明治学院の戦争責任・戦後責任の告白

(明治学院学院長・中山弘正、1995年6月)

 

私は、日本国の敗戦50周年に当たり、明治学院が先の戦争に加担したことの罪を、主よ、何よりもあなたの前に告白し、同時に、朝鮮・中国をはじめ諸外国の人々のまえに謝罪します。また、そのことを、戦後公にしてこなかったことの責任をもあわせて告白し、謝罪します。

 

敗戦50周年を迎える今日、すぐる戦争の惨禍の実態は、消え去るどころか日を追って一層詳しく明らかにされてきています。「従軍慰安婦問題」、「731部隊」による生体解剖等々、未だにその傷跡は生々しく、生き残った当事者やその親族の苦難の日々は今もなお続いています。

 

日本国民の犯した戦争犯罪は当然諸外国の人々にも及ぶものであり、キリストの愛の名によって樹てられていた明治学院も、この日本国の中に在った限り、全くその圏外にいることは出来ませんでした。

 

一般的に私学は、国家権力に対し弱い立場にありました。それにもかかわらず明治学院は建学の精神である「キリスト教に基づく教育」を守ってきた輝かしい歴史をもってきましたが、かの侵略戦争に協力するという罪を犯してしまったことは、主イエス・キリストの御前(みまえ)に言い逃れることができない事実であります。

 

もとより、私ども後世の、その時代の厳しさを直接体験していない者が、戦時下の指導者たちに「石を投げる」資格はむろんないでしょうし、彼らや組織の全体を裁くことが出来るのは、唯(ただ)、なる神のみであることは言うまでもありません。しかし、戦争の惨禍を被侵略者・被抑圧者・殉教(じゅんきょう)者の側からの、いよいよ増大する証言をとおしてより広くより深く知らされてきた私どもは、当時よりももっと全体的・客観的に事柄を見ることができる立場におかれています。ですから、当時の指導者たちが犯していた過ちについて、むしろ私たちが主の前に告白し、人々に謝罪せざるを得ないのです。それは彼等を鞭(むち)打っためではなく、私ども自身が同種の過ちをこれから繰り返さないためなのです。

 

1931年の「満州事変」、1937年の「日華事変」のあと、政府は1939年の「宗教団体法」に基づき、41年6月、宗教界を統合し国策に協力せしめるべく「日本基督教団」を結成させていました。この教団「統理」冨田満牧師は自らも伊勢神宮を参拝したり、朝鮮のキリスト者を平壌神社に参拝させたりしました(1938年)が、このことが朝鮮の多数のキリスト者を殉教に追いやり、戦後も日朝両キリスト者の間にうめがたい深淵(しんえん)を作ってしまったことは否定すべくもありません。朝鮮・台湾ではこの神社参拝問題のために多くの、ミッションスクールは存廃の岐路に立たされたのです。この冨田氏は、戦中から引き続き、戦後も、数年問にわたり明治学院の理事長でした。

 

また、1939年、明治学院学院長に就任した矢野貫城氏は、宮城遥拝(きゅうじょうようはい)、靖国神社参拝、御真影(ごしんえい)の奉戴(ほうたい)等々に大変積極的に取り組みました。同氏も主への罪の告白を公には果たさぬまま、戦後しばらく学院長としてとどまりました。これらのことに関し、明治学院は今日まで主の前にその罪を公に告白し、侵略された国々の人々に謝罪をしたことがなかったのです。「飛べ日本基督教団号」という掛け声のもとで集められた戦闘機献金、また当時の機関誌『教団時報』で「殉国即殉教」が主張され天皇の国家へのキリスト者の無条件の服従が日本基督教団の名によって勧められたとき、冨田氏らもその最高級の責任者だったのです。当時の全体主義的風潮の厳しさ、またその重圧のもとで「主の器」としての教会組織を守らんとした指導者としての苦心、といった点を考慮したとしても、それらが冒頭に述べた悲惨をもたらした日本の国家的犯罪に組み込まれていた事実は否定すべくもありません。こうした状況の下で、侵略戦争に加担させられ、学徒兵として出陣していった多くの当時の学生たちのことを想うと、教師として、学院長として深い悲しみを覚えざるを得ないのです。また、朝鮮・台湾などからの学生たちをも含みつつ多くの若者を戦地に送った当時の教師たちの苦悩の深さに思いを馳せる次第です。これらのことについて、少なくとも、「敗戦」という主の審判が下ったところで学院指導者たちの反省の告白と謝罪がなされるべきだったのではないでしょうか。

 

しかしながら、戦後においても反省と謝罪が公になされなかったばかりか、こうした侵略戦争で亡くなった日本の戦死者を「英霊」(ひいでた霊魂)としてまつろうとする「英霊」思想は明治学院からも消え去りはしませんでした。

 

明治学院の理事者・明治学院の「建学の精神」を保持する主体としての理事会の中の一人である田上穣治氏が、公権力の「英霊」参拝を積極的に推奨してきたのです。それは、戦時下に冨田氏らが犯していた誤りと全く同種の罪ー死者を神としてあがめる「偶像崇拝」という、『聖書』に自己啓示されている私どもの主なる神が最も忌(い)み嫌うその罪――が、明治学院との関係において戦後も引継がれてきていた証左の一つなのです。

 

このように「戦後責任」問題は、「戦後責任」の告白と直接に連なっており、それらのことが明確にされないかぎり、今後の明治学院のゆくえは見出しがたいのです。

 

とはいえ、敗戦50周年の今日、明治学院の戦時下の歴史を振り返って、長谷川信氏のような良心的な学生がいたことに私どもは希望の光を見出します。出征せざるを得なかった長谷川氏の苦悩と、「天皇の国」からの内面的自立の気概とは、イエス・キリストのみに土台を据(す)えた明治学院の今後の歩みへの指針を示唆していると思われます。私は、彼のような生き方を貫こうとして悩んだ学生が少なくなかったのだと信じたいのです。

 

21世紀を展望し、建学の精神を再確認しつつ、前進しようとする明治学院は、冨田・矢野両氏らのとった「広い路」ではなく、当時学生であった長谷川氏の「狭い路」をこそたどらねばならないでありましょう。今、再び日本が「国際貢献」の美名のもとに海外に軍隊を派遣し始め、「殉国」(国家のために殉死すること)の思想が現代的装いをもって、じわじわと日本社会のなかに浸透していく中で、私どもはその殉難者が再び「英霊」として崇拝されることに危機を感じざるを得ないのです。私どもは先ず自らに最も身近な明治学院の戦争責任を深く自覚し、人々の前にそれを公にし、国々の人々に向かって謝罪することにより。毅然(きぜん)としてこの時代に対処し、「この曲がれる邪悪(よこしま)なる時代にありて神の瑕(きず)なき子と」なりて「命(いのち)の言を保(たも)ちて、世の光のごとく此の時代に輝」(ピリピリ書2章15節)き続ける力を備えられたいと祈らずにはいられません。

 

この告白を主なる神になし、同時に被害を受けた人々に謝罪することによって、明治学院が、キリスト教に在る真の平和を創り出していくことに一層努力していくことができますように。

 

主1995年6月

日本国の敗戦50周年にあたって

明治学院学院長 中山弘正