NHKテレビ番組「日本海軍 400時間の証言 第一回 開戦 海軍あって国家なし」
テレビ番組をビデオに記録、再生しながら文書化した
日本国民が日本海軍の本当の姿を知っても良い時代になった。
4. 軍令部の権力拡大と皇室
軍令部の主張とおり戦争へと舵を切った日本、開戦へと至るまでどのように軍令部は強大な権力を手に入れていったか。
反省会の開始から3年半たった、第46回反省会、昭和58年9月14日、戦争中最前線で戦った元少将が口火を切った。野元為輝元少将。軍令部の経験はなく、空母の艦長として南太平洋で戦った。軍令部と皇族の関係に言及した。
「永野、嶋田両大将を批判するだけでははなはだ批判の範囲が狭い。博恭王が9年間も軍令部総長をやっている。ああ云うのはどうも妙な人事である。殿下が一言いわれると「ハイ」」
殿下とは伏見宮博恭王元帥(ふしみのみやひろやすおう)、日露戦争にも従軍した海軍の英雄である。昭和天皇より26才年長、昭和天皇は彼に厚い信頼を寄せていた。昭和7年に海軍軍令部長、後の軍令部総長に就任、在任中の9年間、海軍は急速に軍備を増していった。
野元元少将「言い過ぎかも知れないけどもう少し皇室に対する、皇族に対する考えにもう少しブレーキをかける空気がなかったのをはなはだ遺憾に思うのであります。これはこの戦争に対して核の問題だからこれを言わなかったら何もならない。」
野元元少将は反省会のメンバーに問いかける。伏見宮総長の元側近が反省会のメンバーにいました。伏見宮総長副官末国正雄元大佐。
野元元少将「叱られるかも知れんが宮様が9年間も軍令部総長。そういうことを触れなければならないこと。」
末国元大佐、反省会の中で質問に答える形でただ一言。「昭和8年にその法令が通るんです。軍令部の権限を強化することになる。それはね私なぜ強いかというとね、バックが違うから。バックが宮様ですもん。」
「それがね、大東亜戦争の最初の原因がその付近から出るんじゃないかと思う。末国さんどうですか?」
「それ(法令)を通したいために宮様をもってきたんだから。これ謀略ですよ。」
軍令部が謀略により通したと言う法令「内令第294号 海軍省 軍令部 業務互渉規定 昭和8年10月1日」。軍令部が権限を強化した法令。力量に関しては軍令部総長これを起案。この時から軍艦や装備の数と言った兵力量の決定が海軍省から軍令部の主導へと移った。
軍令部は当時米英との軍縮条約に不満を持っていた。この条約は政府や海軍省が締結していた。軍艦の数を制限されていたから。軍令部は兵力量の決定を統帥権に取り込むことによって軍備拡大を推進しようとした。しかし、この改訂と伏見の宮総長との関係は反省会では明かされなかった。
末国元大佐が語った謀略は、防衛省防衛研究所に手がかりが残されていた。海軍の極秘文書「軍令部令改正の経緯」軍令部が法令を通して行った内実を海軍省の課長が証言していた。「××はこの案が通らねば○○を辞める。と大臣に言われた。」××は伏見宮、○○は軍令部長。軍令部は伏見宮元帥の辞任をちらつかせ海軍省に改定を認めるようせまった。
しかし、昭和天皇は軍令部の権限拡大につながると強い懸念を示した。海軍省極秘資料綴り、改訂への許しを求める海軍大臣に厳しい態度で臨む天皇の姿が明らかになった。陛下は軍令部が勝手に軍隊を出すこと。これに対して海軍大臣大角岑生は「軍令部と海軍省の権限に大きな変更はない」と説明。天皇は改訂を認めた。しかし、天皇が懸念した軍令部の暴走は現実のものとなった。
昭和9年伏見宮は天皇に軍縮会議からの脱退を天皇に進言、それ以降、軍縮条約は更新されなかった。軍縮の足かせがなくなった海軍は戦艦「大和」の建造など軍備の拡大を進めていった。
軍令部の意向に国家が引きづられて行った結果、米英との対立は極めて深刻なものとなった。
反省会で軍事力と皇族の権威が結びついたことを反省すべき。野元元少将。これは我々の反省であり、伏見宮殿下に対する批判も必要であるけれども、それを将来の日本が同じような過ちを犯さないようにすることが大きなこの反省会の目的と考えなければならない。
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