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「竜馬暗殺」や「ツィゴイネルワイゼン」「父と暮らせば」など多くの映画やドラマで強烈な個性を発揮した俳優の原田芳雄さんが今月19日に亡くなり、22日に告別式が東京で営まれました。
映画やドラマファンだけでなく、幅広い層に親しまれ、愛された名優、原田芳雄さんの魅力について、科学文化部の野町かずみ記者が解説します。
【日本映画を支えた名優、逝く】
長髪からのぞく鋭い眼光に、迫力のあるだみ声。
原田芳雄さんは1970年代、日本映画が最も挑戦的だった時代に「竜馬暗殺」「ツィゴイネルワイゼン」「田園に死す」など歴史に残る多くの名作に出演し、伝説を作りました。
近年では、宮沢りえさんと共演した「父とくらせば」、不器用な小説家を演じたNHKドラマ「火の魚」などに出演し、幅広い役柄と圧倒的な存在感で40年以上活躍を続けましたが、大腸がんを長く患い、19日、肺炎のために71歳で亡くなりました。
故・松田優作さんも憧れたという原田芳雄さん。
多くの人に影響を与え、愛された71年の人生でした。
【告別式に全国から1300人】
22日に東京・港区で営まれた告別式には俳優仲間やファンなど1300人が参列しました。
御年88歳の鈴木清順監督、最後の主演作「大鹿村騒動記」の阪本順治監督、宮沢りえさん、桃井かおりさん。
祭壇には、映画のスクリーンをイメージして横長に白い花が飾り付けられ、その中に優しい表情の原田さんの遺影が飾られました。
脇には、ブルース歌手としても知られた原田さんの愛用のギターとマイクスタンド。
ご長男が3年前の誕生日にプレゼントしたバーボンは、亡くなった夜に自宅に集まった俳優仲間が献杯したため、少し減っていました。
訪れたファンの一人ひとりに日本酒がふるまわれるなど、飾らない雰囲気に包まれた告別式でした。
【アウトローが愛した「人」と「地方」】
家族がひつぎに入れた品物は、どれも原田さんの人柄をしのばせました。
一つは原田さんの自宅で、毎年恒例のもちつきのときに着ていたはっぴ。
一見、こわもてで近寄りがたい雰囲気ですが、原田さんは誰に対しても面倒見よく、自宅には多くの俳優仲間が訪れたそうです。
参列した佐藤浩市さんは「来る者は拒まず、すべての人を受け入れて去る者は追わず。本当に人間の関係性をすごく大事にしていた人でした」と話しました。
もう一つは「火祭り」の白装束です。
実は原田さんは、和歌山県新宮市で毎年2月に行われる「お燈(とう)まつり」に、10数年前、作家の中上健次さんに誘われたのがきっかけで、すっかり気に入り、以来、毎年訪れています。
都会的なアウトローの雰囲気を漂わせる原田さんの土着志向が強く伺えるのが、遺作となった主演映画「大鹿村騒動記」です。
長野県の山村に300年間伝わる「村歌舞伎」の存続を巡る騒動を描いたこの映画の企画を持ち込んだのは原田さん自身。
「地方の営みの豊かさを伝えたい」とNHKのインタビューで語っていました。
【命を削って映画を作り続けた】
私は原田さんが亡くなる8日前に行われた「大鹿村騒動記」の試写会を取材しました。
舞台に登壇した原田さんは、主治医から「出席は99%無理」と言われていたそうですが、どうしても行くと言い張った原田さんに根負けしたそうです。
俳優は、病気で衰えた姿を人前にさらすことを嫌がるものです。
当日、車いすを押されて現れ、すでに声が出ないなかで満席の観客を見回し、涙を流されていた原田さんの姿からは、映画を見に来てくれた方たちに、なんとしてもお礼を言いたい、自分が命を削って作った映画を見てほしいという真剣な思いが、ひしひしと伝わってきました。
【盟友 阪本順治監督弔辞】
黒木和雄監督が亡くなった今、映画俳優原田芳雄を最もよく知る監督といえば、阪本順治さんでしょう。
阪本監督は自身の監督デビュー作「どついたるねん」を含め7本の映画で原田さんと組んできました。
遺作となった映画「大鹿村騒動記」は、阪本監督が手がけた最初で最後の原田さんの主演映画でした。
原田さんが登壇した試写会の取材で、私が阪本監督にお話を伺ったときは「芳雄さん、次はオカマの役をやりたいと話していたよ」と話していましたが、次回作は実現しませんでした。
最後に阪本順治監督が通夜で読まれた弔辞をご紹介します。
(阪本監督弔辞)
なんで僕が弔辞を読まなくてはいけないんでしょうか? これも芳雄さんが言うところの喜劇でしょうか? きのう弔辞をしたためようとしましたけどできませんでした。
ふつう思い出話とかつづるんですよね。
僕は思い出したくなかったんだ。
最後に会った芳雄さんが僕にとっての芳雄さんです。
やせててかっこよかったし、車いすも小道具に見えたし、芳雄さんのいるところは、どこも映画の一場面のように思い、病室の芳雄さんを見ても、まるでセットのようで、今、完全に横たわる芳雄さんを見ても、映画のクライマックス場面のよう・・・。
病名を知りながらカメラの前に立った芳雄さんを演出するのはきつかったです。
でも、芳雄さんは『そんなこといちいち考えて芝居してるかよ』と、たぶんおっしゃるでしょう。
そうですよね。
次の作品も、次の次の作品も語ってらっしゃいましたし、被災地でライブをやりたいとおっしゃっていましたし。
痛みに顔をゆがませ、「もう嫌になっちゃうよ」と言って耐えに耐えていた芳雄さん、僕ごときが言うことではないですが、本当によく頑張られました。
でも、もうクランクアップです。
打ち上げは浄土で(松田)優作さんや勝(新太郎)さんと楽しく、大騒ぎをして下さい。
僕にとって、芳雄さんは先輩であり、兄貴であり、父親のような存在でした。
でも、どれもすごくて、本当は友達になりたかった。
芳雄さんと同じことばを持って、友達になりたかった。
いっぱい遊んでくれてありがとう、芳雄さん。
たくさん言葉をいただいてありがとうございます。
クランクアップです。カットの声は僕らがかけます。
外にいるファンの方もカットとおっしゃってくださいます。
本当にお疲れさまでした。さよなら・・・。
とりあえずのさよならです。
僕ももう嫌になっちゃいましたよ。さよなら。
2011年、震災のあった年。
さわやかな夏。心に刻んで。
芳雄さんへ。
阪本順治
(7月22日 22:20更新)