萬古焼の土や陶器も運んだ貨物列車
木曽、長良、揖斐の三川を擁する水郷の町、桑名。「桑名」の最古の表記は日本書紀に見られ、この地を開発した豪族「桑名首」に由来するという説が有力だ。桑名は東国と京都、東国と伊勢を結ぶ結節点にあたり、中世になると物資を運ぶための中継地点として発展。慶長6(1601)年になると、本多忠勝が「慶長の町割り」と呼ばれる町づくりを行い、同年、東海道が定められると桑名は宿駅に。近世は宿場町・港町として発展した。
この地に鉄道の駅が誕生したのは、1895(明治28)年に遡る。5月24日に関西鉄道(現在のJR関西線)の桑名駅が開業。続いて1919(大正8)年4月27日に養老鉄道が駅を設けた。さらに1927(昭和2)年12月には、伊勢神宮と名古屋を電気鉄道で結ぶべく路線を延伸していた伊勢電気鉄道が、四日市・桑名駅間の敷設に着手。1929(昭和4)年1月30日、伊勢電気鉄道の桑名駅が誕生した。
開業に合わせて、伊勢電気鉄道では電車9両を新設。貨物列車も電気機関車牽引とし、英国電気株式会社から車両の輸入も行なった。当時の乗客は、通勤・通学の利用とともに、高田本山のお七夜や伊勢神宮参拝にも桑名駅を利用。また貨物の中には、桑名出身の沼波弄山を祖とする萬古焼の土や陶器もあったようだ。
名阪を結ぶ画期的なルートが完成
伊勢電気鉄道は北陸、滋賀、岐阜方面からの参宮客を増やそうと、1929(昭和4)年10月1日に養老電気鉄道を合併。1930(昭和5)年12月には伊勢神宮外宮の外苑の側に大神宮前駅を設置し、桑名・大神宮前駅間の急行を5往復させた。その後、1936(昭和11)年9月15日、参宮客の誘致で競い合っていた参宮急行電鉄が伊勢電気鉄道を合併。1938(昭和13)年6月26日には、姉妹会社である関西急行電鉄が桑名・名古屋駅間を開業し、大阪と名古屋、二大都市を3時間余りで結ぶ交通幹線が完成する。開通を知らせる新聞には「使命や重し・関急開通」「東西大都市を結び三大聖地とを繋ぐ」という見出しが躍ったことからも、いかに画期的なルートであったかが分かるだろう。
その後、戦局の影響で1941(昭和16)年3月には、大阪電気軌道が参宮急行電鉄を合併して関西急行鉄道を設立。さらに1944(昭和19)年6月、関西急行鉄道は南海鉄道と合併し近畿日本鉄道となった(※後の南海鉄道は1947年に分離)。1945(昭和20)年以降は爆撃機による空襲が激化。名古屋線においては、同年7月24日の爆撃で揖斐・長良川橋梁が爆撃され、1946(昭和21)年5月1日に復旧するまでは、国鉄関西線の橋梁に乗り入れをすることとなった。
伊勢湾台風の被害を乗り越え発展
1959(昭和34)年9月26日、紀伊半島東部を襲った伊勢湾台風は、名古屋線全線に甚大な被害をもたらした。桑名以北の線路は水没。桑名は山の手の住宅街を残して市内全域が水に浸かり、低地帯では屋根と電柱だけが見えている惨状だった。プラットフォームがわずかに露出している桑名駅の様子は、当時の写真で見ることができる。
伊勢湾台風の復旧に合わせて、名古屋線ではそれまでの狭軌を広軌にするための拡幅工事に着手。連日千数百人を動員し、昼間作業を強行することで、わずか62日という短期間で全線の復旧と広軌化を終えた。
広軌化により伊勢中川駅での乗り換えの不便さがなくなり、桑名駅では伊勢志摩方面への観光客、大阪方面へのビジネス利用が増加。駅はいっそうのにぎわいを見せるようになった。
今でも駅から東へ歩けば、町衆が築いた文化の名残りを見ることができる。伊勢路の入口であることを示す大鳥居がある七里の渡跡や、桑名城本丸と二之丸跡に造られた九華公園で城下町・宿場町の風情を感じたり、池泉回遊式庭園も美しい六華苑で山林王と呼ばれた二代目諸戸清六の栄華に触れてみたり…。桑名駅前にはレンタサイクルが用意され、「旧東海道を偲ぶコース」も案内されているので、秋空の下、サイクリングを楽しんでみるのもいいだろう。 |
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(写真上)1959(昭和34)年9月26日の伊勢湾台風により浸水した桑名駅
(写真下)現在の近鉄名古屋線桑名駅の様子。各ホームへは跨線橋を通って移動する |
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| 1942(昭和17)年に製造、名古屋・桑名駅間を走ったモ6315 |
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| 1938(昭和13)年、大阪・名古屋間全通当時の路線図 |
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| 1945(昭和20)年7月24日の爆撃で橋桁2連が破壊された揖斐・長良川橋梁 |
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(写真右)4番ホームは中央に衝立があり、養老鉄道線と共同使用している
(写真左)桑名の名産品である時雨蛤や餅菓子は駅の売店でも購入できる |
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