一方、こうした社会現象に目をつけ、私利私欲を満たすため新手の戦術を練りだした輩もいる。この高速鉄道の一等車でまさにそうした人たちに出会ったのである。喧嘩になると、「政府高官」とされてしまう私は立場が悪くなる。相手はそこを計算してしたたかに攻撃してきたのだ。幸い、一等車内の乗客は私と同じ立場にいる人間ばかりで、誰もその手の攻撃に関心を払おうとしなかった。結局、男女らは車掌にせかされ一等車から去り、車内はようやく静けさを取り戻した。
共産党の幹部や政府役人が民衆に信頼されない問題があるから、若い女性車掌を助けようとした私が、逆に悪役の「高官」にされてしまったのだ。
実は、その時、中国の高速鉄道の一等車は日本の新幹線のような管理体制では無理だろうと思っていた。
先月、江蘇省の省都である南京に近い常州での出張を終え、上海への帰りに高速鉄道を利用した。乗車券を見ると一等車になっていた。また例のようなトラブルに出会うのではと一瞬思った。
ホームにいた私たちの位置が一等車からやや離れていた。急いで移動したが、停車時間が短いため、万一締め出されたら困ると思って一等車の隣の車両に乗り込み、そのまま一等車に移動しようとするとドアが開かない。慌てて降り、一等車のドアから乗ろうとすると、入口で「高姐」と呼ばれる女性の客室乗務員から乗車券の提示を求められた。一等車の乗客だと確認してから、ようやくなかに通してくれた。
「高姐」たちが隣接車両に移動する時は、隣接車両とつなぐ一等車のドアの鍵を開け、「高姐」が通るといちいち鍵をかける。
これなら前回のようなトラブルは起こらない。私も車掌、いや「高姐」たちを援護射撃する武勇伝が作れなくなる。
中国高速鉄道の変化に感心しながらも複雑な心境に陥っている。まずその変化をどう取るべきか、だ。考えに考えて、私は「後退的進歩」と言いたい。中国の鉄道実情に合わせてトラブルを減らす効果的な措置という視点から見れば、それは進歩だと評価していいだろう。しかし、その内容は、導入されたはずの日本の新幹線のグリーン車の管理方法と比べて明らかに後退している。
中国は、ハードの面から見れば、高速鉄道という文明の利器が生まれ、新幹線のある日本との距離を大きく縮めたと見ていいだろう。しかし、高速鉄道文化というソフトの面から見れば、先を走る日本には遥かに及ばない。中国と中国国民は引き続き謙虚に、日本や日本の新幹線に学び続けるべきだと私は思う。ドアに鍵をかけずとも、関係のない他人に席を取られることなく利用できる日の訪れを迎えてはじめて、中国は高速鉄道時代になったといえるだろう。