人や、今日の戦乱に明け暮れるベトナム民衆に至るまで、すべて地獄界といえよう。
餓鬼とは、貧欲によって支配された状態で、満足することを知らないこと。
畜生とは、十法界明因果抄に「愚癡無慙にして徒に信施の他物を受けて之を償わざる者此の報を受く」(0430-04)とあるように、愚かで目先の利益にとらわれるあまり、遠大な根本を忘れること、またこれを慙じようとせぬことといえよう。
修羅とは、常に他人よりも勝ろうとし、自分一人が偉いように思うこと、止観にいわく「若し其の心、念念に常に彼に勝らんことを欲し耐えざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて、下視が如し、而も外には仁・義・礼・智・信を掲げて下品の善心を起し阿修羅の道を行ずるなり」と。この勝他の念にゆえに、いわゆる修羅闘諍というように、争いの姿となって現われる。「諂曲なるは修羅」とは、心がひねくれていることで、他人の好意を好意ととれず、冷酷で悪賢い生命を意味する。
以上の地獄・餓鬼・畜生を三悪道、修羅を加えて四悪道という。
次に、人界とは、いわゆる平らかな状態で、人間としてごく普通の平穏な生命の境涯である。今日、この状態が、どういう立ち場の人にとっても、むしろ稀で、多くは三悪道、四悪道に陥っている事実は、まことに悲しむべきことである。
天界とは、欲しい物が手にはいったとか、自分の願いがかなったとかの満足感によって喜びを感ずる状態である。だが、その喜びは一時的であり、狭い分野におけるものであるから「五衰を受く」と説かれているごとく、時の経過とともに薄らぎ、他の条件の変化と共にあえなく崩れ去ってしまうものである。
四悪道に人天の二道を加えて六道といい、大部分の人間の生活は、この六道を繰り返しているにすぎない。これを六道輪廻という。それに対して、努力と精進、研究によって得られる、より深く、より高く、より長い幸福境涯がある。それが声聞・縁覚・菩薩・仏で、三悪道や四悪道に対して四聖という。
声聞とは、書物を読み、先輩の築いた業績を学び取って、知識を豊かにしたときに感ずる喜び、力の充足感である。縁覚とは、みずから思索し、試行錯誤し、あるいはある自然の現象を見て、求めていた真理の一端を得たときに感ずる喜びである。アインシュタインの相対性理論、ニュートンの万有引力説、ガリレオの振子理論、湯川博士の中間子理論、朝永博士のくりこみ理論等、合理精神の典型ともいうべき自然科学における偉大な発見が、多くは非論理的な一瞬の悟りによってなされていることは、きわめて興味深いものがある。だが、そこに至るまでに、着実な基礎の積み重ねと、深い思索とがあったことは論をまたない。芸術家の創作活動も、縁覚界の代表例である。
菩薩とは、自己の徳性を発揮して、社会のために尽くす働きである。仏経典に出てくる勇勢菩薩は勇気、文殊菩薩は智慧、弥勒は慈悲をそれぞれ徳性とする働きの象徴化である。
さて、最後の仏界とは、生命の永遠性を悟り、宇宙即我、我即宇宙の境涯に立って、一切を見て誤りなく、無限の生命力をもって人生を生きていくこたである。それは、永遠の生命観に立つがゆえに、時間的に変化を受けることなく、宇宙即我の境涯のゆえに空間的に左右されることもない。絶対の幸福境涯である。この自我の確立を基盤として、誤りなく現実の諸問題に対処し、いかなる難関も、強い生命力をもって乗り越え、打ち破っていくことができるのである。
人生の究極目的は、この仏界の生命の涌現、すなわち一生成仏にある。その方法は、道徳的な精神修養でもなければ、人間らしい欲望を無理に抑圧する戒律をたもつことでもない。ただ仏界の生命の当体である、三大秘法の大御本尊に境智冥合することによって、われわれの生命の内奥より涌然とあらわれるのである。すなわち、日蓮大聖人が、出世の本懐として、弘安二年十月十二日に御図顕あそばされた、一閻浮提総与の大御本尊に帰命し、自行化他にわたる南無妙法蓮華経を唱えきっていくことに尽きるのである。
現世利益について
よく創価学会のことを、現世利益を説くから低俗であり、仏法本来の精神からはずれているかのようにいう者がいるが、これは大いなる誤りである。
現世利益とは、いいかえれば現実生活における幸福である。しかして、人間生活を詳細に分析してみるならば、その内容はすべて、幸福生活を求めて向上しようとするたゆまざる価値創造であることは明瞭である。大きくば、人類がここまで発展してきたのも、幸福をもとめ営々として築いてきた、何千年来の人々の努力と汗の結晶にほかならない。
すなわち、「現世利益」を求めるのは、人間のあまりにも自然な心得である。これを否定し、認めぬことは、人間の本性を否定し、滅却するものであり、必ず矛盾にぶつかり、混乱を生じていくのである。
古来、幾多の思想家、哲学者が、人間生活における幸福の問題と真剣に取り組み、この解明にいかに心をくだいてきたことか。もし、幸福を追求することを低俗だと軽蔑して、生活に関係なき空理空論をもてあそぶとすれば、それは観念論も甚だしい。のみならず、これらの古今の哲人、思想家をことごとく低俗なりと否定し去らなければならないであろう。
いわんや仏法は最高の生活法である。単なる空想の哲学でもなければ、未来に事寄せて、現実をあきらめさせるような弱弱しい哲学ではない。事実、人々の心中に力強い生命力をわきたたせ、現実生活を打開する、たくましき実践力、生活力を奮い起す大宗教である。
仏教=現世利益否定と公式化して覚えていることは、あまりにも愚直であり、仏法の何たるかを否定している教えであるがごとく、人人に鼓吹してきた。だが、これこそ、彼らの宗教がいかに無力であるかを証明するものではないか。
むろん、仏法の説くところが、すべて現世利益をめざすものであるとするのは、間違いである。これらの利益は、大利益からみればわずかな部分にすぎない。
だが、現実の祈りの叶わぬような力なき宗教で、どうして未来永遠の幸福が得られようか。一丈の堀を越えられぬものが、なんで十丈、二十丈の堀を越えられようか。
いたずらに精神界のみをとくのが宗教であり、現実の生活をよじれたものとして、そこからの逃避や、超越を説いて、宗教を美化して、それがあたかも深遠で高邁な教えであるかのごとく装うのは、民衆を欺瞞するも甚だしいといわなければならない。
もし、創価学会を、現徒世利益を説くからといって非難するならば、汝自身の生活は、仙人のごとく霞を食い、いっさいの欲望を断絶しているのかと聞きたい。もし、かかる人間が存在するとすれば精神分裂症か、二重人格の偽善者でると断ぜざるを得ない。
ましてや、知識人ぶり、したり顔をして、庶民の素朴な感情を愚弄するのは、あまりにも傲慢ではないか。やがて世の中の人々から見放され、忘れ去られる存在になることは絶対である。
現世の幸福は永遠の幸福の実証
現世利益は、なにも創価学会の発明でもなければ、新説でもない。仏法の最高哲理では当然のこととして説かれている。遠くは釈尊も法華経において、近くは日蓮大聖人もまた、大確信をもって諸御書に現世の利益を断言しておられる。
法華経の第五の薬草喩品にいわく「是の諸の衆生、是の法を聞き已って現世安穏にして後に善処に以って楽を受け、亦法を聞くことを得」と。
いうまでもなく、この世において、仏法を正しく信ずることによって、現実の生活が幸福になり、安定しきった平和な生活を営むことができる。また、未来においても、幸福境涯で生まれてきて、生死ともに、三世にわたる永遠の生命のうえから、変わらない幸福生活を送ることができるという文証である。また、日蓮大聖人の御書を拝しても、現世における大功徳を、厳然と説かれているのである。
撰時抄にいわく、
「法華経の八の巻に云く「若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は乃至諸願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」又云く「若し之を供養し讃歎すること有らん者は当に今世に於て現の果報を得べし」等云云、此の二つの文の中に亦於現世・得其福報の八字・当於今世・得現果報の八字・已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば如来の金言は提婆が虚言に同じく多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ、謗法の一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず、三世の諸仏もましまさざるか、されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ、」(0291-05)と。
この文は、明らかに、法華経の経文を引いて、現世の大功徳を説き明かされた文である。われわれ、大御本尊を拝する者は、その指導どうりに正しく信心しきっていったならば、現実の生活のうえに功徳がでないわけがないとの御断言であり、そうでなければ、仏法はすべて虚妄であるとの、きびしき仰せなのである。
その現実の証拠を無視しての仏法はありえないし、それを肯定し、断言しないような、力弱き宗教ではないのである。「0957-17 現世に云をく言の違わざるを見て、未来を推せよ」と仰せられているごとく、仏法は道理であり、因果の法則のきびしき哲理である。「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468-16)と。
このたくましい生活指導の大原理こそ、日蓮大聖人の仏法であり、そこに偉大なる人間革命・宿命打開の道が示されているのである。創価学会は、この仏法の原理を正しく実践しているにほかならない。今日、五百数十万世帯、一千数百万の人々が、御本尊の大功徳をあらゆる分野にわたって、現実の生活のうえに立証していることは、実に偉大なことではないか。
歓喜に燃えて、功徳を感じている学会員の姿を見よ。病床にふしていた者が、元気に職場に復帰し、家庭不和に悩んだ一家が、だんらんの笑い声の絶えない家庭に改革され、和楽の生活を送っている事実を、誰が否定できようか。これ大御本尊の功徳といわずして何であろうか。
かつまた大聖人は「近き現証を引いて遠き信を取るべし」と仰せられている。されば、この現実の証拠を見て、大御本尊様を信じた人々は、必ずや、大聖人が成仏の境涯として説かれた、永遠にして不滅の幸福境涯を会得できることを強く強く確信すべきである。
世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず
この御文は、個人の不幸も、国土の三障七難もその根本原因は、邪宗邪義にあるとの仰せである。これは世間の人の予想だにもしなかった驚天動地のことであり、この師子吼ひとたび響いて、惰眠をむさぼっていた当時の宗教界はさぞやあわてふためいたことであろう。また邪宗邪義に迷わされたひとびとの驚愕もひとかたならぬものであったろう。さればそれはたちまちにして嫉妬、激怒に変わり、三類の強敵のアラシとなってあらわれたのである。この彼らの周章狼狽自体、おのれの本質がものの見事に見破られたことを示すものではないか。
開目抄にいわく「此れを知れる者は但日蓮一人なり」と。誰もが無関心であり、誰もが無智であった宗教の正邪・善悪の分別こそ、幸・不幸の決定線であり、これを大聖人ひとり知られたのである。のみならず、日本の国から、また、この地球上から悲惨の二字を除き、幸福と繁栄とをもたらくのは、ご自身以外にないのであると。のみならず、日本の国から、また、この地球上から悲惨の二字を除き、幸福と繁栄をもたらすのは御自身以外にないのであると。またいわく「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232-01)
この巌のごとき民衆救済の大確信、全民衆を苦悩の底より救い出さんとの大慈悲「智者に我義やぶられずば用いじとなり」との大信念、これこそ、大聖人の立正安国論の精神であり、創価学会に一貫して流れている根本精神である。日本の国に、真に自己のエゴイズムを捨て、苦に没在せる民衆の幸福のために、また世界の平和のために一人立つ指導者がいるであろうか。もし、真実に、その心であり、日本の前途、世界の前途を憂うるならば、この日蓮大聖人の思想に耳を傾けるべきである。検討もせずして批判するのは指導者の名に恥ずるではないか。
生活とは生命幸福の発露
人間生活を虚心にながめてみれば、それがことごとく幸福を求めての生活であることは前述のとおりである。それでは、その幸・不幸が宗教のいかんによって決まるとはいかなるわけか。
それには、人間の生活そのものの検討がなされねばならない。結論からいえば、生活とは、生命活動のあらわれたる現実である。すなわち、瞬間瞬間の生命活動の発露である。
しかいて、この生命の奥底を支配するものが思想であり、哲学であり、宗教なのである。先に人間の生命活動を、十種類の範疇をもって説き明かした。いうまでもなく、十界論である。地獄は苦悩・煩悩の生命活動、餓鬼界はむさぼりの生命活動、畜生界は、動物等にみられるような弱肉強食であり、本能のままの生命活動、修羅界は勝他の念による闘諍の生命活動、人界は平らかな、あたりまえの生命活動、天界は喜び、声聞界は理論・真理を追究していくときなどの生命活動、縁覚界は名音楽などを聞いてうっとりし、あるいはまたピアニストがピアノを弾くことに専心し、それに徹して、一分の悟りを開く生命活動、菩薩界は、人を利益していこうとするところの慈愛の生命活動である。そして十番目の仏界とは、言葉をもって説明しがたいが、あえていえば、なにものにもくずされない絶対の幸福境、すなわち大宇宙のリズムと合致し、なんら障害のない自在の生命活動である。
そして、この地獄界から仏界までの生命活動は、誰人といえどもこれを有している。怒る生命活動の欠けた人もいなければ、喜びの生命活動のまったくない人もいない。苦しむことをしらない人もない。それは万人共通の、本然の生命活動である。しかも、これらの生命活動は、ことごとく縁にふれてあらわれてくることも、すでに明らかにしたごとくである。
人間生活への思想・宗教の影響
邪悪な思想、低級な哲学、したがって、誤れる人生観、社会観をもとにした生活をすれば、自己の生命は、地獄、餓鬼、畜生の三悪道、また修羅界を加えた四悪道のみ旺盛になり、貧・瞋・癡の充満するところとなる。それは、さらに生命にもはやぬぐいさりがたい濁りを生じ、一定の癖をもつようになる。濁り、癖を持った生命は、もはや宇宙のリズムと調和せず、生命力は極度に弱まり、宇宙の種々の事態に応じえず、生きることすら苦しくなり、不幸の巷を流転してゆくのである。また、生命の濁りは偏狭な人格を形成し、それらの偏狭な人格の人のみ多くなれば、衆生社会が濁り、そこに誕生する偏狭なる指導者は、狂気のごとく、国の前途を誤らせ、世界を混乱に導くのである。これ、人間の生命活動の動機ともなり、また、生命の内奥の世界を揺り動かし、支配し、リードしていくべき思想が、邪悪であり、低級であり、奸智に奸たけたものであり、また偏狭であるものにほかならない。
なかんずく、宗教の影響は甚大である。もしも誤れる宗教でれば、しらずしらずのうちに人の生命をむしばんでいく、信仰という力関係によって、思想にあらわれた、あるいは本尊等の対境ににじみ出ている生命の波動が、強くわれわれの生命に伝えられるからである。
われわれは、現実の低級宗教の害毒にむしばまれた人々の生活の無気力な姿、あるいはなにかにとりつかれたような気違いじみた姿、二重人格、畜生道、餓鬼道、また悲惨の二字そのものの地獄界の姿、残忍きわまりなき修羅葛藤の姿を眼前にし、あまりのも宗教が生活に影響するところの絶大さを知って慄然とするのである。ともに、日蓮大聖人の指摘に寸分の狂いもないことを知り驚嘆し、その指導原理の万古不変なるを確信するものである。
誤れる思想、宗教がいかに恐ろしいか。西欧におけるキリスト教の例、ソビエト共産主義、ナチスの人種論、インド、中近東、東南アジアの宗教、最後に日本の宗教について概観してみたい。
西欧におけるキリスト教の影響
西欧におけるキリスト教の歴史をみても、いかに思想、宗教の影響が大きいかがわかる。キリスト教は西暦0313年、ローマ皇帝によって公認され0392年に国教となって以来、不動の地位を築き、欧州世界に君臨するようになる。そして、やがて中世においては、教会の権限は絶対化され、国主すら法王にぬかずくにいたる。いっさいの学問は神あり、学の下僕であり、すべて神学で説明され、神学に合わない理論は、神への反逆であり、異端とされた。もはや、キリスト教は西欧人の心であり、唯一絶対のしそうであった。法王がイスラム教徒に奪われた聖地の奪還を指令するや、人々は熱教的に十字軍に従軍し、遠征におもむいた。さらに、ルネサンス期を迎え、キリスト教の権威から脱皮しようとする人々があらわれ始めたときに、どれはどの既成の権威、宗教的ドグマがそれらの人々の心に重くのしかかっていたことか。
教会の権威を脅かすと目された化学者たちは「無神論者」とか「魔術師」「マホメット教徒」とののしられ、迫害された。ジョルダーノ・ブルーノは焚刑に処せられ、68歳の老齢のガリレオ・ダリレイは、審問所に引きずりだされ、焚刑か、さもなくば地動説を捨てよと二者択一を迫られた。万と思想、哲学、宗教の誤りは、恐ろしいことか。
やがて、教会の腐敗・堕落に対し、幾多の宗教改革が試しみられ、特にドイツのマルチン・ルター、スイスのジョン・カルヴァンの影響は大きく、多くの新教団が誕生するにいたる。以来、新旧の対立は凄惨をきわめた。フランスにては、1572年の聖パイソロミューの虐殺で、約5万人のユグノー教徒が惨殺された。また1618年から48年にかけて、ドイツを舞台として、大宗教戦争といわれる30年戦争が行われた。これはドイツの新旧教徒の争いに、デンマーク、スウエーデン、フランス等が参戦し、全ヨーロッパ的な長期の戦争となったものである。この戦乱によって、ドイツは殺戮と疫病の巷と化し、当時のドイツ人口は1800万から、実に半数以下の700万に激減してしまったといわれる。
こうしてキリスト教の権威は失墜し、人々の心はしだいにキリスト教から離れていった。だが、いったん人人の心をとらえた思想が、そう簡単に抜けきれるものではない。18世紀の終わりにいたってすら、ジエンナーの種痘の発見がキリスト教徒によって「摩法」「無神論」と告発され「天そのもの 神の意志にすら戦いを挑むもの」「神の掟はその施術を禁ずるものである」と激しい迫害を受けた。もって、思想の及ぼす影響の深さを知るべきである。
今やキリスト教は衰亡の一途を辿っている。だが、今なお西洋人の心を陰に陽に、キリスト教的な物の考え方が支配していることも見のがせない。
こうしたキリスト教の歴史を見るにつけ、その底流に、恐るべき人間性の無視、抑圧があることを知るのである。キリスト教界は、表面では、あるときヒユーマニズムを唱え、あるときは、平和を唱え、時流にのって、その都度、美しき言葉を吹聴する。だが、いったい、彼らのいう”ヒユーマニズム”が、彼らの手によって一度でも叶えられたか。残念ながら、否、当然のことながら、彼らは、結果的に、戦争を助長し、人間性を抑圧してきたのである。あれだけ、キリスト教が深く流布していながら、なぜ欧米諸国は、植民地主義をもって、アジア、アフリカを苦しめてきたか。所詮、キリスト教によるヒユーマニズムは、きわめて根の浅い観念的なものである。その根底は、原罪説等に見られるように、人間性に対する罪悪視であり、偏狭なる生命観である。
共産主義思想とスターリン治下のソ連
一方「神なき宗教」といわれる共産主義もまた、それが行動化され、実銭化されたときに、多くの犠牲を生んだのであった。それはスターリン治下のソビエト社会に、最も殺伐とした形であらわれた。農業集団化びともなう、何百万、否、一千万以上の農民の大量虐殺、餓死については前章で述べたとおりである。スターリンは、独裁者の地に位つくとトロッキーやジノヴィエフ等の「左翼反対派」をけおとし、さらにはブハーリンやルイコフを片づけた。1928年から1932年にかけての第一次五カ年計画においては、多くの「反対派」党員の静粛があり、また、農民、旧インテリ、少数民族など、おびただしい数の、名もなく、よるべのない、無辜の民衆の犠牲があった。この時ゲーペーウーの名は死神の異名として恐れられ、流罪地シベリアは、絶望の地の果てと恐れられていた。
1933年の初めに、スターリンは第一次五カ年計画の成果を誇らしげに語った。翌1934年1月から2月にかけて、第17回党大会を開いた。この大会は「勝利者たちの大会」と名づけられた。だがこれは“勝利者”ならぬ“犠牲者”の大会だったのである。
その年の12月にキ―ロフが暗殺されて以来、ソ連社会には「エジョフシチナ」の名で呼ばれる大量粛清のアラシが吹きすさぶのである。すなわち、スターリンによって内務人民委員に任命されたエジョフにより、まず、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、ルイコフ等の、かってレーニンの側近だった人々が大粛清された。次いで、スターリンから不興を勝ったスターリン主義者の人たちが、つぎつぎと粛清されていった。第17回党大会の代表1965名のうち、1180名が「反革命の罪科」の名のもとに逮捕された。この大会で中央委員に選ばれた139名の中央委員とその候補のうち、その70%の98名が逮捕、銃殺された。かくして、党大会の80%が刑務所、強制労働収容所、処刑室に姿を隠していった。ましてや、平党員の何%が行くえ不明になり、生命を失ったかは、測り知れない。また数千の非党員も犠牲となった。
また幾10万の市民が家庭と職場から連れ出され、強制労働所にほうりこまれた。しかも、その選び方はあまりにもばかげていた。時には、警官が街の一角を軒並みに歩き、気まぐれにドアのベルを鳴らしては、あちらで一人、こちらで一人というように、まったく罪のない人たちを車に乗せて運び去った。その目的は、労働力をふやすこと、燐人を恐怖におとしいれること以外に何もなかったという。軍の粛清も仮借なく行われた。1837年、ポーランドの戦争の英雄、赤軍建設の功労者であった参謀総長トハチェフスキー元帥以下8将軍が銃殺に処せられた。この時の粛清で、5名の元帥のうち3名、15名の軍司令官のうち13名、85名の軍団司令官のうち57名、195名の師団司令官のうち110名、406名の旅団司令官のうち220名が抹殺された。それよりも低い地位にある将校も5000名が反逆者として死んだのである。そのほか行政機関等の粛清もきわめて激しいものであった。
また非ロシア諸民族に対する静粛も悲惨であった。1938年にはウクライナ共産党の第一書記になったフルシチョフによって、ウクライナの大粛清が行われた。またポーランドの共産主義者のほとんど全部銃殺、または投獄された。その他ユダヤ人等の多民族の粛清も行われた。そして、「エジョフチナ」の最後の犠牲者は、ほかならぬエジョフ自身であった。エジョフは1939年ポストを追われ、姿を消してしまった。その年の党大会で、スターリンは、もう大量粛清はやらないといった。しかし、全体主義体制の重苦しい空気、恐怖の世界は続いた。
第二次世界大戦が始まり、ソ連国民は、まる四年間、ドイツ戦争で渾身の力をふりしぼり、ようやく戦争に勝つことができたが、その後にまちうけていたものは、またスターリンの圧政であった。再び国民の生殺与奪の権利は、スターリンに握られ、ぺリヤの秘密警官は、おびただしい血の粛清をやってのけた。「ぺリヤ警察はいつでも未明に訪れ、ドアをノックし、不幸な人を有無をいわさず連行していった。それっきり、その人の消息はようとしてわからない。ソ連国民はたえず未明のノックにおびえながら、見ざる、いわざる、聞かざるの生活を送らなければならなかった」
これらの事実を知って、われわれは、その冷酷、残忍なのに驚くよりも怒りを催す。その底流に、生命を、物質の存在様式に過ぎぬとしか見ない、低級なる唯物論の生命観があったことを指摘せざるをえない。あのような強制的な生活の画一化、虫けらのごとく粛清するあの悪魔のごときふるまい、これらに一貫して流れるものは、人間の個性の無視であり、人間の自由の略奪であり、人間の尊厳の無視である。すなわち「人間」そのものを、唯物論的見地から見立てた、哀れなる結末ではなかったか。さらに、スターリンが、第二次世界大戦後、第三次世界大戦を予想して、重工業に力を入れ、国民に極度の耐乏生活を押しつけるなど、その底には、戦争は宿命的に避けられないという、レーニン以来のテーゼがあったこともいがめない事実である。ここにも、偏狭なる思想、低級なる理念が、いかに不幸をもたらすかが、如実にあらわれているではないか。
誤れる人種観・民族観=ナチ・ドイツ
また、第二次世界大戦中、ナチ・ドイツは、ユダヤ人の殲滅をめざして、六百万人ものユダヤ人を殺害した。なぜこのような暴挙にでたのか。
ヨーロッパ諸民族のユダヤ人民に対する憎悪は、中世初期からの根深い伝統をもっている。その煽動者が「ユダヤ人はキリストを十字架にかけた悪魔だ」とするキリスト教会であった。
ナチは、一方では共産主義の浸透を恐れる資本家の心を反共産主義で捉え、一方で、この反ユダヤ主義を唱えて、ゲルマン民族を至高とする民族感情を味方にしたのである。
1933年4月、ナチ政権はユダヤ人商店に対するボイコットを出した。第一次世界大戦後の経済苦にあえぐドイツ国民は、たちまちこの作戦にのせられ、生活苦の根源はユダヤ人にあると思い込み、憎悪の念をかりたてられた。ユダヤ人商店襲撃が全国的な国民運動として繰り広げられた。
ここまで、反ユダヤ感情がたかまったことが、ナチのユダヤ人殲滅を正当化し、推進する大きい力となったといえる。1942年1月、いわゆるヴァーンゼー会議がゲシュタボ長官ハイドリヒのもとに開かれた。そして、全ヨーロッパのユダヤ人を東ヨーロッパで強制労働に酷使したうえで絶滅させるという計画が立てられたのである。
しかし、実際には、老人、子供、夫人の多くは強制労働に耐えられないので、すぐに殺された。アウシュヴィルツ、マイダネック、ヘルムノ、ベルゼック、ソビボール、トレブリヤンカ等の収容所がこのために設けられた。所長以下、少数の役人はナチ親衛隊で占められていたが、下級役人は政治犯や刑事犯が転用された。特に刑事犯が役人になったところでは残虐を極めたという。
そうでなくても、本来、収容所の目的が、体力を弱らせ、病気にかからせ、絶滅することにあったのだから、その悲惨はいうまでもない。有名なガス室や死体焼きかまど、大量銃殺溝等々、すべて人間が人間を殺すために考え出された道具立てである。なんという残虐、なんとう冷酷、なんという狂気、そして、なんという人間性無視の悲劇であろうか。
それは、偏狭なる人類観、民族主義が当時のドイツ国内のさまざまな不平不満と結びつき、さらに、それに指導者の征服欲、名誉欲、利害等が結合し、暴発的な感情となり、人々を狂信的な、ユダヤ民族殲滅の暴挙へとかりたてたのである。だが、この誤れる人種観、民族観が、直接的には結びつかずとも、キリスト教の「ユダヤ人は“陰険な、堕落した”民族であり、神を否定し、キリストを殺害したために、神に呪われている民族である」との思想に、淵源がなかったと誰が断定できようか。そうでなくとも、ナチにローマ教会が妥協したことは周知の事実である。そこにキリスト教の二重人格性が顕著にあらわれているのではないか。これまた、人間性を無視した偏狭なる思想が、権力と結びつき、戦闘化したときに、いかなる悲惨な現実が展開されるのか、そのよき証拠である。
東南アジアに見る宗教の害毒
また、アジアにおける思想、宗教の影響性の一例として、インドとパキスタンの根深い対立がある。すでに1947年、両国が分離独立に際しては、650万のイスラム教徒が、インドからパキスタンに逃れ、逆に50万の非イスラム教徒がパキスタンからインドへ行ったという。この時、パンジャブ州を中心に両教徒の無差別殺戮が行われ、その犠牲者は、イスラム教徒だけでも、なんと50万に達したとわれている。
彼らは、宗教に力がないために、それに政治の利害がからみ、力で訴えて解決しようと試みるのである。
この両国間の対立を根本的に解消できることは容易ではない。またインドの内部におけるカースト制度は、現在、4000種にわたる階級があり、それがどれほどインドの近代化を妨げてきたことか。しかも、今日法律でカースト制が禁じられているのもかかわらず、きわめて固定化した形で存在している。これまた、ヒンズー教が、どれだけ民衆の中に浸透しているかを示すものであろう。
また、小乗仏教国とわれる東南アジアの国々の民衆が、西欧の植民地の支配のもとに呻吟してきた無気力、惰弱、消極的風潮のなかに、宗教の害毒が、強く、はっきりとにじみ出ているのである。もともと小乗教では、この人生を、苦・空・無常・無我であると立て、煩悩すなわち人間の欲望を断じ尽くした境地を悟りとした。このために、比丘に二百五十戒、比丘尼に五百戒等の戒律を持たせようとした。ここに小乗教が戒律主義であるといわれるゆえんがある。
だが、いったい、煩悩を断じ尽くすなどということができようか。また、それができたとしても、そんな人間は、もはや木石となんら変わらぬではないか。現実を否定し、無視し、他の世界に幸福を求めゆく思想である。釈尊も、こうした教えは真実ではないと、のちに、自これら、小乗の教えは釈尊当時のインドの民衆の、享楽主義的風潮を打ち破るために、またバラモンの教えを破るための仮説にすぎない。このような、低級の教えを根本にすれば、当然、自由な人間性を疎外し、建設するたくましき生命力をむしばみ、無気力と偽善とを植えつけてしまうのである。
思想とはまことに恐ろしきものである。一人の人間の人生を徹底的にきめてしまうことはもちろんである。だがそれが、いったん社会に流布し、全体の中に浸透したときに、思想は、最もその威力を発揮する。思巨万の富を積もうが、その人一代限りで滅び去ってしまう場合もある。その興亡盛衰が、いかにきびしいかは、歴史が如実にこれを示していつではないか。
だが、いったん社会の奥深く打ち込まれた思想は、その後何百年、いや何千年と生き残る。そして、その社会の歴史に一貫した宿命をもたらす。そうなれば、もはや、その社会に生きる人は、その思想自身では、信奉しいえいると思わなくとも、しらずしらずのうちに、その思想の影響を受けているのである。ひとたび、自覚して、これを打ち破らんとすれば、平穏な世界は再び変じて、いかに憎悪と怨嫉と迫害のきびしいかを知らされるのである。
太平洋戦争における神道
わが国においては、低級な、邪悪なる思想、宗教がいかに国の前途を誤らせたかを顕著に示す例として、あの太平洋戦争における神道があげられよう。明治以来の神道思想は、天皇の神格化とともに、神州不滅の国家主義思想を形成し、戦争遂行の原動力となっていたのである。しかるに、神道そのものには、なんの指導理念もなく、いたずらに国民を精神主義にかたむけるばかりであった。一億の民に挙げて神社参詣することを強調した。国家権力によって、押しつけられたこと自体、すでに宗教に力のない証拠である。盲信とも、迷信ともいうべきであろう。その結果は、あの戦争中の神がかり的な神風思想となり、竹ヤリ主義の日本神道となり、シンガポール神社や朝鮮神宮等に見られる多民族への強調という愚劣な政策となって現われ、多くの破綻を生じたのである。また、思想の力は、あの客観的には、まったく勝ち目のない戦争を、最後まで皇軍必勝を信じさせたのである。だが、結果は、未曾有の大敗戦であった。終戦直後、幾多の軍閥関係が、皇居前広場で自決した。民間の極右翼の集団自決もあった。その信念の破綻から、悲しくも、みずからを死に追いやったのである。まことに恐ろしさは、言語に絶うるものがあるではないか。一片の思想が、かくも根強い国民感情を形成し、あの未曾有の大戦乱を巻き起こし、その破滅は、また多くの犠牲者をともなった。だが、このように思想に威力があるにもかかわらず、人々は、思想自体の高・低・浅・深・正・不正に対しては、あまりにも無関心であり、無感覚である。いわば思想の魔力というべきか。
われわれは、これまで、西欧のキリスト教、ソ連の共産主義、インドのヒンズー教、東南アジアの小乗仏教、そして日本の神道等をみてきたが、これらの例をもってしても、思想宗教の高低、宗教の正邪を、あくまでも政治権力に左右されず、真剣に検討すべきであろう。われわれが、まず、宗教革命に立ち上がったのも、そのためであり、それ以外には断じてない。
現代の日本における邪宗教
しかるに、現代の日本の宗教界には、キリスト教よりも、小乗教よりも、ヒンズー教よりも、神道よりも、恐るべき狂気の宗教が横行しているのである。特に宗教の根本とすべき本尊を誤れば、その人の生活は根底より破壊され、不幸の巷を流転するしかないのである。われわれは、身のまわれにキツネつきとか、あるいはヘビのようにのたうちまわる、むざんな姿を見たり、聞いたりする。狐狸を拝むものは狐狸の姿を現じ、蛇竜を拝めば、またその姿を身に現ずる。まことに不思議であり、かつ恐るべきことである。これ、われわれの生命の中に、本然的にそれらの生命の働きが備わっており、縁にふれてあらわれてくるという、仏法の方程式が正しいことを示しているではないか。
このように、拝む対象の影響力は、われわれの身に重大な変化を起こす。現在、信仰の対象たる本尊は、きわめて多種であり、狐狸・男女の陰部・水火・太陽・山岳の自然者等、驚くべき数にのぼる。仏教中、釈尊を立てる宗教においても、小乗教の釈尊から寿量顕本の釈尊まで種々雑多であり、真言宗は大日如来を、浄土宗は阿弥陀如来を、日蓮宗は釈迦の立象、または日蓮大菩薩と呼称して大聖人の像を、あるいはにせ曼荼羅を拝むなど、みな思い思いに勝手な本尊を立てている。だが、これらの本尊が、いかに誤りの甚だしいか、文・理・現の三証からみても、五重の相対、三重秘伝等の宗教批判の原理に照らしても、また一念三千の法理のうえからも明白となるところである。 これらの本尊をもとにした邪宗教は、人間の生命に深く食い入って、本質的にその生命をむしばむ悪鬼となり、悪魔となることは絶対である。妙楽大師は、正境に縁すれば利益多しと述べ、大聖人も御書のなかで幾多の正しき本尊の功力を強調されているが、その反対を考えれば、邪宗教の害毒、まさに恐るべきではないか。これを大聖人は「魔来り鬼来り災起り難起る」といわれたのである。
魔も鬼も、その意味は、語訳に詳説したとおりである。ともに、人の善心を破壊し、生命を濁らせ、不幸にする働きであり、根本的には、邪宗、邪義、邪智より起こるものである。「魔り鬼来り」とは正報であり「災起り難起る」とは依報であり、この文は依正不二を示している。正法とは、自己の生命活動そのものであり、依報とは、環境のいっさいである。所詮、人間生命の濁りが、個人の生活を破壊し、さらに、社会全体をも混乱におとしいれ、国土にも災難をもたらすのである。
謗法の人の死後
さらに永遠の生命観に立てば、もし邪宗教を信奉するならば、その人の生命の本質が破懐されるがゆえに、未来永劫に不幸の連続であり、生きては、苦悩にうちひしがれ、死しては無間の焔にむせぶのである。これ経文に明らかであり、大聖人の御書に歴然としているところである。
法華経譬喩品には、邪宗教に迷い、正法に背いた人が、死後どのようになるかが説かれている。「もし人信ぜずして、この経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或はまた顰蹙して疑惑を懐かん。汝当に、この人の罪報を説くを聴くべし、もしは仏の在世、もしは滅度の後に、それ、斯の如く経典を誹謗すること有らん。経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賎憎嫉して、結恨を懐かん。この人の罪報を汝今復聴け。その人は命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して、劫尽きなば更生まれん。是の如く展転して、無数劫に至らん。地獄より出でては、当に畜生に堕つべし。
「若し狗野干とならば、其の形はコツ痩し、梨黮疥癩にして、人に触焼せられ、亦復、人の、悪み賤しむ所と為らん、常に飢渇に因しんで、骨肉枯渇せん、生きては楚毒を受け、死しては瓦石を被らん、仏種を断ずる故に、斯の罪報を受けん、若しは馲駝と作り、或は驢の中に生まれて、身は常に重きを負い、諸の杖捶を加えられん、但だ水草を念うて、余は知る所無けん、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し。
或は野干と作って、聚落に来入せば、身体疥癩して、又、一日無からんに、諸の童子の、打擲する所と為り、諸の苦痛を受け、或る時は死を至さん、此に於いて死に已って、更に蟒身を受けん、其の形は長大に、五百由旬ならん、聾騃無足にして、蜿転腹行し、諸の子虫の、接食する所と 為りて、昼夜に苦を受くるに、休息有ること無けん、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是のごとし。
若し人と為ることを得ば、、諸根は暗鈍にして、矬陋レン壁、盲聾背傴ならん、言説する所、有らんに、人、信受せじ、口の気、常に臭く、鬼魅に著せられん、貧窮下賤にして、人の使う所と為り、多病痟痩にして、依怙する所無く、人に親附すと雖も、人の意には在かじ、若し得る所有れば、尋いで復、忘失せん、若し医道を修して、方に順じて病を冶せば、更に他の疾を増し、或は復、死を至らん、若し自ら病有らば、一の救療すること無く、設い良薬を服すとも、而も復、増劇せん、若しは他の反逆し、抄劫し窃盗せん、是の如き等の罪は、横に其の殃に羅らん、斯の如き罪人は、永く仏、衆聖、之、王の、説法教化したまうを、見たてまつらじ、斯の如き罪人は、常に難処に生まれ、狂聾心乱して、永く法を聞かじ、無数劫の、恒河沙の如きに於いて、生まれては輒ち聾唖にして、諸根は具せざらん、常に地獄に処すること、園観に遊ぶが如く、余の悪道、在ること、己が舎宅の如く、駝驢猪狗、是れ其の行処とならん、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し、
若し人と為ることを得れば、聾盲瘖唖にして、貧窮諸衰、以て自から荘厳し、水腫乾痟、疥癩癰疽、是の如き等の病、以って衣服と為さん、身は常に臭処にして、姤穢不浄に、深く我見に著して、瞋恚を増益し、淫欲は熾盛にして、禽獣を択ばじ、斯の経を謗ずるが故に、罪を獲ること是の如し。
この経文は観念でもなければ、虚構でもない。現実生活の実相なのである。日蓮大聖人は、法華経について「六万九千三百八十四文字悉く仏なり」と仰せられ、一言一句ことごとく真実であり、生命のきびしい実相を説き窮めていることを示されている。これはど恐ろしき邪宗教に、人はなぜかくも無感覚でいるのか。
聖愚問答抄にいわく「悲しいかな痛しいかな我等無始より已来無明の酒に酔て六道・四生に輪回して或時は焦熱・大焦熱の炎にむせび或時は紅蓮・大紅蓮の氷にとぢられ或時は餓鬼・飢渇の悲みに値いて五百生の間飲食の名をも聞かず、或時は畜生・残害の苦みをうけて小さきは大きなるに・のまれ短きは長きに・まかる是を残害の苦と云う、或時は修羅・闘諍の苦をうけ或時は人間に生れて八苦をうく生.老・病・死・愛別離苦.怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦等なり或時は天上に生れて五衰をうく、此くの如く三界の間を車輪のごとく回り父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず夫婦の会遇るも会遇たる事をしらず、迷へる事は羊目に等しく暗き事は 狼眼に同し」(0474-12)
この文は、明らかにわれわれが過去遠々劫より今日よりいかに不幸にさいなまれ、苦悩の巷を流転してきたか、そして、今日、われわれの生命のなかには、いかに多くの不幸なる宿命がひそんであるかを示されたものである。ここに「無明の酒」とは邪宗教である。このように邪宗教は、一人の人間の一生のみならず、測り知れないほど長きにわたって、生命の奥底を支配する。
この地上に展開される地獄絵巻図
しかも、ここに示された姿はけっして、この地上とは別の幻想の世界にあるのではなく、20世紀の今日ですらこの地上に出現したし、また出現しているのである。大焦熱地獄とは、まさに広島、長崎の原爆の悲劇それではないか。一瞬にして火の海と化し、猛火に焼かれゆく人々の苦悩を、地獄と呼ばずして、何といおうか。また、紅蓮地獄とは、八寒地獄の一つであり、この地獄に落ちたものは、極寒のために皮膚が裂けて真っ赤になり、ちょうど紅蓮の蓮華の花に似ているところから、このように名づけられた。だが、これまた現実にあったのである。
第二次世界大戦中、ソ連西部はナチ・ドイツの侵略を受けたが、オデッサの町でも徹底的な反ナチ主義者に対する弾圧が行われた。ナチの親衛隊は、町の広場に鉄の檻をすえ、捕えたパルチザンを裸にして入れて、絶えず水を浴びせた。極寒のために男たちの肉はむけ落ち、赤い花が咲いたようになったという。まさに、紅蓮地獄そのものではないか。
その他、同じくナチがユダヤ人絶滅のために設けた強制収容所、ワルシャワのゲットーの悲惨な姿、また、日本軍がマニラをはじめ各地で行った捕虜虐殺、アメリカ軍とても、そうした行為がなかったわけではないし、いわんや原爆等によって、非戦闘員数十万を焼き殺したではないか。戦争は常に、かかる地獄絵図を描き、人々を、餓鬼界、畜生界、修羅界の狂乱にかりたてるものであろうか。
戦争はすなわち兵革の災、自界叛逆、他国侵逼である。その原因は「世皆正に背き人悉く悪に帰す」ところにあるとの御断言であられる。
真の宗教による宿命打界
もとより、戦争だけが、地獄、餓鬼、畜生界出現の根源ではない。むしろ、戦争そのものは、三悪道の生命に支配された人間の一念のあらわれである。ゆえに、その根を断つためには、正法による宿命打開、生命浄化以外にないことが明らかではないか。
「宿命のこの暗黒な、底気味悪いが、しかし本質的な周律が生命の中に脈うっている。詩人は魅惑されて、学者は拱手して、哲人は絶望してこれをみている。身体の宿命、しかも最も不思議のもの」
ドイツの医学者ハンスムフは、宿命についてかく叫んでいる。しからば、この宿命は打開されえぬものであろうか。多くの哲学、宗教は、宿命は定まれるものとなして、それを諦めさせようとする。そのなかでも、現在の多くの邪宗教は、因縁話で無知な人を鎖でつなぎ、奴隷のようにし、生命力を奪い、生ける屍とさせゆくのである。
だが、人生の実相は、宿命との対決であり、事実、宿命打破へ、宿命打破へと人々の努力は向けられているのである。にもかかわらず、宿命にしばられ、宿命に流され、宿命に泣く人のなんと多きことか。それでも人々の努力は続けられる。単なる宿命説は、人間の本性を無視するものであり、力なき哲学であり、敗北の哲学である。ここに、邪宗教に迷い宿命打破の偉大なる宗教を見失えは、人々は再びまた、未来永劫にわたり、三悪道、四悪道、六道の暗黒の世界をさまようのみである。
“目に見えぬ敵”
邪宗教はかくも恐ろしいものである。ある人いわく「目に見えぬ敵を恐れよ」と。まことに邪宗教こそ“目に見えぬ敵”であり、最も恐れなければならないのは、邪宗、邪義、邪智である。富木殿御書にいわく「智者は怨家・蛇・火毒・因陀羅・霹靂・刀杖諸の悪獣・虎狼・師子等を畏るべからず、彼は但能く命を断じて人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむること能わず、畏るべきは深法を謗ずると及び謗法の知識となり決定して人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむ」(0969-06)
この邪宗教の害毒を知ればこそ、われわれは、人に伝えぬわけにはゆかないのである。もし、人が不幸になるのを知って、ただ拱手して見ていたとすれば、その人は卑怯であり非人道であろう。開目抄下にいわく「我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云」(0237-01)と。まことに「言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」である。
諸天善神と神天上
人はよく「神は実在するかしないか」といった議論をする。だが「神は実在する」という人も、「神は実在しない」という人も、神そのものについては、きわめて、漠然とした、あいまいな考えしかもちあわせていない。一般に、人々が「神」を口にするとき、人類の未開時代にもった、アミニズムとシヤーマニズムの心霊概念を別にすれば、大きく三種類に分けられる。
三種類の「神」
第一類の神は天地創造の神である。たとえば、ユダヤ教のエホバ、キリスト教のゴット、イスラム教のアラー、天理教の天理王命、金光教の天地金之神がこれに属する。およそ天地創造説が、幼稚な想像にすぎないように、この劇の主役たる神も、また想像の産物にすぎない。近代科学の発達にともなって、その幻影はことごとく打ち消されてしまった。
これと共に、そのような神の神話的な面を否定しながら、思弁哲学という別の面で、神を想定した人々がいる。キリスト教神学の神秘主義が発展し、デカルト、スピノザ、さらにヘーゲルに至る観念論哲学である。彼らは、この世のあらゆる現象が、絶対的な神の意志によって動かされているとすることによって、自己の思弁の体系化を試みたのである。
20世紀後半にはいった今日、唯物論哲学で教育されたソ連の青年科学者たちの間でも、自然界のあらゆる現象の奥に、人智の及ばない不思議の法があるとして、これを神と呼ぶ新しき宗教が芽ばえ始めているという。
これらはすでに天地創造の神とは、まったく異なった神への発展であるが、その思惟方法は軌を一にしているのではないだろうか。彼らが表現できえないで、ただ概念的に想定しているその神とは、仏法の教えを求めて初めて明らかとなる。すなわち、南無妙法蓮華経の一法こそ、その本体であると断定できるのである。
第二類の神は、氏族の先祖を神格化した氏神、あるいは、生前、功績のあった人を尊敬し、死後も名を残そうとした神社の御神体等の類である。前者の例として、日本の天神七代、地神五代をはじめ、バラモン教の梵天・帝釈、ゾロアスター教のアフラ・マツダ等、アジアその他各地の神々がある。天照大神は天皇家あるいは大和民族の先祖神であり、大国主命は出雲氏族の先祖神という。後者の例では八幡神社には応神天皇が祀られ、また乃木大将や東条元帥、明治天皇も神として祀られていることは、周知のとおりである。
先祖や功労者を神とする宗教は、彼らを敬う民衆の心情を、為政者の営利にさとい連中が利用して、宗教にデッチ上げたものにすぎない。祖先に感謝し、功労者に敬意をいだくのは正しい。これは道徳の範疇である。だが、道徳上の尊敬と、宗教的な救済とはまったく異なる。祀られている先祖や功労者は、土地の開拓者として、あるいは、ある分野のことに関しては才能ある人として、偉大であったかもしれない。だが、人生の苦悩を解決したわけでもなく、永遠の生命を覚知して成仏したわけでもない。迷いの衆生にあることに変わりはない。その意味で、自身ですら救えなかった彼らが、死んで衆生を救う力が出てくるなどという不合理は、ありえないことである。
第三の神は仏教に説かれている神である。信仰の対象ではなく、末法の世に正法を受持し弘法に励む者を守るという誓願を立てた諸天善神である。この神の働きは、実在の概念よりも、むしろ作用の概念をもってみるべきもので、日蓮大聖人の生命哲学をもったときに、その人を不幸から守り、あるいは迫害者から守る働きとして現われてくるのである。
諫暁八幡抄にいわく「有る経の中に仏・此の世界と他方の世界との梵釈・日月・四天・竜神等を集めて我が正像末の持戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が人王・人民等の身に入りて悩乱せんを見乍ら聞き乍ら治罰せずして須臾もすごすならば必ず梵釈等の使をして四天王に仰せつけて治罰を加うべし、若し氏神・治罰を加えずば梵釈・四天等も守護神に治罰を加うべし梵釈又かくのごとし、梵釈等は必ず此の世界の梵釈・日月・四天等を治罰すべし、若し然らずんば三世の諸仏の出世に漏れ永く梵釈等の位を失いて無間大城に沈むべしと釈迦多宝十方の諸仏の御前にして起請を書き置れたり」(0578-11)と。
また、治病大小権実違目にいわく「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-)と。
すなわち、諸天善神は、悪鬼神と表裏の関係にあって、十界互具の生命自体に、本来備わっている。宇宙全体を生命体とすれば、宇宙に諸天善神がある。世界を一つの生命体とすれば、世界の諸天善神の働きがある。戸田前会長が、一国謗法により敗戦の日本に信教の自由を打ち立てて、妙法流布の体制を整えたマッカーサーを梵天に相当すると教えられたのは、この諸天の謂である。
天照大神、八幡等は、同様の原理にして、日本という一国の国土における諸天善神をいう。さらに、一人の人間革命についても、同じ原理による諸天の働きがあることはいうまでもない。しかして、一個の人間の諸天の働きが、一国、世界、宇宙の諸天をも動かす原動力となるのである。一国の繁栄も、世界の平和も、宇宙の平静も、強盛なる信心に立ったわれら妙法護持者の祈りによって、すべてが決定されていくことを知らなければあらない。
諸天善神について
以上、神について三種類あることを示したが、さらにこのうち第三の諸天善神について述べてみよう。
法華経序品では「爾の時に釈提桓因其の眷属二万の天子と倶なり、復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り、爾の眷属の天子と倶なり。自在天子、大自在天子、その眷属三万の天子と倶なり、娑婆世界の主梵天王、尸棄大梵、光明大梵等、その眷属二千人の天子と倶なり」と、天界の衆生が、法華経の会座につどうありさまが説かれている。天界の衆生ばかりでない。菩薩界の衆生も、声聞衆も、その他の雑衆としてあげられる衆生も、つどいきたり、それはまことにおびただしい数にのぼる。
この序品の儀式は、いったい何を意味するであろうか。戸田前会長はこれについて次のように述べられ尸ている。
「さて、この耆闍崛山に集まった第一類声聞衆・第二類菩薩衆・第三類雑衆の数をざっと数えてみれば、約三十万近いと思われる。それ以上であるか、それ以下であるか、若干百千とあるので、推測にまかせるいがいなはない。
これだけの大多数の人間が、どうして集まれたかということが不思議になってくる。たとえ、集まりえたとしても、釈尊の音声がこれらの人へ、どうして聞かせたことか。仏は梵音声があるといって、梵音声の一相をもってこれを片づけるとしても、末代のわれわれ凡夫は信ずることができない。(中略)
ことに雑衆中、帝釈天とか、自在天とか、大梵天とか、また、人にあらざる竜王とか、緊那羅とか、乾闥婆とか、迦楼羅とかにいたっては、どうしてこれを信ずることができようか(中略)
ひるがえって、仏語を案ずるに、仏の言葉はいつわりではない。しからば何を意味するのか。法華経には当体蓮華、譬喩蓮華の義がある。
当体蓮華とは、動かすことのできない真理の直接説明であり、譬喩蓮華とは、その真理を譬をかりて説明したものである。たとえば蓮華のことであるが、因果俱時の法それ自体を説く時は当体蓮華であって、因果俱時の法を蓮華の花をかりて、その花と実が同時にあることを示して、これを説明するのは譬喩蓮華である。
この序品の三類の大衆の集まりは、すなわち譬喩蓮華であって、当体蓮華ではないのである。
しからば序品の当体蓮華葉いかん。何万の声聞、何万の菩薩、何万の雑衆は、ことごとく釈迦己心の声聞であり、釈迦己心の雑衆である。妙法蓮華経は、釈迦の命であり、釈迦の心である。さればこそ、十界の衆生はことごとく釈迦の内証に住むというとも、なんの間違いもないのである」
ここに示されたごとく、序品の儀式は、ことごとく一念三千の生命哲理をあらわしたものである。
ここに、梵天とか、帝釈といった諸天善神は、なにも、あの絵にかかれたようなものが、どこかにいるのかではなく、生命の、本質に備わる働きにほかならないことが、さらに明瞭となろう。
仏の生命にせよ、われわれの生命にせよ、ことごとく、これらの働きに備わっている。さらに、国土も、否、大宇宙それ自体が一個の偉大なる生命体である。そして、これらの働きは、大宇宙に遍満しているのである。では諸天善神とは、いかなる働きをさすか、それは、宇宙の働きのなかで、われわれのせいかつを守護する「働き」をいうのである。
しかして、先に引用の治病抄の「元品の法性は梵天・帝釈と顕われ」の文のごとく、大御本尊によって、仏界が顕現したときに、われわれの生命のなかに、梵天・帝釈の生命の働きが活発となり、また、それに呼応して、大宇宙が、われわれに梵天、帝釈として働き出し、いかなる災難、いかなる圧迫にもおかされない、悠々自適の生活をしていくことができるのである。宇宙のさまざまな事物や現象、すなわち天体の動き、太陽の光り、星辰のまたたきであれ、雨や風であれ、山川草木であれ、動物であれ、人間であれ、すべてがわれわれの幸福実現へと動き働くのである。
逆に、「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」の文のごとく、われわれが、邪宗教に迷い、心中に悪鬼、魔鬼の働きをなし、幾多の災難をもたらし、苦にさいなまれる人生となる。すなわち、世の中のあらゆる現象が、われわれの生活を不幸不幸へと導くのである。
この関係について、日蓮大聖人は、法華初心成仏抄に次のように述べられている。
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ」(0557-06)
「籠の中の鳥」とは、わが心中の仏界であり、その梵天・帝釈の生命活動であり、「空飛ぶ鳥」とは、大宇宙の仏界であり、その梵天・帝釈の働きである。かくして、妙法を護持した一念にめざめ、またそこよりほとばしり出でるたくましき智慧の力により、宇宙の現象を、望ましい方向へと変化させていくことができるのである。さらに、法華経の授記品に「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」とあるごとく、魔の働きをも、変毒為薬し、諸天の働きになしゆくことができるのである。されば、悪魔のごとき人類を脅かす原爆水爆の原子核分裂や、原子融合の反応作用すら、われわれの一念で、人類のために、役立てることができるのである。
このように諸天善神は、正しき人を守り、国土を守り、さらに邪なる人を罰する“生命の働き”であるが、さらに、これらの働きをする人も諸天善神である。日蓮大聖人が、伊豆の伊東へ流罪されたときに、大聖人を守り抜いた船守弥三郎夫妻に対し、船守弥三郎許御書に「法華経第四に云く 「及清信士女供養於法師」と云云、法華経を行ぜん者をば諸天善神等或はをとことなり或は女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしと云う経文なり、弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑なし」(1445-)と述べられている。
また、一国の、はたまた世界の正しき指導者は梵天・帝釈等といえるであろう。なぜかならば、その使命は、国を安穏に保ち、民衆を守ることだからである。だが、現代の世界の指導者は、梵天・帝釈のよき指導者の姿を現じているだろうか、残念なことに、兄弟抄に「此の世界は第六天の魔王の所領なり」(1081-15)とあるごとく、多くの場合魔の姿を呈しているのである。ヒトラーしかり、スターリンしかり、また現在、世界を戦争にかりたてる指導者もしかりである。
仏法における天照大神と八幡大菩薩の意味
次に、第二の神すなわち氏神信仰の神である天照大神、八幡大菩薩が、大聖人の仏法において、正法護持の守護神として用いられているが、その関係についてはどうか。
それは、先にも述べたごとく、神道では天照大神も八幡大菩薩も拝む対象となっているのに対して、仏法では拝む対象ではなく、妙法の働きとして、考えられているので、同じ名であっても、内容は全く違う。具体的にいえば、天照大神は、前述のごとく、もともと天皇家あるいは大和民族の先祖神である。だが、大聖人の仏法においては、もはや遠い過去の先祖神ではなく、日本民族を隆々と発展させ、日本の国土を守る“生命の働き”として説かれているのである。
天照大神は日神ともいう。産湯相承事には「富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云うなり、我中道を修行する故に是くの如く国をば日本と云い神をば日神と申し仏の童名をば日種太子と申し予が童名をば善日・仮名は是生・実名は即ち日蓮なり」(0879-09)とある。また諫暁八幡抄には「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ」(0588-18)とある。まことに日本国とは不思議な国である。御本仏出現の国であり、太陽のごとき赫々たる大白法 三大秘法流布の国であり、全世界へ大仏法が流布する発祥の国である、日本国には、日本民族にそれだけの下地があったといえる。この日本の国土、民族の底流にある、ぶつほうを流布せしめる力、国土を繁栄させ、隆々と民族を発展せしめる力、これを天照大神と名づけたのである。されば天照大神とは、妙法の働きであり、それ以外はあにものでもない。妙法が邪宗・邪義・邪智のためにおおわれたならば、天照大神の働きがなくなるのも当然であろう。百六箇抄に「脱益守護神の本迹 守護する所の法華は本・守番し奉る処の神等は迹なり、本因妙の影を万水に浮べたる事は治定と云云。」(0857)と。
また、八幡大菩薩とは神道においてはいにしえの日本の功労者、人王第15代の応神天皇を祀り、のちに、これを八幡神の化身として、このような称号を与えたものである。だが、大聖人の仏法においては、八幡大菩薩という特定の人をさすのではなく、八幡大菩薩という方程式、あるいは生命の働きをだしているにほかならない。
本尊三箇相伝にいわく「八幡大菩薩の体即法華経なり、其の故は八とは法華八軸なり、幡とは篇は巾篇是れ則衣装の類なり、作リは米と云う字を上に書き下に田と云う字を書く、是れ則米穀の類なり、されば衣食二つ併ら八幡の御徳なり」
この文を私に解釈することは恐れ多いが、少し思索したところを述べてみれば、「法華八軸」とは、妙法蓮華経である。そしてこの妙法蓮華経の力によって、衣食に困ることなく、平和に暮らしてゆけるのである。しかして、こうした働きをする人、すなわち民衆に不自由なき生活を送らせることのできる指導者もまた、八幡大菩薩の立場である。
ところが、今や日本国の指導者にそのような心の持ち主は、ほとんど皆無になってしまった。正法に背いたがゆえである。かかる姿が、日本の敗戦を招いたのであった。神天上の現証
「神天上」とは、この御文にあるごとく、人々がことごとく正法に背き、悪法に帰依したがゆえに、守護の諸天善神は正法の法味に飢えて神威を失い、その国土を捨てて、天界に帰ってしまうがゆえに、その国、またその民衆の中に、悪鬼、魔神の生命がはいりこみ、数々の災難が起こってくるということである。
「神天上」については、これほど明確な大聖人の御文があるにもかかわらず、大聖人滅後、この正義を伝えたのは、日興上人お一人であった。他の五老僧は悉く正法に背いて伊勢神宮の参詣という大謗法を犯したのである。
「富士一跡門徒存知の事」にいわく、
「一、五人一同に云く、諸の神社は現当を祈らんが為なり仍つて伊勢太神宮と二所と熊野と在在所所に参詣を企て精誠を致し二世の所望を願う。
日興一人云く、謗法の国をば天神地祇並びに其の国を守護するの善神捨離して留らず、故に悪鬼神・其の国土に乱入して災難を致す云云、此の相違に依つて義絶し畢んぬ。」(1602-02)と。
この一事をもってしても、日蓮大聖人の正義、立正安国論の大精神を、純粋に守り、今日に伝えてきたのは、第二祖日興上人のみであることは明らかである。
正法の法味とは、いうまでもなく妙法蓮華経である。諸天善神が法味をなめなければ、勢力がなくなり、その国土を去るとは、もともと諸天善神は妙法の働きである。その妙法が謗法によっておおわれてしまえば、その働きがなくなったからである。この「神天上」を現代的にいえば、もはや、国土に、そうした諸天の働きをする立ち場の人、すなわち民衆を守り、国土を安穏にすべき、よき指導者がいなくなったことをも意味する。
神天上は、事実として明瞭である。太平洋戦争がなによりも雄弁にこれを物語っている。天皇を現人神と称し、国を神国日本と称え、国を挙げて天照大神への信仰をなさしめ、無謀な戦争をしたのである。国民は、最後まであの蒙古襲来の時のように、神風が吹くことを信じ込まされた。しかし、ついに神風は吹かず、国破れて、神道のいう神のいないことが立正されたのである。
あの時国土の荒廃は何を意味するであろうか。また、当時の民衆の無知と貧困、かつ栄養不足のためにやせ衰え、路頭にさまよった姿は、一体何を示すのであろうか。さらに横暴なる軍部の指導者、またこれに仰合したジャーナリズム、学者等の、あの卑劣な姿は一体。なにであろう。
まさしく国土にも、民衆の心に、指導者の生命の中にも清浄なる生命の流れは途絶え、福運のまったくなくなったことを如実に示しているではないか。
また、終戦後の連合軍の矢継ぎ早の指令によって、神道の破滅は自白のもとに晒された、これこそ、仏法上からみれば、諸天善神が国を捨離し、他国の梵天・帝釈の治罰を被った姿にほかならないのである。一国謗法の総罰であった。
創価学会の前進と諸天の加護
だが、この一国滅亡のなかに、広布の胎動があったのである。妙法の清浄なる法水はこの正法の滅せんとする時、戦後の焼け野原に一人立った地涌の棟梁こそ恩師戸田前かいちょうであった。
日本の再建は創価学会の再建と軌を同じくしていた。以来、創価学会は発展を続け妙法の功徳に浴する人は、五百数十万世帯(S41年)を数えるに至っている。それとともに、日本の興隆もまた著しいものがあった。指導者の無能にもかかわらず、また国論がいまだに四分五裂の険しい対立と葛藤をくりかえしているにかかわらず、今日までの飛躍的な大発展は、まさに奇跡にも等しい。これこそ、民衆の中に、閉ざされていた強靱なる生命力が発現しつつある姿にほかならない。これを仏法から論ずるならば、学会員が増えて妙法の音声に天照大神、八幡大菩薩の諸天も呼び覚まされ、活動を開始した現証といえよう。
さらにまた、今日まで、米ソ・米中の谷間にありながら、日本民族が厳然とまもられてきたという事実、また二大陣営の核装備により、文字どおり火薬庫と化した世界にあって、これまでに、キューバ危機をはじめ、一触即発の危機がなんかいとなくあった。さらに、フランス、中国の核武装、米仏、中ソの対立、民族主義の台頭等々、混乱と戦争の危機が増大するなかにあって、不思議と避けられてきたことは、まことに幸運であり、梵天・帝釈等の諸天の加護としかいいようがない。
御書にいわく「日蓮がひかうれば今までは安穏にありつれ」と。蒙古の大軍の襲来に際して、日本民族が不思議にも守られたのは、御本仏、日蓮大聖人がいかえておられたがゆえであるとの御文である。同じく、今日まで日本が守られ、世界もまた大三次大戦を免れてきたのは、日蓮大聖人の仏法を奉持して、民衆救済に立ち上がった創価学会が厳然とひかえておればこそと叫んでやまない。
だが、そのあとに「法に過ぐれば罰あたりぬるなり」と仰せである。すなわち、現在に約せば、もし創価学会の主張を用いようとせず、広宣流布を阻止するならば、日本も世界も諸天の働きなく、魔王魔民の充満するところとなり、滅亡の一途を辿るであろうとの御金言である。
ゆえに、われわれは、瞬時たりとも、広宣流布の歩みをとどめることなく、日々、月々、年々に、信心を増し、真一文字に世界平和への大道を進みきる決意である。
偉大なる宗教の個人への影響
すなわち、個人にあっては、偉大なる宗教は、第一に、偉大なる人間革命をもたらす。人間革命とは、精神革命であり、身体革命であり、生命力・生活力の革命であり、人間自体の革命であり、生命自体のレポリューションである。
偉大なる宗教は、第二に、必ず各人の福運を増進させる働きを持つことである。いかなる悪運も、いかなる不運も最高の宗教は、三世の生命観に立脚した生命哲学によって、宿命を本源的にてんかんさせ、福運を、良運を与えきっていくものだ。世に運命論者と称する人もあり、逆に運命それ自体を否定する人も多いが、いずれも誤りである。運命論者のいうごとく、人がうまれながらにして、定まれる運命があるとするならば、人生における努力や精進は、まったく無意味になってしまうではないか。事実は人生をしさくすればするほど、運命の存在を肯定せざるをえない。
良き運命は変える必要はない。そしてなお一層増幅したいものだ。しかし悪しき宿命は転換して、福運に変えていかねばならぬ。
実業家の松下幸之助氏が、東北大学の講演で「私の実業界における成功は、努力もさることながら、本質的には運がよかったことに尽きる。わたし以上に努力した人でも、失敗に終わった人が大勢いる。私が少年時代、大阪で周航船に乗ったとき、誤って川に落ちたのに、不思議に助かった、その時も、私は運が良いと確信した」等と話したのは有名なはなしであるが、このような良運も、仏法を根底としないかぎり、いつかは尽きざるをえない。すなわち、本源的な宿命の転換は、大仏法によって、はかりうるのである。
第三に、偉大なる宗教は、大いなる智慧を発揮させうるのである。以信代慧、すなわち信心を以て智慧に代えるとは、仏法の偉大なる哲理である。仏界を湧現させることが、大仏法の極到である。偉大なる御本尊を信ずることによって、まことにすばらしい仏智を湧現させうるのである。智慧は、人生を勝ち抜く要諦である。しかし、この智慧は、けっして単なる智慧やその集積でないことを付言したい。
第四に、偉大なる宗教は、各人に偉大なる思想、哲学を与え、偉大なる社会観、人生観、世界観を身につけさせることである。近世フランスの大文豪、ビクトル。ユーゴーは「時を得た思想ほど力強きものはない」と喝破した。これは個人にあっても、国家・社会にあっても、不変の哲理であろう。パスカルは「人間は考える葦である」といったが、一面の真理を含むものである。
動物すら、すべて食うために努力し、生活を戦い、眷属を養い、団体や種族の発展に、全力をあげている。もし人間として確固たる思想、哲学、人生観をたもちえないとしたならば、これ動物にも劣る存在といわざるをえない。
しかも、思想、哲学といっても、偏狭で、非科学的な不合理なものであってはならぬ。道理正しく、科学的で、人類のすべてに普遍的であり、あらゆる人を成長させうるものでなければならない。われわれは、かかる優れた思想、哲学の根源こそ、偉大なる宗教であり、生命哲学であると主張するものである。
第五に、偉大なる宗教を信ずる者は、諸天善神の加護をうけることができる。諸天とか善神とかいえば、現代社会にあっては、迷信のごとく感ずる人もあるかもしれない。しかし、それは仏法における生命哲学のなんたるかを知らぬ者の考えにすぎない。もちろん、われらは、絵像木像の神仏などをもって、諸天善神となすものではない。近代科学、あるいは科学的宇宙観等に照らしても、宇宙それ自体が、大いなる生命体であり、この地球もまた、その一生命体であることは、いよいよ明白にされつつある。この宇宙には、地球のごとく、生物が発生し生存する惑星が、何千億個も存在するだろうと推測されることは、もはや常識となっている。しかも、仏法においては真に根源的な生命観、宇宙観を説ききっているのである。そこで、このような生命哲学からみれば、偉大なる道理正しい宗教を奉ずる者こそ、人間的な健全な成長を、安心して生活していける働きを、一身にうけていくことがでよう。この宇宙にみなぎるはたらきをさして、われらは諸天善神の働きというのである。
以上、偉大な宗教が、いかに信仰する個人に大いなる影響を与えるかを考察してみたのであるが、これは家庭にあっても、同じことがいえよう。人間革命しきった人が、家庭の中にふえればふえるほど、この家庭は、明るく、平和に、充実しきっていくことは、当然であり、家庭そのものが、革命された姿になるのである。
第二段 災難由来の経証を引く (0017-15~0020-13)top
第一章 災難由来の経証を問う (0017-01~0017-09)top
天下の災難、国中の難については、自分が一人だけ嘆いているのではない。大衆が皆悲しんでいる。今あなたの所に伺って、初めて立派な意見を伺ったところ、国土を守護すべき善神や聖人がその国を捨て去ってしまい、災難が相次いで起こるということであるが、それはいったい何れの経文に出ているのか、その証拠を聞かせていただきたい。 |
講義
天下の災・国中の難・余独り嘆くのみに非ず衆皆悲む
この一節は、自分一個の悩みではなく、一国の民衆が苦悩に沈んでいる現実を、なんとか打開しなければならないという指導者の切実な叫びではなかろうか。これ、一身一家ことのみ考える利益打算を捨て、国家の前途を憂え、民衆の苦悩を、わが苦悩とし、その解決ののめに全魂を傾け、心血を注ぐべき、指導者の要諦を示されたものである。
戸田前会長は「一国の王法の理想は、庶民がその所を得て、一人ももるるとことなく、その業を楽しむのが理想である」と、政治の目的を明確に示されている。
だが、現実は、あまりにも、その理想からかけはなれている。
今日に至るまで、日本でも、世界でも、政治史をいろどるものは、多くの場合、残忍、冷酷という愚かなほど、一部の人々のために大多数の民衆の犠牲が払われてきた、幾多のいまわしき事実であり、指導者の多くは、私利私欲に明け暮れ、おのれの野心のために民衆を踏み台にしてきた。あるときは、残忍にも、虫けらのごとく、人間を扱ってきたのである。また、おのれの権勢欲、名誉欲、征服欲のために、人々を戦争にかり立て、多くの尊い人命を失わせてしまった
そこに一貫して流れるものは「人間性」の否定であり、無視であった。
たとえば、三千余年来つづいている、インドのカースト制のごときは、ヒンズー教を根本理念としてつくりあげた社会体制であるが、その底辺に奴隷があり、さらにその下には不可触賎民があり、その扱いは、人間ではなく、家畜以下であった。あの、民主主義政治が行われたとして、高く評価されている、古代ギリシァの繁栄も、その底には、不幸なる、奴隷の存在があった。西欧中世の封建時代においては、領主の繁栄の下には、悲惨な生活を強いられた農奴があった。また近世にはいって、絶対主義の国々においても、民衆は自由を奪われ、圧政のもとに苦しんだ。
また、十六世紀から今日に至るまで、西欧列強の植民地支配もまた、イギリスのインドや南ア連邦におけるがごとく、ベルギーのコンゴ、オランダのインドネシア、フランスのインドシナ等に見られるごとく、あまりにも悲惨な、残忍な歴史がつづられた。さらに、第二次大戦においては、イタリア、ドイツのファシズム、ナチズムは、人間性無視の端的な例である。とりわけ、ナチは偏狭であり、迷信としかいいようのない人種論に立脚して、ユダヤ民族の絶滅をはかり、六百万にもおよぶユダヤ人の冷酷無残な大量殺戮を行った。これこそ、スターリンの大量粛清とともに、人間性否定の典型であり、狂気であり、であり、悪魔であるといわざるをえない、わが軍部にもこの振舞いがあった。これがわずか二十数年前に起きたことを思うときに、ひとたびは驚きあきれ、ひとたびは激怒となり、さらに、今後絶対にこのようなことがあってはならない、否、断自手あらしめてはならないとの叫びが、胸奥よりほどばしり出るではないか。
また、太平洋戦争中の、あの横暴なる日本軍部の独裁は、大半の民衆に犠牲を強い、ために、人々は、生活苦にあえぎ、生きた心地すらしなかったのである。さらに、戦争によって、多くの人命がむなしく露と消え、悲嘆に暮れた民衆の声は、いまだに瞬時たりとも耳朶からはなれない。
第二次大戦で疲弊しきったロシアの国土について、あるジャーナリストは、次のように語っている。
「物質面での損害がどれほど多かろうとも、人間の努力で復興できる。爆破された建物の廃墟、壁にきざみこまれた弾痕、大地を染めた血潮のあとも、いつかはかたづけられ、また新しい建物がたち、新しい樹木が生長し、新しい草花が咲きほこるようになる。だが、人間の魂に刻みこまれた戦争の傷あとは、永遠に癒えないだろう。いや、人間だけでなく、小川のせせらぎ、芦のささやきにいたるまで、ロシアの風土のすべてが、戦争からうけた汚職を嘆き、戦争を呪ってやまないだろう」
これは、そのまま日本にあてはまる言葉である。あれから二十年、日本の国内の様相は一変した。まるで、二十年前に、あのようないまわしい戦争などなかったかのように、いったん人々の生命に刻み込まれた、戦争への憎悪、嫌悪の感情は、永久に消えるわけがない。心から平和への欲求、切実なる戦争絶滅への願い、これを、はかなく無に帰せしめてなるものか、創価学会が立ち上がったのも、まさしく日本のくずれざる繁栄、そして、世界の恒久の平和のため以外のなにものでもない。
だが、道は険しく、けっして平坦ではない。たしかにわが国は、悲惨な原爆の体験を経て、敗戦の苦悩のなかに、民主主義国家として、自由と平和をめざして再出発したことは事実である。だが、政界は、民主主義の名のもとに、時流れを巧みに泳ぐ、無思想、無節操の政治家が軍部に代わって占領したにすぎぬではないか。醜い政権の争奪戦、党利党略の派閥抗争、政治のための政治に堕し、民衆不在の権力政治となって、その腐敗は、極に達している。この自界叛逆の姿が、やがて他国侵逼を呼び、かってない悲惨な現実が展開されないと誰が断定せきようか。
真の平和願う民衆
目を世界に転ずれば、そこには、なお阿鼻叫喚の苦悩、餓鬼道のうめき、阿修羅の弩号がある。特に、二大陣営の谷間にある、東南アジア、中近東の懊悩、呻吟は、筆舌に尽くしがたい。インドネシア、ギリシァ等の政情不安もさることながら、特にベトナムの果てしなき、血を血で洗う戦いは、あまりにも悲惨であり、あまりにも残酷である。
だが、この悲惨な現実が、いつ日本に起きないともかぎらぬ。事実、資本主義と共産主義諸国の対立の波は、この日本の国土にはたひたと押し寄せている。一方では、アメリカと結ぶ保守や、それを利用する反動の動き、また一方では、中国・ソ連と結ぶ暴力革命の共産勢力と、わが国も、いつのまにか、再び歴史の試練の前に立たされている。
だが、民衆の心の奥底は、戦争なき平和を願っているのである。今こそ、すべてのものに優先して、人間の生存権、人間性の尊重に立脚しなくてはならぬ。されば、おのれの私利私欲にふけるのをやめ、民衆の幸福を第一義に考えるべきである。ここに、仏法の慈悲の精神が、政治に反映させねばならぬゆえんがあるのである。
仏法は、誰一人を苦しめない。またあらゆる人に、真に喜びと楽しみと希望を与えていくことが、その根本精神である。これを「慈悲」というのである。
仏法でいう「慈悲」とは、世間の人が「愛」と混同して考えているような観念的なものではない。そのようなものでひとを救えるわけがないし、仏が一生かけて説くはずがない。それは事実のうえに衆生の苦を救い、楽を与えることであり、人々の心に巣くう悪を断ち、根底より救い切る厳愛の行為である。「慈悲」は愛よりも、はるかに深く強い。
「愛」は、常に「憎」と相対する概念であり、「慈悲」は絶対性をもつ最高の生命の発露である。無理に修行して得るものでもなく、行動のなかに、心の働きのなかに、無意識に自然ににじみ出てくるものである。「愛」の理想を説きながら、激しい憎悪の葛藤を現実生活で行っている二重人格は、キリスト教徒によく見られるところであり、これとは、根本的に異なるものである。「親の子を思う、慈悲に似たり」とあるように、親の子を思う情すら、遠く慈悲におよばないのである。一切衆生を救う、崇高な仏の振舞いこそ慈悲であり、いっさいの根本に「慈悲」の大精神を置いてこそ、民衆を幸福にしきることができるのである。民衆の苦悩を解決し、復し生活を与えるのが、政治の目的である。ゆえに、政治に最も必要なのは慈悲である。と断言してはばかりないのである。
御書にいわく「涅槃経に云く「一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(0578-08)と。仏の慈悲の広大を伺い知るとともに、政治の要諦はまさにこの一言に尽きるのである。されば現今の劣悪なる政治を打開する方途はこれしかないことを心に銘記すべきである。
災難をとどめる根本方程式
さて客が、主人に天下の災い、国じゅうの災難が何によって起きたのかと、その原因をたずねたところ、その答えは、以外にも、善神・聖人が国を捨て去ったから、国じゅうの災難が並び起ったということであった。この答えは、仏法の知らざる人にとって、驚愕であったのである。そして、これは、今日においても、なかなか理解せれがたい仏法上の方程式である。国じゅうが邪法であるがゆえに、諸天善神、聖人は国を捨て、所を去り、かわりに魔王・悪鬼が来て国じゅうに災いが起こることは、大聖人の絶対なる確信であらせられる。日蓮門下と称しながら、この大聖人の一大確信を、単に大聖人の一思想のごとく取り扱う邪宗の輩がいるが、大いなる誤りである。大聖人の真意も知らず、一念三千の仏法哲理も知らず、浅智をもって大聖人の仏法を推し測るのは、増上慢も甚だしいといわざるをえない。大聖人の民衆救済の根本大原理はこれであって、これを信じない者は、日蓮門下とは絶対にいいえないのである。されば、大聖人も、文証・現証を引いて、強くこれを述べられているのであって、客をして「何れの経に出でたるや其の証拠を聞かん」と問わしめたのも、ゆえあるかなと思われるのである。
大聖人の唱えられた、この原理は、きびしき一念三千の生命哲理によられた社会観、宇宙観であり、絶対の真理であることを確信する。ただ、神といい、魔といい、鬼といい、に理解されないのは、それがあまりにも迷信化され、仏法本来の生命哲理が歪曲されたために、奇異に感ずるにほかならない。しかし、真実の仏法哲理にめざめるならば、その理論がいかに深く、かつ広いか、またいかに事実と符合しているかを知り、かつは、近代科学の最先端も、その範疇を少しも出ないことに気づき、驚嘆の叫びをあげるであろう。
をまた、旅客が、主人の意外な答えを聞き、謙虚にその根拠を問うた。その質問の態度こそ、まことに人間として、なかんずく指導者の姿ではないか。
われわれが折伏に行き、不幸の根本を指摘し、大御本尊の偉大なる力を説くや、「そんなばかな…」と耳を貸さない人、激怒し激しい憎悪を、顔面に、行動にあらわす人もいる。また創価学会の主張を、認識もせずして評価する愚かな人々も多い。
だが、これは、あまりにも偏狭であり、感情論であり、みずからの既成智識にしばられた哀れな姿である。大聖人の偉大な確信、そして、われわれが幾多の実証のうえから確信しているところを、ただ一方的に否定し去るのは人間として恥ずべきである。いわんや知識人、または指導者として、人から尊敬されている人のとるべき態度ではない。真に偉大な人、心あるひとであれば、未知の世界にはたえず感虚であるべきである。
まして、人類が、恒久平和か、滅亡かの岐路に立たされているときに、あらたなる方途を見いださんと努力するのが、為政者として当然であろう。ここに、われらの主張を、否定し去る前に、偏見を捨て、感情に流されず、心を澄まして、真なりや否やを検討すべきではないか。
また、ここに旅客は、明かなる経文上の証拠を求めている。そして、それに対する主人の答えにおいても、またこれから出てくる主客の問答においても、大聖人は、ことごとく経文上の証拠、すなわち証文を示して答えられている。これに対し、法然の選択集にしろ、親鸞の歎異抄にしろ、まったく経文によらず、自分勝手な議論を立て、あるいは、師匠のいったことだからといって、盲信しているにすぎない。ここに、正邪の別はきわめて明瞭ではないか。日寬上人はその著「依義判文抄」に「文証無きは悉く是れ邪義なりと、縦い等覚の大士法を説くと雖も経を手に把らざるは之を用ゆべからざるなり」と述べられている。
三証・五重相対・四重興廃・三重秘伝等、すべては仏法は証拠主義である。文証もないような宗教が、どうして正しいといえるか、正邪を論ずる前に、宗教としての資格をすでに失っているといわざるを得ない。
だが、驚いたことに、念仏宗、真言宗、禅宗等、既成仏教として、一般には相当伝統があると考えられている宗教が、ことごとく、経文によらず、まことしやかに、のちになってつくるあげたものなのでる。こういえば、奇異に感ずるかもしれないが、事実はあくまでも事実である。ただ、日蓮大聖人のみが、厳格に、経文によって義を立てておられるのである。
さらに、今日、日蓮宗と称し、南無妙法蓮華経と唱え数々の宗派が乱立しているが、それがことごとく、大聖人の御書によらず、その教えに反し、師敵対の謗法を重ねている。ただ創価学会のみが、厳格に、御書を拝読し、その根本精神を寸分も狂いなく実践しているのである。
ちなみに、日蓮宗のなかで、今日、真に立正安国論の精神を、この日本の国に実現しようとはかっている教団が、ただの一つでもあろうか。みな、おのれの利益のために狂奔しているのみではないか。この一事をもってしても、日蓮大聖人の、否、遠くは三千年来の仏法の正統が、今いずこにあるかは明白である。
唱法華題目抄に「」(0008-)とあるごとく、あまりにも仏法に似て非なる邪宗教が、横行していることを嘆かざるをえない。もはや大乗仏法の真髄は、インドにもない。中国にも、東南アジアの国々にも、むろんのことながらまったくない。ただわが創価学会のみが脈々と受け継いでいるのである。
立正安国論の理想
立正安国とは、根本の思想、哲学、宗教を正すことによって、国家・社会を安泰にし、ひいては世界平和と人類の繁栄を実現するための理念である。
偉大なる宗教は、個人にあっても、家庭にあっても、国家であっても、また世界の人類にとっても、必ずや、すばらしい発展と繁栄と平和の実現を約束するものである。偉大なる宗教の国家社会への影響
したがって、これが国家・社会を単位とした場合でも、まったく同じことが成立するわけである。私が、小説「人間革命」の執筆にあたって、第一巻の序文に「ともあれ、一人の人間における偉大なる人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にするのだ。 これがこの物語の主題である」と述べたゆえんも、ここにある。すなわち、国家・社会にあっても、偉大なる宗教は、必ずや国家・社会を立派に革命し、正しく一国の宿命の転換をも成し遂げうることを叫んでやまない。
これ正しく立正安国の精神であり、立正安国の理念である。前に偉大なる宗教の、各個人に及ぼす影響について申し述べたことが、実はそのまま、国家・社会にも、あてはまるのである。
立正安国論には、念仏のごとき釈尊の仏説に反した非科学的な迷信邪教が、一国に弘まったとき、必ず一国に三災七難が起こり、民衆が苦しまざるをえないことが説かれている。また、偉大なる仏国土、すなわち平和で幸福な国家・社会を築くには、民衆各個人が、偉大なる宗教を信ずべきことを説ききっているのである。
すなわち本抄にいわく「汝早く信仰の寸信を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可し崇む可し」と。
およそ人間として、幸福と平和を望まぬ者はいない。しかも個人の幸福と繁栄のみを願う者は、また利己主義者であり、共に論ずるに足らない、真に大仏法を奉ずる者は、特に、国家・社会ひいては全人類、全世界の幸福と平和を熱願して、その達成をめざして前進を続けているのである。
さて、日蓮大聖人は、如説修行抄に「天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を 各各御覧ぜよ 現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502-06)と仰せである。これ同じく立正安国の理念を申されたと拝すべきである。
偉大なる宗教は、国家・社会を革命して宿命の転換をも成し遂げ、優れた思想、哲学、人生観をもつことによって人衆は向上し、しかも社会全体に叡智がみなぎってくることは、誰人も否定しえまい。特に、国家・社会における指導者層のいかんによって、民衆の幸・不幸が大きく左右されることは、大聖人が立正安国論に引用された経文に、国王とか賢王という名が多く出てくることで明らかである。
しかし、宗教の正邪によって、三災七難、天変地夭の興起が左右されるということは、なかなか首肯し得ない人も多いに違いない。これは、いわゆる福運論、諸天善神論、依正不二論、詮ずるところは生命哲学論になっていく。立正安国論や如説修行抄に仰せられるような天変地夭・三災七難が起こっても、正法が国にあり、また人間革命され、社会革命された万全の国家・社会の見事なる体制が完成されていれば、されらは、ことごとく人災として、克服しうることは明らかであろう。
しかし、社会体制の完備のみでは、もちろん邪宗謗法が満ちているような国家にあっては、社会体制の完備もありえないが、一国に謗法邪教がみなぎっていれば、不可抗力的な三災七難、天変地夭を免れるわけにはいかないということである。それは一面からいえば、いかに科学技術が発達しようと、数々の災害が絶えないどころか、かえって激増しているような最近の社会情勢、あるいは原水爆や核ミサイル等の人類始待って以来、この上といえるぐらいの恐怖感を考えれば、おのずから明白となることである。
各個人にあっても、福運の有無や諸天善神の加護や治罰が論ぜざれるごとく、宇宙生命の一部たる地球、世界にあっても、同じく福運の問題、諸天善神の問題が論ぜられなければならない。そして、やがて、科学が進歩すればするほど、科学的にも解明しうる時はまさに近いことを確信してやまない。謗法邪教と三災七難の問題は、次の依正不二論において、本源的に論じなければならない。
三災七難と依正不二
立正安国論においては、正法が隠没し、邪宗邪義がはびこるならば、三災七難が必ず起こることを金光明経等の四経の文を引かれて述べられている。すなわち、邪宗邪義により人間の生命が悪に染まるならば、社会が乱れ、さらには国土にも、天文現象にも異変を生じ、人々を奈落の底に追いやると説かれている。また本書の題号のごとく正法を立てるならば、三災七難をとどめ、一国は栄え、ここに絶対にくずれない仏国土が現出することが明かされている。
そのなかに一貫して見いだされるものは、善にせよ悪にせよ、社会環境に影響を与え、環境を変えていくのは、ほかならぬわれら自身であるということである。これこそ仏法の根本であり、この原理を依正不二と明かされている。
依正とは依報と正報のことである。まず正報とは、果報の主体の意であり、簡単にいえば、自己自身の生命である。依報とは、正報の所依の意であり、わかりやすくいえば、自己をとりまくいっさいの環境である。
この依正が而二不二の関係にあるというのが依正不二である。今日まで、幾多の思想、哲学が、環境が先か、人間の心が先かを論じ、対立してきた。だが、仏法で説く依正不二論の立場からいえば、それらは、ともにある面を強調した部分観であり、ことごとく依正不二の生命観に摂せられるのである。
瑞相御書にいわく「夫十方は依報なり.衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(1140-06)と。
ここに明らかに「正報なくば依報なし」および「正報をば依報をもって此れをつくる」という二つの立ち場から、依正の密接不可分な関係がんべられている。
環境と自己の微妙な関係
環境と自己とがいかに微妙に関係しているかは、科学の発達によってますます明らかにされつつある。たとえば、生命の起原に関しても、最近の学説では、地球の進化過程において、地球それ自体から生命が発生したという説が有力である。それはまず間違いないことであろう。今日、生物が存在しているということは動かしがたい事実である。しかも、地球成立当初の高温状態においてそのような生物が存在したとは考えられない。また、他の天体から生命体が降りてくるという仮定もなりたたないことは、もはや証明ずみである。このことを考慮すれば、地球の歴史のある段階に生物が誕生したと考えるほかないのである。このことにより、他の天体でも、条件さえ整えば、生命の発生も当然ありうることが明らかとなり、仏法の正しさが証明されつつあることは注目すべきである。
また、今日において、生物が、その環境と密接不可分な関係を保って存在していることも厳然たる事実である。たとえば、われわれ人間をとりまく環境を考えても、空気、水、米、肉などいっさいがひとつの調和を保ちながら、われわれと不可分な関係を保持している。
空気ひとつを取り上げても、われわれが生存していくためには、空気中の酸素および炭酸ガスの分圧は一定でなければならない。これが極度に変われば、われわれは死ぬしかない。
そこまでいかなくとも、ある限度において、正体そのものが、それらの分圧に応じて変動する。すなわち、酸素の分圧に応じて、ヘモグロビンの含量は変わる。したがって、高地などにおいては、血液も、赤血球の製造元である骨髄も、その構造に変化をきたすのである。
その他、食物にしても、水にしても、太陽光線にしても、また気温や湿度等、いっさいが見事なる調和を保ちながら、われわれと不可分な環境となっている。また潮の干潮と血液の循環とが関係があり、あるいは夜がくると自然に眠くなり、昼は活気づくのが普通である、ほんのわずかな環境の変化も、われわれ生命体に重大な変化をもたらすのである。
また、物理学においても、すでに十七世紀において、ニュートンにより万有引力の法則が発見され、さらに近代においては、ファラデー、マクスウェル、アインシュタイン等により、「場」の理論が展開されるにおよび、この宇宙のおっさいのものが、互いに微妙に関係しあっていることが認められている。単にそれは目に見える物体間のみならず、空間においても、さまざまな現象が、互いに影響しあっているという発見こそ、物理学の面において、依正不二の原理を証明しているとはいえまいか。
また、社会学の立ち場から考えてみても、われわれをとりまく社会が、いかなるものかによって、どんなにわれわれが影響を受けるか測り知れないものがある。したがって、環境は重要であり、これを無視して、個人の幸福は考えられないし、さればこそより良き環境を選び、また良き環境にしようとするのは、人間の当然の心であり、行動であり、姿である。
自己の一念が環境を変える
だが、これらは「正報をば依報をもって此れを作る」という立ち場、すなわち環境が自己を形成していくことに着目した考え方であり、外界を対象として研究する科学の世界であり、制度、機構等を問題にする、政治、経済等の世界である。
はたして、環境がわれわれをいっさいがんじがらめにしばりつけて、すべてを決定してしまうのであろうか。もし、そうでなければ、悪い環境に生まれた人は、それを宿命としてただあきらめる以外にないではないか。また、環境を変えようとするいっさいの努力は、ことごとく無意味なものとなろう。また、はたして人の幸・不幸は、環境がすべてを決定してしまうのであろうか。人間の内奥の世界を説かずして、問題にせずして、どうして、真実の幸福が樹立できようか。
されば、仏法においては、環境が自己を形成することを認めつつも、また「正報なくば依報なし」と説いて、生命の奥底を説き、そこからいかに強き自己を築くべきか、また環境を変え、環境を支配する自己を形成すべきかを説いているのである。むしろ、幸・不幸という観点からすれば、この面が、はるかに重要であり、かつ根本的、本源的である。なぜかならば人間革命なき、環境の整備は砂上の楼閣であり、かつまた人間生命に内在する喜びや悲しみを抜きにして、幸福を語ることはできないからである。この人間の生命の内奥の世界を仏法では十界論で説き明かしている。
しかして、この十種の生命活動は、環境と不可分であり、環境にその影響が微妙に波及していくのである。
まずその人自身にとっては、たとえば地獄の苦しみに沈んでいるとき、どこへ行こうとあらゆる世界が地獄である。映画館に行こうと、どんなに美しい光景が眼前に展開されようと、生命それ自体に変化がない限り、その世界は暗黒である。
また、修羅の境涯の人にとっては、すべての世界がいらだたしく、また「修羅は身の丈八万由旬」とあるごとく、他の存在が小さな、とるに足りないものに見えてくる。尊厳なる人間の生命をも奪い去ること、平然としてやってのけるのである。
天界の人にとっては、どこへ行っても楽しい、嬉しい境涯であり、天にものぼらんおもいであろう。
すべて、これらの生命活動は、生命それ自体の変化であり、意識して変えられるものではないのである。されば、ここに、われわれの生命のなかに仏界を湧現するにはどうすべきか。意識して変えようとする、修行でだめならば、なにをもって顕現すべきなのか。これこそ重要のなかの最重要問題なのである。
全宇宙が十界互具の当体
さらに、自分自身が十界の生命活動をしている当体であるとともに、他の人も同じく十界を具備し、刻々と縁にふれ、それぞれの境涯をあらわしながら、生活している当体である。したがって、自分自身の生命活動が微妙に他の人々に影響していくのである。たとえば、一家のなかに病気で苦しんでいる人がいれば、その家全体はなんとなく暗い。おのれの修羅界の生命活動は、他人の人々の修羅界をも呼び起こす場合もある。いま自分が喜んでいるとすると、その喜びは顔面にあらわれ、また、からだ全体が浮き浮きとなり、行動にも張りがあり、それらがことごとく他の人々にさまざまな影響を与えよう。
仏法においては、自己の生命、さらに衆生全体の生命が十界互具の当体であると説くとともに、宇宙の森羅万象、否、大宇宙それ自体が、十界互具の当体でると説き明かしている。したがって、自己の生命の変化が、微妙に国土にも影響を及ぼしていくのである。国土というのも実に不思議といわざるをえない。たえず生育発展を続け、内には偉大なる力を備え、たとえほんのわずかな量の仏質でも、それが破懐されるときには多大なエネルギーを発散する。さらに、天体の運行、地球の自転、公転等、厳然とそこに法が存在するのである。十界互具の生命体たるわれわれが誕生したのも、ほかならぬこの国土からではないか。
この国土にも十界がある。と説き明かしたところに仏法の偉大さがある。だが、これは難信難解のことである。なかんずく、国土それ自体に仏界の働きがあり、それが顕現されるならば、不滅の楽度となることは、難信難解中の難信難解である。
観心本尊抄にいわく「問うて曰く百界千如と一念三千と差別如何、答えて曰く百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る、不審して云く非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何、 答えて曰く此の事難信難解なり天台の難信難解に二有り一には教門の難信難解二には観門の難信難解なり、其の教門の難信難解とは一仏の所説に於て爾前の諸経には二乗闡提・未来に永く成仏せず教主釈尊は始めて正覚を成ず 法華経迹本二門に来至し給い彼の二説を壊る一仏二言水火なり誰人か之を信ぜん此れは教門の難信難解なり、 観門の難信難解は百界千如一念三千・非情の上の色心の二法十如是是なり、爾りと雖も木画の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す其の義に於ては天台一家より出でたり、草木の上に色心の因果を置かずんば 木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり、疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、 答えて曰く止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力」等と云云、釈籤第六に云く「相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り」等云云、金ペイ論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」等云云」(0239-08)
たしかに住居でも、そこに住む人によって明るくもなれば暗くもなる。一国においても、そこに住む民衆の心がすさみ、疲弊しきっていれば、国土も荒廃する。国土もまた人間の心の反映であり、また価値創造のあらわれである。
環境と生命の関係
ある科学者は、生命の起源をさらに推し進めて次のような論を展開している。
まず最初に、生物でもなく環境でもない。ただ存在としかいいえないものが存在した。それは、生物、無生物の区別以前の混沌である。しかもこの混沌は、単なる混沌ではなく、一つの方向をもっている。それが、すなわち生命への方向である。換言すれば、最初の混沌は、単なる無生的なものではなく、それ自身は無生物であるにしても、生命への萌芽を内に蔵しているのである。それが時とともに生物としての自己をあらわしてくるのである。
しかし、生物が生物として自己をあらわしてくるとは、他面、環境が環境としてその性格を明らかにすることでもある。この意味において生物が生物となる時、環境は環境となる。あるいは原子存在そのものが生物と環境に分化するといえよう。したがって、生物と環境が相互に適合するということは当然なのである。生物と環境を別々に考えるから、両者の適合に驚き目を見張ることもこるのであるが、われわれのように考えるならば、それが当然なのであり、むしろ生物と環境とが適合せぬことが不思議なのである。否、適合しなくては、生物も環境もないのである。この点、ドイツの生理学者ユクスキュールが生物と環境の関係を、切り抜かれた紙が、その空白にぴったり合うのにたとえられたのは、まことにもっともといわなければならない。
生物は環境を原因として、自己を形成するのであり、他方、環境はその生物に応じて、しだいに生物的環境となるのである。生物そのものというものがないのと同じように、環境そのものというのも存在しない、人間はともすれば、一定不変の環境を考え、そこへすべての生物は置かれていると考える。しかし、人間には人間の環境があり、魚には魚の、また鳥には鳥の環境がある。そして、人間各自にとって、環境はそれぞれ異なるように、すべての生物には各自の環境がある。
一言にしていえば環境は無数である。生物を離れて環境自体というものはどこにもない。生物が生物としてしだいに自己を生み出してゆくように、そして、それによってさまざまな生物がそれぞれの自己の形を明らかにしてくるように、環境もまた、しだいに生物から分離して環境となるとともに、それぞれの生物に対応する、さまざまな環境として自己を示してうるのである。
彼はさらにこの論を勧めて、生命を誕生せしめた環境は、いわば生命を、あるいは生命の方向を内に蔵する環境であり、結局、それは単なる無生の物質でもなければ、単なる環境でもなく、また明らかな生物でもない。環境と生物の両者末分の混沌であるという。さらに彼は結論していわく「宇宙そのものが生命の世界である」「結局、一切が生命なのである」と。
ここに、科学の方向が、いかに依正不二に近づいているかを知るとともに、着目すべきは、環境は無数であるということである。魚には魚の、鳥には鳥の、人間には人間の環境があるということである。
されば、同じ人間であっても、その人によって環境がみな違うのは当然であろう。また一人について論じても時々刻々と環境は移り変わっているのである。
これは、仏法の眼を開いて見れば当然すぎるぐらいの当然のことである。日寬上人が三重秘伝抄に「地獄は赤鉄に依って住し、餓鬼は閻浮の下・五百由旬に住し、畜生は水陸空に住し、修羅は海の畔、海の底に住し、人は大地に依って住し、天は宮殿に依って住し、二乗は方便土に依って住し、菩薩は実報土に依って住し、仏は寂光土に住したもうなり」と述べられているのも、正報と依報との密接不可分な関係を示したものである。
されば一社会に、貧・瞋・癡の三毒が充満し、人々の心が三悪道・四悪趣の境涯に陥っていれば、その環境もまた、すさみきり、人々を不幸へつきおとす働きが充満してくるのである。疫病が起こり、飢餓が人々を圧迫し、嵐は猛威をふるい、大地が動き、洪水も起こる。まさしく国土もまた三悪、四悪の姿となるのである。これまでの歴史をみても、人間の心が乱れたときに、必ずといってよいくらい、大災害が起きているのは、この原理の正しいことを裏書きしているのではないか。
妙法根底に楽土建設
仏法では、いかにして、一人の人間の宿命を転換し、ここに仏界を涌現せしめるか、また、さらには、いかにしたら民族自体の宿命を変え、ここにくずれなき仏国土を築くことができるか、その方途を説き明かしている。
すなわち、末法の今日においては、日蓮大聖人御建立の大御本尊に向かい、南無妙法蓮華経と唱える以外にないことを教えられている。
南無妙法蓮華経にはとうていわれわれ凡愚には説ききれるものではないが、しいていえば、大宇宙の本源力であり、あらゆるものを変化せしめていく根本である。しかして、大御本尊はこの宇宙大の力の凝結であり、われらが、大御本尊に向かい、唱題するときに、われわれもまた一念に宇宙大の自己を見いだすことができるのである。すなわち、大宇宙のリズムに合致し、滞りなく、強い生命力が発現し、永久に生き詰ることなく、この一生を幸福に満ち満ちて前進していけるのである。同じく信心強き者の一念の結果は、民族を興隆させ、楽度を築き、世界平和をもたらすことができるのである。
これは、ただ単に理論だけでわかるわけがない。科学がいかにさまざまなことを発見したとはいえ、ある科学者の述べるごとく「真理を生み出す何億という鼓動のうちのまったく小さな一つの脈搏」に過ぎない。科学の言葉で説明するには、仏法の世界にはあまりにも広くかつ深すぎる。もはやここにいたっては体験し、実証する以外にないのである。
それでは、科学が発展していけば、最後には、仏法のすべてに到達するか、答えは否である。科学者が、科学の発達によって悟ったものは何か。それは、科学が進歩すれば、未知の世界がだんだんなくなるというのではなく、否、未知の世界が、ますます広がるばかりであるという厳粛なる事実である。科学は、あくまでも外界の物理化学現象の分析と綜合の学問であり、それは、われわれの窮めていく世界のほんの一部分である。
しかしながら、科学が、仏法の説くところにしだいに合致してきていることも事実である。これをもって、仏法の原理がいよいよ正しいことを確信されたい。
世間の人々は、邪宗教によって、三災七難が起きたり、正法によって国土安穏になるということを聞けば、奇異に感ずるのは、その人のそれまでの常識とかけはなれたものであるからにほかならない。およそ常識というものは、往々にして、誤った認識である場合が多い。いったん頭のなかに特定の物の見方が固定してしまうと、なかなか新しい事実を、新しい目でみることができなくなってしまうものだ。
竜の口法難に見る不思議
仏法の眼開けて見れば、われわれの一念により、社会を変え、民族を変え、また国土をも変えていくことは絶対の事実である。
されば、妙法を信ずれば諸天の加護がることも当然といえよう。諸天善神については、第一段第二章において詳論したところであるが、その本質は、大宇宙のそれ自体が、われわれに幸福をもたらす働きとして、作用してくるのである。
種種御振舞御書には、大聖人が、竜の口に行かれる途中、若宮小路において八幡大菩薩を𠮟りとばす場面が描写されている。さらに竜の口の刑場のようすは、次のように述べられている。
「いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし」(0914-01)
この現象を科学者であれば、いろいろと説明を加えるであろう。たとえば、その光り物は、いわゆる火球倶説明されよう。火球とは隕石が地球に落ちてくるときに、大きく燃えているような球が、光った煙のような尾を引きながら、すごい速さで飛ぶ現象をいう。
火球は、あたりを明るく照らし出す、その明るさは、時としては数十億燭光に達するといわれる。それが消えるときには、爆発か砲撃のような、猛烈な音がすることである。1908年に、シベリア北部に巨大な隕石が落ちてきた。見た人の言葉によると、朝の7時ごろに現れた火球は、太陽のようにあざやかに光っていたということである。隕石は、部落の近くにある密林に落ち、破裂し、そのために森林は広い地域にわたってなぎ倒されたとのことである。
竜の口の現象も、あるいは「物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ」とあるからこの火球がそれであったのかもしれない。それならば、隕石が空中で燃えて火球になったもので、奇跡でもなんでまないではないかと人はいうかもしれない。なにもわれわれは奇跡とはいわない。科学的に説明できるのは当然と考える。ただ、大聖人が諸天善神に対して加護せよと叱咤したあと、しかも首を切られる寸前にこの現象があったという事実、そして幕府の役人たちが、大聖人の頸をついに斬れなかったといううごかすことのできない事実、これは科学では説明できるわけがない。また科学の取り扱う分野でもない。科学の眼で見ることのできぬものである。これこそ仏法の眼によらなければ絶対に明らかにならないのである。
さらに、死刑を脱した大聖人が、依智の本間六郎左衛門の邸宅において、再び諸天善神を叱咤された時にも、すぐさま不思議な現象が起きている。同じく種種御振舞御書に「いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし」(0915-12)と。
これもまた流星であるとか、空気中の放電現象である等と説明されるであろう。だが、そのような説明は、分析と綜合による現象の物理化学的な面での説明であって、現象それ自体の説明ではない。大聖人の御生命が危機にさらされている時、しかも諸天を叱られたあとに、なにゆえこのような現象が起きたか。さらにまた、竜の口における現象とを合わせて考えるならば、このような現象が立て続けに二回起きるということは、確率のうえからいっても、それこそ何億分の一、何兆分の一であろう。これを単に偶然といってすまされるであろうか。この事実を明確に説ききれるものは、仏法の依正不二の原理以外にないのである。
われわれは、依正不二の原理を説き明かし、そこから世の不幸の根源を示し、その解決を明示した立正安国論こそ、必ずや、日本一国はおろか、全世界の幸福を招来する力強き一書なることを、強く確信してやまぬものである。
戸田前会長いわく「世上の識者の中には、立正安国論は、単なる日蓮大聖人の片寄った考え方であると見るむきがあるが、これは誠に浅はかな僻見であって、同論こそ厳格なる科学的理論と現象との一致を見た前人末踏の書であり、宇宙観、社会観よりして、寸分狂いなき正しき哲理なのである。また安国論をたんなる観念的な哲学論であると考える向きもあるが、もちろんこれもまた真実を認識しえない僻見にすぎない。立正安国論こそ、国家安穏、天下泰平の一国治術の大法則である」と。
第二章 経証の一 金光明経 (0018-02~0018-12)top
主人のいわく。
金光明経には「或る時四天王が仏に申し上げていうには、その国土にたとえこの三大秘法の大御本尊があっても、国主がそれを流布しないで、むしろ、捨て離れる心を起こして聞こうともせず、身で供養することがあっても、口で讃嘆することもせず、正法をたもつ四部の衆や持経をみて尊重も供養もしない。そして、ついには帝釈天や四天王および、その他の無量の諸天に対して、この甚深の妙法を聞かせないようにしてしまい、そのために、諸天は食べ物としている甘露の味を得られず、正法の流れに欲さず、ついに諸天をしてその勢力、威光を失わせてしまう。その結果、国じゅうに地獄・餓鬼・畜生・修羅などの四悪趣を増長し、人界・天界の楽しみのある生命活動は蝕まれ、生死の河である煩悩・無明の苦しみの充満する世界に落ち込んで、涅槃の道である成仏の道に背き、ますますそれから遠ざかってしまう。 |
講義
正法を捨てて邪法に帰すると諸天および聖人が、その国を捨て去り、災難がおこるという証文として、金光明経・大集経・仁王経・薬師経の四経の文を引かれたのである。
経証として爾前を引く理由
さて、この四経は、ともに法華経以前に説かれた、いわゆる「爾前経」である。大聖人は諸御書で、無量義経の「四十余年末だ真実を顕わさず」、方便品の「正直に方便を捨てて但無上道を説く」等の幾多の経文を引かれて、爾前経を破折しておられる。
では、いったいなにゆえに爾前経を破折しておきながら、しかもここに爾前の経々をひかれたのか。
これについては大聖人が観心本尊得意抄に次のように明確に仰せられているごとくである。
「一北方の能化難じて云く爾前の経をば未顕真実と捨て乍ら安国論には爾前の経を引き文証とする事自語相違と不審の事・前前申せし如し、総じて一代聖教を大に分つて二と為す一には大綱二には網目なり、初の大綱とは成仏得道の教なり、成仏の教とは法華経なり、次に網目とは法華已前の諸経なり、彼の諸経等は不成仏の教なり、成仏得道の文言之を説くと雖も但名字のみ有て其の実義は法華に之有り、伝教大師の決権実論に云く「権智の所作は唯名のみ有て実義有ること無し」云云、但し権教に於ても成仏得道の外は説相空しかる可からず法華の為の網目なるが故に、所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり、其の上法華経にて実義有る可きを爾前の経にして名字計りののしる事全く法華の為なり、然る間尤も法華の証文となるべし」
すなわち、成仏得道の経は、法華経に限るが、それ以外のことについては、その他の経文に明らかにされている。されば、その実体を法華経なりとすれば、いっさいの経々はことごとく生かされてくるのと仰せです。
さらに日寬上人は、安国論文段に、爾前の経を引証した理由は略して四あると仰せられている。
第一には法華経は大網であり、爾前は法華経のための網目であるから、大綱のために網目を用いるのである。
第二には文が爾前の経に出ているが、しかも義は法華にあるからである。
第三には爾前の劣る経ですらこの通りであるから、まして勝れた法華経においてはなおさらのことである。
第四には爾前の文を借りて法華の義を顕すのであり、開会の上であらゆる経文を用いるのである。
まず第一の「爾前はこれ法華経の網目なるゆえ」というりゆうについて、前にあげたごとく観心本尊得意抄に「所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり」(0973-01)とあり、妙楽大師の釈籖十には「唯大網を存して網目に事らず」とあり、同じく文句記の九の末には「円教の行理の骨目自ら成ず皮膚毛彩は衆典に出在せり」とある。
第二の「文は爾前に在り義は法華に在りのゆえ」という理由については同じく観心本尊抄得意抄に「其の上法華経にて実義有る可きを爾前の経にして名字計りののしる事全く法華の為なり、然る間尤も法華の証文となるべし」(0973-02)とあり、「種々の道を示すと雖もそれ実に仏乗の為なり」とある。また文句記三の上には「ゆえに外・小・権・迹を内・大・実・本に望むるに並びに名のみ有りて実無きなり、ゆえに仏・迦葉を斥けて汝昔し但涅槃の名を聞いていまだその義を聞かず」とある。
第三の「爾前の劣を以って法華の勝を況するゆえ」という理由については、四条金吾釈迦仏供養事「当に知るべし日月天の四天下をめぐり給うは仏法の力なり・彼の金光明経・最勝王経は法華経の方便なり勝劣を論ずれば乳と醍醐と金と宝珠との如し、劣なる経を食しましまして尚四天下をめぐり給う、何に況や法華経の醍醐の甘味を甞させ給はんをや」(1146-01)とある。
また撰時抄にも「彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし、生死をはなるる道には法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども六道・四生・三世の事を記し給いけるは寸分もたがはざりけるにや、何に況や法華経は釈尊・要当説真実となのらせ給い多宝仏は真実なりと御判をそへ十方の諸仏は広長舌を梵天につけて誠諦と指し示し…」(0265-02)とあるがごとくである。
第四の「爾前の文を借りて法華の義を顕わすゆえ」というりゆうについては、十章抄には「止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり」(1273-08)とある。さらに成論の二如来、阿含の四処起塔等、これを思い合わすべきである。すなわち開会の後に文を借り義を顕すのである。
南無妙法蓮華経こそ一切経の観心
また、同じ原理が日寬上人の三重秘伝抄に説かれている。すなわち天台大師が、一念三千を証明するために、華厳経の「心は工なる画師の種々の五陰を造るが如く一切世界の中に法として造らざることなし」の文を引いていることについて、次のように述べられてる。
「問う昔の経経の中に一念三千を明かさずんば天台何ぞ華厳心造の文を引いて一念三千を証するや。
答う彼の記小久成を明かさず何ぞ一念三千を明かさんや、若し大師引用の意は浄覚云く『今の引用は会入の後に従う』等云云、又古徳云く『華厳は死の法門にして法華は勝の法門なり』云々、彼の経は当分は有名無実なる故に死の法門と云う。楽天曰く『龍門原の上に土・骨を埋めて名を埋めず』と、和泉式部云く『諸共に苔の下には朽ちずして埋もれる名を見るぞ悲しき』云云、若し会入の後は猶蘇生の如し故に活の法門と云うなり」
すなわち、華厳経それ自体としては、四十余年未顕真実の教えであり「死の法門」であるが、ひとたび、法華経の立ち場で用いれば、十界互具、一念三千の説明として生かされ「活の法門」となるのであるが、これは大集経等の場合についても同じであり、それ自体としては、名のみで実体もなく、けっして民衆の幸福を築く力ある経文ではなく「死の法門」である。だが、ひとたびそれを法華経の立ち場で用いれば、たちまち生命をふきかえし「活の法門」となるのである。
以上のことに関連して、さらに大聖人は、なぜ釈尊の法華経にはもはや力がなくなったといわれながら、その法華経の経文を用いられている。
まず、法華経に力がないことを示された御文は、上野殿御返事に「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546-11)、高橋入道殿御返事「末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等・薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所謂病は重し薬はあさし」(1458-13)等、枚挙にいとまがない。
だが、これもまた同じ原理であり、成仏得道の教えとしては、もはや法華経にも力がなくなってしまった。しかし、法華経の実体を、寿量文底下種の南無妙法蓮華経としたときに、ことごとく生かされることを知らなくてはならない。
日蓮大聖人の仏法から立ち返ってみるならば、法華経二十八品ことごとく南無妙法蓮華経を明かさんとして説かれたものであり、南無妙法蓮華経こそ、一切経の根本であり、法華経の肝要なのである。
曾谷入道殿御返事に「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」(1058-08)云云と。
三大秘法抄には「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023-13)云々と。
したがって、法華経が、いかに釈迦仏法中、最高であったとしても、南無妙法蓮華経を根本としなければ、それは名のみあって実体なく「死の法門」にすぎないのである。今日、法華経が、釈尊一代五十年のなかで、最高の経文であることは、仏の金言に明らかであり、少しく仏法を知った人であれば、誰でもわかることである。だが、いったい、なぜ法華経が最高なのかについては、まったく知る人がいない。ただ文々句々に執し、それであたかも法華経を知ったかのような錯覚をしているのである。
一代聖教大意には「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」(0404-03)と。また開目抄上には「当世も法華経をば皆信じたるやうなれども法華経にては・なきなり」(0195-10)と。
ここに、法華経にせよ、また釈尊一代の経々にせよ、ことごとく三大秘法の南無妙法蓮華経によって、初めて、生かされて「活の法門」となり、意味をもってくるのである。
ゆえに、「其の国土に於いて此の経有りと雖も」とは、一応、文上から読むならば、ある国土に金光明経があって、この金光明経を流布もしない。しかも捨離する心を生ずるならば…等と読まれるのであるが、これではまったく意味がない。これは、仏法上経相とって、日蓮大聖人の読み方、すなわち観心の読み方ではない。大聖人の仏法においては、経文を文字に表わされたままに読み理解するのを経相の文上ともいい、大聖人の御真意を観心とも文底ともいうのである。立正安国論は大聖人の大確信であり、法華経の真髄であるから、金光明経とはいえ、観心文底において拝すべきなのである。
其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず
されば、この御文を、日寬上人の文段によって、観心文底より拝すれば、次のようになる。「其の国土に於いて」の国土とは、日本国であり、「此の経有り」とは、本門の本尊、妙法蓮華経の五字、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経である。三大秘法とは、本門の題目、本門の本尊、本門の戒壇の三つであり、三大秘法の南無妙法蓮華経とは、弘安二年十月十二日の御図顕の一閻浮提総与の大曼荼羅のことである。
「未だ甞て流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず」の未だ甞て流布せしめずとは、いまだ一閻浮提に広宣流布せしめないことである。顕仏未来記の「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(0507-06)云云の文を思い合わすべきである。
為政者が、この大御本尊を、いまだかって日本に流布せしめずして、またこのわれらが主師親と仰ぐべき本尊を、ただ、受持しないばかりでなく、捨離の心を生じて、この本尊を求めようとせず、この本尊のことを聞こうともしない。また、この本尊を身に供養せず、意に尊重せず、口に讃嘆しようともしない。また、文底受持の行者、すなわちこの大御本尊を持つ人を、尊重したり、供養したり、讃嘆したりすることは考えもおよばない。それであるから、「遂に我等及び余の眷属…」等と、梵天、帝釈、四天王、およびもろもろの諸天善神をして、この深秘の妙法、すなわち三大秘法の南無妙保蓮華経を聞くことができると嘆かせるのである。
さらに、日寬上人は、文段に次のごとく述べられている。
「ゆえに三箇の妙法の法味に飢えて三箇の秘法の水流に渇く、ゆえに『威光勢力あることなし』と云云。学者まさに知るべし、日本国中みなすでに毒薬邪法の飲食なり、諸天何んぞこれを受けんや、ただ我が文底甚秘の大法のみ無上の甘露正法なりしもこれを供養せずんば諸天の威光如何ん、すべからずこの意を了すべし、あえて懈ることなかれ」
日蓮大聖人は、建長五年四月二十八日の立宗宣言以来、罵等と迫害の連続であった。特に文応元年7月に、この立正安国論を著わし幕府を諌言されるや、それはまさに怒濤となって押し寄せてきた、立正安国論の根本精神は三災七難の不幸の根源は、邪宗教にあり、もし、これに対してなお帰依を続けるならば、他国侵逼・自界叛逆の二難が必ず起こる、ということであった。「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん」等の肺腑をえぐる全民衆救済の烈劣たる叫びに対して、悪酒に酔いしれる幕府の権力者たちは、松葉ヶ谷の草庵の焼き打ち、伊豆・伊東への流罪をもって遇したのである。
はたして、文応元年より満七年、文永5年正月、蒙古より牒状が到来し、立正安国論の予言の的中が疑いなき事実となった。だが、幕府は、なお悪夢からさめず、諸社寺に蒙古降伏の加持祈祷をさせるなど、謗法を重ねていった。この国家存亡の危急に対して、日蓮大聖人は十一通の御書を認めて、幕府の迷妄をさますように、また時の邪宗教に対しては、公場対決をきびしく迫られたのであった。
しかるに、幕府はこの至誠あふれる国諫を聞き入れないのみか、幕府の上﨟、尼御前たちに取り入った極楽寺良観、建長寺道隆等の邪僧の言葉に迷い、ますます激しい弾圧と迫害とを、大聖人およびその御一門に加えていったのである。
かくして文永8年9月12日、幕府の軍事警察権を一手ににぎって、絶対の権力をふるっていた左左衛門頼綱は、無謀にも大聖人を竜の口の刑場で、頸を刎ねんとしたのである。だが、所詮、いかなる大難も、その本仏の御境涯をこわすことはできなかった。その夜の不思議な現象に、頸斬り役人どもは恐れおののき、ついに処刑を断念してしまったのである。しかし、大聖人は念仏者等の陰謀のため、佐渡へと流罪され、そこで不自由な三ヵ年の生活を送られた。この間、時宗の兄、時輔の陰謀などがあって、自界叛逆の様相は、ますます深刻となってきた。文永11年、佐渡から鎌倉へ帰られた大聖人は、幕府を諌め、「今年は必ず蒙古の責めに会う」と断言、これも聞き入れられなかったので、故事にならい「三度諫めても用いなければ国を去る」と宣言され、身延の山へこもられたのであった。
だが、大聖人は、ここで「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329-)との御文のごとく、ひたすら末法万年尽未来際までも利益する大御本尊の建立の準備をされていった。ついに熱原法難の機に立宗より27年、弘安2年10月12日、「余は27年なり」と申されて、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたのである。
太平洋戦争は以北の遠因
以上のように、大聖人の御一生をみるに、大正法が打ち立てられたのもかかわらず、この大法を日本の指導者を流布せしめなかった。まさしく、当時の日本国の実情は「末だ甞て流布せしめず」の感を深くするではないか。また、当時の権力者の横暴なふるまいは甞て流布、まさに「捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず」等の文にあたり、したがって諸天善神は国を捨て去り、日本の国は、福運をまったくなくしてしまったのである。他国侵逼難は、大聖人がおおせられればこそ、当時は、免れることができなかったが、ここに、すでに太平洋戦争の未曾有の敗戦の遠因がったのである。
戸田前会長はこのことについて、次のごとく述べられている。
「日蓮大聖人は御本仏にていませばせば、断じて未来を予言し、お言葉どうりに自界叛逆論があり、他国侵逼難が実現したのである。時の上下の人々が、この予言書を誠実な気持ちをもって信じて、大聖人の教えを一国に流布したならば、あの時代からいかに日本が栄たであろうか」、だが、それに反して、「大聖人世を去られて六百有余年、あれほど懇篤に未来の真の仏法、大良薬を奨められてあったにもかかわらず、まことに爪上の土の如く、極く少数の人のみに信じられて、大多数の人々はこれを信じなったがゆえに、実に七百年近い昔の予言が的中して、アメリカ軍による日本国土の占領とう他国侵逼難があらわれたのである。
およそ原因には二とおりある。近因と遠因である。近因とは、ある事件が起こった直接の条件、作用であり、遠因とは、それらの条件作用を必然とならしめる根本の因である。
太平洋戦争を語るとき、そこには当然、軍部閣僚の無能が話されなければならないであろう。当時の軍部首脳部の民衆から遊離した政治感覚、派閥争いに終始したその官僚性、および科学に対する驚くべき無智は、日本の敗戦に直接つながるものとして、きびしく、批判されるべきであろう。しかし、われわれはここに一大亡国の姿を現じた根本原因は、実は“見えざる敵”にあったことを、肝に命ずべきである。すなわち、七百年近くにわたった、正法に対する敵対の総決算であり、大聖人の諫言を用いなかったがゆえの破滅であることを断ずるものである。
根は深く、源は遠かった。大聖人滅後六百数十年、この間において、真実に民衆救済の大白法が、この日本の国にありながら、隠没され、人々から少しも顧みなかった。ただ邪宗教のみが跋扈し、乱脈を続け、また世欲的な権力と結びついて、人々に害毒を流しづづけてきた。
阿鼻叫喚地獄の様相を呈しながら、悲惨な終焉を告げた鎌倉幕府の後にきたものは、室町時代であった。この時代においては、応仁の乱等社会の乱れに乗じて念仏がひろまり、特に蓮如を中心とする一派が、文化の発達しない地方への進出をはかり、かなりの信者を得て、ついに大阪に本願寺城を築き一向一揆の基となった。
戦国時代にはいると、石山本願寺、比叡山、高野山などの諸宗の本山は、宗教よりも武力をもつ集団として、戦乱によって徹底的に蹂躙されたのである。
最も悲惨をきわめたのは、比叡山であった。織田信長により、山上の全寺塔は焼き払われ、僧徒1600人が、焼き殺された。また本願寺も、信長、秀吉に攻められて、徹底的な打撃をうけた。まさに、この時代の宗教界は、修羅闘諍にふけり、利益にからんだ醜い権力との結託に狂奔し、その結果、戦乱の渦中に巻き込まれ、悲惨な姿を繰り広げた。そこには、仏法の精神はまったくなく、あるものは、ただ三悪道・四悪道のみであった。
やがて徳川幕府が成立し、ようやく世の中も落ち着きをみせた。宗教界も、形式的には発展を示した。たとえば、天台宗の僧、天海が上野に寬永寺を建て、また浄土宗が家康の保護で芝の増上寺を建てる等である。
だが、徳川幕府の封建制度下にあった仏教の内容は、堕落の一言に尽きるのでる。幕府は、キリシタン禁令を徹底させるため「宗門改め制度」を設け、それに仏教を利用し、庶民統制の組織をとったのである。これによって檀家制度が確立し、人々は出生、結婚、旅行、職人の雇い入れ、埋葬などすべて檀那寺の承認をえなければならなくなった。また、本寺、末寺、の関係を決めて、本山の統制力を強化し、その上に寺社奉行を置いて、封建的な秩序を保とうとした。当然、改宗なども強い制限を受けた。かくして、既成宗教は、幕府の御用機関となって骨抜きにされ、幕府の保護、檀家からの布施、寺領からの収入によって、安逸に流れ堕落していった。いわば、仏教は封建政策の道具と化したのである。
この檀那制度の影響がいかに根強いかは、今日われわれが折伏にいったときに、痛感するところである。その寺がいかなる宗派で、いかなる教えを説くかなどは、まったく知らず、疑問ももたず、ただ墓場を掃除し、僧侶にお金でもあげておけば、先祖も喜び、自分も幸福になると思っている。
明治以降、日本は政治上では形ばかりの近代化を遂げた。こうした民主に巣くう、封建制、事大主義、因習は、根強く残っていることを知らねばならない。
神道と国家権力の結託
やがて、王政復古により、立憲君主制を政治的な理想とする明治維新の世となった。明治政権は、天皇主権の必要上、国民に天皇を信ぜしめるために、神道を用いた。天皇の神格化を最良の方法として考えたのである。この維新の政策は、政治的な改革であるとともに、禅、念仏、真言などの諸宗に再び決定的な打撃を与えたのである。
明治二年「神仏判然令」が布告され、封建時代に優位に立っていた仏教は、神道とその所を入れ替えたのである。この神仏分離の政策は全国津々浦々に急速に、しかも徹底的に実施されていった。これまで押えつけられていた神官たちは、この時とばかりに仏像仏具、経巻などを壊し、焼き捨てるという運度を開始した。いわゆる排仏毀釈運動である。
四国の土佐では400ヵ寺が廃止され、裏日本の富山では「一宗一寺の他はことごとく廃寺すべし」という「廃寺令」が出された。兵隊に大砲を引かせて巡回させて威圧し、廃寺を迫った。また明治4年には、社寺の領地を境内地のほかは全部返上させ、それにかわるものとして、禄米を支給し、さらに全禄に改められた。このことによって、寺院はその経済の大半を占めていた収入源を失って、衰亡へと大きく傾いていった。
こうして、既成仏教を徹底的にたたいた神道は、国家の特別保護のもとに、一躍、国家的地位を得ることになった。
天皇は絶対的権威として君臨し、神社は宗教ではなく国家の“宗祀”であると称えられ、神官は官吏としての待遇をうけた。伊勢神宮の祭主には皇族を、大宮司には勅任官をと、直接国家が司るようになった。さらに全国の神社は、それぞれ官幣大・中・小社、国幣大・中・小社、諸社としての社各の制度をうけて、いっさいの費用は官公庁から支給されるということになった。
仏教もまた、弾圧を恐れて、神童との融和をはかろうとした。当時の仏教界は、ようやく排仏毀釈運動の打撃からたちなおったものの、なんら神道を糾弾する勇気も情熱もなかった。
やがて、田中智学を中心とする国柱会の日蓮主義が、完全に神道宣揚の結果を導くことになった。智学は、法華経の絶対性と天皇の神格化という当時の情勢を、なんとか結びつけようとしたのである。ここに、天皇の神格化を、法華経の絶対性から支援しようとした日蓮主義の妄説が生じ、神道のまえにあえなく屈服していった。
また、この間の事情には、この機に乗じて政府が宗教団体を制定し(1939)いっさいの宗教を、大日本帝国の精神的支柱たる神道のもとに、強制的に結合させる力も大きかった。
ここに、宗教界は、こぞって政府と神道の掲げる報国運動へと埋没していったのである。
神道は、もともと、原始の自然宗教であり、上代の民の生活態度のなかに芽ばえたものが、大和朝廷の正統化という要望とあいまって、成長してきたものである。したがって、経理は、なんら哲学的な根拠もなければ、理念らしきものも、見当たらない。一般的には、祭祀を中心にするものにすぎなかったのである。
この神道をもって、天皇絶対権の裏づけとし、政治力をもって国教化の方向をとったことは、大きな誤りといわざるをえない。もし、未開の古代社会の復元を本気で夢みたとするならば、時代錯誤も甚だしい。いかなる非合理な祭政一致や国教化は、所詮成功するはずがなかった。その破綻は、太平洋戦争の進行ととともに馬脚をあらわしたといえよう。
日蓮大聖人滅後の広布の戦い
ひるがえって、大聖人滅後の日蓮正宗の歴史をみるならば、第二祖日興上人は申し状を捧げて鎌倉幕府をいさめ、第三祖日目上人も、42度の天奏を遂げられる等、惜身の布教活動はなされたものの、広宣流布の大願成就には到底至っていない。
明治・大正・昭和に入っても、創価学会の出現以前は、広宣流布など思いもよらなかった。
昭和における創価学会の最大の難関は、軍部の弾圧である。旧憲法には「日本国民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限リニ於イテ信教ノ自由ヲ有ス」とあった。これは形ばかりの信教の自由であり、特に「治安秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限リニ於テ」の但し書きは、いかようにも拡大解釈できたのである。事実上、国家神道を拝することを国民に義務化していた指導者にとって、神道否定の宗教の存在が許されるわけがなかった。よって、戦時中、さまざまな宗教に対する国家の干渉、宗教統合を権力によって行おうとする動きが見られたのである。その結果、神道を真っ向から否定した創価学会に対しては、猛然と国家権力をもって弾圧し、牧口初代会長、戸田二代会長をはじめ21名の幹部を投獄し、牧口会長を獄中にて没せしめたのである。
大聖人の時代より700年、いまだ広宣流布せず、その歴史は、時に断圧の歴史であり、またそのなかで、ただひたすら時を待ち、創価学会の出現を待ち続けた正法は、そして当時の日本の姿は其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず」の御文のごとくであり、「捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず」の文のごとくであった。されば、諸天善神は勢力を失い、日本国から去り、「既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」のままに、一大亡国の姿を現じたのである。
まったく、三千年前に説かれた経文に、寸分も違いのないことに驚くとともに、ぶつほうが永久不変の宇宙の絶対の真理を説き明かしているのを事実をもって知らされるのである。
されば恐るべきは邪宗教であり、悪思想である。邪宗教が根底となり、しかもそれが政治権力と結託するところに、亡国の姿を現ずるのである。
日智蓮大聖人は、その根本原因を、ここに経文の明証をもって喝破されたのである。
神国王御書にいわく「王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」(1521-07)と。
この亡国の実相を思い起こすにつけ、二度と同じ愚を繰り返してはならぬと痛感するのである。
なるほど、ぼうこくという事実は、まことになげかわしい現実であった。だが、その根本原因にめざめなければ、またいつなんどき、このようないまわしき災難に見舞われないとも限らぬ。人々は、その原因を論ずるに、政治の劣悪、社会の体制を口にする。だが、それよりも、さらに根本的なものは、人間に出発し、人間に起因する問題である。すなわち、ありとあらゆる政治悪、社会悪をもたらすものは、所詮人間生命の濁りである。貧・瞋・癡の三毒強盛の生命こそ、常に変わらぬ、あらゆる腐敗、あらゆる悪の根源なのである。では、その衆生の生命の濁りは、どこに起因しているのであろうか。それこそ邪智、邪宗、悪思想に縁したがゆえなのである。まさに邪宗教こそ、個人の幸福を奪うのみならず、人類を滅亡に導く元凶であり、われわれ人類の敵であることに、世の人を気づかなければならない。
貧弱な土壌からは、豊かな実りは生じない。創価学会がまず第一に、邪宗教の生命を断ち、悪酒に酔いしれる民衆を覚醒させるべく、宗教革命からの戦いを開始したのは、実にそのためである。そのうえに立って、新しき建設がなされるのである。すなわち政治であり、教育であり、経済であり、あらゆる文化の花が咲き誇るのである。これ第三文明である。第三文明の建設については、第十段で論じよう。されば、創価学会が今日、宗教革命に、力強く勇気と情熱をもって、邁進しているこの峻厳なる事実こそ、全日本の人人に、全世界の民衆に、全人類の歴史に、勇気と前進の光明とを与えてゆく、唯一の力なりと確信してやまない。
遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ
この金光明経の文は、諸天善神と約すべきである。すなわち日寬上人の文段には「即これ諸天・甘露食味に向わず正法の水流を得ず、すでに飲食に飢渇す。ゆえに威光勢力あることなきなり。向背得失これを思い見るべし」とある。また、一説には「悪王・悪比丘が甘露の味に背き正法の流れを失い威光及以び勢力有ること無からしむ」と読むとあり、また一説には「甘露の味に背き流れを失い」を悪王悪比丘に約し、「威光及以び勢力有ること無からしむ」を諸天善神に約すと読むとある。だが、日寬上人は、文段に、この両説ともに適切ではなく、不可であり、ともに諸天善神に約すのが正しいと述べられている。すなわち、その理由として、金光明経の次上の文には「甘露味をもって我に充足す。このゆえ我等この王を擁護す」また下の文には「無上の甘露の法味を服することを得、大威徳勢力光明を獲」等とあり、いわんや所引の文相が諸天善神に約して解釈することが、もっとも穏便であると、述べられている。
また日寬上人は「甚深の妙法」も「甘露の味」も「正法」も共に三大秘法のことであると、文段に次のように示されている。
「初めに甚深妙法とは、もし迹門の意に約せば即これ諸法実相の妙法なり、経にいわく『甚深微妙の法我れ今已に俱得す』と云云、天台いわく『実相を甚深と名づく』等云云。もし本門の意に約せは本因本果の妙法なり、経にいわく『如来一切甚深之事』等云云。天台いわく『因果是深事』と文、宗祖いわく『妙法蓮華経の五字は迹門にすら尚之を許されず况や爾前に分絶えたる事なり寿量品に至って本因本果の蓮華の二字を説き顕わし上行菩薩に付属し給う』と云云。もし、文底の意に拠らば即三箇の秘法を含むなり、天台わく『此の妙法蓮華経とは本地甚深の奥義なり』云云。本地の二字は戒壇を顕わすなり、いわく本尊所住の地なり、ゆえに本地という。あに戒壇にあらずや。甚深の二字は本尊を顕わすなり、天台いわく『実相を甚深と名づく』と云云、妙楽いわく『実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界』等云云。あに一念三千の本尊にあらずや。奥義の二字は題目を顕すなり、天台いわく『包蘊を蔵となす』と云云、いわく題目の一行には万行を包蘊す。ゆえに一行一切行というなり、あに題目にあらずや。今・甚深の妙法とは即これ本地甚深の奥義なり、ゆえに三箇の秘法を含むべきなり、文略して意周し、これを思い見るべし。
次に甘露とは、妙楽いわく『甘露門とは実相常住、天の甘露のごとしこれ不死の薬なり』と文、一連にこれを釈すといえども二門の意を含む、初に『甘露門とは実相常住』とはこれ迹門の諸法実相を名づけて甘露となす、ゆえに実相常住というなり、『天の甘露のごとしこれ不死の薬』とはこれ本門の是好良薬を名づけて甘露となす、ゆえに不老の薬というなり、すでに寿量品に是好良薬と説き薬王品中に至りて『若人有病得聞是経・病即消滅不老不死』と演ぶるゆえなり、もし文底の意に約せば即三箇の秘法を含む。
涅槃経北本の第八初にいわく『あるいは甘露を服し寿命長存を得るあり』と文。甘露の両字は本尊を顕わすなり、妙楽いわく『実相常住天の甘露のごとし』と云云、またいわく『実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界』等云云、ゆえに知る事の一念三千の本門の本尊なり。服の一字は題目を顕わすなり、天台大師文の九に釈していわく『日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と声も惜まず唱うるなり』等云云。『寿命得長尊』とは持戒の功能を顕わすなり、義例隨釈第一十紙に破戒罪を明かしていわく『法身を亡ぼし恵命を失う』等云云、ゆえに知んぬ、持戒の福は寿命長存することを得るなり、あに戒壇にあらずや。まさに知るべし、仏法を行ぜんとせばまさにこの戒壇の地に住すべし、自然と本門の本尊を信じ、自然と本門の題目を唱う、ゆえに自然と是名持戒の行者なり、例せば家語に『善人と居る・芝・蘭の室に入るがごとし、久しくその香を聞かざれども即これと化す』等というがごとし、恵心の歌にいわく『山里に住めばをのずと持戒なり・実なりけり依身より依処』と云云。
三には正法とは『三種の邪正題号の下のごとし』と云云、但・正の字において三箇の秘法を含むなり、いわく正とは妙なり妙即妙法蓮華経、妙法蓮華経は即本門の本尊なり、本尊妙なるゆえに信また妙なり、信妙なるがゆえに行また妙なり、妙即正なり、ゆえに正字即題目なり玄二四十一にいわく『境妙なるをもってのゆえに智また随って妙なり、智・行を導くゆえに行妙という』と云云。およそ正とは一の止る所、ゆえに一止に从う。一は即本門の本尊、止は即止住、本尊止住の処なあった戒壇にあらずや、具には題号の下のごとし」
不老不死について
さて、ここに甘露を不死薬とし、妙法は不死薬と説かれているが、これは具体的にはいかなる意味であろか。
如説修行抄にいわく「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502-07)
この文のなかで「人法共に不老不死」の文を日寬上人は文段に「寿量品の説相これを思え、常住此不滅常住此説法と云云、御書七に云く日蓮が慈悲曠大は人なり、南無妙法蓮華経は万年の外・未来とは法なり、三世常住の利益なれば不老不死なり」と説かれている。
すなわち、日蓮大聖人の仏法こそ、末法万年尽未来際に至るまでの衆生を救いきっているがゆえに、不老不死なりと仰せらるるのである。爾前経は無量義経で「四十余年未顕真実」と打ち破っているがゆえに、爾前経は老であり、死である。また、いかに法華経が一代聖教中最もすぐれているとはいえ、末法においては、力がなくなるから、老であり、死である。ただ、文底下種事行の一念三千の南無妙法蓮華経こそ不老不死なのである。まさに大御本尊こそ不老不死ではないか。
しかして、この大御本尊を信じ、唱題する人は、不死薬を服しているがゆえに、やはり不老であり、不死なのである。その生命のなかに仏界が顕現して、諸天の働きが充満してくるのである。
不老とは、たえず若々しき生命の躍動にみなぎり、一生涯、向上していく人生こそ、不老ではないか。初代牧口会長は、七十を越えた老齢でありながら「僕たち青年は…」と口癖のようにいわれ、最後まで死身弘法の姿であった。戸田前会長もまた「青年時代に持った理想を、一生涯貫いていく人が、世の中で最も偉大な人である」と申されていた。
思うに、青年とは限りなき発展、限りなき未来、たくましき建設をはらんだ旺盛なる生命活動である。なにものをも恐れず、なにものにも左右されず、大目的に向かって、全生命よりほとはしり出ずる血潮をたぎらせて進みゆく、清純な、力強き生命活動である。この大御本尊をたもった人のみが永久に青年であり、不滅の若さを誇りうるものである。これ、不老ではないか。
不死とは、永遠の生命の覚知である。未来永劫にわたる絶対の幸福境を、ただ今の一瞬に開くのである。すなわち成仏の境涯を会得することである。これについて戸田前会長は「成仏の境涯をいえば、いつもいつも、生まれてきて、力強い生命力にあふれ、生まれてきた使命のうえに、思うがままに活動して、その所期の目的を達し、誰もこわすことのできない福運をもってくる。このような生活が何十度、何百回、何千回、何億万回と楽しく繰り返だれるとしたら、さらに幸福なことではないか。この幸福生活を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、可哀想というよりおかにない」と述べられている。この幸福境は、他のいかなるものにもこわすことができないから不老であり、また、不死の苦縛にしばられず、永遠の幸福に生きるのであるから、不死である。
また、衆生世界についても同様のことがいえる。衆生社会といえどもさまざまなものであろう。いまこれを民族を例にとり考えてみょう。再び戸田前会長の論文を引用する。
「古代エジプト人は、かの偉大なピラミットを残して衰退し、興隆をきわめたバビロン王朝にしても、ペルシャにしても、インドにしても、ゲルマン民族にしても、幾多の衰亡興隆を重ね、幾多の変遷を重ねて今日にいたっている。しかして、今日、地球上に成長発展している民族は、数えるほどしかないのである。これは、ある一種の有力な民族が中心となり、各種の民族を包含して、一民族を形成するときには、その民族が若さをもち、あるいは若さをとり戻して、隆々と発展していくのである。
中国の歴史をみても、中央の文化を形成している民族が古くなると、北方その他より、新進の民族が中央に進出して、諸民族を糾合して、新しい民族の若さを取り戻していくのである。今日、地球上において、最も繁栄をきわめているのはどこか? と問えば、誰しもアメリカ合衆国をさす。実にアメリカ国民は、建国以来、三世紀内のうちに、長足の進歩をきたし、世界の政治、経済、文化等、諸問題を中心として、発展向上しているのである。
ここにおいて、私は、衰亡の一途をたどっている民族と、興隆をきわめている民族とを比較してみて、民族それ自体の力というものを発見するのである」
しかして、われわれ居本民族が、今後隆々と発展し、真に平和国家として、文化国家として、世界、人類に貢献してゆけるか否か、私は、もし、日本の人々が、真に、三千年来、悠久たる大河のごとく、東洋民族の心の奥底をながれてきた大乗仏法の真髄にめざめるならば、日本民族の発展は絶対に間違いないことを断言しておきたい。
まさに、大聖人の仏法こそ不死薬であり、民族自体の生命を、最も強く、清らかにしていく本源であり、かつ、絶対に他から破懐されない福運を備える源泉であると確信するゆえに他の民族もまったく同じことでる。
また、国土も同様である。妙法を根底にすれば、国土も常寂光土となり、五穀は豊かに実り、草木は繁茂し、美しき景観となり、雨、風、気温等もリズム正しく、そこに住む衆生に、力と若さと潤いを与えていく国土となる。
立正安国論にいわく、「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん」(0032-14)と。
「仏国其れ衰んや」とは不老せあり、「宝土何ぞ壊れんや」とは不死である。すなわち、妙法広布の楽度こそ、実に不老不死なのである。この原理を、地球全体に及ぼすならば、いかに人類の前途は、明るく、光輝に満ち満ちたものであろうか。楽土日本の現出も、世界の恒久平和も、共に、不死薬たる妙法の力による以外にないのである。
逆に、邪法が盛んになり、妙法をおおいかくすならば、われわれの生命のなかの諸天の働きも、衆生、社会の生命の諸天の働きも、国土を守護する諸天の働きも、ことごとくなくなり、あとに残るものは、残虐非道な暗黒の世界である。されば、日本国に、全世界に一日も早く、この大白法を流布し、全民衆を潤してあげたい気持でいっぱいである。
悪趣を増長し人天を損減し生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん
悪趣とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅界等の不幸なる生命活動であり、その四悪趣のみが増大し、人間界、あるいは天上界の、平らかな、または喜びの生命活動は、ますます民衆のなかから損減していく、また民衆は、生死すなわち苦悩煩悶の六道の生活におちこみ、涅槃の路、すなわち声聞、縁覚、菩薩、仏等の四聖、真実の幸福生活から、ますます遠ざかっていくということである。
誰しも十界の生命活動が内在していることは先に述べたとおりである。それは、信心をしていようと信心していなかろうと、変わらざる原理である。だが、邪宗教に迷う人は、三悪道、四悪趣の生命活動のみ旺盛となり、自分では自分をどう御することもできないのである。不自由、束縛の世界である。たまたま喜びがあっても、それは次の挫折により、あるいは破滅により、ますます、苦悩を増長するのみである。あたかも、地獄や、餓鬼や、畜生や、修羅が、その人の生命の本質のことごとくになり、他の生命活動、人、天、声聞、縁覚等の生命活動も、ことごとくその三悪道、四悪趣に帰していくのである。
すなわちその世界が、その人の本拠であり、住所になってしまうのである。逆に、信心した人は大御本尊の仏界に照らされて、わが生命のなかに、清浄無染の力強い仏界の大生命が顕現するがゆえに、それが本拠となり、あらゆる九界の生命活動が、ことごとく帰していくのである。
されば、いかに苦悩があろうが、それらは、ことごとく次の喜び、次の発展、次の輝かしき勝利の源泉となっていくのである。信心なき人の苦悩は、苦悩のための苦悩である。信心した人の苦悩は、煩悩即菩提・生死即涅槃の煩悩であり、生死であるがゆえに、幸福のための苦悩である。されば、常に歓喜と、希望と、確信の、しみじみとした幸福感を満喫しつつ、生まれてきた目的に対して、充分なる価値活動をなし、他も利益し、自在無礙の生活をしていくことができるのである。これ真の自由であり、真の解放である。
こうした生命の変化は、生命それ自体の変化であり、意識して変わるものではない。克已等の道徳、精神修養によって変えられると思うのは間違いである。どんなにおこるまいと意識して平静を保とうとしても、どんなに嫉妬すまいと努力しても、そこにはおのずと限界がある。もとより、苦悩、怒り、嫉妬等は、人間本然の生命活動であり、それをなくすことはできない。また、いかに抑えても抑えきれるものではない。たちまちにして、それらの生命活動がムラムラと起き、百年の修行も一瞬にして崩壊し去るのである。克已は苦しく、人間性を抑圧し、しかもあらゆる人々の幸福の源泉にならないことは、明々白々であり、かっての儒教哲学の挫折が、これをなによりも、よく示しているではないか。
されば、地獄、餓鬼、畜生、修羅等の境涯におちこむや、いかにあがき、もがいても、どうすることもできない。邪宗教の害毒により、さらに生死の河に溺れ、苦悩し、煩悶しつづけるのである。これをすくいきるのは、いうまでもなく、生死を即涅槃と転換せしめる力強き大宗教でなければならぬ。
一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん
いっさいの民衆は善心というものはなく、みな利己主義に陥って、他人のことなど考えるいとまなく、獸類のような集団生活が民衆のなかに起こる。罪人は多くなって、これを縛るのに忙しく、また巷には私刑があり、残忍な殺害があり、また、激怒と激怒がぶつかり、修羅闘諍を事とし、あるいは、互いに諂い合い、罪なき人を罪におとしいれるようになるとの意味である。まことに暗黒の恐怖の世界である。
だが、この経文は、まったく大聖人の時代の世相に符合しているのである。承久の乱で朝廷方を破って、幕府権力を盤石にしたと思われた法上幕府も、内部には深刻な波乱を秘めていた。1224年、義時は謎の死を遂げている。それでも義時・泰時の代は、まだ平穏無事であった。泰時の死後、後継者問題をめぐって不穏な空気がただよってきた。泰時の跡をうけた経時は寛元4年(1246)23歳で若死、その原因についても、種々な風説がある。
経時の死とともに事態は急展開し、以後2ヶ月間、鎌倉は、激しい政争と実力行使に明け暮れた。ついに経時の弟、弱冠20歳の時頼が権力を獲得、彼は、幕府の実権を奪おうとしていた、叔父・光時らの名越氏一族、後藤・千葉らの評定衆、問注所執事三善氏らの重臣の陰謀を打ち破り、光時を出家させて伊豆へ流し、その弟の時幸を自殺させたほか、関係者多数を処分した。さらに翌宝治元年(1247)には、北条氏と肩を並べる豪族・評定衆三浦光村を、あらゆる挑発・謀略を尽くして激闘に持ち込み、三浦泰村以下の一族五百余人を、ついにことごとく頼朝の墓所の法華堂に自殺させた。いわゆる「宝治の合戦」である。ついで下総の千葉秀胤も責め殺された。こうして北条氏は、次々と豪族を倒し、比較的安定な時期を迎えた。
だが、こうした政争に明け暮れている間に、民衆は苦しい生活におちこみ、非人、乞食などが群をなして各地の河原・坂・宿にたむろしていった。しかも、立正安国の提出後に起きた災害は、極度に民衆を疲弊させ、ついに幕府は、人身売買の禁令をとかざるをえない現状となった。没落した農民は、つぎつぎと乞食の群に身を投じていった。さらにその後も天変地夭は相次いで起り、農民の不安と動揺はひとかたならぬものがあった。特に建長年間を中心に起った大飢饉や大疫病は、民衆を悲惨のどん底へ追いやった。さらに北条氏内部では、文永9年の2月、騒動等があり、また二度にわたる蒙古襲来に、人心は言語に絶するほど動揺し、錯乱した。まさに人々の生活は、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の巷を」さまようのみであった。ただあるのは、繫縛であり、殺害であり闘争であった。
平左衛門尉頼綱の恐怖政治
しかも、幕府の指導者たちの横暴は甚だしく、罪なき人を罪におとしいれた。真に民衆救済のために立ちあがった大聖人を、松葉ヶ谷で焼き打ちをはかり、伊豆の伊東へ流し、小松原で殺害しようとし、竜の口で頸を斬らんとして、佐渡へ流罪し、また、大聖人の弟子を、あるいは牢に入れ、あるいは所領を没収し、また流罪、死罪にしてしまったのであった。ついには、熱原の法難では、平左衛門尉が、諸宗の悪侶たちとたくらんで、ありもしない罪をつくりあげ、農民20数人を逮捕し、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人の首を刎ねてしまった。
大聖人滅後、平左衛門尉は、ますます、絶大な権力で専横をふるい、弘安8年11月、政敵安達泰盛を討滅した。その時、安盛と嫡子の宗景は殺され、ついで上野・武蔵一帯の有力御家人500余人が、泰盛の与党として討たれた。しかも、この合戦で、刑部卿相範・三浦対馬前司・伴野出羽入道・足利上総三郎等は、泰盛与党でないのに殺されている。この合戦は、地方にまで及び、全国的な騒動となり、特に九州では、激しい合戦となった。泰盛の子盛宗は博多で討たれ、小弐景資も、筑前の岩門城で兄の少弐経資に攻められ、同族相食む合戦ののち、多数の御家人たちとともに滅んだ。
以後八年間、頼綱による冷酷で疑い深い大殺戮が続けられ、鎌倉は恐怖の巷と化した。あたかも、彼はフランス革命後のロべスピエールのごとく、ファシズム時代の警視総監のごとく、スターリンあるいはエジョフのごとく、ベリヤのごとく、密国、弾劾、暗殺に狂奔した。その悪政のすえ、大地震が起き、鎌倉の山がくずれ、家々は倒れて死者は23024名におよんだという。
その頼綱もやがて滅ぼされ、頼綱時代の不正な裁判への不満が高まった。さらに凡下、借上といった高利貸が幅をきかせるようになり、逆に御家人の貧窮はひどく、訴訟問題が雲霞のごとく起き、ついには血を血で洗う合戦まで起きる始末であった。「沙石集」には、「上代は君も臣も仁義あり、芳心あり、末代は、父子、兄弟、親類、骨肉、あだを結び、楯をつき、問注対決し、境を論じ、処分を諍ふこと年に随ひて世に多く聞ゆ」と、弘安のころからの世相を語っている。代官はあくどい支配や横暴を重ね、悪等が横行し、海賊、山賊が充満し強盗・殺人があたりまえのごとくなった。
乾元元年(1302)12月、鎌倉に大地震、死者500名に達し、嘉元3年(1305)3月、京都に大地震、同月22日に貞時の邸宅が焼亡、翌日、連署の北条時村が突如襲撃をうけて殺された。こうして王の福運尽きた姿が、厳然とあらわれ、北条高時のごとく凡庸な執権が誕生し、また長崎高綱のごとく横暴な人物が、賄賂などを公然とやりとりし、専横の限りを尽くした悪政を重ね、ついに正中の変、元弘の乱を経て、元弘3年(1333)鎌倉幕府は、阿鼻叫喚のうちに、150年の幕を閉じた。足利尊氏は、六波羅蜜題を滅ぼし、新田義貞は鎌倉攻めを行ない、これに最後のとどめをさした。まもなく九州探題も滅びた。その最後の様は、あまりにも悲惨であった。
昭和28年(1953)の夏、鎌倉の材木座の松林に囲まれた空地で、人類学者鈴木尚博士の指導のもとに、東京大学人類学教室の人々が、三回にわたって古い人骨の出る遺跡を発屈した。発掘された人骨が少なくとも910体あり、ほとんどが男子、しかも刀剣、刺創、打僕創がある青壮男子のものであったという。博士の報告による発掘資料によれば、鎌倉陥落の惨状がいかにすさましいものであったかがわかる。「太平記」がこの合戦の死者を「鎌倉中を考うるに、総て六千余人なり」と記しているように、戦死者、焼死者の屍は無慮数千、荒廃の街に累々と横たわっていたという。
これらの姿を見るにつけ、まさに、ただ「繋縛・殺害・瞋諍」の暗黒世界であり、「互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」の暴政の連続であった。
正法にそむいた日本の国には、事実、一度も「繋縛・殺害・瞋諍」なき平和な、明るい社会は誕生しなかた。その昔、平安時代に、天台仏法が栄え、その精神が浸透し、死刑が廃止されていた一時期があった。日蓮大聖人の大仏法は、それとすら比較にならないほどの高い生命の尊厳と絶対平和思想に立脚している大哲理である。だが、ついに数百年にわたり、その大法はいたずらに無視されてきた。
日は東より出ず
しかし、あれから700年たった今日、いままさに日蓮大聖人の仏法が全世界広布を実現せんとしている。「繋縛・殺害・瞋諍」の終止符を打つのは、今日をおいてほかにない。日本はすでに、太平洋戦争の悲惨な経験をした。原爆の悲劇をいやというほど感じた、民衆の心に再び芽ばえたものは、人間の本然の欲求である。平和と幸福への願いである。
だが、戦時中、牧口初代会長、戸田前会長を投獄したごとく、さらに戦後あの昭和32年(1960)大阪府警の横暴のごとく、あるいは幾多の非難と罵声を創価学会にあびせた言論界のごとく、またかって選挙の度ごとに、罪なき善人を戸別訪問のかどで逮捕した、官憲のごとく、再び創価学会に「枉げて辜無きに及ばん」ようなことがあれば、日本国は福運をなくし、「繋縛・殺害・瞋諍」のさらに悲惨な世界を出現するであろう。私は、それをはっきりと断言できる。またそうさせたくはない。さらに、他国をみれば、依然として、そこには、幾多のいたましい世界がある。たとえば、チベットがそれである。そこには「繋縛・殺害・瞋諍」しかないではないか。日本の歴史が、過去、いまわしい歴史であったと同様、世界もまた、今日まで、否、今日もなお、悲惨な歴史をつづっている。これに終止符を打つのは、絶対に、日本しかないし、その原理は、日蓮大聖人の仏法しかないことを、私は心から叫びたい。
ジョージ・サートンいわく「結局、洪大な思想は偏狭な思想より永く生き残るであろう。また正義は不正よりも永く生きのこるであろう」と。日本の指導者にいいたい。自己保身に汲々とするのではなく、滔々と流れゆく世界の歴史を刮目してみよ。もはや、核兵器の誕生は、武力による解決がいかに非なるかを教えている。人類の求めるものは、幸福であり、平和ではないか。
諫暁八幡抄にいわく「日は東より出づ」(0589-01)と。今まさに太陽のごとき光明をもった、大正法が、この日本の国にのぼりつつあるのだ。
インドの詩聖タゴールは「私は、目を東のほうに向けている。日がすでに夜明けを迎え、アジアの最も東の地平線に太陽がのぼったのではないとだれがいえよう。私は祖先がなしたと同じように、全世界をふたたび照らすべき運命をになう東洋の夜明けに敬礼する」と。
星流れ地動き井の内に声を発し暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん
これまた、なんと日蓮大聖人の時代の世相と一致していることか。まず「疫病流行」については、建長5年(1253)、正元元年(1259)、文応元年(1260)、建治3年(1277)、弘安元年(1278)等に、それぞれ大疫病が流行し、飢饉とあいまって、おびただし数の人が死んだことは、すでにしばしばふれたところである。
彗星の出現
「彗星数ば出て」も、まったくそのとおりである。大聖人の時代には数多く出現しており、特に文永年間の初めのころが多かった。
このうち、特に文永元年(1264)7月5日の大彗星は、空前の大きさのものであった。これについて日蓮大聖人は、安国論御由来に次のごとく述べられている。
「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず、予弥よ悲歎を増長す」(0034-18)
また撰時抄には、正嘉の大地震および文永の大彗星が、いかなる意味をもつのかを、次のごとく説かれている。
「問うて云く正嘉の大地しん文永の大彗星はいかなる事によつて出来せるや答えて云く天台云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、 問て云く心いかん、答えて云く上行菩薩の大地より出現し給いたりしをば弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人人も元品の無明を断ぜざれば愚人といはれて寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたるとはしらざりしという事なり、問うて云く日本漢土月支の中に此の事を知る人あるべしや、答えて云く見思を断尽し四十一品の無明を尽せる大菩薩だにも此の事をしらせ給はずいかにいわうや一毫の惑をも断ぜぬ者どもの此の事を知るべきか、 問うて云く智人なくばいかでか此れを対治すべき例せば病の所起を知らぬ人の病人を治すれば人必ず死す、此の災の根源を知らぬ人人がいのりをなさば国まさに亡びん事疑いなきか、あらあさましやあらあさましや、答えて云く蛇は七日が内の大雨をしり烏は年中の吉凶をしる此れ則ち大竜の所従又久学のゆへか、日蓮は凡夫なり、此の事をしるべからずといえども汝等にほぼこれをさとさん、彼の周の平王の時・禿にして裸なる者出現せしを辛有といゐし者うらなつて云く百年が内に世ほろびん同じき幽王の時山川くづれ大地ふるひき白陽と云う者勘えていはく十二年の内に大王事に値せ給うべし、今の大地震・大長星等は国王・日蓮をにくみて亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたふどせらるれば天いからせ給いていださせ給うところの災難なり。」(0284-10)
大聖人は、ここに明らかに、文永の大彗星こそ、他国侵逼難、自界叛逆難の前兆と確信されたのである。やがて、文永9年の2月には、北条時宗と兄時輔と合戦があり、さらに文永11年および弘安4年には蒙古が来襲したのであった。しかもその間、文永10年の正月16日と同9月5日に彗星が出現している。
また、鎌倉幕府が衰退し、国じゅう、修羅闘争がさかまくころも、しきりと彗星が現われている。
両日の出現
「両日並び現じ」もまた、厳然たる事実である。大聖人の時代においては、文永年間だけで、文永5年(1268)5月8日、8年(1271)8月11日及び13日、11年(1274)1月23日と3回も出現している。
この文永11年1月23日は、大聖人が佐渡流罪中であり、日本史記と、この時の模様を法華取要抄に書かれた御書と一致している。
「去ぬる正嘉年中の大地震・文永の大彗星・其より已後今に種種の大なる天変・地夭此等は此先相なり、仁王経の七難.二十九難.無量の難、金光明経.大集経・守護経.薬師経等の諸経に挙ぐる所の諸難皆之有り但し無き所は二三四五の日出る大難なり、而るを今年佐渡の国の土民は口口に云う今年正月廿三日の申の時西の方に二の日出現す或は云く三の日出現す等云云、二月五日には東方に明星二つ並び出ず其の中間は三寸計り等云云、此の大難は日本国先代にも未だ之有らざるか、最勝王経の王法正論品に云く「変化の流星堕ち二の日倶時に出で他方の怨賊来つて国人喪乱に遭う」等云云、首楞厳経に云く「或は二の日を見し或は両つの月を見す」等、薬師経に云く「日月薄蝕の難」等云云、金光明経に云く「彗星数ば出で両つの日並び現じ薄蝕恒無し」大集経に云く「仏法実に隠没せば乃至日月明を現ぜず」仁王経に云く「日月度を失い時節返逆し或は赤日出で黒日出で二三四五の日出ず或は日蝕して光無く或は日輪一重二三四五重輪現ぜん」等云云、此の日月等の難は七難二十九難無量の諸難の中に第一の大悪難なり、問うて曰く此等の大中小の諸難は何に因つて之を起すや、答えて曰く「最勝王経に曰く非法を行ずる者を見て当に愛敬を生じ善法を行ずる人に於て苦楚して治罰す」等云云、法華経に云く・涅槃経に云く・金光明経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行われず」等云云、 大集経に云く「仏法実に隠没し乃至是くの如き不善業の悪王悪比丘我が正法を毀壊す」等、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起る」等、又云く「法に非ず律に非ず比丘を繋縛すること獄囚の法の如くす爾の時に当つて法滅せんこと久しからず」等、又云く「諸の悪比丘多く名利を求め 国王太子王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説かん其の王別まえずして此の語を信聴せん」等云云、此等の明鏡を齎て当時の日本国を引き向うるに天地を浮ぶること宛も符契の如し眼有らん我が門弟は之を見よ、当に知るべし此の国に悪比丘等有つて天子・王子・将軍等に向つて讒訴を企て聖人を失う世なり、問うて曰く弗舎密多羅王・会昌天子・守屋等は月支・真旦・日本の仏法を滅失し提婆菩薩・師子尊者等を殺害す其の時何ぞ此の大難を出さざるや、答えて曰く災難は人に随つて大小有る可し正像二千年の間悪王悪比丘等は或は外道を用い或は道士を語らい或は邪神を信ず仏法を滅失すること大なるに似たれども其の科尚浅きか、今当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは小を以て大を打ち権を以て実を失う人心を削て身を失わず寺塔を焼き尽さずして自然に之を喪す其の失前代に超過せるなり、我が門弟之を見て法華経を信用せよ目を瞋らして鏡に向え、天瞋るは人に失有ればなり、二の日並び出るは一国に二の国王並ぶ相なり、王と王との闘諍なり、星の日月を犯すは臣・王を犯す相なり、日と日と競い出るは四天下一同の諍論なり、明星並び出るは太子と太子との諍論なり、是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」(0336-14)
歴史上、二つの太陽が出現したという例は、少なくない。二つの太陽だけではなく、三つ、五つ、まれには七つ等と、出現する場合もある。また太陽ばかりでなく、月も二つ三つ等と出現するのである。むろん一つがほんもので、あとは幻日といわれるものである。
近年では、対象15年(1926)8月16日の夕方のこと、和歌山市の西空白雲の中に火の玉現われ、天に二日の奇観を呈したという。昭和4年(1929)1月31日の朝、本地方では太陽と並んで二つの光が現れ、あたかも三つの太陽を望むようであつたという。また昭和33年(1958)にも、長野県で二つの太陽が現われ、その写真が新聞に掲載されている。
こうした現象は、外国にもあり、ソビエトの科学界説者ヴ・ア・メゼンツェフは、次のように述べている。
「たとえば、1928年の春、スモレンスタ州のベールイ市で、珍しい暈が、実際に観測されたことがあった。朝の8時から9時頃、太陽の両側に、太陽の右と左、あざやかな虹の色に色どられた二つの太陽が見えたのである。1947年11月28日、ポルタヴァ市で、複雑な暈が月のまわりに見えた。月は光輪の真ん中にあった。光輪の上には、右と左に、にせの月が、これは幻月と呼ばれているが、見えていた。左の幻月はとくに明るく光り、尾をもっていた」
これらの現象は、いったいどうして起るのか、自然科学的な立ち場では、次のように説明されている。
まず、太陽や月にかかる暈と関係がある。暈は太陽または月の周囲に生ずる淡い光輪であり、最も普通には内暈と外暈とができる。こういう輪の中心に、コンパスの片足をすえ、ぐるっと輪をえがくと、内暈はコンパスの開き22度、外暈は46度ぐらいになる。この外に、日を貫いて地平線とほぼ平行になっているように見える白い光孤が現れる。これを幻日環という。この環と光輪の交差した場所にしばしば、強い光の斑点「幻日」や「幻月」ができるのである。
暈は、太陽が、地上から約6~8キロメートルの高さに浮かんでいる。白く光る煙のような巻層雲におおわれたときに、空に現われるものである。この雲は、ごく細かい氷の結晶からできている。この結晶の形はさまざまであるが、いちばん多いのは、柱形か板形をしたものが六方体をしたものである。この氷の結晶は、気流のなかをのぼったり降りたりしながら、太陽と同じように反射させたり、プリズムと同じように屈折させたりするのである。そのなかにある結晶から反射させた光線が、われわれの目に落ちてくる。それが暈となって見えるのである。また、地平線と平行して現われる光孤はどうして起こるか。これもまた同じ原理で、太陽の光りが、まっすぐに立った形で大気中を浮遊している。氷の六方晶体の側面に反射したときに起る現象である。
こうした結晶の反射によって、あたかも鏡のなかで電球の映像を見るごとく、太陽が実際ある場所とは違ったところに見えるわけである。
このように経文に説かれている現象が、自然科学的な立場から説明される。だが、もとより、二つあるいはそれ以上の太陽が現われた、という事実をこれで全面的に説明できたと考えるのは誤りである。あくまでも、分析と総合という科学の目からみた説明であり、その事実のある面を説いたに過ぎない。
仏法はこうした宇宙現象を、単なる孤立した現象としてのみとらえるのではなく、それと人間生命との関係性を説き、さらに大宇宙の十界を論じ、われわれの10界の生命との微妙な関係をあますところなく説いた。ここに仏法の偉大さがあり、全宇宙まで通じうる人間生命の尊さ、大きさ、力強さが説かれているのである。
これについては、すでに第二段第一章において詳しく述べたとおりである。こおでは、あくまでも経文の原理が、架空のものではなく、厳然たる事実である。
薄蝕恒無く
「薄蝕恒無く」とは、しばしば太陽や月が光を失い、日食や月食が並び起ることをいう。太陽や月が光を失うのは、もやがかかったり、塵挨が光をさえぎったり、また火山灰が成層圏中で薄い層をなして、光線を妨げたりする場合である。
最年のではあるが、ペレー・サンタマリア・コリマの噴火のあった明治35年(1902)と、カトマイ噴火のあった明治45年(1912)に、太陽の光がさえぎられたり、ビショップ・リングなどが現われ、日照量が20%近く減少し、いずれも東北地方に凶作をもたらしている。また昭和37年(1962)6月12日には焼岳が爆発して降灰させ、同6月29日には、北海道の十勝岳大噴火をし、多量の降灰を長時間にわたって降らせた。
同年8月24日には三宅島が22年ぶりに大爆発し、噴煙は5000mに達し、同島北岸の観測所では降灰が1cmに達した。翌38年(1963)3月17日には、バリ島のアグング火山が大爆発した。このためインドネシアでは、1500人もの人が、溶岩と熱い灰をかぶって死んだ。この火山灰が高く成層圏までのぼり、日射に影響を与えている。同年8月以降、アイスランド南西海岸近くでの地殻の割れ目に、海底からの火山爆発があり、このときの噴煙もかなり高度に達しており、高緯度地方の日射にかなり影響を与えたと考えられている。これらの一連の爆発が原因となり、昭和38年(1963)1月以来、数万年に一度といわれるような異常気象を示し、各地に被害を及ぼしている。
日食・月食
次に日食や月食についてであるが、まず日食は太陽と地球の間に月が位置し、そのために太陽が欠けることによって起る。正嘉元年から文応元年までの間に日食があったと記録されているのは、正嘉元年(1257)5月1日と文応元年(1260)3月1日の二度である。ただし限られた文献から見いだしたものであり、これより他にもあったと思われる。文永年間には元年(1257)7月1日、2年1月1日、3年5月1日、3年11月1日、4年5月1日、5年10月1日、7年3月1日、8年8月1日、9年8月日、10年1月1日と数多く来ている。「恒無く」の経文通り、異常なほどの発生数である。文永年間は、先にも太陽が二つ、三つ出現したとの例が頻発しており、また彗星も大彗星と呼ばれるような巨大なものが出現しており、あるいは、飢饉、疫病等が流行している。また、阿蘇山も2年(1258)、6年、8年と相次いで噴火しており、これによって異常な天候をもたらしたことも充分考えられる。
また、月食は太陽と月の間に地球がはいり、月面が地球の陰に隠れることに起こる。正嘉元年(1257)4月16日、同10月16日、翌10月16日、正元元年(1259)4月15日などが記録されている。
黒白の二虹
次に「黒白の二虹不祥の相を表わし」とあるが、これはいかなるものであろうか。まず黒虹であるが、これは普通の虹ではなく、急激な気候の変化による悪気流によるようなものではないだろうか。その実例は不明である。ただ日本気象史料に「黒気」としばしばでてくるのが、あるいはこれにあたるのではあるまいか。
白虹については、宝治二年(1249)閏12月16日(京都)、建長3年(1251)10月16日(京都)、建長(1254)6年8月10日(鎌倉)、弘長3年(1264)1月2日(京都)、弘安7年(1284)4月4日(鎌倉)、弘安9年(1286)1月30日(鎌倉)、などがあるが、この記録は京都、鎌倉のみの記録で、国内の総数では、記録が不詳のため把握ることができない。
こうした“日を貫く”とか“暈がともに出る”といった記述をみるとき、白虹というのは、いわゆる霧雨のような小さい雨滴に、太陽光線が反射してできる、いわゆる「白にじ」ではなくして、先に述べたあの「幻日環」ではなかろうか。さらにそれを証拠できるものとして、天徳3年(0960)12月9日に京都に白虹が出現したとの記録があるが、それとともに、太陽が三つ出たとの記録もある。幻日環は、暈の一つで太陽を貫いて地平線に平行してできる光孤である。それと太陽をとりまく暈と交わったところに、しばしば幻日が現われることは、前述のとおりである。
あるいは、さまざまな文献に「白気」というのがこれをいうのであろうか。「白気」とは、何であるか不明であるが、この中には悪気流のようなものではあるまいか。天保14年(1843)2月6日に江戸に「白気」があらわれたとあり、続徳川実紀、玉来雑記、続泰平年表では皆「白気」と記述しているのに対し、武江年表には「六日夜より、毎夜西南方の方へ白虹顕る」とあり、同じ現象を「白気」「白虹」と表現している。
これから判断せれば、いわゆる一般の「白にじ」も白虹であり、「幻日環」も白虹であり、ときには「白気」と表現される、何か悪気流のようなものの白虹であるとして、あまり区分なく用いられたとも考えられる。
星流れ=流星
「星流れ」はいうまでもなく流星である。建長年間から文永年間に至る間に、この記述は極めておおいため、これを略す。
地動き井の内に声を発し
次に「地動き」とは、地震や地すべりのことである。これは正嘉の大地震等しばしば述べたところである。「井の内に声を発し」とは、地殻の変動に関係する現象と思われる。地震が起きると、井戸水や温泉の湧水量が急に増減したり、濁ったり、水温が変化したり、または、遠雷や大砲の音のような音を発することがある。こうした音は、短周期の地震波が、空気を振動させることによって生ずつものである。「暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」とは、第一段第一章において論じたごとくであり、まさにこの金光明経の文は、まったく、寸分も狂わず、大聖人の時代に現れているのである。ただ一回の流星とか、一回の彗星とか、そんなものではない。経文に説かれた、あらゆる悪相が、ことごとく並び起っているのである。経文は、けっして遠くの世界にあることを説いているのではない。現実のなかに、それはことごとくあることを確信すべきである。
仏法の予言
不思議なことである。釈尊と日蓮大聖人とは二千年間の隔たりがある。その経文と日蓮大聖人との間には、まったく隔たりがないのである。経文の文々句々は、ことごとく大聖人の身に、また大聖人の時代の思想に、厳然と現れている。これほど偉大なことがあろうか。これほどすばらしいことがあろうか、仏にあらずんば、誰人が、二千年後の未来を予言できるであろうか。いわんやそれを寸分もたがえず的中させうるであろうか。これ、仏法こそ生命の奥底の真実を説ききり、かつは、大宇宙の鉄則をあますところなく説き窮めた証拠なりと確信してやまない。
およそ、科学の的中ほど、その法則なり、学説の偉大さを証明するものはない。ましてや、その予言、それが自然科学上の予言であれ、社会科学上の予言であれ、また生命の科学ともいうべき宗教的予言であれ、その根底には深遠な理解力と洞察力が必要なことはいうまでもない。
その期間の長さといい、スケールの大きさといい、仏法で説かれた予言ほど偉大なものはない。西洋のキリスト教や、マルクス・レーニン主義などの予言は、みんな、ほとんど的中せず、仏法の予言には足元にもおよばないものである。
大集経に説かれている五五百歳
釈尊は、三ヶ月後の涅槃を知り、また付法蔵に予言したことも、ことごとく的中し、大集経の五箇の五百歳も、また、安国論に引用されている四経の明文に説かれた予言も、さらには、法華経勧持品、その他涅槃経に説かれた、御本仏出現の際の末法の世相も、寸分も狂いなく事実となって現われている。
まず、大集経の五箇の五百歳についていえば、釈尊は、自分の滅後を次のように五百年ごとに区切っている。
第一の五百歳──解 脱 堅 固─┬─正法千年
第二の五百歳──禅 定 堅
固─┘
提三の五百歳──読誦多聞堅固─┬─像法千年
第四の五百歳──多造塔寺堅固─┘
第五の五百歳──闘 諍 堅
固───末法の初め
この大集経の予言と、インド、中国、日本の三国における仏法流布の歴史とを照合すると、ぴったりとあてはまっているのである。
①正法前五百年(解脱堅固)
解脱堅固の時とは、釈尊滅後五百年において、衆生が小乗経を修し、戒律をたもって解脱を求めた時代である。滅後正法千年は付法蔵二十四人が正法を弘通したが、摩訶迦葉から不法蔵第十の富那奢までは小乗経をひろめたのである。迦葉二十年、阿難二十年、商那和修二十年、優波崛多二十年、提多迦二十年の最初百年は、まったく小乗経のみをひろめ、弥遮迦、仏駄密多、脇比丘、富那奢等は、大乗経の法門は少しは含めたが、大部分は小乗経を表として弘通した。この解脱堅固の時には、四回の仏典結集があり、阿闍世王、阿育王、迦膩色迦王の守護のもと仏法が興隆した。
②正法後五百年(禅定堅固)
この時代は権大乗がひろめられ、衆生は大乗を修して、深く三昧に入り、心を静めて思惟の行を行なった。付法蔵第十一の馬鳴から二十四の師子尊者に至るまで大乗をひろめたが、特に諸小乗を破し、大乗を宣揚した論師に、馬鳴、竜樹、無著、天親などがいる。馬鳴は仏滅後六百年ごろに出て、大乗起信論を著わし、滅後七百年ごろに出た、竜樹は大智度論百巻、中論四巻、十二門論一巻等を著わした。その弟子提婆も百論二巻を著わしている。滅後九百年ごろに出た無著・天親の兄弟は、無著は摂大乗論三巻、瑜伽師地論百巻等を、天親は千部の論師として摂大乗論釈、唯識三十論頌など小乗五百部、大乗五百部を著わして、大乗の教えをおおいに称揚したのである。
③像法前五百年(読誦多聞堅固)
この時代で、まず特質すべきことは、後漢の明帝の永平十年(0067)に仏教が中国へ渡来したことである。これをきっかけとして、読誦多聞堅固の名を示すとおり、経典の本訳事業や講説、解釈などが盛んに行われた。ばルチアの太子であった安世高、月氏国の支婁迦識や唐僧鎧、支謙など、本訳にたずさわる人がふえてきた。敦煌出身の竺法護は、優秀な助力者とともに正法華経等百五十四部三百九巻の経典を訳した。
このようにして盛んになってきた経典翻訳は、鳩摩羅什にいたって頂点に達した。羅什はそれまでの誤訳、抄訳の多かったものとは比べものにならない完全な訳を数多く行ない、なかでも珠玉のごとき名訳といわれているのが妙法蓮華経である。羅什以後、法顕、仏陀跋堕羅、曇無識、真諦、玄奘などが出ている。
この時代のおわりころ、538年、荊州で生まれた天台大師は、南岳大師に師事して法華の奥義を悟り、瓦官寺に八年間住して、大智度論などを講義した。その後、有名な文句、玄義、止観を講述して、理の一念三千の法門を立てた。読誦多聞堅固は、このように多数の翻訳と天台大師の現代に代表されるが、その他、仏図澄、道安、羅什などにより、おおいに仏教講義が行われた。
④像法後五百年(多造塔寺堅固)
唐代にはいり、玄奘がインドから経典を持ち帰り漢訳した。以後、法相宗、三論宗、華厳宗、真言宗が中国全土にひろまり、多くの寺塔が建立された。そのため、この像法時代は形だけは正法時代と似ていたようだが、内容的には仏法は堕落していった。やがて唐朝は衰亡していった。北宋の時代にはいって、太宗は詔勅を出して廃寺を修治し、仏像の造立を許し、阿育大王の造塔にならって八万四千の塔を造立した。しかし、仏法の中心は日本に移り、この時代の特徴は、むしろ日本において顕著にあらわれている。
552年、すなわち仏滅後1500年ごろ、人王30代の欽明天皇の代、百済の聖明王の使者により経論、釈迦像、僧尼等が献上された。仏教伝来以来、本格的に信奉されるようになったのは、聖徳太子の時からである。太子は勝鬘経、維摩経、法華経の義疏を顕わし、この三経を鎮護国家の法と定めて、篤敬三宝を根底とする十七条憲法を制定した。このころから造寺造仏が盛んになっている。崇峻天皇天皇から推古天皇時代にかけて建立された飛鳥寺、太子建立の七大寺といわれる四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、峰丘寺、池俊寺、葛木寺などが有名である。
その後、奈良時代にはいり、聖武天皇は仏教を重んじて諸国に国分寺、国分尼寺を建て鎮護国家の道場とし、総国分寺として東大寺を建立した。またこの時代に、苦労して来日した鑒真小乗の戒壇を建立している。平安の桓武天皇の代には、伝教大師が南都六宗を公場対決で破って、812年に叡山に迹門の戒壇を建立した。
⑤末法始五百年(闘諍堅固)
これについては、第一段第一章に詳論したとおりである。宗教界の乱脈、民衆の無智につけこむ迷信の横行、人心の極度の動揺、血なまぐさい殺戮につぐ殺戮の歴史、はては親兄弟同士が互いに戦い、殺し合う、三悪道、四悪道の巷、三障七難が荒れ狂い、呆然としてなすすべを知らぬ民衆 これが、末法の初めの五百年の世相であった。
末法の御本仏出現
しかしながら、この乱れきった時代にこそ、その衆生の闇を晴らすべく、末法の御本仏が出現し、太陽のごとき大正法が流布することも、法華経の厳然たる未来記である。勧持品の三類の強敵といい、あるいは神力品の別付属、薬王品の広宣流布の金言にせよ、ことごとく、大聖人の出現と大正法の流布への絶対の確信がこめられている。されば、像法出現の天台にせよ、妙楽にせよ、伝教にせよ、末法を恋い慕い、大正法にめぐり会えることを心から願求しているのである。もしも大聖人の出現がなければ、釈尊の未来記はことごとく虚妄となり、天台、伝教の言もむなしいものとなろう。
大聖人は、仏の金言を証明しているのは、自分以外に絶対はきことを諸御書に経文を引き、釈を示し論をあげて、宣言されている。
「疑つて云く何を以て之を知る汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云うことを、答えて云く法華経に云く「況んや滅度の後をや」又云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」又云く「数数擯出せられん」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」又云く「杖木瓦石をもつて 之を打擲す」又云く「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」等云云、此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに予よりの外には一人も之無し、時を論ずれば末法の初め一定なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん、難じて云く汝は大慢の法師にして大天に過ぎ四禅比丘にも超えたり如何、 答えて云く汝日蓮を蔑如するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり、我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり、然りと雖も日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈大悪人に非ずや」(0507-10)
「而るに日蓮二十七年が間.弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、 同文永八年辛未
九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし、日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」(1189-13)
これは、日蓮大聖人こそ、経文どおり出現した末法の御本仏であることを断言された、明らかな御文である。しかして、大聖人はいたるところで「一閻浮提第一の聖人」といわれ、下山抄には「教主釈尊より大事なる行者日蓮」と仰せられ、また、法華経その他で、釈尊を一劫の間、身口意の三業で供養するよりも、末法の法華経の行者である日蓮大聖人を、継母が継子をほめるがごとく、戯論の一言でも、ほめ、供養する功徳が百千万億倍すぐれているとまでいわれているのである。
大聖人御在世中における予言的中
されば、日蓮大聖人の御予言は、在世中においても、滅後においても悉く的中しているのである。撰時抄にいわく「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり」(0287-08)と。聖人とは、将来に起るべきことを知り、それをどう対処すべきかの方途を知られた方であり、さらに、過去、現在、未来の三世を通暁して誤りなく、遠き未来を見通される方をいう。
しかして、さらに「余に三度のかうみようあり」と述べられ、幕府に対し、三度にわたって国諫をなし自界叛逆と他国侵逼の二難の予言が的中したことをあげられている。すなわち、日蓮大聖人こそ未萠を知り、三世を知られた聖人であることは明白なのである。
三度の高名とは、まず第一に、文応元年7月16日に立正安国論を北条時頼に奉った時に、宿屋入道に対し、自界叛逆と他国侵逼の二難を明言された。種種御振舞御書にいわく「去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応元年庚太申歳に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ、此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん、賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし」(0909-01)と。
仏の未来記とは、いうまでもなく正像末の三時にわたる予言である。安国論はその「仏の未来記にもをとらず」と確言されているのである。また安国論奥書にいわく「此の書は徴有る文なり」(0033-06)と。
第二に、文永8年9月12日、竜の口の法難の際、平左衛門尉に向かって界叛逆と他国侵逼の二難のあることを断言された。その時「遠流.死罪の後.百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし」(0911-11)と厳然と戒められたのである。
その予言のどうりに、佐渡御流罪後、100日目の文永9年2月11日に北条時輔を誅殺するという内乱が起き、同じく3年後、文永11年10月と、さらに7年後の弘安4年7月には、元の大軍が襲来し、大戦乱となったのである。
特に自界叛逆について佐渡御書にいわく「宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、薬師経に云く「自界叛逆難」と是なり、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云、金光明経に云く「三十三天各瞋恨を生ずるは 其の国王悪を縦にし治せざるに由る」等云云、 日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼て知るによて注し置くこと 是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず、日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし纔に六十日乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし 実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん」(0957-13)と。
今年とは文永9年であり、いわゆる二月騒動である。日妙聖人御書にいわく「当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏ならず」(1217-)と。この合戦もまた同じ事件である。
第三に文永11年4月8日平左衛門尉頼綱に面会のおり、頼綱が蒙古がいつ攻めてくるのかと大聖人に尋ねたのに対して、今年こそ攻めてくると断言され、そのとおり的中し、その年の11月に蒙古軍が押し寄せてきたのである。
撰時抄にいわく「去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、 予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも 今年はすごし候はじと語りたりき」(0287-)と。
滅後における予言の的中
さらに日蓮大聖人の滅後においても、その予言はことごとく的中している。第四段第三章に詳論することにするが、大聖人をさんざんに迫害した平左衛門尉は、大聖人滅後12年にして一族が滅亡したのである。そのいきさつについてはここでは略すが、あれほど栄耀繁栄をほしいままにした平左衛門尉の末路はあまるにも悲惨であった。
日寬上人は平左衛門尉が首を斬られたのは、日蓮大聖人の顔を打ったゆえである。最愛の次男が首を斬られたのは、大聖人の御頸を刎ねんとしたゆえである。長男が佐渡へ流されたのは、大聖人を佐渡へ流したゆえであると仰せである。
大聖人は、すでに建治三年の下山御消息に「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き散して散散にフミたりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」(0363-01)と仰せられていたのだった。
その頃の平左衛門尉の表面は権力絶大であり、華やかであった。だがその時の大聖人は、平左衛門尉の本質が、ただ滅亡に向かう生命の本質であることを見破っておられたのである。また、文永9年2月、鎌倉において、北条一門の同仕打ちがあったが、これを大聖人は華報とされ「実果の成ぜん時いかがなげかわしからんずらめ」と心配された。だが、大聖人滅後52年にして、元弘3年5月22日、北条一門はことごとく滅亡し、鎌倉幕府はここに倒壊し去ったのである。
さらに大聖人は末法の御本仏として広宣流布の未来記を厳然とのべられている。
日蓮大聖人の御本仏としての御確信
しからば、その末法の御本仏の未来記いかん。顕仏未来記にいわく「問うて曰く仏記既に此くの如し汝が未来記如何、答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508-10)と。
すなわち、大聖人の仏法は、日本に広宣流布し、のみならず、日本より起こった、この仏法が、必ず西へ西へと滔々と流れてゆくことを予言されているのである。この顕仏未来記は、大聖人が佐渡の地において認められた御書である。この予言をばいかに大聖人が、絶対の確信をもって述べられているかは、佐渡流罪の大聖人の御生活と対比してみるときに、いよいよ厳然としてくるのである。
佐渡での大聖人の御生活は、われわれ凡夫の立場でいえば、さながら地獄のどん底であり、苦悩の極致であった。佐渡は厳寒の地で、一度流されれば、生きては帰れないといわれていた。流罪のなかでも最も重刑である流罪であり、まさしく死罪も当然であった。江戸時代に松尾芭蕉が「荒海や佐渡に横たう天の川」と俳句にうたったのも、実に、佐渡に流された囚人を遠く慮って歌ったものであるという。ましてや、700年前のこと、おそらく当時、佐渡の国といえば、京、鎌倉に住む人には、遠い遠い未知の世界のようにすら思えたのではあるまいか。冬の寒さは、ひととおりのものではない。住まいといえば、死人を捨てるような場所に、寂しく立っている一間四面の堂にすぎなかった。それも天井は板間が合わず、また、すきま風がびゅうびゅう吹き込んでくるような、大変なあばら家であった。
食べる物とてなく、着る物も満足でない。また火の気のないところで、北国の厳寒をすごされる大聖人の御境涯は、想像にあまりあるではないか。また、監視もきびしく、御弟子方が大聖人のもとにゆくことも至難のことであった。
「同十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ、十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず 心細かるべきすまゐなり、 彼の李陵が胡国に入りてがんくつにせめられし法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて面にかなやきをさされて 江南にはなたれしも只今とおぼゆ」(0916-04)
また「かくて・すごす程に庭には雪つもりて・人もかよはず堂にはあらき風より外は・をとづるるものなし」(0917-10)
あらに、念仏の僧たちは、大聖人の命を虎視たんたんとうかがい、あらゆる挙に出ようとしていた。大聖人の命は、危険にさらされ、もはや、いつ殺されるかもしれぬ状態であった。一方、迫害の魔の手は、鎌倉にいる弟子たちにものびていった。所領を没収される者、子に危害を及ばされる者、牢に入れられる者等が続出した。あまりのつらさに、ひるむ者も出始めた。
だが日蓮大聖人は、一歩も退かなかった。もとより、大聖人には、世間的な罪など一度もなかった。ただ全民衆の幸福のために、一身を投げ打たんとして立たれた正義の戦であった。難があればあるほど、偉大な御本仏としての大確信の上に立たれ、弟子を励まされた。大聖人の御行動は、まさしく師子王の姿そのものであった。文永9年正月、有名な塚原問答が行われた。集う邪宗の僧は数百人、「越後.越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師等なれば…」(0918-03)とあるように、北陸地方、奥州地方一帯の僧が、大聖人との問答に駆けつけてきた。しかし、大聖人の獅子吼ひとたび響いて、百獸おののき、邪宗の僧百千万ありとも、大聖人の一刀のもとに屈服してしまったのである。
また、このような御境遇になんと多くの御書を執筆なされたことか。生死一大事血脈抄、草木成仏口決、祈禱抄、諸法実相抄、如説修行抄、顕仏未来記、佐渡御書、当体義抄等、38種もの現存せる重要な御述作があり、なかんずく日蓮大聖人の骨髄たる人本尊開顕の書たる開目抄、および法本尊開顕の書たる観心本尊抄は、これらの御述作の赫々たるものである。
「佐渡の国は紙候はぬ上…」(0961-07)とあるように、紙や墨、筆さえ充分にない佐渡流罪中のわずか二年数か月に、これほど多くの、かつ重要な御書を著された。その御境涯は、まさに光輝に満ち満ち、とうていわれわれの想像におよばぬところである。
その内容もまた、巌のごとき御本仏の御境涯、広宣流布の絶対の御確信に満ちている。開目抄下にいわく「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232-05)またいわく「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」(0237-11)
これが、極寒の真冬に、雪中にしるされた御文であると誰が想像できようか。まさになにものをも恐れず、ただ全民衆の幸福のためを思う一念に徹せられたお姿ではないか。
如説修行抄にいわく「天下万民・諸乗一仏乗と成つて 妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(0502-06)
諸法実相抄にいわく「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360-09)
おそらく、当時の大聖人の御境涯を知らない人が、これらの御文を読めば、広宣流布は順調に進み、あたかも旭日のごとき勢いを想像するにちがいない。日本人の大半の人が、大聖人に帰依したのではないかと思う人もあるであろう。だが、事実は、まったく違い、まさしく絶対絶命の境涯にあったのである。このさなかに「大地を的とするなるべし」とまで、絶対の確信をもって叫ばれている広宣流布の予言は、ただごとではない。これひとえに、大聖人の今日あるを知っての言々句々であったことを痛感するのである。
顕仏未来記の「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508-11)との未来記も、700年前の日本国の現状を考え、かつは日本国の広宣流布すら思いもよらぬ、当時の情勢をかんがみ、御本仏にあらずんば、絶対に叫べぬ御予言である。
世界広布の大宣言
さらに観心本尊抄にいわく「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254-09)と、一閻浮提とは、現代語に訳せば全世界を意味する。なんと偉大な御確信であろうか。大海原をもってしても、たとえることのできない雄大さ、広さではないか。
また、大聖人が佐渡から帰られ、身延に籠られてからの御生活もまた大変なものであった。あの身延の深山の中に籠られた御境涯を知り、また、当時の、幕府の横暴、迫害のいまだ苛烈をきわめている時に、どうして広宣流布を断定できようか。だが大聖人は、建治2年に著された報恩抄において「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(0329-03)と、大正法が、末法万年尽未来際までも流布し、全民衆を苦悩の底より救いきることを、かくまでも大確信をもって叫ばれているのである。横には、全世界を包含し、縦には、この地上から永久に悲惨の二字を抹殺せんとの、この叫びこそ、大宇宙に響き渡る呼号であり、三世諸仏の皆是真実と証明するところである。だが、当時の人々には、この御本仏の心境をいささかも理解できるはずがなかった。
大聖人が広宣流布を予言されてから、すでに700年、もしも、創価学会の出現がなく、永遠に時が過ぎ去ってくならば、ついに日蓮大聖人の予言は虚妄となるところとなったでろう。
御在世中においては、「余に三度の高名あり」と申されて、大聖人のいわれたことは、ことごとく虚妄でないことを身をもって示された。だが、後入滅後の未来の広宣流布の予言は、むなしく崩れ去るところであった。もししからば、釈尊最高の法華経の予言も、三世諸仏の証明も、天台の出現も、伝教の出現も、なんの意味もなくなるところであった。
しかるに、この予言を虚妄にすることなく、日本の広宣流布のために、さらに世界広布の実現のために創価学会は立ち上がったのである。すなわち、創価学会の今日の姿こそ、大聖人の予言が絶対に正しかったことを示す証拠ではないか。
されば、創価学会の出現は偶然ではなく、またその行動は、御本仏の未来記をあらわすものであり、大宇宙に合致したものであり、時代の要求であり、全民衆の心から渇仰するところである。私はいいたい。創価学会の行くところ、歓喜に満ち満ち、創価学会の行くところ、新しき建設があり、新しき文化が栄え、幸福と繁栄と平和が築かれること、明鏡に照らして断言するものである。
第三章 経証の二 大集経 (0018-13~0019-03)top
大集経には「正しい仏法が隠没すれば、髭や髪・爪を皆だらしなく伸ばし、貪・瞋・癡の三毒が強情になって、世間の諸法も忘失するであろう。其の時、空中に大きな声があって、地が震い、地上の一切のものがあたかも水車の回るがごとく動転する。城壁は破れ落ち、人家はことごとく破れ崩れ、樹木の根・枝・葉・華葉・果の薬がなくなってしまう。ただ浄居天という天界を除いて、欲界の一切の七味三精気が尊減して生命を養うことができなくなる。幸福をもたらすもろもろの善論も、一切失われてしまう。わずかに生じる華果も味もまずく、あらゆる井戸や泉や池もことごとく乾いて、土地はすべて荒れ地となり、地割れがしてでこぼこになってしまう。諸山は皆焼けて雨は降らず、食物の苗もみな枯死し、生ずるものは皆枯れ尽きて余草も一切生じない。大風が吹いて土を巻き上げてふらし、そのために空は暗くなって月の光も見えない。 |
講義
大集経においては、仏法が隠没すればいかなるとが起こるかが説かれている。
仏法の乱れが、実に一切の乱れ、不幸の根源であるがゆえに、まず「仏法実に隠没せば」との文が最初にきているのである。
仏法実に隠没せば
今日、日本および東洋をみるに、寺も多く僧侶の数も少なくない。宗派は多数あって、一見、仏法はまだ盛んであるかのように見える。しかし、これは、単に仏教の形骸が残っているにすぎない。僧侶は葬儀と法事にのみ必要なものであって、墓番といってもさしつかえないほど、仏法上、有名無実の存在である。社会的にもなんら貢献するところがない。みずから確固たる思想もないがゆえに民衆を指導し、救済する等ということは思いもよらない。一種の乞食であり、社会的には、社会の反対給付のない居候同然であり、さらにいえば寄生虫のごとき存在である。
乞食といえば、本来は釈尊の時代に、乞食の行といって威厳のある行であった。民衆をして布施の志を起こさしめて、善根を植えしむるのであった。されば乞食の行をするときには衣を整え、威風堂々と師子王の歩みをなして家々を訪れ、あえて礼をとらず一鉢を差し出すのである。訪れた家では、その鉢へ食物を入れるのである。もし家人が振り向かないときは、錫杖を鳴らして気づかせるのである。食物の布施を受けても礼をいうこともなく、くるりときびすをめぐらして、威風堂々と帰るのである。
そして、川辺に至って、手を洗い口をすすぎ木の下に帰って、飢饉の時にわが子の肉を食うがごとき思いをなして、量の多少、味の良し悪しを絶対に考えることなく、感謝して食するのである。かかる気持ちがあったとしても、乞食の行は釈迦時代の遺物があって、今日の仏法の修行ではない。しかし、この修行ですらできない悪侶の充満しているのが、今日の仏教界の状態である。自分の利益のみをむさぼるように追い求め、自己保身にやっきとなっているのである。ただ形式的に経を読み、寺があり、僧侶がいるというにすぎない。その経すら末法の民衆を指導し救済するものではなくて、むしろ邪道に堕するものである。いわんや最近では、観光化し、見世物化・営業化した寺院も少なくない。これ「仏法隠没」といわずして何であろうか。
さらに、既成仏教の頽廃は、今日のごとき、いかがわしき邪宗教の氾濫を惹起したのであった。彼らは互いに利害のために手を結び、創価学会の折伏を必死になって食い止めようとしている。だが所詮、彼らの策動は、あたかも大風の前の塵のごとくはかなきものであり、あがけばあがくほど、還著於本人の方程式どおり、自分自身を必死に追いやるのは必定である。
まことに仏法の真髄は創価学会にしかない。その活動をはばむようなものがあれば、それこそ仏法を破滅させる魔の姿であり、もし、かってのごとくあえて国家権力をもって、阻止しようものならば、終戦後のように「仏法実に隠没せば」の経文が、たちまちに眼前に展開され、民衆の苦悩の深淵のなかへと進ませる結果となろう。やがて、再び国は滅び、悲惨の極地に至ることも、経文に照らし、大聖人の御文に照らし、あまりにも明らかである。
鬚髪爪皆長く
これは、風俗の極度の紊乱を意味する。およそ色法と心法とは不二である。風俗の乱れは、実に人々の心の乱れである。人間が身だしなみを整えることは、自然の姿である。だが心が阿修羅のごとく、餓鬼道のごとく、また地獄の苦悩に沈むとき、それ相応の姿となる。まさに鬚髪爪皆長くという姿は、古来、法滅の相としているゆえんである。
日寬上人の文段には、これは、三毒を増長をたとえるものであるとして次のように仰せである。
「問うていうには、この鬚髪爪の三つの表示はいかなる意か。答えていうには、一義には、これは三惑増長を表わす。すなわち髪とは見思惑。鬚とは塵沙惑。爪とは無明惑。真言ではこれを三妄執という。すなわち麤妄執、細妄微、微妄執である。今いわく、もし当分にあたっては、恐らくは、鬚髪爪皆長くとは三毒増長を顕すか。すなわち髪は貪を表わす。見て愛を生ずるゆえである。爪は瞋を表わす。堅利なるゆえである。鬚は癡をあらわす。要覧上には次のようにある。『その好形を毀ち鬚髪を剃徐する。過去の諸仏は即ち発願していうには、今落髪ゆえ、
願わくは一切衆生の煩悩を断徐せんと、今この鬚髪を彼の煩悩にたとえる』等云云。いま下の経文にいうには、貧瞋癡倍増して等と云云。これ思うべきである」と。
かくのごとく、一義には髪は見思、鬚は塵沙、爪は無明の三惑をあらわすといい、また一義には、髪は貪り爪は瞋り、鬚は癡の三毒をあらわすともいう。本来、髪や鬚や爪は、おしゃれのポイントであり、これらを極端に飾りたてることは、仏弟子にあらざる妄執である。逆に、これらをだらしなく伸ばすことも、また風俗の乱れ、心の乱れにほかならない。ゆえに、鬚髪爪をもって、三惑、三毒にたとえられたのである。
今日の風俗の乱れは、まことに目にあまるものがある。目的観の喪失、既存の体制、既存の道徳に対する不信と疑惑は、人々に深刻な精神的動揺と混乱をもたらしてしまった。多くの人は、あせり、あがき、そしてやがてその心を紛らわさんがために、刹那主義に流れ、ほんのわずかな時間の亨楽にふけるのである。あらゆる人間の作品は、人間の心の所作である。されば今日の文学にせよ、絵画にせよ、音楽にもせよ、そうした民衆の心を強く反映しているのである。文学も、今後数百年にわたって、民衆の心の中に流れゆくような生命をもった作品は皆無に等しく、いやずらに民衆のあせり、あがき、頽廃的な風潮に迎合し、それをむしろ助長するがごときである。いわんや一般の言論界の悪幣はいうまでもない。絵画は、神経質な、また錯綜し、混乱した人間感情のあらわれのごとく、音楽もまた、民衆に喜びときぼうと潤いを次への建設の力を与えるものではなく、ただ、本能的興奮や焦燥と頽廃のリズムにひたり、または亡国の哀音をかなでている。
御書にいわく「音の哀楽を以て国の盛衰を知る詩の序に云く治世の音は安んじて以て楽しむ其の政和げばなり乱世の音は怨んで以て怒る其の政乖けばなり亡国の音は哀んで以て思う其の民困めばなりと」(0088-17)。
諸法も亦忘失せん
これは、思想の乱れ、道義の頻発、国法の乱脈である。すなわち、民衆の心を善導すべき確固たる思想もなく、また、民衆の道義は、もはや地に落ち、心は極度に疲弊し、不安と焦燥と頽廃のムードが一国にまなぎっている。そして、国法においては、戦争否定の平和憲法は、いたずらにふみにじられ、また、幾多の悪法の樹立を試しみる、陰険な策謀等等、善法を骨抜きにし、悪法を横行させんとする動きがあるではないか。これ、民衆の幸福を奪い、民主主義を略奪する以外なにものでもない。
ここに、真に正しき思想を民衆の心に植えつけ、人間革命を教え、善法を擁護し、悪法を挫くのでなければ、いかなる世相が現出するであろう。けっして過去の悪夢を忘れるべきでなく、また悲惨な諸外国の民衆の苦悩を遠くに思うべきではない。
当の時虚空の中に大なる声あつて地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん.城壁破れ落ち下り屋宇悉くヤブれ圻け樹林の根.枝・葉.華葉・菓・薬尽きん
この文について日寬上人は次のように述べられている。
「註にいわく『天雷地に徹してその輪転ずることなお水草のごとし』と云云、健にいわく『昔・天狗流星というもの響き亘りてありけり』と云云、弘の五の中三に『天狗流行し地数ば振動す』と文、健の意はこの文に依るか、この義大旨に応うなり」
すなわち、ここに「天狗流星」、「天狗流行」とあるが、これは、あるいは隕石ではあるまいか、先に火球としてしめしたのがこれであるとも考えられるのである。
ロシアの昔話では、火球を「空をかけるゴルイヌイチという火をはく巨大な竜」として語られている。一例あげると、1091年の年代記には「…空から巨大な竜が落ちてきた。人は皆ふるえあがって驚いてしまった。その時、大地にぶつかる大きな音がとどろきわたり、多くの人々の耳をつんざいた」と書かれてあるとのことである。
中国では、これを天狗と考えたのではあるまいか。
したがって「天雷地に徹し」とは、火球が落ちたことを意味するのであろう。また「虚空の中には大なる声あって」とは、前述のごとく火球が消えるときに、爆発が、砲撃のような強烈な打撃音が起こり、雷鳴を想わせるような轟きが聞こえるが、このことではあるまいか。この時、地震のように、大きく大地がゆれ動くことは事実である。
先に1908年にシベリア北部の森林に火球が落ちた例をあげたが、その時に森林は、広い地域にわたってなぎ倒され、破懐されてしまった。落下地点の近くにいた人々は、爆風ではねとばされたのである。また大地は、全世界にわたって地震のように感じられたほど、大きくゆれ動かされた。爆発の音は1km以上離れたところでも聞くことができたとのことである。
遠き古代においては、きわめて巨大な隕石が盛んに落ちたとも考えられる。中国等においても、その隕石が発屈されている。
だが、今日では、この一節はむしろ地震のことであると考えてよかろう。なぜならば、今日に至るも、否、今日さらに地震はきわめて恐ろしいものである。
この場合「虚空の中に大きな声あって」とは、しばしば遠雷のような地鳴りがすることは、各地で体験されているが、このことと考えてよかろう。
最近では、昭和40年(1965)から長野県・松代町で起こっている一連の地震に際して、無気味な地鳴りが絶え間なく響き、住民を不安におとしれたことが報道されている。この立正安国論を勘え始められる動機の一つとなった、正嘉元年(1257)8月23日の大地震について、吾妻鏡は、次のように記している。「二十三二日、乙已、晴、戌刻、大地震、有音…」と。また、翌2年12月16日の地震については「天晴、寅を雷鳴と勘違いして、このように記されたものとも考えられるのである。「地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん」とは、きわめて大きな地震である。関東大震災のごときものか。あるいは、さらにその倍も、三倍も激しいものであろうか。いずれにせよ凄惨な光景である。
地震があると、眼前にすさまじい光景が展開される。石の山に変わった家、山くずれ、土砂で埋められた河底、大地の深い亀裂、あらゆるものを灰にしてしまう火事、被害者の死骸等々と。また津波の被害も大きく1755年にリスボンでは、30mあまりの高さの津波が岸を襲い、60000人の人を水に沈め、何百という建物を崩壊し去ったのであった。
また、地震や風水害等の天変でなくとも、最悪の人災たる戦争により「城壁破れ落ち下り屋宇悉くヤブれ圻け樹林の根.枝・葉.華葉・菓・薬尽きん」という惨憺たる様相となる。第二次世界大戦における、あの目もあてられぬような、破懐し尽くされ、焦土と化した欧亜の世界、また、原爆直下の広島、長崎の、地獄絵図、これらのかっての事実は、まさしく文のとおりではないか。
唯浄居天を除いて欲界の一切処の七味・三精気損減して余り有ること無けん
これは、一切の民衆が楽しむべき生活がなくなるということである。今日、物価は上昇の一途を辿っているにもかかわらず、一般の人々の所得の上昇は、それに追いつけず、相変わらず、苦しい生活を続かているのは、まことに嘆かわしい。日本はまだしも、インドや東南アジアの国々の一般民衆の生活にいたっては、乞食同然である。また、太平洋戦争中の極度に追い詰められた生活は、この文のとおりであった。それに比較すれば、現在はまだ、無事平安ともいえよう。だがもし「仏法実に隠没せば」再び、われわれは、楽しみも、潤いもない、殺伐たる時代へと没入し、あるいは飢餓の死線をさまようことにもなりかねない。まことに恐ろしいことではないか。
「唯浄居天を除いて」の浄居天とは、大集経に説かれているが、法華経の立場からいえば「大火所焼時、我此土安穏」の仏国土と考えるべきである。
「三精気」とは、衆生精気、地精気、法精気のことである。まず衆生精気とは、人間、社会それ自体の生命力であり、一国の興亡、民衆の盛衰を決する、根本の生命力である。その生命力が極度に衰えてしまうというのである。これ、方便品に「五濁」とあるなかの衆生濁にあたるものである。この衆生社会全体の生命力の損耗は、実に一人一人の人間生命の濁りによるものである。私利私欲にふけり、また我慢執着の念にかられ、そこにおのずと醜い闘争が繰り広げられるであろう。政治は乱れ、生活は破懐され、社会全体は停頓し、民族は興隆の息吹がなく、やがて亡国の憂き目にあうのである。
地精気とは、国土それ自体の生命力である。もしも、国土それ自体の生命力が、真に旺盛で、リズムに適ったものであれば、五穀は豊かに実り、木々の緑は、人々に新鮮な空気と希望と潤いを与え、水は清く、美しい、草花は、芳香をただよわせ、あたりはさながら楽園となるのである。 総勘文抄にいわく「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す」(0574-14)と。まことに、真の仏国土であれば、国土それ自体が慈悲の姿を現ずるのである。国土もまた十界の当体である。天台大師は「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・想・性・体・力」等と述べているのである。しかして、この国土自体の生命力を真にたくましく清浄に、かつリズム正しくする本源は妙法以外にないのでる。されば、もし「仏法実に隠没」するならば、国土それ自体の生命力は衰え、地獄・餓鬼・畜生・修羅の「相・性・体・力・作」等を現じ、リズムはこわれて、疲弊し、大地は激震し、河川は氾濫し、大海は怒り狂い、風雨は常なく、時に大暴風雨を、時に大旱魃をもたらすのである。
法精気とは、世間法、国法、より本源的には仏法の力である。世間法、国法については「諸法も亦亡失せん」のところで述べたとおりである。思想の混乱、道義の頽廃、国法の弱体化、または濫用等と、所詮これらは人間生命に巣くう偏見、邪見の産物であり、すなわち人間生命の濁りにほかならない。
しかして、その底流はこれを善導すべきはずの仏法が頽廃したがゆえなのである。仏法に、民衆を救済する力なく、国法は乱れ、世間法は乱脈のきわみに達する。これ、今日の姿であり、法精気を奪われた姿ではないか。所詮、真実の仏法が隠没されたがゆえの結果である。
解脱の諸の善論当の時一切尽きん
これは、民衆を指導するよき指導原理がなくなるということで、政治にもせよ、文化にもせよ、経済にもせよ、ことごとく行き詰りの感ある日本の現状は、これをよく示してあるではないか。ここに解脱とは、苦縛を離れた悟りの境涯のことであるが、これは決して小乗経の、灰身滅智し、煩悩を離れた無余涅槃の境地をいうのではなく、煩悩即菩提であり、すなわち、われわれの立ち場でいえば、現実生活のなかに築く、真実の幸福境涯である。
されば、解脱の善論とは、別して妙法しかないことは明瞭であるが、ここでは総じて民衆を幸福に導く、一切の指導原理をさすと考えるべきであろう。
所生の華菓の味い希少にして亦美からず、諸有の井泉池・一切尽く枯涸し土地悉く鹹鹵しテキ裂して丘澗と成らん、諸山皆ショウ燃して天竜雨を降さず苗稼も皆枯死し生ずる者皆死し尽き余草更に生ぜず
これは大旱魃のことである。昔は、この被害が、民衆に決定的な打撃を与えた。だが、今日では、雨が降ったとき大きな貯水池で水をためておくため、一応、昔のように日照りによって大飢饉が起こるようなことはまずなくなっている。しかし、水に対しては飲料水としてだけではなく、工業用や発電用として、ますます需要が高まってきている。今や、水はいくらあっても足りない状態になっていることも事実である。国土それ自体は、時としては考えられないような異常なことが起こりうる。もしも、この文のごとく、大地が引き裂かれ、割れ目ができたり、さらに激しい起伏が生じるという、いまだかってないような破懐的大旱魃がおこるならば、工場の機能はまったく麻痺し、人々は水を求めて餓鬼道のごとくになるに違いない。
さらに、それが貯水池の水も役立たないほど、相当長期にわたるならば、草木が皆枯死し、大飢饉がおおるという可能性もけっしてないわけではない。ましてや、悪政のために内政が極端におろそかになり、はては戦乱に巻き込まれるようになれば、おそらく、大旱魃は、その時とばかりに猛威をふるうであろう。いまだ日本には、このような大旱魃は起きていないが、もし真の仏法が弘まらなかったり、これを弘めるものを軽蔑し、愚弄し、これをはばむならば、必ずやこの大苦難を受けなくてはならぬのは当然である。
土を雨らし皆昏闇に日月も明を現ぜず四方皆亢旱して数ば諸悪瑞を現じ
「土を雨らし」とは、大地が乾ききるため、土が風に舞い上げられ、降ってくることである。砂漠地帯のサンドストーム、中国の蒙古風などは広く知られている例である。また、火山の爆発で上空に吹き上げられた灰が降ってくる場合もある。重い土は早くおりてくるので、「土を雨らし」という状態になる。
土や灰が降や泥雨がふるという記述は多い。なお、竜巻などで巻き上げられたものが、降ってくるせいか、穀物が降ってきたり、魚が降ってきたり、毛がふってきたりする場合もある。たまには隕石と思われるような大きな石がふることも記録されている。
空中に舞い上がった土や火山灰は、こうして一方では「土を雨らし」という現象を引き起こすが、他方、非常に軽い細かい粒子の場合、長く空中にとどまり、日光をさえぎって冷害を引き起こすことが少なくない。この場合、太陽は赤く見えたという記述がある。これ「日月明を現ぜず」である。稀に青い太陽が見られる。
満州でこれを発見したある科学者は、その光景を次のように伝えている。
「朝から南西の強い風が吹き、大気は流れ来る黄色い砂のために空気自身の色が黄色になったと思われるように濁って来た。戸外に出て見れば、一面の黄色のほかほとんど景色は何も見えず、ただ近いところにある樹が灰色にぼんやり見える気味わるさである。昼ごろあたりは、室のなかも赤味を帯びて来たように思えるので窓から外を眺めると、確かに大気の濁りは黄色の上に朱のような赤味を加え、空を見上げると、これまた一面に赤味がかった褐色になっている。驚いたことには、中天に青空とも思える青い色をしたわずかのぶぶんがあり、その中央に太陽は蒼ざめて、めらめらと弱く輝いている不気味さである。ちょうど赤褐色の雲の中にわずかにその青空があり、青い太陽が見えるというようで、私はすぐにこれは夕焼けの色を反対にしたようだと思った」
土が降ったり、日月が明らかでないというのが悪瑞相であるとは、まことにもって当然至極の道理である。すなわち、なにもなくて土が降ったり、日月が光りを失ったりはしない。その現象は、実に氷山の一角であり、その背景となるものは、火山の大爆発やあるいは異常な乾燥である。さらにその奥を考えれば、国土のリズム、宇宙のリズムに異常をきたしている証拠であり、災害は災害を呼び、一時にさまざまな悪現象が並び起こる前兆といえる。さらに、国土の変化は、人間の生命状態の変化に、微妙にかつ甚大な影響を与える。したがって、戦争等の人間の破懐的な営みの瑞相でもありうる。されば、仏法においてこれらをさして「諸悪瑞」といわれたのは、まことにゆえあることではないか。これらのことがわかってきたのは、科学が発達したからである。すなわち、科学の進歩が、仏法を証明するということは、厳然とここにあらわれてくるではないか。
十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ることショウ鹿の如くならん
まことに殺伐たる社会である。十不善業の道といい、貪・瞋・癡といい、今日、それがますます倍増している感が深い。人々は思い思いに身は、殺伐と、邪淫と強盗にふける。口には、互いにウソをつきあい、飾り立てた虚偽をいいあい、また激しい憎悪を込めてののしりあい、また、二枚舌を使って人をたぶらかしあう。心は貪欲に満ち満ち、怒りと憎悪がみなぎり、また無気力と無智と怠惰の充満せる状態となるという。まことに経文そのままではないか。今日の人々の姿を映し出してあまりなきものである。
このような一人一人の人間の身も口も心も、まったくすさみっきり、くさりきってしまったがゆえに、それが昂じてくると、常識では意外とおもうようなことが、まるで当然であるかのごとく平然と行われるのである。
はては、肉親同士が、あたかも他人のごとくこれを見捨てて願みなくなる。否、時としては他人以上に、激しい憎悪と嫉妬と怒りで、醜い闘争に身をついやすことさえある。はては、親を殺すなどということはあってはならないことなのに、感情にまかせて親を殺したり、また利害のうえからこれを危めたりすることは、残念ながら事実であり、ときおり、そのいまわしいニュースが報告される。これ、三世にわたって正しき真の仏法が、隠没した結果である。
この、あまりにも非人間的な社会が現前しているのに、世の識者はこれをいかなる思想で、方途で解決できると確信しているのか。
あるいは、いかなる実践を現実にやっているのか。世の頽廃を嘆くのは易しい。だが、いったい、だれが、これを打開するのか。
仏法は、一人一人の人間の生命を奥底より変革する。それは道理でもなければ修養でもない。貪・瞋・癡にむしばまれた生命の奥底にひそむ、最も力強い、清浄無垢な大生命力を泉水のごとくこんこんと湧現させるものである。この、いかんなき人間性の発揚をなさしめる大正法の確立がない限り、社会の濁りを是正する道は絶対になきことを、確信してやまない。
衆生及び寿命・色力・威楽減じ人天の楽を遠離し皆悉く悪道に堕せん
これは人口が減少し、一切衆生の寿命が減り、生命力が弱まり、その肉体も衰え、楽しみも、希望も、勇気もなく、健全な生活は失われ、神経衰弱症のごとき人々となる。やがて、三悪道、四悪道に堕ちこみ、長くそこから抜ききれず、闇から闇へと流浪していくことをいう。生命力の減退は、個人にとっても、民族にとっても恐るべきであるが、今日の日本民族がこの道を歩みつつあることは、嘆かわしいことである。精神病患者はもとより、潜在的な精神病にかかっている人は、恐るべき多数にのぼっていることが確認されている。みな無気力となり、若き生命の躍動も、やがて、社会悪に巻き込まれ、刹那主義におちこみ、快楽を追って、肉体と精神を損耗しつつあるのが現実なのである。
ひるがえって、わが創価学会員の生命力溢れ、若々しく希望に輝き、美しい清らかな目をもち、勇気りんぜんと活動している姿を見よ。これこそ、新しき時代を築く力であり、全民衆が心の底から待ちこがれていた。たくましき、清純なる息吹きであろうか。やがてこの息吹きが、日本をおおい、全世界をおおって、平和な時代が築かれていくことも必然である。否、それを築くのは、その息吹を知る人の使命である。
是くの如き不善業の悪王・悪比丘我が正法を毀壊し天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍する者此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向わん
正法毀謗の罪によって不善業の業を積み、しかして、生命の弱りきった悪王や悪い僧侶が正法を謗り、その流布を止めているから、諸天善神も、善玉も、その国を捨ててしまうのである。
「不善業の悪王」とは、まさに今日の指導者であり、なかんずく政治権力者でないか。貪・瞋・癡の三毒のままに、私利私欲にふけり、派閥抗争に明け暮れ、不生を事とし、陰険であり、善人を迫害しようとする姿は、歴然としている。しかして、かかる指導者を誕生させたのは、いったい何が原因か、それは民衆の生命に巣くう封建性である。そこに、黒々とした民衆の生命の濁りを見いだすのである。これ邪宗教、悪思想の害毒以外なにものでもない。過去幾多の人間性を無視した邪宗教、悪思想が横行してきた。無気力と廃退と狂気の温床こそ、実に、民衆の生命にくいいる邪宗教であると断ずるものである。
また過去においても、神道におかされた指導者の頭脳は狂乱の態を示し、太平洋戦争の無残な惨状をもたらしたのではないか。無気力な民衆、それを食いちらす狂気のごとき邪宗、邪義、邪智、さらに、そこから生まれる指導者、この三拍子がそろえば、まさに地獄の火焰は、猛威をふるうであろう。亡国の姿を現ずるは必定である。されば「不善業の悪王」は「不善業の悪比丘」とともに、いたずらに、民衆の幸福への方途を説ききった大正法を穏没し、諸天善神は、ことごとく濁悪の国を捨て去り、魔来たり、鬼来たり、災起こり、難起こり、ついに国が滅びると仰せられたのである。
ここに「正法」とは、いうまでもなく、弘安2年(1279)10月12日御図顕の大御本尊であり、今日においては、それを奉じて立つ創価学会をはばむ行為は仏教典に照らして、明らかに「正法隠没」の行為であることは絶対であり、それがいかに悲惨な結果にもたらすかを、あえて智者に忠告するものである。
第四章 経証の三 仁王経 (0019-04~0019-08)top
仁王経には「国土が乱れる時には、まず根底にある思想が乱れる。その思想が乱れるゆえに万民がみだれるのである。その故にまた、他国の賊が国内を侵略してきて、万民・百姓が殺害され、臣・君・太子・王子・官吏が互いに意見の不一致を起こして相争うであろう、またその時には天地は常とちがって種々の怪しい現象が起こり、天の二十八宿や星の運行・太陽や月が軌道を逸して、国には多くの賊が起きて、人民は非常な苦しみをうけるであろう」とある。 |
講義
仁王経では、あらゆる混乱の根本原因は、思想の乱れからくるものであると断じている。
国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る
「鬼神乱る」とは、人間の思想が邪宗、邪義、邪智によって破壊され、混乱し、異常をきたすことを身する。いいかえれば、人間生命の濁りであり、五濁に約せば煩悩濁、見濁であるといえよう。
御義口伝には、次のごとく法華文句を引いて五濁を説明している。「劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す」(0717-第四五濁の事)と。
まず、この文の意味についていえば、「劫濁」とは、何か一つの実体があるものではない。劫とは、短時を意味する刹那に対して、長い時の流れをいうのである。すなわち、劫濁とは、時代の濁りであり、他の四濁が盛んである時代をいうのである。「衆生濁」とは、やはり、とくに別の実体があるのではない。我見、慢心が盛んになることによって、衆生社会の上に、それに対する果報を受けている状態である。「煩悩濁」とは、貪・瞋・癡・慢・疑の五鈍使に追い使われている状態であり、「見濁」は、身見、辺見、見取見、戒禁取見、邪見の五利使がその実体である。また、命濁は、色心を連持、すなわち、色心の上に、濁りがあり、生命力を損耗していくところである。
しかして、文句には、また次のように説かれている。いわく「煩悩、見を根本と為し此の二濁に従いて衆生を成ず。衆生に従いて連持の命あり、この四つの時を経るを、謂いて劫濁と為すなり」と。
しかして、文句には、また、次のようにも説かれている。いわく「煩悩、見を根本とし為し此の二濁に従いて衆生を成ず、衆生に従いて連持の命であり、此の四の時を経るを、謂いいて劫濁と為すなり」と。
すなわち、煩悩濁、見濁が根本となり、この二濁によって、衆生濁が形成されている。この衆生の生命活動の流転の上に命濁が形成され、この四濁が盛んに起こり、互いに薫発し合い、時代を経るにしたがって、劫濁が形成される、ということである。ここに明らかに煩悩濁、見濁が根本となってあらゆる混乱があることが示されている。
したがって、この「鬼神乱る」にあたる煩悩濁、見濁がいかなるものかを知る必要がある。
煩悩濁も見濁ともに個人についてみた濁りである。煩悩濁の体である五鈍使も、見濁の体である五利使も、ともに見惑の十使をわけたものである。見惑とはいいうまでもなく、思想の誤りであり、思考の乱れである。しかして、そのなかでも貪・瞋・癡・慢・疑の五鈍使は本能的な思考の乱れであり、身見、辺見、見取見、戒禁取見、邪見の五利使は、才智ある邪見、鋭利的な思想の乱れである。
自分の利益ばかりをむさぼるように求めて、他人をかえりみないのは「貧」であり、事態を冷静に判断できず、すでに感情に走り、生活を破懐するのは「瞋」である。目先のことのみにとらわれて、無気力と怠惰に流され、一生を台無しにするのは「癡」である。少々のことを鼻にかけ、自分をよく見せようとし、あるいは正しいものを受け入れないのは「慢」である。猜疑心旺盛で、自暴自棄になるのは「疑」である。
身見とは、己れの身に愛着し、我見に執着することである。辺見とは、断見ともいい、生命の永遠常住を認めない考え方である。見取見とは、自己の見解に執着し、増上慢を起こして、劣っているものを勝れていると謂う考え方である。戒取見とは、因でないものを因と謂い、道理でないものを道理と謂う考え方である。邪見とは、因果律、三界の因果の理法を認めない考え方である。現在あるさまざまな思想が、多くこの五利使の範疇にあることは、明瞭である。因果律を認めず奇跡を信ずるキリスト教、生命の常住を認めず生命は物質の存在様式と立てるマルクス主義、さらに法華経を下す、念仏宗、真言宗、まるで幼稚この上ない因縁話で、無智の人をあやつる、最近の新興宗教等々、それらによって引き起こされた偏見は、ことごとく五利使である。
指導者の思考の誤りとその悲劇
かくして、五利使の邪見にせよ、五鈍使の本能的なものにせよ、思想の乱れが、根本となって衆生濁が形成されるのである。これが「万民乱る」である。すなわち、万民乱るとは、衆生濁ことである。一般民衆の思考の乱れはさておき、指導者の頭の中が、鬼神によって乱され、狂乱し、偏見、邪見でうずまいていれば、一国の前途は完全に誤り、だんなに不幸な社会にしてしまうか、それは、考えただけでも恐ろしいことである。衆生濁の最悪の世界は戦争であり、虐殺し合う世界である。
太平洋戦争当時の軍部の頭の中は、どうであったか、まさしく、人間の征服欲、物欲、名誉欲、権勢欲等の貪欲であり、阿修羅のごとき激怒の感情であり、驚くべき無智であり、高慢であり、猜疑心ではなかったか。そしてまた、神道のごとき低級思想に冒され、頑迷で偏狭な、狂気に等しい物の考え方になっていたのではないか。これ彼らの頭の中が、まさに悪鬼が乱れ狂う状態であったとえるであろう。これが国を破滅に導き、あの惨状をもたらした根本原因でもあった。
また、スターリンの頭の中にもヒトラーの頭の中も、煩悩濁、見濁に冒されていたために、恐るべき大量殺戮をやってのけたではないか。まことに気違いでないかぎり、あのようなことができるわけがない。さながら頭作七部の態であり、狂乱し、錯乱した頭脳と絶大なる権力とが結びついたあげくの粛清であり、残虐であることは明らかである。
しかして、今日のアジアにおける戦乱、とくにベトナム戦争の根底をえぐるに、そこにも、人間生命に内在する煩悩濁や見濁りがうずまいていることはいうまでもない。
日本を救う唯一の平和勢力
日本は、現在、一往戦争なき、平和な社会である。だが煩悩濁、見濁は相変わらず黒々と日本の人々と国土の国土をおおつているのである。政治も、教育も、その他の社会の営みがことごとく行き詰っているのは、まことに残念ながら事実である。
政治一つを取り上げてみても、いかに濁りきっているかがわかるのである。悪徳政治家たちは、既成の権威にしがみつき、私利私欲にふけり、腐敗は慢性化し、派閥抗争に明け暮れ、民衆を忘れている姿は、嘆かわしいというより、怒りがこみあげてくるではないか。政治家とは、野心家とか、腹芸のうまい人の代名詞のごとく思われているのが実情ではないのか。
さらに、一般民衆の姿も、あまりにも無気力であり、あるいは刹那的であり、焦燥と不安と動揺がうずまいているではないか。これ万民乱る姿であり、衆生濁といわずして何であろうか。
しかして今日、戦乱からわが国土を守り、日本を支えている力は、ほかならぬ創価学会なのである。今日のきびしき世界情勢は、日本をけっしてその外に置くことを許されない。世界の対立の波は、日本に押し寄せていることは、きわめて明瞭である。これ、再び、日本がかっての二の舞をふんではならぬことを、実態があまりにもよく教えてくれている。
そして、これを打開する道も、再び破滅へ導く恐ろしさも、ともに、ここに掲げられた経文が明確に示しているではないか。もしも、創価学会がなく、このまま日本の国が、ますます濁乱していくならば、私は、必ずや日本が悲惨な憂き目を見るに至ることをあえて断言しておきたい。それが仏法のきびしき方程式なのである。逆に日本の国の人々が、真に幸福と平和の方途を説ききった、大仏法を根本に、団結し、世界における唯一の平和勢力として、智慧と勇気とをもって臨むならば、必ずや、日本を永久に戦争の惨禍から守り、世界の民衆の幸福に貢献していけることを、心の底から叫んでやまぬのである。
賊来つて国を刧かし百姓亡喪し
これは、かっての日本の国が経験した、いまわしき事実である。日本が他国から破られるのも「所詮万民乱る」ところよりくる結果である。歴史上国が滅びるのは、外部よりもむしろ内部からもたらされることは、明らかである。政治の腐敗、教育界、思想界の混迷、民族の生命の弱体化、これらが、むしろ国を滅ぼす本源えある。今、日本は、まさしく「万民乱る」状態である。かって停滞せるアジアが、植民地として大国に荒らされたのは生々しい事実である。今日のアジアの惨状も、実体はここにある。されば、このままでは、いつ、ベトナムの惨劇が日本に襲いかかるかわからぬではないか。この事実に、世の人々は一日も早く気づくべきである。特に若き清純なる青年が、これに眼を開かなくてはならないと思う。
臣・君・太子・王子.百官共に是非を生ぜん
これ、国内の実情ではないか。現在は主権在民の時代であり、臣・君・太子・王子.百官の別はない。これはさまざまな社会とすべきである。大きくは国家と考えてよい。また、経済界、教育界、政治界等々と、とることもできる。また小さくは、一家、会社、地域社会等と考えてもよいであろう。「是非を生ぜん」とは、人々がそれぞれ、おのれの保身のために汲々として、相争うことである。互いに意見を交換し合い、建設し合うための討論でなくては、まったく対立し、憎悪し、激怒に燃えて戦うことをいうのである。
一国を考えてみれば、右翼と左翼の激突があるのであろう。この両翼の対立は深刻であり、時としては、血なまぐさい殺戮すら行われる。これ「是非を生ぜん」ではないか。日本はまだよいとしても、アジア、中近東等においては、右翼と左翼との対立が、まことに、たえず流血の惨事を引き起こしている。これまた、人々の生命にひそむ見濁であり、煩悩濁であり、鬼神乱るる結果にほかならないのである。
天地怪異し二十八宿・星道.日月時を失い度を失い
すなわちこれは天変である。作今、とみに学者の間で、異常気象が叫ばれている。以下、和田英夫氏等の共著「異常気象」によってのべてみたい。特に、最近で、異常性を示したのは、昭和38年1月の気候である。これはわが国のみならず、世界全体にわたってあらわれ、地球上の気圧の分布なども、例年とはまるで違ってしまった。そのために、地球の自転速度が不連続的に変化した。文字どおり“地軸をゆるがした異常”を示した、とのことである。
たとえば、平年の気圧は1016.3hPaが普通なのに、昭和38年の気圧は東京では、平均1004.2hPaで、平年より12.1hPaも低い。まさに何万年に一回という現象だという。さらに、太陽の黒点の変化も激しい、気象台長であった故藤原咲平博士は1949年に「天明のときの凶作は太陽黒点数の極大がすぎた、つぎの極小のときに始まり、次の極大に達してから止めを打っている。近々そのような時期に入るから警戒を要する」という主旨の論文を発表した。
ところで、1957年に観測された太陽黒点数は、史上最大値で、1964年は、その後に起こった極小値である。その値は180年前の天明4年(1784)とまったく同じであるという。さらに太陽黒点数の月々の変化の模様がまるで天明4年ごろときわめて似ているところから、最近の太陽活動は、天明時代に似ており、まったく異常であるというのである。しかも、太陽の黒点数の極小期に冷害が起きやすいという統計的な事実は無視できないところである。また、事実さまざまな異常現象が起きた。函館では気圧が低いため、海面が上昇し、海水が逆流したために、雨が降らないのに、突如としてマンホールから下水が湧き出た。およそ雪など見たこともない「種子島」にも、38年1月25日の夜から雪が降り、また阿蘇山にも大雪が降り、最深積雪は1mを越えた。そのころ、アラスカでは雨が降っていた。まるで北と南の気候が入れ替ったような騒ぎだった。さらに38年1月は、北陸地方を中心にして豪雪があり、そのため40日間も交通が阻害された。また、この年の異常気象は、日本だけに起こったものではなかった。
このころヨーロッパに寒波が吹きよせ、吹雪が荒れ狂い、自動車や飛行機の衝突、凍死などの事故が続出し、フランス、イギリス等で大量の死者が出た。ニューヨークでも猛吹雪があり、ハーレムで火事があったが、消防手のヘルメットから氷柱が下がり、ホースから出る水が空中で凍った。ロンドンでも100年来の寒さ続きとなった。ドナウ河が結氷して半月も船の運航が止まった。新聞には、こうした記事が毎日のように報道されたのである。また、前述のごとく火山の爆発も相次いで起こり、昭和37年の6月に焼岳爆発、十勝岳の爆発、8月には三宅島の大爆発、世界的にもバリ島のアグング火山が38年3月に大爆発、38年8月以降アイスランドの南西海岸付近で、地殻の割れ目に、海底からの火山爆発があった等々である。
このように、太陽黒点が異常に変化したり、地球の自転速度が不規則に変化することが現実にあるのである。そして、こうした変化が人間社会に、絶大な影響をもたらすのである。まことに宇宙のちょっとした変化であても、大きな被害が生ずる。ましてや、この経文にあるごとく「二十八宿・星道・日月度を失い」という現象が、激しく起こるようなことがあれば、その人間に及ぼす影響はどんなに大きいか、測り知れないものがあろう。ある場合には、人類の滅亡もありうるのではないか。いまだこの現象は、あらわれず、宇宙の運行に異常をきたっしていないが、経文に照らして、もし、末法の仏法たる三大秘法の大御本尊が流布しないならば、すなわち、創価学会がなければ、宇宙のリズムがこわれ、星道は乱れ、日月はその運行を狂わせることになることは明瞭でる。
多くの賊起こること有らん
宇宙のリズムに異常があれば、人間社会が乱れて、一国の中において、たえず争いがあり、特に国を滅亡に導くような人間が、数多くあらわれ、乱れ狂うのである。
あの、昭和6年、9年、10年と続けて起こった、日本気象史上おそるべき災厄の年を思い起さずにはおられない。特に昭和9年はひどく、この年から翌年にかけて、北日本を襲った冷害により、東北六県は目も当てられぬ大凶作に見舞われ、西日本にも異常な旱魃が起きた。さらに、史上最大といわれる室戸台風は、死者2700名、家屋の全懐39000戸におよぶ猛威をふるった。このころ、大量の人身売買が行われた。時あたかも昭和初期の金融恐慌が吹きまくって、社会不安を呼び、やがて2・26事件を経て太平洋戦争へと向かっていったのである。
今日においても、まさしく国を破滅に追いやるような賊人が、決して少なくない。国籍は日本にありながら外国にこびへつらい外国のゆうなりになって、侵略を許し、いたずらに国内の内部分裂をはかる徒輩は、まさにこれにあたろう。さらに、テロ行為や、暴力をもって人心を攪乱するのも、これにあたる。さらに、日本を戦争にかりたてようとする徒輩もこれである。国土の生命力、衆生社会の生命力が弱まるところ、必ず、内部分裂しそれを利用して、ますます人心を動揺させ、おのれの利益追求に没頭する奸物が出ることは、いつの時代でも、いずれの社界でも、いずれの国でも同様である。これ、あたかも人間の生命力が弱まるところに蔓延する病原菌のごときものである。先にも述べたように、もし今後において日本の国が再び滅びるようなことがあれば、それは内部からもたらされるものである。所詮、日本の民衆が、真に、民主主義と平和と幸福を掲げて、強く有智の団結を人材の宝庫とし、他国に「日本を攻撃したら自分たちの損になる」という思想を徹底的にうえつけることが大切である。しかも、主体性のある、真に力強き外交を行い、行き詰る世界をリードしていく以外に、日本の安泰も、世界の平和も絶対にありえにと信ずる。
指導者の福運
また、同じく次に引用の仁王経の文は、指導者の福運論である。四条金吾殿御返事にいわく「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず」(1192-02)と。いかなる智慧者であろうと、いかに才能ある人であろうと、いかなる権力をもつ人であろうと、ひとたび福運を失えば、敗北の人生を辿るしかない。
よく、人は「あの人は運がいい」とか「運が悪い」という。だが、彼らの運・不運は、あくまでも、偶然に支配されたものであり、浮き草のようなものである。この経文に「我今五眼をもって明に三世を見るに一切の国王は…」とあるがごとくである。
もし三世の生命を認めないとすれば、運・不運、幸・不幸の根本原因は、まったく不明のままになってしまうのである。ある人は、運・不運は問題でない。人は、努力しだいで、幸・不幸が決まるのだという。むろん努力は大切である。努力のない人生は無意味である。だが、努力だけでは幸福が築けると思うのは、錯覚である。人人は、それぞれの立ち場で、なんとか現状を打開あるいは発展させようと努力しているのではないか。だが、その努力が、成就しないところに悲劇があるのである。
もし、いっさいが努力であるという人に言いたい。それでは、現在、不幸な人々は、みな努力しなかったからなのか。否むしろ、不幸であればあるほど、それこそ必死になって努力しているではないか。また、どんなに努力といっても、病弱であり、いかにもがき、あせってもどうにもならぬ人がいるが、これに対しては、いかに幸福への道を切り開いていけるのか。もし指導者にして、かくも真剣に、かつまじめにがんばっている人を、おのれの地位から、努力なき人と断ずるのは、民衆を侮蔑し、さげすむのも甚だしいではないか。
或人は、環境決定論を唱え、環境がいっさいを決定するかのごとき説をなす。だが、これも大いなる誤りである。むろん環境の影響を無視したり、軽視したりするわけではない。だが、同じような環境に育つ二人の人間が、時としては、まったく違った運命になっているのは、どう説明するのか。さらに、環境が影響をおよぼす陰惨な家庭に育ったりしなければならないのはなぜか。さらに、生まれつき不具の人、生まれつき病弱な人は、なぜそうなったのか、それでも、あるていどまで生物学的に、それにいたるまでの過程は説明できるかもしれない。それでは、なぜそのような経過をたどらなければならなかったのか。ある人は、両親にその責任を負わせるかもしれない。では、なぜそのような両親のところに生まれなければならなかったのか。また、なぜ両親の責任を自分が負わなければならないのか。このように生命の物理化学的な現象のみを取り扱う科学では、解決できぬ問題があまりにも多くひそんでいるのである。また環境でいっさいが決定するという、主体性なき哲学では、それを解決できぬことは、明瞭である。所詮、三世の生命観およびそれに立脚した福運論にして、初めてこれらの疑問に対する解答を与えることができるのである。
釈尊は十不善業の業報を次のように説いている。この世で多病また短命である人は「殺」の報いである。貧窮で失財の人は、盗みの報いであり、眷属不良で婦が貞実でない人は、邪淫の報い、身に誹謗を受けた人に誑惑されるのは妄語の報い、親類に離れ、親友にも捨てられるのは両舌の報い、悪声を聞き訴訟を起こすのは悪口の報い、人に信じられないで、言語が明らかでないのは綺語の報い、多欲で足りることを知らずに、いつも不足を嘆くのは、貧りの報い、人のためすきをうかがわれ、あるいは殺されたりすることは瞋りの報い、邪見の家に生まれて心諂曲なのは、愚痴の報いである。
妙法の福運こそ最高
また、日蓮大聖人は佐渡御書に「我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず 善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ」(0960-03)と、般泥オン経の文を引かれている。
逆に、この世に福運ある身として生まれてきたのも、過去の行業によるものであり、かくのごとく、国王としての福運を得るのも、過去世に五百の仏に仕えたがゆえであると説くのである。
だが、日蓮大聖人は、このような因果の理法は、「是は常の因果の定れる法なり」(0960-05)と仰せになり、きわめて当然のこととされているのである。たしかに、この因果の理法は、誤りではなく、絶対の事実である。釈尊の仏法哲学から、この考え、思惟を抜きとったら意味はない。だが、このような低き因果の理法をもって、全体とするならば、運命はすでに抜きさしならぬよう定められており、ただ、この世で悪いことをしないように心がけ、あとは来世の幸福を願うという、あきらめと消極的態度をつくりあげてしまうではないか。世の不幸な人を見て、それを救いきることができぬではないか。悪しき社会、悪しき国、悪しき世界を改革することができないのではないか。日蓮大聖人は、この低き因果の理法を打ち破って、いかなる大王よりもいかなる大智慧者よりも、いかなる富裕な人よりも、百千万億倍すぐれたる大福運を、この瞬間に開くことを教えられたのである。
観心本尊抄にいわく「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-)と。
すなわち、釈尊のごとく、過去に能施太子として、また儒道菩薩として、あるいは尸毘王、薩埵王子等と生まれ、三大阿僧祇、百大劫、動喩塵劫、無量阿僧祇劫、あるいは三千塵点劫等の長きにわたる修行を積まずとも、大御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と唱えることに」よって、あらゆる福運が具備されるのである。幸福というものは、なにか遠くにある特別な世界ではない。また、現在というものが、過去の因によって、がんじがらめに身動きできないようにしばりつけられているものでもない。生命の奥底にある「因果俱時不思議の一法」たる妙法は、あらゆるものの根源であり、真に自由自在にして、かつあらゆるものを変えきってくことができるのである。妙法を信じ、妙法をおのおの一身に顕現していくことが、過去のいっさいの宿命を打破し、未来永劫の大福運を、この一瞬に開いていく本源であることを訴えたい。撰時抄にいわく「伝教大師云く「讃むる者は福を安明に積み謗る者は罪を無間に開く」等云云」(0291-)と。
安明とは、須弥山である。大御本尊を信ずる一念のなかに須弥山のごとき大福運がそなわるのである。したがって、しんじんからの生活というものは、いっさいが価値創造であり、いっさいが変毒為薬であり、転重軽受である。宇宙の大リズムに適い、誰がこれを破懐しようとしても、金剛石のごとく、絶対に破懐することができないのである。
信心に関係なくとも、たしかに、福運のある人はいる。昔でいえば、国王となるのは福運である。また、現在でも、社会から、才能、力を認められ、指導者となるのも、その源流は福運である。だが、それは小さな福運であり、それにおごり、正法を破懐しようとする行為に出るや、指導者としての福運をなくすのみならず、いっさいの福運を根絶してしまう。むしろ、その福運が尽きたときは、いかなる人よりも悲惨であり、また、蜃気楼のようにはかなきものである。やがて「謗る者は罪を無間に開く」の文のごとく、挫折し、破滅し、ついには無間の焔にむせぶのである。
妙法によって開かれた福運こそ、最高の福運であり、わが生命の最高の宝である。いかなる財産も、いかなる地位も、名誉もすべて化城であり、くずれ去るものである。されば信心した人こそ、世界を一手におさめる大王より尊貴であり、日輪のごとくなる智者よりも偉大である。十字御書にいわく「今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし」(1492-08)と。松野殿御消息にいわく「法華経を持つ人は男ならば何なる田夫にても候へ、三界の主たる大梵天王・釈提桓因・四大天王・転輪聖王乃至漢土・日本の国主等にも勝れたり、何に況や日本国の大臣公卿.源平の侍.百姓等に勝れたる事申すに及ばず、女人ならばキョウ尸迦女.吉祥天女・漢の李夫人.楊貴妃等の無量無辺の一切の女人に勝れたりと説かれて候」(1378-)と。
是を為つて一切の聖人羅漢而も為に彼の国土の中に来生して大利益を作さん
これは、真実に、妙法を根底にした指導者の福運である。この場合「国王」とは一国の指導者であり、「聖人羅漢」正法をもって一切衆生を救う人である。
若し王の福尽きん時は一切の聖人皆為に捨て去らん、若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん
国内に邪法、邪義のみ充満し王の福運尽きたときは、聖人は去り、かわって悪人のもが跋扈し、あらゆる七難が競い起こってくるのである。あの、太平洋戦争の、神道の力が日本民衆を支配し、真の仏法たる創価学会は隠没の危機に瀕したのであった。これによって、王の福運は尽き果て、一国を指導すべき人材は影をひそめ、未曾有の亡国の姿を現じてしまった。日蓮大聖人の時には、末法の御本仏がおられればこそ、防ぎ得てきたところの七難の中の最後の難たる他国侵逼難が起こったということは、この他国侵逼難は前の六難ことごとく摂せられているものであって「七難必ず起らん」とは偉大な御予言である。
第五章 経証の四 薬師経 (0019-09~0019-10)top
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講義
ここに「刹帝利・灌頂王」とは、指導者階級を意味する。この指導者に謗法があるときには、いわゆる七難が起きるとの経文である。
世に、指導者の誤りほど恐ろしいことはない。指導者の誤りは、国内を騒乱させ、民衆を不幸のどん底におとしいれてしまう。また、国を滅亡に導き、あるいは、民族をしてその後、何百年、何千年と悲劇の道を辿らせることにもなるのである。
したがって、個人の幸福を説く仏法が、単に個人にとどまらず、指導者と仏法の関係をとくに強調するのは当然のことである。仏教が、まるで、個人の救済のみを問題とし、しかも、現世とは、遠く離れた、未来のことのみを説いていると考える人々、またそう思わせる僧侶が多いが、仏法の何たるかをも知らぬ輩である。
社会の幸福、また一国、今日ではとくに全世界の幸福なくして、どうして個人の幸福が得られようか。もしも個人の幸福を説き、社会の繁栄を説かないとすれば、それこそ矛盾であり、欺瞞であるとしかいいようがない。立正安国論に示された四経の文は、それぞれ皆、指導者こそ、正法を持たねばならないことを教えている。
すなわち、立正安国の方程式は、創価学会の精神であり、即それは日蓮大聖人の大精神であるとともに、仏法3000年来の変わらざる哲理である。
新時代の指導者論
この段で、指導者の責務と使命の重大なることが説かれている。私は多くの機会に、新時代の指導者のあり方について述べてきたのであるが、ここに要約してその一端を申し述べたい。
新しき日本の指導者に望む第一点は、偉大なる思想、哲学、宗教をたもち、確固たる指導理念を確立すべきことである。いかなる指導者も、その理念いかんによって、指導者としての資格が定まることを知らねばならぬ。現在における指導者が、もし世界各国の指導者と、世界の未来等を論じ合った時、果たして彼らを説得し、彼らに指針を与える。いかなる理念を持っているであろう。
恩師戸田会長が、ある時、もし東西の歴史上にあらわれた聖人賢人、たとえばソクラテス、キリスト、マホメット、釈尊、孔子、日蓮大聖人、マルクス等が、一同に会して談合したとするならは、必ずや日蓮大聖哲の偉大なる卓見に、一人残らず、その場で賛成し、大聖人に信伏随従を誓ったに相違ないと、いわれたことがあった。
世界各国の指導者と卒直に話し合う機会があれば、彼らはそれぞれ、マルクス・レーニン主義、プラグマティズム、実存主義、プロテスタンィズム、カトリック教、イスラム教、各種のナショナリズム、儒教的道徳主義、分析哲学、科学万能主義あらゆるイデオロギーをもって、甲論乙駁してくるであろう。しかして、日本の指導者として、彼らのイデオロギーを越える、民衆救済の大思想を持っていなければ、いたずらに彼らの一方通行的な説得に追いまくられるのみではないか。
現在、日本の国内にも、すでにイデオロギー的な対決ムードがあふれているが、旧来の資本主義や共産主義等が新時代の指導者たりえないことは、もはや明白である。より高い次元より、これらを指導し統一しうる指導理念こそ、東洋仏法の真髄たる色心不二の大生命哲学以外には絶対ないことを強く訴えて止まない。
偉大なる指導理念と、卓越した識見、確固たる信念をもった優れた指導者が、堂々と民衆に同意を求め、その意思を結集して前進する時代がきたといえよう。さらに、同じく世界各国のあらゆる指導階層に対しても、卓越した摂徳力、指導力を発揮しうる指導者が、数多く出現しなければならない。
新時代の指導者の資格の第二点としては、あくまでも民衆の真実の見方として、民衆に真に幸福を与えきっていける指導者でなければならぬ。誤れる指導者が、いかに民衆を不幸にし社会を滅ぼすのであるが、古今の歴史のよく物語るところである。
中国古代において、周の代も終わり秦の世も末になった頃、項羽と劉邦という二人の英傑があらわれ、互いに覇をきそった。力量は項羽の方が格段に優れ、正に百戦百勝の感があったが、最後に劉邦が垓下の戦いで大勝利をおさめ、ついに天下は劉邦のものとなった。劉邦が中国に平和と秩序をもたらしたゆえんは、正しく民衆を思う一念であり、民衆の信望が劉邦に名をなさしめたのであった。
あくまでも、民衆の指導者は、民衆の中に生き、民衆のために尽くして、民衆の中で死んでいく決意がなければならぬ。それでこそ、民衆は心から信頼し納得しるのである。所詮、新しき時代の指導者は、大衆福祉を実現しきっていける人でなければならぬ。
第三に、指導者は、組織における卓越した統率力を持ち、すべての人が充分に働けるように、調和できる人でなければならぬ。これらの新しい指導者は、個人プレーで独裁的に物事を処理していく英雄型であってはならない。それが職場であるにせよ、国家であるにせよ、一つの社会の中で、全体の人々が存分に力を発揮できるように、リードしていける人こそ、真に優れた指導者といえよう。
また、人間性豊かな、包容力のある指導者として、常に後輩の中に人材を求め、優れた後輩を数多く育成してゆく熱意がなくてはならぬ。いかなる人をも活かしきっていくという決意をもって、後輩を自分以上の人材に成長させていく賢明な人こそ、真の指導者といえよう。
指導者は必ず優秀な後継者を育成するものであり、反対に独裁者は後輩を犠牲にして、後継者を育てるような雅量を持ち合わさないものである。決して、独裁者となってはならぬ。
第四に指導者は、名聞名利にとらわれたり、栄誉栄達主義であっては、断じてならない。世の指導者といわれる人たちの中に、いかに利己の人のみ多きことか、まことに残念の窮みである。いささかも毀誉褒貶にとらわれず、自己の成長とともに、民衆を救済しきっていく自覚と責任の持ち主こそ、真の指導者である。
また有名人と指導者とを混同してはならない。有名人必ずしも指導者たりえないものである。有名人、あるいは指導者層の中に、みずからの家庭的悩みすら解決しえない人が多いが、まことに嘆かわしい限りである。どうして民衆を幸福になしうる指導者の資格があるであろう。
今や、新時代は、新しき指導者の輩出を要求している。願わくは、世のため、社会のため、民衆のために、偉大なる多くの指導者の出現を、心から願って止まない。
第六章 再び仁王経を挙ぐ (0019-11~0020-04)top
仁王経には「波斯匿王よ、釈尊が今教化するところの百億の須弥に百億の日月があり、ひとつひとつの須弥に四天下がある。そのうちひとつの南閻浮提に十六の大国・五百の中国・十千の小国がある。その国土の中に七つの恐るべき難がある。そのわけは、これを一切の国王の難とするからである。いかなることを難となすであろうか。 |
講義
星や日月の変動が、われわれ人類に影響があるとは、不思議に思えるであろう。だが、依正不二の原理、一念三千の哲理が明らかになるならば、何等不思議ではない。さらに、現代の最新の科学、なかんずく天文学は、これらのことを実証しつつあるのが、趨勢である。
まず、仁王経と薬師経の七難を比較すると次のようになる。
仁王経 薬師経
第一難日月失度難─────日月薄蝕難(第五難)
第二難衆星変改難─────星宿変怪難(第四難)
第三難諸火梵焼難
第四難時節反逆難──┐
第五難大風数起難──┴──非時風雨難(第六難)
第六難天地亢陽難─────過時不雨難(第七難)
第七難四方賊来難──┬──自界叛逆難(第二難)
└──他国侵逼難(第三難)
人衆疾疫難(第一難)
第一難日月失度難
日月度を失い・時節返逆し・或は赤日出で・黒日出で・二三四五の日出で・或は日蝕して光無・或は日輪一重.二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり
これらのことについては、これまでにしばしば触れてきたので省略するが、ただ、日月の変化がわれわれにさまざまな影響をもたらすことは、厳然たる事実である。
たとえば、太陽からの微粒子や紫外線のエネルギーは、太陽活動の変動によって大きく変化しており、これが超高層の大気に、大きな影響をおよぼしていることも事実である。ただしその影響は超高層であり、それがどのような過程で、またどのような地上の天候の変化や異常気象をもたらしているかはまだ明らかでない点が多い。だが、その影響が非常に大きいことは充分考えられる。特に太陽黒点数の変動と地球上のいろいろの現象と比較してみると、ある現象については、驚くほど一致していることがわかってきた。
故藤原咲平博士は、太陽活動と凶冷について、その密接なる関係を力説し「凶冷の八十一年周期説」を主張した。さらに荒川秀俊博士は、これを再び取り上げ、「天明のききん、天保のききん、慶応、明治初年の大凶作の三回の凶作群は、どれも太陽黒点数の十一年周期変化の極大値が非常に大きくなったときの極大年にはさまれて生じた」という事実をあげ、1953年以後「4~5年から10年ぐらいまでの期間が、最も警戒を要するもとと思われる」と述べた。
しかして、その後、1953年から1957年のころまで、冷夏年が続いたことは、周知の事実である。黒点の変化と他にさまざまな要因が加わって、地上に大小の影響を与え、あるいは日照不足を起こし低温が激しく、国土と人間生命に微妙な変化をもたらすことは、明らかなところでる。
また、太陽面で最もすさまじいフレアーと呼ばれる現象がある。これは、太陽の彩層の一部が、急に明るさを増して爆発し、数時間後にもとに戻る現象のことである。
フレアーが起こると同時に、地球大気上層の電離層に、デリンジャー現象の名で知られる短波の無線障害が起こり、少し遅れて、宇宙線の異常増加が起こる。その後約30時間たって、オーロラ、磁気嵐などが起こる。フレアーがさらに大気の循環に影響を与え、気圧の下降などを起こすことは確実とみなされている。日食もまた、さまざまな影響がある。まず太陽光線がそれだけさえぎられるのであるから、大気中に影響を与える。宇宙の変化、また引力の変化、さらにそれらのものが、地上の人間の生命活動に大きな影響をもたらすのである。
また月の引力が、地球にさまざまな影響を与えていることも明らかになってきている。太陽の引力、月の引力、地球の引力等が、互いに影響し合っていることはじじつである。そして、太陽、月、地球が子のような位置をとるかにより、したがって、月食などが起こることによって、地球にはさまざまな変化が起きる。潮の干潮、血液の循環、したがって、人間の生命活動に微妙な変化をもたらすことは明瞭である。
また、赤い太陽、あるいは、二、三、四、五の太陽、また太陽に二重、三重、四重、五重の暈があらわれるということも、けっしてわれわれの生活と無関係ではない。こうした現象は、大気中に、塵、氷の結晶等の微粒子が多いときに起こるものである。これらは、太陽とわれわれの間に介在して、さまざまな影響を与えるのである。
たとえば、乾燥した大地に、大風が襲って巻き上げられた埃や、火山がたびたび噴火し、高層の大気中まで舞い上がった火山灰が、日光を遮るために、赤い太陽があらわれる。これによって、冷害等が引き起こされることは前述のとおりである。
また、暈とは、まったく違った現象であるが、太陽にかかるビショップの環とよばれるものは、まことに不吉な前兆であり、日照量を減少させて、凶作をもたらすことがしばしばある。これは、高空にただよう微粒子の一次回折による現象で、内径は10度、外径は20度におよび、環の外側ほど赤く見え、また時には日の出から日没まであらわれている。しかも、これは普通地上では塵埃や煙とかが、まったくない快晴の日にあらわれる現象である。記録によればペレ―・サンタ・マリア・コリマの噴火のあった明治35年(1902)と、カトマイ噴火のあった明治45年(1912)に観測されており、これらの年は日射量が20%近く減少し、いずれも東北地方の凶作をともなったのである。
しかも、こうした現象は、単にそれにとどまらず、さまざまな他の現象を内にはらんである。火山の爆発、あるいは大地の乾燥等は、またいろいろな宇宙の変化と関係している。したがって、一つの現象が、つぎつぎと他の現象に及んでいく。いわんや一時に多くの異常気象があらわれるということは、宇宙のリズムそれ自体に、異常のある証拠であり、容易ならぬものである。
このように、太陽や月の変化は、地上にいろいろな変化を起こす。だが、まだ、具体的にわかっていない面も多い。ただし、人間もまた宇宙の構成物質でつくられている以上、太陽や月の変化が、気づかないうちにも、きわめて多くの、否、ほとんどすべてにわたり、人間生活に影響を与えていることは、絶対の事実である。
第二難衆星変改難
二十八宿度を失い金星・彗星・輪星.鬼星.火星・水星・風星.チョウ星.南斗.北斗.五鎮の大星.一切の国主星・三公星.百官星.是くの如き諸星各各変現するを二の難と為すなり
ここに掲げられた星は、必ずしも、今日の天文学で、いったい、いかなる星をさすかは不明のものも多い、だが、当時、望遠鏡もなく、しかも今日と3000年前に見えた星が必ず一致していないであろうし、また、地球の地軸自体も、多少変化している。したがって、昔の人が画いた星座と今日と必ずしも一致していなくとも、なんら不思議ではない。だが、当時このような天文学があったことは驚くべきである。おさらく、このような天文学は、生活のなかからにじみ出たものであろう。宇宙の変化が、微妙に人間生活に影響を及ぼすことは、古代人も感じていたであろう。これが一方では、多くの迷信を生んだであろうが、また他方では、古代人の直観は、今なお万古不滅の力をもち、むしろ、今日の近代天文学が、それを裏づけている感すらある。
しかして、たとえ星の名がどう変わろうと、星座の位置がどうなろうと、この経文にあげられた星のいくつかが、不明であろうと、それらのことは問題ではない。個々の問題よりも、むしろ、さまざまな星の変化が、いかに人間生活に大きな影響をもたらすかという方程式は、変わらざる哲理であり、今日の天文学が、それをはっきりと説明するにいたっている。
たとえば、彗星や流星の出現は、かって戦乱等の不吉な事件の前兆とされた。だが、科学の発達は人々に合理的な物の考え方を植えつけ、また他方では、実証によらなかった古代人の考えを迷信であると決めつける悪弊も生じた。その風潮のために、彗星の出現と人間生活と結びつけていた古代よりの考え方をも迷信と決めつけてしまった。だが、現代の最先端を行く天文学では、彗星および流星が、人間生活に影響があるどころか、人類の運命をもになっていることを明らかにしつつある。大部分の彗星は、太陽のまわりを、大集団となって回っている微粒子よりなる。彗星はときおり分裂する。彗星が分裂すると、粒子は太陽系が占める膨大な広がりのなかにまきちらされる。そのような粒子が、ときどき地球の大気のなかに入ってくると、流星となる。大きな粒子は明るい流星となる。見かけ上、とるに足らないこれらの流星たちは、地球上の気候に重大な関係を持つことがある。イギリスの天文学者、ホイルは「彗星が空に現われると何が凶事が起こるとは、昔からの迷信である。この迷信は正しいのかもしれない」と述べ、彗星の分裂により流星塵が、氷河時代に出現したとして、大略次のように述べている。
氷河時代というものは、われわれ大気の温室効果が破懐されたか、あるいは著しく弱められたときに起こったに違いない。これは大気中にあって、赤外線の放散をくいとめる役をしている水蒸気が、極端に減少したために起きることである。そこで、大気中の水蒸気の量が、特に地上6000mあたりの水蒸気が、どうして減ったかということが問題になる。これを解決することが、氷河期のナゾに対する答えになる。
大気中の水蒸気がときおり凝結して、液体の粒となると、雨になって地面に降ってくる。これは、だいき中の水蒸気を減らそうとするが、一方では大洋からの蒸発は、大気中の水蒸気の量を増やそうとし、この間につりあいが保たれている。
ところで、大気中で、たとえば、地上6000mあたりには、水蒸気から大量にたむろし、雨となって降らずにいる。というのは水蒸気から大きい水滴となっても、相当大きい水滴でなければ雨として降らないからである。ここに大量の流星塵が上からやってくると、状況は大転換し、小さな水滴は流星塵のまわりに凝結する。もしその凝結が十分多量であれば、雨として降り、大気中の水蒸気の量はバランスを失い、きわめて少なくなり、温室効果が弱められ、ここに氷河期があるというのである。
このように、天文学の最先端は、彗星や流星の微妙な影響に着目しはじめているのである。むろん、まだ、それらがいかなる影響をあたえるのか決定的な結論は示されていないが、宇宙のきわめて小さな現象すら、われわれと関係なく、密接に関係し合っていることは、論断できよう。さらに、宇宙のリズムがこわされ、星道が狂い、軌道に突然の変化でもあれば、いかなることが並び起るであろうか。
第三難諸火梵焼難
大火国を焼き万姓焼尽せん或は鬼火.竜火.天火・山神火・人火.樹木火.賊火あらん是くの如く変怪するを三の難と為すなり
ここで明らかなように、火の難には、鬼火・竜火・山神火・樹木火のように自然現象によるものと、人火・賊火のごとく人間の故意または過失によるものとがある。もし宇宙のリズムに、さまざまな異常をきたすならば、異常な乾燥あるいは落雷等も頻発し、また火山の大爆発による灼熱した溶岩の流出、降灰等で、都市全体が埋没した例があり、あるいはいまだに起きていないが、国を焼き、万姓を焼尽するような火の海と化することも考えられる。
だが、今日においては、むしろ戦争による火の難が最も大きいであろう。第二次世界大戦における原子爆弾投下によって、火の海に化するのも諸火梵焼難であり、今日、ベトナム戦争で、ナパーム爆弾等で焦土作戦がとられているのは、まさしく、諸火梵焼難であろう。もし、第三次世界大戦が起き、全世界が核兵器に焼かるるならば、これは、最大の諸火梵焼難ではないか。
また、人心が動揺しているときには、火災が多い。狂気のごとく放火する人間もふえ、また嫉妬と憎悪のうずまく社会であれば、事はもはや重大である。また、劣悪な政治のために、水不足が大火を広げる結果にもなる。すなわち、今日においては、火災は、自然的なものより、むしろ人間の問題に帰着するところが多い。
第四難時節反逆難
大水百姓をヒョウ没し.時節返逆して・冬雨ふり.夏雪ふり.冬時に雷電霹礰し.六月に氷霜雹を雨らし.赤水.黒水・青水を雨らし土山石山を雨らし沙礫石を雨らす江河逆に流れ山を浮べ石を流す是くの如く変ずる時を四の難と為すなり
「大水百姓をヒョウ没し」とは、いうまでもなく大洪水である。
「冬雨ふり.夏雪ふり」とは、冬にさっぱり雪が降らず、夏に雪が降ることである。冬にまったく雪が降らなかった例は少なくない。(史量は膨大のため略す)
また、冬に雷が鳴ることも異常である。日蓮大聖人の時代においては、文永2年(1265)1月20日に雷雨があったとの記録がある。江戸時代にはいっては、享保9年(1724)11月1日には、京都に数カ所の落雷、翌10年(1725)11月11日も京都で落雷、百姓の家が十軒ほど焼けたとの記録がある。宝歴4年(1754)12月4日には、陸前国に、雷風があり、そのとき海に大波が起こり、三人溺死したとある。安永8年(1779)10月25日京都に落雷、享和元年(1801)12月4日落雷により四天王寺炎上、文政10年(1827)11月20日岸和田城炎上、天保7年(1836)1月8日江戸、慶応元年(1865)11月25日大阪で落雷等の記録がある。
夏の氷霜雹
「六月に氷霜雹を雨らし」の異常気象の記録も膨大な量であり、ここではその代表例として、水戸で起きたとの二例を示す。
寬文7年(1667)4月9日・延宝6年(1678)9月9日。
赤水・黒水・青水
「赤水・黒水・青水」とは、着色した雨である。
1608年、南フランスの小さな町に、鮮血を思わせるような暗褐色をした雨が降った。住民は、これを本当に血の滴りであると信じ、恐怖におののいた。迷信深い人は、死を覚悟していたとのことである。だが、雨は去り、赤い滴りは次第に蒸発し、そして人々は、何事もなかったことにほっと安心し、やがて恐怖から立ち直った。1608年の血の雨のような例は、他にもたびたびあった。日本においても、さまざまに記録されているが、わが国に限らず、昔から、いろいろな国でときどき降っている。フランス、イタリア、スペイン、およびトルコの住民は、この不思議な現象を一度ならず目撃しているとのことである
1813年に、イタリアに降ったこの種の雨について、目撃者は次のように語っている。
「人々は、海の方から近づいてくる厚い雲をみとめた。正午頃、雲は四方の山々をかくして太陽をおおいはじめた。はじめは薄いバラ色であった雲の色は、火が燃えるように赤い色に変わっていった。そして間もなく、町はきわめて濃い闇につつまれ、家の中でランプをつけなければならないほどになった。 闇はますます濃厚となり、空全体は、灼熱の鉄からできているように見えたのである。やがて雷が鳴りはじめ、赤みかかった液体の大粒が落ちはじめた。これを、ある人は血と考えたし、他の人は溶けた金属を考えたのであった。夜になる頃に、空は晴れ渡り、雷や稲妻も止み、ひとびとはほっとしたのである」
そして、この雨滴は、黄褐色の跡をいたるところに残しており、それを拡大鏡で見ると、こくこまかな赤みが勝った塵が、この跡の中に認められたとのことである。
赤い色の雨だけではない。時には、オレンジ色、黄色、緑色の雨も、見受けられる。これらの雨は、暴風雨の風が、遠くの砂漠、乾燥した大地で、おびただしい量の赤土を空に舞い上げ、それを運んできたり、火山の爆発で火山灰が高空に吹き上げあれたりした場合、これらのほこりや灰が、雨とまじり合って、着色した雨をふらせるのである。
また、夏、池や沼のたまり水は、しばしば緑色、赤褐色、その他のさまざまな色を、時には黒色を帯びることがある。すなわち水が色づくのである。無数のいろいろな微細の微生物によるものである。ある微生物は緑色の群体をなし、他の微生物は黄色、アイ色、茶色あるいは黒色の群体をなし、水の中で急速に繁殖していく。
こうして色づいた池や沼に、旋風が襲うとそこの水をまき上げ、それからどこか遠いところで、さまざまに色づいた雨として、地上に降らすのである。
色づいた雨が降ると同様に色づいた雪が降ることもある。
最近では昭和38年(1963)1月15日と30日の二回、石川県白峰地方に「赤い雪」が降った。村役場の話によると、朝起きてみると赤い雪の原になっていて、約10cm近くも積もったときには、銀世界が夕焼けに映えたような景観だったという。この赤い雪の正体は、大陸の黄塵が運ばれてきて、雪とともに降下してきたものと推論される。
今日、世界的に赤い雪、その他さまざまな色が確認され、その原因としてほこりや火山灰が、雪とともに降下する場合と、微生物の繁殖によってそうなる場合等がかんがえられている。
土山石山を雨らし
これは、土や石が数多く降ってきて山のようにうず高く積まれることか、あるいは、土砂くずれをいうのか、いずれとも考えられる。土が降ってくる例は、すでに述べたとおりであるが、石が降るというのは、火山の大爆発、あるいは竜巻によると思われる。また、隕石とも考えられる。宇宙のなかには、星や遊星のような大きな天体のほかに、多くの微笑天体、石、大小の塵、塵の集まり、がある。これがまた地球の大気の中に飛び込んでくると、空気の抵抗にあい、加熱され、発光をはじめ、燃焼してしまう。したがって、たいていの場合は、隕石と呼ばれる物体は、きわめて小さな物であり、砂粒よりも小さいこともよくある。だが、微小天体が、多少大きいと、空気中で燃えきらずに地球の表面に到達する。このために大きな石が降ってくることもある。
1492年、ドイツのエンジスハイム市付近で、多くの人の目の前で、空から大きな音をたてながら、大きな石が落ちてきたので、人々がびっくりしたのであった。
土地の教会の僧侶は、これを利用し、空から落ちてきた石は、神によって贈られたものであるとして、教会に安置し、それがまた飛び去らないように、鎖で壁にしばりつけた。そして、この石を拝めば、病気が直るとか、その石にさわれば、罪滅ぼしになるのだといって、多くの人に礼拝させたとのことである。
江河逆に流れ山を浮かべ石を流す
これは、大洪水であり、河川の大氾濫である。特に「山を浮べ」とは、大洪水のため平野全体が、水中に没し、山だけが、あたかも、水に浮かんでいるように見えるというような、ものすごい大洪水である。たとえば、延宝2年(1674)6月13日に、中国・近畿一帯が大洪水となった時のもようが、次のように記されている。
「北河内郡、南河内郡等は、堤防所々に決壊し遂に淀川の水と大和川の水の合するところとなり北は枚方より南は堺まで、東は生駒山麓より西は大阪まで一面泥海と化した。殊に大阪福島を浸した濁水は翌日逆流して天満に入り、天満川の水これに合して、天満、長柄から尼崎に至る一円に氾濫し、草木も見えぬ程白波滔々と波立った」とある。まことに「江河逆に流れ山を浮べ石を流す」ごとき惨状ではないか。
最近では、昭和34年(1959)伊勢湾台風の時、低地一帯は完全に海の中に埋没してしまった。また、昭和40年(1965)9月15日台風20号がもたらした1000mmを越す記録的集中豪雨で奥越の平和境といわれた福井県大野郡西谷村は、一瞬のうちに泥沼の村となった。
「西谷村の災厄は9月15日朝、突然にやってきた。ゴーツという音が前ぶれの山津波だった。黒いドロ水がまたたくうちに全村を包んだ。ドロの流れはみるみる腹から腰、腰から屋根までと高くなった。家具や衣類も持ち出すヒマはなかった。中心部の中島地区では総戸数106戸のうち100戸まで倒壊、流出し全滅状態、村役場も小学校も、公民館もすべてドロの中に埋まっている。『父祖伝来の土地も安住の地ではない』と知らされた村民の一部は早くも離村をはじめている」これまた大水の悲劇である。
第五難大風数起難
大風.万姓を吹殺し国土.山河・樹木.一時に滅没し、非時の大風.黒風.赤風・青風.天風・地風・火風水風あらん是くの如く変ずるを五の難と為すなり
「大風.万姓を吹殺し国土.山河・樹木.一時に滅没し」とは、尋常の大風ではない。わが国においては、史上、いくたばか、猛烈な暴風に襲われ、しばしば大雨をともない、山くずれ、洪水等を引き起こし、ある一帯の地方をまるでしがった光景にしてしまった例も少なくない。たとえば、慶長9年(1604)7月13日に土佐を襲った大風雨は、猛烈なもので、洪水をともない、徹底的な被害をその地方にもたらした。「不時頓に大風吹来り洪水湧、山之竹林を吹倒し諸之作物根葉を枯らし家微塵に吹なし、山は河となし淵河は山と埋れ、人之首も吹切るほどの大風なれば深山幽谷之民等土木におされて死るもあり、或は半死半生の消息、風国土の人民、何計何万」
これには、多少の誇張はあるにしても、ものすごいものだったにちがいない。外国においても、猛烈が風害が記録されている。1780年ごろにアメリカの西海岸を襲ったハリケーンと呼ばれる、すさましい嵐は40000人の人命を奪った。また、1876年、インド洋で起こった猛烈な暴風雨は、ベンガル州海岸で、山のような波を引き起こし、25万人以上の人が、荒れ狂う水の中で生命を失った。竜巻もまた猛威をふるう。1904年に、モスクワの南東にものすごい旋風が巻き起こった。家からはぎとられた屋根は、まるで軽い紙のように空に舞い上がり、古いアンネンゴフスカヤの森は、ほとんど全滅してしまった。太さ1mの大木も吹き倒され、さらに森の中で遊んでいた牛は、風のため空中に吹き上げられ、数秒間飛行したという。
だが、経文のごとくであれば、さらに苛烈な大風が吹きすさぶことが考えられる。あまりの異常気象に、大竜巻のごとき現象が一時に頻発したらどういうことになろうか。人を吹き殺し、山河、樹木等ことごとく破懐される等と、まことに恐るべきではないか。
また、「黒風・赤風・青風」も吹くとあるが、これは、巻き上げられた黒土、赤土の砂塵を含んだ風、あるいは緑色の海草を含んだ風であろう。これがまた、黒色、赤色、緑色等の雨や雪を降らす原因であることは、前述のとおりである。
第六難天地亢陽難
天地・国土・亢陽し炎火洞燃として・百草亢旱し・五穀登らず・土地赫燃と万姓滅尽せん是くの如く変ずる時を六の難と為すなり
これはいうまでもなく旱魃である。旱魃の被害については、しばしばのべてきたので、ここでは省略する。ただ、旱魃に対し、ダムを作り、水を貯えて、いざというときそれを使うことができ、あるいは、穀物の貯蔵もできる今日においても、もし、この経文にあるがごとき、大旱魃が起これば、まことに甚大な被害を与えるであろう。あるいは「万姓尽きん」とあるがごとき事実が、未来に起きないと断定することはだれもできない。ただでさえ、ときおり水不足が問題になる今日、また、ますます多量の工業用水を必要とする今日、しかもダムとはいえば、台風をあてにしなければならないようなものである現在、河の水を干し切ってしまうような恐るべき旱魃に見舞われたならば、対処すべきなにものもないではないか
第七難四方賊来難
四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん・是くの如く怪する時を七の難と為すなり
これは、薬師経の七難のうち、他国侵逼と自界叛逆の二難にあたる難である。この難についても、すでにしばしば論じておいた。また本章以後に、何回となくふれるべきことであり、ここでは最後の「刀兵劫起らん」ということについてのみ言及したい。
宇宙に存在するもののなかで、永遠に変化せず、そのままの姿でとだまっているものはひとつもない。いかなるものも、必ず、誕生、存続、破懐、死滅を繰り返して、絶えず変化を続けている。これを、仏法では成・住・壊・空と呼んでいる。
成とは、一つの生命が誕生し、成長していく状態をいい、住とは成長が終わって爛熟期にはいり、それが存続していく状態をいい、壊とは爛熟期を過ぎて老衰期にはいった状態をいい、空とはある一定の生命活動が終わって宇宙のなかに溶け込んでしまった状態をいう。
これを人間の一生にあてはめてみると、母の胎内に宿り、出生して成長する青少年時代は「成」であり、人生の爛熟期である壮年時代は「住」、老年期は「壊」、死んで生命が宇宙のなかに溶け込んだ状態を「空」ということができる。人間に限らず、アミーバのような下級動物から、机やコップなどの非常の生命にいたるまで、宇宙の万物は、すべてこの四段階を循環すると説いているのである。
これを地球についていえば、地球ができた当初は「成」であり、ここに人間等の生物が生息し活動する期間は「住」であり、地球がだんだん老齢化し、崩壊しゆく段階は「壊」であり、ついに崩壊し尽くして「空」の状態になるのが「空」である。
しかして、宇宙または一世界の成・住・壊・空とその時間の長さを説くのに、仏法は「劫」という単位を用いている。この「劫」なは、さまざまな説がある。大別して小劫、中劫、大劫の三種類がある。顕謗法抄に「人寿・無量歳なりしが百年に一寿を減じ又百年に一寿を減ずるほどに人寿十歳の時に減ずるを一減と申す、又十歳より百年に一寿を増し又百年に一寿を増する程に八万歳に増するを一増と申す、此の一増・一減の程を小劫として二十の増減を一中劫とは申すなり」(0447-08)とあるように、一小劫とは1600万年より2000年を減じた数(15,998,000年)である。したがって一中劫とはその20倍の319,960,000年の長さを指すことになる。そして、この中劫を4つ合わせたものを一大劫といい、この宇宙の始終の長さとしている。そしてこの4つの中劫とは、はじめが成劫、つぎが住劫、さらに壊劫、最後が空劫である。では現在の地球の状態はどこにあたるかというと、俱舎論によれば「住劫第九の減」に相当するという。すなわち、成劫はすでに過ぎ、まもなく住劫の半ばに至ろうとしているのである。
天文学と成住壊空論の一致
最近の天文学では、地球の年齢について「現在の地球は成立後約50億年、生物ができてから30億年も経過した壮年期の惑星である」という結論を出しているが、これは年の数こそ違うが、この成・住・壊・空の四劫の考え方と、見事な一致を示しているのである。
成・住・壊・空を繰り返すのは、地球ばかりではない。夜空に輝く無数の星にも生まれたばかりの星、若い星、年老いた星等の差別があり、さながら人生のさまざまな姿を見るようである。さらにこれらの恒星と同じく、その構成体たる銀河系宇宙のような星雲すなわち島宇宙も、また一個の大生命体として成・住・壊・空の流転を繰り返しているのである。この大宇宙には、観測可能な範囲だけでも、2000億個の恒星を持つ銀河系宇宙のような島宇宙がが、なんと数千億個あるといわれている。この島宇宙がことごとく成・住・壊・空の四段階を流転しているのである。すなわち、この島宇宙を無数にかかえた大宇宙自体が、生命の法則にのっとって、巨大なエネルギーをたたえながら、悠久に変化を続けているのである。これまことに仏法で説く南無妙法蓮華経という生命の当体であり、無始無終に発展し変化する一大生命体といえようか。
さて、ここに「刀兵劫」とは、大の壊劫においては、火災、水災、風災の「大の三災」が起こって世界が崩壊していくのであるが、各小劫の末においても、「小の三災」が起こる。これが、穀貴、疫病、兵革の三災で、刀兵とは兵革の災のことである。曾谷殿御返事にいわく「三毒がうじやうなる一国いかでか安穏なるべき、壊劫の時は大の三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり、又減劫の時は小の三災をこる、ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり」(1064-14)と。
しかして、ここに「刀兵劫起らん」とは、法が隠没すれば、劫末に起こるような、刀兵劫が現実にあらわれ、すさまじい崩壊と、凄惨なる世界が眼前に繰り広げられるであろうとの意である。第二次世界大戦の惨禍、さらに全世界を崩壊し尽くし、全人類を絶滅させるであろうといわれている核戦争は、まさにこの金言どおりではないか。この御文によれば、創価学会の出現がなければ、絶対に第三次世界大戦は避けられないのである。創価学会の今日の活動こそ、まさしく戦争を絶滅し、人類に幸福と繁栄をもたらす、唯一の光明である。そこには、妙法のリズムがあり、仏界の慈悲があり、生命の奥底からの歓喜があり、感激がある。これがやがて全世界をおおってゆく時、人類それ自体が宿命転換をなし、平和な世界、幸福な世界が出現することを心から確信し、強く主張してやまぬのである。
三千大千世界と現代天文学
この経文に「大王吾が今化する所の百億の須弥・百億日月・一一の須阿弥に四天下あり、其の南閻浮提に十六の大国・五百の中国・十千の小国有り」と。
これ、まことに雄大な宇宙観えはないか。太陽・月・地球等をひっくるめた世界がただ一つではなく百億もあると説かれているのである。しかも、それぞれの世界に人の住む南閻浮提があり、そこに国も形成されている、ということである。
ここで須弥山を中心とした宇宙観について一言したい。
三千年前、釈尊出現当時、まだ一般には須弥山を中心とする世界観、宇宙観が信じられていた。
釈尊も、それを否定せず、一応は用いているが、あくまでも絶対的なものとしてではなく、衆生の機根にしたがったものであろう。それは須弥山を中心とした宇宙観が、もっとも低い小乗経に多く説かれていることからもうかがえる。おそらく釈尊は、生命の実相を説かんとして、当時のインド人の生活感情を考慮に入れたにちがいない。
仏経典で説く宇宙観は、経文によって多少の違いはあるが、大略次のようなものである。
まず、われわれの住む世界の中央には、須弥山という途方もなく巨大な山がそびえている。これは、妙高山と訳し、その東面は白銀、西面は波璃、南面は瑠璃、北面は黄金でっあて、大空に色彩あるのは、その輝きによる。山の形がまた、まことに奇抜で、上と下の直径が大きく腰がほそい杵のような形である。その高さは水面より八万四千由旬、水底より水面まで同じく八万四千由旬、したがって全体の高さは十六万八千由旬となる。一由旬とは、僧肇の「註維摩」に「上由旬六千里、中由旬五千里、下由旬四十里」とあり、また西域記には三十里とありまちまちであるが、通常六尺一足、三百六十歩一里、その四十里の長さ(一由旬=25920m)(須弥山の高さ4354560000m)であるという。その須弥山の頂上は直径八万由旬(2073600000m)で、三十三天に分かれ、その一つの喜見城天に帝釈天が住み、他の三十二天を支配するという。
この須弥山のまわりには、香水海があって須弥海という。さらにその外側を七つの金山とそれと同名の七つの功徳海が囲んでいる。七つの金山とは、踰健達羅山、伊沙駄羅山、朅地洛迦山、蘇達梨舎那山、頞湿縛羯拏山、毘那怛迦山、尼民達羅山であり、その高さは須弥山からしだいに二分の一を減じて、尼民達羅山の高さは六百二十五由旬(16200000m)である。(Tommyの計算では17010000となるが)一番外側の海(それより内側の海を内海という)は鹹水をたたえた大海であって、さらにその四方を鉄輪囲山という高い山に取り巻かれている。その外界の四方に四つの大陸があり、東方を弗婆提、南方を閻浮提、西方を瞿耶尼、北方を欝単越といった。そのうち南方の閻浮提はその中央に阿褥達(Tommy言エベレストか)という山がある。さらに、その南は天竺(インド)東北は震旦、西北は波斯国(ぺルシャ)である。そして、日本は南閻浮提、震旦の東方海中の栗散国つまり小島群の一つでる。これは、いうまでもなくヒマラヤを中心とした世界図である。今日では全世界を含めて閻浮提と考えることができる。(Tommy談 ここには南北アメリカ、豪州、アフリカ等は含まれていないが、これははだ、未発見の地と考えるべきであろう。)
太陽も月も、この須弥山を中心に運行しているという。そしてこの九山(須弥山、七金山、鉄輪囲山)八海(七内海、一外海)を含めて、一世界の最小単位と考え、これを小世界といったのである。
むろんこうした世界観は、現在においてそのまま認めるわけにはいかない。戸田前会長は「仏法において、須弥山中心の世界観は現在の地球上ものをもって考えることはできない。この国土観は、現在のことばをもってすれば、宇宙観ともいうべきでものである」と述べている。また、須弥山が七宝をもって作られているということなどをもって考えれば、現実の山ではなく、生命論であるとも考えられる。
しかし、仁王経等の大乗教へくると、須弥山を中心とした宇宙観は、巨大なスケールをもって説かれるのである。すなわち百億の須弥山、百億の日月」等と、こうした世界が百億もあるという。
さらに、これは仏法の宇宙観のほんの一部でしかない。さらに三千大千世界という、まことに膨大な宇宙像が示されていく。三千大千世界とは、太陽、月、四州、六欲梵天等を含むものを一世界とし、それを千合わせて一小千世界、一小千世界が千集まって中千世界、中千世界が千で大千世界、また大千世界という。また一説には、三千大千世界の最初の一小千世界は一小世界が百億集まったとする説もある。
「三千大千世界と申すは東西南北・一須弥山・六欲梵天を一四天下となづく、百億の須弥山・四州等を小千と云う、小千の千を中千と云う、中千の千を大千と申す」(1104-03)
これによれば、仁王経で説かれた「百億の須弥、百億の日月…」なども、三千大千世界のうち、ただの一小世界にすぎない。さらにこの三千世界すら、宇宙観のほんの一部にすぎないのである。
釈尊最高の経典たる、法華経本門寿量品には「五百万億那由陀阿僧祇の三千大千世界…」とある。これは、五百万億那由陀阿僧祇=5×100×1000×10000×100000×1028×1056の三千大千世界=1000×1000×1000の須弥山があるということになる。
仏法の宇宙観と天文学の比較
この三千大千世界の考え方と、現在の天文学を比較してみよう。
一つの恒星をとりまく世界が一小世界である。これが1000集まったのが、一小世界であるという。その1000倍のまた1000倍が三千大千世界であるから、この三千大千世界には1000000000個の小世界が集まったことになる。また、最初の一小世界が10000000集まったとする説もある。この説に従えば、この三千大千世界には1000000000000個の小世界があることになる。いずれにしても、これがさらに、五=5×百=100×千=1000×万=10000×億=100000×那由陀=1028×阿僧祇=1056の三千大千世界となれば、5×10117となり、現代の天文学をもはるかにしのぐ、まことに膨大な数量であないか。
最近の天文学の成果によれば、われわれの地球が属する、この銀河系宇宙は太陽のような恒星を約200000000個も含む島宇宙で、銀河系外のアンドロメダ大星雲や大マゼラン星雲のような島宇宙とまったく同格の小宇宙であることもわかってきた。しかも宇宙全体には、このような小宇宙が、なんと数億個も存在するというのである。これは、アメリカのパロマ天文台の二百インチ望遠鏡で見える半径二十億光年内の数である。
しかも、銀河系宇宙の中には局部恒星群のようなものが多くあり、また銀河系宇宙のような星雲が数万個集まって超銀河系をつくり、つぎつぎに大きな集団をつくっていくことが確認されている。
この近代天文学による宇宙観と、先に述べた三千年前の仏法の宇宙観を比較したときに、不思議にも一致しているのである。この三千大千世界という考え方は、けっして仏法の究極でもなければ、骨格でもない。多分に当時のインドの民衆の心に合わせようとして説かれた面もあり、低い小乗、権大乗にも説かれているのである。
だが、それすら、現代科学が、つい最近ようやくたどりついた結論にすぎないのである。
むろん、何の実証も得られなかった三千年前のことであり、数こそ違うが、その基本的な考え方については、驚くべき正確さを持っているのである。
現代の宇宙観によれば、われわれ銀河系宇宙は、二百億年の歴史をもち、直径が約十万光年、中心部の厚さが一万五千光年ぐらいの凸レンズの形をした、二百億の恒星と莫大な星間物質の大集団で、渦状星雲といわれているもなである。その全体を取りまいて半径六・七万光年ほどの星と希薄なガスと球状星団があり、銀河系のコロナとかハローと呼ばれる。
また太陽系は、銀河系の中心から27000光年ぐらい離れた所で、渦巻きの腕の一本の端の方にあるといわれる。銀河系宇宙は二億年の周期で自転しており、電源で観測した結果では銀河系の中心部、半径二・三千光年のところで、さらに十倍ほどの早い速度でまわっているという。
しかも、太陽は恒星としては、ごくありふれた星で、恒星進化によって、何代も世代を経た恒星といわれる。それでは太陽という恒星の惑星である地球は、どのようにしてできたか、また地球のように生物あるいは人類のごとき高等生物が住む天体が、ほかにこの宇宙にあるのだろうか。また、あるとすればどのくらいありうるのだろうかという疑問が生ずる。
いずれにしても、太陽はありふれた恒星である。地球のような惑星も宇宙のいたるところに無数に存在し、したがって、人類否それ以上の高等生物の住む無数の仏国土が、現実に、この宇宙に存在することが明白に証明されているのである。しかし、法華経以外の権経で説く西方十方の極楽浄土のごとき仮説は、もちろん論外である。その法華経等で説かれる三世十方の仏国土観等は、まことにおもしろいものである。
地球の生成に関する二説
地球が太陽から分かれて、太陽の子供として、飛び出してきたという説は、現在、否定されている。そして地球の生成に関して、大きく二説がある。
第一の説は、太陽の誕生の過程で、地球も自然にできたというものである。太陽のような恒星の母体は、星間物質という冷たいガスや微塵の巨大なガスの雲であった。このガス雲が、自転するうちに、中心は冷たい原始太陽となり、まわりの渦巻き運動のなかから、惑星や衛星が生じたとする。
このような雲が、同じような二つのものに割れると連星となり、三つに割れると三連星になり、一方が大で一方が小さいと、小さい方はいくつかにも割れて惑星になるという。星全体の半分ほどが、連星であるという事実は、この説に有力である。具体的な過程となると、カイバー、シュミット等の理論が、さまざまにあり、定説ではないが、惑星は星間物質からできたとする点で、一致している。
地球形成の第二説は、ホイルによって最近唱えられた説である。太陽と地球の組成は、かなり違っているところから、地球は、太陽と連星になっていた巨大な星が、超新星となって大爆発し、ガスとして吹き飛ばされた。そして、超新星の高温の恒星核には、すでにあらゆる原子核融合反応が行われ、現在の地球や惑星と同じような組織をもっていた。
この恒星核が太陽から飛び去る前に、ガスの雲を吐き出し、太陽がこれを捕えた。このガス雲は太陽のまわりに拡がり回転する円盤の形をとり、惑星は、この円盤内の仏質から凝結したとする。すなわち、地球の真の親はまったく太陽ではなく、飛び去った不明の星ということになる。連星が多いことは、この説をも有力にしている。
そして、第一・第二説のいずれもが、地球のごとき惑星が、全宇宙に数限りなく存在しうることを示している。すなわち、第一説にあっては、銀河系だけに限っても、二千億の恒星のなかに1%ないし10%が惑星系をもつとし、小さく考えても二十億の恒星に惑星系があり、平均十組の惑星をもつとして二百億の惑星が存在することになる。すなわち全宇宙では、数千億の星雲が存在しているから、二百億×数千億の惑星があることになる。
また第二説によっても、銀河系内で、二百年ないし三百年について一回の割合で、超新星が爆発したことが、歴史上わかった。しかも、他の星雲で広範囲に捜索した結果、超新星の爆発は一つの星雲について四百年ないし五百年の割合で起こるという。ゆえに各星雲では百万個の惑星系、千万の惑星、したがって、全宇宙では千万×数千億の個の惑星があることになる。
もちろん、これらの惑星の中には地球に似たような状態の惑星や、地球よりもっと生命の存在に良い条件をもつ惑星が存在しているかもしれない。そして、人類と同じ、また人類よりも高度の知能をもった生物が住むとも考えられるのである。
惑星に生命が誕生して三十億年もたてば、地球と同じく頭が一つで、手足が二本ずつの形の生物にまで進化しうることは、まず疑いないことであろう。しかして、地球上と同じく、仏法律、仏法哲学は必ず宇宙の哲学として、価値をもつことは、最高の道理なるゆえに、これまた疑いないところであろう。
第七章 再び大集経を挙ぐ (0020-04~0020-10)top
大集経には「もし国王があって無量世にわたって布施を行じ、戒律をたもち智慧を修得しても、正法の滅するを見て捨てて擁護しないならば、このようにして植えてきたはかりしれないほどの善根み、皆ことごとく滅し失い、その国に三つの不祥事がおこるであろう。一には穀貴・二には戦争・三には疫病である。 |
講義
これは、三災を明かした経文である。先に三災とは大の三災と小の三災があり、大の三災は、壊劫の時起きる火災、水災、風災であり、小の三災とは、小劫の終わりに起きる、飢渇、疫病、合戦である。今、大集経では、飢渇を穀貴とし、合戦を兵革として、第一に穀貴、第二に疫病、第三に兵革としている。ともに同じ意味である。
つらつらこの文を見るに、現今におけるアジアの悲劇を映し出してあまりなき明鏡たるの感を深くする。
日本もかって未曾有の兵革の難に会い、また終戦後も、物価の急上昇、疫病の蔓延、さらにアメリカ軍の占領下にあったことを思うときに慄然とせざるをえない。だが、今日においてもけっしてこの三災が去ったわけではない。否、むしろ、形を変え、しかもまた、さらに深刻に、この三災が起きつつあるし、また、将来に起こるやもしれぬ。言語を絶するような悲劇の、前兆すら、ここかしこに存するのである。さらに今日のアジアにこそ、この三災の並び起こる泥沼のごとき様相を見いだすのである。
朝鮮戦争の悲劇
あの昭和25年(1950)より始まり、三年にわたる激しい戦闘が行われた朝鮮戦争は、まことにあわれであった。正確な点は不明ではあるが、アメリカ側の発表によれば、国連軍の死傷者は36万人、そのうちアメリカ兵14万人、韓国兵20万人に及んでいる。また共産軍の損害は、中共軍90万人、北朝鮮軍52万人におよんでいる。また、共産側の公表数字だと、国連軍は66万以上の死傷者を出している。また民間の被害も膨大なもので、韓国の資料によると、南朝鮮だけで、人命の被害が92万人、戦災をうけた人々は無慮400万にのぼるという。北朝鮮のそれと合わせたら、もっと恐るべき数字となることは確実である。
全朝鮮のめぼしい施設や建物は、ほとんど破懐しつくされた。かって東洋一を誇った水豊の発電所をはじめ、北朝鮮の工業地帯は全滅に近い被害をうけた。北朝鮮側の発表によれば、その被害総額は4200億北朝鮮円におよび、破懐された工場、建物は8700ヶ所、面積にして280m2、住宅は60万戸に達するという。韓国の首都京城の市街も三度にわたる猛烈な攻防戦でその1/3が破壊されてしまった。
いったい、このような犠牲を払って、なにを得たというのか。二つの朝鮮が民族の願いを反映して一つになったとでもいうのか。なにも得られず、まっ二つに分裂されたままの朝鮮民族の不幸は、今日に至るも、痛ましい姿ではないか。
この時、日本の多くの人たちは、この挑戦動乱をなんと考えたでろうか。ある人は興味本位に、日々の報道に耳を傾け、国連軍と共産軍の攻防戦に、心を奪われていたのではあるまいか。また、ある人は、日本の好景気の到来を心ひそかに喜んでいたのではあるまいか。他国の不幸によって、一国の繁栄がもたらされるなどとは、まことにいまわしきことではないか。所詮、一国の繁栄と全世界の平和とが一致せる、戦争なき、相互扶助の世界をつくらぬかぎり、この矛盾はいつまでもつきまとうのである。
とまれ、日本の国内で、朝鮮民族の不幸をわが不幸と感じ、アジアの幸福を絶叫した人が、いったい何人いたであろうか。この時、真に朝鮮民族の嘆きを、自分の嘆きとし、東洋広布流布に立ち上がったのは、私の恩師戸田前会長であった。
「38度線を中心とした朝鮮の戦争は、共産軍と国連軍の闘争である。
戦争の勝敗、政策、思想の是非を吾人は論ずるものではないが、この戦争によって、夫を失い、妻をなくし、子を求め、親を捜す民衆が多くおりはしないかと、嘆くものでる。
きのうまでの財産を失って、路頭に迷って、にわかに死んだ者もあるであろう。なんのために死なねばならぬかを、知らずに死んでいった若者もあうであろう。『私は何も悪いことをしない』と叫んで殺されていった老婆もいるにちがいない。親とか兄弟とかいう種類の縁者が、世の中にいるのかと不思議がる子供の群も、できているにちがいない。着のみ着のままが、人生の普通の生活だと思い込むようになった主婦も少なくあるまい。昔、食べた米のごはんを夢みて、驚く老人がいないであろうか。
彼らのなかには共産思想がなにで、国連軍がなんできたかも知らない者が多くなかろうか。『お前はどっちの味方だ』と聞かれて、驚いた顔をして、『ごはんの味方で家のある方へつきます』と、平気で答える者がなかろうか。
朝鮮民族の生活はこのうえない悲惨な生活で、彼らの身におおいいかぶさった世界は、悪因悪時の世界である」
この朝鮮民族を思っての言葉が、まったく今日のベトナムの姿にあてはまっていることは、驚くべきではないか。さればこのベトナム戦争に終止符を打つためにも、さらにアジアをこの悲劇から救うためにも、第二、第三のベトナムをつくらぬためにも、この朝鮮戦争および、その後の朝鮮民族の悲劇の真因をつきとめねばならぬと信ずる。
真の朝鮮民族を救うもの
戸田前会長は、さらに、この大集経の文を引いて、次のように述べている。
「この文、日本国にあたり、朝鮮民族にあたりはしないか。『我が法の滅せんを見て』とは、仏教、真実の仏教が滅するをみて、国の主権者が『のほほん』としてバカな顔をしていれば、三つの災難がって主権者がどんな政令をくだしても民衆はいうことをきかないということだ。日本国のすがたはどうであろうか。朝鮮民族はこれをもってどう考えているか。『常に隣国に侵嬈せらる』と。この文、東洋において日本および朝鮮を除いて、いずこの国をさすか。
『暴火、暴風、暴水』と、かかることありしや、また、これより先起こるとするや、仏の教えなれば、吾人はこれを信ずるものである。「人民を吹タダヨワし内外の親戚其れ共に謀叛せん」と、上は朝鮮にこのすがた顕著にして下の文日本に歴然たり、恐るべし、悲しむべきである。人民がいくところがない。楽土に対する希望がないほど悲しきことはない。自己の生命の努力は、大風に吹きちらされる鳥の羽毛のごときものであるからだ。
ただ天をうらみ地に泣き、救いを求めて助けなく、泣く声も、ただ風をただよわせるだけである。ついに神をうらみ、仏を憎み、世をのろい、人を怨み、地獄、修羅、業火に身をこがすだけである。『王の寿終わって後は大地獄の中に生まれん』と。またいわく『夫人も子も大臣も、その政治の責任者はまた同じ』。そのごとくであるかいなや、仏眼によるにあらずんば知るよしもないが、仏は不妄語の方である。仏が不妄語の人ならば、『仏法 真実の仏法』のまさに滅せんをみて、捨ておいた王の後生ほどは恐るべきである。
これ三つの不祥のことありというなかの一つである。『穀貴』とは、物が高くて民衆が買うことができない。生活程度の下落することで、すなわちインフレのことである。
二つに『兵革』とは、戦争の災難を受けるということである。それが外国からの戦争にしても、内戦にしても民衆にとって、なんの価値があるであろうか。
三つに『疫病』とは、伝染病の流行である。また民衆の精神分裂を意味する。一人は共産主義で、一人は国粋主義だ。一人は資本主義だ、一人は享楽主義だ、また個人主義うんぬんと、民衆間の思想上、政治上、なんの統一もおこなわれないすがたである。
この大集経の三つのすがたが、東洋になにをさすのか、またありとすれば、いずこの国をさすのか。
これ皆、仏の金言にそむいて仏をまつらないところから出来したものである。邪宗教、低級仏教によって、仏の真意にそむく仏罰である。日蓮大聖人の『世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず』とのお教えを再度繰り返して吾人は叫ぶものである」
まさに、朝鮮民族の悲劇は、日本と同様、真実の仏法を隠没し、低級な思想、邪義、邪智の横行にまかせたからにほかならない。その源流もまた遠くさかのぼるのである。
仏教弾圧以来朝鮮民族の悲劇は続く
三千年の歴史をひもとくとき、朝鮮半島の果たした偉大な役割を認めぬわけにはいかない。
日本に初めて仏教を伝えたのは、朝鮮半島南端の国、百済であった。インドから中国に伝えられた仏法は、たちまちのうちに、高句麗、百済、新羅へと伝わり、朝鮮半島に広宣流布したのである。
特に、半島史四千年のなかでも、最も平和であり、文化の発展し、かつ半島全体の統一国家をつくりあげたのは、国みずから法興と称して、仏法の国家を根本においた新羅であった。
この時代は朝鮮漢字の「吏読」が生まれ、そのほか朝鮮固有のものは、ほとんどその基礎がつくられている。
しかしながら、今日その仏法はどこへいってしまったのか。朝鮮半島に仏法の光は消え去ってしまっている。李朝時代の太祖、李成桂は、高麗末の儒者であった鄭道伝らを使って、外道儒教を国教とし、仏教を弾圧しようとかかった。経文や寺院を焼き払い、僧侶を賤民においやるまでに「排仏毀釈」運動が行われたのである。
それ以来、表面的な繁栄の時代はあったにせよ、絶えず「他国侵逼難」「自界叛逆難」に悩まされたのである。すなわち、日本の豊臣秀吉との戦争「王辰の倭乱」、また「丁卯・丙子の胡乱」がそれである。このふたつの「他国侵逼難」のため、国土は荒廃し、農民は流民となってさまよった。
また旱魃、水害、悪疫などの「三障七難」が相次ぎ、なかでも顕宗の時代に起こった大飢饉は、前二者の戦争による戦死者以上の餓死者を出し、李朝の復興期であった英祖の時代に起こった飢饉は、二十五年間で疫病による死者60万、飢民333万人を出したとさえいわれる。
ゆえに、李朝は歴代王朝のなかでも、最も悲劇的な幕を閉じねばならないという結果に終わったのである。
儒教精神のなかでも、特にその「家父長的那名分主義」、「尚古的事大主義」、繫文褥礼のみの形式主義、また同階級内での「文武の差別」、「嫡庶子」の徹底した差別、「再嫁女・子孫」の不採用、そのほか地方的差別などの悪習は、きょうもなお朝鮮人民の生活の根に深くはびこっており、南北統一の大きな障害となっている。
朝鮮民族が、二大陣営の対立の具となり、南北に分かれて、同胞を互いに敵視し、残虐な殺戮をし合う、あの悲惨な姿は、実に「我が法の滅せんを見て捨てて擁護」しなかったところに淵源があることを知るべきである。
以来、朝鮮民族は、福運をなくしてしまった。韓国についていえば、過半世紀を振り返ってみると、三十六年間の日本の統治、やっとめぐってきた民族の解放と独立、その喜びも、つかのまに始まった朝鮮戦争の悲劇、戦後も南北の対立の溝は、ますます深く、再び統一することは絶対にありえないようなところまできている。また、戦争後に残された戦火の傷跡と独裁政治、二回にわたる革命と日韓正常化をめぐる学生のデモのアラシ 韓国はまさに悲劇の国である。しかも今なお、悪政につぐ悪政のために、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいる。三災の第一である「穀貴」は、今なお民衆に重くのしかかっている。民衆の生活程度は極度に下落し、インフレはますます激しく、政府がいかにこれを再建しようとしてもかえって悪化し、完全に麻痺状態である
第二の「兵革」についても、朝鮮動乱による戦火に民衆がいかほど、苦しんだことか。この惨禍は、今なお生々しいしい爪痕を残しているのである。さらに、クーデター、内乱は相次ぎ、絶えず政情不安であり、そのもとにあって民衆は、苦悩を続けてきた。さらに、たえず他国侵逼難の危機にさらされているのが、現状ではないか。戦争であれだけ辛酸をなめた韓国が、今日再び、ベトナムへ軍隊を出兵せざるをえないのは、なんたる不幸であろうか。
第三に「疫病」であるが、伝染病の流行はもとより、民衆の精神状態は錯乱し、思想上、政治上の統一がなく、争いが絶えぬ姿である。
アジア全体が三災並び起こる姿
こうした、一国一民族の総罰の悲惨な歴史を綴ってきた朝鮮半島の姿は、また、アジア全体の姿である。
しかして、今日、朝鮮戦争の悲劇が、ベトナムに展開されているのである。現在、米軍は、北爆を強化し、南ベトコン地区に対し、徹底的な焦土作戦を行なっている。ガソリン、重油などを広範囲に散布し、そのあとへパーナム弾を投下し、一帯を火の海と化す戦法である。特に中部の密林地帯に行ない、広いところは、100km2が数日間にわたり燃え続けている。今や各地区で避難民の洪水であるという。戦争の谷間にある、これらの民衆の心はいかばかりであろうか。大殺戮につぐ大殺戮、しかも南ベトナムに、各地には予想されなかったベスト病が流行し多数の死者を出したとも伝えられている。さらに深まりゆく飢餓の惨状は目にあまるものがある。
かくして、兵革・飢饉・疫病の三災の充満せる国土となっているのである。豊かな自然を破壊し、無辜の民衆の、苦悩せるアジアの惨事を、同じ人間として、同じアジアの一員として、また大正法を護持するわれわれとしては、黙って見ていられないのが心情である。さらに、この悲劇が日本に起こらぬと、誰が断言できようか。
今日の日本もまた、三災ならび起こらんとする兆しは、いたるところにある。物価は上昇の一途をたどり、生活苦にあえぐ民衆は決して少なくない。すなわち「穀貴」である。「兵革」の難もまたいつ起きないともかぎらない。また第三次世界大戦の危機は、今やいずれの国の民衆にもいい知れぬ恐怖と不安を与え、日本もまた例外ではない。さらに二大陣営の対立、もっと直接的には米中戦争の渦中にいつ巻き込まれるともしれぬ。われわれが、一日も早く広宣流布を実現して、日本民族の真の幸福をはかりたいと願望するも、まさしくこのただならぬ世界情勢があるからである。
また「疫病」にあたる災難もけっして少なくない。奇病・ガン等、治らぬ病気が多く、また性病等も横行し、さらに四信五品抄に「国中の疫病は頭破七分なり」(0343-14)とあるがごとく、精神異常をきたす人が多く、また思想の分裂と混乱も甚だしいものがある。これまさに、現代における「疫病」ではないか。
三災の根本原因とその終止符への道
御義口伝には、法華文句を引いてこれらの三災の起こる原因を、五濁のなかの劫濁の姿から、次のように説いている。
「相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり」(078-02)
この文章の意味は、こうである。劫濁の相というのは、四濁がきわめて激しく、ある時代にあつまっていることである。瞋恚が激しくなれば、その国土に戦争が起き、貪欲が盛んな時には伝染病が蔓延する。このような三災が起こってくると、人々の煩悩はますます盛んとなり、諸々の邪悪な思想や宗教がはびこるようになるのである。
これと同様の御文は曾谷殿御返事に「飢渇は大貪よりをこり・やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は瞋恚よりをこる」(1064-15)とある。
まず「瞋恚増劇にして刀兵起り」とは、戦争の本質をついたものである。戦争など狂人でない限り、誰一人として望んではいない。これを望む人があれば、まさに姿はどうであろうと魔であり、鬼であると断定せざるをえない。ではいったい、誰も望まぬにもかかわらず、なぜ戦争が起きるのか。核兵器が製造されるのか。第三次世界大戦の恐怖におびえねばならぬのか。これは、理性では絶対にわりきれぬものがある。これ、ひとえに、人間の生命に、本然的にそなわる瞋恚の生命があるからにほかならない。平和を願う人が、ひとたび戦争の渦中に巻き込まれるや、殺人鬼のごとく殺戮に狂奔するのも、指導者の頭が狂い、まるで何かにとりつかれたかのごとく戦争をかりたてるのも、これまったく瞋恚からくるものである。「修羅は身丈八万四千由旬」とあるが、これら生命からいえば、怒りの境涯であり、怒りのために、あらゆるものが、見境がつかなくなり、人間までが小さなものに見えてしまう。小さくは個人間の争いも、大きくは戦争の際の、あの残虐さも、ことごとく激怒と激怒の衝突によるものである。
次に「貪欲増劇にして飢餓起り」とは、人々が、利己主義で、自分の利益を追求することのみに没頭し、あくせくしていくならばたまたまの旱魃が、徹底的に民衆に大打撃を与え、飢饉が起こるのである。特に政治の劣悪は、インフレを起こし、人々の生活を苦悩のどん底へと追いやるのである。人々は、他人をけおとしてまで、自己保身のために躍起となり、これがますます、飢饉を増していくのである。特に指導者が貪欲にかられ、不正を事とし、おのれ一身の利益追求にのみふけり、民衆を忘れたんらば、民衆は塗炭の苦しみを味わねばならない。これ今日までの歴史があまりにも明確に事実を物語っているではないか。
さらに、「愚癡増劇にして疾疫起り」とは愚癡すなわち愚かであるため、病気が起こるというのである。すべての病気は、正しいリズムからはずれたときに起こる。すなわち病気とは、生命の不調である。それは一時的、部分的、末梢的な不調和である場合もあるし、また永続的、全体的、根本的な不調和の場合もある。それによって、病気の軽重、治療の難易も分かれてくるのである。そしてそれは、外部から引き起こされる場合もある、内部から引き起こされる場合もある。後者は前者より重く、現代医学をもってしても解決できないのがほとんどである。だが、いずれにせよ、所詮は、生命力の減退こそ病気の根本原因であると断ずることができる。もし、生命力に満ちている身体であれば、外部からの病原菌に左右されず、少々の病脳もゆうゆうと克服していくことができるからである。しかるに愚癡蒙味して、目先のことのみに目を奪われ、正しきことに積極的にならず、無気力となり、生命力が衰え、そこに疫病が蔓延するのである。
「三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり」とは、こうした人々の生命の濁りが原因で刀兵、飢餓、疾疫がおこるのであるが、この三災が原因となって、さらに煩悩や邪見を増すという悪循環を繰り返すのである。
しかして、この貧・瞋・癡の三毒は、実に、邪宗、邪教、邪智により盛んとなったものであり、また正法隠没とともに、わが身体の中に妙なる生命におおわれて、生命それ自体が三悪道、四悪趣のみ活発となったものである。この三毒は、事態とともに民衆を支配し、一国を支配し、たえず三災の起こる基盤となったのである。ゆえに、ゆえに、曾谷殿御返事の次下の文にいわく「今日本国の人人四十九億九万四千八百二十八人の男女人人ことなれども同じく一の三毒なり、所謂南無妙法蓮華経を境としてをこれる三毒なれば人ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にのりせめ流しうしなうなり、是れ即ち小の三災の序なり」(1064-16)と。
されば、今日の三災に終止符を打つ道は、妙法を根底にする以外にない。人々の生命が正常化され、清浄なるリズムが脈打ち、やがて、それが、日本一国のリズムとなり、全世界のリズムにしていくことは必然である。
国連とアジア諸国
第一次、第二次世界大戦によって、人類は国際間の平和機関をつくることによって、戦争の絶滅をはかろうとした。その結果、第一次世界大戦後つくられたのが、国際連盟であり、第二次世界大戦後につくられたのが、国際連合であった。
第一次世界大戦前にも、フランスのルソーによって「永久平和安」が提唱され、ドイツのカントによって「永遠の平和のために」という構想が立てられたこともあった。いずれも諸国家の連盟を論じたものである。
第一次大戦後の国際連盟は、20年にわたって続いたが、モンロー主義を唱える大国アメリカの非加入、あるいは日本、ドイツ等の脱退が相次いで、ついに第二次大戦前に有名無実な存在となってしまった。
このような諸国家の連盟や連合では物足りないとして、さらに強く各国家を規制し拘束する「世界国家」やウェルズ等は、自由な民主主義によって統一政府をつくり、やがて世界国家に発展させようとする案を提出した。第二次大戦後において、世界国家ないし世界連邦を提唱する声は各方面からあがった。
しかし、諸国家の根本理念、民族性、宗教、哲学、思想、社会体制、民族感情、教育等を無視して、観念的な世界国家をうんぬんすることは有名無実である。アメリカ合衆国は、民族こそ違え、大旨、プロセスタントとして結ばれた精神的な同志国家があった。いまだにヨーロッパは統合というわけにはいかないが、EEC諸国も又、カトリックによって連帯感をもつ諸民族なるがゆえに、経済的結合が容易であったといえよう。反対にインドとパキスタンのごときは、同民族であっても宗教によって国家が分裂した例もある。
ゆえに、第二次大戦後も、世界国家、世界連邦というような形態は、戦勝国、敗戦国の両者がある以上、所詮は実現不可能であり、現状の国際連合という、平和愛好国家と称する諸国家の連合という形で実現した。これは現状としてはやむをえないものがある。なぜなら世界国家や世界連邦の構想は、理想的にはすばらしいものであるが、現実的には幾多の隘路がある。国際連合のごとき、ゆるやかな連帯感のなかにすら、戦争や相剋が絶えない。いわんや、そのまま一層拘束的な世界国家、世界連邦の規定に、諸国家が服従することは考えられぬからである。
もし、ここで世界国家ないしは世界連邦をつくって、各国家を無理に超国家的な規律に屈従させようとすれば、必ず世界国家ないしは江界連邦のなかに、現在の各国家間の相剋と同じ、内乱という名の争いが生ずるということは、火をみるよりも明らかである。
ゆえに、不本意ながら、第一に思想のうえで各国家が心から納得しうる大思想を奉ずるようになるまで、第二に世界の各国家の軍備が全廃され、ただ世界国家ないし世界連邦にのみ、世界警察軍とも称すべき軍隊が樹立されるまでは、世界国家、世界連邦の可能性はありえないのである。
しかして、その時までは、平和構想と国際協調をめざしてつくられた国際連合に、世界平和の保障と機能を任せる以外にない。国際連合を暖かく守り育て、機能を改善し、各国家の安全保障を、より立派にはかっていくことが大事であろう。
国連の問題点
しからば、国際連合は、いかなる形でつくられたのであろか。第二次大戦のさなか、イギリスの宰相チャーチルは、戦後の国際機構について考え、国際連盟よりも強力な世界平和維持機構をつくらねばならぬと決心した。さらにチャーチルは、国際平和についての大国の責務を重視していた。しかし、この考えが、安保理事会における大国の拒否権にまで発展して大国主義に陥った弊害もまた、いなめない事実であった。
このようなチャーチルの考えが、1941年8月、大西洋上のニューファウンランド島沖における、ルーズベルト大統領とチャーチル首相の会見の席上、連合国側の初めての公式声明として、第二次大戦後の国際平和機構についての提案がなされる原因となった。この大西洋憲章のなかに「広範かつ、より恒久的な一般的安全保障の体制の成立をまって」新しい国際平和機構をつくるべき宣言となってあらわれたのである。
ソ連のスターリンもまた大国主義を考えていたようであうが、1943年10月、連合国側におけるモスコー外相会談で、米英ソならびに中国を含んだモスコー宣言が採択され、この宣言の第四の原則は「なるべく短期間のうちに、国際平和と安全のために、すべての平和愛好国の主権平等の原則にもとづく世界的国際機構の設立を必要と認める。右の諸国は、大小を問わず、右の機構に加入することができる」とあり、第六の原則は、他国に対して武力を行使しないことについて定めた。
しかし、米英ソ仏中の戦勝五大国には、それぞれ、自国本位のおもわくがあった。いわく、大国主義と主権平等主義のいずれをとるか、また地域主義とするか普遍主義とするか、さらに権力中心主義か理想主義優先か、これらの理念がうずをまいて対立したが、結局、全部の加入を包含する国連総会と、大国を中核とする安全保障理事会の二つからなる普遍的国際機構をつくることに落ち着いた。
その他、安全保障理事会の表決方式について、大国一致の原則、いわゆる拒否権が、常任理事国の特権として保持されるということについては一致したが、拒否権の範囲を、いかに限定するか、拡大するのか等の論争があった。信託統治地域と非自治地域についても、意見が対立した。
1945年2月、ヤルタ会談で、拒否権問題で米英ソ三国の同意が成立し、国連創立は一歩前進した。すなわち、常任理事国たる大国の拒否権は手続き問題に適用されないこと、紛争の当事国は、平和的解決が試みられている際には拒否権を適用できないこと等で、妥協ができた。
1945年4月25日、サンフランシスコ市のオペラ・ハウスで、ついに国連創立会議がもたれた。6月26日に、国連憲章に署名したのは50ヵ国であり、少し遅れてポーランドが署名し、原加盟国は51ヵ国となった。しかし、サンフランシスコ会議の最大課題は、常任理事国となった五大国と、他の中小国との対立を、いかに調整するかということであった。かくて国連は創立時から、不平等問題で論争が始まった。結局、拒否権の範囲を狭くしようとする中小国の企図は成功しなかったが、総会の権限を増大させようという提案は成功して、総会に一般的な審議権・勧告権を与えるという、新しい条項が、国連憲章に追加された。そのほかラテン・アメリカ諸国およびその他の中小国の提案によって、国連憲章第五十一条の「個別的および集団的自衛の固有の権利」の規則が追加され、その結果、例外的に認められた集団自衛の方法が、全米相互援助条約、北大西洋条約、東南アジア防衛条約、ワルシャワ条約などの法的裏づけとなった。
日本の国連加入は1956年12月18日であり、80番目の加盟国となった。1952年4月28日、対日講和条約が効力を発して、独立を回復するや、国会の承認をえて、6月23日に国連事務局へ加入を申し込んだ。しかし、時あたかも米ソ冷戦の真っ最中であったため、ソ連の拒否権によって、4年の間、涙をのまざるをえなかった。
アジアに共同の場を設定を
1966年4月現在、国連加入国は、117ヵ国に達したが、遺憾ながら、中国はいまだに非加入であり(中国の加入は1971年10月常任理事国として、ただし、台湾はこの時点で国連追放となる)インドネシアは脱退(1966年秋・再加入)したままである。国連の今後の課題としては、第一に中国やインドネシアの加入を促進することであり、第二に国連安保理事会を改善し、さらに国連による安全保障体制の強化等の問題がある。特に第二次大戦後独立したAA諸国は、国連において過半数の60ヵ国を占め、大きな発言権を有するにいたった。
現在、アジア諸民族は世界32億のうち17億を数え、過半数を占めている。21世紀当初、第三次大戦さえなければ、世界人口は60億を越えるとみられるが、アジアの人口は実に40億に達すると予想されている。
この、2,3世紀の長きにわたって、欧米諸国の帝国主義に屈従され、植民地化の悲哀を味わってきた。しかも、ようやく独立したのちでも、二大思想対立の戦乱に巻き込まれ、経済的な苦難にあえいでいるのは、ほかならぬアジアの植民地である。そして、今なお飢餓と栄養失調は、アジアの諸国をおおっている。
二・三千年前といわず、数世紀前まで、偉大なる文化をほこってきたアジア民族として、まことに残念なことである。それだけに、平和を望み、繁栄を祈る声は、アジア民族にこそ、最も強いことを確信してやまない。現在もなお、欧米の大国主義の犠牲となり、大国のイデオロギー対立の犠牲となっているのは、ほかならぬアジアの民衆である。そのほかアジアの諸国が、低開発国の名前を返上できえないのも、ヒンズー教、イスラム教、カトリック教、小乗仏教、民間宗教等の害毒が、その根本原因である。アジア民族の悲哀は、アジア諸国から偉大なる大乗仏法を失ったときから始まったことは、歴史のよく示すことである。もちろん、信仰は、個人個人の問題として論ずるべきである。
ここで吾人が叫びたいのは、アジア民族が、国連を中心として、世界平和のために、絶対平和思想をかかげて、立ち上がるべきだということである。真にアジア民族が、いかにしてアジア諸国の繁栄と福祉をはかり、いかにして世界平和に貢献しうるか、真剣に討論し、はなしあっていく共同の場を設定すべきであると主張するものである。
世界を結ぶオリンピックに対して、先年、アジア・オリンピックが発足し、オリンピックの中間の年ヲ取って同じく四年ごとに開催され、アジアの若人の緊密な連帯感を深めていることは論をまたない。しかし、スポーツの分野にまで、イデオロギーの対立が持ち込まれている現状は、まったく遺憾という以外にはない。
われらは、アジア諸国が、武力を背景にして、イニシアチブを握るような覇道的な行き方を廃して、国連の諸機能を生かしつつ、あくまでも道理と平和をもって前進したいものである。
アジアに寄せる期待
近年、機械文明、物質分明の発達と共に、精神的なものの発達を、物質的発達と表裏一体のものとして、必要であるという主張が、とみに盛んになってきた。また、アジア諸民族の健全な前進に、人類の未来を託そうという声も、多く聞かれるようになった。
たとえば、フランスの評論家ジャン・バレーは「資本主義も共産主義も、いずれも人間を粉砕するために役立つだけの結果にすぎなかった。未来の究極の課題は、精神の文化、人間の進化、モラルの革命である」と説き、「二十一世紀当初まで、人間が生存するならば、アジアの諸大国が進歩した力によって、人類を指導するだろう」と述べている。
また、イギリスの政治学者E・H・カーは、歴史の進歩について述べたなかで、トックヴィルの「新しい世界には、新しい政治学が必要である」との言葉を引用し、これらの新しい歴史を築くべき、新しい科学の完成を待望している。
近代最高の理論物理学者アインシュタインは、はじめドイツより先に、アメリカで原爆を製造することを勧告しながら、のちに原水爆の恐怖を全世界に訴え、「人類の滅亡を防ぐには、偉大なる精神文明の台頭が必要であり、私はそれをアジアに期待する」と叫んだ。イギリスの著名な歴史家トインビーは「人類はいま大量自作行為をあえて犯すか、さもなくば人類全体の共存かつ二者択一の決定を迫られている。共存共栄の唯一の道を選ぶには、文明が生み出した高等な宗教による人間の救済こそ最高の価値があり、その最も優れた宗教は、アジアにおける大乗仏教である」と述べた。
さらに、ロベット・ユンクは、機械文明を高く評価しながらも、同時に将来について、根本的な指向、すなわち大規模な精神的革命の必要性を強調している。
ドイツの実存哲学者カール・ヤスパースは「世界秩序」という地球共同体実現の希望を述べ、「世界秩序」とは、討論・討議を経た共同決議から生まれる規制力・支配力だけを、統一的な支配力とする統一をさし、そのためには、主権の放棄と国家概念の放棄が前提にならねばならない。したがって「世界秩序」は世界国家ではなく、既存の自由諸国家の連邦制から出発して、地域全体に転化した諸国間の、包括的連邦制とでもいうべきものとしている。これがヤスパースの地球共同体実現への見解である。同じくヤスパースは、世界における未来の強国として、中国などアジア諸国が、世界政治指導のカギを握るであろうと予想しているのは、注目に値する。
かく展望してくると、今後の世界は、新しい生命科学台頭の時代であり、科学文明と表裏一体の形で精神文明の興隆が強く望まれる新時代を迎えている。この要求にこたえて、アジア民族が、平和と繁栄の姿勢を高く保持して、立ち上がるべきであると念願するものである。
第八章 四経の明文により災由を桔す (0020-11~0020-13)top
以上のように金光明経・大集経・仁王経・薬師経の経文ははっきりしている。誰人たりともどうしてこれを疑うことができようか。しかるに、めくらで、法の正邪の区別のつかない人や、邪正に迷っている者が、みだりに邪説を信じて正しい教えをわきまえず、ゆえに世間の人々は、すべて諸仏や衆経を捨て離れる心を生じて摧護の志がない。そのために諸天善神も聖人もその国を捨て去ってしまい、かわって悪鬼・外道が災難をおこすのである。 |
講義
災難の起こる理由は、第一に、人々が悉く邪宗教を信ずること。第二に、そのために諸天善神がその国を捨て去ること、第三に、悪鬼が乱れ入って災難が起こること、の三つである。
以上の道理を経文によって明らかに示されている。法然の撰択集は、もっぱら念仏の三祖たる曇鸞、道綽、善導の釈を引用するだけで、自己の見解を述べているのに対し、日蓮大聖人はあくまで経文を第一とし、釈尊の仏教は、まず釈尊を根本に立てて判断しなければならないとされている。そうでなければ、法華経が、仏法の真髄でありかつ最高峰であることを知り、さらに法華経の現文によって、末法には上行菩薩の再誕たる御本仏、日蓮大聖人が三大秘法、末法万年の外未来までの一切衆生を救われるということが、まさしく経文どおりであり、仏法の方程式であり、大宇宙の鉄則であることが明瞭となる。されば、日蓮大聖人の仏法に帰依する以外に、真実の幸福への道なきことを知らざるをえなくなる。
また、このように大聖人御在世当時に釈迦仏法は末法に用うべき仏法でないと、断固破折されているにもかかわらず、今なお禅宗、真言宗、念仏宗等が、大伽藍をもち、破壊の悪侶が、葬式屋をやっているということによって、いかに今の日本民族が、仏法に眜いかということが、はっきりとわかる。これにもまして奇怪なのは、日蓮大聖人の名をかたって、仏法の真髄を乱さんとする身延、中山、仏立宗等の徒輩である。また、なんら大聖人の仏法を知らずして流行している新興宗教は、師子身中の虫であり、仏敵といおうか、国土を興廃に導く一大原因をなしているのである。
なお「善神聖人国を捨て去る」について、日寬上人は、文段に「この論は、正しく法然に対するのである。ゆえに、諸仏・衆経において捨離の心を生じ神聖捨て去るというのである。もし、その元意は、釈尊・法華経において捨離の心を生ずるゆえに神聖捨て去るのである云云」と述べられている。
すなわち、本文には、諸天善神が国を捨て去るは、法然が「捨・閉・閣・拠」の四字で、一切衆生をして「諸仏・衆教」に捨離の心を生ぜしめたからであるとあるが、その元意は、釈尊および法華経、さらに本因妙の釈尊、すなわち日蓮大聖人および下種の法華経、すなわち大御本尊に捨離の心を生ぜしめたからであると仰せである。