この日、北京の南東約50kmにある廊坊駅で、日本軍の軍用通信回線に故障が発生しました。
そこで日本軍は、通信隊の一部に歩兵1中隊(第20師団歩兵第77連隊第11中隊)を付けて、あらかじめ国民党側に通知のうえで、修理のために、約100名の兵を派遺します。
そして修理のための部隊が午後4時半頃、廊坊駅に到着した。
ここには、国民党の第三八師第一三二旅、第226団の約6000人が駐屯していました。
日本の修理隊の中隊長五ノ井淀之助中尉は、国民党226団と折衝し、許可を得た上で、廊坊域内にある日本の通信用電線の修理を行います。
ところが、その修理の真っ只中の午後11時10分、国民党軍は突如として日本の修理隊に銃撃をしてきました。
しかも銃撃は、小銃による狙撃だけでなく、なんと軽機関銃による乱射さえも加わったものです。
いきなりの国民東軍からの発砲です。
それでも応戦すれば、戦闘になる。
日本の修理隊の五ノ井隊長は、応戦をせずに、とりあえず弾が当たらないように身を隠せ、と命令します。
するとこんどは、なんということでしょう。
廊坊駅北方300mにある国民党の兵営から、その縦断を避けて隠れている日本側に向かって、迫撃砲による砲火が加えられてきたのです。
こうなるとほっておいたら全員、犬死となってしまいます。
五ノ井隊長は、やむを得ず応戦を開始するとともに、午前0時頃、本部に応援を依頼した。
驚いたのは、通報を受けた日本軍(支那駐屯軍)の本部です。
慌てて第20師団に救援を命じます。
第20師団は即時、歩兵第77連隊(約3000人)を廊坊に急行させた。
さらに26日午前2時30分には、第20師団本体が、逐次廊坊に向かった。
けれど、深夜のことです。鉄道が動いているわけでもない。
しかも50kmの行軍です。
廊坊駅までは遠い。
夜11時10分に銃撃を受けてから、わずか100名の日本軍通信施設修理隊は、なんと明け方まで、6000人もの支那人の大軍相手に奮戦します。
どんな戦いだったのか想像してみてください。
昼間、行軍して、やっと廊坊駅にたどり着き、汗水流して通信施設の修繕をしていたのです。
荷物の移動や作業での重たい荷物の上げ下ろしは、全部手作業です。
そうして体もくたくたとなり、いまで言ったら、残業して夜中の11時すぎになった頃に、銃撃やら砲撃が始まったのです。しかも、一晩中、敵は迫撃砲やら、機関銃をところかまわずブッ放してくる。
26日、夜明けとともに、日本軍の司令部は、廊坊にむけて航空隊を差し向けます。
航空隊が到着すると、ほんのわずかのトラックを横倒しした空間に、通信修理隊の面々が、まるくなって必死で応戦している。
眼下には、まるでゾンビの大軍のように、支那兵が円状に群がっている。
「こんなすさまじい状況で、友軍は戦っていたのか」、爆撃機の操縦士の胸には、こみあげるものさえあった。
「ざけんじゃねえ、コノヤロー!」と操縦士が思ったかどうかはわからない。
けれど、航空隊は、日頃の修練の業で、支那軍の迫撃砲陣地をピンポイントで爆破すると、あたりにいる支那兵たちに、ギリギリの低空飛行で、猛射を浴びせた。
もっとも当時の日本の飛行機というのは、所持している弾薬の陵が少ないので、100発も撃ったら、それで終わりです。
それでも果敢に地上すれすれまで降下して、なんとかして味方たちを助けようとしたその飛行兵の姿は、実に立派だったと思う。
26日の午前8時、やっと岡の向こうに、日本軍の増援隊の姿が見えます。
重装備の6000の支那兵は、日本軍がわずか100名なのをいいことに、好き放題、弾を撃ち込んでいた。
ところが岡の向こうに、日本軍の本体の姿が見えたとたん、支那兵たちは算を乱して逃げ出します。
これが26日。
支那兵たちが逃げた先にあるのが、通州です。
そして7月29日に起こったのが、通州事件です。
通州事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-535.html通州事件の体験談
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.htmlちなみに、この廊坊事件についての、支那側の見解は次のようなものです。
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7月25日、日本兵約100名が廊坊駅に派遣され、「電話修理」と称して同駅を占拠した。
廊坊を守備していた第38師第13旅の旅長である劉振三は撤退を要求したが、日本軍はそれを拒否。
26日午前0時に、日本軍が中国軍に発砲を行い、両軍は戦端を開いた。
明け方になり、日本軍機が中国軍に爆撃を加え、更に午前7時には天津から日本軍の増援が到着し、中国軍兵舎は壊滅した。
午前10時に中国軍は廊坊付近から撤退した。
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まったく、よく言うよ、です。
事前にちゃんと断りをいれていたのに「駅を占拠した」。
ちゃんと了解をとって通信施設修理を行ったのに「撤退を要求した」。
実際には午前11時10分に支那国民東軍側から発砲しているのに、「午前0時に日本軍が支那に発砲した」。
これは迫撃砲まで撃ち込んできたので、やむなく防戦を開始した時間です。
そして最後は、「撤退した」とはおそれいる。
6000対100の戦いですら壊滅させることができず、日本の援軍が到着したら、蜘蛛の子を散らすように、逃げ出したのです。撤退など、よく言えたものです。
勇気をもって戦ったのは、果たしてどちらでしょうか。
そしてその「撤退した」という支那国民党兵が、その3日後に通州で何をしたのか。
事実と虚飾をまぜこぜにして、プロパガンタをまき散らすのは、支那や共産主義者、あるいは左翼の常套手段です。
客観的かつ冷静に、事態を把握すれば、どうにも言い逃れができないほど、彼らの振る舞いは不埒なものです。
それを、いかにも正当にみせかけてみせる。
状況のわからない者は、みんなそれに騙される。
いかにも正論らしい論を吐くと、なるほどと思わされる人が多いのは事実です。
震災対策本郡をつくって、真剣に対策に取り組んでいると言われれば、なるほどそうかと思わされる。
けれど実際には、瓦礫が片付けられたのは、テレビのはいる一部の大きな町だけあり、少し田舎の方に行くと、7月も半ばをすぎたいまでも、3月11日の震災当時のままの状況となっている。
ボクは、あまり「評価」という言葉が好きではありませんが、大切なことは「何を言っているか」ではなくて、「何をやっているか」です。
歴史も政治も、私たちは、これまでの味方を、もう一度謙虚に見直してみる必要があるのではないかと思います。
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