ホームキーパーソン > テレビ宮崎社長 渡邊道徳さん

キーパーソン

06月27日

地域に貢献できるテレビ局へ


テレビ宮崎の「スーパーニュース」のスタジオに立つ渡邊社長

テレビ宮崎の「スーパーニュース」のスタジオに立つ渡邊社長

 中学生時代、知り合いの裕福な家がテレビを買ったと聞き、見に行った。「最初にテレビで見たのは力道山だったかな。まさか自分がテレビに関係する仕事をするとは考えもしなかった」。当時、白黒だった映像は後にカラーに変わり、今では鮮明なデジタル映像が実現した。技術の進歩とともに発展してきたテレビ業界。「インターネットの登場などで情報の受け止め方も変わっていくが、映像の強みを生かしていく」。時代の移り変わりを受容する柔軟な姿勢は、長年この業界の変遷を経験し培われたのだろうか。

 社会人としての初仕事がテレビ宮崎設立の発起人会事務局。父親の仕事の関係で携わることになり、独学で設立登記の段取りを進め、1969(昭和44)年5月の同社設立とともに入社した。翌70(同45)年の開局間もなく営業に配属されて以来、営業一筋でがむしゃらに働いてきた。当時はまだ放送を受信できない家庭もあり、コンバーターの販売と並行して広告営業に奔走したが、当時の広告媒体といえば、新聞と雑誌が主流。活字媒体と違って、手元に残らないテレビ広告の効果を数値で表すこと自体難しく、なかなか理解してもらえなかった。「飛び込みの営業に行くと電気屋と間違われ、『うちにテレビはあるからいらない』と言われたこともある」

 そんな足踏み状態だったテレビ広告を技術の発達が強力に後押ししてくれた。カラーテレビの登場だ。ワイドショーなどがモノクロからカラーに変わると、急速にテレビが普及。テレビ広告の認知度は高まった。

 テレビ映像は地方の人々の生活にも影響を与えた。それまで活字媒体で遅れてしか知り得なかった都会の音楽、ファッションなどの流行がタイムリーな映像でほぼ時間差なく流れ込んだ。「学生時代に地方と都会の格差に反発を覚えていた」という。だから何らかの形で文化向上に携われる人間になりたいと思っていた。

 そんな学生時代からの熱意をテレビの世界で精力的に具現化した。30代前半のころ、スポンサーをかき集め、高校生と一般向けのファッションショーを自ら企画。徹夜しながら服のコーディネート、裏舞台の入れ替え指示などの運営も自分の手でやり遂げた。「苦労もあったが、文化を宮崎に広げるために自分はやっていると思うと喜びもあった」

地方テレビ局の役割について「地域の発展にいかに寄与できるかを真っ先に考えるべきだ」と語る渡邊社長

地方テレビ局の役割について「地域の発展にいかに寄与できるかを真っ先に考えるべきだ」と語る渡邊社長

 ほかにも1977(昭和52)年から現在まで続くフェニックス・ジャズイン(現在はJAMナイト)、スケッチ大会、ダンスパーティー、たこ揚げ大会など、数々のイベントを自ら企画し、成功させた。年間に6、7本の事業を掛け持ちしたことも。文化格差の克服、親子の触れ合いなど、それぞれの催しに意義を感じていた。成功の秘訣(ひけつ)は「その存在意義をしっかり見極めること」。

 しかし、テレビマンとして40年以上も奔走してきた渡邊さんの心底にある思いは、地域への貢献にほかならない。「テレビ局は許認可事業であり、一般企業とは違う。だから余計に文化やスポーツなど、多岐にわたる分野で地域の発展にいかに寄与できるかを真っ先に考えるべき」。社員にもそう説き続けている。

ここが聞きたい


-7月に地上デジタル放送に完全に移行する。

 デジタル放送に備えて五十数億円もの投資をしたが、われわれへの見返りはあまりない。ただ、映像の世界はすごく鮮明になった。データ放送を見る人もいるし、そういう部分で双方向性が出てきたのは良かった。それでも、一般の人たちが双方向性をどれほど使うかというとまだ疑問はある。

-東日本大震災でテレビの役割があらためて見直されたのでは。

 報道機関としての存在価値、社会的責任がどうあるべきかを一連の報道が如実に物語った。津波で被害を受けた場所など、映像の世界で被害全体を知らしめる事ができたと思う。風評被害などマイナス面もあるが、県民、国民のライフラインとしての責任は高いとあらためて認識している。現在、会社自体の災害時への対応も再確認している。

わたしのオススメ


 小学校時代に音楽に造詣が深い先生に教育されて中学、高校時代にはブラスバンドでサクソホンを吹いていた。今は全く吹かないが、音楽はやはり好き。クラシック、ジャズ、ボサノバなど幅広く聞く。だからフェニックスジャズインを企画したし、宮崎国際音楽祭にも協賛している。コンサートにも時々行く。営業時代はお酒も毎晩のように飲んで、一晩で日本酒を1升飲むこともあった。最近は酒量は減ったが、1人で飲むことはほとんどない。酒を飲みながら人と交わっていろんな考えを聞くのが面白い。(談)

プロフィル


わたなべ・みちのり テレビ宮崎設立から携わり1969(昭和44)年に入社。以来、営業畑を歩み、88(同63)年に取締役就任。常務、専務取締役を経て、2004年から現職。学生時代は海外生活も経験し、語学も堪能。責任ある立場の者はそれに応じた責任や義務を果たさねばならないという「ノーブレス・オブリージュ」が信念。宮崎商工会議所副会頭。宮崎市出身。65歳。
会員ログイン
アーカイブ